芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

(5)
 赤の外国車は、落ちかけた夕焼けが滲む近隣の高原で見つかった。
 帰りを気遣うタクシーを見送った後、芽吹は外国車の中を確認する。やっぱり自分たちが乗ってきたものだ。目的の人物は、中にいない。
「でも、どうしてこんなところに」
 零す言葉が辺りに溶けるより先に、「あ」と思い至る。
 見渡すとそこには、街中の風景とは打って変わって雄大な赤紫の空が一面に広がっていた。揺れる草原と細く続く道の先には、小規模ながら並ぶ山々が薄く浮かび上がる。
 芽吹の家で、似た風景を見てきた。何度も、何度も。
 家族を毎日静かに見守ってくれていた、あの大きなフレームの中で。
「山が見える景色、好きなんだ」
 そんなことだって、今まで知らなかった。歩を進めながら、決して見通しの悪くない高原で求める人影を探す。
「息吹……、息吹!」
 ここにいるのは間違いない。あとは自分が見つけるだけだ。
 それなのに、風がさらう高原の表面には誰の影も見つけられない。
「い、ぶき」
 本当は、自分と息吹に血の繋がりがないってこと、あの夜に初めて知ったの──そう、芽吹は言った。
 あの言葉をどう聞いて、感じて、自分から背を向けたのか。
「いぶき……っ」
 もし何かあったら、兄ちゃんが守ってあげるからさ。
 そう言ったでしょう。あの言葉があったから頑張れた。それなのに、あんたは。
「だったら……勝手に人の前からいなくならないでよ」
 視界がぼやける。眉を寄せながら、ごしごしと目元を拭った。瞼が腫れる。
 でも知るもんか、あんたのせいだ。
「勝手に、お兄ちゃんを辞めて、離れていかないでよお……っ!!」
「芽吹」
 高原を撫でるような風が吹く。
 元々無雑作感が否めないその髪には、辺りの草が紛れていた。そのうちの数本かが風に撒かれ、茜色に染まる草木に消えていく。
 凪のような表情。その静けさに、芽吹は一瞬口を噤んだ。
「っ……い、ぶき」
「ごめん。急にいなくなったから、やっぱ驚かせたよね」
 肯定と否定の言葉が、同時に胸に宿る。
 驚いたよ。こんなに息を切らすくらい。でも言いたかったのは、そんな言葉じゃない。
 兄としての優しさをはらんだ言葉に、芽吹はゆっくりと首を横に振った。
「……何も聞いてない振りは、しなくていいよ」
 思った以上に、弱々しい響きになってしまった。そんな言葉にも、息吹の目は小さく見開かれる。
「さっきの電話の話、聞いてたんだよね?」
「……うん。ごめん」
「謝ることじゃ、ないでしょ」
 いよいよ言葉尻が震える芽吹に、息吹は穏やかに息を吐いた。
「でも、ようやく合点がいった。最近の芽吹が、どこかずっと、苦しそうにしてた理由」
「っ……」
「俺のせいだったか。どうして気づかなかったのかなあ」
 話したいと思っていた。苦しみから逃れるためじゃない。苦しみを受け入れるために。
 それなのに、既に何もかも飲み込んだような息吹を前に、芽吹はくすぶる思いを持て余すしかできない。
「騙してて、ごめんね」
 いつもは、うるさいくらいに向けてくる視線なのに。
「騙して、た?」
「うん。だってそうでしょ」
 ねえ。私を、ちゃんと見て。
「俺は芽吹の兄でもなければ、家族でもないんだから」
 乾いた音が、高原の静けさを鋭く切り裂いた。
 いつの間にか荒くなっていた吐息に気づき、ぎゅっと口元を結ぶ。叩いた手が、怒りで震えていた。
 ぶたれたままでいる息吹の頬は、微かに赤みを帯びていく。
「ドア越しの話し声は聞こえてたのに……さっき私が叫んでた声は聞こえてなかったの」
「……」
「いつもは馬鹿みたいに察しがいいくせに、聞こえなかったふりなんてしないでよ……っ」
 震える指先をぎゅっと拳で覆う。
「今まで言ってくれた言葉も、全部全部、ただの出任せだったの」
 妹を守るのが、お兄ちゃんの仕事でしょ。
 だって俺、芽吹が世界で一番好きで、大切だから。
 あんたに芽吹は渡さない、俺の、可愛い妹だからね。
 馬鹿みたいに真っ直ぐで、シンプルで、迷いがない。恥ずかしくて仕方ない言葉の数々が、芽吹の背を確かに押してきた。
「私のこと、大切な妹って言ってくれたのも、全部全部、嘘だっ……」
 泣きじゃくるようなわめき声は、体を覆うほどの広い胸に押し留められた。
 背中に回る腕がまるで縋るようで、芽吹も同じように抱きしめる。
「……いじめないでよ」
「っ……ごめん。だけど、でも、だって……!」
「うん。ごめん酷いこと言って。ちょっと、自棄になってた」
 回された腕に、ぎゅっと力が籠もる。
 そっと見上げると、落陽に染まる息吹の綺麗な眼差しが注がれていた。
 今にも何かが滲みそうな、危うさをはらんだ瞳から。
「もう二度と……馬鹿なこと言わないでよね。馬鹿」
「うん。ごめん」
 再び、ぎゅっと隙間なく抱きしめられる。そのまま肩の上に息吹の顎が乗せられ、首筋に息吹の髪の毛が優しく掠めた。
「嬉しいな。まだ、こうして抱きしめさせてくれるんだね」
「……やっぱり、大馬鹿」
 散々好き勝手にスキンシップを取ってきた奴が、何を今更遠慮してるのか。
 遠い山に薄く日が閉じていくのを感じ、そっと視線を馳せる。「きれい」と零せば、息吹も小さく「うん」と頷いた。
「ねえ、芽吹」
(6)
 芽吹の頬を、少し硬い指先が撫でる。
「俺、芽吹の兄でいていいの」
 どこか緊張を秘めた触れ方が、こちらにも伝染してしまいそうだった。
「……私も、同じこと、何度も聞いてたよ」
「え?」微かに目を瞬かせた息吹の頬に、芽吹もそっと手を添える。
 息吹と血の繋がりがないと知ってから、何度も何度も、息吹の背中に投げかけていた。
 それでも、結局言葉にできないまま、有耶無耶な悪夢に昇華していたのだ。ああ、そうか。
 ずっとずっと、怖くてたまらなかったのは、この質問の答え。
 ねえ私──息吹の妹でいていいの?
