芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

(3)
 そこまでの事情を知っているのか。芽吹は黙って頷いた。
「ご両親の遺影とも、選ばれたのはあいつが撮った写真だった」
「遺影……?」
「亡くなる直前に撮ったものだったらしい。母親が3歳、父親が9歳の時。3歳なんてまだ認識はシャッターを切るおもちゃ程度だったろうけどな。偶然あいつが親の写真を撮った直後、予期しない形で亡くなった。父も母も、だ」
 ひゅ、と芽吹の喉が鳴る。
 人が死ぬから──そう呟いた息吹の横顔が脳裏に響く。
「写真を撮ると魂が抜かれるって、聞いたことあるかな」
「でもそんなの、ただの迷信ですよね?」
「ああ、その通りだよ。そうでなければ、モデルなんて職業も成り立たないからね」
 小さく笑う谷の横顔が酷く辛そうで、相づちもままならなかった。
「あいつだって、本当はわかってるんだよ。それでも、両親の死をただの偶然で片付けるには、年端もいかない子どもには無理な話だ」
 いつの間にか前のめりになっていた背中を、そっと背もたれに戻す。喉の奥から上ってくる震えに、きゅっと唇を締めた。
 嗚咽に変わるのを、必死に堪える。
 両親を撮った後、相次いで両親が亡くなった。それに気づいた息吹は、どれほどの恐怖を抱いただろう。
「あいつの親父さんは、業界では有名なカメラマンだった。あいつも小さい頃からカメラと一緒に育ってきた。離れたくても離れられなかったんだろうな」
 言葉の句切りとともに、1枚の写真を手渡される。
 太陽のような明るい笑顔が、写真いっぱいに広がっていた。
 家族写真だろうか。子どもが4人と両親らしき男女が、幸せそうに微笑んでいる。触れているところからも、じんわりと温もりが伝わってくるようだ。
「ここ1年世話になっていた南米の村の家族だよ。子どもたちが特に慕ってくれて、取材や撮影を抜きによくしてもらった」
「すごい……素敵な写真ですね」
「これを撮ったのは、息吹だよ」
「えっ」
「その数日後、この母親が流行病で亡くなった」
 愕然とした。
 今自分が抱く何倍も、息吹が絶望したことを知って。
 どのくらい時間が過ぎただろう。手元の写真に走りすぎた車のテールランプが反射する。隣の谷が、小さく息を吐く気配が届いた。
「慕われた子どもたちに家族写真を頼み込まれて、その度に息吹は断っていた。俺が代わりに撮ると仲裁に入ったりして誤魔化し続けてたけど、いよいよ断り切れなくなった。息吹にも撮って欲しい、俺たち2人の撮る写真が自分たちは好きだからって」
「……」
「それで決意した結果が、母親の死だ。あいつにとどめを刺すには十分すぎた」
 最小限の荷物だけまとめ、息吹は村を出た。
 生まれたときから側にあった父譲りのカメラも、遮二無二駆け抜けてきたカメラマン人生も捨てて。


 長いドライブを終え、赤い外国車は芽吹の自宅近くに停められた。
 運転席の窓が下げた谷が、柔らかな笑みを浮かべる。
「思ったより長話になっちゃった。ごめんね、芽吹ちゃん」
「……いえ。話が聞けて、よかったです」
「浩でいいよ。呼ばれ慣れてるからさ」
「あの、聞いてもいいですか」
 少しの緊張をはらんだ言葉が、夜の空気に凜と響く。
「浩さんは、どうして私にさっきの話を聞かせてくれたんですか」
「……そうだねえ。本当は、どこまで話すべきかもわからないまま、君を車に連れ込んだわけだけど」
 君があいつ以上に、あいつのことを大切にしてくれてるって思ったから、かな。
 そう言いながら差し出されたのは、西洋風の茶色い紙袋だった。
 思いのほかずっしり重いその中には、色鮮やかな野菜を綴じ込んだサンドイッチの山が詰められている。
「夜ご飯に食べて。野菜と肉を食べなくちゃ、人間パワーが出ないでしょ」
「ありがとうございます」
「えーと。それからさ」
 歯切れの悪い言葉の後、谷はばりばりと頭を掻いた。
「浩さん?」
「あいつは……どうかな。その、今の暮らしぶりは」
 不本意を装って投げられた質問だった。
 奥に秘められた温かな感情に触れ、思わず芽吹の口元に笑みが浮かぶ。
「元気ですよ。健康に、いい加減に、好き勝手にやってます」
「そっか。相変わらずか」
「息吹のこと、心配してくれているんですね」
「まあ、一応数年来の付き合いだからね」
「それに」一瞬迷った様子を見せた後、諦めたような溜め息とともに谷が真っ直ぐ芽吹を見据えた。
「カメラマンとしてのあいつには、純粋に惚れてる」
 親しみに浸りかけていた心が、強い瞳に裂かれるのを感じる。
 もちろん谷にその意図があったわけではないだろう。しかし、まだ覚悟が決めきれない芽吹にとって、その眼差しはあまりに強く揺るぎなさ過ぎた。
「それじゃあ、またね」
 浩さんは、息吹を元の場所に連れて帰りたいと思っている。そんなこと、わかりきっていたことなのに。
 はい、そう答えたはずの声は、掠れて下手な咳払いのように消えていった。


