埼玉の強豪である千里第一高校史上、最高傑作と言われた天才捕手・間宮要を擁する世代が引退して、新たなチームが始動した。扇の要が抜けただけでなく、長年チームを率いた監督とコーチの勇退と、大幅な戦力ダウンを懸念する声もチラホラ聞かれたが、チーム内から悲観する声はほとんどあがらなかった。来年のドラフトでも競合必須と言われる逸材・雪平美澄が、新チームに残っていたからだ。
 夏の甲子園準優勝投手として全国にその名を轟かせたサウスポーエース。最速百五十一キロ。キャッチャーの構えた場所へ正確に投げ分けるコントロールとキレのあるストレート、バッターを惑わせる多彩な変化球に加え、怖いもの知らずと言われたマウンド度胸。下級生ながらクリーンアップを任されるなど、バッティングセンスも文句なし。土日になると、毎週スカウトが訪れた。
 一年生エースで八番バッター。二年生エースで五番バッター。そして要が引退した今夏、美澄の肩書きが一つだけ増えた。チームのエース。そして、四番。
 美澄は昔から投球術やバッティング技術には優れていたが、チーム全体を見渡すのが苦手だった。集中力があると言うべきか、マイペースと言うべきか。エースは多少自己中なほうがいいと言ってくれたのは、要だったか、それとも監督だったか。とにかく、キャプテンは他に適任がいたわけだ。
 エースで四番。要のようにキャッチャーで四番で強豪校の主将という重すぎるくらいの負担はなくとも、憧れの先輩から受け継いだ打順だ。自分が抑え、自分が打ってチームを勝たせなければと改めて背筋が伸びる思いだった。
――要先輩みたいに打たなきゃ。
――俺がキャッチャーを引っ張っていかなくちゃ。要先輩は、もういないのだから。
 代わりにはなれなくても、できる限り穴を埋める。それがエースである自分に課せられた役割だと、何度も自分に言い聞かせた。
 夏休みが終わっても毎週のように組まれる練習試合。新監督の指示を受けて二日連続で投げることもあったが、新チームとして動き出すのが他のチームより遅く、一刻も早くチームの形を整えなければいけないから仕方ないことだと思った。春の甲子園へつながる秋季大会に、神宮大会。遠征も合宿も、練習だって、美澄は全力で投げ続けた。得点を与えないことでチームを勝たせるのが、エースだ。バットで得点をもぎ取ってチームを勝たせるのが、四番だ。極論、自分が完封してホームランを打てば勝てるんだと、本気で考えていた。美澄本人を含め、周囲の期待を全て背負った左肘は、確実に摩耗していたのに。

 セットポジションから投げ込んだのは、最近磨きをかけていたフォークボール。キャッチャーミットより手前でバウンドするほど変化の大きいそれは、美澄のウイニングショットだった。
「美澄、まだやんのかよ」
「うん。あと十球だけ付き合ってくれない?」
「いいけどさぁ……投げすぎな気がするんだけど」
 同級生の捕手が、あきれたような声で言った。渋々だろう最後まで付き合ってくれるのだから、気の良い奴だと思う。
「この後、日課の素振りだろ? 何回だっけ?」
「千」
「やっぱオーバーワークだって。程々にしろよ。お前が壊れたらウチは終わんぞ」
 返球がいつもより強かった。キャッチャーは総じて怒らせるととんでもなく怖いのを身をもって知っている美澄は、肩を竦めながら答える。
「分かった。この後の素振りは半分に減らすよ」
「肩、ちゃんとアイシングしろよ」
「うん。明日の練習試合も勝とうね」
 ワインドアップの構えを見せれば、同級生捕手はピタッと構えて動きを止めた。たくさん教わったのだろう。その構えは、要とよく似ていた。
 指先から身体の力をボールに伝えて、ミット目がけて思い切り投げ込む。乾いた捕球音が室内練習場に響いた。
 明日も勝つ。明後日も。自分は甲子園準優勝投手。憧れの先輩から四番を受け継いだ男。その実績の大きさに、目先の勝利に、雁字搦めになって身動きが取れなくなっている事実から、美澄はそっと目を逸らした。
 約束した通り、五百回に素振りを減らして次の日の練習試合にのぞんだ。百四十五球を投げ、タイムリーを放ち、完封勝利。試合後、アイシングサポーターの奥で疼いた肘には、気づかないフリをした。