「もう、あんな目で、私のことを見ないでね」
「……? あんな目、って」
「懐かしい思い出を見るような目。今日の撮影で白いワンピースを着た私を見て、息吹、そんな目をしてた」
 息吹の目が小さく見張られた。きっと無意識だったのだろう。
 今なら、あの目の意味がわかる。
 あれは、そのうち自分が、この場からいなくなることを受け入れた目だ。何の疑いもなく、ごく自然に。
「あんな満足そうな顔をするのは、本物のウエディングドレスを見てからにしてよ」
「えー……、それは逆に、見たいような見たくないような」
「無理にでも見せるよ。花嫁の、兄なんだから」
 嫌そうに眉を寄せる息吹に、芽吹は笑った。


 翌日の夕方、芽吹たちは無事に住み慣れた街へ戻っていた。
 高原での出来事の後、案の定夕食の時間を大幅に過ぎた帰還に、親友2人からはこっぴどく怒られた。
 鬼のような着信履歴を刻んだスマホは部屋に忘れ去られていた。散々心配をかけた代償に、兄妹揃って小言の山を受け入れた。
 それでも、ようやく悩みの渦が過ぎ去ったのを理解した友人は、最後は晴れやかに笑ってくれた。
「ほんと、いい友達を持ったねえ」
「そうだね。いつもいつも、いらない心配ばかりかけちゃってるけど」
「心配をかけるっていうのは、相手を信頼してるってことでしょ」
 それっぽい言葉を吐き出す兄に、呆れ顔を浮かべる。レンタカーショップを後にした芽吹たちは、穏やかな空気で家路を進んでいた。
 こんな何気ないやりとりも、今は酷く幸せに感じる。
 願わくば、これからもずっと──そう、思っていた。
「息吹?」
 角を曲がったところで、息吹の歩みが止まったのに気づいた。
 振り返った先の息吹は前を凝視したまま、表情を固めている。
「やっとご帰宅か。随分焦らすじゃねえの」
「え……」
 聞き慣れない声色だった。
 家の前にはとんでもなく大きな荷物を携えた人影が、気怠そうに立ち上がる。
 前髪が左右に分けられた長い金髪は、大きな垂れ目を包み隠すことなくさらけ出す。息吹と同世代だろうか。いや、年齢だけじゃない。
 肌で感じる、どこか浮世離れしている空気は、初めて対面したときの息吹とよく似ていた。
「久しぶりだな、息吹」
「……浩太郎(こうたろう)」
 次の瞬間、芽吹の耳元を鋭い衝撃音が飛んだ。
 反射的に瞑った目を慌てて開くと、息吹の口元が朱く血が滲んでいる。
「っ、何するの、やめて!」
「芽吹、大丈夫。落ち着いて」
「落ち着けるわけ……!」
 何故か宥める息吹を、ひとまず腕の向こうに庇う。
 息吹の頬を殴りつけた「浩太郎」と呼ばれた男は、表情を険しくする芽吹の姿を上下くまなく見定めた。
「へえ、君がかの有名な『芽吹ちゃん』か。大きくなったね」
「大きく、って?」
「浩(こう)。芽吹には、手出し無用だよ」
 唇の血を不快そうに拭った後、息吹がのそりと前に出る。
 見たことのない鋭い眼光が視界を掠め、芽吹の胸が不安に震えた。
「よく探し当てたね。ここの住所」
「カメラマン業界の情報網のヤバさは、お前だって知ってんだろ」
 カメラマン業界。それじゃあこの人は、息吹の仕事仲間か。
 展開が読めず、胸が大きくざわめく。
「こちとら誰かさんが残した仕事を捌くのに、危うく過労死しかけたんだぜ。労りの言葉は?」
「ご丁寧にどうも。用件は?」
「まず1つ目。お前が国に置いていった荷物は、着払いで数日中に届く。要らねえものでも所持品は自分で始末しろよ?」
「……」
「そして2つ目。例の家族が、お前にもう一度会いたいと言っている」
 息を小さく飲みこむ音がした。
「それだけだ。それと芽吹ちゃん、これを」
「っ、あ……」
 恭しく差し出されたものを、咄嗟に受け取ってしまう。
 フリーカメラマン 谷浩太郎─TANI KOTARO─
 名刺には、名前とともに連絡先電話番号とメールアドレスが載っていた。
「猶予は1週間。それまでに、国に戻るかカメラを捨てるかを決めろ。過労死しかけたついでに、周りに話はつけてある」
「浩太郎」
「久しぶりの日本だ。俺は適当にビジホでゆっくりするわ。それじゃあまたね。芽吹ちゃん」
 ひらひらと手を振り、その男は去って行った。男の背を見送った後も、息吹はしばらくその場に立ち尽くす。
 途方に暮れたその表情が、痛いくらいに芽吹の記憶に焼き付いた。
(1)
 荷ほどきもほどほどに、芽吹は息吹の首根っこを捕まえてリビングに招集した。
 話題はもちろん、帰宅と同時に待ち構えていた「谷浩太郎」という人物についてだ。
 顔立ちは日本人ながら長い金髪に、息吹と同じほどの上背。それにやや似つかわしくない幼さを漂わせる大きな瞳が、今でも強烈な印象を残している。
 正直、ここ最近の悩みが片付いたところに、新たな火種を抱えたくはなかった。
 それでも、このまま見ない振りをしていても、結局考え込むのは目に見えている。芽吹は腹をくくった。
「浩は、俺のカメラマン時代の相棒だよ」
 ずず、とココアを啜りながら、息吹は淡々と話した。
「20代前半で初めて海外に仕事に出て、先に現地入りしていたのが浩だった。歳も近かったし、一緒に行動することが増えて、気づいたら一緒くたに依頼を受けるようになった。最後の仕事の時も、現地で一緒に仕事をしてたんだ」
 この兄に相棒と言える存在がいたことに驚く。
 しかし、先ほど目にしたどこかマイペースな振る舞いを思うに、意外と似たもの同士で馬が合ったのかもしれないとも思った。
「そういえばあの人、さっき息吹の荷物がどうとか言ってたよね」
「うん。俺が荷物のほとんどを、現地にほっぽって日本に帰ってきたから」
「え、そうなの?」
「うん。仕事用の携帯もパソコンも、ハード粉砕して燃やして鉄くずにして、連絡手段も完全に絶って」
「え、そうなの!?」
「残った仕事も、その引き継ぎも、浩への説明も。全部全部ほっぽってきたからね」
「……咄嗟とはいえ、庇い立てするんじゃなかった」
 平然と社会人としてあるまじき行動を自供した兄に、芽吹は頭を抱える。
 1発の殴打じゃ温い。10発はお見舞いしてもいいほどの暴挙だ。
 でも、と芽吹は疑問を浮かべる。
 そんな、控えめに言っても最悪な「相棒」に、何故谷は会いに来たのだろう。
 数年来の付き合いとは言え、来日して、実家の住所まで調べ上げて、あんな言葉を残して。
「とはいえ、驚いたよねえ。浩ってば、髪が放置された小麦畑みたいだった」
「初めて会った息吹も、似たようなものだったよ」
「はは、そうだったかな」
 猶予は1週間、そう谷は言った。
 それはまるで、つい昨晩埋まったはずの心の隙間を、死刑宣告のように容易く引き剥がす。
