夕食を作ろうと思っていた真面目な自分は、奥底に引っ込んでしまった。試合後のニュース番組をぼんやりと眺めていると、残ったいじけ虫がもう寝てしまえと耳もとで囁く。ずっと傍らに置いていたグローブとボールをケースにしまってクローゼットに戻そうと立ち上がりかけ、着信音に動きを止めた。
「要先輩……」
 沈んだ心がふわりとほんの少しだけ浮上した。単純な心のつくりをしていて助かった。憧れには、電話越しだろうと沈んだ声を聞かせたくない。
「はい、雪平です」
『もしもーし、俺っす。今、電話大丈夫?』
「大丈夫ですよ。あとはもう寝るだけなので」
『そっか。な、美澄、試合観た? 俺のホームランに盗塁阻止!』
「観ましたよ。ヒーローインタビューまで全部」
『マジ? 美澄、観てくれたかな~って考えてたら、声聞きたくなっちゃってさぁ』
「そうだったんですね。今日も観に行けばよかったなぁ」
『言ってくれれば、いつでもチケット用意するから』
「毎回は申し訳ないですよ。チケット代、払わせてください」
『ダーメ。カッコつけさせてよ、これくらい』
「カッコつけなくたってカッコいいのに」
『なに、嬉しいこと言ってくれるじゃん』
「……嬉しいですか?」
 ヒーローインタビューで、現相棒に言われた言葉とどっちが嬉しいですか。口から飛び出しそうになった棘だらけの言葉を慌てて飲み込んだ。何てことを言おうとしてたんだ、俺は。
『美澄、なんか元気ない?』
「……え」
『今朝は元気だったよな? 帰ってから、なんかあった?』
「あ、えっと、その……」
『話してみ? 俺、もう家だから、周りに誰もいないし。な?』
「……困りませんか。俺に相談されても」
『全然。俺キャッチャーだから、相談されるとむしろ燃えんのよ』
 態度が悪いとか、ふてくされていると言われても仕方ない返答をしたのに、要の声はどこまでもやさしかった。甘えたくなってしまう。足元へ目を落とし、ぽつりと呟いた。
「今日、家に帰ってから、久しぶりにグローブとボールを出してみたんです」
『おお、いいじゃん。また一歩前進だ』
「でも、ボールを握ってみたら……手が震えて、全然ダメで。情けないですよね、ホント……」
 自嘲が口角を持ち上げる。困らせてしまっただろう。こんな弱い後輩なんて相手にしていられないと、軽蔑されてしまったかもしれない。一度沈んだ気持ちはなかなか上向いてくれずに、悪いほうへと誘われていく。
『情けなくない。つーか、俺嬉しいんだけど』
「嬉しい?」
『お前がまた野球と向き合ってくれることが。慌てなくていいんだよ。ゆっくり、一歩ずつ前に進めればいいじゃん』
 要の言葉は、ささくれた心にすっと染み込んだ。でも、それでいいんだと自らを納得させることはできなかった。
「お、俺は」
『うん』
「要先輩と、キャッチボールがしたいのに……」
『っ』
 勇気を出して振り絞った声は、小さくて掠れていた。電話だからこそ口にできた小さな願い。要が子供みたいに笑ったのが、気配で分かった。
『分かった。次のオフ、グローブ持ってそっち行くから! 俺のオフの翌日って、接骨院休みだよな?』
「休みです」
『朝ちょっとだけ早めに起きて、近くの公園行こーぜ』
「でも俺、投げられないですよ……?」
 ボールを握るのがやっとなのだから。美澄が心苦しそうに声のトーンを落とした。
『大丈夫。投げられても投げられなくても、一緒にキャッチボールしよ』
「投げられないのにキャッチボールとは……」
『それはその時に考える!』
「……ふふ、なんですか、それ」
『お、やっと笑ったな』
「……すみません、ありがとうございます」
『ちょっとは元気出た?』
「出ました。次の休みが楽しみです」
 楽しみと同じくらい、不安はあったけれど。要と一緒なら、大丈夫だと思えた。