(4)
「……っっ」
ぞくり、と背筋に痺れが走る。
反射的に距離を取った芽吹に、安達は至極嬉しそうに白い歯を剥いた。
「はは。なんで飛び退くんだよ。ご所望通りに感想を言ってやっただけだろ?」
「そ、そんな甘い口調で言う必要はありません……!」
「どんな口調で言おうと俺の勝手だろー。それに、好きな子に頼りにされてんだし。少しは浮かれても許されんじゃね?」
もはや恒例になりつつある安達の告白めいた言葉に、芽吹の心臓が大きく揺す振られた。
その言葉を耳にするたびに、どうしていいのかわからなくなる。
嬉しい気持ちと、恥ずかしい気持ちと、困惑する気持ちと、耳を塞ぎたくなる気持ち。あまりに不慣れな感情が一気に押し寄せて、調子がどうしても崩れてしまう。
そして――それを予測できるというのに、こうして再び安達と接点を持ってしまう自分が、芽吹は1番不思議だった。
「あーだーちー。てめーは、部活外でもマネージャーを困らせてんじゃねーよ!」
「げ。2人の世界を邪魔する奴が来たー」
「田沼先輩」
野球部で現在の正捕手である田沼が、廊下の向こうから超スピードでやってくる。
「安達の保護者」として監督たちから頼りにされているだけあって、真っ先に口に出たのは芽吹への謝罪だった。
「すまん来宮、この馬鹿を野放しにして。怪我はないか。精神的な意味で」
「おいおい。マウンド上のパートナーに向かってそりゃないんじゃねーの、田沼」
「るっせーよ馬鹿しゃべんな。またマネージャー辞めてほしくなけりゃ少しは行動を慎め」
「酷!」
「あ、違うんです。安達先輩に話があったのは、私の方で」
「話? ……って、何だ、この写真」
安達を拘束する形で組みかかっていた田沼が、その手に見つけた写真に気づく。
「へえ。これ写ってるの、来宮だよな?」
「あ、その、はい」
「すげー……。いい写真だな。綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
田沼はもともとチームの要の役割ということもあってか、気遣いのプロだと芽吹は思っている。
さらりと投げかけられた褒め言葉に、芽吹は慌てて頭を下げた。するとほぼ同時に、安達が田沼の視線を塞ぐように写真を後ろ手に隠す。
「どうしてお前が褒めんだよ。見んな」
「……写真にも嫉妬かよ。見苦しいぞ」
「うっせ。いいからあっち行け」
しっし、と手を払う安達に、呆れ顔の田沼は退散した。安達が芽吹に、危害を与えていないと判断したんだろう。
「……」
「……あの、安達先輩?」
「お前、さ」
今度は田沼にも、同じ頼みごとをしに行くのかよ。
安達らしくない、冷たい口調だった。それに気づいたのは、安達自身も同じだったらしい。
互いに何か口にしようとした瞬間、階段を上がってきた教師に教室に戻るように告げられる。
なんてタイミングの悪い。結局その後の言葉を続けられないまま、芽吹と安達はともに自分の教室へ戻っていった。
「あーだーちー。今はあんたと面倒ごと起こしてる場合じゃねーんだよイケメントラブルメーカーがあ!」
「奈津美、暴言が過ぎる。抑えて」
まるで先ほどの正捕手が乗りうつったかのような友人の姿に、クラス中の視線が刺さる。その元凶になった芽吹は、当然恐縮しきりだった。
「だから違うんだって。完全に私が押し掛けたことだから。安達先輩が悪いわけじゃ」
「おかしなヤキモチ焼いて気まずい感じのまま芽吹の顔色をさらに悪くさせて解き放ったのは他でもない奴なわけでしょおお?」
「や、ヤキモチ……」
「奈津美、暴言が過ぎる。抑えて。ひとまずこれ食べて」
言葉で解決しないと悟ったらしい。弁当のお稲荷さんをすくうと、華は奈津美の口に蓋をした。
「でも、芽吹が悩んでるなら、早めに解決した方がいい。きっと、先輩もそう思ってる」
「そう、だよね」
でも、何をどうすれば解決するんだろう。
何かフォローする言葉をかけたらいいんだろうか。でも、わざわざ話を蒸し返すのも、かえって気を悪くさせてしまうかもしれない。彼女でもないのに出過ぎた真似ではないだろうか。
いや、そもそも先輩後輩の関係で、私が先輩に甘えすぎた?
自分が何をすべきかわからないまま、芽吹は昼休みの時間を使って再び2年生の教室を訪れた。
しかし、安達の姿はどこにもない。
「安達? ああ、あいつならさっき田沼と一緒に来たけどなあ」
「ああ。たぶん向こうのクラスに行ってるな」
「え、安達? さっきまでいたけど、今はたぶん購買じゃね?」
野球部員の先輩にことごとく安達の行方を聞きながら、芽吹は購買に向かう。
その背中を、部員たちは意味ありげに見つめる。
彼らから、「大変だなー」といういつもの視線とは違う、別の視線を送られていることに、芽吹は気づかない。
「安達先輩!」
購買にたどり着く直前の廊下で目当ての人物を見つけ、思わず声を上げた。
「あの、ちょっとお話が」
「……っ、待て!」
(5)
急に上がった制止の声が、芽吹の駆け足を留める。
差し出された安達の手の長さだけ、互いの距離が担保された。それがまるで自分に置かれた距離のようで、芽吹の胸が苦しくなる。
「安達先輩……その、さっきは本当に」
「言うな。いいからとりあえず、これ」
「えっ」
反対の手が持つものに視界を奪われる。スマホだ。たぶん安達先輩の。
「動画。撮ったから、見てよ」
そういうと再生された動画は、既視感のある光景を流し始める。そうだ、これ、さっき自分が駆け回ってきた2年の野球部員の顔じゃないか。
耳を澄ませると、先ほど安達の行方を教えてくれた面々がスマホカメラを向けられ、何かインタビューを受けているようだった。
『この写真を見た感想を聞かせてほしい。遠慮とかはなしな。率直なやつを頼む』
……え?
