(3)
昼上がりの授業中、芽吹はひたすらペンを走らせていた。
今考え得る情報をまとめてみる。
息吹の父と母が結婚して、息吹が生まれた。けれどその後、息吹の母が亡くなった。
その後、息吹の父と芽吹の母が再婚した。3人生活が始まる。
けれどその後、息吹の父が亡くなった。芽吹の母と息吹が残され、2人暮らし。
その後、芽吹の父と母が再婚。芽吹が生まれ、4人家族に。
多分、これが本当の我が家の変遷。かりかりと自分の手帳に書き記す。
やっぱりそうだ。
確かに複雑な変遷だが、さして問題にする点はない。
現に両親は息吹に芽吹を預けた。少しでも不信感があるのならば、そんな決断はしないだろう。
息吹の行動は確かに常識外れな箇所もある。しかし、その背後にはいつも兄妹愛があった。
血の繋がりがなくたって。自分を静かに説得する。ほら、こんなに理論的に説明できる。
「次の文の訳を、来宮さん」
「はい」
すくと立ち上がる。淀みなく訳文を読みあげていく声を、なぜか他人みたいな心境で耳にする。
英訳だってこんなにスムーズに読めてる。いつも以上だ。自分が参ってるなんて考えすぎだ。
この事実を知ったところで何も変わらない。何も。何も。
「はい。ありがとう。じゃあ次は──、え?」
「っ、芽吹?」
「え?」
先生と斜め後ろの奈津美の声に、はっと我に返る。
同時に頬に熱いものが掠めたのがわかった。拭うことも隠すこともできないまま、教科書に小さい染みを作る。
わあ、嫌だ。芽吹は不快そうに眉を寄せた。
「来宮さん、どうしたの。体調悪いのなら、保健室に」
「先生、私、保健室まで付き添、」
「いらないよ、大丈夫。1人で行けるから」
奈津美が言い終わる前に、芽吹は笑顔で首を振る。
こんな自分のために、友達まで煩わせたくない。自分だけの問題だと、わかっているから。
涙を拭って、また溢れて、また拭う。でも少しだけ、落ち着いてきた気もする。
授業中の時間では他に行き場もなく、ひとまず保健室の前までたどり着く。それでも、もしも中に万一息吹がいたらと思うと、なかなかノックできなかった。今はきっと、向き合うにはまだ早い。
「芽吹?」
「え」
振り返ると、驚いた顔の安達が立っていた。驚いたのはこっちだ。お陰で性懲りもなく滲み始めていた涙が、すっと引いてしまった。
「どうして、今、授業中ですよ」
「や、お前のがどうしたんだよ」
手首を掴まれそうになり、それを咄嗟に避ける。
ここ数日、手探りで構築されていた新しい距離感。それが急に崩れかける予感に、酷く動揺した。
「っ……悪い。つい、勝手に動いてた。馴れ馴れしすぎたな」
「ち、違います。先輩のせいじゃありません、から」
慌てて首を横に振る芽吹に、安達が困ったような笑みになる。
「俺のせいじゃないのがマジだとしたら、やっぱり原因は、あの人か」
「え?」
「5限の時間にな、誰かさんから因縁つけられた。うちの芽吹に何してんだってさ」
「……」
息吹、と心の中に零す。
瞬間、予兆も感じる間もなく、ぼろぼろと涙が落ちていく。駄目だ。本当に涙腺が馬鹿になっている。
その場をしのぐ言葉を紡ごうとする芽吹の手首を、今度こそ安達の手が掴んだ。驚く芽吹に、安達が口を開く。
「ひとつだけ、教えろよ。お前がそんな風に壊れそうなのは、兄貴への恋心がはっきりしたからか」
「……恋?」
甘ったるいその単語が、涙の海に浮かんで、ゆらゆらと優雅に泳いでいく。
こちらに差し出される、大きくて指先の硬い手のひら。それに求めていたものは、見返りの恋心?
「そこまで」
がらり、と保健室の扉が開いた。
「安達。お前、こうなることも覚悟して、戦線離脱したんじゃなかったのか?」
別の手が芽吹の手首を引き、保健室に無理矢理引き込まれる。
視界の端に、白衣がふわりと揺れた。
「それならせめて、こいつのペースを守ってやれ」
小笠原の静かな言葉を最後に、戸が閉まった。
保健室には小笠原以外おらず、白い整然とした空間が整っていた。
今起こったやりとりに呆然とする。そんな芽吹をよそに、小笠原は慣れた手つきで室内の水道でタオルを濡らした。
「小笠原先生、あの」
「お前の周りは、感情に正直過ぎる奴ばかりだな」
背を向けながら言う小笠原が、電子レンジにタオルを突っ込む。
「蒸しタオルを作ってやる。そこで大人しくしてろ」
「……先生がモテる理由が、改めてわかりました」
「無駄口叩く元気があるなら、今すぐ追い出すぞ」
もちろん追い出す素振りなど見せることなく、小笠原から蒸しタオルを渡された。
続いて用意された冷たいタオルも傍らに置かれ、小笠原は再び自分の仕事に戻った。
言われたように芽吹はタオルを交互に当てながら、ベッドにぼうっと横になる。
「最近、涙腺が仕事のしすぎなんです。ふとした拍子にだらだら垂れ流し状態で……困ったものです」
「それで少しは、日頃のストレスを軽減できるんじゃねえのか」
返ってくるとは思わなかった返答に、少し驚く。
「先生」
「なんだ」
「先生は今、恋愛してますか」
「……ああ。してる」
「まじですか」
「お前が聞いたんだろ」
「あ、大丈夫です。誰にもバラしませんから」
「なに、人の弱み握った顔してんだ」
パソコン作業の音が小さく響く中、淡々とした会話の間でそっと言葉が引き出される。
「先生」
「なんだ」
「学生時代の息吹って、安達先輩に似てましたか」
(4)
タイピング音が、一瞬だけ空白を作った。
「言われてみれば、似てるところもあるか。変に手がかかるところが」
「ふふ、見てみたかったなあ。学生時代の息吹」
「家を探せば、写真くらいあるだろ」
「なかったんですよ。1枚も」
「そうなのか」
「はい。ありませんでした。写真だけじゃ、なくて……」
血の繋がりも、とは言えなかった。
言ったら最後、何かとてつもないことが起こりそうで。
性懲りもなくこみ上げるもに蒸しタオルを押し当てると、小笠原が黙って見やる。
「なるほど。消えそうな、か」
「え?」
「いや。お喋りは終いだ。今は、何も考えないで寝てろ」
「……はい」
時々薄く泣きながら、それでも芽吹は静かに寝付いた。悪夢に追われない睡眠は、久しぶりだった。
