(6)
夜の帰り道を、芽吹は1人で歩いた。
先ほど告げられた言葉が、歩みに合わせて脳内に反芻して、そのたびに心が乱される。
芽吹は本来、交友関係に軽薄な人を簡単に懐には入れない。
春にマネージャーとして勧誘されたあのときも、唐突に向けられた懐っこい笑顔に、真っ先に出たのは警戒心だった。
でも、芽吹は次の日にはグラウンドに向かった。警戒していたはずの、あの笑顔に惹かれたからだ。4月のことだ。
「息吹が帰ってくる、前の話じゃないか……」
弁解するような呟きも、どういうわけか後ろ暗い何かが付いて回る。
だって、まさかあんな指摘を受けるなんて思ってもみなかった。
――悪いけど、あんたに芽吹は渡さない。俺の、可愛い妹だからね。
「……っ」
記憶の中の息吹が、やけに甘い耳打ちをした。
包み込まれた少し熱い体温と、振りほどけない、逞しい腕。
薄れかけていた記憶を思い返して、胸がじゅんと甘く痺れる。
こんな心地がするのも、驚くような指摘のせいだ。恋なんかじゃない。
だって、私と息吹は、兄妹なんだから。
「芽吹。おかえり」
「ただいま」
テレビを見ていたらしい息吹が、ソファーの背もたれに肘を置き笑顔で振り返る。
いつも通りの兄の姿がそこにあって、ほっと安堵の吐息が洩れた。
「遅かったねー。こんな時間になるなら、やっぱ学校で待ってればよかったーって思ってたとこ」
「うん。ちょっとね」
「変な奴につけられたりとかー、体調思わしくなかったりとかー、何も問題なし?」
「ん。大丈夫」
語尾が、小さく震える。
どうしてだろう。いつも通りの何気ない会話なのに、胸がいっぱいになる。
息吹の表情が、微かに反応する。何か感じ取ったのか眉を寄せる仕草に、芽吹はぴくりと警戒した。
「どうしたの。やっぱ、何かあった?」
「うん。ちょっとね」
「……さっきと同じ返しだね」
「う、……うん?」
息吹は聡い。
いつもは助けられている長所が、今の芽吹を焦らせる。
ソファーから腰を浮かすと、真正面で芽吹を見据えてくる。その真相をも探るような強い眼差しに、打ち勝つ言葉が見当たらない。
「やっぱり、何かあったんだ。いつもより、帰る時間も微妙に遅かったしね」
「あ、えっと」
「狼狽えてる。なに。お兄ちゃんに話してみ」
お兄ちゃん。お兄ちゃんに、恋。
正常に働いてくれない思考がじりじり焦げていく。
こういう時に限ってやたら凛々しい表情で見下ろすのは、勘弁してほしい。勘弁って、何が。だから、違うんだってば。
「っ……」
「……芽吹?」
いつになく口数の少ない妹に気づいたのか、息吹は小さく首を傾げる。
困惑を隠すこともできず、なおもいい返答を探す。すると、大きな手のひらが芽吹の頭を優しく撫でた。思わず、芽吹の目が細められる。
「どーしたの。もしかして、体調悪い?」
「……ううん。平気」
「最近はやることがたくさんあって、お疲れか。着替えておいで。ご飯、食べるでしょ」
「うん。ありがと」
柔らかな言葉に背を押され、芽吹は自室に向かう。
扉を閉めた後、喉の奥で詰まっていた二酸化炭素を思い切り吐き出した。ひざの間に顔を埋める。
息吹のことは、好きだ。
何も考えていないようで相手を一番に思う優しさも、温かな手のひらも。
でも、だからといって、これは果たして「恋愛」なのか。
「だってそんなこと……どうしたら判断できるの」
考え過ぎて重くなる頭に、乾いた笑いが漏れる。
芽吹は恋愛に疎い。
幼少時代に色々あったこともあり、人と距離を縮めるのに慎重な人間になった。周囲はとっくに恋だの愛だので盛り上がるなか、芽吹はその話の渦中に立たないでいられればそれでよかった。
不意に安達の傷ついた笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
最悪だ、と芽吹は唇を噛んだ。
初恋の人に――少なくとも、自分はそう思っていた人に、あんな顔をさせるなんて。
息吹は今お風呂に入っている。
夕食を済ませた芽吹は、再び2階に上がる。芽吹の部屋でも息吹の部屋でもない、もうひとつの部屋にそっと踏み入れた。
もともと物置に近い形で使われていたこの部屋は、普段扉も明けないためやや埃っぽい。電気を点けた芽吹は、本棚の前にそっと腰を下ろした。
アルバムは確か、本棚の一番下の段にある。
両親が海外に発つ前にも眺めたそれを取り出し、芽吹は再び表紙をめくった。
目当ては、息吹の写真だ。できれば、高校時代のもの。
息吹が高校生の時の写真を見れば、もっと客観的に2人の違いを説得じゃないか――なんて。
「こんなことしても、きっと、意味なんてないんだろうなあ……」
でも、今の自分にできることが、他に思いつかない。
独り言さえ情けなく震えそうになり、きゅっと唇を締める。しかし、目当てものは一切見つからなかった。
他の数冊も、隅から隅まで探し続ける。その中に、息吹の姿はただの1つも見つけることができなかった。
「……どうして?」
どうして、息吹の写真がないんだろう。
念のため、自分が生まれて間もないころがまとめられたアルバムを引っ張り出す。
前に聞いた小笠原の話では、芽吹が0歳の時は、息吹は中学3年生。少なくとも半年くらいは、息吹も一緒に暮らしていたはずだ。
「……ここは……?」
(7)
意識して眺めて、初めて気づく。
アルバムのところどころに、写真が剥がされ移動された跡が残っていた。
ただ眺めるだけじゃ「ただのスペース」と捉えてしまうような、絶妙な配置。でも確かに、薄く黄みを帯びた写真跡が、アルバムのイルムに残っている。
ここに、息吹が写った写真があった?