聞き手の声は安達だ。そこでようやく気付き、はっと息をのんだ。
そういえば、写真を安達に見せたまま、受け取ることを忘れていた。
『へえ、美人だね。……ってあれ、これ、もしかしてマネージャーか?』
『ふえー。来宮さんって、こうして見ると結構可愛いのな』
『何これ、お前が隠し撮りしたのかよ安達。撮りたくなる気持ちはわからんでもないけど、さすがに危ねーぞその趣味』
「……!」
次々に語られる写真への感想に、胸がじんと熱くなってくる。嬉しい、と素直に思える。
無意識に口元に添えていた両手をつつくように、写真がそっと差し出された。
「……以上。野球部2年の野郎どもの感想一覧でした」
「先輩……わざわざ、皆さんに聞いて回ってくれたんですか」
「まああれだ。やっぱ人数が多い方が、お前も信頼しやすいだろ? その方が、お前の苦手克服に役立つんじゃねーかって……」
「くくっ、見栄はってんなあ、安達」
その時、後ろからひょいっと田沼が顔を出した。
「こいつ、来宮が他の奴らにも頼ろうとするんじゃないかって、気が気じゃなかったらしいよ。だから先手を打って、自分がインタビュアーなんて慣れないことしてな」
「え」
「たーぬーまー。余計なことばっか言ってんじゃねーっての!」
「お前をいじれるのは、来宮関連のことくらいだからな。ちったあ日頃の俺の苦労を知っとけ、マイペース人間」
愉快そうに肩を揺らして、田沼はその場を後にした。残された芽吹と安達は、そのまましばらく沈黙に浸る。
「先輩、その、ありがとうございます」
「……別に。半分以上、俺のためだったからな」
視線を逸らしながら話す安達は、子どもが拗ねるように唇を尖らせる。
そういえばそんな表情、前は見せてくれなかった。些細な変化に気づき、自然と口角が上がるのを感じる。
「だから、さ。これからも何かあったら、俺のことを頼ってくれていいから。っていうか頼れ。これ、先輩命令な」
「……それじゃあ私も、後輩命令、してもいいですか」
「え?」聞き返す安達の声を耳に掠めながら、写真の端をそっと受け取る。
一瞬だけ写真で隠れた芽吹の表情は、すぐにはっきりと安達の視界に現れた。
「私、きっとカメラ恐怖症を克服します。だからその時は……『よくやったな』って、思い切り褒めてください」
「っ……」
ふわりと小さな花が咲く。
その瞬間に立ち会ったような感覚に、安達は声が出ない。安達もまた思ったのだ。そんな表情、前は見せてくれなかった、と。
「先輩?」
「……わかった。約束な」
「はい。約束です」
小指を出しかけて、慌てて引き留めた。
子どもみたいな動作の一端を見た安達は、眩しそうに笑みを浮かべた。
「……息吹?」
夜も更けた時間帯に、芽吹は慎重に部屋の戸を開く。
すでに消灯された視線の先には、いつも通り瞼を閉じる兄の姿があった。
よかった。今日もちゃんと眠ってる。
この夜の個人特訓や安達の動画の効果か、最近は少しずつカメラ嫌いが薄れつつあった。
長丁場になると無理だが、強張っていた表情も少しずつほぐれてきていると奈津美も言ってくれている。華は毎回撮影タイムと崩れる兆候を細かく分析していて、芽吹専属マネージャーのようになっていた。
今夜も少しだけ、頑張ろう。ほっと胸を撫で下ろし、そっとベッドに背を向ける。
「っ、え」
しかし、踏み出したはずの歩みが床に付くことはなく、ぐるりと宙を浮遊した。
「ぎゃっ」
「芽吹」
(6)
「い」
ぶき、と紡ぐはずだった言葉は、震える吐息になって溶けていく。
薄いタオルケットと混ぜこぜになった体が、息吹の腕にぎゅうっと抱き締められていた。
カーテンに淡く浮かぶ月明かりで、次第に暗闇でも目が慣れてくる。
至近距離でかち合った胡乱な眼差しに、芽吹の心臓が大きく飛び跳ねた。
「っ、ちょ、息吹、あんた起きて……」
「起きてたよ。今日も、今までも、ずっと」
「え、嘘。ほんとに?」
「うーん、まあ、半分以上夢の中だったけど」
ごしごしと乱暴に目を擦ると、幾分か意識がはっきりしたらしい。
ベッドに横並びになった兄妹の図。うん、ひとまずこの構図を何とかしよう。体に巻き付いた腕をほどこうと試みるが、大人の男に敵うはずもなかった。
「ちょっと、私、抱き枕じゃないんだけど」
「芽吹さ。部活の朝練付き合ってるって最近早めに朝出てるの、あれって嘘だよね」
ぎくり、と自分でも驚くほどわかりやすく肩が震えた。
正直いつか気づかれると思っていたけれど、その前に自分の口で説明しようと思っていたのに。
「安達くんと最近特に仲がいいみたいだよね。もしかして、彼と密会してるとか?」
「みっか……、ち、違うっ」
「それじゃ、やっぱり写真コンテストの関係?」
え、どうしてそれを。
目を瞬かせる芽吹に、息吹が奈津美との会話を復唱してみせた。写真コンテストのこと、モデルのこと、写真の指南役のことも全て。
「奈津美……話したなら話したって言ってほしかった……」
「どうして、俺に話さなかったの」
「え、それは」
「俺が、カメラはもう撮らないって言ったから? それとも――」
「……息吹?」
続きの言葉がなかなか届かず、顔を覗き込む。
その表情は、まるで触れてはいけないような繊細さで覆われていた。一度躊躇しながらも、芽吹は慎重に言葉を選んで口を開く。
「話せなかったのは、息吹がカメラに抵抗があるって知ったから。知った直後に写真のモデルを引き受けるのを相談したり、カメラの指南役を頼むのは、無神経かなって思って」
