「何日でも泊まってっていいんだけどなぁ」
 そうもいかないのが社会人である。連休なので今日は休日でも明日は仕事なので、元から今日の試合は観戦せずに帰る予定だった。今は要のドーム出勤に合わせて、最寄り駅まで送ってもらっている最中だ。
 あまりにも寂しそうな声に、美澄は運転席を見た。そうですね、でも仕事なので……としおらしく返すよりも早く、
「でも、そうはいかないよなぁ」と要が呟いた。一人で結論が出たようだ。
 窓から見える空が綺麗だ。のんびりと流れる雲を目で追いかけながら、時間が止まってしまえばいいと思った。そうすれば、要とずっと一緒にいられるのに。近頃はそんな自分の思考回路にも、驚かなくなってきている。
「でも、それは困るか……」
「ん? どした?」
「あ、ひとりごとです。このまま時間が止まったらずっと要先輩と一緒にいられるけど、それだと要先輩が野球できなくて、嫌だなって」
 車は大通りを直進する。前方の信号が赤になり、車が速度を落とした。
「うん? そんなこと考えてたの?」
「だって、楽しかったんですもん」
 美澄だって、できることなら帰りたくないのだ。それなのに、要は目をまんまるにして驚いている。
「なんですか、その顔」
「俺ばっか浮かれてんのかと思ってた。お前が試合観にきてくれて、家にも泊まりにきてくれたから」
「そんなことないです。俺だって浮かれてましたよ。ルンルンでしたけど」
「いや、美澄がルンルンしてるとこ見たことねーよ」
「あまり顔に出ないだけです。ねえ、要先輩。またきてもいいですか?」
「当たり前ですよ。いつでもきてください」
「なぜ、敬語……?」
 信号が奥から順番に青に変わった。要がゆっくりとアクセルを踏み込み、景色が流れ出す。
 あと二つ先の交差点を左折したら、駅はもう目の前だ。もう少し、もう少しだけ。願えば願うほど、一秒が短くなるのは何故だろう。鳴り始めたウインカー音が、この幸せな時間の終わりを告げていた。
 車の大きさを考慮して、一般車昇降場ではなく近くのパーキングエリアで降りることにした。後部座席に置いた荷物を取ろうと手を伸ばす。
「要先輩」
「んー?」
「見すぎです。照れるんですが」
「うん」
「俺の顔なんて見て楽しいです?」
「楽しいよ。なあ、美澄」
「はい?」
 リュックを取って前を向いた刹那、ちゅ、と小さく響いたリップ音。頬に触れた柔らかさに目を見開くと、大きな手のひらが頭を撫でた。髪を指で梳いて、そおっと輪郭をなぞる。それはまるで、宝物に触れるような繊細な手つきだった。はにかむ顔を直視できない。だって、キスをされたのも、そんな撫で方をされたのも、初めてだったから。
「またな」
「っ……今日もテレビで試合観ます、頑張ってください」
「おう。じゃ、気をつけてな」
「要先輩こそ」
 車を降りて、深く一礼する。たった今、美澄の頬にキスをした先輩捕手のSUVのテールランプが見えなくなるまで見送って、その場にへなへなとしゃがみこんだ。
 きっと、要にとっては挨拶代わりで、深い意味なんてないのだろう。だからこそ困ってしまった。
「うわぁ~……」
 胸をきゅーっと締め付けるような切なさに、両手で顔をおおってうつむく。柔らかくて、温かくて、その感触は全然嫌なんかじゃなくて。なんだ、これ。俺は知らない。
 心の底に芽生えた、甘さくてほろ苦い気持ち。どこか憧れにも似たそれは、美澄の知らない感情だった。

 ふわふわと落ち着かない心を抱えたまま、電車に乗って帰宅する。鍵を開けて玄関に入れば、静寂が広がっていた。
 二人でいるよりも、一人のほうが静かなのは当たり前。要は元々よく喋るほうだし、美澄も要が相手だと自然と口数が増えた。足音がよく聞こえる。自分の呼吸の音も。寂しさを覚えるのは、仕方のないことだろう。
 美澄はリビングに荷物を置き、寝室へ向かった。クローゼットの折戸を開けて右奥から引っ張り出したのは、合成皮革製のグラブケース。封印したはずのそれを抱えて、大きく息を吐いた。
 球場の空気を肌で感じて、攻守に輝く憧れの人をこの目で見て、胸が熱くなった。そして羨ましくなった。マウンドに立ち、要が構えるミットめがけてボールを投げ込んでいたピッチャーが。ボールがミットに吸い込まれた時に響く、高く乾いた捕球音。要の出す音が世界で一番好きだと改めて思った。
 少しでも明るい場所がいい。リビングの窓ぎわにしゃがみこみ、高校卒業と共に閉じ込めた思い出を取り出した。グローブと、ボール。要との青春が全て詰まったそれらは、美澄の心拍数を上げ、手のひらに嫌な汗を滲ませる。