夢の奥で、ほのかに燻された煙草の香りがした。
保健室で仮眠を取ったあと、クラスに戻った芽吹を奈津美と華が出迎えた。
他のクラスメートの視線も自然と集まる。授業中に急に涙を流し始めたんだ。その反応が正常だろう。
当然のように芽吹の心配をしてくれる2人に、芽吹は少しすっきりした頭で大丈夫と返した。
「でもねえ、めっちゃ不謹慎だけど、写真撮りたいくらい綺麗な涙だったよ。さっきの芽吹ちゃん」
「奈津美、本当に不謹慎」
「そ、そんな素敵なもんじゃなかったでしょ。情けなくてもう」
「そんなことないよ!」
「え」
芽吹たちの会話に、ふと横から他のクラスメイトが参加してくる。
「正直、さっきの芽吹ちゃんの泣き顔、胸がキューンとしたもん。ねえ?」
「おい、こっちに話を振るなって。反応に困るべ」
「だってあんたもさっき言ってたことじゃん」
「おいそれ言うな!」
元気づけてくれる人の存在に感謝する。
その言葉すらはね除けようとする自分もたまに姿を見せるけれど、少し外に吐き出したからだろうか。今はその温かさを素直に受け取ることができた。
「それで、例の話をしようってことだったよね?」
そして、今日中に交わす予定だった話を奈津美に振る。
「ん。芽吹の体調が問題ないのが本当ならね、写真撮影で、ここに行こうと思ってるの」
「……ここ、は。もしかして、工場?」
奈津美のスマホに表示されていたのは、道東の端にある小規模な工場跡地だった。
勝手に豊かな自然が広がる光景を想像していたので、冷たいコンクリートが主の風景は少し意外だった。
夜の海に寄り添うように工場廃墟に包まれた世界。色鮮やかとは言いがたいが、日常から離れた不思議な魅力がじわりと届く。
「ちなみに芽吹の衣装も用意しています。日程は事前に話してた通り、来週末の土日で1泊2日。近郊のホテルも予約済み」
「うわあ……奈津美の行動力がいかんなく発揮されてるね」
「交通手段は、やっぱり車?」
「うん。息吹さんがレンタカー借りてくれるって」
すっかり親しみのこもった「息吹さん」の名に、一瞬胸が潰れそうになる。
この教室で、息吹は奈津美と週末のことを話し合ったのだ。夕日を浴びる2人の姿は、たいそう美しく見えるだろう。自分を映す写真なんかよりも、ずっと。
そんな思考を巡らせる自分に気づき、芽吹は我に返った。
「ホテルの部屋は、私と華で1部屋。芽吹と息吹さんで1部屋ね」
「……えっ」
「うん?」
あっけらかんと言う奈津美に、反応が遅れる。
でも、それが普通か。兄妹なんだから。
「わかった。楽しみ」
胸中の独り言のように返答が上滑りしなかったのは、芽吹にとって幸いだった。
「息吹。明日の準備はもう終わった?」
写真遠征前日。
一通りの荷造りを終えた芽吹が、リビングでくつろぐ息吹に声をかけた。
「へーき。男の準備なんて、そんな大それたもんじゃないし」
「運転手がもたついたら、予定が全部押すことになるでしょ。いいから早く支度する!」
「えー。だってパンツくらいでしょ」
「し・た・く・し・ろ」
引き下がらないと踏んだ息吹が、渋々ソファーから立ち上がる。
この数日で、芽吹の気持ちも大分落ち着いていた。それと同時にはっきりしたことがある。
芽吹は息吹とのこの関係を、大切に思ってる。初対面の時では考えられないくらいに、強く。
願わくばずっと、このまま、兄と妹として──。
「……っ、う」
「芽吹?」
突然すきりと頭が痛み、こめかみを強く押さえた。それを見て、リビングを去りかけていた息吹が素早く背中を支える。
最近落ち着いてきた気持ちに代わって、こんな具合に原因不明の頭痛があった。
生理前には以前からよくあったが、こうも頻発するのは初めてだ。
「また、頭痛? こっち来て、座ってなよ」
「ん、大丈夫。続くようなら、薬飲むから」
「いいから。こっち」
断じるように告げた言葉が、予想以上に近い距離で吹き込まれた。
体が浮遊する感覚に、自分が抱き上げられているのだと気づく。
「だ、大丈夫だってば、下ろしてっ」
「ばたばたしない。黙って運ばれなって」
「恥ずかしいんだってば」
「ねえ、このやりとり、デジャヴだと思わない? 先週薬箱取ろうとして倒れかけたの、誰だっけ」
「……」
記憶に新しい醜態を引き合いに出され、返す言葉がない。
芽吹を運ぶ息吹の手つきが、やけに恭しく感じられる。見上げると視線が合うとわかっていたので、芽吹はそっと視線を落として胸の動悸をやり過ごすしかなかった。
ここ数日、息吹のスキンシップがより激しくなってるのは気のせいだろうか。
顔が熱くなる。兄と妹でいたいなら、妙に意識をすること自体も止めにしたいのに。
「今、薬取ってくるから。頭動かさないで待ってなよ」
異論を認める空気もなく、大人しく言われた通りソファーに横たわる。
薬の種類も錠数もマスターしたらしい。水とともに自信満々に持って戻ってくる兄の姿に、何故だか胸が温かくなった。
今の痛みの程度を考えると、薬を喉に通せば10分もすれば効いてくる。それまでの辛抱だ。
息吹に礼を言うと、真っ直ぐな視線とぶつかった。あ、しまった。さっきまで、この瞳をうまく交わしていたつもりだったのに。
「芽吹さ」
ソファーの前に膝をついた息吹とは、距離も随分と近い。
「な、なに?」
「奈津美ちゃんも言ってたけど。芽吹、最近綺麗になったね」
きれい。
写真モデルを始めて以降、ほんの時折応援がてら投げかけられるようになった言葉だ。
「そう、かな。何やかんやモデルを引き受けてから、色々手入れを気をつけるようになったしね」
「いや、もともと芽吹は可愛かったし。そういうんじゃない」
「そういうんじゃない、って?」
聞き返すと、珍しく息吹は一瞬視線を横に浮かばせた。
「息吹?」
「もしかして、それってさ、あだ」
そのとき、来訪者を知らせるチャイムが鳴る。
振り返った先のモニターには、思いがけない人物の姿が映っていた。
安達先輩──思わず名を呼ぶ直前に、息吹が素早く腰を上げモニターの受話器を取り上げる。
「帰れストーカー」
ガシャン、と受話器を置いた息吹は、清々しい笑みを浮かべていた。いやいやいや。