「ほんとに、それだけ?」
「それだけ、って」
他に何があるというのだろう。
でも、その疑問をそのままぶつけることはできなかった。軽口で済ませるには、あまりに目の前の表情が弱々しかった。
無意識に差し出した手で、息吹の髪を梳く。柔らかそうに見えたそれは、意外に芯が固かった。
芽吹の手のひらに、息吹の頬が小さくすり寄る。こんなに近くにいるのに、1人で寂しそうにしているなんて。
支えたい、と芽吹は思う。
力になりたい。ほんの少しでもいいから。
「……ねえ息吹。カメラの指南役、やっぱり引き受けてくれないかな」
口から滑り出た意外な誘いに、息吹は目を丸くした。
「それで、私の写真嫌いを克服するのを、そばで見ていてほしい」
「芽吹」
「大丈夫だから」
ひやりと冷たい指先を、そっと包み込む。
「もし息吹に何かあったら、私が守ってあげる」
いつか、誰かに言われた言葉だ。
意図せず口にした言葉に、息吹はようやくふにゃりと相好を崩した。
「そっか。芽吹が、守ってくれるんだ」
「うん」
「……そっか」
霞のような呟きが、互いのわずかな隙間に消えていく。
息吹に抱き締められていたはずが、いつの間にか芽吹が抱き締めていた。
(1)
灼熱の太陽が照り付ける。気づけばそこは空港だった。
微かに砂っぽい服をまとい、手荷物の中身をおもむろに探る。
大したものは持ってきていない。必要最低限の金銭が入った財布と、洗濯したかも怪しい衣類数枚、この国を出るためのパスポート。
そして――ああ、やっぱり、カバンの底に入れっぱなしだった。
色褪せから守るため丁寧に仕舞いこんでいた1枚の写真。こんな状況でもまだ望みを託す心に、小さく呆れの笑みが浮かぶ。
あの人たちは、こんな自分のことを受け入れてくれるだろうか。
あ、来る。
遠くから感じた風の足音に、芽吹はくっと視線を上げた。
瞬間、カシャッと乾いた音が何度か響く。続けて何度か届く音に、耳を澄ませながらそっと耳にかかる髪を流した。
一瞬だけ胸を上りかけた暗い過去も、長く細い吐息をついて静かに払い落とす。
カメラを向けられることにも、ようやく心が怯えなくなってきた。
「芽吹、最近特にカメラ恐怖症が収まってきたんじゃない?」
「ふふ、私も今、そう思ってたとこ」
「いいねえ。これも私らチームの協力の賜物かな?」
構えられたカメラを下ろすと、奈津美は額の汗をぐいっと拭った。
「はい。それじゃあ、今日はこれで終わりにしようか。ありがとうね」
「芽吹。お茶、どうぞ」
「ありがとう、華」
西日が差し込む吹きさらしの屋外は、夕方でもじりじりと暑い。
休日の部活を終えた後、芽吹たちはグラウンド奥の草原で撮影をしていた。喉を潤して眺めた風景は、まだ記憶に新しい件の出来事を思い出させる。
「懐かしいなー。確かこんな夕暮れ時だったもんねえ。安達くんが元カノの兄貴にボコボコにされてたの」
「ちょっと息吹っ」
「え。息吹さん、その話詳しく」
ケタケタ笑う息吹に、奈津美がすかさず食い付く。
カメラ指南役として撮影に同行するようになった息吹は、ちょくちょく撮影に参加するようになった。奈津美とも何やら波長が合うようで、変に同調しては芽吹を困らせる。
とはいえ、撮影時には息吹はほとんど意見を挟むことはない。
ただ一歩引いた場所で、芽吹たちの撮影の様子を眺めているだけだ。
息吹が見ていることで、始めこそ微かな緊張を感じていた。しかしそれも、息吹の適度に適当な空気感に、いつの間にか溶けて無くなっていた。
慣れた今となっては、そこに立っていてくれた方が安心する――これは、絶対に本人には言わないが。
「いいねえ、今日の日暮れ」
最近気づいた。息吹は、太陽の日差しのことをよく口にする。
そして、時折薄く浮かぶ名前も知らない山の影をぼうっと眺める。
もしかしたら、無意識にカメラを向けているのではないだろうか。もちろん、実際にカメラを手にしてるわけではないけれど。
「それじゃ、今日の撮影会はこれでお開きかな。坂下のコンビニ寄ろうか。飲み物くらいは奢れるよ」
「わお! ご馳走になりまーす」
「いいんですか、息吹さん。この間もご馳走になっていますが」
「いいよー。大切な妹の大切な友だちだからね」
正反対の反応を示す友人に微笑み、いつの間にか片づけた奈津美のカメラ道具を背負う。
新鮮な気持ちは、まだ抜けない。
学校で働く息吹は「イブ」という別の役割だからか、家にいるときの素の姿とは違う、と芽吹は思っている。
だからこそ、こんなに自然に自分以外と打ち解けている兄の姿が、何度見ても新鮮なのだ。それは少しの喜びと、少しの違和感。
「芽吹。これ、食べてな」
「んう」
口の中に押し込まれたのは、すっかりお馴染みになったチノルチョコ。どうやら味を占めたらしく、いつもポケットに忍ばせるようになったらしい。
フィルムを剥いたチョコが口内にほんのり溶け込む。かすかに息吹の指先が芽吹の唇に触れ、離れた。
「なんか、中からトロッて」
「キャラメル味。疲れた体には甘いもの」
「ありがと。……どうかした? 2人とも」
突き刺さる視線に気づき問いかけると、2つのそれはふわーっと各々明後日の方向を巡り、最終的にお互いを見合った。
「なんていうか、毒されてるね。あんたも」
「へ?」
鼻歌を奏でる息吹と距離を取りながら、奈津美が耳打ちする。
「さっきのやりとりがさ、兄妹っていうよりもむしろ」
「まるで恋人同士みたいだった。素敵」
「おおう。華さん、どストレートに言うね」
