(1)
東海林という苗字は、息吹の実のお父さんの苗字らしい。
「ねーねー、お兄さんまだ若いよねえ。いくつ?」
「確か、今年32歳かなあ」
「確かって何、おっかしー! 苗字も名前も変わってるよねー。しょうじ……だっけ?」
「ねえ、なんて呼んでほしい?」
「イブでいいよ。子供のころ、よくそう呼ばれてたから」
何がイブだ、と芽吹は思った。
購買前を通りかかり、女子生徒に囲まれた今注目の人物の姿に1人嘆息する。
生き別れの(?)兄が自らの高校に「購買のお兄さん」として現れたのが数日前。
その日は帰宅した瞬間、芽吹は事情説明と称した言葉の弾丸を吐き続け、息吹はそのいずれも飄々とやりすごした。
「でも。仕事に就けて良かったでしょ?」会話の締めくくりにそう言われると、芽吹は二の句が出なかった。
それに、と思い、芽吹は息吹をじっと見つめた。
初対面のときとまるで違う、適度な清潔感と、適度にまとまった髪の長さと、適度にセンスのいい服装。女子高生が興味を持つのも不思議じゃない、大人の男の姿だ。
「まともな格好ができるなら、最初からその格好で現れなさいっつーのよ」
「へえ。もしかしてくるみんも、あの購買職員のファンの1人?」
不意に頭上から降ってきた言葉には、覚えがあった。芽吹は仏頂面をそのままに、背後を振り返る。
「違います。それと、くるみんはやめてください」
「いいじゃん。来宮だからくるみん。それとも、やっぱ名前で呼ぶ?」
「どちらも結構です」
会話の打ち止めを宣告した芽吹の意図をくむことなく、安達克哉(あだちかつや)はまるで大型犬のように後をついてきた。
浮かべる笑顔は屈託なく、つい絆されそうになってしまう。染めていない、とギリギリ主張できるやや明るめの髪が、何故かいつも眩しかった。
息吹たちが集う購買を避けて道を進んでいくと、すれ違う女子生徒がさりげなく視線を向けてくるのがわかった。その視線に、安達が嫌味なく手を振る気配も。
イケメンは得だな、ちくしょう。
「最近会わなかったけど、元気だった? 体壊したり、悩み事とかない? あったら先輩が何でも聞いてあげるけど」
「何もありません」
あんたに話すことは、と芽吹は心に付け加える。「それに」
「私はもう、野球部の人間じゃありませんよ。先輩はもう、私の先輩じゃないでしょう」
「寂しいこと言うなって」
本当に傷ついたような表情を浮かべる安達に、少しぎょっとする。
でも知っている。これが安達の手法なのだ。マネージャー期間に嫌というほど目の当たりにしたからわかる。
じいっと怪訝な顔で睨む芽吹に、安達はふはっと吹き出すように表情を崩した。
「悪いけど、俺は可愛い後輩を手放すつもりはないよ。話してると楽しいしね」
「今の会話のどこに楽しい要素が?」
「お前には、きっとわからないところかな」
ほんの一瞬、安達の手のひらが芽吹の頬を掠めた。抵抗する前に離れてしまったので、行き場のない胸の鼓動だけが残る。
「今日も振られちゃったなあ。それじゃあまたね、芽吹」
どうして安達は、自分にここまで構い続けるんだろう。メリットを考えても、1つとして浮かばないというのに。
「さりげなく、名前を呼ぶな」
相手もない言葉に含まれた感情は、芽吹自身も形容できないものだった。
白いボールが天井のライトと重なり、床を目いっぱい踏み切る。
「芽吹、いけ!」
奈津美の叫びを合図にして、腕を振りぬいた。
ボールへの衝撃を心地よく感じながら、審判のホイッスルの音にふっと息を吐く。
「ゲームセット! Bチームの勝ち」
「ありがとうございました!」
ぞろぞろコートから捌けていく。ふらつく足取りで体育館の隅に向かっていると、後ろからすごい勢いで肩を抱かれた。
「勝った勝った! 本当、見た目と違って運動全般こなしちゃうよねー、芽吹は!」
「悪かったね、見た目と違って」
「褒めてんのよ? この身長で軽々アタック決めるのは、センスがあるからだって」
この身長、と形容される芽吹の身長は、159センチ。いうほど小さくないのに、と芽吹は思っている。
「お疲れさま。2人とも、すごかった」
別チームで観戦していた華が、笑顔で迎えてくれた。
100人中100人が「小さい」と判断する華の身長は、華の独特の空気に直結している。小さい和の妖精。心が癒される。
「お疲れさま。本当に強いねー来宮さんのところって」
唐突に投げかけられたのは、聞き覚えのある甘ったるい声だった。
「そんなに運動神経がいいんだもん。帰宅部なんてもったいないんじゃない?」
「はあ、どうも」
「やだ、他人行儀すぎだよーもう」
ふわふわと毛先がカールしたポニーテールをなびかせ、4組の倉重百合(くらしげゆり)は去っていった。相変わらずきれいな笑顔だ、と思った。
「なーにが帰宅部なんてもったいない、よ。芽吹が帰宅部になったのは己のせいじゃろが」
「奈津美、口調がおかしい」
「止めるな華。次はあの女と試合が当たるよね。再起不能までボコボコにしてやらあ」
「奈津美、口調がおかしい」
いつも取り巻きにしている(と奈津美が言う)4組の女子数人が、どこか見下すような笑みでこちらを垣間見る。ぼんやりと受け止めていた芽吹が、その体を徐々に崩していった。
「芽吹?」
「え、なに、どうしたのっ」
「大丈夫」
華と奈津美が慌てる声が聞こえる。
返した言葉は、全く大丈夫じゃない「大丈夫」だった。
