(1)
自分たちの住む北海道は、知ってはいたがだだっ広い。それはもう果てしないほど。
晩夏を迎えたはずの大地は、注がれる日差しに素直に熱を帯び、滲む汗を幾度となく手の甲で拭った。
「暑い」
「え、そう? クーラー強くする?」
「車内温度じゃないの。この車のチョイスのこと。やっぱり、暑っ苦しいわ」
助手席で吐き捨てた芽吹は、隣で首を傾げる息吹を経由し、フロントガラスから覗く車体を視界細く見やった。
無難な車種を選んだものと思っていた予想は見事に覆され、息吹がいつもの笑顔で乗り入れてきたのは真っ赤な左ハンドルの外国車だった。
「いや、別に良いんだけどさ。どうしてこんな派手な車にするかな」
「左運転の方が慣れてるからね-。それに土地勘のない土地に行くなら、目立つ色の方が車見つけやすいでしょ」
そうか、息吹の仕事の拠点は外国だったから。心の中で小さく納得する。
それはそうと、今もチラチラ視界を掠める朱色が、妙に心を刺激する。ただでさえ、今日は度胸のいる予定が控えているというのに。
「そっかなー、私は見たときすっごいテンション上がったし、良いと思うけど。ね、華」
「ん。奈津美、すかさずカメラ構えてた」
「でしょ?」
「……2人とも、あまりこれを甘やかさないでいいからね」
後部座席から届いた弾む声と一緒に、先ほど購入した昼食を受け取る。
ほかほか湯気を出す芋餅に、色とりどりの野菜とキノコのソテーが挟まったコッペパン。眠気覚ましのコーヒーとガム。
「いいねえ。なんだか遠足って感じ」
「はいはい。今、何か食べる? 芋餅かパンか」
「芋餅。かぶりつくから、こっち寄せて」
子どもか。とはいえ片手運転させるのも躊躇われ、言われたとおりに芋餅の串を差し出す。
芽吹の手の甲ほどの大きさのそれに、躊躇なく一口でかぶりつく。満足げに目を細めた息吹は、ぐっと親指を立てた。片手運転をさせまいとした配慮を返してほしい。
「相変わらず仲いいねえ」
「そりゃーもう。そんじょそこらの兄妹には負けないよ」
そんじょそこらの兄妹って誰のことだ。
その後、奈津美の兄の話や華の由緒正しい家のこと、そして小笠原の学生時代に至るまで多岐に渡る話をした。
個人情報はこうして漏れていくのだろう。奈津美は予想通り興味津々に脳内にメモをしていた様子だった。その隣では、華も静かに昔話に耳を傾ける。芽吹の予想通りに。
そして話題が当たり障りない世間話に落ち着くと、後部座席からは規則的な寝息が聞こえてきた。
「眠った?」
「うん。途中からずっとあんたばかり話してるから」
「作戦だよ。勝負はこれからなのに、車の中で休まないでいたら体力が持たないでしょ」
まことしやかに話す兄にうろんな目線を投げる。それでも振り返った先の2人が仲良く肩を寄せ合っている姿に、すぐに笑みが浮かんできた。長身の奈津美と小柄な華がこうして並ぶと、それこそ仲の良い姉妹みたいだ。
「それにしても、やっぱり結構時間かかるね。目的地まであと1時間弱か」
「芽吹も眠りなよ。着いたら起こすし」
「うーん、そうだね……」
お言葉に甘えてあれこれと寝る体勢を試していると、ふと息吹の横顔に視線が向いた。
その横顔はいつものふわふわ軽い調子はなりを潜め、コーヒーを口に運び、また戻す。
凜とした表情。長い睫が車の揺れで小さく揺れ、少し気怠げに瞬きをする。
黙っていれば、やっぱり格好良い。最初こそすぐには認められなかったことを、今は素直に胸に宿すことができる。
芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──って。
あの言葉を聞いて、正直圧倒された。
昨夜わざわざ手渡された安達からの言葉。あの言葉のお陰かもしれない、と微睡む意識の中で感謝した。
「息吹」
「うん?」
「……い、ぶき」
柔らかな日差しが温かく瞼を伏せさせる。
「ほんと、可愛いんだから」意識が途切れる瞬間、そっと額に手のひらが置かれた感触が残った。
「イメージは、残された記憶。人の気配もなくなったこの場所で、それでも消えることのない人たちの記憶。それを芽吹に表現してほしい」
衣装の細かな部分を調整しながら、奈津美が説明する。
それは今までの撮影練習でも決まって行われていたことで、だからこそ、奈津美の微かな緊張と大きな熱意が伝わってきた。
「だから、芽吹は『記憶そのもの』なの。カメラに向かってアクティブにならなくてもいい。こっちが密かに覗き込んでるイメージかな。だから芽吹は、リラックスして佇んでいてくれればOK」
「了解。それが1番難しかったりするんだけどね。頑張ろう」
「大丈夫、私も同じ。それじゃ、いこうか!」
車の後部座席を降りると、遮断されていた屋外の明るさが一気に目に刺さる。
視線を先に向けると、広がる光景にはっと息を飲んだ。
スマホの狭い画面で見るのとは訳が違う。同じ地に立ってみて始めて感じる、廃墟と化した工場の冷たさと寂しさが、胸を大きく突いた。
工場を吹き付ける風が、まるでこちらを拒むように吹き付ける。自分たちだけが異質の空間に圧倒され、すっと背筋が凍った。