「ちょっと息吹! そんな乱暴な」
「こんな時間に来るとか非常識なストーカーだねえ。通報しよっか」
ストーカーに常識とか非常識とかあるのか。というか、非常識の塊みたいな人間が何を言ってるんだ。
本気で通報しそうな息吹から、慌てて家電の子機を奪い取る。
「すみません、今出ますっ」
背後のうるさい非難の声とまだ微かに残る頭痛を無視して、芽吹は玄関へと急いだ。
(5)
「安達先輩」
「悪い、こんな時間にストーカーして」
シンプルなTシャツにパーカーを羽織り、安達は門柵の前に立っていた。
苦笑を浮かべながら小さな冗談を言う姿に、ほっと安堵の息をつく。
保健室での短いやりとりの後、結局部活での最低限度のやりとりに留まったままだったのだ。
「すみません、さっきのは息吹が勝手に……」
「悪いと思ってんなら今すぐ帰れ、ストーカー」
「ちょっと、息吹!」
後ろで帰れオーラを出し続ける息吹に、芽吹は溜め息とともに鋭い視線を突き刺す。
「息吹はいいから、中に入ってて。聞き耳立てないでよ」
「んー……わかった。それじゃ」
ガラガラ、ガシャン、と金属音が夜の住宅地に響く。
いつもは開いたままになっている門扉とその留め具を、息吹がさくっとかけた。胸の高さまである柵に隔たれた2人の姿に、息吹は満足げに頷く。
「5分だけね。ちゃんと迎えに出るから」
玄関へ消えていった兄の姿に、再びため息が漏れる。
「本当、子どもみたいで……すみません」
「いや。別に気にしねーよ。そんなことより……」
夜の住宅地を照らすものは、街灯と家からかすかに漏れる明かりしかない。
そんな中でも、安達の瞳が柔らかく細められたのがわかった。
「その……元気そうだな」
「何とか。と言っても、部活で毎日会ってますよね?」
「だな。でも、なかなか話しかける空気じゃねーから」
「そう、ですね。さすがにお互い気まずいですよね。はは」
「俺はいいんだ。自業自得。でも、お前が……」
一瞬言葉を詰まらせた後、頭をかきながら続けられた。
「お前の最近見せる笑顔が、時々なんだけど、すっげー脆く見えてさ」
意外な指摘だった。
自分では既にほとんど癒えていると思っていた衝撃が、まだ目に見えるほどだったのだろうか。奈津美にも華にも、最近は心配そうな顔をさせていなかったはずだ。
それとも……安達だけには、伝わってしまっていた?
「本当に、悪い。俺がこんなこと言う立場じゃねえ。こんなお節介焼く資格もねえよな。小笠原先生に言われた通り、覚悟が足りなすぎた」
「先輩……」
「でも、こんな俺でも聞ける話があるなら、吐き出し口に使ってほしい。独り言を言うつもりでも、なんでもいい」
「そんな、使ってだなんて」
「俺は、お前が好きだよ」
夜風が横切る。
外なのにどこか籠もっているいるようだった互いの距離に、新しい空気が流れ込んだ。
「あの兄貴が好きなら──なんて、嫉妬まみれの言葉投げつけておいて、しょうもないよな。あんな無様な姿見せて、正直今更お前に好かれようなんて、都合よすぎだってこともわかってる」
「っ……」
「でも……お前の気持ちに関係なく、やっぱ俺は、芽吹のことが好きだ。この1週間話しかけることもできないでいて……つくづく思い知った」
気持ちを綺麗に映し出した言葉が、芽吹を包んでいく。
表情を忙しく変えながらもその実直すぎる告白に、胸の奥がぎゅっと苦しいくらい締め付けられた。
息を吸おうとするも失敗し、唇がかすかに震えを帯びる。
「先輩は、すごいですね」
「え?」
「私はそんなに、潔く、自分のことを認められない」
目の前の門扉に手をかける。
もうすぐ息吹が来るかもしれない。涙は、堪えなければ。
「私……怖いんです。最近は大分収まっていると……そう、自分に言い聞かせてました。でも本当は今も、どうしたらいいのか、わからなくなる」
「芽吹」
柵を掴んだ手に、安達の大きな手のひらがそっと重なった。
「それは、写真のモデルのことでか?」
「いいえ」
「それじゃあ、やっぱその……あの兄貴のことか?」
安達の問いかけに、芽吹は小さく頷いた。
大きな不安だけが常に頭の上にあって、でもその正体がわからない。見て見ぬふりをしても、どこまでも追いかけてくる。
「あのさ、すっげーピントずれた答えかもしれないけど」
小刻みに震える芽吹の手を、安達が力強く包みこんだ。
「あの兄貴にとっては、芽吹の存在が、大きな支えなんだと……思う」
屋上に呼び出されて起こったいざこざの直後、安達はドア越しに息吹の弱い呟きを聞いていた。
──芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──
「あの言葉を聞いて、正直圧倒された。あの人は変人だし常識外れもいいとこだけど、そういう想いは、つえーよな」
「っ……」
「だから、俺でも友達でも、この際あの兄貴でもいい。話せそうになったら、少しずつ吐き出せばいいって。みんな、お前のことが大切で、心配してる」
頭を撫でられる。それはとても心地のいい温度で心が少し軽くなった。
その手が頬に降りてきたのを感じ、芽吹はそっと手を乗せる。安達の指先が、微かに震えた。
「ありがとうございます、安達先輩」
「め、ぶき」
「さっきインターホンが鳴って、安達先輩が会いに来てくれたって知って、……嬉しかった」
本当は保健室前で鉢合わせたあの時も、同じ気持ちだった。
もし安達が今の状況を「寂しい」と感じてくれているのなら、自分も同じなんだと、今ならはっきり答えることができる。
「……っ、あの、さ」
「はーい。5分経過しました」
いつの間にか開けられていた扉に、息吹が無表情でもたれていた。
「もう話は済んだよね。気をつけて帰ってね安達くん。また学校で」
「ちょ、息吹! そんな態度は……」
「っ、明日からの土日、部活休むって聞いた。例の写真撮影の本番なんだよな!?」
中に引きずりこまれる芽吹に向かって、安達が大きな声を張った。
「頑張れよ! いつも応援されてる野球部の奴らも、お前のこと応援してるってこと、ちゃんと覚えとけ!」
「……はい!」
扉が閉じられた。
北海道の夜は、夏の今でもほんのり冷える。それでも、胸の奥は驚くほど温まっていた。