 1週間後、息吹は彼の問いにどんな答えを返すのだろう。
「ねえ、息吹」
「うん?」
「今夜、何時に眠るの」
 意外な質問だったのか、息吹は首を傾げながら部屋の時計を見上げた。
「寝支度は整ってるし、この説明会が済んだら寝ようと思ってたよ。遠出だったし、明日は仕事もあるしね」
「私も、一緒に眠っていい?」
 少しの緊張をはらんだ問いかけに、無意識に膝をぎゅっと握る。
「よろこんで」と息吹は笑った。こちらの意図を汲み取ったかどうかは、測れない笑顔だった。


 翌日、部活を終えて制服に着替えた芽吹を、安達が待っていた。
 この時間になると夏でも辺りは薄暗く、空には星明かりが微かに浮かんでいる。
 校舎前の坂道を下りながら、今日の部活のことなどをとりとめなく話す。
 そしてふとした拍子に、安達が何かを噛みしめるように「よかった」と零した。
「先輩、よかったって……?」
「ん-、わかんね。しいて言えばこうやって、芽吹が隣を歩いてることかな?」
 照れ隠しなのか、大げさに頷く安達にくすりと笑みが上る。
 そんな反応に少し拗ねてみせた後、安達の視線がすっと芽吹の顔色をさらった。
「でも、さすがに疲れは取れてねーか。土日で撮影してとんぼ返りだったんだもんな。当然か」
「ですね。でも、お陰さまですごくいい写真が撮れたみたいです」
 写真のデータは、まだ奈津美に見せてもらえていない。
 自分の目で選別して、納得いく写真を見て欲しいから。そう言って振り返る奈津美は、子どものように無邪気に笑っていた。
「今回のモデルのことも、断らなくて本当によかったです。今までのままじゃ知らない世界を、見ることができた気がしますから」
「そっか。お前、頑張ってたもんな」
 そう言うと、安達の手のひらがそっと芽吹の頭に触れた。
 はっと小さく息を飲んだ音がどちらのものだったのかは、互いにわからなかった。
「っ……あの、先輩」
「あー、あれだ。約束したもんな!」
「え?」
「ほら、あの。カメラ恐怖症を克服したら……ってやつ」
 それは、モデルを引き受けるか迷っていたときに、2年生の廊下で無茶苦茶を言った時の口約束だった。
 まさか、覚えていてくれたなんて。
「よくやったな。やっぱすげーよ、お前」
「……先輩」
「ん?」
「安達先輩」
 2度目の呼びかけに、安達の表情が微かに色を変えた。
 幸い芽吹たちが下ってきた側の歩道は人もまばらで、暗がりでは人目に付きにくい。ぐ、と芽吹は自分を奮い立たせた。
「まだ、誰にも言っていない話をしてもいいですか」
「……ああ」
「私と息吹は、血の繋がりがありません」
(2)
 安達の表情が、驚きのまま固まった。
 ゆっくりと言葉の意味を咀嚼している様子の安達に、芽吹もそっと一息吐いて言葉を紡いでいく。
「それを知ったのは、安達先輩に息吹への恋愛感情を聞かれた、あの日の夜でした。それからずっとずっと、隙あらばそのことを考えて……悩んで。安達先輩にも心配をかけてしまいましたよね」
「……や。それはいい。いいん、だけど……」
「血の繋がりが、ない。ということは、ん?」まだ混乱が収まらない安達の両手を、芽吹はそっと繋いだ。
 ようやく視線が絡み、心臓が緊張で震える。
「っ、め、ぶき?」
「先輩は、私に聞きましたよね。本当は、息吹に恋をしてるんじゃないかって」
「……聞いた、な」
「正直、先輩のその問いに、自分でもよくわからなくなりました」
 繋いだ手に、知らずの内に力が籠もる。
「けれど」と芽吹は安達の瞳を見据えた。
「息吹と血の繋がりがないと知って──私、すごくショックだったんです」
 吐露した思いに、目の前の瞳が微かに揺れた。
「私は息吹のことを大切に思っています。だけどそれは、唯一無二の、兄としてです」
「っ……」
「色々と悩ませて、不快な思いばかりさせてしまって……本当にすみません。でも、ようやく先輩の質問に答えられると思ったので、どうしても伝えたくて」
「え、と。それって、つまり……」
 その瞬間だった。
 耳をつんざくようなクラクションの音が、2人の取り巻く空気を一掃する。
 ほとんど同時に振り返った先に停まったのは、真っ赤な外国車だった。安達は眉を寄せ、芽吹は既視感を覚える。
「よさそうな雰囲気の中ごめんね。でも、こっちも時間が迫ってる身だからさ」
 似た車のチョイスは、この人が息吹の相棒たる所以なのだろうか。
「誰だよオッサン」
「……え、オッサン?」
「大丈夫です先輩。この人は一応、面識はありますから」
 昨夜、家の前で一度だけ。と心の中で付け足す。
 小さな声で「オッサン……」と繰り返している姿に、少しだけ毒気を抜かれそうになる。
 それでも何とか流されそうになる空気を振り払った後、促されるままに助手席に乗り込んだ。
 心配をありありと浮かべる安達に笑顔を見せ、また明日と手を振る。
 結局先輩には、また新たな心配をかけてしまった。でもごめんなさい。背に腹は代えられない。
 この人に時間が迫っているというのなら、私自身にも同じように、決断の時間が迫っているのだから。


「まさか、本当に車に乗ってくれるとは思わなかったな」
 運転席で明るく話す谷は、昨日よりも幾分か見てくれが小綺麗な印象を受けた。
 長い金髪は前髪も全て後ろにまとめられ、服装もさっぱりと整えられている。
 きっと昨日はこちらに到着してすぐに、来宮家の住所へ向かったのだろう。ホテルに真っ先に預けるはずの大きすぎる荷物が傍らにあったことを思い出す。
「もしも不審者として通報されないで済むのなら、少し遠回りをしたいんだけど、いいかな?」
「はい。私もそのつもりです」
「……聞きわけがよくて非常に助かるけれど、男への警戒心は持っておいて損はないよ?」
「谷さんにはその必要がないって、私が判断しているだけです」
 本音を言えば、ほぼ初対面の男性と密室空間に2人きりはどうしたって居心地が悪い。
 それでも、この期を逃してはいけないと思った。
 息吹の相棒だった人。自分の知らない息吹を知っている人。そしてきっと、息吹のカメラに対する葛藤を知っている人。
 この人と話をしたかった。そして納得しなければいけない。
 この人に、息吹を託してもいいのかどうかを。
「聡明な目。あいつとは、まるで真逆だ」
 赤信号で止まった間を突いて、谷は芽吹の顔を覗き込んだ。
 まるで一瞬の時を切り取りに来た眼差しに、心臓が大きく跳ねる。
「でも、頑固そうなところは似てるかな」
「あ。青信号だ」さらっと言われた単語を咀嚼する前に、再び車が動き出す。食えない人だ。でもどこか憎みきれない。