「浩と会ったでしょ」
 帰宅後、いの一番に突かれた図星に芽吹は返答を忘れた。
「やっぱり。帰りが遅いから何かあったのかとは思ったけれど」
「ど、どうしてわかったの」
「浩が買ってくる夜食のチョイスは、いつも決まってサンドイッチだ」
 芽吹が携えた茶袋の中身を見るや、息吹が何とも言えない笑みを浮かべた。
 今まで見たことのない色合いの表情に、芽吹の胸がぎゅっと苦しくなる。やきもちだ。自覚した瞬間、恥じらいにかっと頬が火照るのがわかった。
「まあいいや。お腹空いたし、有り難くいただこうか。芽吹、部屋に荷物置いておいでよ」
「あ、うん。そうする」
 荷物──答えながら、芽吹はすっと玄関周りに視線を馳せる。
「浩が言ってた荷物なら、まだ届いてないよ」
「っ、え」
「ほら。いいから早く置いておいで」
 ぽん、と優しく頭を撫でられる。
 その温もりはいつもと何ら変わりない。だからこそ、不思議な焦燥感にかき立てられ、階段を踏みしめた足取りを元に戻した。
「息吹さ。昨日言ってたよね。心配をかけるっていうのは、相手を信頼してるってことだって」
「芽吹?」
「浩さんね、心配してたよ。怒ってもいたけれど、それだって本当は全部、心配していたから。息吹のことが大好きで、大切だから」
 まくし立てるような芽吹の言葉に、息吹は呆気に取られたように目を見開く。その反応は歯痒くて、芽吹はきゅっと唇を噛んだ。
 自分が息吹にどうして欲しいのかさえ、いまだ定まっていないのに。「心配しないで」
「浩はああ言ってたけど、この業界はそんなに甘くない。現地から言い訳すらなく逃げ帰ってきた奴に、戻る席なんてもうないよ」
 静かに告げた息吹が、笑顔でリビングに消えていく。数年来の付き合いがない自分でも、その表情で封をした思いの存在に気づいているのに。
 いくじなし──自分自身に向けた非難に鋭く痛む胸を感じながら、暗い階段を上がっていった。
(4)
「意気地なしの情けねえ三十路はとっとと失せろ」
 辛辣な旧友の言葉が、授業時間の保健室に明瞭に響く。
 息吹はむくりとベッドから顔を上げると、心底不快そうな小笠原と視線が合った。
 その通りだなと内心賛同しつつ、視線から逃げるように再びベッドに身を投げる。
「お前がそんなだと、妹の方だって何の覚悟もできやしねえだろ」
「覚悟なんてそもそも必要ない。俺はもう、カメラを持てない人間なんだから」
「その逃げる余地を残した言い振り、妹が気付いてないとでも思ってんのか」
 小笠原の容赦ない指摘が、昨夜の芽吹を彷彿とさせた。
 居てもたってもいられない。そんな表現がぴったりだった。いつもはあんなに感情的にならない質な妹なのに。
 あの後は手渡されたらしいサンドイッチを腹に収めた後、一昨日と同じように同じベッドで眠りについた。
 一緒に寝ようと言った芽吹は、昨日もベッドでは始終息吹に背を向けていた。
「今日の朝一で、安達が駆け込んできた」
「ああん?」
 嫌悪を隠さない息吹に、小笠原も気付かないふりを決め込んで口を動かす。
「お前たち兄妹が血の繋がりがないこと、妹から聞いたみたいだな」
 別に、言う必要なんてないのに、と息吹は思った。
「へえ。それで?」どうせ、今までの兄貴節に文句でも漏らしていったのだろう。続く展開を察しながら促すと、続いた言葉は意外なものだった。
「嬉しそうだったな。不謹慎かもしれないと、自分でも言ってたが」
「……嬉しそう? どうして」
「真意は聞いてねえ。面倒な兄貴に口答えできる、口実が見つかったからかもしれねえな」
「あいつはそんな奴じゃないでしょ」
「へえ。庇うのか」
「そんなんじゃない」
 安達は気にくわない。
 それはきっとずっと変わることがないだろう。芽吹が安達のことを、あんな目で見続ける限りは。
 でももし俺が──そう考えかけた例え話に気付き、くしゃりと前髪を握りつぶす。
「いらいらしてんな」
「誰かさんが要らない情報をぶっ込んでくるからだ」
「心配か。妹が」
 わかりきった問いかけに眉を潜める。そんな息吹に、小笠原は小さく鼻を鳴らした。
「自業自得だろ。自分が決意さえすれば、いつでも何でも、そう都合よく離れることができると思うなよ」
 言葉尻に込められた感情の震えに気付く。
 小笠原は真正面の窓の向こうに視線を馳せている。しかし、その目が真実見ている光景は、到底測ることはできなかった。
「自分の折り合いさえつければ、跡形もなく消えてなくなれるなんて思うな。現にその相棒とやらはお前を追って、こんな面白みのない街にまでやってきたんだろうが」
「葵」
「甘えんな。悩んで傷ついて傷つけても、結局は覚悟するしかねえんだ。……互いにな」
 旧友のこんな横顔を、息吹は前にも見たことがあった。
 記憶が曖昧だから、恐らくは中学の頃。進学先を東京の全寮制高校に決めたと告げたとき。
「……もしかして葵、俺が上京しちゃって寂しかった?」
「死ね」
「保健室の先生が言っていい台詞じゃないでしょー」
 けたけた笑う息吹に、小笠原の口元も自然とつられる。
 それは十数年経っても変わらない2人の光景だった。


 あれから数日過ぎた。例のリミットまで、あと3日。
「っ……すごい」
「うん。1枚の絵みたい。素敵」
 久しぶりに訪れた昼休みの屋上。
 華とともに自然に引き出された短い感想に、奈津美はとても嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。これもそれも全部、みんなのお陰だよ。私の個人的な夢のために、たくさん力になってくれたから」
 そんなことはない、と芽吹は笑い、手元の写真を見た。
 まだ記憶に新しい工場の廃墟と、青く澄んだ空、そして自分が纏った白いワンピース。
 ひとつひとつは何も繋がりのない存在のはずなのに、この写真の枠に閉じ込められたそれらは、まるで当然のように手を取り合い、1つの世界を作り上げていた。
 ああ、すごいな、と心から思う。
 構図や経験なんて理屈だけじゃない。溢れるほどに感じる写真への思いが、安易な感想さえ塞いでしまう。
「息吹さんにも、後でちゃんと伝えるよ。心から感謝してるってね」
 唐突に呼ばれた兄の名に、芽吹ははっと我に返った。
「そんな、いいよ。そんな大げさにしなくても」
「ううん、絶対伝えるよ。私には、きっとそのくらいしかできないからね」
 見上げるとそこには、予想外に真剣な奈津美の眼差しがそこにはあった。
 思わず目を見張る芽吹に、奈津美が小さく息を吐く。
「息吹さんも、早くカメラに復帰できるといいよね」
「……え?」
「あの人も、本当は撮りたいんだよね。撮りたくて撮りたくて、堪らないんだ。私なんかよりもずっと」
 淡い晩夏の風が、辺りに立ちこめる。
 いつになく穏やかな奈津美の言葉が、じんわりと胸に染みるのがわかった。
「この写真を撮ってるときもね、ずっと隣にいてくれたけれど、ずっとずっと感じてた。本当は、自分が今の芽吹を撮りたい。自分の手でこの瞬間を切り取りたい。シャッターを切りたい……ってね」
「奈津美……」
「難しい事情があるんだろうなって思う。でも、いつかまた、復帰できたらいいよね」
 だってあんなに、カメラが好きなんだから。
 そう言う奈津美に、華も静かに頷いた。その純粋すぎる思いが滴って、こびりついていた子どもみたいな意地を優しくふやかしていく。
 そうだ。私も、本当は知っていた。
 だって毎日、息吹の撮った写真を見て育ってきたから。
 リビングでいつも私たち家族を見つめてくれていた。フレーム越しに、何も言わなくても、言葉がなくても。
「うん。私も、そう思ってる」
 ようやく吐き出した本音に、情けなく笑顔が歪む。
 知っていたはずの本音を耳にしてようやく、見えなくなっていた自分の芯がすっと伸びた気がした。
(5)
 ミーティングの日で部活のないその日、芽吹は息吹よりも先に帰宅した。
 何度か小さく息を吐き、大きく弾む胸の鼓動を落ち着ける。郵便受けを確認するも、期待していたものはなく、今度ははっきりと溜め息を零した。
 家に入り、自室に上がっていきながら制服のボタンに手をかける。
 谷がこの家に送ったという、着払いの荷物。
 もしも今日不在通知が入っていたら、息吹が見ていないうちに、中身をちらりと確認することができるかもしれない、なんて。
「確認して、一体どうするつもりなんだろうね、私は」
 それでも、何か動かずにはいられない。
 少しでも、息吹の欠けらを拾い集めたい衝動に駆られて、止まらないのだ。
 鏡に映る自分の姿を見つめる。湧き上がる不安定な感情を対話するように、にこっと笑みを浮かべる。すぐ背中から、誰かの「何かあったの」と問いかける声が聞こえてきそうな出来だった。だめだこりゃ、と自嘲する。
 その時だった。家のチャイムが耳に届く。
 気づいたときには階段を駆け下りていた。ドアを開ける直前に制服が半端な状態だったことに気づき、慌ててボタンをつけ直す。
 着払いの荷物に慌てて財布を取りに戻る。ようやく扉が閉じ、まるで短距離走を終えたように詰まった息を吐き出した。
「すご、重い」
 届いた巨大なリュックは、谷が持っていたものとよく似ていた。
 ひとまず玄関からリビングに移動させる。大きくて、歪な形をして、砂の匂いがした。
 躊躇いをほとんど抱かずに、リュックを開いていく。
 洗ったのかよくわからない煤けた服、服、服。洗濯しなければとまとめて抱き上げたのと同時に、中心部に眠る固い感触に気づいた。
 1枚1枚剥ぎ取っていき姿を見せたそれに、熱いものがこみ上げてくる。
「……携帯もパソコンも、鉄くずにするくせにね」
 服の山は緩衝材だったんだと、芽吹は淡く微笑んだ。