憶測だった。でもほとんど確信だ。
どうして、こうも徹底的に息吹の写真が排除されているんだろう。家を出るときに息吹が持って出たのか。それにしたって、少し異様じゃないか。
いつだったか、奈津美に言われた言葉が頭をよぎる。
芽吹言ってたじゃん。お兄ちゃんの昔の記憶が全然ないって。結構妙っていうか、不思議だよねー。
胸が、大きくざわついた。当初の目的とは、まったく別の何かで。
掻き立てられるような焦燥感に、芽吹の探索の手つきが荒くなる。すると本棚をあさる手が何かにぶつかり、ばさりと芽吹のひざ元に落ちてきた。
母子手帳だ。そこからはみ出ているものはエコー写真か。黒い写真が何連かになって、綺麗に折りたたまれている。表紙には、サインペンで大きく「来宮芽吹」の字が書かれていた。
私が生まれたときの。
そう思い微かに和らいだ心が、自然と手帳を開かせる。中にはエコー写真の他に、いくつかの手紙も入っていた。「Happy Birthday!」と書かれている。たぶん出産祝いについていた手紙だろう。
可愛らしいレターセットに記された祝いの言葉に目を通す。そして次の瞬間、動きが止まった。
表情も。感情をそぎ落としたように、ぴたりと。
《お父さんお母さん、元気にしてる? ちゃんとご飯食べてる?》
《食べてるよー。芽吹たちこそちゃんと食べてる? 体調崩したりしてない?》
《大丈夫。少なくともそっちよりはまともな生活のはず》
《そりゃそうだ(笑)こっちは激務でもみくちゃよ》
《それより唐突なんだけどさ、息吹のお母さんの名前、お母さんはわかる? さっき会話で出たんだけど、ちょっとうまく聞き逃しちゃって》
《随分仲良くしてるみたいね。お名前は空美さんよ。東海林空美さん》
《ありがとう。何度も聞き返すのも躊躇っちゃって、助かったよ》
《亡くなったお母さんの話もするようになったんだ。何だか安心したわ》
《忙しい時間なのにごめんね。仕事根詰めすぎないようにって、お父さんにも伝えておいて》
「……芽吹?」
何度かドアに耳を押し当てた後、音を立てないように慎重に扉を開く。
するとそこには、ジト目で息吹を見上げる芽吹が立っていた。
「あのね。扉を開けるのは返事を待ってからって、前にも言ったはずだけど?」
「だね。ごめん」
息吹は素直にぺこりと頭を下げる。
「俺も、そろそろ眠るけど。芽吹も風呂に入らなくちゃじゃない?」
「そうだね。あのあとちょっとふて寝したら、すっきりしたかも。さっさと済ませて、とっとと寝ようかな」
「泣いたの」
目元の赤みに気づいた息吹が、とても優しく目尻に触れる。
眉を下げた芽吹は、それでも焦る様子なく笑った。
「ちょっとだけね。でもまあ、明日には響かないでしょ」
「もしかして、この涙の原因、安達くんだったりするわけ」
「違うよ。……まあ、そうだとしても言わないけどね。息吹、また相手に何するかわからないし」
あっさり違うと答える、芽吹の言葉を息吹が疑う様子はなかった。事実だったからだ。
この涙は、安達のことで流した涙じゃない。
「そこは善処する。だから、」
「うん。話したくなったら話すよ。だから、それまで待っててね」
静かに諭され、息吹は頷いた。
「それじゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
静かに閉ざされた扉を見つめ、1階に下りていく。
浴室で湯船に浸かりながら、先ほど母親と交わしたメッセージを思い返す。
母の文面には、後ろめたさがひとつもなかった。ほんの僅かでもあるのなら、仕事中だろうと電話をかけてきたに違いない。
息吹のことは、今までも何度か聞かされていた。芽吹のお兄ちゃん、今はどこにいるんだろうねえ。きれいなお空、お兄ちゃんもどこかで見てるかもしれないよ、と。
当時中学生の兄を連れた母が、父と再婚し、その後私が生まれた――きっと、どこかで取り違えて覚えていたんだろう。
誰でもない、芽吹自身が。
「……お父さんは、私のお父さん。息吹のお父さんは、もう亡くなってる」
確認するように、呟く。
目頭を両手で押さえた。先ほど開封したメッセージカードには、こう綴られていた。
《初めての出産お疲れさま! 旦那さんと息吹くん、そして芽吹ちゃんと、幸せな家族になってください。友人一同》
「お母さんの、初めての出産が私。息吹のお母さんも――もう、亡くなってる」
きっと、芽吹だけが知らなかった。
両親も息吹も、もちろん知っているのだろう。芽吹と息吹は、母も父も違うこと。血の繋がりがないことを。
芽吹は俺の、可愛い妹なんだよ。
だって俺、芽吹が世界で一番好きで、大切だから。
「……っ、ぅ」
長い息を吐く。体に震えが起きるのをこらえきれず、くしゃりと顔が歪んだ。リフレインする兄の声が、今は酷く愛しい。
私たちは、兄妹じゃなかった。
私は、息吹の妹なんかじゃなかったんだ。
(1)
頭が痛い。でももう慣れてきた。
さあ、いつも通りの日々が続く。自分が何を知ろうと、何を思おうと。それは非常に有り難い。
「ね、あれ見て」
「何あれ。撮影?」
ぼんやり耳に届いた誰かの声が、カメラのシャッター音にかき消えた。
最近では、撮影の練習を人目のある場所に広げていた。主に1年教室をつなぐ踊り場だ。許可は奈津美が巧みな話術で獲得したらしい。
すう、と息を吸い込んで、動きを止める。その瞬間を逃さず切られる音の響きが、今ではなかなか心地いいことに気づく。
その一瞬だけは、自分とは違う自分になっている気がして。
「……やばいね。今の表情(かお)、すごいいいよ」
「はは、奈津美、さっきから『やばい』しか言ってないよ」
「あ、まじか」
カメラのファインダーを覗いたままの体勢で、奈津美が何か少し考える。
「でも、なんだろ。撮る瞬間、芽吹がなんか、違う人に見えるよ」
妙に鋭い奈津美の指摘に、自然と苦笑が浮かぶ。
そんな表情も逃さずシャッターを切る奈津美が、ようやくファインダーから顔を離した。
同時にみなぎっていた心地いい緊張感がほどけ、すっと冷たいものが体の芯に落ちてくる。
あれ、「これで終わり」コールがまだだ。頭の片隅で考えながら、小さくよろめく体を踏みとどませる。
瞬間、柔らかい温もりに包まれ、目を見開いた。
