要が暮らすマンションは広く、そして美澄の家よりも物が少ないように見えた。冷房が効いて過ごしやすい気温に保たれた室内は、駐車場からここまでまとわりついてきたジメッとした暑さを瞬く間に取り払ってくれる。
 リビングへ到着するなり、リビングの隅にあるサイドボードの前に腰をおろした要に手招かれた。なんだろうと不思議に思いつつ隣に並ぶ。シンプルでおしゃれな家具のような見た目で気がつかなかったが、小さな仏壇がそこにはあった。
「これ、もしかして」
「そ。母さんの仏壇。今ってコンパクトでインテリアっぽいの、色々あるんだわ」
「イメージはやっぱり、和室にどーんと置かれてるのですもんね。あの、俺もお線香、お供えしてもいいですか?」
「もちろん。母さんも喜ぶと思うよ。美澄のこと「いつ見ても綺麗な子ねぇ」とか言って気に入ってたし」
「え、そうなんですか」
 線香に火をつけ、おりんを鳴らす。透き通った音と共に手を合わせながら、心の中で語りかけた。お久しぶりです、と。
 要がトイレに行っている間、ぐるりとリビングを見回してみた。見るからにふかふかのソファがあるが、勝手に座るのは気が引ける。フローリングに座って、タイトルも知らないドラマを眺めてみる。
 線香は匂いがしない物なのだろう。白檀や沈香の代わりに、部屋はほんのりと甘くていい香りに満たされていた。要からいつもする匂いだ。
「美澄、お前なにそんなとこで小さくなってんの」
「ソファ、座っていいですか」
「おう。テレビも好きなの観ていいし、何でも好きに使いなさい」
 笑いながら隣の部屋に入っていった要は、すぐに上下の服を手に戻ってきた。
「俺、着替え持ってきましたよ?」
「いいよ、こっち使いな」
「じゃあ、お言葉に甘えて。着替えてきます」
「脱衣所、トイレの手前のドアな」
「分かりました」
 早速脱衣所に移動して着替えた美澄は、言葉を失った。いや、薄々気づいてはいたのだ。十センチ近く身長が違う上に、相手はアスリート。そりゃブカブカに決まっている。
「要先輩、分かってて俺に着せましたね……?」
「うん。俺が初めて美澄の家に泊まった時、足がつんつるてんだったから。逆はどうかなって気になって」
 あまった裾を捲りあげる美澄を見つめる要は、この上なくいい笑顔をしていた。好奇心旺盛か。
「身長も筋肉量も違うって分かってても、なんか悔しいです。シャツは半袖のはずなのに、もはや七分袖だし」
「いいじゃん、似合ってるよ」
「顔が笑っちゃってるじゃないですか!」
 うつむいて肩を震わせる先輩捕手は基本的にはやさしいけれど、あまり良くないほうの意味で「いい性格」をしている。相手の読みをことごとく潰していく強気のリードをするクセに、バッテリーを組んだ投手に対してはとことん献身的。今でもたまに使われる「性格の悪い人たらし」という言葉は、天才捕手・間宮要を的確に表現していると思う。
 わざと触れ合う距離に腰かけ、遠慮なく体重をかける。これくらいで怒るような相手ではないし、体幹の強い要はびくともしない。というか、美澄のじゃれ合い程度の力に押し負けていたら、本塁クロスプレーの際に吹き飛ばされてしまうだろう。
 がっしりとした左上腕二頭筋の、質のいい筋肉の柔らかさが心地いい。頬を押し付けた状態のまま固まった美澄は、大きく息を吸い込んだ。
「……先輩の匂い」
「え?」
「今着てるシャツも、この家も、ふんわりとだけど同じ匂いがして……なんだか、包まれてるような気分になるんです」
「もぉー……やめろよ、恥ずいから」
 スンスンと鼻を鳴らした美澄に、要は苦笑する。
「先輩の匂い、落ち着くんで。やめません」
「っ」
 一瞬のできごとだった。要が不意に身体をこちらに向けると、力強い腕に引き寄せられた。包まれている「ような」ではない。本当に包まれている。抱きしめられたと理解するのに、美澄はたっぷり二秒を要した。
 とく、とく、とく、とく。伝わってくる心音が、熱いくらいの体温が、時間の流れを止めた。それは一呼吸程度の短い時間だったかもしれないし、何分もの時間が経っていたかもしれない。分からないけれど、要に抱きしめられたという事実に、理解はできても感情が追いつかない。
「え……? せ、先輩?」
「……っ、ごめん、つい」
 身体が離れると、すーすーして落ち着かなかった。見上げた先には、いつも通りの間宮要の横顔がある。
 要は立ち上がり、キッチンへ入っていった。夕食を作るのだろう。要先輩、今のは何だったんですか。心の柔らかくて無防備な部分に踏み込んでしまいたい気持ちをぐっと飲み込んで、背中を追いかけた。
「キッチン使ってよければ、俺作ります」
 心臓が空回りして頬を火照らせる。鏡を見なくても、自分が赤い顔をしていると分かった。
「いいの? 助かる。お前の料理美味いし。俺、けっこー料理下手だし……」
「食べたいものあります? 冷蔵庫の中次第なんですけど」
「美澄の作ったのなら、何でも嬉しい」
 要はわざとらしく美澄から目を逸らしていたが、今はそれでよかった。だってこんな情けない顔、見せられない。手汗ぴちゃぴちゃよりも大問題だ。
 スパイスラックに最低限の調味料は揃っている。食材も乾燥パスタにトマト缶、野菜室には玉ねぎ、冷凍庫には冷凍保存されていたひき肉――「すぐできるので、ミートソースパスタにしましょうか」
「俺、ミートソースのスパゲッティ好き」
「だろうなって思いました。アマトリチャーナとかペスカトーレより、ミートソースとかナポリタンのほうが好きですよね、先輩は」
「あまとりちゃーな? ぺすかとーれ?」
「パスタの種類です。あ、要先輩は座ってていいですよ」
「いや、一緒に作りたい。いつも作ってもらってばかりで悪いし」
「そうですか? じゃあ、パスタを茹でてもらえると助かります」
「分かった。俺、パスタ茹でんのは得意。よく食うし」
「俺もよく作りますよ。パスタって、アスリートの食事にいいらしいですもんね。効率よくエネルギーが吸収できて」
「そ。味付けどうしても面倒だったら、塩と胡椒だけでいく」
「そ、それはやったことない……」
 あんまり美味しくないから、やんないほうがいい。そう言っておかしそうに笑う顔は、いつも通りの要だった。


 二人で作ったミートソースパスタに舌鼓をうっていると、普段観ていないドラマが始まった。
「変えてもいいですか? これ、観たことなくて」
「ん。いーよ」
 リモコンに手を伸ばす。ランダムにボタンを押していくと、
「青いボタン押してみ?」と要が言った。音量調整の上にある青いボタンのことだ。切り替わった画面に映し出されたのは、今日見たのと同じグラウンド。試合前練習の映像だろうか。明るい声と不規則に繰り返される打撃音が響いて聞こえた。
――本日のテーマは「最近食べて美味しかったもの」です。早速インタビューしていきましょう!