 息吹を呼び出したのは、グラウンド裏の吹きさらしの空き地だった。
 部活もなく授業もとうに終えた校舎周辺は、見事に人の気配は消え失せている。
 職場から帰った矢先に職場近くに呼び出しを受けたにもかかわらず、息吹は律儀に姿を見せた。リビングに置いておいた手紙を手にして。
「息吹」
 こちらに気づいているはずの兄を呼び寄せる。
 時折吹き付ける風に、体が煽られそうになるのを芽吹は根性で耐えていた。
「どうしたの、それ」
 純白のドレスが、夜の草原にふわりとたなびく。
 月明かりを反射して、舞台のスポットを浴びるように眩しく浮かび上がる様に、息吹はただ瞳を奪われた。
「すごいよね。コルセットを着けたのもこんなヒールを履いたのも、これが初めてだよ」
「そうじゃなくて。そのドレス、どうしたの。それもこんな場所で」
「浩さんに頼み込んだの。息吹を大切に思う者同士のよしみとして」
 再度疑問を挟まれる前に、芽吹は息吹の胸にあるものを押しつけた。
 その感触だけで気づいたらしい息吹が、小さく息を飲んだのがわかった。
 なかなか手に取ろうとしない兄に痺れを切らし、芽吹が無理矢理その手に抱かせる。
「落とすなんて、しないよね? たくさんの思い出が詰まった、大切なカメラなんだから」
「……どうして」
「浩さんが送った荷物、勝手に開けたの。ごめんなさい」
 たくさんの服に守られるようにして、そのカメラは入っていた。
 かろうじてそれを両手に乗せたままの息吹は、ぴくりとも動かない。
「私のことを、撮って。芽吹」
 その顔を覗き込むようにして、芽吹は静かに告げた。
 見開かれた瞳の奥に、弱々しくも凶暴な絶望が渦巻いているのが見える。
「浩に、聞いたんだね。全部」
「うん」
「だったらわかるでしょ。芽吹のことを、撮れるはずがない」
「私は死なないよ」
 随分と無責任な宣言だと、自分でもわかっていた。それでも、もう決めたから。
 息吹の手を離さず掴んで、温めて、引き上げたい。
「私は、絶対に死んだりしない。私が生きて、それを証明する」
「なにを言ってるの」
「私が守ってあげる、そう、言ったでしょう!?」
 もし息吹に何かあったら、私が守ってあげる──あの言葉は、気休めで口にしたわけではない。
「だから、私で試してみせてよ。息吹の写真を待っている人が、この世界にたくさんいるんだってこと。それを、私に証明させて」
「……芽吹」
「……ね。いいでしょう、息吹……」
 泣かないと決めていたはずなのに。
 ぽろぽろと零れていく涙が、頬を掠めてドレスにそっと染みていく。
「……はは。まるで、私を抱いてって、言われてるみたい」
 涙を親指で掬った息吹は、苦しそうに笑った。目尻に、微かな光を滲ませて。
「……いいの?」
「うん」
「でも」
「待ってるから。息吹が帰ってくるのを」
 2人の涙を乾かすような夜風が通り過ぎ、山の向こうへと消えていく。
 どんなに離れても、待ってる。息吹のことも、息吹が撮った写真も。
 シャッター音が響く。
 別れを意味するその音色が、静かな草原に何度も奏でられた。
 純白のドレスの裾が、いつの間にか土と草露に色づけられるまで。
(1)
 息吹が退職届を出したのは、翌日のことだった。
 嵐のように現れ去るのが決まった購買のお兄さんに、どこからか噂を聞きつけた生徒が連日殺到した。
 残念がる声から激励する声、叱咤する声と様々だったが、どれにも息吹は「ありがとう」と笑っていた。
「また戻ってきてね。応援してる。そんなに待遇悪かったの。今日も色々声をかけられたよ」
 夕食を囲んで交わす今日の何気ない出来事に、芽吹は呆れたように肩をすくめた。
「嬉しそうで何よりだよ。それにしても、後任の人がこんなに早く決まるなんて驚きだったよね」
「うん。最近知ったんだけど、購買員の仕事ってかなり倍率高いんだって」
「……え。それなのに、どうして息吹が受かったの」
「ね。俺も不思議」
 もしかしたら、元担任の智子に付きまとっていたストーカーを撃退したことが考慮されたのかな、と芽吹はぼんやり思った。そんなわけないか。単純に運がよかったんだろう。
 和やかな夕食を済ませ、会話もそこそこに2階の自室に戻る。
 扉の向こうに入るほんの一瞬だけ、開かれたままの隣の部屋に視線を馳せた。
 荷物は、まだ詰められていない。元々数は少ないものの特別整理された気配は見られず、芽吹の心は密かに安堵した。
 そろそろ荷造りを進めなくちゃまずいんじゃないの──そんな言葉をかけようか迷って、迷って、結局かけられずにいる。
 自室のベッドに体を沈める。
「兄のことを、どうぞよろしくお願いします」
 きっかり1週間後に現れた谷に、息吹を遮って芽吹は言った。
 芽吹に続いて「よろしくお願いします」と頭を下げた息吹に、数秒後、谷は涙腺が決壊したみたいに号泣した。
 よかった。浩さんはいい人だ。息吹を大切に思ってくれている、いい相棒だ。
 仕事の引き継ぎやあれこれで、実際この街を離れるための時間をもらった。
 それもいよいよ大詰めになり、息吹がこの家を去るまであと1週間を切っている。
「ほんと、たった数か月だったのになあ」
 どうして、息吹がいない生活が想像できないでいるんだろう。天井に向かって溜め息を吐き、その重みを顔面で受けとめる。
 でも、後悔はしていない。兄を応援できない妹なんて、居ない方がましだ。何度となく頭の中で繰り返した言葉を、今一度自分に言い聞かせる。
 大丈夫。私の決断は、間違ってなんかいない。


「学校辞めるんだってね。あんたの兄さん」
 部活上がりの更衣室。いつもは事務的な会話しかない空間で、思いがけず飛んできたのはマネージャー仲間の百合の言葉だった。
 半端に持ち上げたままになったTシャツに気づき、よいしょと首から抜き取る。
「そうなの。うちの兄とは、その節は色々とあれこれあったよね」
「さて。何のことだか」
 視線を絡ませることなく、横顔のままで百合がうそぶく。
「で。あんたがどこか覇気がないのも、それが寂しいからだったりするわけ?」
 あ、この方にもバレてたのか。
 奈津美や華はもとより、安達からも噂が広まるより先に心配の声がかけられた。もう何度目だろう。最近の芽吹は周囲からの心配を集めすぎている。
「はは、心配させちゃってたか。ごめんね」
「謝らないでよ。気持ち悪い」
「相変わらず辛辣」
「別に興味ないけど。職場変えたところで、家に帰れば嫌でも顔合わせるじゃない。そんなしょげることなわけ?」
「……家、出るんだ。ずっと離れて暮らしてたんだけど、また、遠くに行くの。地球の反対側くらい遠いところ」
 本当は、反対側は言い過ぎなにかもしれない。それでも、芽吹には違いはさしてないほど遠くに感じられた。
 思わず滑り出た言葉に、いつの間にか百合の視線がこちらを向いていた。
 あれ私、泣いてないよね、無意識に目元をさらう。人前で泣くのが癖になってはいけない。
「寂しいんだ?」
「うん」
「そんな風に弱みをみせるようになったのも、あのシスコン兄の影響なんだろうね」
 唇に薄付きの桃色リップを引き終えた百合は、すでにいつもの美少女高校生のなりを完成させていた。
「寂しいなら、寂しいって言えばいいんじゃないの。どうせそんな遠くに行っちゃうなら、恥ずかしがる必要もないでしょ」
「え」
「高校生なんてまだ子どもじゃない。精々その若さを利用して、大人を困らせてやればいいのよ」
 唇の淡い色合いとは真逆のふてぶてしさで、百合が吐き捨てる。
 しかし言葉尻に感じたわずかな気恥ずかしさに、芽吹はふっと口元を綻ばせた。
「ありがとう。励ましてくれて」
「……感謝とかしないでよ。気持ち悪い」
 至極嫌そうな表情を浮かべ、百合は女子更衣室の扉に手をかける。
 長い髪をなびかせ去っていく百合の後ろ姿は、いつも通り美しかった。