「んー。また、終わった瞬間に貧血だね」
「あ……ごめんね。でも大丈夫。ありがとう」
「撮影、無理させた?」
「ううん、違う。撮影は最近、すごく気持ちがいいよ」
本音だったので、真っ先に首を横に振る。するとこちらを覗き込んできた奈津美の目が、すうと細められる。真実を見極めようとする眼差しだ。
胸の奥が、焦ったように震えた。
「撮影が原因じゃないなら、何かあった? 最近のあんた、ずっとなんか違うよ」
「……ん。そうだよね。本当にごめん」
「謝ってほしいんじゃないからね。ただ知りたいだけ。こっちの勝手な都合」
振り向かされる。思いのほか至近距離でかち合った視線に気づき、思わずふっと笑みが漏れた。
「ふふ、わー、奈津ちゃんにキスされるー」
「キスされたくなかったら、いい加減、最近凹んでる理由を述べよ」
「え、あの、まじでくっつく、わ……っ」
「何してるの、奈津美」
近づいてくる薄く色づいた綺麗な唇。その色香の漂う光景に狼狽えそうになっていると、横から華の突っ込みが入った。
別の用事があって、時間ギリギリなのにわざわざ来てくれたらしい。
「無理矢理口を割らせる方法、よくないと思う」
「そうかな。それじゃあひとまずキスだけしちゃう?」
「いや訳わからないから。そして華さんグッジョブ」
「いいよ。それで芽吹、最近凹んでる理由、そろそろ話してくれてもいいよ」
「あれ? 華さんも結局同じこと言ってる?」
にこりと笑顔を向けられる。それは奈津美のそれとはまるで違う、無言の強制力が働いていた。
でも、と芽吹の唇が小さく震える。
「ごめんね。でも今回のことは、もう少し自分で考えたいんだ」
無意識に笑顔を向けて答えると、2人は揃ってなんとも言えない顔をした。もしかして、またよくわからない笑顔になっちゃったのかな。
「でも、といったらあれだけど、写真の方はもう大分平気になってきたみたいだよ。奈津美たちのお陰だね」
「その代わり、最後にぷつりとスイッチがオフになるけどね」
オフなのかな、と芽吹は思った。
実はオフになっているのは撮影中で、終わると同時にオンになってしまうのかもしれない。待っていましたと言いたげに、考えたくないたくさんの出来事が、ものすごい勢いで頭の中に流れ込んでくるのだ。
カメラが苦手で逃げ惑っていたはずなのに、今はまるでカメラに逃避しているみたいだ。芽吹は小さく自嘲した。
「でも、確かに芽吹、カメラの前だと空気が変わるみたいになったね」
「正直、それは撮影する側としては嬉しいんだけどね」
「それならよかった。これ以上、誰にも迷惑かけたくないからね」
余計なことを言った。油断するとすぐこれだ。
しかし幸いなことに、奈津美が口を開きかけたとき、予鈴が鳴った。
「へえ、こんな第2の屋上があったなんて、知りませんでした」
日差しが雲で陰り、かすかに夏風が立ちこめる。
辺りを気のなさそうな様子で見やる安達に、鈍く光る眼光が向けられた。
「にしても、無茶苦茶ですねあんた。授業中の時間帯に、生徒を呼び出しますか普通?」
「少しでも邪魔されず、穏便に話し合いをしたくてね」
「話し合いって」
ひゅ、と安達の耳元に鋭い風が切る。
瞬間、息吹の拳が安達の頬を掠めた。勢いはそのまま、すぐそこの壁に打ち込まれる。
ゆっくりと拳を離したそこには、赤黒い血の跡が刻まれた。
肩が壁にぶつかり、安達は自分が後ずさったのだと知った。壁際でなければ、このまま尻餅をついていただろう。
つい最近、自業自得で男たちからたこ殴りにされる経験をしたばかりだ。
それでも──ここまで躊躇なく拳を向けられる感覚は、生まれて初めてのことだった。
「っ……あん、た。何を」
「芽吹に何したの、あんた」
(2)
「は……」
真正面から覗き込む瞳の昏さに、ぞっと背筋が凍る。
「4日前に部活中の芽吹と話したときは、何もない、普通だった。それが部活から帰ってくると、様子がおかしすぎた。今でもそれを引きずってる」
「……」
「一応芽吹はあんたのことちょっと特別みたいだったから、今のは外したけど──、」
答え次第じゃ、今度はあんたのど真ん中に入れる。
絶対零度の冷たい氷が既に腸に突き立てられたように、苦しくて、痛い。
「……そういうあんたこそ、あいつのこと、ちゃんとわかってんのかよ」
しかし、それも全部覚悟の上だ。
小さく深い呼吸をついた後、安達は真っ直ぐに放つ。
目の前の瞳があからさまに不快に歪んだのがわかった。それでも、ただ引き下がるわけにはいかない。
自分もこの4日間、心の空白を抱えながら、必死に平静をかき集めて過ごしてきたのだ。
「俺はあの夜、芽吹に気持ちを伝えた。あんたのことも含めて全部。それが全てです」
「……俺のこと?」
「あの後のことは、あんたの方がずっと知ってるはずでしょ。一緒に住んでて、兄なんだから」
しれっと敬語を忘れる安達に気づかず、息吹はしばらく虚空を見上げて記憶を巡らせた。あの日の夜は、確か。
「……家に帰ってからも、あんた、何か芽吹とコンタクトを取ったわけ」
「取ってない」
「本当に?」
「あのねぇ……そもそも俺、あいつとの連絡手段はないんですよ。番号すら交換できてない。信じないなら、スマホの中見ます?」
少し自棄になりつつ、安達は自分のスマホロックを解除した後それを息吹に投げ渡す。息吹はそれをしばらくじっと睨みつけ、何か短く操作をした後に安達に返却した。
「少しは信用してもらえました?」
「いんや。あんたのことは端から信用してないしね」
「目の敵にされてんな。……まあ、それも当然だけど」
弱気な言葉が出た。
あの日の夜に、芽吹に告げた言葉。
自分で散々悩んで、考えて、これが最善と思ったはずだった。それなのに、告げた瞬間から後悔が波のように押し寄せたことに、酷く動揺した。
「……俺の言ったことが、あいつを追い詰めたのかもしれない」
「そっか。歯ぁ食い縛れ」
「でも、もしそうなら、」
芽吹の途方に暮れた表情が、いつまでたっても離れない。
だからこれは、自分の贖罪だ。
「それを解放できるのは──きっと、あんただよ息吹さん」
「──……」
「俺じゃない」
次の瞬間、再び安達の頬すれすれに拳が打ち込まれる。