「芽吹」
自分たちの住む北海道は、知ってはいたがだだっ広い。それはもう果てしないほど。
晩夏を迎えたはずの大地は、注がれる日差しに素直に熱を帯び、滲む汗を幾度となく手の甲で拭った。
「暑い」
「え、そう? クーラー強くする?」
「車内温度じゃないの。この車のチョイスのこと。やっぱり、暑っ苦しいわ」
助手席で吐き捨てた芽吹は、隣で首を傾げる息吹を経由し、フロントガラスから覗く車体を視界細く見やった。
無難な車種を選んだものと思っていた予想は見事に覆され、息吹がいつもの笑顔で乗り入れてきたのは真っ赤な左ハンドルの外国車だった。
「いや、別に良いんだけどさ。どうしてこんな派手な車にするかな」
「左運転の方が慣れてるからね-。それに土地勘のない土地に行くなら、目立つ色の方が車見つけやすいでしょ」
そうか、息吹の仕事の拠点は外国だったから。心の中で小さく納得する。
それはそうと、今もチラチラ視界を掠める朱色が、妙に心を刺激する。ただでさえ、今日は度胸のいる予定が控えているというのに。
「そっかなー、私は見たときすっごいテンション上がったし、良いと思うけど。ね、華」
「ん。奈津美、すかさずカメラ構えてた」
「でしょ?」
「……2人とも、あまりこれを甘やかさないでいいからね」
後部座席から届いた弾む声と一緒に、先ほど購入した昼食を受け取る。
ほかほか湯気を出す芋餅に、色とりどりの野菜とキノコのソテーが挟まったコッペパン。眠気覚ましのコーヒーとガム。
「いいねえ。なんだか遠足って感じ」
「はいはい。今、何か食べる? 芋餅かパンか」
「芋餅。かぶりつくから、こっち寄せて」
子どもか。とはいえ片手運転させるのも躊躇われ、言われたとおりに芋餅の串を差し出す。
芽吹の手の甲ほどの大きさのそれに、躊躇なく一口でかぶりつく。満足げに目を細めた息吹は、ぐっと親指を立てた。片手運転をさせまいとした配慮を返してほしい。
「相変わらず仲いいねえ」
「そりゃーもう。そんじょそこらの兄妹には負けないよ」
そんじょそこらの兄妹って誰のことだ。
その後、奈津美の兄の話や華の由緒正しい家のこと、そして小笠原の学生時代に至るまで多岐に渡る話をした。
個人情報はこうして漏れていくのだろう。奈津美は予想通り興味津々に脳内にメモをしていた様子だった。その隣では、華も静かに昔話に耳を傾ける。芽吹の予想通りに。
そして話題が当たり障りない世間話に落ち着くと、後部座席からは規則的な寝息が聞こえてきた。
「眠った?」
「うん。途中からずっとあんたばかり話してるから」
「作戦だよ。勝負はこれからなのに、車の中で休まないでいたら体力が持たないでしょ」
まことしやかに話す兄にうろんな目線を投げる。それでも振り返った先の2人が仲良く肩を寄せ合っている姿に、すぐに笑みが浮かんできた。長身の奈津美と小柄な華がこうして並ぶと、それこそ仲の良い姉妹みたいだ。
「それにしても、やっぱり結構時間かかるね。目的地まであと1時間弱か」
「芽吹も眠りなよ。着いたら起こすし」
「うーん、そうだね……」
お言葉に甘えてあれこれと寝る体勢を試していると、ふと息吹の横顔に視線が向いた。
その横顔はいつものふわふわ軽い調子はなりを潜め、コーヒーを口に運び、また戻す。
凜とした表情。長い睫が車の揺れで小さく揺れ、少し気怠げに瞬きをする。
黙っていれば、やっぱり格好良い。最初こそすぐには認められなかったことを、今は素直に胸に宿すことができる。
芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──って。
あの言葉を聞いて、正直圧倒された。
昨夜わざわざ手渡された安達からの言葉。あの言葉のお陰かもしれない、と微睡む意識の中で感謝した。
「息吹」
「うん?」
「……い、ぶき」
柔らかな日差しが温かく瞼を伏せさせる。
「ほんと、可愛いんだから」意識が途切れる瞬間、そっと額に手のひらが置かれた感触が残った。
「イメージは、残された記憶。人の気配もなくなったこの場所で、それでも消えることのない人たちの記憶。それを芽吹に表現してほしい」
衣装の細かな部分を調整しながら、奈津美が説明する。
それは今までの撮影練習でも決まって行われていたことで、だからこそ、奈津美の微かな緊張と大きな熱意が伝わってきた。
「だから、芽吹は『記憶そのもの』なの。カメラに向かってアクティブにならなくてもいい。こっちが密かに覗き込んでるイメージかな。だから芽吹は、リラックスして佇んでいてくれればOK」
「了解。それが1番難しかったりするんだけどね。頑張ろう」
「大丈夫、私も同じ。それじゃ、いこうか!」
車の後部座席を降りると、遮断されていた屋外の明るさが一気に目に刺さる。
視線を先に向けると、広がる光景にはっと息を飲んだ。
スマホの狭い画面で見るのとは訳が違う。同じ地に立ってみて始めて感じる、廃墟と化した工場の冷たさと寂しさが、胸を大きく突いた。
工場を吹き付ける風が、まるでこちらを拒むように吹き付ける。自分たちだけが異質の空間に圧倒され、すっと背筋が凍った。
「芽吹」