「昨日はごめんね。兄貴を急に殴りつけられて、驚かせちゃったよな」
「いえ、あの後事情を聞きましたから。仕事も何もかも放って帰国した相手に、1発じゃ足りなかっただろうと思ったくらいです」
「他には、何か聞いてる? あいつのこと」
 声のトーンが変わったのを感じ、微かに肌が粟立つ。
「あいつのこと、というのは」
「ごめん。質問がふんわりしすぎたな。直球で言うと、あいつとカメラのこと。君は、何か聞いてる?」
「……いいえ。詳しいことは何も。ただ、」
 一瞬言い淀んだ後、意を決して言葉を続ける。
「カメラはもう撮らないって。自分が写真を撮ったら……人が死ぬって」
「……ったく。あの馬鹿」
 谷が、苛立ちを隠さずに髪を掻く。
 運転が荒くなってきた。思わず注意しそうになった矢先、車は近所の中堅書店の駐車場に入った。長い息を吐いた後、谷が「あー、駄目だ駄目だ」と苦笑を見せる。
「怒りに任せた運転して万一事故でも起こしたら、あいつに半殺しにされかねないからな。ひとまず、ここで話そうか」
 小さく頷いた芽吹を見て、谷はしばらくぱらぱらと行き交う車と人を眺めていた。
「あいつはね、アマチュアからプロになるまで、人(モデル)は頑なに撮らないので有名だった。その方針でクライアントとぶつかったことも、数え切れないほどある」
「それは……どうして、ですか」
「あいつの両親は、2人とも亡くなってるだろ?」
(3)
 そこまでの事情を知っているのか。芽吹は黙って頷いた。
「ご両親の遺影とも、選ばれたのはあいつが撮った写真だった」
「遺影……?」
「亡くなる直前に撮ったものだったらしい。母親が3歳、父親が9歳の時。3歳なんてまだ認識はシャッターを切るおもちゃ程度だったろうけどな。偶然あいつが親の写真を撮った直後、予期しない形で亡くなった。父も母も、だ」
 ひゅ、と芽吹の喉が鳴る。
 人が死ぬから──そう呟いた息吹の横顔が脳裏に響く。
「写真を撮ると魂が抜かれるって、聞いたことあるかな」
「でもそんなの、ただの迷信ですよね?」
「ああ、その通りだよ。そうでなければ、モデルなんて職業も成り立たないからね」
 小さく笑う谷の横顔が酷く辛そうで、相づちもままならなかった。
「あいつだって、本当はわかってるんだよ。それでも、両親の死をただの偶然で片付けるには、年端もいかない子どもには無理な話だ」
 いつの間にか前のめりになっていた背中を、そっと背もたれに戻す。喉の奥から上ってくる震えに、きゅっと唇を締めた。
 嗚咽に変わるのを、必死に堪える。
 両親を撮った後、相次いで両親が亡くなった。それに気づいた息吹は、どれほどの恐怖を抱いただろう。
「あいつの親父さんは、業界では有名なカメラマンだった。あいつも小さい頃からカメラと一緒に育ってきた。離れたくても離れられなかったんだろうな」
 言葉の句切りとともに、1枚の写真を手渡される。
 太陽のような明るい笑顔が、写真いっぱいに広がっていた。
 家族写真だろうか。子どもが4人と両親らしき男女が、幸せそうに微笑んでいる。触れているところからも、じんわりと温もりが伝わってくるようだ。
「ここ1年世話になっていた南米の村の家族だよ。子どもたちが特に慕ってくれて、取材や撮影を抜きによくしてもらった」
「すごい……素敵な写真ですね」
「これを撮ったのは、息吹だよ」
「えっ」
「その数日後、この母親が流行病で亡くなった」
 愕然とした。
 今自分が抱く何倍も、息吹が絶望したことを知って。
 どのくらい時間が過ぎただろう。手元の写真に走りすぎた車のテールランプが反射する。隣の谷が、小さく息を吐く気配が届いた。
「慕われた子どもたちに家族写真を頼み込まれて、その度に息吹は断っていた。俺が代わりに撮ると仲裁に入ったりして誤魔化し続けてたけど、いよいよ断り切れなくなった。息吹にも撮って欲しい、俺たち2人の撮る写真が自分たちは好きだからって」
「……」
「それで決意した結果が、母親の死だ。あいつにとどめを刺すには十分すぎた」
 最小限の荷物だけまとめ、息吹は村を出た。
 生まれたときから側にあった父譲りのカメラも、遮二無二駆け抜けてきたカメラマン人生も捨てて。


 長いドライブを終え、赤い外国車は芽吹の自宅近くに停められた。
 運転席の窓が下げた谷が、柔らかな笑みを浮かべる。
「思ったより長話になっちゃった。ごめんね、芽吹ちゃん」
「……いえ。話が聞けて、よかったです」
「浩でいいよ。呼ばれ慣れてるからさ」
「あの、聞いてもいいですか」
 少しの緊張をはらんだ言葉が、夜の空気に凜と響く。
「浩さんは、どうして私にさっきの話を聞かせてくれたんですか」
「……そうだねえ。本当は、どこまで話すべきかもわからないまま、君を車に連れ込んだわけだけど」
 君があいつ以上に、あいつのことを大切にしてくれてるって思ったから、かな。
 そう言いながら差し出されたのは、西洋風の茶色い紙袋だった。
 思いのほかずっしり重いその中には、色鮮やかな野菜を綴じ込んだサンドイッチの山が詰められている。
「夜ご飯に食べて。野菜と肉を食べなくちゃ、人間パワーが出ないでしょ」
「ありがとうございます」
「えーと。それからさ」
 歯切れの悪い言葉の後、谷はばりばりと頭を掻いた。
「浩さん?」
「あいつは……どうかな。その、今の暮らしぶりは」
 不本意を装って投げられた質問だった。
 奥に秘められた温かな感情に触れ、思わず芽吹の口元に笑みが浮かぶ。
「元気ですよ。健康に、いい加減に、好き勝手にやってます」
「そっか。相変わらずか」
「息吹のこと、心配してくれているんですね」
「まあ、一応数年来の付き合いだからね」
「それに」一瞬迷った様子を見せた後、諦めたような溜め息とともに谷が真っ直ぐ芽吹を見据えた。
「カメラマンとしてのあいつには、純粋に惚れてる」
 親しみに浸りかけていた心が、強い瞳に裂かれるのを感じる。
 もちろん谷にその意図があったわけではないだろう。しかし、まだ覚悟が決めきれない芽吹にとって、その眼差しはあまりに強く揺るぎなさ過ぎた。
「それじゃあ、またね」
 浩さんは、息吹を元の場所に連れて帰りたいと思っている。そんなこと、わかりきっていたことなのに。
 はい、そう答えたはずの声は、掠れて下手な咳払いのように消えていった。


「浩と会ったでしょ」
 帰宅後、いの一番に突かれた図星に芽吹は返答を忘れた。
「やっぱり。帰りが遅いから何かあったのかとは思ったけれど」
「ど、どうしてわかったの」
「浩が買ってくる夜食のチョイスは、いつも決まってサンドイッチだ」
 芽吹が携えた茶袋の中身を見るや、息吹が何とも言えない笑みを浮かべた。