細く長いと息がようやく消えていくのを聞いていると、「なるほど」の言葉とともに息吹が顔を上げた。
「戦線離脱したってわけ。意外と根性なかったね」
「っ、てめえ……っ!」
綺麗な笑顔で煽られ、たがが弾け飛ぶ。
感情のままに突き出された安達の拳は、壁にめり込んだ方とは別の手によって易々と受け止められた。ぎり、と容赦なく爪を立てられ、眉が歪む。
「無理しなくてもいいよ。どのみちそんなんじゃ、やっぱり芽吹は渡せないし」
「……あんた、あいつに惚れてんのかよ」
「そんな言葉じゃ足りない」
思わず投げた質問だった。
それでも笑顔を崩すことなく、息吹は安達の拳を投げ捨てる。
「どんな言葉で表現されるかは知らないけどね。芽吹のためなら俺は、何にでもなれる」
「あいつの恋人にも、か?」
「……芽吹も、案外見る目がないね」
壁から拳が離される。今度こそ滅茶苦茶に血が滲んだそれをしばらく眺めた息吹は、出血が続く箇所に舌を這わせる。
「まずい」と顔を歪ませた。
「そろそろ授業も終わるね。もう、行っていいよ」
「授業終わり際に解放って。どこまでもあべこべな人だな、あんたって」
諦めとも感嘆ともとれる溜め息を残し、安達はその場を後にした。同時に、角の塔屋の陰からのそりと影が動く。
「血、垂らすなよ。床が汚れる」
「だって出てくるから。小笠原先生がチョコレート食べすぎて吐き出したってことで解決しない?」
「誰が見たって血の朱だろ、くそが」
本気で汚いものを見るような目をした後、小笠原は口に含んだ煙を吐き出した。
この場所は、小笠原の密かな喫煙所になっていた。勤め始めてすぐに、小笠原に付きまとっていた息吹にばれた。それ以来、この場を知る人員が増え、小笠原は機嫌がよくない。
「んで? お前は一体何をイライラしてる」
「今の話を聞いてたなら、わかるでしょ」
「わからねえな。あんな年下にまで八つ当たりする餓鬼の考えることなんざ」
「そう? じゃあ大人なら、大切な妹の考えてること、わかるのかな」
小笠原がケースに押しつけようとした焼き切れを手に取り、胸いっぱいに吸い込む。大きく咳をした後、勢いづいてむせ込んだ。
その場にしゃがみ込み、呼吸を整える。
「はは、にがい」
「やめとけ。来宮が煙いお前を快く許すとは思えねえ」
「でもさ、もう今芽吹は……」
項垂れるようにして再び咳き込む息吹を、小笠原が静かに見下ろす。
「初めて見たんだよね。あんな、消えそうな笑顔」
「……」
「どうしたもんかなあ」
芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな。
乾いた笑いが、残った燻し香とともに空に溶けた。
(3)
昼上がりの授業中、芽吹はひたすらペンを走らせていた。
今考え得る情報をまとめてみる。
息吹の父と母が結婚して、息吹が生まれた。けれどその後、息吹の母が亡くなった。
その後、息吹の父と芽吹の母が再婚した。3人生活が始まる。
けれどその後、息吹の父が亡くなった。芽吹の母と息吹が残され、2人暮らし。
その後、芽吹の父と母が再婚。芽吹が生まれ、4人家族に。
多分、これが本当の我が家の変遷。かりかりと自分の手帳に書き記す。
やっぱりそうだ。
確かに複雑な変遷だが、さして問題にする点はない。
現に両親は息吹に芽吹を預けた。少しでも不信感があるのならば、そんな決断はしないだろう。
息吹の行動は確かに常識外れな箇所もある。しかし、その背後にはいつも兄妹愛があった。
血の繋がりがなくたって。自分を静かに説得する。ほら、こんなに理論的に説明できる。
「次の文の訳を、来宮さん」
「はい」
すくと立ち上がる。淀みなく訳文を読みあげていく声を、なぜか他人みたいな心境で耳にする。
英訳だってこんなにスムーズに読めてる。いつも以上だ。自分が参ってるなんて考えすぎだ。
この事実を知ったところで何も変わらない。何も。何も。
「はい。ありがとう。じゃあ次は──、え?」
「っ、芽吹?」
「え?」
先生と斜め後ろの奈津美の声に、はっと我に返る。
同時に頬に熱いものが掠めたのがわかった。拭うことも隠すこともできないまま、教科書に小さい染みを作る。
わあ、嫌だ。芽吹は不快そうに眉を寄せた。
「来宮さん、どうしたの。体調悪いのなら、保健室に」
「先生、私、保健室まで付き添、」
「いらないよ、大丈夫。1人で行けるから」
奈津美が言い終わる前に、芽吹は笑顔で首を振る。
こんな自分のために、友達まで煩わせたくない。自分だけの問題だと、わかっているから。
涙を拭って、また溢れて、また拭う。でも少しだけ、落ち着いてきた気もする。
授業中の時間では他に行き場もなく、ひとまず保健室の前までたどり着く。それでも、もしも中に万一息吹がいたらと思うと、なかなかノックできなかった。今はきっと、向き合うにはまだ早い。
「芽吹?」
「え」
振り返ると、驚いた顔の安達が立っていた。驚いたのはこっちだ。お陰で性懲りもなく滲み始めていた涙が、すっと引いてしまった。
「どうして、今、授業中ですよ」
「や、お前のがどうしたんだよ」
手首を掴まれそうになり、それを咄嗟に避ける。
ここ数日、手探りで構築されていた新しい距離感。それが急に崩れかける予感に、酷く動揺した。
「っ……悪い。つい、勝手に動いてた。馴れ馴れしすぎたな」
「ち、違います。先輩のせいじゃありません、から」
慌てて首を横に振る芽吹に、安達が困ったような笑みになる。
「俺のせいじゃないのがマジだとしたら、やっぱり原因は、あの人か」
「え?」
「5限の時間にな、誰かさんから因縁つけられた。うちの芽吹に何してんだってさ」
「……」
息吹、と心の中に零す。
瞬間、予兆も感じる間もなく、ぼろぼろと涙が落ちていく。駄目だ。本当に涙腺が馬鹿になっている。
その場をしのぐ言葉を紡ごうとする芽吹の手首を、今度こそ安達の手が掴んだ。驚く芽吹に、安達が口を開く。
「ひとつだけ、教えろよ。お前がそんな風に壊れそうなのは、兄貴への恋心がはっきりしたからか」
「……恋?」
甘ったるいその単語が、涙の海に浮かんで、ゆらゆらと優雅に泳いでいく。
こちらに差し出される、大きくて指先の硬い手のひら。それに求めていたものは、見返りの恋心?