「……こいびと」
片言で反芻する。そして芽吹は表情を変えないまま、首を高速で横に振った。
先ほどまで感じなかった外気が、頬をひやりと撫でる。
「んな、わけ、ないでしょ。何を言い出すのかね君たちは」
「いや。私も兄がいるけど、あんな距離感でやり取りしてたのは遥か昔だわ。今あんな距離で来るのは、金たかりに来る時くらいだわ」
「私はひとりっ子だから、羨ましいよ。いいな、私もお兄ちゃんが欲しい」
羨ましがられるものではない。なかった、はずだった。
ほぼ初対面で再会した、年齢の離れた兄との共同生活。それがいつの間にかほだされて、こんなことになっている。
「おーい。信号変わるよー」
つまり、自然と懐に入り込んでしまっている。能天気にひらひらこちらに手を振っている、目の前のアレを。
(2)
「え、うそ。南さんと購買の兄ちゃん、マジで付き合ってるの?」
ぼんやり程度に開いていた瞼が、ぱちっと勢いよく覚醒する。
会話の主の方へそれとなく耳を傾ける。どうやら今いる手洗い場の外で、男子数名が話しているらしい。
「イブさん? いや、知らねーけど。ただ、2人が親しげに話してるところは何度か見たな」
「クラスの女子も、似たようなこと話してギャーギャー騒いでた」
「まじかよー、南さん、結構タイプだったのにー」
南とは、奈津美の苗字だ。
どうやら話をする男子の中に、奈津美に思いを寄せている者がいるらしい。
別に驚きはしない。やや破天荒な性格で忘れそうになるが、奈津美はかなりの美人だ。それこそ、モデルは自分で済ませたら、と言いたくなるくらいの容姿をしていた。
「奈津美ってばモテモテだね。芽吹」
「ひゃっ、は、華さん……」
いつの間にか背後に立っていた。そういえば一緒にお手洗いに来たんだ。
「奈津美とお兄さん、最近噂になってるみたい。コンテストのことで、話す機会が増えたものね」
「んー、何だか奈津美に申し訳ないような……」
でも確かに、と先日の撮影のことを思い返す。
お互い何となく性格も似ているし、仮に付き合ってもきっと馬が合うだろう。
それに、並んで何か話している姿は、長身同士ということもあって絵になっている。
……まあ、奈津美がそんな気になるなんてつゆほども想像できないが。
「奈津美も噂には気づいてるみたい。でも、別に気にしないって」
「奈津美は噂ごときに動じるやつじゃないもんねえ」
ふふ、と笑みを洩らせば、華もふんわりと笑みを返した。
件の男子たちの横を通り抜け、芽吹たちは教室に戻っていく。
「そういえば奈津美、コンクール提出用の本番写真を撮りに遠出しようって言ってたよね。どこ行くんだろ?」
芽吹の写真嫌いも無事終息したと判断したらしい。先日のコンビニに立ち寄った際に、奈津美が嬉しそうに告げたことだった。
「わからない。でもきっと、素敵な場所だよ」
「華は行けそう? 一泊になる予定ってことだったし、お家がそういうの厳しいんじゃ」
「理由なく外泊するのは厳しい。けど、今回はちゃんと理由があってのことだから、私がきちんと話せば大丈夫」
「よかった。まあ後は、私の体調をしっかり整えなくちゃだね」
「大丈夫。お兄さんも私たちもいる。それに芽吹、すごくすごく頑張ってるもの」
可愛い。癒される。天使だ。
微笑む華の背後に後光を感じ、その小柄な体をすっぽりと抱き締めた。
胸の奥に浮かんでいた微かな違和感も、その温もりですうっと消えていく。
「芽吹。ちょっとこっち来て」
お風呂を出た後、リビングで背中を丸めている息吹が来い来いと手招きする。
リビングの机には小型のパソコンが置いてあって、そこには先日撮影した芽吹の写真が並んでいた。
「パソコン、持ってたの?」
「買った。やっぱり電子機器がないと、日本じゃ色々やりにくいね」
「ん、そうかもね」
言いぶり的に、きっと以前は別のものを所有していたのだろう。でも息吹の手持ちの荷物には、そういった込み入ったものは一切目にしたことはなかった。
この家に来る前に処分してきたということだろうか。でも、どうしてわざわざそんなことまで。
「見て。この写真」
思考の波にのまれかけていた芽吹を、凛とした息吹の声が救う。
手際よく操作され指さされた写真に視線を移し、芽吹は目を見開いた。
「す、ごい。綺麗な1枚」
「空のいい塩梅の時を狙ったよね。ピントも、まあ問題ないくらい」
「ピント? 他の写真もだけど、そんなぶれてるものは」
「まあ、写真見慣れてないと、わからない程度だよ」
息吹が穏やかに告げる。「それに」
「芽吹の目が、いい。真っ直ぐ何かを目指してる目。綺麗だ」
「……そう、だといいな」
ついドキッと跳ねた心臓を誤魔化すように、芽吹は言葉を探す。
「で、でも。息吹はそれこそプロのモデルさんをたくさん見てきただろうから、目も肥えてるんじゃないの?」
「俺は、ポートレートは専門じゃないから」
「ポートレート」
「人を主役にした写真ね」
「あ、なるほど」
「だから本当は、今回の指南役にも力になれない気もするんだけど」
ぐいーっと大きく伸びをして、肩をぐりぐり回す。届いた鈍い音にけげんな表情を浮かべると、息吹がにっと笑みを浮かべた。
「芽吹が頑張ってるのを眺めてるのは、単純に楽しい。そういう意味では、引き受けてよかったかもね」
「私だけじゃなく、みんな頑張ってるよ。奈津美も華も」
「お兄ちゃんはいつだって妹優先だから」
「っ、ちょ」
まだかすかに湿りを残した芽吹の髪を、息吹が優しく撫でる。