「そっか。親御さんたちも、ちゃんとお前の1人暮らしを許してくれたのか」
 星が瞬く帰り道、安達の隣で芽吹は「はい」と頷いた。
「もともと1人暮らしをする予定でしたから。それに、特にお母さんは、息吹がカメラマンに復帰したことの方が嬉しかったみたいです」
 20年以上前──母が初めて息吹に会ったときから、その小さな手には余る大きさのカメラがあったらしい。
 息吹がようやく日本に戻るとの報と同時に聞かされた、カメラマンを辞めるという報は、母の心を大いに揺さぶった。
 そっか。また仕事に戻るんだ、よかった、よかった──と。電話の向こうで何度も繰り返す母に、息吹は居心地悪そうに苦笑していた。
 この歳になって母親を泣かせることになるなんて、息吹も思ってなかったのだろう。
「必要以上に私のことを心配してるのは、両親より息吹の方。警護システムをいれるべきとか真顔で言ってくるから、宥めるのが大変で」
「でも、年頃の女が1人なんて、どう考えても安全とは言えねーだろ」
「はは。今の先輩の台詞、昨日の息吹の台詞とおんなじですよ」
 クスクス笑みを漏らす芽吹に、安達は不本意そうに息を吐いた。
 ここ最近はいつの間にか、安達と下校するのが習慣化していた。
 安達の家は、高校と芽吹の自宅のちょうど中間地点の別れ道で逆方向に曲がる。部活で疲労困憊なエース様を、わざわざ自宅まで付き合わせるわけにはいかない。
 それでも時々、芽吹の表情をつぶさに観察して、半ば強引に家の前まで送っていく。
 家と真逆方向のドラッグストアに用があるなんて、どう考えても付け焼き刃の言い訳だ。そうわかっていながら、芽吹もついその優しさに甘えてしまう。それほどに、安達の観察眼が絶妙だった。この辺りは、さすがエースと言ったところだろうか。
 そして今日は、ごく自然に分かれ道で芽吹は安達と別れる。百合の励ましが功を奏しているようだった。
「ありがとうございます。それじゃあここで」
「ああ。くれぐれも気をつけてな。マジでな」
「はい。防犯ベルも持たされてますから」
「ん。それじゃあ、また明日」
「はい」
 また明日。こんなやりとりすら、実は当たり前ではないんだと、最近はつくづく思う。
「……息吹」
 名前を呼ぶことも、数日後には殆どなくなる。
 私も──息吹も。
(2)
「部屋、随分と広くなったね」
「ね。そんなに荷物持ち込んだつもりはなかったけど、片してみると違うね」
 今日からこの部屋は、元両親の寝室、兼、元兄の寝室になる。
 綺麗に片付けられた部屋は、窓の日差しをいっぱいに含んで何だかすごく真っ白だった。
 部屋の元主を見送る部屋が寂しそうのか、眺めている元主が寂しそうのか。もしかしたらどちらも正しいのかもしれない。
 朝食べた食事が、2人で取る最後の食事だった。
 朝食からご馳走を用意するのも滑稽な気がして、結局品数を1品増やすだけにとどめた。息吹の好物になったイカの味噌和えにした。
 階段をゆっくりと下っていく。一歩一歩を感慨深げに踏みしめる息吹が可笑しくて、後ろで密かに笑みを浮かべた。
「手荷物、やけに小さいけど大丈夫?」
「必要最低限以外は全部、もう現地に送ったからね」
「そっか。鞄に入ってるのはパスポートと財布と……カメラくらい?」
「ん。ほとんど正解」
 ふっと口元を綻ばせた息吹が、芽吹の頭に手を乗せる。
 この手の感触が好きだった。急にそんなことに気付き、心が揺らぐ。
 その隙を突くようなタイミングで家のチャイムが鳴った。タクシーだ。時計を見上げれば、もう出発の時間になっていた。時間ってこんなに早かったっけ。
「それじゃあ、行くね」
「……ん」
 慣れた素振りで玄関を出る息吹に、芽吹も笑顔でついて行く。笑顔で、笑顔で。
 一瞬あとに泣き崩れたとしても、笑顔で。
「これからは今まで以上に、戸締まりは厳重にね」
「うん、わかってる」
「油断してたら、裸の男がソファーで寝転がってるかもしれないからね」
「それ、あんたのことでしょ」
「バレたか」
 息吹も笑顔だった。きっとそれは、自分と同じ種類の笑顔だ。
 胸が、じりじりする。
 タクシーに小さく合図した息吹に、運転手が扉を開けた。
「元気でね」
 瞬間、タクシーの扉を掴んだのは、芽吹の手だった。
 掴みかかった衝撃でタクシーが揺れたのか、運転手も驚きも目線を向けてくる。
「め、ぶき?」
「……やっぱり、私も空港まで行く」
「え、でも」
「いいから。待ってて! 待っててよ!?」
 すぐさま自宅へきびすを返す。
 何かの間違いでタクシーが出発してしまうかもしれない。自室に駆け込み鍵と財布とスマホを乱雑に掴んだ拍子に、辺りの荷物がバサバサと落ちた。片付けは後でだ。今は──今は。
 自宅前で見送ると決めたのは自分だった。それなのに、何なんだこの様は。
 自らの幼さを改めて認識させられ、芽吹は喉の奥でぎゅっとこみ上げるものを押し込んだ。


 タクシーの中で、2人が言葉を交わすことはなかった。
 運転手も特に話を振ってくることはなく、流れるラジオの音だけがかろうじて車内の沈黙を緩和した。
 住む街から市を2,3またいでいく。空港に近づくにつれ建物がみるみる減っていった。
 タクシーの窓からでも、広がる空の青さが見て取れた。せめて今日が、澄み切った快晴でよかった。悪天決行になんてなった日には、再度この手を離すことができるのか自信がない。
 きっと、この空の青を忘れることはないと思う。