 今まで見たことのない色合いの表情に、芽吹の胸がぎゅっと苦しくなる。やきもちだ。自覚した瞬間、恥じらいにかっと頬が火照るのがわかった。
「まあいいや。お腹空いたし、有り難くいただこうか。芽吹、部屋に荷物置いておいでよ」
「あ、うん。そうする」
 荷物──答えながら、芽吹はすっと玄関周りに視線を馳せる。
「浩が言ってた荷物なら、まだ届いてないよ」
「っ、え」
「ほら。いいから早く置いておいで」
 ぽん、と優しく頭を撫でられる。
 その温もりはいつもと何ら変わりない。だからこそ、不思議な焦燥感にかき立てられ、階段を踏みしめた足取りを元に戻した。
「息吹さ。昨日言ってたよね。心配をかけるっていうのは、相手を信頼してるってことだって」
「芽吹?」
「浩さんね、心配してたよ。怒ってもいたけれど、それだって本当は全部、心配していたから。息吹のことが大好きで、大切だから」
 まくし立てるような芽吹の言葉に、息吹は呆気に取られたように目を見開く。その反応は歯痒くて、芽吹はきゅっと唇を噛んだ。
 自分が息吹にどうして欲しいのかさえ、いまだ定まっていないのに。「心配しないで」
「浩はああ言ってたけど、この業界はそんなに甘くない。現地から言い訳すらなく逃げ帰ってきた奴に、戻る席なんてもうないよ」
 静かに告げた息吹が、笑顔でリビングに消えていく。数年来の付き合いがない自分でも、その表情で封をした思いの存在に気づいているのに。
 いくじなし──自分自身に向けた非難に鋭く痛む胸を感じながら、暗い階段を上がっていった。
(4)
「意気地なしの情けねえ三十路はとっとと失せろ」
 辛辣な旧友の言葉が、授業時間の保健室に明瞭に響く。
 息吹はむくりとベッドから顔を上げると、心底不快そうな小笠原と視線が合った。
 その通りだなと内心賛同しつつ、視線から逃げるように再びベッドに身を投げる。
「お前がそんなだと、妹の方だって何の覚悟もできやしねえだろ」
「覚悟なんてそもそも必要ない。俺はもう、カメラを持てない人間なんだから」
「その逃げる余地を残した言い振り、妹が気付いてないとでも思ってんのか」
 小笠原の容赦ない指摘が、昨夜の芽吹を彷彿とさせた。
 居てもたってもいられない。そんな表現がぴったりだった。いつもはあんなに感情的にならない質な妹なのに。
 あの後は手渡されたらしいサンドイッチを腹に収めた後、一昨日と同じように同じベッドで眠りについた。
 一緒に寝ようと言った芽吹は、昨日もベッドでは始終息吹に背を向けていた。
「今日の朝一で、安達が駆け込んできた」
「ああん?」
 嫌悪を隠さない息吹に、小笠原も気付かないふりを決め込んで口を動かす。
「お前たち兄妹が血の繋がりがないこと、妹から聞いたみたいだな」
 別に、言う必要なんてないのに、と息吹は思った。
「へえ。それで?」どうせ、今までの兄貴節に文句でも漏らしていったのだろう。続く展開を察しながら促すと、続いた言葉は意外なものだった。
「嬉しそうだったな。不謹慎かもしれないと、自分でも言ってたが」
「……嬉しそう? どうして」
「真意は聞いてねえ。面倒な兄貴に口答えできる、口実が見つかったからかもしれねえな」
「あいつはそんな奴じゃないでしょ」
「へえ。庇うのか」
「そんなんじゃない」
 安達は気にくわない。
 それはきっとずっと変わることがないだろう。芽吹が安達のことを、あんな目で見続ける限りは。
 でももし俺が──そう考えかけた例え話に気付き、くしゃりと前髪を握りつぶす。
「いらいらしてんな」
「誰かさんが要らない情報をぶっ込んでくるからだ」
「心配か。妹が」
 わかりきった問いかけに眉を潜める。そんな息吹に、小笠原は小さく鼻を鳴らした。
「自業自得だろ。自分が決意さえすれば、いつでも何でも、そう都合よく離れることができると思うなよ」
 言葉尻に込められた感情の震えに気付く。
 小笠原は真正面の窓の向こうに視線を馳せている。しかし、その目が真実見ている光景は、到底測ることはできなかった。
「自分の折り合いさえつければ、跡形もなく消えてなくなれるなんて思うな。現にその相棒とやらはお前を追って、こんな面白みのない街にまでやってきたんだろうが」
「葵」
「甘えんな。悩んで傷ついて傷つけても、結局は覚悟するしかねえんだ。……互いにな」
 旧友のこんな横顔を、息吹は前にも見たことがあった。
 記憶が曖昧だから、恐らくは中学の頃。進学先を東京の全寮制高校に決めたと告げたとき。
「……もしかして葵、俺が上京しちゃって寂しかった?」
「死ね」
「保健室の先生が言っていい台詞じゃないでしょー」
 けたけた笑う息吹に、小笠原の口元も自然とつられる。
 それは十数年経っても変わらない2人の光景だった。


 あれから数日過ぎた。例のリミットまで、あと3日。
「っ……すごい」
「うん。1枚の絵みたい。素敵」
 久しぶりに訪れた昼休みの屋上。
 華とともに自然に引き出された短い感想に、奈津美はとても嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。これもそれも全部、みんなのお陰だよ。私の個人的な夢のために、たくさん力になってくれたから」
 そんなことはない、と芽吹は笑い、手元の写真を見た。
 まだ記憶に新しい工場の廃墟と、青く澄んだ空、そして自分が纏った白いワンピース。
 ひとつひとつは何も繋がりのない存在のはずなのに、この写真の枠に閉じ込められたそれらは、まるで当然のように手を取り合い、1つの世界を作り上げていた。
 ああ、すごいな、と心から思う。
 構図や経験なんて理屈だけじゃない。溢れるほどに感じる写真への思いが、安易な感想さえ塞いでしまう。
「息吹さんにも、後でちゃんと伝えるよ。心から感謝してるってね」
 唐突に呼ばれた兄の名に、芽吹ははっと我に返った。
「そんな、いいよ。そんな大げさにしなくても」
「ううん、絶対伝えるよ。私には、きっとそのくらいしかできないからね」
 見上げるとそこには、予想外に真剣な奈津美の眼差しがそこにはあった。
 思わず目を見張る芽吹に、奈津美が小さく息を吐く。
「息吹さんも、早くカメラに復帰できるといいよね」
「……え?」
「あの人も、本当は撮りたいんだよね。撮りたくて撮りたくて、堪らないんだ。私なんかよりもずっと」
 淡い晩夏の風が、辺りに立ちこめる。
 いつになく穏やかな奈津美の言葉が、じんわりと胸に染みるのがわかった。
「この写真を撮ってるときもね、ずっと隣にいてくれたけれど、ずっとずっと感じてた。本当は、自分が今の芽吹を撮りたい。自分の手でこの瞬間を切り取りたい。シャッターを切りたい……ってね」