「あ、そだ。ちょっと待ってて」とリビングを後にした息吹を見送り、芽吹は再びパソコンを見た。でも、思考は別のところにある。
「ポートレートは専門外……ということは、風景専門?」
なるほど。どうりでこの部屋の大判フレームに、風景写真しか埋まってないわけだ。
中には動物が小さく写り込んでいるものもあるが、人がしっかりとらえられているものは1枚も見当たらなかった。
またひとつ、息吹のことを知ることができた。のかな。
「芽吹」
「え、何それ」
「いいからいいから。ここ座って。お姫様」
(3)
妹の次はお姫様か。
奈津美に言わせれば、また「いや有り得ないでしょ」と数秒の間もなく突っ込まれそうだ。
そのお姫様がいる空間にはそぐわない、ガサガサうるさいビニル袋の音が辺りにひしめく。
仕方なしに指定されたソファーに腰を下ろすと、息吹は芽吹の目の前の床にひざを立てて跪いた。ん? なんだ。
「背中浮いてるとやりづらいな。あ、クッション挟めよっか」
「何を……、え、それなに、化粧品?」
「大体当たり。お肌を休ませ潤いたっぷりジェルローション」
「……よくわからないけど」
「いいから。俺に任せといて」
いかにも高そうなパッケージに構わず、無造作に透明フィルムを引きはがす。
裏の使用方法を「ふんふん」と不安なほど流し読みした息吹は、豪快にジェルローションとやらを自身の手のひらにぶちまけた。
「ちょ、よく知らないけど高級品でしょそれ。もっと丁寧に使った方が」
「はーい、芽吹さん、顎を少し上にあげてー」
人の話聞けよ。近づいてくるジェル付きの指先に、突っ込みたい気持ちをぐっと抑えて言われたとおりにする。
「っ、つめた」
「あ、手のひらで温めた方がいいって、隅っこに書いてあった」
手のひらの温度に馴染ませ、再度息吹の指が芽吹の頬に触れる。
あ、いい香り。
ついうっとり香りに浸る芽吹に、息吹も満足げに指を滑らせていく。その動きはとても繊細で、不思議と気づいていなかった体中の強張りが解けていく気がした。
「芽吹は、部活も屋外だしカメラの負荷もあるし、今相当疲れてるでしょ。だからお兄ちゃんが、こうして癒してあげるのー」
「……うー」
飼いならされている。
癪な気持ちもないではなかったが、今の心地よさに身を委ねる方を選んだ。息吹は本当に、何でもそつなくこなしてしまう。
「……息吹は、体調とか大丈夫? 無理してない?」
カメラから距離を置いていた兄を、半強制的に引き込んだのは自分だ。
何気ない風を装って質問を投げると、息吹はふっと口元を柔らげた。
「思いのほか平気。自分でファインダーを覗きさえしなければ」
「無理、しないでね。私が守るって言ったんだから、何かあったらすぐに話してね」
「ん。わかってる」
あいにく芽吹は、兄のように察しのいい方ではない。
多少の変化は煙に巻かれる気がして、薄れ良く意識の中くぎを刺す言葉を探した。
「うそ、ついちゃ、だめだからね」
「……芽吹?」
「ちゃんと、なんでも、はなしてね……」
重くなる瞼が、ついに動くことをやめ、芽吹はくたりと体をクッションに預けた。
その体をそっと支えた息吹が、しばらく小さな寝息を立てる姿を眺める。
余分なジェルを優しく取り除いてもなお、芽吹は目を覚まさなかった。
「うそをついちゃだめ――か」
まるで重い鉛を飲み込んだように、腹の奥がぎゅっと重くなる。
ぽつりと零れた呟きは、誰に拾い上げられることのないまま、リビングの片隅に溶けていった。
「はあ? 兄からチョコを直接口に? ジェルパックをしてもらう? 断固として拒否するわそんなん」
眉間のしわを濃くしながら、倉重百合は言った。
「大体、あいつと家で会話もまともにしないから。暗黙の行動パターンがあるくらいだから。あいつと私が極力家の中でかち合わないようにね」
「わあ、飛行計画みたいだね」
淡々と辛らつな言葉を吐く百合に、芽吹は感心に近い返答をする。
件の事件があった後も、百合は芽吹とともにマネージャーとして野球部に在籍している。
あの事件をきっかけに、代わったこともいくつかあった。
1つ目は、百合と芽吹の仲が想像以上に縮まったこと。屋上での話し合いがあったからか、百合は必要以上の皮をかぶることを辞めたらしい。
他の部員の目の届かない部活中となると、前述のような素の口調で芽吹との会話に応じた。その方が芽吹にとっても好ましかった。
「っていうか……うちの兄妹仲も大概だけど、あんたのところも相当だね。もしかして、兄とヤってんの。マジで」
「違う。違うよ断じて」
じとりと向けられた視線に、強く否定する。
「そらそーだわ。そこまでいったら最早私の手に負えないわ」
「マネージャー、今日の練習メニューのことなんだけど」
「はい。昼休みに監督から受け取っていますよ。今日はポジション別に別れて――」
おお。清々しいほどの切り替えに脱帽。
不意に話しかけてきた田沼に迷わず極上スマイルで答える百合に、ほうと感心してしまう。
「ほう、じゃない。今のメニュー内容、来宮さんも聞いてた?」
「あ、ごめん。今日は監督会議で遅いんだよね。それで今からノックに入るから……、あ」
「今日はバッティングマシンの後、そのまま対抗形式のフリーバッティング。だろ? 倉重」
「安達先輩」
助け舟を出してくれた安達に、百合は大きなため息を吐く。
「加えて、安達がまた来宮にちょっかいを出さないか見張ることも指示されていますから。こちらの報告次第では、来週の練習試合は暇になるかもですね、先輩」