 空港に降り立った後も、声をかける機会を逸したままだった。
 芽吹は少しだけ先を歩く息吹のあとを、ただ黙ってついていく。
 休日と言うこともあってか、空港内は想像以上に人で溢れていた。しかし息吹はやはり慣れているのか、意に介する風でもなく涼しい顔で進んでいく。その背中が酷く遠く感じ、まだ離れていないのに胸が潰れる感覚が襲った。
 また、会えなくなる。
「今度会えるのは、また15年後なのかな」
 保安検査場の前にたどり着いたとき、ほとんど無意識に零した言葉にようやく息吹の視線が向けられた。
「息吹が家を出たのが、私が生まれてすぐなんだよね。それからずっと会ってなかったから、そのくらいかなって」
「……その前にも、会ったよ。初めて外国の仕事を受けたときに、1回だけね」
「えっ」
 初耳だった。
 驚きに目を丸くする芽吹に、息吹はリュックから年季の入った財布を取り出す。
 中から引っ張り出したのは、1枚の紙切れだった。お金ではない。
「これ……」
「芽吹はまだ5,6歳くらいかな。4人でご飯を一緒にして、近くの公園を少し歩いた」
 人が行き交う空港の雑踏の中、芽吹の目には緑生い茂る丘が見えた。
 そんな中聞こえてきた、記憶の中のカメラのシャッター音。
 振り返った先の人物は既にカメラを構えをやめていたが、後にカメラ画面に映し出された画を目にして、小さく呟いたのだ──あの時も。
「それ……私たち?」
 差し出された写真は、一面が緑色の芝生。
 それでも、角から伸びる人影は、確かに2人の大人と1人の子どもを象っていた。
「そう。人を撮れなくなっていた馬鹿が、ない頭を振り絞って思いついた、家族写真」
「っ……」
「お守りにしてたから。あれからずっと、ずっと」
 直接撮れないからって、撮れないと思い込んでいたからって、もっと普通に撮ってくれればいいのに。
 感極まって吐き出しそうになる震えた息を、すんでの所で喉の奥に押し込む。
 震える息を吐き出したのは、息吹の方だった。
「離れたくないな」
「え……」
「芽吹と、離れたくない」
 見たことない、そんな顔。
 今度こそ芽吹はくしゃりと顔を歪ませた。
「私も、私だって、離れたくない」
「うん」
「勝手に帰ってきて、人の生活滅茶苦茶に荒らして。まんまと大切な兄妹になっておいて、それなのに、今更こんなのっ」
「うん」
「……ごめん。ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃ」
「芽吹、おいで」
 涙でぐしゃぐしゃになったまま、広げられた息吹の胸に飛び込んだ。
 流れる涙が、酷く熱い。でもこの熱さで兄が行く道を変えたいわけじゃない。それは互いにわかっていた。
 嬉しい。寂しい。行かないで。行ってきて。それらは全て芽吹の本音だった。
 手のひらで無理矢理目元を拭い、微かに赤く色づいた息吹の目を真っ直ぐ見つめる。
「そろそろ、本当に時間だよね」
「心配しないで。帰ってくるよ。また」
「どうせ、10年以上後の話でしょ」
「どうかな。前と違って、俺も堪え性がなくなってるから」
 どうだか。小さく笑った芽吹に、息吹は優しく髪を撫でる。
「芽吹が、生まれたときさ」
「え?」
「涙が出た。父と母を亡くして、泣きたくても泣けなくなって、枯れるって本当にあるんだとか思ってたのにさ。ほんと、馬鹿みたいに」
「っ……いぶ」
「悲しい涙じゃないよ」
 ありがとう。
 耳元で告げた息吹が、保安検査場に向かった。
 手荷物を慣れた手つきで検査機に流し、振り返ることなくゲートの向こうに真っ直ぐ進んでいく。私の方が。私の方こそ。
「私も! ありがとう!」
 周囲の視線も全てを放って、芽吹は目一杯の声を張る。息吹は背を向けたまま、手を高く上げてそれに応えた。
 その背に透けた兄の涙に、芽吹はまた泣いた。
(3)
 息吹が外国に発ってから、1週間が過ぎた。
 しばらくは感情の赴くままに涙を流したが、今ではそれも堪えられる程度に収まった。多忙の合間を縫った両親からの電話にも、素直に笑顔を浮かべることができている。
 息吹からの電話は、1本もない。
 目の前で食い入るようにこちらを観察する2人の友人に、芽吹は苦笑を浮かべながらも説明した。
「確かに、顔色はさほど変わってないね。ちゃんと食べれてるってことでOK?」
「もちろん。三食きちんと食べて、早寝早起きで完璧ですよ」
 実は自分が落ち込みすぎて食事を疎かにすることを考慮して、事前にある程度冷蔵庫に作り置きしていた。しかしその必要もなかったようだ。
「大丈夫」という言葉は、自分に言い聞かせるのに散々脳内再生させていい加減飽きた。
「大丈夫」には早いけど少しずつ慣れてきた、が1番正しい表現だと思う。
「本当に辛くなったら、パンクする前にまた頼らせてもらうね」
「本当に辛くなる前に、話してほしい」
「うん。わかった。ありがとうね」
 華の真っ直ぐな瞳に、笑顔で頷く。
 予鈴が鳴り、自分の席に着いた芽吹は教科書類を机に並べる。ふと目にする光景がモノクロの世界になることも、現れた担任に息吹の影を重ねるなんてことも、今のところ1度もない。
 ただ、開いた地図帳ですっと息吹がいるかもしれない地域をなぞったり、教科書のカット写真を撮影している息吹の姿を想像したりは、数え切れないほど繰り返している。
 窓から見えるのは雲一つない青空。あの日の空も、こんな空だったっけ?