東海林という苗字は、息吹の実のお父さんの苗字らしい。
「ねーねー、お兄さんまだ若いよねえ。いくつ?」
「確か、今年32歳かなあ」
「確かって何、おっかしー! 苗字も名前も変わってるよねー。しょうじ……だっけ?」
「ねえ、なんて呼んでほしい?」
「イブでいいよ。子供のころ、よくそう呼ばれてたから」
何がイブだ、と芽吹は思った。
購買前を通りかかり、女子生徒に囲まれた今注目の人物の姿に1人嘆息する。
生き別れの(?)兄が自らの高校に「購買のお兄さん」として現れたのが数日前。
その日は帰宅した瞬間、芽吹は事情説明と称した言葉の弾丸を吐き続け、息吹はそのいずれも飄々とやりすごした。
「でも。仕事に就けて良かったでしょ?」会話の締めくくりにそう言われると、芽吹は二の句が出なかった。
それに、と思い、芽吹は息吹をじっと見つめた。
初対面のときとまるで違う、適度な清潔感と、適度にまとまった髪の長さと、適度にセンスのいい服装。女子高生が興味を持つのも不思議じゃない、大人の男の姿だ。
「まともな格好ができるなら、最初からその格好で現れなさいっつーのよ」
「へえ。もしかしてくるみんも、あの購買職員のファンの1人?」
不意に頭上から降ってきた言葉には、覚えがあった。芽吹は仏頂面をそのままに、背後を振り返る。
「違います。それと、くるみんはやめてください」
「いいじゃん。来宮だからくるみん。それとも、やっぱ名前で呼ぶ?」
「どちらも結構です」
会話の打ち止めを宣告した芽吹の意図をくむことなく、安達克哉(あだちかつや)はまるで大型犬のように後をついてきた。
浮かべる笑顔は屈託なく、つい絆されそうになってしまう。染めていない、とギリギリ主張できるやや明るめの髪が、何故かいつも眩しかった。
息吹たちが集う購買を避けて道を進んでいくと、すれ違う女子生徒がさりげなく視線を向けてくるのがわかった。その視線に、安達が嫌味なく手を振る気配も。
イケメンは得だな、ちくしょう。
「最近会わなかったけど、元気だった? 体壊したり、悩み事とかない? あったら先輩が何でも聞いてあげるけど」
「何もありません」
あんたに話すことは、と芽吹は心に付け加える。「それに」
「私はもう、野球部の人間じゃありませんよ。先輩はもう、私の先輩じゃないでしょう」
「寂しいこと言うなって」
本当に傷ついたような表情を浮かべる安達に、少しぎょっとする。
でも知っている。これが安達の手法なのだ。マネージャー期間に嫌というほど目の当たりにしたからわかる。
じいっと怪訝な顔で睨む芽吹に、安達はふはっと吹き出すように表情を崩した。
「悪いけど、俺は可愛い後輩を手放すつもりはないよ。話してると楽しいしね」
「今の会話のどこに楽しい要素が?」
「お前には、きっとわからないところかな」
ほんの一瞬、安達の手のひらが芽吹の頬を掠めた。抵抗する前に離れてしまったので、行き場のない胸の鼓動だけが残る。
「今日も振られちゃったなあ。それじゃあまたね、芽吹」
どうして安達は、自分にここまで構い続けるんだろう。メリットを考えても、1つとして浮かばないというのに。
「さりげなく、名前を呼ぶな」
相手もない言葉に含まれた感情は、芽吹自身も形容できないものだった。
白いボールが天井のライトと重なり、床を目いっぱい踏み切る。
「芽吹、いけ!」
奈津美の叫びを合図にして、腕を振りぬいた。
ボールへの衝撃を心地よく感じながら、審判のホイッスルの音にふっと息を吐く。
「ゲームセット! Bチームの勝ち」
「ありがとうございました!」
ぞろぞろコートから捌けていく。ふらつく足取りで体育館の隅に向かっていると、後ろからすごい勢いで肩を抱かれた。
「勝った勝った! 本当、見た目と違って運動全般こなしちゃうよねー、芽吹は!」
「悪かったね、見た目と違って」
「褒めてんのよ? この身長で軽々アタック決めるのは、センスがあるからだって」
この身長、と形容される芽吹の身長は、159センチ。いうほど小さくないのに、と芽吹は思っている。
「お疲れさま。2人とも、すごかった」
別チームで観戦していた華が、笑顔で迎えてくれた。
100人中100人が「小さい」と判断する華の身長は、華の独特の空気に直結している。小さい和の妖精。心が癒される。
「お疲れさま。本当に強いねー来宮さんのところって」
唐突に投げかけられたのは、聞き覚えのある甘ったるい声だった。
「そんなに運動神経がいいんだもん。帰宅部なんてもったいないんじゃない?」
「はあ、どうも」
「やだ、他人行儀すぎだよーもう」
ふわふわと毛先がカールしたポニーテールをなびかせ、4組の倉重百合(くらしげゆり)は去っていった。相変わらずきれいな笑顔だ、と思った。
「なーにが帰宅部なんてもったいない、よ。芽吹が帰宅部になったのは己のせいじゃろが」
「奈津美、口調がおかしい」
「止めるな華。次はあの女と試合が当たるよね。再起不能までボコボコにしてやらあ」
「奈津美、口調がおかしい」
いつも取り巻きにしている(と奈津美が言う)4組の女子数人が、どこか見下すような笑みでこちらを垣間見る。ぼんやりと受け止めていた芽吹が、その体を徐々に崩していった。
「芽吹?」
「え、なに、どうしたのっ」
「大丈夫」
華と奈津美が慌てる声が聞こえる。
返した言葉は、全く大丈夫じゃない「大丈夫」だった。