「そこまで」
がらり、と保健室の扉が開いた。
「安達。お前、こうなることも覚悟して、戦線離脱したんじゃなかったのか?」
別の手が芽吹の手首を引き、保健室に無理矢理引き込まれる。
視界の端に、白衣がふわりと揺れた。
「それならせめて、こいつのペースを守ってやれ」
小笠原の静かな言葉を最後に、戸が閉まった。
保健室には小笠原以外おらず、白い整然とした空間が整っていた。
今起こったやりとりに呆然とする。そんな芽吹をよそに、小笠原は慣れた手つきで室内の水道でタオルを濡らした。
「小笠原先生、あの」
「お前の周りは、感情に正直過ぎる奴ばかりだな」
背を向けながら言う小笠原が、電子レンジにタオルを突っ込む。
「蒸しタオルを作ってやる。そこで大人しくしてろ」
「……先生がモテる理由が、改めてわかりました」
「無駄口叩く元気があるなら、今すぐ追い出すぞ」
もちろん追い出す素振りなど見せることなく、小笠原から蒸しタオルを渡された。
続いて用意された冷たいタオルも傍らに置かれ、小笠原は再び自分の仕事に戻った。
言われたように芽吹はタオルを交互に当てながら、ベッドにぼうっと横になる。
「最近、涙腺が仕事のしすぎなんです。ふとした拍子にだらだら垂れ流し状態で……困ったものです」
「それで少しは、日頃のストレスを軽減できるんじゃねえのか」
返ってくるとは思わなかった返答に、少し驚く。
「先生」
「なんだ」
「先生は今、恋愛してますか」
「……ああ。してる」
「まじですか」
「お前が聞いたんだろ」
「あ、大丈夫です。誰にもバラしませんから」
「なに、人の弱み握った顔してんだ」
パソコン作業の音が小さく響く中、淡々とした会話の間でそっと言葉が引き出される。
「先生」
「なんだ」
「学生時代の息吹って、安達先輩に似てましたか」
(4)
タイピング音が、一瞬だけ空白を作った。
「言われてみれば、似てるところもあるか。変に手がかかるところが」
「ふふ、見てみたかったなあ。学生時代の息吹」
「家を探せば、写真くらいあるだろ」
「なかったんですよ。1枚も」
「そうなのか」
「はい。ありませんでした。写真だけじゃ、なくて……」
血の繋がりも、とは言えなかった。
言ったら最後、何かとてつもないことが起こりそうで。
性懲りもなくこみ上げるもに蒸しタオルを押し当てると、小笠原が黙って見やる。
「なるほど。消えそうな、か」
「え?」
「いや。お喋りは終いだ。今は、何も考えないで寝てろ」
「……はい」
時々薄く泣きながら、それでも芽吹は静かに寝付いた。悪夢に追われない睡眠は、久しぶりだった。
夢の奥で、ほのかに燻された煙草の香りがした。
保健室で仮眠を取ったあと、クラスに戻った芽吹を奈津美と華が出迎えた。
他のクラスメートの視線も自然と集まる。授業中に急に涙を流し始めたんだ。その反応が正常だろう。
当然のように芽吹の心配をしてくれる2人に、芽吹は少しすっきりした頭で大丈夫と返した。
「でもねえ、めっちゃ不謹慎だけど、写真撮りたいくらい綺麗な涙だったよ。さっきの芽吹ちゃん」
「奈津美、本当に不謹慎」
「そ、そんな素敵なもんじゃなかったでしょ。情けなくてもう」
「そんなことないよ!」
「え」
芽吹たちの会話に、ふと横から他のクラスメイトが参加してくる。
「正直、さっきの芽吹ちゃんの泣き顔、胸がキューンとしたもん。ねえ?」
「おい、こっちに話を振るなって。反応に困るべ」
「だってあんたもさっき言ってたことじゃん」
「おいそれ言うな!」
元気づけてくれる人の存在に感謝する。
その言葉すらはね除けようとする自分もたまに姿を見せるけれど、少し外に吐き出したからだろうか。今はその温かさを素直に受け取ることができた。
「それで、例の話をしようってことだったよね?」
そして、今日中に交わす予定だった話を奈津美に振る。
「ん。芽吹の体調が問題ないのが本当ならね、写真撮影で、ここに行こうと思ってるの」
「……ここ、は。もしかして、工場?」
奈津美のスマホに表示されていたのは、道東の端にある小規模な工場跡地だった。
勝手に豊かな自然が広がる光景を想像していたので、冷たいコンクリートが主の風景は少し意外だった。
夜の海に寄り添うように工場廃墟に包まれた世界。色鮮やかとは言いがたいが、日常から離れた不思議な魅力がじわりと届く。
「ちなみに芽吹の衣装も用意しています。日程は事前に話してた通り、来週末の土日で1泊2日。近郊のホテルも予約済み」
「うわあ……奈津美の行動力がいかんなく発揮されてるね」
「交通手段は、やっぱり車?」
「うん。息吹さんがレンタカー借りてくれるって」
すっかり親しみのこもった「息吹さん」の名に、一瞬胸が潰れそうになる。
この教室で、息吹は奈津美と週末のことを話し合ったのだ。夕日を浴びる2人の姿は、たいそう美しく見えるだろう。自分を映す写真なんかよりも、ずっと。
そんな思考を巡らせる自分に気づき、芽吹は我に返った。
「ホテルの部屋は、私と華で1部屋。芽吹と息吹さんで1部屋ね」
「……えっ」
「うん?」
あっけらかんと言う奈津美に、反応が遅れる。
でも、それが普通か。兄妹なんだから。
「わかった。楽しみ」
胸中の独り言のように返答が上滑りしなかったのは、芽吹にとって幸いだった。
「息吹。明日の準備はもう終わった?」
写真遠征前日。
一通りの荷造りを終えた芽吹が、リビングでくつろぐ息吹に声をかけた。
「へーき。男の準備なんて、そんな大それたもんじゃないし」
「運転手がもたついたら、予定が全部押すことになるでしょ。いいから早く支度する!」