「で。話は済んだの」
「あのね。強制で断ち切っておいて、今更聞く?」
「……5分じゃなくて、3分にしときゃよかった」
幾分か表情が柔らかくなっている芽吹に、息吹が面白くなさそうに眉を寄せる。
ぶつくさ言いながらリビングへ向かう兄の姿に、芽吹は密かに笑みを零した。
(1)
自分たちの住む北海道は、知ってはいたがだだっ広い。それはもう果てしないほど。
晩夏を迎えたはずの大地は、注がれる日差しに素直に熱を帯び、滲む汗を幾度となく手の甲で拭った。
「暑い」
「え、そう? クーラー強くする?」
「車内温度じゃないの。この車のチョイスのこと。やっぱり、暑っ苦しいわ」
助手席で吐き捨てた芽吹は、隣で首を傾げる息吹を経由し、フロントガラスから覗く車体を視界細く見やった。
無難な車種を選んだものと思っていた予想は見事に覆され、息吹がいつもの笑顔で乗り入れてきたのは真っ赤な左ハンドルの外国車だった。
「いや、別に良いんだけどさ。どうしてこんな派手な車にするかな」
「左運転の方が慣れてるからね-。それに土地勘のない土地に行くなら、目立つ色の方が車見つけやすいでしょ」
そうか、息吹の仕事の拠点は外国だったから。心の中で小さく納得する。
それはそうと、今もチラチラ視界を掠める朱色が、妙に心を刺激する。ただでさえ、今日は度胸のいる予定が控えているというのに。
「そっかなー、私は見たときすっごいテンション上がったし、良いと思うけど。ね、華」
「ん。奈津美、すかさずカメラ構えてた」
「でしょ?」
「……2人とも、あまりこれを甘やかさないでいいからね」
後部座席から届いた弾む声と一緒に、先ほど購入した昼食を受け取る。
ほかほか湯気を出す芋餅に、色とりどりの野菜とキノコのソテーが挟まったコッペパン。眠気覚ましのコーヒーとガム。
「いいねえ。なんだか遠足って感じ」
「はいはい。今、何か食べる? 芋餅かパンか」
「芋餅。かぶりつくから、こっち寄せて」
子どもか。とはいえ片手運転させるのも躊躇われ、言われたとおりに芋餅の串を差し出す。
芽吹の手の甲ほどの大きさのそれに、躊躇なく一口でかぶりつく。満足げに目を細めた息吹は、ぐっと親指を立てた。片手運転をさせまいとした配慮を返してほしい。
「相変わらず仲いいねえ」
「そりゃーもう。そんじょそこらの兄妹には負けないよ」
そんじょそこらの兄妹って誰のことだ。
その後、奈津美の兄の話や華の由緒正しい家のこと、そして小笠原の学生時代に至るまで多岐に渡る話をした。
個人情報はこうして漏れていくのだろう。奈津美は予想通り興味津々に脳内にメモをしていた様子だった。その隣では、華も静かに昔話に耳を傾ける。芽吹の予想通りに。
そして話題が当たり障りない世間話に落ち着くと、後部座席からは規則的な寝息が聞こえてきた。
「眠った?」
「うん。途中からずっとあんたばかり話してるから」
「作戦だよ。勝負はこれからなのに、車の中で休まないでいたら体力が持たないでしょ」
まことしやかに話す兄にうろんな目線を投げる。それでも振り返った先の2人が仲良く肩を寄せ合っている姿に、すぐに笑みが浮かんできた。長身の奈津美と小柄な華がこうして並ぶと、それこそ仲の良い姉妹みたいだ。
「それにしても、やっぱり結構時間かかるね。目的地まであと1時間弱か」
「芽吹も眠りなよ。着いたら起こすし」
「うーん、そうだね……」
お言葉に甘えてあれこれと寝る体勢を試していると、ふと息吹の横顔に視線が向いた。
その横顔はいつものふわふわ軽い調子はなりを潜め、コーヒーを口に運び、また戻す。
凜とした表情。長い睫が車の揺れで小さく揺れ、少し気怠げに瞬きをする。
黙っていれば、やっぱり格好良い。最初こそすぐには認められなかったことを、今は素直に胸に宿すことができる。
芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──って。
あの言葉を聞いて、正直圧倒された。
昨夜わざわざ手渡された安達からの言葉。あの言葉のお陰かもしれない、と微睡む意識の中で感謝した。
「息吹」
「うん?」
「……い、ぶき」
柔らかな日差しが温かく瞼を伏せさせる。
「ほんと、可愛いんだから」意識が途切れる瞬間、そっと額に手のひらが置かれた感触が残った。
「イメージは、残された記憶。人の気配もなくなったこの場所で、それでも消えることのない人たちの記憶。それを芽吹に表現してほしい」
衣装の細かな部分を調整しながら、奈津美が説明する。
それは今までの撮影練習でも決まって行われていたことで、だからこそ、奈津美の微かな緊張と大きな熱意が伝わってきた。
「だから、芽吹は『記憶そのもの』なの。カメラに向かってアクティブにならなくてもいい。こっちが密かに覗き込んでるイメージかな。だから芽吹は、リラックスして佇んでいてくれればOK」
「了解。それが1番難しかったりするんだけどね。頑張ろう」
「大丈夫、私も同じ。それじゃ、いこうか!」
車の後部座席を降りると、遮断されていた屋外の明るさが一気に目に刺さる。
視線を先に向けると、広がる光景にはっと息を飲んだ。
スマホの狭い画面で見るのとは訳が違う。同じ地に立ってみて始めて感じる、廃墟と化した工場の冷たさと寂しさが、胸を大きく突いた。
工場を吹き付ける風が、まるでこちらを拒むように吹き付ける。自分たちだけが異質の空間に圧倒され、すっと背筋が凍った。
「芽吹」
(2)
「っ……、あ」
その声と差し出された手に、靄かかっていた思考がふっと明瞭になる。
「着替えお疲れさま。準備はいい?」
「ありがとう、息吹」
見ると、先に車を降りていた息吹と華が、既に撮影の準備を整えていた。
カメラとつなげるためのパソコンは既に屋外にしっかり固定され、小型の日よけの設置も済んでいる。
「息吹さん。必要ならこのタオル、使ってください」
「ありがと華ちゃん。腰のポケットにズボッと入れておいてくれる?」
「わかりました」
てきぱきと小道具の準備をする華も、思いのほか息吹とスムーズな連携ができている。
いつものイメージとは違う華のジーンズ姿も、とても格好良い。