 対外試合禁止期間のある冬の日の夜、監督に呼び出された。そこにいたのは監督とコーチだ。
「選抜は、雪平くんと心中するつもりだ。それを話しておきたくてね」
「……え」
「重圧も糧にできるタイプだろう? 夏の甲子園の準々決勝、僕らも見させてもらったけれど……劣勢の中、四回から登板してヒットゼロ。バッティングではタイムリーを打って逆転勝利に大きく貢献した。すごい二年生がいるもんだと感動したよ」
「でも、あれは要先輩がサヨナラホームランを打ったから勝てた試合です。それに、俺だけじゃなくてみんなが勝利を信じていました」
 九回裏、ツーアウト満塁から要が放った逆転サヨナラホームラン。青空に放物線を描いた白球には、チーム全員の気持ちが乗っかっていた。
 前監督の勇退に合わせて前コーチもチームを去ったから、チームの方針は大きく変わった。夏までは三人で回していた先発を、ほぼ美澄一人が担うようになった。美澄が投げ抜けば、打てば勝てる。だからもっと頑張れ。新チームになってからも自分をエースとして認め、使い続けてくれる監督には、間違っても「荷が重い」だなんて言えなかった。
「だからよろしくね、雪平くん。優勝しよう、今度こそ」
「……はい。頑張ります。失礼します」
 一礼して監督室を出る。遠くから聞こえてくる金属バットの打撃音。みんなが遅くまで練習している。必死に努力している。
 美澄が抑えきれなかったから、打てなかったから負けた。自分たちが積み重ねてきた野球人生を、血のにじむような努力を、そんな言葉で片付けられたら。絶対に悔しいに決まっている。
 負けなければいいんだ。頂点まで駆け上がれば、きっとみんなに光が当たる。
 全幅の信頼を寄せていた要はもういない。いつだって背中を守ってくれた先輩たちも、もういない。
 廊下の空気は冷たく、張り詰めている。冷気に晒された左肘が痛い。違和感はいつの間にか痛みへ変わり、四六時中付きまとうようになった。
「……痛い」
 一人ぼっちの廊下に転がった弱音は、誰にも届くことはない。言えなかった。誰にも。バレないように歯を食いしばるのは、得意だった。
 じくじく、ズキズキ。ああもう、出てくるな。黙ってろ。俺がみんなを勝たせるんだ。

 雪がとけ、美しく咲き誇った桜が散った。埼玉県の春季大会で、前評判通り危なげなく勝ち上がった第一シードの千里第一高校は、決勝戦を翌週に控えていた。先発はもちろん美澄だ。いつも通り完封してくれるだろうと、誰も疑っていなかった。この時までは。
 シート打撃に登板した時のことだ。一球目をゾーンから大きく外し、二球目をミットのど真ん中目がけて投げた瞬間。身体の中で、ブチッと何かが切れる音がした。
「――っ……!」
 激しい痛みは一瞬遅れてやってきた。マウンド上でうずくまり、声にならない声をあげて左肘をおさえる美澄に、チームメイトだけでなく大人たちが血相を変えて駆け寄ってきた。
 肘が痛い。指が少しも動かない。激痛で朦朧とする意識の中で、多分そんなようなことを言ったと思う。どうして。俺が投げなくちゃいけないのに。みんなを勝たせなきゃいけないのに。
 涙でぼやけた視界の中で、葉桜の深緑と青空のコントラストが、憎らしいほどに綺麗だったのを覚えている。
 高校三年の春。美澄の野球人生は、唐突に終わりを迎えた。
 断裂した靭帯を繋ぐ手術をした。執刀した医者は言った。
「プロへの道は高校だけじゃない。大学へ進学して結果を出して、プロへ進む道もあるよ。甲子園で投げるのは間に合わないかもしれないけれど、諦めずに頑張ろう」と。しかし、美澄が再びマウンドに、否、グラウンドに立つことはなかった。
 怖かった。靭帯の切れる音や痛みを、夢にまで見た。退院して、リハビリをして、いざボールを握ってみたら手が震えて腕が全く触れない。冷や汗が止まらなくなって、過呼吸の発作を起こした。グラウンドから離れ、ボールとグローブを手放すとじきに治まった。イップスだった。
 高校にDH制はない。ピッチャーとしてだけではなく、まともに投げ返すことさえできなくなった美澄が守れるポジションなんて、どこにもなかった。
 罪悪感と惨めさに押し潰された心はすっかりペシャンコになって、部活にはいけなくなった。合わせる顔もクソもあったものではないが、チームメイトも卒業していった先輩も、美澄を責めなかった。やさしい言葉をかけてくれた。だからこそ、一番憧れていた先輩から音沙汰がないのを、嫌われたと受け取って本気で絶望した。井の中の蛙大海を知らず。自分は誰よりも不幸だと、狭い世界の中で考えた。
 プロはもちろん、野球部のある大学への進学の話も、何もかも無くなった。全てを失った雪平美澄は、いつしか過去の存在へと成り果てたのだ。
 それ以来、一度もボールを投げていないし、なるべく野球とは関わらないようにしてきた。美澄が勤務する多々良接骨院に、間宮要がやってくるまでは。