「えー。だってパンツくらいでしょ」
「し・た・く・し・ろ」
引き下がらないと踏んだ息吹が、渋々ソファーから立ち上がる。
この数日で、芽吹の気持ちも大分落ち着いていた。それと同時にはっきりしたことがある。
芽吹は息吹とのこの関係を、大切に思ってる。初対面の時では考えられないくらいに、強く。
願わくばずっと、このまま、兄と妹として──。
「……っ、う」
「芽吹?」
突然すきりと頭が痛み、こめかみを強く押さえた。それを見て、リビングを去りかけていた息吹が素早く背中を支える。
最近落ち着いてきた気持ちに代わって、こんな具合に原因不明の頭痛があった。
生理前には以前からよくあったが、こうも頻発するのは初めてだ。
「また、頭痛? こっち来て、座ってなよ」
「ん、大丈夫。続くようなら、薬飲むから」
「いいから。こっち」
断じるように告げた言葉が、予想以上に近い距離で吹き込まれた。
体が浮遊する感覚に、自分が抱き上げられているのだと気づく。
「だ、大丈夫だってば、下ろしてっ」
「ばたばたしない。黙って運ばれなって」
「恥ずかしいんだってば」
「ねえ、このやりとり、デジャヴだと思わない? 先週薬箱取ろうとして倒れかけたの、誰だっけ」
「……」
記憶に新しい醜態を引き合いに出され、返す言葉がない。
芽吹を運ぶ息吹の手つきが、やけに恭しく感じられる。見上げると視線が合うとわかっていたので、芽吹はそっと視線を落として胸の動悸をやり過ごすしかなかった。
ここ数日、息吹のスキンシップがより激しくなってるのは気のせいだろうか。
顔が熱くなる。兄と妹でいたいなら、妙に意識をすること自体も止めにしたいのに。
「今、薬取ってくるから。頭動かさないで待ってなよ」
異論を認める空気もなく、大人しく言われた通りソファーに横たわる。
薬の種類も錠数もマスターしたらしい。水とともに自信満々に持って戻ってくる兄の姿に、何故だか胸が温かくなった。
今の痛みの程度を考えると、薬を喉に通せば10分もすれば効いてくる。それまでの辛抱だ。
息吹に礼を言うと、真っ直ぐな視線とぶつかった。あ、しまった。さっきまで、この瞳をうまく交わしていたつもりだったのに。
「芽吹さ」
ソファーの前に膝をついた息吹とは、距離も随分と近い。
「な、なに?」
「奈津美ちゃんも言ってたけど。芽吹、最近綺麗になったね」
きれい。
写真モデルを始めて以降、ほんの時折応援がてら投げかけられるようになった言葉だ。
「そう、かな。何やかんやモデルを引き受けてから、色々手入れを気をつけるようになったしね」
「いや、もともと芽吹は可愛かったし。そういうんじゃない」
「そういうんじゃない、って?」
聞き返すと、珍しく息吹は一瞬視線を横に浮かばせた。
「息吹?」
「もしかして、それってさ、あだ」
そのとき、来訪者を知らせるチャイムが鳴る。
振り返った先のモニターには、思いがけない人物の姿が映っていた。
安達先輩──思わず名を呼ぶ直前に、息吹が素早く腰を上げモニターの受話器を取り上げる。
「帰れストーカー」
ガシャン、と受話器を置いた息吹は、清々しい笑みを浮かべていた。いやいやいや。
「ちょっと息吹! そんな乱暴な」
「こんな時間に来るとか非常識なストーカーだねえ。通報しよっか」
ストーカーに常識とか非常識とかあるのか。というか、非常識の塊みたいな人間が何を言ってるんだ。
本気で通報しそうな息吹から、慌てて家電の子機を奪い取る。
「すみません、今出ますっ」
背後のうるさい非難の声とまだ微かに残る頭痛を無視して、芽吹は玄関へと急いだ。
(5)
「安達先輩」
「悪い、こんな時間にストーカーして」
シンプルなTシャツにパーカーを羽織り、安達は門柵の前に立っていた。
苦笑を浮かべながら小さな冗談を言う姿に、ほっと安堵の息をつく。
保健室での短いやりとりの後、結局部活での最低限度のやりとりに留まったままだったのだ。
「すみません、さっきのは息吹が勝手に……」
「悪いと思ってんなら今すぐ帰れ、ストーカー」
「ちょっと、息吹!」
後ろで帰れオーラを出し続ける息吹に、芽吹は溜め息とともに鋭い視線を突き刺す。
「息吹はいいから、中に入ってて。聞き耳立てないでよ」
「んー……わかった。それじゃ」
ガラガラ、ガシャン、と金属音が夜の住宅地に響く。
いつもは開いたままになっている門扉とその留め具を、息吹がさくっとかけた。胸の高さまである柵に隔たれた2人の姿に、息吹は満足げに頷く。
「5分だけね。ちゃんと迎えに出るから」
玄関へ消えていった兄の姿に、再びため息が漏れる。
「本当、子どもみたいで……すみません」
「いや。別に気にしねーよ。そんなことより……」
夜の住宅地を照らすものは、街灯と家からかすかに漏れる明かりしかない。
そんな中でも、安達の瞳が柔らかく細められたのがわかった。
「その……元気そうだな」
「何とか。と言っても、部活で毎日会ってますよね?」
「だな。でも、なかなか話しかける空気じゃねーから」
「そう、ですね。さすがにお互い気まずいですよね。はは」
「俺はいいんだ。自業自得。でも、お前が……」
一瞬言葉を詰まらせた後、頭をかきながら続けられた。
「お前の最近見せる笑顔が、時々なんだけど、すっげー脆く見えてさ」
意外な指摘だった。
自分では既にほとんど癒えていると思っていた衝撃が、まだ目に見えるほどだったのだろうか。奈津美にも華にも、最近は心配そうな顔をさせていなかったはずだ。
それとも……安達だけには、伝わってしまっていた?