「息吹さん、今日の日光の具合を考えてEV補正をしたんですけど」
「ん。何枚か撮ってみて、確認してみようか」
同時に車を降りた奈津美は、いつの間にか三脚カメラで細かな調整を行う。
試し撮りの写真を数枚確認する奈津美と息吹は、並ぶ横顔が凜と鋭い。
そんなひとつひとつの周囲の光景が、クリアに見えてくる。すうと息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
よし。大丈夫。大丈夫だ。だってみんながいてくれるから。
「それじゃあ、できればサクッと撮影を済ませましょう。よろしくお願いします!」
奈津美の音頭とともに、各々が役割の位置に着いていく。
「芽吹。足元かなり不安定だから、怪我のないように気をつけて」
「うん。わかった」
確かに、想像以上に足元の砂利が大きく、しっかり踏みしめないとぐらつく。加えて今履いているのは、まだ足を通したばかりのミュールだ。
慎重に踏み出したはずの足は、思いも寄らない方向へと滑りあげた。
気づいたときは、ミュールの爪先は青く広い空をさしていた。
「……えっ」
耳元にかかる熱い息。
「い、ぶき?」
「足、怪我するかもでしょ。向こうまで運ぶから、じっとして」
それは昨夜頭痛を起こしたときに感じたそれと重なり、今自分が息吹に抱き上げられているのだと気づいた。
一瞬突き刺すような親友2人の視線を感じだが、確かに息吹の言い分も一理あった。さらに、今ここで暴れて転倒したら息吹も怪我をしかねない。
「せめて、抱き上げる前に一言欲しいんだけど」
「そんなことしたら、芽吹は恥ずかしがって断るじゃん」
沈黙で肯定すると、息吹は何故か嬉しそうに口元を綻ばせる。
「衣装なんて言うからフリフリしたドレスでも出るかと思ったけど、白いワンピースか」
「そんな衣装、私に似合うわけないでしょ」
「芽吹なら何でも可愛いって思うよ、俺は」
「はいはい」
照れそうになる自分を振り切るように、素早く淡泊な口調を返す。
「モデルが主役の写真じゃないから、背景に馴染む色がちょうど良いんだって」
「なるほどね」
立ち位置付近まで来た。声をかけようと口を開いた芽吹を、息吹は真っ直ぐ見下ろしていた。
「なんだか、シンプルなウエディングドレスみたい」
「え」
「はい。到着」
結局、発するはずだった言葉は空に溶け、芽吹はゆっくりと地面に下ろされた。
「それじゃ、頑張って」
「……そりゃもちろん」
遠ざかる息吹の背中を見つめる。
奈津美のかけ声にすっと瞼を閉じ、廃墟の「記憶」となって目を覚ます。その間頭にあったのは、たった今向けられた視線だ。
ウエディングドレスみたい。そう言う兄の目は、まるで思い出の写真を見つめるようだった。
宿泊予定のホテルには、予定通り16時過ぎに到着できた。
「それじゃあ、18時の夕食の時間に迎えに来るね」
「うん。それまではひとまずお疲れさま」
ぱたん。部屋の扉を閉じた瞬間から、この空間には芽吹と息吹の2人きりだ。
よたよたと足を引きずった芽吹は、力尽きたようにベッドにダイブする。
「奈津美ちゃんたちの部屋は、この部屋の2つ隣みたいだね」
「……、……ぃ」
「うん。いいよ。思いの丈を叫んでも」
「いたい。痛い。足の靴擦れが、死ぬほど痛いぃ!!」
憂さ晴らしに近い声量で叫ぶ。それほどまでに、この痛みは酷いものだった。最近の頭痛の方がましとさえ思えるほどに。
撮影も終盤にさしかかり、一種のトランス状態になっていた時に踏み出した跳躍。その後着地。ぐっと留まった瞬間、弾かれるように我に返った。ほとばしる痛みによってだ。
幸い、その直後に奈津美の「お疲れ様ー!」の声が響いた。痛みに震えそうになる声を抑え込み、笑顔で3人の元に戻ろうとする。
そんな妹を止めたのは、やはり兄の声だった。
「お疲れさま。良い写真が撮れたよ。頑張ったね」
「そっか、よかった……」
「──芽吹が履いてたスニーカー、車から持ってきた。ミュールのストラップ外したげるから、じっとして」
ここまでくると、息吹の察しの良さに驚かなくなっていた。
外が暗がりになっていたこともあり、血が滲んだミュールは気づかれることなく荷物鞄にしまわれた。それでも、スニーカーに履き替えてもなお鈍痛が届いて、何度も声を上げそうになった。
「夕食までまだ時間あるし、ちゃんと手当てした方がいいね。俺、近所のドラッグストアで買い出ししてくるよ」
(3)
「え? いや、叫んでから言うのもなんだけど、休ませればそのうち落ち着くと思うから」
「はいはい。変な遠慮しない」
瞬間、慌てて起こした芽吹の上体が再びベッドに沈められる。
視界には微かに呆れを含んだ息吹の表情と、部屋の天井が広がっていた。
「女の子なら、体は大事にしないと。ここに来る途中でちゃんと店の目星はつけてきたから、20分くらいで戻れる。それまで大人しくしてること。わかった?」
「…………わかりました」
「素直だね。それじゃ、行ってくる」
目の前の眼差しがふわりと柔らかくなり、頭をあやすように撫でられる。
キーを手に部屋を後にした兄を見送り、限界ギリギリまでの長い溜め息を吐いた。女の子なら、なんてよく言う。
「……男なら、臆面なく女の子を押し倒すの、勘弁して欲しい……」
でも仕方ない。こういう男だから、きっと息吹は両親に信用されたんだろう。
以前保健室であった事故みたいなキスも、下心なんて微塵も感じなかった。そうでなければ、兄妹として共同生活を継続できたとは思えない。
しかし暇だ。足に負担をかけないように再度上体を起こすと、傍らに置いていた自分の鞄に手を伸ばす。
「今日はもう特段予定もないし、ご飯食べてお風呂入って眠るだけかな。明日は今日の出来次第で再撮影って言ってたけれど──、あれ」
ふと鞄の外ポケットに突っ込んでいたスマホが、通知メッセージを浮かべていることに気づいた。
不在着信。お母さんからだ。撮影中にかかっていたらしいが、撮影後は足の痛みに耐えるので精一杯だったのでスマホを確認する余裕もなかった。
でも電話なんて珍しい。微かな不安を覚えながら、芽吹は電話をかけ直す。