「え。それマジ? いやでも、今日はまだちょっかい出してねーだろ?」
(4)
2つ目は、安達に対するこの態度だ。
まるで空気のように避け続けていたお互いへの態度が、あの事件以来、無事に着地点を見出したらしい。
安達もその変化に自然と乗っている。部内のぎこちない空気は解消されつつあった。
「『まだ』って言ってる時点で駄目なんだよ、お前は」
百合の対安達の辛辣な言動に、田沼は気分を良くしたらしい。
2人揃って彼をいじり倒している光景に、選手たちも自然と集まってきた。
「なになに、安達先輩いじり? 俺たちも混ざっていいっすか!」
「いきいき集うんじゃねーっつの。先輩いじめてそんな楽しいか!」
「だーって安達先輩が手を変え品を変え来宮にアタックしてんのみてると、なんかこの辺がス―ってするんすよねえ」
「なんで俺の悩みがお前らの爽快感に繋がってんだ、こら」
「あ、ははは……」
監督不在もあって、今日は少しだけ空気が軽い。
すっかり取り囲まれた部員たちに、芽吹は愛想笑いを引きつらせた。こういう話題をどう流すのが正解なのか、芽吹はいまだに政界を模索し続けている。
流す、という選択自体が、正しいのかもわからないまま。
「てゆーかぶっちゃけさ、来宮は安達先輩のことどう思ってるの?」
「えっ」
そして今日は、そもそも流す戦法では逃げ切れないらしい。
唐突に飛んできた流れ弾に、周囲の部員たちは嬉しそうに耳を澄ませるのを感じた。
「おいおいお前、それを聞いちゃ駄目だろ」
「いやでも確かに、結構気になるところだよな」
「モテ過ぎて困るくらいのエース安達を腑抜けにする女子、来宮の本心はいずこ? ……みたいな?」
「ふ、腑抜けって、そんなことは」
嬉しそうに言葉を重ねてくる部員たちに、たまらず首を大きく振る。
すると次には、広い背中が芽吹の日除けのようにすっぽり隠した。
「っ、安達先輩」
「だーかーら。お前らが来宮困らせてどうすんだよ。来宮を困らせるのは俺の専売特許なんですー」
「ははっ、すんません」
「そんなこと言って、安達先輩だって本当はドキドキしながら聞いてたんじゃないんすか?」
「んー、まあな。でも」
ちらりとこちらに視線を向けた安達が、柔らかく目を細める。
「押せ押せで頷いてもらっても意味なんてねーよ。だったら、こいつのペースに合わせて、気長に待つしかねーだろ?」
「……っ」
「ヒュウ! 安達先輩、男前―!」外野が花を咲かせるように盛り上がる。そんな中、1人取り残されたように口をつぐむ芽吹は、うるさく逸る心臓をぎゅっと抑えていた。
これ以上の追及をさらっと断じた後、安達の視線が再びこちらを向く。
「あ、安達先輩。その、庇ってくださって、ありがとうございました」
「んーん。あんな冷やかしで、お前の気持ちを聞きたくなかったし」
「はあ」
「ただ、本音を言えば――」
「……あれ。あそこにいるのって、誰かの父兄?」
部員の誰かがネット裏を指さし、他の部員もそれに倣う。言葉を途中で切った安達と芽吹も、その方向に目を向けた。
金網にネットが重ねられた向こう側には、確かに誰かの姿があった。制服ともスーツともユニフォームとも違う、あの、立ち姿は――。
「いんや。ありゃあの人じゃん。購買の――」
「っ、ちょ、すみません」
こちらに小さく手を振る兄に、芽吹は一目散に駆け寄った。部員からの痛いほどの視線を受けながら。
「やっほ。お疲れ様、マネージャーさん」
「お疲れ様、じゃないよ。なんでこんなところに」
嬉しそうに出迎える息吹に、芽吹は肩で溜め息を吐く。
「うーん。妹が日ごろ頑張っている部活動の様子を、ちょっと視察に?」
「暇人か。仕事終わったならさっさと帰れ」
「いや、実はこれから少しだけ用事。奈津美ちゃんとね」
「奈津美と?」
奈津美は確か、今日は委員会があるって言っていた。
「ん。その委員会の後、カメラのこと相談に乗ってほしいんだって。それが終わったら、先に帰るよ」
「ん。わかった」
「じゃね」
軽く手を振り去っていく背中を眺める。
息吹に、奈津美との噂のことを耳打ちしようか迷って、やめた。
自然に息吹自身の耳にも入るだろうし、あの2人がその噂でどうこうなるとも思えない。
1人結論付けた芽吹は、再びネットをくぐり元居た位置に戻る。
「すみません。……? どうか、しましたか」
「あー……いや。多分大したことじゃないんだけど」
瞬時に感じ取った違和感に、困ったように答えたのは田沼だ。
先ほどとほとんど変わらない人だかりが残る中、誰かがいないことに気づく。
「えっと、安達先輩は」
「すごい顔してたよ。ありゃあんたのせいだね」
「は。私の?」
「倉重」
ジト目で加わる百合を、田沼が制止する。
「違うんすよ。俺が言ったことが、ちょっと気に障ったらしくて」
一歩歩み出て、1年部員の1人が申し訳なさそうに話す。
芽吹が兄の方へ駆けて行ったあと、「ああ、あれは購買のイブさんじゃないか」と視線は途切れずにいたらしい。
「来宮と知り合いなのか」「どうしてグラウンドに」等の疑問が飛び交うも、芽吹の兄という発言は、安達の口からは出なかったらしい。
「あ、そういやイブさん、他の女子生徒と噂上がってよなあ。もしかして、来宮も狙われてる?」
「……ばーか。噂は噂だろ。踊らされんな」
「そんなこと言ってー。安達先輩も気になってんでしょー」
「っていうか、俺ずっと思ってたんすけど」
安達先輩と購買のイブさんって、どこか面影が似てません?