「奈津美……」
「難しい事情があるんだろうなって思う。でも、いつかまた、復帰できたらいいよね」
 だってあんなに、カメラが好きなんだから。
 そう言う奈津美に、華も静かに頷いた。その純粋すぎる思いが滴って、こびりついていた子どもみたいな意地を優しくふやかしていく。
 そうだ。私も、本当は知っていた。
 だって毎日、息吹の撮った写真を見て育ってきたから。
 リビングでいつも私たち家族を見つめてくれていた。フレーム越しに、何も言わなくても、言葉がなくても。
「うん。私も、そう思ってる」
 ようやく吐き出した本音に、情けなく笑顔が歪む。
 知っていたはずの本音を耳にしてようやく、見えなくなっていた自分の芯がすっと伸びた気がした。
(5)
 ミーティングの日で部活のないその日、芽吹は息吹よりも先に帰宅した。
 何度か小さく息を吐き、大きく弾む胸の鼓動を落ち着ける。郵便受けを確認するも、期待していたものはなく、今度ははっきりと溜め息を零した。
 家に入り、自室に上がっていきながら制服のボタンに手をかける。
 谷がこの家に送ったという、着払いの荷物。
 もしも今日不在通知が入っていたら、息吹が見ていないうちに、中身をちらりと確認することができるかもしれない、なんて。
「確認して、一体どうするつもりなんだろうね、私は」
 それでも、何か動かずにはいられない。
 少しでも、息吹の欠けらを拾い集めたい衝動に駆られて、止まらないのだ。
 鏡に映る自分の姿を見つめる。湧き上がる不安定な感情を対話するように、にこっと笑みを浮かべる。すぐ背中から、誰かの「何かあったの」と問いかける声が聞こえてきそうな出来だった。だめだこりゃ、と自嘲する。
 その時だった。家のチャイムが耳に届く。
 気づいたときには階段を駆け下りていた。ドアを開ける直前に制服が半端な状態だったことに気づき、慌ててボタンをつけ直す。
 着払いの荷物に慌てて財布を取りに戻る。ようやく扉が閉じ、まるで短距離走を終えたように詰まった息を吐き出した。
「すご、重い」
 届いた巨大なリュックは、谷が持っていたものとよく似ていた。
 ひとまず玄関からリビングに移動させる。大きくて、歪な形をして、砂の匂いがした。
 躊躇いをほとんど抱かずに、リュックを開いていく。
 洗ったのかよくわからない煤けた服、服、服。洗濯しなければとまとめて抱き上げたのと同時に、中心部に眠る固い感触に気づいた。
 1枚1枚剥ぎ取っていき姿を見せたそれに、熱いものがこみ上げてくる。
「……携帯もパソコンも、鉄くずにするくせにね」
 服の山は緩衝材だったんだと、芽吹は淡く微笑んだ。


 息吹を呼び出したのは、グラウンド裏の吹きさらしの空き地だった。
 部活もなく授業もとうに終えた校舎周辺は、見事に人の気配は消え失せている。
 職場から帰った矢先に職場近くに呼び出しを受けたにもかかわらず、息吹は律儀に姿を見せた。リビングに置いておいた手紙を手にして。
「息吹」
 こちらに気づいているはずの兄を呼び寄せる。
 時折吹き付ける風に、体が煽られそうになるのを芽吹は根性で耐えていた。
「どうしたの、それ」
 純白のドレスが、夜の草原にふわりとたなびく。
 月明かりを反射して、舞台のスポットを浴びるように眩しく浮かび上がる様に、息吹はただ瞳を奪われた。
「すごいよね。コルセットを着けたのもこんなヒールを履いたのも、これが初めてだよ」
「そうじゃなくて。そのドレス、どうしたの。それもこんな場所で」
「浩さんに頼み込んだの。息吹を大切に思う者同士のよしみとして」
 再度疑問を挟まれる前に、芽吹は息吹の胸にあるものを押しつけた。
 その感触だけで気づいたらしい息吹が、小さく息を飲んだのがわかった。
 なかなか手に取ろうとしない兄に痺れを切らし、芽吹が無理矢理その手に抱かせる。
「落とすなんて、しないよね? たくさんの思い出が詰まった、大切なカメラなんだから」
「……どうして」
「浩さんが送った荷物、勝手に開けたの。ごめんなさい」
 たくさんの服に守られるようにして、そのカメラは入っていた。
 かろうじてそれを両手に乗せたままの息吹は、ぴくりとも動かない。
「私のことを、撮って。芽吹」
 その顔を覗き込むようにして、芽吹は静かに告げた。
 見開かれた瞳の奥に、弱々しくも凶暴な絶望が渦巻いているのが見える。
「浩に、聞いたんだね。全部」
「うん」
「だったらわかるでしょ。芽吹のことを、撮れるはずがない」
「私は死なないよ」
 随分と無責任な宣言だと、自分でもわかっていた。それでも、もう決めたから。
 息吹の手を離さず掴んで、温めて、引き上げたい。
「私は、絶対に死んだりしない。私が生きて、それを証明する」
「なにを言ってるの」
「私が守ってあげる、そう、言ったでしょう!?」
 もし息吹に何かあったら、私が守ってあげる──あの言葉は、気休めで口にしたわけではない。
「だから、私で試してみせてよ。息吹の写真を待っている人が、この世界にたくさんいるんだってこと。それを、私に証明させて」
「……芽吹」
「……ね。いいでしょう、息吹……」
 泣かないと決めていたはずなのに。
 ぽろぽろと零れていく涙が、頬を掠めてドレスにそっと染みていく。
「……はは。まるで、私を抱いてって、言われてるみたい」
 涙を親指で掬った息吹は、苦しそうに笑った。目尻に、微かな光を滲ませて。
「……いいの?」
「うん」
「でも」
「待ってるから。息吹が帰ってくるのを」
 2人の涙を乾かすような夜風が通り過ぎ、山の向こうへと消えていく。
 どんなに離れても、待ってる。息吹のことも、息吹が撮った写真も。
 シャッター音が響く。
 別れを意味するその音色が、静かな草原に何度も奏でられた。
 純白のドレスの裾が、いつの間にか土と草露に色づけられるまで。
(1)
 息吹が退職届を出したのは、翌日のことだった。
 嵐のように現れ去るのが決まった購買のお兄さんに、どこからか噂を聞きつけた生徒が連日殺到した。
 残念がる声から激励する声、叱咤する声と様々だったが、どれにも息吹は「ありがとう」と笑っていた。
「また戻ってきてね。応援してる。そんなに待遇悪かったの。今日も色々声をかけられたよ」
 夕食を囲んで交わす今日の何気ない出来事に、芽吹は呆れたように肩をすくめた。
「嬉しそうで何よりだよ。それにしても、後任の人がこんなに早く決まるなんて驚きだったよね」
「うん。最近知ったんだけど、購買員の仕事ってかなり倍率高いんだって」