「──あ。もしもし芽吹?」
そしてその不安は一瞬で霧散した。
いつもと何ら変わらない、明るい母親の声色を耳にして。
「着信に気づくの遅れちゃった。ごめん」
「ああ、いーのいーの。っていうか今大丈夫? 確か友達の撮影会があるとか何とか」
「うん。それはついさっき無事に終わったよ。まだわからないけれど、奈津美はすごく良い出来だって満足そうだった」
「そっか。……でもまさか、芽吹が写真のモデルになる日が来るとはね」
「ね。私もびっくり」
くすくすとよく似た笑い声が重なる。
芽吹の写真嫌いを、嫌というほど実感してきたのは母も同様だった。今までいらない心労を負わせてきたことは心苦しいが、それも明るく話せる今を嬉しく思う。
「それで、息吹は? あの子ももしかして、芽吹のことをカメラで撮ったりなんてことは……」
「ううん。息吹はあくまでアドバイザーで、カメラを覗きもしなかったから」
明るい口調を意識したはずなのに、わかりやすくトーンが落ちてしまう自分に驚く。
正直、言葉には出さないまでも期待はしていた。
自分がカメラ嫌いを克服した集大成のこの撮影の場所で。もしかしたら、息吹のカメラを手放そうとする手を引き留めることができるのではないかと。
欲を言えば、息吹のカメラでも、自分の姿を収めてくれるのではないかと。
でも、息吹は結局、1度もそうした素振りを見せないままだった。
「そっかあ。まあ、あの子にも色々葛藤があるから仕方ないわね」
「ねえ、お母さんは知ってるの? 息吹がカメラから離れようとしてる理由」
「何となくは、ね。これでも一応母親ですから」
母親──その言葉には、白々しい軽さは一切感じない。
「はは。っていっても、血縁関係のある母親ではないし、察しが悪いところの方が多いだろうけどね」
「そんなことないよ」
今こうして話して、すとんと胸に落ちるものを感じる。
息吹との血の繋がりが否定されたあの夜、どうしてあんなにも混乱したのか。
母親が息吹の母親であることに、疑問を挟む余地がなかったからだ。それだけ息吹に対する母親の態度は、ただ純粋に子を思う親のそれだった。
「……ね、お母さん」
「うん? どした?」
「ごめんなさい」
不意に口についたのは、謝罪の言葉だった。
「本当は……本当はね。前に送ったメッセージの内容、嘘ばっかりだったんだ」
「え?」
「息吹と、息吹の亡くなったお母さんのことを話したっていったこと。本当は、自分と息吹に血の繋がりがないってこと、あの夜に初めて知ったの。アルバムを漁っていたときに……本当に偶然だった」
受話器の向こうで、小さく息を飲んだ気配が届いた。
芋づる式に吐き出された熱い吐息には、涙に似た塩っぽさが滲んでいる。
「でも、知らなかったのが自分だけかと思うと情けなくて、恥ずかしくて。子どもみたいな意地を張って、あんな風にお母さんにメッセージを送ることでしか、確信を持てなくて。ごめんなさい。馬鹿な嘘を吐いて」
「……芽吹が謝ることじゃないよ」
誰もいない部屋なのに、母親の撫でる手を感じた。
「謝るのは、私たちのほう。あなたにそんなふうに悩ませるくらいなら、やっぱり改めて息吹のことを話しておくべきだったわ」
「お母さん……」
「だから、泣くのは止めなさい」
(4)
泣いてないよ、と鼻声で答えると、母親も鼻声で笑った。
「本当はね。私たちが日本を発つ前に、芽吹に改めて息吹のことを話すことも考えたの。息吹のことを正確に説明するには腰を据えて話す必要があったけれど、そんな機会をなかなかとれないまま来てしまったからね」
「うん」
「そのことを息吹にも伝えたの。でも、息吹は話さなくてもいいって言ったわ。自分は芽吹を大切な妹だと思ってる。それで十分でしょ──ってね」
息が詰まった。
熱くて、寂しくて、優しい想いが、いっぱいに膨らんで。
「正直言うとね、私たちもそれがいいと思ったの。あなたたち2人には仲良く暮らして欲しかったから。少しずつでもいい、兄妹としての絆を築いて欲しかったのよ。息吹に、あなたの帰る家はここにあるよって、感じて欲しくて……」
語尾が震え、母親の言葉が途切れた。
自分の帰る家がない。そんなことは想像したこともなかった。その瞬間、胸を巣喰うような大きな不安が一気に押し寄せてくる。
幼い頃に両親を亡くし、新たな家族と苗字を違えたまま、高校進学と同時に実家を去った。国をまたいでカメラを抱えて過ごす日々さえも、今は断ち切られて。
その腕を掴んで引き留める術を、自分は持っているんだろうか。
「ねえ、お母さん」
「……うん?」
「私ね、息吹のこと、もっと知りたい」
その後、時間を気にしつつ母子の会話を交わした。着信を切った後も、しばらくその余韻を含む息が漏れる。
よかった、と思った。息吹のことを少しでも知ることができたから。そして、今までなかなか踏ん切りがつかなかった覚悟も。
時計の長針が、思いがけず傾きを急にしていく。あれ? そう思った瞬間、芽吹は血が滲む方の足を踏み込んだ。ズキリと走る痛みを押して、部屋の扉を開ける。
ビニル袋が擦れる音が、小さく廊下に響いた。
ドアノブにかけられたその中には、包帯と絆創膏と消毒液と痛み止めが複数個詰め込まれている。
「……、ばか」
こんなものを大量に買い込んで、肝心のあんたはどこに行った!
靴擦れの足にのみ急いで靴下を履き、スニーカーに足を通す。目についたスマホと財布をひったくるように掴み、芽吹は部屋を後にした。
息吹は携帯電話を持っていない。
衝動的に飛び出した芽吹は、ひとまず駐車場の方へ足を運んだ。日が傾いている今でも悪目立ちするだろう赤い外車は、目に映らない。
車で行くにしても、変に遠くには行かないだろう。じゃないと私たち3人は、土地勘のないこの宿に置いてきぼりだ。
それならいっそ、部屋で大人しく待っているという選択肢もある。冷静に自分に告げる声が聞こえたが、今の芽吹には完全に思考の外に弾き出された。
息吹に、さっきの会話を聞かれた。
それは芽吹には決して後ろ暗い内容ではなかったが、息吹は一体どう受け止めて解釈されたのか。一体どの部分を聞かれた? 何を思って解放道具だけ残して姿を消したのか?