「……は?」
「あーそれ、俺も思ってた。ちょっと茶色がかった髪とか、背が高いところとか?」
「いんや、俺が言いたいのは雰囲気。何つーか、人怖じしない感じつーか、懐っこい癖にあっさりかわす、みたいなところがさ」
「飄々としてるとこな。確かに言われてみりゃ、安達先輩にも当てはまるかもなあ」
話が過熱する中、安達はまっすぐに芽吹と息吹の姿を見つめていたらしい。
「おい、安達?」
「……へえ」
そういうことかよ。
消え入りそうな言葉からは、安達の感情は容易に汲み取れなかった。
気づけば安達は話の輪から離れ、逆側の入り口から出て行った。恐らくいつものピッチャーランニングに出たのだろう。しかし、いつも使う通路とは逆からグラウンドを出て行った。
芽吹と息吹が、いない側の通路から。
(5)
「安達先輩!」
すっかり遅くなってしまった、グラウンドの片隅。
ようやく帰ってきた安達を見とめ、芽吹はベンチを立ち上がった。
監督の指導予定が急遽変更になり、部活は1時間ほど早めに撤収していた。芽吹は、それでもいまだランニングから帰らない安達を待つ役を買って出た。
「……芽吹?」
「大丈夫ですか、すごい汗……」
見たことのない大量の汗を流している姿に、慌ててタオルを持ち寄る。
こんな時間まで、ずっとランニングをしていたのか。上がりきった息はとうに掻き切れ、喉元から変にくぐもった音がしている。
咄嗟に出そうになったのは諭しの言葉。しかし、安達の視線に気づき、それは吐息に溶けて消えた。
こちらを見てるようで見ていない――そんな、虚空を見るような眼差しに。
「安達、先輩?」
「ああ、さんきゅ。待っててくれたのか」
向けられた笑顔に、違和感があった。
先ほどの話を聞いたからだろうか。何か言いたそうにする表情は珍しく、芽吹の胸をざわつかせる。
「こんな時間までランニングなんて、無茶苦茶です。田沼先輩も、心配してたんですよ」
「そっか。明日怒られとかなきゃだな」
「少し休んだら、鍵閉めますから。とりあえずベンチに」
「いやいいよ。もう暗いし、鍵なら俺が返しとく。先に上がって」
ここまできて、違和感の正体がわかった。
「安達先輩」
「ん?」
「どうして、こっちを見てくれないんですか」
「……え。見てるって」
「見てません。一度も」
安達の瞳は、いつも真っ直ぐ誤魔化しがない。すでにライトが落ちら夜のグラウンドだろうと、この指摘には確信があった。
芽吹の強い言葉に、安達は観念したようにゆっくり顔を向ける。
凪のように静かな表情に、芽吹の胸の奥がすうっと冷たくなった。
「……あーあ。せっかくランニングで振り切って、頭冷やしてきたはずだったのに、全部パーだな」
「先輩……?」
「やっぱり俺、お前のことが好きだわ」
直球で告げられたのは、愛の言葉。
それでも、今この場の空気には到底馴染むものではない。
照れるという感情は、心のゆとりがあって初めて抱けるのだと、芽吹は初めて知った。
じゃり、と安達が地面を踏みしめる音が、やけに耳につく。
「本音言うとさ。最近は特に、俺への警戒心も解いてくれたのかなとか思ってたんだ。それって俺の自惚れだった?」
「……いえ。自惚れなんかじゃ」
「それじゃあ」
とうとう互いのつま先が触れるほどまで、距離が詰まる。
見上げると、すぐそこに安達の端正な顔が広がった。
「どうしたら俺は、お前に振り向いてもらえんのかな」
しかし、いつも向けてくれる太陽のような笑顔は、そこにはない。
「せん、ぱい……」
「駄目だな。ついさっき、『気長に待つ』なんて言っておきながら」
くしゃりと髪を掻いた後、小さく溜め息がこぼれる。「でもさ」
「例えば……今ここでキスしても、お前に嫌われないっていう絶対の保証があるんなら」
「っ」
「今すぐにでも、してえよ。少しでも、俺のモンにしたいし……そう感じたい」
頭を掻く手の隙間から、揺らめく瞳の光がぶつかる。
詰まるような鼓動が、胸を激しく叩く。目の前の人を求めるように、強く、強く。
芽吹は、震える唇をきゅっと締めた後、意を決して口を開いた。
「安達先輩。あの、わ、私」
この胸にある焦燥感も戸惑いも、この人に伝えたい。伝えなければ。
「私、も。あ、安達先輩のことが……っ」
「っ……」
「ん……、っえ?」
しかし、紡ごうとした言葉は、安達の指先に留められた。
「安達、先輩?」
「悪い。本当は、今の続きを死ぬほど聞きてえ。……でもその前に、確認しなくちゃいけねえことがある」
せき止められた想いの行き場に困惑する。それでも向けられた真剣な表情に、芽吹は続く言葉を待った。
「本当は、ずっと考えてたことだ。口にするつもりもなかった。でもやっぱ、自分を誤魔化し続けんのは、しんどい」
「先輩? 一体何を」
「馬鹿な質問と思うかもしれないけど、聞いて」
芽吹お前――本当の本当は、あの兄貴に惚れてるんじゃねえのか。
「……え?」
その問いは、芽吹の胸に未知の穴をあけた。
「少なくとも、あの兄貴のお前への執着はでかすぎる。躊躇いなく妹にキスだって、普通なかなかできるもんじゃねーよ」
その通りだ、と芽吹は思った。
でも、まだ長いとは言えない同居生活の中で、「息吹はそういうもんだ」という認識で片づけていた。
「そんな兄貴と一緒にいれば、情にほだされることだってあっても不思議じゃないよな。よく見ればあの人、見た目も整ってる」
「そんな……馬鹿なこと。だって私たち、兄妹ですよ?」
「最近まで、顔もろくに知らないような、だろ?」
芽吹の言い分を軽く交わす安達は、自ら傷ついているように見える。
「本当に悪い。こんなこと言うつもりなかった。だって、敵に塩送るような真似だもんな」
「先輩……」
「でも――もしそれが、俺に対する好意に繋がっていたら?」
告げられた意味が、すぐには理解できなかった。
「芽吹が俺に心を許してくれている気がするのも、向ける表情が柔らかくなった気がするのも。俺に兄貴の面影を見てるからじゃねえのか?」
息吹の、面影を?