「……え。それなのに、どうして息吹が受かったの」
「ね。俺も不思議」
 もしかしたら、元担任の智子に付きまとっていたストーカーを撃退したことが考慮されたのかな、と芽吹はぼんやり思った。そんなわけないか。単純に運がよかったんだろう。
 和やかな夕食を済ませ、会話もそこそこに2階の自室に戻る。
 扉の向こうに入るほんの一瞬だけ、開かれたままの隣の部屋に視線を馳せた。
 荷物は、まだ詰められていない。元々数は少ないものの特別整理された気配は見られず、芽吹の心は密かに安堵した。
 そろそろ荷造りを進めなくちゃまずいんじゃないの──そんな言葉をかけようか迷って、迷って、結局かけられずにいる。
 自室のベッドに体を沈める。
「兄のことを、どうぞよろしくお願いします」
 きっかり1週間後に現れた谷に、息吹を遮って芽吹は言った。
 芽吹に続いて「よろしくお願いします」と頭を下げた息吹に、数秒後、谷は涙腺が決壊したみたいに号泣した。
 よかった。浩さんはいい人だ。息吹を大切に思ってくれている、いい相棒だ。
 仕事の引き継ぎやあれこれで、実際この街を離れるための時間をもらった。
 それもいよいよ大詰めになり、息吹がこの家を去るまであと1週間を切っている。
「ほんと、たった数か月だったのになあ」
 どうして、息吹がいない生活が想像できないでいるんだろう。天井に向かって溜め息を吐き、その重みを顔面で受けとめる。
 でも、後悔はしていない。兄を応援できない妹なんて、居ない方がましだ。何度となく頭の中で繰り返した言葉を、今一度自分に言い聞かせる。
 大丈夫。私の決断は、間違ってなんかいない。


「学校辞めるんだってね。あんたの兄さん」
 部活上がりの更衣室。いつもは事務的な会話しかない空間で、思いがけず飛んできたのはマネージャー仲間の百合の言葉だった。
 半端に持ち上げたままになったTシャツに気づき、よいしょと首から抜き取る。
「そうなの。うちの兄とは、その節は色々とあれこれあったよね」
「さて。何のことだか」
 視線を絡ませることなく、横顔のままで百合がうそぶく。
「で。あんたがどこか覇気がないのも、それが寂しいからだったりするわけ?」
 あ、この方にもバレてたのか。
 奈津美や華はもとより、安達からも噂が広まるより先に心配の声がかけられた。もう何度目だろう。最近の芽吹は周囲からの心配を集めすぎている。
「はは、心配させちゃってたか。ごめんね」
「謝らないでよ。気持ち悪い」
「相変わらず辛辣」
「別に興味ないけど。職場変えたところで、家に帰れば嫌でも顔合わせるじゃない。そんなしょげることなわけ?」
「……家、出るんだ。ずっと離れて暮らしてたんだけど、また、遠くに行くの。地球の反対側くらい遠いところ」
 本当は、反対側は言い過ぎなにかもしれない。それでも、芽吹には違いはさしてないほど遠くに感じられた。
 思わず滑り出た言葉に、いつの間にか百合の視線がこちらを向いていた。
 あれ私、泣いてないよね、無意識に目元をさらう。人前で泣くのが癖になってはいけない。
「寂しいんだ?」
「うん」
「そんな風に弱みをみせるようになったのも、あのシスコン兄の影響なんだろうね」
 唇に薄付きの桃色リップを引き終えた百合は、すでにいつもの美少女高校生のなりを完成させていた。
「寂しいなら、寂しいって言えばいいんじゃないの。どうせそんな遠くに行っちゃうなら、恥ずかしがる必要もないでしょ」
「え」
「高校生なんてまだ子どもじゃない。精々その若さを利用して、大人を困らせてやればいいのよ」
 唇の淡い色合いとは真逆のふてぶてしさで、百合が吐き捨てる。
 しかし言葉尻に感じたわずかな気恥ずかしさに、芽吹はふっと口元を綻ばせた。
「ありがとう。励ましてくれて」
「……感謝とかしないでよ。気持ち悪い」
 至極嫌そうな表情を浮かべ、百合は女子更衣室の扉に手をかける。
 長い髪をなびかせ去っていく百合の後ろ姿は、いつも通り美しかった。


「そっか。親御さんたちも、ちゃんとお前の1人暮らしを許してくれたのか」
 星が瞬く帰り道、安達の隣で芽吹は「はい」と頷いた。
「もともと1人暮らしをする予定でしたから。それに、特にお母さんは、息吹がカメラマンに復帰したことの方が嬉しかったみたいです」
 20年以上前──母が初めて息吹に会ったときから、その小さな手には余る大きさのカメラがあったらしい。
 息吹がようやく日本に戻るとの報と同時に聞かされた、カメラマンを辞めるという報は、母の心を大いに揺さぶった。
 そっか。また仕事に戻るんだ、よかった、よかった──と。電話の向こうで何度も繰り返す母に、息吹は居心地悪そうに苦笑していた。
 この歳になって母親を泣かせることになるなんて、息吹も思ってなかったのだろう。
「必要以上に私のことを心配してるのは、両親より息吹の方。警護システムをいれるべきとか真顔で言ってくるから、宥めるのが大変で」
「でも、年頃の女が1人なんて、どう考えても安全とは言えねーだろ」
「はは。今の先輩の台詞、昨日の息吹の台詞とおんなじですよ」
 クスクス笑みを漏らす芽吹に、安達は不本意そうに息を吐いた。
 ここ最近はいつの間にか、安達と下校するのが習慣化していた。
 安達の家は、高校と芽吹の自宅のちょうど中間地点の別れ道で逆方向に曲がる。部活で疲労困憊なエース様を、わざわざ自宅まで付き合わせるわけにはいかない。
 それでも時々、芽吹の表情をつぶさに観察して、半ば強引に家の前まで送っていく。
 家と真逆方向のドラッグストアに用があるなんて、どう考えても付け焼き刃の言い訳だ。そうわかっていながら、芽吹もついその優しさに甘えてしまう。それほどに、安達の観察眼が絶妙だった。この辺りは、さすがエースと言ったところだろうか。
 そして今日は、ごく自然に分かれ道で芽吹は安達と別れる。百合の励ましが功を奏しているようだった。
「ありがとうございます。それじゃあここで」
「ああ。くれぐれも気をつけてな。マジでな」
「はい。防犯ベルも持たされてますから」
「ん。それじゃあ、また明日」
「はい」
 また明日。こんなやりとりすら、実は当たり前ではないんだと、最近はつくづく思う。
「……息吹」
 名前を呼ぶことも、数日後には殆どなくなる。
 私も──息吹も。
(2)
「部屋、随分と広くなったね」
「ね。そんなに荷物持ち込んだつもりはなかったけど、片してみると違うね」
 今日からこの部屋は、元両親の寝室、兼、元兄の寝室になる。
 綺麗に片付けられた部屋は、窓の日差しをいっぱいに含んで何だかすごく真っ白だった。
