いやぁ、観てるこっちが疲れた。と近くの席から聞こえてきて、美澄は心の中で激しく頷いた。東京スワンズ対埼玉ドルフィンズ。日本代表にも選出される両エースが先発する好カードは、前評判通り手に汗握る試合展開が九回まで繰り広げられた。
 キャッチボール効果というのは、たしかにあったらしい。前試合で完封負けを喫した相手チームのエースから四打数三安打一打点をあげた要は、文句なしのヒーローだった。
 勝った後の待ち時間は胸が踊る。要は負けたからといってピリピリしたり八つ当たりをする人ではないから、美澄の気持ちの問題だ。
 夕食の献立は何にしようか。今日は要の家に泊まるので、まだ何も決めていないけれど、今日のヒーローの好物がいい。エビフライ? ハンバーグ? お子様ランチならぬ大人様ランチにして、デザートのプリンにホイップとチェリーをのせたら喜びそうだ。
 すっかり定位置となった、通用口から入ってすぐのベンチの横に立ち、スマホでお子様ランチの盛り付け方を眺めていると、奥のほうからやけに大きな足音が聞こえた。こちらへ近づいてくるようだ。この空間には球団関係者しかいないので、挨拶をしようと顔をあげると、気の強いかんばせがじっと美澄を見ていた。背番号十八。今日の試合、圧巻の投球で相手打線をねじ伏せたエース、若槻真尋だ。
「お疲れさまです。ナイスゲームでした」
「……別に、敬語使わなくていいよ。あんたのほうが年上だろ」
 完投直後のひりついた空気を纏ったまま、大きなストライドで一気に距離を縮めてきた真尋の迫力に息を飲む。要の隣でヒーローインタビューを受けていた時は大きく見えなかったが、いざ目の前に来られるとしっかりと筋肉がついたアスリート体型だった。
 年上年下を気にする発言をしたが、本人は敬語で話すつもりはないらしい。少し高い位置にある大きな目が、じっとりと美澄を見下ろす。
「最近よく見る顔だけど……あんたは、要さんの何?」
「俺は、要先輩の高校の頃の後輩です」
「だから敬語はいらないってば」
「すっ、ご、ごめん」
「野球部だったってこと? ポジションは?」
「ピッチャーで……要先輩と、バッテリーを組んでた」
「ふーん……じゃあ、あんたが要さんの相棒だったわけだ」
「そういうことになる、かな……」
 蛇に睨まれた蛙の気持ちなんて分かりたくもなかった。いや、ネコに睨まれたネズミかもしれない。
「ま、俺は要さんの「現」相棒だけど!」
 真尋は胸を張って得意げに言った。
「知ってる。東京スワンズのエースピッチャーだもん。試合を観にきた人で、君を知らない人なんていないよ」
「そうなんだ。俺、有名人じゃん」
 若くして、球団エースの肩書きだけでなく、日本代表にも選ばれているのだ。プロ野球ファンなら、彼を知らない人はいないだろうに。本人のあまりにもあっけらかんとした口調に拍子抜けしてしまう。どうやら、傍若無人な態度の割に知名度には無頓着なタイプらしい。
「ま、そんなのはどーでもいいんだけど。最近、要さんにベッタリくっついてる奴がいるから気になっちゃって。チケット用意したり、入場証発行したりって、甲斐甲斐しくお世話してるみたいだし?」
「……」
 ゾーンど真ん中にストレートをぶち込まれた気分だった。遠慮のない視線が肌に突き刺さって居た堪れない。仮にこれが盛大に喧嘩を売られているのだとしたら、買った瞬間即ゲームオーバーだろう。彼らアスリートからしたら、美澄なんてモヤシみたいなものだ。
「元、相棒さんね。分かった。覚えといてあげる」
 腹を探る視線から一転、真尋は人懐っこい大型犬のような笑みを浮かべた。言ってることが嫌味百パーセントなのはわざとか否か。おそらく前者だ。野球では遥か上にいるすごい選手かもしれないけれど、突然こうも遠慮なしに絡まれる謂れはないはずだ。
 正直に言ってしまおう。なんだコイツ、と思った。
 「元」相棒。態度はアレだが、真尋の言ったことは何も間違っていない。現在、要が所属するチームのエースは真尋だ。バッテリーを組み、ピンチを幾度となく切り抜けてきたのは美澄ではない。
 胸の奥がちくちくと鈍い痛みを発していた。現相棒の目に余るほど、美澄は特別扱いをしてもらっている。とはいえ、恋心を抱いているのはこちらだけの話で、要には関係のない話だ。
――じゃあ俺は、要先輩の何? 