「本当に、悪い。俺がこんなこと言う立場じゃねえ。こんなお節介焼く資格もねえよな。小笠原先生に言われた通り、覚悟が足りなすぎた」
「先輩……」
「でも、こんな俺でも聞ける話があるなら、吐き出し口に使ってほしい。独り言を言うつもりでも、なんでもいい」
「そんな、使ってだなんて」
「俺は、お前が好きだよ」
夜風が横切る。
外なのにどこか籠もっているいるようだった互いの距離に、新しい空気が流れ込んだ。
「あの兄貴が好きなら──なんて、嫉妬まみれの言葉投げつけておいて、しょうもないよな。あんな無様な姿見せて、正直今更お前に好かれようなんて、都合よすぎだってこともわかってる」
「っ……」
「でも……お前の気持ちに関係なく、やっぱ俺は、芽吹のことが好きだ。この1週間話しかけることもできないでいて……つくづく思い知った」
気持ちを綺麗に映し出した言葉が、芽吹を包んでいく。
表情を忙しく変えながらもその実直すぎる告白に、胸の奥がぎゅっと苦しいくらい締め付けられた。
息を吸おうとするも失敗し、唇がかすかに震えを帯びる。
「先輩は、すごいですね」
「え?」
「私はそんなに、潔く、自分のことを認められない」
目の前の門扉に手をかける。
もうすぐ息吹が来るかもしれない。涙は、堪えなければ。
「私……怖いんです。最近は大分収まっていると……そう、自分に言い聞かせてました。でも本当は今も、どうしたらいいのか、わからなくなる」
「芽吹」
柵を掴んだ手に、安達の大きな手のひらがそっと重なった。
「それは、写真のモデルのことでか?」
「いいえ」
「それじゃあ、やっぱその……あの兄貴のことか?」
安達の問いかけに、芽吹は小さく頷いた。
大きな不安だけが常に頭の上にあって、でもその正体がわからない。見て見ぬふりをしても、どこまでも追いかけてくる。
「あのさ、すっげーピントずれた答えかもしれないけど」
小刻みに震える芽吹の手を、安達が力強く包みこんだ。
「あの兄貴にとっては、芽吹の存在が、大きな支えなんだと……思う」
屋上に呼び出されて起こったいざこざの直後、安達はドア越しに息吹の弱い呟きを聞いていた。
──芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──
「あの言葉を聞いて、正直圧倒された。あの人は変人だし常識外れもいいとこだけど、そういう想いは、つえーよな」
「っ……」
「だから、俺でも友達でも、この際あの兄貴でもいい。話せそうになったら、少しずつ吐き出せばいいって。みんな、お前のことが大切で、心配してる」
頭を撫でられる。それはとても心地のいい温度で心が少し軽くなった。
その手が頬に降りてきたのを感じ、芽吹はそっと手を乗せる。安達の指先が、微かに震えた。
「ありがとうございます、安達先輩」
「め、ぶき」
「さっきインターホンが鳴って、安達先輩が会いに来てくれたって知って、……嬉しかった」
本当は保健室前で鉢合わせたあの時も、同じ気持ちだった。
もし安達が今の状況を「寂しい」と感じてくれているのなら、自分も同じなんだと、今ならはっきり答えることができる。
「……っ、あの、さ」
「はーい。5分経過しました」
いつの間にか開けられていた扉に、息吹が無表情でもたれていた。
「もう話は済んだよね。気をつけて帰ってね安達くん。また学校で」
「ちょ、息吹! そんな態度は……」
「っ、明日からの土日、部活休むって聞いた。例の写真撮影の本番なんだよな!?」
中に引きずりこまれる芽吹に向かって、安達が大きな声を張った。
「頑張れよ! いつも応援されてる野球部の奴らも、お前のこと応援してるってこと、ちゃんと覚えとけ!」
「……はい!」
扉が閉じられた。
北海道の夜は、夏の今でもほんのり冷える。それでも、胸の奥は驚くほど温まっていた。
「で。話は済んだの」
「あのね。強制で断ち切っておいて、今更聞く?」
「……5分じゃなくて、3分にしときゃよかった」
幾分か表情が柔らかくなっている芽吹に、息吹が面白くなさそうに眉を寄せる。
ぶつくさ言いながらリビングへ向かう兄の姿に、芽吹は密かに笑みを零した。
(1)
自分たちの住む北海道は、知ってはいたがだだっ広い。それはもう果てしないほど。
晩夏を迎えたはずの大地は、注がれる日差しに素直に熱を帯び、滲む汗を幾度となく手の甲で拭った。
「暑い」
「え、そう? クーラー強くする?」
「車内温度じゃないの。この車のチョイスのこと。やっぱり、暑っ苦しいわ」
助手席で吐き捨てた芽吹は、隣で首を傾げる息吹を経由し、フロントガラスから覗く車体を視界細く見やった。
無難な車種を選んだものと思っていた予想は見事に覆され、息吹がいつもの笑顔で乗り入れてきたのは真っ赤な左ハンドルの外国車だった。
「いや、別に良いんだけどさ。どうしてこんな派手な車にするかな」
「左運転の方が慣れてるからね-。それに土地勘のない土地に行くなら、目立つ色の方が車見つけやすいでしょ」
そうか、息吹の仕事の拠点は外国だったから。心の中で小さく納得する。
それはそうと、今もチラチラ視界を掠める朱色が、妙に心を刺激する。ただでさえ、今日は度胸のいる予定が控えているというのに。
「そっかなー、私は見たときすっごいテンション上がったし、良いと思うけど。ね、華」
「ん。奈津美、すかさずカメラ構えてた」
「でしょ?」
「……2人とも、あまりこれを甘やかさないでいいからね」
後部座席から届いた弾む声と一緒に、先ほど購入した昼食を受け取る。
ほかほか湯気を出す芋餅に、色とりどりの野菜とキノコのソテーが挟まったコッペパン。眠気覚ましのコーヒーとガム。
「いいねえ。なんだか遠足って感じ」
「はいはい。今、何か食べる? 芋餅かパンか」
「芋餅。かぶりつくから、こっち寄せて」
子どもか。とはいえ片手運転させるのも躊躇われ、言われたとおりに芋餅の串を差し出す。
芽吹の手の甲ほどの大きさのそれに、躊躇なく一口でかぶりつく。満足げに目を細めた息吹は、ぐっと親指を立てた。片手運転をさせまいとした配慮を返してほしい。
「相変わらず仲いいねえ」
「そりゃーもう。そんじょそこらの兄妹には負けないよ」
そんじょそこらの兄妹って誰のことだ。
その後、奈津美の兄の話や華の由緒正しい家のこと、そして小笠原の学生時代に至るまで多岐に渡る話をした。
個人情報はこうして漏れていくのだろう。奈津美は予想通り興味津々に脳内にメモをしていた様子だった。その隣では、華も静かに昔話に耳を傾ける。芽吹の予想通りに。
そして話題が当たり障りない世間話に落ち着くと、後部座席からは規則的な寝息が聞こえてきた。
「眠った?」
「うん。途中からずっとあんたばかり話してるから」
「作戦だよ。勝負はこれからなのに、車の中で休まないでいたら体力が持たないでしょ」
まことしやかに話す兄にうろんな目線を投げる。それでも振り返った先の2人が仲良く肩を寄せ合っている姿に、すぐに笑みが浮かんできた。長身の奈津美と小柄な華がこうして並ぶと、それこそ仲の良い姉妹みたいだ。
「それにしても、やっぱり結構時間かかるね。目的地まであと1時間弱か」
「芽吹も眠りなよ。着いたら起こすし」