 あの頃のまま手入れも何もしていないグローブはすっかり色褪せていたが、カビなどは生えていなさそうだった。ボールもボロボロで汚れているけれど、これは美澄の投げすぎによるものだ。そっとグローブを右手にはめ、左手でボールを握る。生命線ともいえるストレートの握り。指先の感覚はまだ鮮明に残っているのに、手が震えて投げられそうもなかった。ボールを握るだけで、だ。情けない。要は逃げじゃないと、頑張った証だと言ってくれたけれど、野球から目を背けたこともみんなの期待を裏切ったことも事実だ。少しでもスポーツをしている学生の力になりたいだなんて、大層な大義名分を掲げてはみたものの、結局は罪滅ぼしなのだ。
 要と、キャッチボールがしたかった。昔みたいに、なんて贅沢は言わない。たった一球だけでもいい。彼のミットへ向けてボールを投げたかった。傷は完全には癒えていない。痛みをともなうと分かっていながらも、野球と向き合う勇気が出てきたのに。ボールを投げるのさえ難しいのは辛かった。
 野球が好きだった――否、野球が好きだ。だから余計に悔しくて、胸が痛い。
 あの夏の空の色も、マウンド上での緊張感も、土の匂いも、ボールの縫い目に触れた指先の感触も全部、美澄の中に残っている。一つも手放すつもりなんてなかった。
 窓越しに夏の日差しを浴びながら、久しぶりにグローブの手入れをした。さすがにもう実践では使えなさそうだけれど、キャッチボールくらいならできるだろう。もちろん、美澄自身がボールを投げられればの話だが。
 視界がオレンジ色に変わって、ふと時計を見上げた。随分と長い時間が経過していたらしい。テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、電源ボタンを押す。夕焼けに似合わない彩度で輝き出したテレビの画面には、昨晩「餅が好き」と語っていた気の強そうなかんばせが映っていた。
 グローブとボールを抱えたまま試合を観た。もちろん要がスタメンマスクをかぶり、投げるのはエースの若槻真尋。スピードも出るが、彼のストロングポイントはコントロールなのだろう。遊び球をほとんど使わず、テンポよく投げてリズムを作る姿が頼もしい。
 要の二試合連続となる本塁打も出て、スワンズは快勝した。ああ、そういえば、昼食を食べていない。夕食を作るのも忘れていた。あまり食欲はなかったけれど軽く何か作ろうと立ち上がりかけて、テレビから聞こえた名前に再び腰をおろした。本塁打で決勝点をあげた要と、完投した真尋のヒーローインタビューが始まった。
――本日のヒーローインタビューは、決勝点をあげた間宮選手と、完投勝利で今シーズン九勝目をあげた若槻選手です。お疲れさまでした。ナイスゲームでしたね。
 熱のこもった大歓声を、お立ち台の二人は嬉しそうに受け止めた。歓声のボリュームが少し落ち着いてから、要にマイクが向けられる。
――ありがとうございました。真尋が頑張って投げてたので、点数を取れてよかったです。
――たしかに、今日もナイスピッチングでしたね、若槻選手。
 続いてマイクを向けられたエースピッチャーは、要にピッタリと肩を寄せてはにかむ。何故だろう。面白くない。
――要さんのリードを信じて投げました。それに、俺の為にホームランまで打ってくれましたし……愛ですね、愛。今日勝てたのは、要さんのおかげです。
――だそうです。間宮選手、いかがでしょう?
――まあ、俺のおかげだと思います。愛……かどうかは知りませんけど。エースにそう言ってもらえるのは嬉しいですね。
 観客席に笑いが起きた。インタビュアーの声もかすかに震えている。二人の距離は近いままだ。
――間宮選手は今シーズン絶好調ですからね。二試合連続ホームラン。お見事でした。
――次の試合も打てるように頑張ります。応援よろしくお願いします。
――若槻選手も、一言お願いします。
――次も要さんが打ってくれると思います。応援、よろしくお願いします!
 真尋の目は、強い照明を跳ね返してキラキラと輝いている。完投の疲れを見せない充実感溢れる表情からは、要を心から慕っているのが伝わってきた。
 たしかに、要は昔からリードだけではなく、投手の気持ちまで上向かせるのが上手なキャッチャーだった。エースと正捕手だから、球団も何かとコンビを組ませて売り出しているし、実際に人気の二人だ。分かってはいたが、今は受けるダメージが大きい。
 せっかく要が楽しい時間をくれたのに。一人で落ち込んで、馬鹿みたいだ。自分を責めるほど思考は泥濘にはまって動けなくなる。どろどろと煮詰まった感情が、腹の底で渦巻いていた。