浮かんでは消え、浮かんでは消える疑問符は、芽吹の胸をただただ苦しめる。
息吹がこんな風に姿を消すなんて、今までなかった。
どんなに気まずい出来事があっても、息吹はいつも通りだった。飄々とした雰囲気で、何かあったっけみたいな顔をしていたのに。
「……っ、息吹!」
駐車場を抜けだし、細い通りを駆け上がる。ズキズキ痛む足の傷も、まるで奮起した自分の背を押す気がするから不思議だ。
だって、本当は、ちゃんと話したかった。
面と向かって、泣いても笑ってもいいから、話したかったんだよ──息吹(あんた)と。
大通りに出る。観光時期では閑散期ということもあり、車通りは驚くほど少ない。
夕焼けが辺りを染める。まだまだ明るいはずの時間帯なのに、目にする無人の光景は酷く暗く感じた。
同時に、最近、こんな光景を見た、と思った。
「……悪夢」
最近、忘れかけた頃によぎる夢。
誰もいない暗い道をひたすら歩いて、いつの間にか早足になり、ついには全速力で駆け出している。
何か大声で叫んでいるんだけど、その声は聞こえなくて、ますます恐怖が胸を上っていく。
自分は一体何を叫んでいるのか、何を求めているのか。それを考え始めた頃に、いつもふっと瞼が開くのだ。
「っ……息吹! どこ行ったの!」
でも、今は違う。夢じゃない、現実だ。
足を止めるのももどかしく、勝手に選んだ道を進み声を張る。
何度かその名を呼んだ後、小さくむせ込んで膝に手を付いた。履いているスニーカーが視界に入る。
「足、痛いって言ってるでしょ、ばか……」
ぐず、と鼻が鳴る。
迷子になったときの心細さって、こんな感じだったっけ。でも今迷子になってるのは、三十路のいい大人の方だ。
そのとき、傍らに1台の車が止まった。車体の色は派手な黄色。タクシーだ。
「どうかしましたかー。体調でも?」
「……だい、じょうぶです」
愛想笑いを浮かべる。しかしすぐに、親切で開けてもらった窓ガラスを両手で掴みかかった。
「あの、兄が乗ってる車を探していて。赤い外車、見かけませんでしたか!」
「あ、え? 赤い外車?」
唐突な言動に、当然のように運転手が顔を引きつらせる。
それでも、ゆっくり言葉をかみ砕いた様子で「ああ」と声を漏らした。
「見た見た。10分くらい前だったかな。あの通りを真っ直ぐ走っていく赤い車をね」
「追ってください!」
どこの刑事ドラマか知らない台詞の返事を待たず、芽吹はタクシーに乗り込んだ。
(5)
赤の外国車は、落ちかけた夕焼けが滲む近隣の高原で見つかった。
帰りを気遣うタクシーを見送った後、芽吹は外国車の中を確認する。やっぱり自分たちが乗ってきたものだ。目的の人物は、中にいない。
「でも、どうしてこんなところに」
零す言葉が辺りに溶けるより先に、「あ」と思い至る。
見渡すとそこには、街中の風景とは打って変わって雄大な赤紫の空が一面に広がっていた。揺れる草原と細く続く道の先には、小規模ながら並ぶ山々が薄く浮かび上がる。
芽吹の家で、似た風景を見てきた。何度も、何度も。
家族を毎日静かに見守ってくれていた、あの大きなフレームの中で。
「山が見える景色、好きなんだ」
そんなことだって、今まで知らなかった。歩を進めながら、決して見通しの悪くない高原で求める人影を探す。
「息吹……、息吹!」
ここにいるのは間違いない。あとは自分が見つけるだけだ。
それなのに、風がさらう高原の表面には誰の影も見つけられない。
「い、ぶき」
本当は、自分と息吹に血の繋がりがないってこと、あの夜に初めて知ったの──そう、芽吹は言った。
あの言葉をどう聞いて、感じて、自分から背を向けたのか。
「いぶき……っ」
もし何かあったら、兄ちゃんが守ってあげるからさ。
そう言ったでしょう。あの言葉があったから頑張れた。それなのに、あんたは。
「だったら……勝手に人の前からいなくならないでよ」
視界がぼやける。眉を寄せながら、ごしごしと目元を拭った。瞼が腫れる。
でも知るもんか、あんたのせいだ。
「勝手に、お兄ちゃんを辞めて、離れていかないでよお……っ!!」
「芽吹」
高原を撫でるような風が吹く。
元々無雑作感が否めないその髪には、辺りの草が紛れていた。そのうちの数本かが風に撒かれ、茜色に染まる草木に消えていく。
凪のような表情。その静けさに、芽吹は一瞬口を噤んだ。
「っ……い、ぶき」
「ごめん。急にいなくなったから、やっぱ驚かせたよね」
肯定と否定の言葉が、同時に胸に宿る。
驚いたよ。こんなに息を切らすくらい。でも言いたかったのは、そんな言葉じゃない。
兄としての優しさをはらんだ言葉に、芽吹はゆっくりと首を横に振った。
「……何も聞いてない振りは、しなくていいよ」
思った以上に、弱々しい響きになってしまった。そんな言葉にも、息吹の目は小さく見開かれる。
「さっきの電話の話、聞いてたんだよね?」
「……うん。ごめん」
「謝ることじゃ、ないでしょ」
いよいよ言葉尻が震える芽吹に、息吹は穏やかに息を吐いた。
「でも、ようやく合点がいった。最近の芽吹が、どこかずっと、苦しそうにしてた理由」
「っ……」
「俺のせいだったか。どうして気づかなかったのかなあ」
話したいと思っていた。苦しみから逃れるためじゃない。苦しみを受け入れるために。
それなのに、既に何もかも飲み込んだような息吹を前に、芽吹はくすぶる思いを持て余すしかできない。
「騙してて、ごめんね」
いつもは、うるさいくらいに向けてくる視線なのに。
「騙して、た?」
「うん。だってそうでしょ」
ねえ。私を、ちゃんと見て。
「俺は芽吹の兄でもなければ、家族でもないんだから」
乾いた音が、高原の静けさを鋭く切り裂いた。
いつの間にか荒くなっていた吐息に気づき、ぎゅっと口元を結ぶ。叩いた手が、怒りで震えていた。
ぶたれたままでいる息吹の頬は、微かに赤みを帯びていく。
「ドア越しの話し声は聞こえてたのに……さっき私が叫んでた声は聞こえてなかったの」
「……」
「いつもは馬鹿みたいに察しがいいくせに、聞こえなかったふりなんてしないでよ……っ」
震える指先をぎゅっと拳で覆う。
「今まで言ってくれた言葉も、全部全部、ただの出任せだったの」
妹を守るのが、お兄ちゃんの仕事でしょ。
だって俺、芽吹が世界で一番好きで、大切だから。
あんたに芽吹は渡さない、俺の、可愛い妹だからね。
馬鹿みたいに真っ直ぐで、シンプルで、迷いがない。恥ずかしくて仕方ない言葉の数々が、芽吹の背を確かに押してきた。
「私のこと、大切な妹って言ってくれたのも、全部全部、嘘だっ……」
泣きじゃくるようなわめき声は、体を覆うほどの広い胸に押し留められた。
背中に回る腕がまるで縋るようで、芽吹も同じように抱きしめる。
「……いじめないでよ」
「っ……ごめん。だけど、でも、だって……!」
「うん。ごめん酷いこと言って。ちょっと、自棄になってた」
回された腕に、ぎゅっと力が籠もる。
そっと見上げると、落陽に染まる息吹の綺麗な眼差しが注がれていた。
今にも何かが滲みそうな、危うさをはらんだ瞳から。
「もう二度と……馬鹿なこと言わないでよね。馬鹿」
「うん。ごめん」
再び、ぎゅっと隙間なく抱きしめられる。そのまま肩の上に息吹の顎が乗せられ、首筋に息吹の髪の毛が優しく掠めた。
「嬉しいな。まだ、こうして抱きしめさせてくれるんだね」
「……やっぱり、大馬鹿」
散々好き勝手にスキンシップを取ってきた奴が、何を今更遠慮してるのか。
遠い山に薄く日が閉じていくのを感じ、そっと視線を馳せる。「きれい」と零せば、息吹も小さく「うん」と頷いた。
「ねえ、芽吹」
(6)
芽吹の頬を、少し硬い指先が撫でる。
「俺、芽吹の兄でいていいの」
どこか緊張を秘めた触れ方が、こちらにも伝染してしまいそうだった。
「……私も、同じこと、何度も聞いてたよ」
「え?」微かに目を瞬かせた息吹の頬に、芽吹もそっと手を添える。
息吹と血の繋がりがないと知ってから、何度も何度も、息吹の背中に投げかけていた。
それでも、結局言葉にできないまま、有耶無耶な悪夢に昇華していたのだ。ああ、そうか。
ずっとずっと、怖くてたまらなかったのは、この質問の答え。
ねえ私──息吹の妹でいていいの?