「今日、満月ですね」
「あーなるほど。どうりで道が明るいと思った」
 その分星が儚げに瞬く夜空を仰ぎながら、2人の影が夜道に揺れる。
 日に日に秋が近づくのを実感する夜の冷え込みに、芽吹はそっと両手を擦る。そんな様子を見かねてか、立ち寄ったコンビニで安達はホットココアを手渡した。
「カイロ代わり。1人暮らしで風邪っぴきは厳しいだろ」
「確かに。ありがとうございます。えっと」
「いーから。財布出さなくていいって。このくらい奢って貸しを作ったなんて、さすがの俺も考えたりしねーよ」
「ふふ、さすがの俺ってなんですか」
「言葉の綾だ」
 再度感謝を告げた芽吹に、安達は満足げに頷いた。
 今や当たり前のように、部活終わりには安達とともに家路についている。
 それも最近は、有無を言わさず芽吹の家の前まで送り届ける安達、というのが常となっていた。
 息吹がいなくなったからだろうが、さすがに連日は申し訳ない。芽吹も何度か断りを入れてきたが、安達は頑として譲ろうとしなかった。
 曰く、「お前がいくら拒否しても、お前の背後を歩く影ができるだけだけど、それでもいい?」だそうだ。そちらの方がよっぽど怖い。
「あんま恐縮すんなってこと。俺が勝手に、送りたくて送ってるだけだからさ」
「それは有り難いんですけど、でも」
「……別に、送り狼になるつもりはねーよ。いいから黙って送られてなさいって」
 微笑を浮かべて嘆息する安達に、胸の奥がきゅっと締まるのを感じる。
 苦しいわけじゃない。胸がそわそわして、ふわふわして、じわりと温かくなる。
 息吹がいなくなってから、安達は息吹のことを話さなくなった。
 それだけじゃない。以前はまるで挨拶代わりみたいに口にしていた軟派な口説き文句も。
 それなのに、ここ最近より明瞭に感じ始めた甘い感覚。
 今更こんな風に想いを自覚するなんて、本当、どうしようもない。
「ありがとうございました」
 自宅前にたどり着き、芽吹は深々と頭を下げた。
「家に入ったら、すぐに鍵締めろよ?」
「ふふ、送り狼に襲われないように?」
「そうだよ畜生」
 肩をすくめながら返す。そんなこと、微塵も考えていない笑顔だった。
 ああ、格好いいな、と思った。
 初めて会ったときと同じように。
「安達先輩、好きです」
 あ、ようやく、意表を突けた。
 真顔に戻った安達を見とめ、芽吹は密かに喜びが芽生える。
「それじゃあ、おやすみなさ」
「待て待て待て。ちょっと待て」
 玄関に滑り込む直前に、手首を掴まれる。しばらく落ちてきた沈黙を破ったのは、少し上擦った安達の声だった。
「まじか、それ。俺が、その、好きって」
「……ごめんなさい。どうしても伝えたくなってしまいました。でも大丈夫です。今更だって、私、ちゃんとわかってるので」
「は?」
「すみません、今は、言い逃げさせてください」
 掴む手の力が弱まったのは、芽吹の目尻に浮かんだ涙を見たからだろうか。
 引き留めの言葉よりも先に振り払った手を見送り、芽吹は自宅に駆け込んだ。どきどきを通り越して、胸をどんどんと叩く鼓動が響く。
 誰かの言いつけ通り施錠を済ませると、おぼつかない足を引きずって玄関先に座り込んだ。長く溜めていた息を吐き出す。
 最近、安達に生じた変化を、芽吹は敏感に感じ取っていた。
 例えば、部活終わりに待ち合わせている玄関口で、芽吹の視線を確かめつつ誰かにメッセージを送っていること。
 例えば、芽吹が家に入った直後、誰かにメッセージもしくは電話をかけていること。
 ──別に、心配かけるようなことは何もしてないって。
 ──俺はただ、純粋にあいつが心配で送ってるだけ。
 ──俺の気持ちはもう、嫌ってほどあんたに伝えたはずだけど?
 扉に耳を当て辛うじて聞き取った会話は、気を許せる恋人の存在を物語っていた。
「……ほんと、どうしようもないなあ」
 以前安達に投げかけられた、息吹が好きなんじゃないかという問いかけ。あれは、半分当たりだったのだと思う。
 まだ幼い日に1度だけ再会したという、異国へ発つ直前の息吹の姿。その人に、芽吹は確かに憧れを抱いていたのだ。
 安達に出会った瞬間不思議な引力を感じたのは、記憶の片隅で眠っていたその兄の姿に重なるところがあったのだろう。
 でも、それだけのために部活に入り、心を開き、笑顔にいちいち惹かれるなんて、ただの憧れとは言い表せない。
「一緒の帰り道も、これが最後かな」
 むしろ、都合がよかったかもしれない。
 せっかく、安達に素敵な相手ができたんだ。
 今までの距離感のままでいたば、いつまで経っても想いに終止符を打てない。
 告白されてもなお、明確な返答から逃れ続けていた自分には、ふさわしい罰だ。甘んじて受けるべきだ。
 今すでに、胸が鋭い針で刺されるように痛くても。
 そこまで思考を這わせ、のろのろとリビングに足を向ける。
 扉を抜けると同時に、冷たい違和感が体を襲った。
 咄嗟に目の前のソファーを覗き込む。もちろん誰の姿もない。リビングを視線だけで見回す。荒らされているわけでもない。今朝家を出たままだ。
 それじゃあ、いったい。
「こんばんは」
「──ぁ」
 声を上げる間もなく、耳を掠めた男の声。
 咄嗟にリビングを出ようとするも、掴まれたらしい服の裾を思い切り引っ張られる。床に投げつけられ、背中を強く打つ。
 容赦のない暴力を前に、体中の血の気が引いた。
 誰? だめだ、怖い、逃げなくちゃ。
 暗闇で浮かび上がる男の影から距離を取ろうと、投げ出された側の窓を開けようとする。施錠を解こうとした瞬間、またも力ずくで引きずられ、体が横に倒された。掴んだカーテンが巻き込まれ、大きな音とともに床に落ちる。
 満月に浮かび上がったその顔に、引きつるように息を飲んだ。
(4)
「っ、ど、して」
 覚えがあった。智子のストーカーとして捕まった、あの時の。
「『どうして』? 兄妹揃って人様をコケにしといてその質問? お前馬鹿?」
 けたけたと嗤う。でもその目は笑っていなかった。
 背筋が悪寒でぞくりと粟立つ。
「運良く執行猶予がついたから智子ちゃんに会いに行ったら引っ越してて行方知れずだし、弁護士と親父にはこれ以上家の名に泥をつけるなとか締められるし、もうあの女はいいや、そういや俺をサツに付きだした兄妹が居たな、俺をここまでイライラさせてすみませんって言ってもらってねえなって思ってこの辺徘徊してたら、つい最近あの邪魔な兄貴が居なくなったとか、いやーやっぱ俺、めちゃくちゃ運良いよなあ?」
「……っっ」
 こいつ、頭可笑しい。
 目の前の瞳が、淀みで渦巻いていた。話しても通じない。それだけは辛うじて分かった。
「なあ、俺をなめ腐って申し訳ありませんでしたって言えよ」
「っ……、ぁ」
「んだよ。怖くて怖くて、声も出ねえってか」
 図星だった。少しでも声を出そうとすると、震える歯がガチガチ音を立てる。のし掛かれた体は、末端からみるみる冷たくなっていく。
「それならまあ、仕方ねえよ。俺だって声も出せないでいる女の子に無理強いするほど鬼じゃないし」
「よかったな、お前女で」そう零した男が、芽吹の胸ぐらを乱雑に持ち上げた。
「謝罪の代わりだ、まだ俺の好みには物足りねえがその体でチャラにしてやるよ、よかったなあ、お前も大概運が良いじゃん」
「……!?」
 どこが。最悪だ。恐怖の隙間にやっと灯った怒りに、ようやく眉をつり上げる。
 しかし次の瞬間、持ち上げられていた胸ぐらを左右に暴き、シャツのボタンがはじけ飛んだ。
「っ、や、めて……!」
「大人しくしてろよ。俺を満足させることができれば、無事に解放されるかもしれねえから、まあ頑張れ」
 胸元をまさぐろうと差し出された手を、すんでの所で払い落とす。
 一瞬大きく男は顔を歪ませたが、完全にマウントを取っている今の体勢に気を取り直したように笑った。
「なるほど。妹ちゃんは無理矢理派か。了解了解、それならそうと先に言ってよー」
 馬鹿はあんただろ、と言いたくなる衝動を必死で耐えた。
 どうしたらいい。どうしたらどうしたらどうしたら。
 犯される。殺される。逃げられない。絶望的な言葉しか浮かばなくてさらに絶望を煽る。
 ──私は、絶対に死んだりしない。私が生きて、それを証明する。
「……!」
 頭に響いた声。あの言葉は、一体誰のだった?
 ──だから、私で試してみせてよ。息吹の写真を待っている人が、この世界にたくさんいるんだってこと。それを、私に証明させて。
「なんだ。素直に俺に体を委ねる気になったのか?」
「……」
 体中にみなぎっていた抵抗の力が、ぷつりと消える。
 どこか試すように張ってくると男の手。気持ち悪い。でも、我慢だ。もう少しだけ。だから。
 だって、あんな啖呵を切ったのが自分だ。早速約束を破るわけにはいかない。
 息吹を──これ以上絶望させてたまるか。
「……、っりゃ!!」
「ぐふっ!?」
 諦めたように抵抗を消したこのに、男には余裕に似た油断を見せる。
 芽吹の体を押さえつける縛りがわずかに緩んだ隙を、芽吹は見逃さなかった。
「よけてっ!」
「て、てめえっ」
 男の急所めがけて思い切り蹴り上げた後、悶絶する男を突き飛ばし体を起こす。
 外に出なきゃ。すぐさま脱兎使用とした芽吹の足は、まだ恐怖が残っているのかうまく動いてくれなかった。
 もつれた足に引っかかり、転びそうになるのを必死で耐える。
「このガキがあ!!」
「っ、きゃ」
 まるで地鳴りのような大きな音が響く。躊躇なく体を床に打ち付けられ、芽吹はせり上がってきた吐き気に2,3噎せ込んだ。
 もう少しだったのに。眉をしかめ見上げれば、冷たい視線でこちらを見下ろす男と目が合った。
「こっちが下手に出てりゃあ付け上がりやがって。さっきのは演技か、クソが」
「助かるためよ。あんたの手にかかってたまるか」
 反抗心むき出しにさらされた本音は、それでも恐怖で語尾が震える。
「あんたに屈服する気なんてない。気持ち悪いから触らないで。よけて、よけてよ」
 下卑た笑みで再び体をなで回す男に、目尻から熱いものがこぼれ落ちる。
 お願い、誰か、誰か──。
「い、ぶき」
 ねえ、助けに来て。
「息吹、息吹、……いぶきぃ!!」
「お前の兄貴は遙か彼方だろ? いい加減諦め」
 その時だった。
 ピンポーン。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
 玄関のチャイムが明らかに意図的に鳴らされ続け、重なるように誰かの叫ぶ声が微かに届く。男の顔が、わかりやすく怯んだ。
 再度大声を上げて助けを請おうとしたが、その声は男の手のひらによって封じられた。口どころか鼻まで塞いでる。苦しい。息が。
「騒ぐな。放っときゃ帰るだろ。やり過ごす」
「……っっ」
 足をばたつかそうとしても、手で床を力一杯叩こうとしても、悉くそれを男が封じてくる。
 誰? 誰かは分からないけれど、お願い行かないで。きっとこの機会を逃したら、もう。
 思考が黒く塗りつぶされかけた時、聞き覚えのある音が耳に届いた。
 開錠の、音?
「てめえ!!」
 目の前の男の影が、一瞬でなぎ払われる。
 ようやく入ってきた新鮮な空気にゲホゲホと噎せ込むと、背中を大きな手のひらが支えられた。
「大丈夫か芽吹っ、怪我は……!」
「う、だ、だいじょ……」
 返答より先に、安達はさっと芽吹から顔を背ける。暗がりの中でも、芽吹の胸元が乱れていることに気付いたからだろう。
 そして向けられた先の男に、安達は今まで見たことのないほどの凶暴な顔を浮かばせた。
「お前……前にストーカーで捕まった奴だよな?」
「ち、違う。俺は、違う」
「分かりやすく狼狽えてんじゃねえかよ。この糞ゲス野郎が」
「俺は悪くない! この女が俺を誘惑してきたんだ、智子さんの代わりになっても良いって言ってきたんだ、だから家に着いてきただけだ、俺は何も」
 んなこと言うわけねえだろ。
 そう反論したい芽吹に代わって、安達がはっと嘲笑の息を吐いた。
「馬鹿につける薬はないって、マジであるんだな」
「う、あ」
 夜の静けさの向こうから、パトカーの音が聞こえる。
「脱獄する度胸があるとも思えねえし…執行猶予中か? 今度はそうそう簡単に出てこれねえだろ。また顔を見せたらその時は」
 ダン!! ──部屋の中で突如響いたのは、安達が床を踏みつけた音だった。
 みし、と残り音とともに安達の足が浮かぶ。
 次に照準を定めたのは、男の急所だった。
「その要らねえモンをぐちゃぐちゃに処分して、俺とあの人でお前自身再起不能にする。言っとくけどこれも、あの人が残してった予言だから」
 予言。聞き覚えのあるその単語に、安達の言う「あの人」の姿が頭に浮かぶ。
 男が力なく床に腕を投げ出す。その目にはもはや何も映っていないように思えた。
 赤く回るライトが、放たれた窓の脇から眩しく瞬いていた。
(5)
 ありがとうございました。先輩が助けてくれなかったら……なんて、考えたくもありません。
 礼なんていい。中から変な音が聞こえたから気になっただけだし、俺が勝手に、助けたくて助けただけだからさ。
 そんなことないです。先輩、本当に格好良かったです。正義のヒーローみたいでした。
 正義、って言うか。だって俺はお前のことが。
 ところで、正義のヒーローに質問を1つ、いいですか。
「玄関のドア、どうやって開けたんですか」
「……」
「蹴破ったとか、ないですよね。鍵がガチャって開く音、確かに聞こえました」
「…………」
「それで、私は確かに家に入ったときに施錠しました。息吹に口が酸っぱくなるくらい言われたんです。施錠忘れだけは絶対にありません」
「っ、すみませんでした!!」
 文字通り、額を床に打ち付けた安達が、懐からあるものを差し出した。
 小さい頃から鍵っ子をしてきた芽吹は、すぐにそれがなんなのか察した。
 これ、うちの鍵だ。
「本当に、今まで黙ってて悪い。万が一のためってお前の家の鍵、渡されてたんだ」
「渡されたって、いったい誰に」
「わざわざこんな根回しまでする奴っていったら、1人しかいねーだろ?」
 ……息吹が?
 息を飲むと同時に、震えだしそうになる体をぎゅっと拳で抑える。
「外国に発つ直前に、急に呼び出されたんだよ」