 元気よく切り出したのは、爽やかな笑みを湛える笠井アナウンサーだ。いつも家で視聴しているニュースのスポーツコーナーを担当している人だが、こういった企画は知らない。
「東部テレビの、スワンズ専用チャンネル。地上波ではやってないやつだけど、笠井さんは分かる?」
「分かります。いつも「今日のスーパープレー集」で大興奮してる人ですよね」
「あはは、覚え方に癖あるなぁ。東部テレビと東京スワンズはグループ会社だから、よく特集もされるし取材にもくるんだよ」
 視線を画面へ戻すと、笠井アナが通りかかった選手に本日のテーマについて質問をしていた。お互い慣れているのだろう。選手たちも楽しそうに受け答えをしている。
――あ、間宮選手おはようございます。
――おはざーっす。今日のテーマなんすか?
――最近食べて美味しかったものです。間宮選手は何かありますか?
――そーっすねぇ……色々あって悩むんですけど、一つだけ選ぶならハンバーグオムライス……いや、だし巻きも美味かったんだよなぁ……。
 どちらも自分の作ったやつだなぁ、と美澄はのんきに考えた。アナウンサーにも負けない甘いマスクが眩しい天才捕手は今、美澄の向かいで幸せそうにミートソースパスタを頬張っている。ギャップが凄まじい。
「だし巻き、気に入ってもらえてよかったです」
「母さんが作ってくれたやつとそっくりだったんだよ、味が。あの時、一人ですげー感動してた」
 三切れ中二切れを最後まで残してあったから、あまり好みの味ではなかったのかと思っていた。好みのものは最後まで取っておくタイプか。
「明日の朝も作りますね」
「マジ? やった。楽しみ」
 手を伸ばせば触れられるほうの要が喜んでいるうちに、笑顔輝くみんなのヒーローである要のインタビューが終わったようだ。笠井アナの立つ背後の景色が少し変わった。
――あ、笠井さんだ。はざっす。
 名前のテロップが表示された。若槻真尋。東京スワンズの若きエースだ。マウンドに立つ姿に抱いた気が強そう、という印象は、立ち止まって会釈した画面越しの真尋を見ても変わらなかった。
――若槻選手! おはようございます。インタビューいいですか? 今日のテーマは、最近食べて美味しかったもの、なんですけど……。
――餅! 投げる日は絶対食べるくらい好き。
「こいつ、うちのエースの真尋」
 要は視線を画面に向けたまま言った。
「知ってます。久々に観た試合は彼が先発でしたし、それから何試合も観てますから。スワンズはすごい選手が揃ってますよね」
 試合を観るようになってから東京スワンズに所属する選手について調べてみると、日本代表に選ばれている選手が多くて驚いた。要はもちろん、今テレビで好物の餅について語る真尋もそうだ。
「まぁな。じゃあ、他の選手も分かる?」
「分かります。えっと、今日助けていただいた丹羽夕晴選手がショートで、セカンドが矢野爽選手」
「そ。日本一の二遊間。丹羽さんは昨シーズンの首位打者。あの人は本物の天才だと思う。とりあえずヤバい。で、爽さんは育成出身だけど丹羽さんの守備についていけるからヤバい」
「四番でファーストの日下部麗司選手、ライトが小嶺碧選手」
「麗司さんはうちの不動の四番な。打球の飛距離がとにかくヤバくて、碧は俺と同い年のヤツ。あまり目立たないけど守備もバッティングも堅実で実はヤバい」
「……ふふ、要先輩、ヤバいしか言ってないですよ」
「俺の語彙力に期待しちゃダメだ。でも、みんないい人でさ。うちのチームって、なんて言ったらいいかな……家族みたいなんだよ。俺、一人だから嬉しくて」
 美澄が知る高校生の要よりも、今のチームメイトを語る要は柔らかな表情をしていた。当たり前だ。三年間という高校生活の中で、一学年下の美澄が共にあれたのはたったの一年半程度。プロ入りしてからの六年とは、時間の長さも重みも全然違う。
 手を伸ばせば届くし、まだ抱きしめられた時の温もりが鮮明に残っている。それでも、「家族(チームメイト)」を思い浮かべて穏やかに目を細める要が、遠い。