「もう、あんな目で、私のことを見ないでね」
「……? あんな目、って」
「懐かしい思い出を見るような目。今日の撮影で白いワンピースを着た私を見て、息吹、そんな目をしてた」
息吹の目が小さく見張られた。きっと無意識だったのだろう。
今なら、あの目の意味がわかる。
あれは、そのうち自分が、この場からいなくなることを受け入れた目だ。何の疑いもなく、ごく自然に。
「あんな満足そうな顔をするのは、本物のウエディングドレスを見てからにしてよ」
「えー……、それは逆に、見たいような見たくないような」
「無理にでも見せるよ。花嫁の、兄なんだから」
嫌そうに眉を寄せる息吹に、芽吹は笑った。
翌日の夕方、芽吹たちは無事に住み慣れた街へ戻っていた。
高原での出来事の後、案の定夕食の時間を大幅に過ぎた帰還に、親友2人からはこっぴどく怒られた。
鬼のような着信履歴を刻んだスマホは部屋に忘れ去られていた。散々心配をかけた代償に、兄妹揃って小言の山を受け入れた。
それでも、ようやく悩みの渦が過ぎ去ったのを理解した友人は、最後は晴れやかに笑ってくれた。
「ほんと、いい友達を持ったねえ」
「そうだね。いつもいつも、いらない心配ばかりかけちゃってるけど」
「心配をかけるっていうのは、相手を信頼してるってことでしょ」
それっぽい言葉を吐き出す兄に、呆れ顔を浮かべる。レンタカーショップを後にした芽吹たちは、穏やかな空気で家路を進んでいた。
こんな何気ないやりとりも、今は酷く幸せに感じる。
願わくば、これからもずっと──そう、思っていた。
「息吹?」
角を曲がったところで、息吹の歩みが止まったのに気づいた。
振り返った先の息吹は前を凝視したまま、表情を固めている。
「やっとご帰宅か。随分焦らすじゃねえの」
「え……」
聞き慣れない声色だった。
家の前にはとんでもなく大きな荷物を携えた人影が、気怠そうに立ち上がる。
前髪が左右に分けられた長い金髪は、大きな垂れ目を包み隠すことなくさらけ出す。息吹と同世代だろうか。いや、年齢だけじゃない。
肌で感じる、どこか浮世離れしている空気は、初めて対面したときの息吹とよく似ていた。
「久しぶりだな、息吹」
「……浩太郎(こうたろう)」
次の瞬間、芽吹の耳元を鋭い衝撃音が飛んだ。
反射的に瞑った目を慌てて開くと、息吹の口元が朱く血が滲んでいる。
「っ、何するの、やめて!」
「芽吹、大丈夫。落ち着いて」
「落ち着けるわけ……!」
何故か宥める息吹を、ひとまず腕の向こうに庇う。
息吹の頬を殴りつけた「浩太郎」と呼ばれた男は、表情を険しくする芽吹の姿を上下くまなく見定めた。
「へえ、君がかの有名な『芽吹ちゃん』か。大きくなったね」
「大きく、って?」
「浩(こう)。芽吹には、手出し無用だよ」
唇の血を不快そうに拭った後、息吹がのそりと前に出る。
見たことのない鋭い眼光が視界を掠め、芽吹の胸が不安に震えた。
「よく探し当てたね。ここの住所」
「カメラマン業界の情報網のヤバさは、お前だって知ってんだろ」
カメラマン業界。それじゃあこの人は、息吹の仕事仲間か。
展開が読めず、胸が大きくざわめく。
「こちとら誰かさんが残した仕事を捌くのに、危うく過労死しかけたんだぜ。労りの言葉は?」
「ご丁寧にどうも。用件は?」
「まず1つ目。お前が国に置いていった荷物は、着払いで数日中に届く。要らねえものでも所持品は自分で始末しろよ?」
「……」
「そして2つ目。例の家族が、お前にもう一度会いたいと言っている」
息を小さく飲みこむ音がした。
「それだけだ。それと芽吹ちゃん、これを」
「っ、あ……」
恭しく差し出されたものを、咄嗟に受け取ってしまう。
フリーカメラマン 谷浩太郎─TANI KOTARO─
名刺には、名前とともに連絡先電話番号とメールアドレスが載っていた。
「猶予は1週間。それまでに、国に戻るかカメラを捨てるかを決めろ。過労死しかけたついでに、周りに話はつけてある」
「浩太郎」
「久しぶりの日本だ。俺は適当にビジホでゆっくりするわ。それじゃあまたね。芽吹ちゃん」
ひらひらと手を振り、その男は去って行った。男の背を見送った後も、息吹はしばらくその場に立ち尽くす。
途方に暮れたその表情が、痛いくらいに芽吹の記憶に焼き付いた。