 これは、テストだよ。
 そう言って差し出された1本の鍵を見て、安達はしばらく返答を忘れた。
「俺が側にいられない間、あんたが芽吹を守れ。その働き如何では、芽吹と仲良くすることを許可してもいい」
「……全部が全部訳わからねーんすけど。この鍵はどこの」
「うちの鍵だよ。万一何かあったときのため。絶対に盗られたりするなよ」
「おい!」
 さすがに口を挟まずにはいられなかった。非常識もここまで来るとただの馬鹿だ。
「あいつはそのこと了承してんのか? んなわけねえよな? あんたは家を離れるんだろ? そんなもん、あんたの独断で渡していいのかよ!?」
 投げた説教に、思わず私情が漏れた。
 芽吹を1人にするあんたが、今更何を心配してるんだよと。
 その私情を察したのかどうなのか、息吹はにっと笑った。
「あんたがこれを悪用したら、俺があんたを殺す」
 本気の殺意だと、本能が告げる。
 背筋が冷えるのを感じながら、次の瞬間には弧を描いて放られた鍵が手のひらに落ちてきた。
「ついでに、俺がいない間に芽吹に危害を加える奴がいたら、とりあえず半死半生の刑。これ、俺のよく当たる予言ね」
「……当たるじゃなくて、当たりにさせるの間違いだろ。でもまあ」
 その予言については、乗った。
 そう言って、安達は息吹にそっと拳を差し出した。
 交わされた拳は想像の何倍も重く、しばらく手の痺れが取れなかった。