 自分に問いかけても、答えは出なかった。
 元エースの肩書きは、怪我をしてほんの数ヶ月で過去の産物となった。元相棒という肩書きなんて、波打ち際に作られた砂の城のよりも脆い。
「まーひろぉ。お前何してんだ」
「っ」
 ネガティブな思考を断ち切ったのは、角のない甘ったるい声だった。真尋が弾かれたように振り返る。
「げ、要さん」
「げ、じゃねーよ真尋ぉ。着替えは。帰る準備は」
「今からする!」
「ってか、俺の客人に何絡んでんだよ」
 そうか、客人か。ここは彼らの仕事場で、自分は招かれている立場。正しくて当たり前の話なのに、気分が晴れないのはどうしてだろう。
「だって、要さんのお気に入りがどんな奴か気になったんだもん」
「だからって絡むな。びっくりしてんだろ。お前より年上だかんな?」
「知ってる! 要さんの一個下でしょ!」
「そこまで分かってんなら、さっさと着替えて帰ること。んで、飯食って寝ろ。次の登板も期待してんだから」
「もちろん次も完封するし。楽しみにしててよ要さん!」
「おー。頼むぞエース」
「任された! 要さんもバッティングで俺を援護してよね。じゃ、お疲れさまでした!」
 きた時よりも大きな足音が廊下に響いた。元気すぎる。ロースコアの緊迫した空気の中、九回を一人で投げ抜いたのが嘘のようだ。
「さ、俺たちも帰ろーぜ」
「はい。あ、要先輩、お疲れさまでした。今日もカッコよかったです」
「おう。ありがとな」
 どちらからともなく歩き出す。扉の外に出ると、秋の風が頬を撫でた。



 車は地下駐車場を出て、すっかり慣れた要の家への帰路を行く。前を行く車のブレーキランプが、整った横顔をぼんやりと照らし出した。
「さっきはごめんな、うちの真尋が」
「いえ、少し驚きましたけど……九回を一人で投げ抜いたのに元気だなぁって」
「スタミナお化けだから、アイツ。ああ見えて、止められるまで走り込むタイプなんだよ」
「努力家なんですね」
「まーな。すげー気難しいけど」
 言葉とは裏腹に、要は楽しそうだった。
 二人の間に存在する確かな信頼関係に、美澄は羨望を抱いた。真尋が要を心から慕っているのは、ヒーローインタビューを見て知っていた。要は要で、若きエースを信用して尊重している。現相棒の地位は盤石だ。
 「元」相棒に、ここまで良くしてくれるのはどうしてですか? 思い切って聞いてしまおうかと思ったが、あと一歩の勇気が出ない。膝の上で組んだ手の親指同士を擦り合わせ、視線を落とす。
「真尋のヤツ、なんか昔の美澄に似てんだよな」
「……え? 俺あんな感じでした?」
 可愛げのある後輩ではなかったかもしれないが、さすがにあそこまで態度は大きくなかったはずだ。美澄の気持ちが伝わったのか、要はケラケラと声をあげて笑う。
「性格じゃなくてさ。ボールに気持ち全部のっけて投げてくるところとか、こっちが取れない可能性なんて一ミリも考えてねーところとか。美澄もそうだったろ?」
「要先輩が取れないなんてこと、なかったですし」
「ほら、そういうところだよ。ピンチの場面でワンバン覚悟のサイン出した時とか、最っ高に気持ちよかったもん」
 それってそんなに特別なことなのだろうか、とは思ったが、要がご機嫌だから良しとする。
「でも、アイツのほうがバカ。負けん気強すぎてすぐ泣くし」
「……負けん気の強さは出てますね、顔に」
「だろ? 甘いコースに抜けちまったボールをバックスクリーン運ばれた日なんて、不貞腐れて皮膚ふやけるまでシャワー浴びてたことあるし。百二十球投げて失投がその一本だけ。打った相手を褒めるしかねーのに」
「まあ、その一本が命取りになる可能性もありますからね」
 ふやけるまでシャワーを浴び続けたことはないが、気持ちは分かった。他が満点でも、その一本で負けたら悔やんでも悔やみきれない。
「でも、前に足つって降板した日は、試合後にリリーフ陣に目ェ真っ赤にして謝りにきてさ。最後まで投げられなくてごめんって。ま、バカだし態度はデカいけど、エースとしての責任感は人一倍強い。まだ二十歳なのに……って年齢のこと言うと、年齢は関係ないからって怒られるけどな。頼りになるよ、ホント」
 ここまで言ってもらえる真尋が羨ましかった。「バカ」も「態度デカい」も、彼らの関係性なら褒め言葉だ。
 ウインカー音が響き、車は速度を落としていく。辺りはもうすっかり暗いが、都会の夜空に星は見えなかった。もう間もなく家に着く。
 結局、聞けなかった。要が自分をどう思っているのかを。答えを突きつけられるのが、怖かったのかもしれない。知らなければ、ずっと期待したままでいられる。