「うーん、そうだね……」
お言葉に甘えてあれこれと寝る体勢を試していると、ふと息吹の横顔に視線が向いた。
その横顔はいつものふわふわ軽い調子はなりを潜め、コーヒーを口に運び、また戻す。
凜とした表情。長い睫が車の揺れで小さく揺れ、少し気怠げに瞬きをする。
黙っていれば、やっぱり格好良い。最初こそすぐには認められなかったことを、今は素直に胸に宿すことができる。
芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──って。
あの言葉を聞いて、正直圧倒された。
昨夜わざわざ手渡された安達からの言葉。あの言葉のお陰かもしれない、と微睡む意識の中で感謝した。
「息吹」
「うん?」
「……い、ぶき」
柔らかな日差しが温かく瞼を伏せさせる。
「ほんと、可愛いんだから」意識が途切れる瞬間、そっと額に手のひらが置かれた感触が残った。
「イメージは、残された記憶。人の気配もなくなったこの場所で、それでも消えることのない人たちの記憶。それを芽吹に表現してほしい」
衣装の細かな部分を調整しながら、奈津美が説明する。
それは今までの撮影練習でも決まって行われていたことで、だからこそ、奈津美の微かな緊張と大きな熱意が伝わってきた。
「だから、芽吹は『記憶そのもの』なの。カメラに向かってアクティブにならなくてもいい。こっちが密かに覗き込んでるイメージかな。だから芽吹は、リラックスして佇んでいてくれればOK」
「了解。それが1番難しかったりするんだけどね。頑張ろう」
「大丈夫、私も同じ。それじゃ、いこうか!」
車の後部座席を降りると、遮断されていた屋外の明るさが一気に目に刺さる。
視線を先に向けると、広がる光景にはっと息を飲んだ。
スマホの狭い画面で見るのとは訳が違う。同じ地に立ってみて始めて感じる、廃墟と化した工場の冷たさと寂しさが、胸を大きく突いた。
工場を吹き付ける風が、まるでこちらを拒むように吹き付ける。自分たちだけが異質の空間に圧倒され、すっと背筋が凍った。
「芽吹」
(2)
「っ……、あ」
その声と差し出された手に、靄かかっていた思考がふっと明瞭になる。
「着替えお疲れさま。準備はいい?」
「ありがとう、息吹」
見ると、先に車を降りていた息吹と華が、既に撮影の準備を整えていた。
カメラとつなげるためのパソコンは既に屋外にしっかり固定され、小型の日よけの設置も済んでいる。
「息吹さん。必要ならこのタオル、使ってください」
「ありがと華ちゃん。腰のポケットにズボッと入れておいてくれる?」
「わかりました」
てきぱきと小道具の準備をする華も、思いのほか息吹とスムーズな連携ができている。
いつものイメージとは違う華のジーンズ姿も、とても格好良い。
「息吹さん、今日の日光の具合を考えてEV補正をしたんですけど」
「ん。何枚か撮ってみて、確認してみようか」
同時に車を降りた奈津美は、いつの間にか三脚カメラで細かな調整を行う。
試し撮りの写真を数枚確認する奈津美と息吹は、並ぶ横顔が凜と鋭い。
そんなひとつひとつの周囲の光景が、クリアに見えてくる。すうと息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
よし。大丈夫。大丈夫だ。だってみんながいてくれるから。
「それじゃあ、できればサクッと撮影を済ませましょう。よろしくお願いします!」
奈津美の音頭とともに、各々が役割の位置に着いていく。
「芽吹。足元かなり不安定だから、怪我のないように気をつけて」
「うん。わかった」
確かに、想像以上に足元の砂利が大きく、しっかり踏みしめないとぐらつく。加えて今履いているのは、まだ足を通したばかりのミュールだ。
慎重に踏み出したはずの足は、思いも寄らない方向へと滑りあげた。
気づいたときは、ミュールの爪先は青く広い空をさしていた。
「……えっ」
耳元にかかる熱い息。
「い、ぶき?」
「足、怪我するかもでしょ。向こうまで運ぶから、じっとして」
それは昨夜頭痛を起こしたときに感じたそれと重なり、今自分が息吹に抱き上げられているのだと気づいた。
一瞬突き刺すような親友2人の視線を感じだが、確かに息吹の言い分も一理あった。さらに、今ここで暴れて転倒したら息吹も怪我をしかねない。
「せめて、抱き上げる前に一言欲しいんだけど」
「そんなことしたら、芽吹は恥ずかしがって断るじゃん」
沈黙で肯定すると、息吹は何故か嬉しそうに口元を綻ばせる。
「衣装なんて言うからフリフリしたドレスでも出るかと思ったけど、白いワンピースか」
「そんな衣装、私に似合うわけないでしょ」
「芽吹なら何でも可愛いって思うよ、俺は」
「はいはい」
照れそうになる自分を振り切るように、素早く淡泊な口調を返す。
「モデルが主役の写真じゃないから、背景に馴染む色がちょうど良いんだって」
「なるほどね」
立ち位置付近まで来た。声をかけようと口を開いた芽吹を、息吹は真っ直ぐ見下ろしていた。
「なんだか、シンプルなウエディングドレスみたい」
「え」
「はい。到着」
結局、発するはずだった言葉は空に溶け、芽吹はゆっくりと地面に下ろされた。
「それじゃ、頑張って」
「……そりゃもちろん」
遠ざかる息吹の背中を見つめる。
奈津美のかけ声にすっと瞼を閉じ、廃墟の「記憶」となって目を覚ます。その間頭にあったのは、たった今向けられた視線だ。
ウエディングドレスみたい。そう言う兄の目は、まるで思い出の写真を見つめるようだった。
宿泊予定のホテルには、予定通り16時過ぎに到着できた。
「それじゃあ、18時の夕食の時間に迎えに来るね」
「うん。それまではひとまずお疲れさま」
ぱたん。部屋の扉を閉じた瞬間から、この空間には芽吹と息吹の2人きりだ。
よたよたと足を引きずった芽吹は、力尽きたようにベッドにダイブする。
「奈津美ちゃんたちの部屋は、この部屋の2つ隣みたいだね」
「……、……ぃ」
「うん。いいよ。思いの丈を叫んでも」
「いたい。痛い。足の靴擦れが、死ぬほど痛いぃ!!」
憂さ晴らしに近い声量で叫ぶ。それほどまでに、この痛みは酷いものだった。最近の頭痛の方がましとさえ思えるほどに。
撮影も終盤にさしかかり、一種のトランス状態になっていた時に踏み出した跳躍。その後着地。ぐっと留まった瞬間、弾かれるように我に返った。ほとばしる痛みによってだ。
幸い、その直後に奈津美の「お疲れ様ー!」の声が響いた。痛みに震えそうになる声を抑え込み、笑顔で3人の元に戻ろうとする。
そんな妹を止めたのは、やはり兄の声だった。
「お疲れさま。良い写真が撮れたよ。頑張ったね」
「そっか、よかった……」
「──芽吹が履いてたスニーカー、車から持ってきた。ミュールのストラップ外したげるから、じっとして」
ここまでくると、息吹の察しの良さに驚かなくなっていた。
外が暗がりになっていたこともあり、血が滲んだミュールは気づかれることなく荷物鞄にしまわれた。それでも、スニーカーに履き替えてもなお鈍痛が届いて、何度も声を上げそうになった。
「夕食までまだ時間あるし、ちゃんと手当てした方がいいね。俺、近所のドラッグストアで買い出ししてくるよ」