 安達に告げられた説明は理解できた。
 それでも理解したはずのそれを拒むように、注がれた言葉が頭の中に巻き散らかされ、文字の破片が外に弾き出される。
 しばらく返事もなく床に視線を落とす芽吹を、安達は鉛を飲み込むような心地で見守った。
 それでも、沈黙に耐えきれなくなったのはすぐだった。
「本当に、申し訳ない。知らないところで鍵のやりとりがされてるなんて、気持ち悪いよな。やってることは、あの男と大差ない、よな」
「……そんなふうには、思ってません」
「芽吹?」
「鍵のこと云々で、先輩を責めるつもりはありません。でも」
 ぐっと流れ出そうになる言葉を耐える。ゆっくり言葉を咀嚼して、芽吹は慎重に口を開いた。
「どうしてそこまで、してくれるんですか。息吹の申し出だって、断れば済む話じゃ」
「そりゃ、お前が好きだからに決まってんだろ」
「やめてください。だって先輩、もうお付き合いしている人がいるじゃないですか」
 思わず責めるような口調になってしまう。
 しかし言葉とは裏腹に、安達の服の裾を掴む芽吹の手は、離れることはなかった。
「いやだから、さっきも言おうとしたけど、それって何だよ。誰かに変な入れ知恵でもされたのか?」
「入れ知恵じゃありません。私が自分で考えて気付いただけです」
「それじゃ、お前の勘違いだ」
「私を家に送った後、いったい誰に電話をかけているんですかっ」
 叫ぶような声を上げた後、芽吹は体が燃えるほど熱くなった。
 一体自分は何を言っているんだろう。何をこんな、子どもみたいなことを。
 どんどんと胸を叩くような鼓動に、乱れそうになる呼吸が堪らなく恥ずかしい。恥ずかしい。ちょっと消えてしまいたい。
「……」
「……?」
「っ……、ちょ、待て。やばいだろそれ」
 ようやく上げかけた視線とともに、安達の真っ赤な顔が飛び込んでくる。
 一瞬苦しそうな表情を浮かべ、芽吹の体がぐいっと引き寄せられた。熱く逞しい腕が、隙間を埋めるように芽吹を抱きしめる。
「妬いてくれたんだ。マジか。さっきの告白も、本当に本当か。すげー……めっちゃくちゃ嬉しい」
「は、話を逸らさないでください。電話の相手のことは、まだっ」
「……わざわざこんな連絡義務を強制する奴っていったら、1人しかいねーだろ?」
 同様の言い回しにもかかわらず、今回の答えにたどり着くには時間を要した。
「鍵を押しつけられたついでに、あの兄貴から命令されたんだよ。お前を毎日無事に送り届けること。送り届けた後にその都度連絡を寄越すこと。ちなみに今日の電話は、騒ぎが起きる前に留守電で済ませた」
「っ……」
「そんなに気になって仕方ねえなら、自分で毎日でも電話連絡しろよって言ったこともあるけど」
 それは無理。声を聞いたら帰りたくなるからさ。
「……馬鹿兄貴」
「本当それな」
 頬に流れる涙を、安達が掬う。
 どちらからともなく笑い合った芽吹たちは、再び身を寄せ合い優しい抱擁を交わした。
(6)
「正直、大会が終わった後はもう、受けてもらえないんじゃないかって思ってたよ」
 カシャ、とシャッターが切られる音とともに耳に届いた言葉に、芽吹は閉じていた瞼を開けた。
 今ではすっかり見慣れたカメラを構える親友の姿は、とても凜々しく美しい。
「お陰さまで、カメラ恐怖症もすっかり消えてなくなったしね。次の大会に向けた頑張ってる親友の、力になりたいから」
「私も、奈津美の夢、応援してる」
「うん。ありがとう2人とも」
 奈津美が応募した作品は、2次選考で落選した。
 1次通過した作品につく選評に納得したように頷くと、奈津美は芽吹たちにふがいない結果で申し訳ないと詫びた。
 親友の悔しさをひた隠しにする顔を、芽吹は衝動的に腕の中に閉じ込めた。
「今度は是非、華にもモデルになって欲しいな-。ね、試しに2人そこに並んでみてよ」
「いいね。華、ちょっとこっちにおいで」
「いい。私はそういうの、向いてないから」
「何を言うか。『最近花が咲くように魅力を漂わせている』と噂の華さんが」
「誰が言ってるの、それ」
「んー、小笠原先生?」
 瞬間、華の肩が小さく反応した。
 その可愛らしい反応に、奈津美はにんまりと微笑み、芽吹は「こら」とその奈津美の頭を素早く叩いてやる。「……奈津美、嘘ばっかり。嫌い」
「これがあながち嘘でもないんだな-。昨日先生言ってたもんね。『折鶴、最近雰囲気変わったな。彼氏でもできたか』って。完全に探り入れてきてるよねえ、これ」
 確かに他人の、しかも生徒の私事を自ら話題に出すなんて、あの人物には考えられないことだ。
 慎重にその出来事を咀嚼したらしい華もまた、同じ感想に行き着いたらしい。
 その頬は、愛らしく桃色に染まっていた。
「……何て、答えたの」
「『直接本人に聞いてみてください。先生相手なら教えてくれるかもしれませんよ』って言っといた」
「……」
「ど? 合格?」
「……嫌いなんて大嘘。奈津美、大好き」
「私も大好きだよ華!」
 長身の奈津美が小柄な華を抱きしめると、華の姿がすっぽり覆い隠されてしまう。
 そんな微笑ましい光景に頬を緩め、芽吹は穏やかな色彩の空を仰ぎ見た。
 息吹は今頃、綺麗な星空の下だろうか。
 今、何をしてる? 何を見て、何を考えてる?
 何を──カメラで追い続けてる?
「そういえば、昨日はもう1つ、興味深い話を耳にしたよ」
 自身に矛先が向いたのを感じ、芽吹は小さな警戒心を胸に奈津美を見返す。
「ほほう。して奈津美さんや、その話とは?」
「安達先輩が、3年の先輩女子から告白されたらしい」
 からかわれるもんか、と体に妙に力を入れていた分変な表情になっていたらしい。
 結局ぴくんと小さく寄った眉間のしわに、やはり奈津美はにんまりと微笑み、華は「こら」とその奈津美の頭を素早く叩いてやった。
「当然のように、安達先輩はすぐさまその申し出を断った」
「……ふうん。モテる男は辛いねえ」
「んでその断りの言葉が、『来宮芽吹さんと真剣交際することになったので』」
「ちょっと待って。それ初耳!」
 すぐさまスマホを取り出し、最近追加された連絡先にメッセージを送りつける。
 そんな微笑ましい光景に頬を緩め、親友2人もまた穏やかな色彩の空を仰ぎ見た。


 安達への詰問を終えた芽吹は、冷やかす奈津美と微笑む華にそれぞれ別れを告げて家路についた。
 息吹が外国に発ってすぐに起きた事件もあり、家には警備システムが備えられた。お陰で芽吹は少しずつ、以前と同様の落ち着きを払って自宅の施錠を解くことができている。
 安達が手にしていたあの鍵は一度芽吹の手に戻っていたが、結局再び安達の元に返した。もともと息吹が持っていた鍵を、芽吹が取り上げるのは可笑しいと思ったからだ。
 安達があれを悪用するとは到底思えないし、それに、と芽吹は心の中で続ける。
 その鍵を取り上げてしまっては、息吹が帰ってくるときに使う鍵がなくなってしまう──なんて。
「ただいま」
 来宮家のリビングは、玄関を続く廊下に横付けされた扉をもってつながっている。
 中に入ると、まず向こう壁1面に美しい外国の風景写真をかき集めたフレームが視線を集める……はずだった。
「──……っ」
 自由に張り集められた風景写真の真ん中に、一際目を引く色鮮やかな写真があった。
 鮮やかな色彩の花々に囲まれるように咲いている、人々の笑顔。
 どこか見覚えのある、異国の子どもたちだった。
「……写真の配置、勝手に変えてるし」
「ごめんね。でも色合いとバランスを考えると、この並びがベストかなって」
 ちっとも悪びれていない声が、リビングに優しく響いた。
「確かに、今までのはお母さんが気ままに貼り付けただけだったからね」
「はは。これを見たら母さん、怒るかな」
「ううん。喜ぶと思う」
 リビングチェアに腰を下ろす1人の存在に、芽吹はもう驚かなかった。
 相変わらず無造作に揺れる髪と、掴み所のない緩い表情。
 胸をせり上がってくる熱いものが、喉の奥まで迫り、涙に似た息になって吐き出される。
「いつ、帰ってきたの」
「今日だよ。帰国の目処が付いてすぐ、飛行機に飛び乗った」
「また仕事を放ってきたんじゃないでしょうね」
「しないよ。浩になぶり殺されたくないし、カメラが好きだから」
 カメラが、好きだから。
 その言葉を自然に受け取った芽吹は、とうとう呼吸の仕方を見誤ってしゃくり上げる。
 少し驚いた顔を浮かべると、芽吹の目の前に上背のある人影が立った。硬い指先が、そっと目尻に浮かぶ涙を拭う。
 懐かしい、この感覚。
「俺が留守の間、怖い思いをしたって聞いた。誰に何されたの。俺が始末するから任せといて」
「そう言い出すと思ったから伝えないでって頼んだのに……先輩の馬鹿」
 家の鍵が返納されるときに交わされたのだろう会話が想像し、芽吹は苦笑を浮かべた。
「いいよ。大丈夫。帰ってきてくれたんだから」
 そっと背中に回した手に、次第に力が込められる。
 少し砂っぽい香りのする胸元に、再びぐずりそうになる鼻先を埋めた。
「おかえりなさい、息吹」
「ただいま、芽吹」

END

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