 部屋の元主を見送る部屋が寂しそうのか、眺めている元主が寂しそうのか。もしかしたらどちらも正しいのかもしれない。
 朝食べた食事が、2人で取る最後の食事だった。
 朝食からご馳走を用意するのも滑稽な気がして、結局品数を1品増やすだけにとどめた。息吹の好物になったイカの味噌和えにした。
 階段をゆっくりと下っていく。一歩一歩を感慨深げに踏みしめる息吹が可笑しくて、後ろで密かに笑みを浮かべた。
「手荷物、やけに小さいけど大丈夫?」
「必要最低限以外は全部、もう現地に送ったからね」
「そっか。鞄に入ってるのはパスポートと財布と……カメラくらい?」
「ん。ほとんど正解」
 ふっと口元を綻ばせた息吹が、芽吹の頭に手を乗せる。
 この手の感触が好きだった。急にそんなことに気付き、心が揺らぐ。
 その隙を突くようなタイミングで家のチャイムが鳴った。タクシーだ。時計を見上げれば、もう出発の時間になっていた。時間ってこんなに早かったっけ。
「それじゃあ、行くね」
「……ん」
 慣れた素振りで玄関を出る息吹に、芽吹も笑顔でついて行く。笑顔で、笑顔で。
 一瞬あとに泣き崩れたとしても、笑顔で。
「これからは今まで以上に、戸締まりは厳重にね」
「うん、わかってる」
「油断してたら、裸の男がソファーで寝転がってるかもしれないからね」
「それ、あんたのことでしょ」
「バレたか」
 息吹も笑顔だった。きっとそれは、自分と同じ種類の笑顔だ。
 胸が、じりじりする。
 タクシーに小さく合図した息吹に、運転手が扉を開けた。
「元気でね」
 瞬間、タクシーの扉を掴んだのは、芽吹の手だった。
 掴みかかった衝撃でタクシーが揺れたのか、運転手も驚きも目線を向けてくる。
「め、ぶき?」
「……やっぱり、私も空港まで行く」
「え、でも」
「いいから。待ってて! 待っててよ!?」
 すぐさま自宅へきびすを返す。
 何かの間違いでタクシーが出発してしまうかもしれない。自室に駆け込み鍵と財布とスマホを乱雑に掴んだ拍子に、辺りの荷物がバサバサと落ちた。片付けは後でだ。今は──今は。
 自宅前で見送ると決めたのは自分だった。それなのに、何なんだこの様は。
 自らの幼さを改めて認識させられ、芽吹は喉の奥でぎゅっとこみ上げるものを押し込んだ。


 タクシーの中で、2人が言葉を交わすことはなかった。
 運転手も特に話を振ってくることはなく、流れるラジオの音だけがかろうじて車内の沈黙を緩和した。
 住む街から市を2,3またいでいく。空港に近づくにつれ建物がみるみる減っていった。
 タクシーの窓からでも、広がる空の青さが見て取れた。せめて今日が、澄み切った快晴でよかった。悪天決行になんてなった日には、再度この手を離すことができるのか自信がない。
 きっと、この空の青を忘れることはないと思う。


 空港に降り立った後も、声をかける機会を逸したままだった。
 芽吹は少しだけ先を歩く息吹のあとを、ただ黙ってついていく。
 休日と言うこともあってか、空港内は想像以上に人で溢れていた。しかし息吹はやはり慣れているのか、意に介する風でもなく涼しい顔で進んでいく。その背中が酷く遠く感じ、まだ離れていないのに胸が潰れる感覚が襲った。
 また、会えなくなる。
「今度会えるのは、また15年後なのかな」
 保安検査場の前にたどり着いたとき、ほとんど無意識に零した言葉にようやく息吹の視線が向けられた。
「息吹が家を出たのが、私が生まれてすぐなんだよね。それからずっと会ってなかったから、そのくらいかなって」
「……その前にも、会ったよ。初めて外国の仕事を受けたときに、1回だけね」
「えっ」
 初耳だった。
 驚きに目を丸くする芽吹に、息吹はリュックから年季の入った財布を取り出す。
 中から引っ張り出したのは、1枚の紙切れだった。お金ではない。
「これ……」
「芽吹はまだ5,6歳くらいかな。4人でご飯を一緒にして、近くの公園を少し歩いた」
 人が行き交う空港の雑踏の中、芽吹の目には緑生い茂る丘が見えた。
 そんな中聞こえてきた、記憶の中のカメラのシャッター音。
 振り返った先の人物は既にカメラを構えをやめていたが、後にカメラ画面に映し出された画を目にして、小さく呟いたのだ──あの時も。
「それ……私たち?」
 差し出された写真は、一面が緑色の芝生。
 それでも、角から伸びる人影は、確かに2人の大人と1人の子どもを象っていた。
「そう。人を撮れなくなっていた馬鹿が、ない頭を振り絞って思いついた、家族写真」
「っ……」
「お守りにしてたから。あれからずっと、ずっと」
 直接撮れないからって、撮れないと思い込んでいたからって、もっと普通に撮ってくれればいいのに。
 感極まって吐き出しそうになる震えた息を、すんでの所で喉の奥に押し込む。
 震える息を吐き出したのは、息吹の方だった。
「離れたくないな」
「え……」
「芽吹と、離れたくない」
 見たことない、そんな顔。
 今度こそ芽吹はくしゃりと顔を歪ませた。
「私も、私だって、離れたくない」
「うん」
「勝手に帰ってきて、人の生活滅茶苦茶に荒らして。まんまと大切な兄妹になっておいて、それなのに、今更こんなのっ」
「うん」
「……ごめん。ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃ」
「芽吹、おいで」
 涙でぐしゃぐしゃになったまま、広げられた息吹の胸に飛び込んだ。
 流れる涙が、酷く熱い。でもこの熱さで兄が行く道を変えたいわけじゃない。それは互いにわかっていた。
 嬉しい。寂しい。行かないで。行ってきて。それらは全て芽吹の本音だった。
 手のひらで無理矢理目元を拭い、微かに赤く色づいた息吹の目を真っ直ぐ見つめる。
「そろそろ、本当に時間だよね」
「心配しないで。帰ってくるよ。また」
「どうせ、10年以上後の話でしょ」
「どうかな。前と違って、俺も堪え性がなくなってるから」
 どうだか。小さく笑った芽吹に、息吹は優しく髪を撫でる。
「芽吹が、生まれたときさ」
「え?」
「涙が出た。父と母を亡くして、泣きたくても泣けなくなって、枯れるって本当にあるんだとか思ってたのにさ。ほんと、馬鹿みたいに」
「っ……いぶ」
「悲しい涙じゃないよ」
 ありがとう。
 耳元で告げた息吹が、保安検査場に向かった。
 手荷物を慣れた手つきで検査機に流し、振り返ることなくゲートの向こうに真っ直ぐ進んでいく。私の方が。私の方こそ。
「私も! ありがとう!」
 周囲の視線も全てを放って、芽吹は目一杯の声を張る。息吹は背を向けたまま、手を高く上げてそれに応えた。
 その背に透けた兄の涙に、芽吹はまた泣いた。