その瞬間、告げる安達の顔に息吹の顔が薄く重なる。違う。今のは、言葉に引きずられただけだ。
「さっき野球部の奴らにも言われた。2人はどこか似てるってな。もしかしてお前も、無意識にそう思ってたんじゃねえのか」
「っ、待ってください。そんなことあるわけ」
「本当か? 100%絶対にないって、断言できるのかよ!?」
感情的に放たれた言葉に、肩がびくつく。
はっとした安達が、「悪い」と苦しげに言う。
「わかってんだ。こんなん、単なる嫉妬だって。俺が勝手に勘ぐって、お前も巻き込んで……はは、格好悪いよな」
「安達先輩……」
「でも、もし本当にそうなんだとしたら……さすがにへらへら笑ってられねえから」
一瞬だけ和らいだ空気が、ピンと再び強く張る。
「言葉だけもらえても、意味ねえよ。本心では他の男を見てるんだとしたら……空しいだけだ」
最後の最後に、安達はいつもみたいに明るく笑って見せた。
「だから、もしそうだとわかったら――もう少し残酷に、俺との距離を取ってほしい」
じゃねえと、お前に惚れたこと自体を、後悔しちまいそうだ。
この笑顔をこんな気持ちで見ることになるなんて、思いもしなかった。
(6)
夜の帰り道を、芽吹は1人で歩いた。
先ほど告げられた言葉が、歩みに合わせて脳内に反芻して、そのたびに心が乱される。
芽吹は本来、交友関係に軽薄な人を簡単に懐には入れない。
春にマネージャーとして勧誘されたあのときも、唐突に向けられた懐っこい笑顔に、真っ先に出たのは警戒心だった。
でも、芽吹は次の日にはグラウンドに向かった。警戒していたはずの、あの笑顔に惹かれたからだ。4月のことだ。
「息吹が帰ってくる、前の話じゃないか……」
弁解するような呟きも、どういうわけか後ろ暗い何かが付いて回る。
だって、まさかあんな指摘を受けるなんて思ってもみなかった。
――悪いけど、あんたに芽吹は渡さない。俺の、可愛い妹だからね。
「……っ」
記憶の中の息吹が、やけに甘い耳打ちをした。
包み込まれた少し熱い体温と、振りほどけない、逞しい腕。
薄れかけていた記憶を思い返して、胸がじゅんと甘く痺れる。
こんな心地がするのも、驚くような指摘のせいだ。恋なんかじゃない。
だって、私と息吹は、兄妹なんだから。
「芽吹。おかえり」
「ただいま」
テレビを見ていたらしい息吹が、ソファーの背もたれに肘を置き笑顔で振り返る。
いつも通りの兄の姿がそこにあって、ほっと安堵の吐息が洩れた。
「遅かったねー。こんな時間になるなら、やっぱ学校で待ってればよかったーって思ってたとこ」
「うん。ちょっとね」
「変な奴につけられたりとかー、体調思わしくなかったりとかー、何も問題なし?」
「ん。大丈夫」
語尾が、小さく震える。
どうしてだろう。いつも通りの何気ない会話なのに、胸がいっぱいになる。
息吹の表情が、微かに反応する。何か感じ取ったのか眉を寄せる仕草に、芽吹はぴくりと警戒した。
「どうしたの。やっぱ、何かあった?」
「うん。ちょっとね」
「……さっきと同じ返しだね」
「う、……うん?」
息吹は聡い。
いつもは助けられている長所が、今の芽吹を焦らせる。
ソファーから腰を浮かすと、真正面で芽吹を見据えてくる。その真相をも探るような強い眼差しに、打ち勝つ言葉が見当たらない。
「やっぱり、何かあったんだ。いつもより、帰る時間も微妙に遅かったしね」
「あ、えっと」
「狼狽えてる。なに。お兄ちゃんに話してみ」
お兄ちゃん。お兄ちゃんに、恋。
正常に働いてくれない思考がじりじり焦げていく。
こういう時に限ってやたら凛々しい表情で見下ろすのは、勘弁してほしい。勘弁って、何が。だから、違うんだってば。
「っ……」
「……芽吹?」
いつになく口数の少ない妹に気づいたのか、息吹は小さく首を傾げる。
困惑を隠すこともできず、なおもいい返答を探す。すると、大きな手のひらが芽吹の頭を優しく撫でた。思わず、芽吹の目が細められる。
「どーしたの。もしかして、体調悪い?」
「……ううん。平気」
「最近はやることがたくさんあって、お疲れか。着替えておいで。ご飯、食べるでしょ」
「うん。ありがと」
柔らかな言葉に背を押され、芽吹は自室に向かう。
扉を閉めた後、喉の奥で詰まっていた二酸化炭素を思い切り吐き出した。ひざの間に顔を埋める。
息吹のことは、好きだ。
何も考えていないようで相手を一番に思う優しさも、温かな手のひらも。
でも、だからといって、これは果たして「恋愛」なのか。
「だってそんなこと……どうしたら判断できるの」
考え過ぎて重くなる頭に、乾いた笑いが漏れる。
芽吹は恋愛に疎い。
幼少時代に色々あったこともあり、人と距離を縮めるのに慎重な人間になった。周囲はとっくに恋だの愛だので盛り上がるなか、芽吹はその話の渦中に立たないでいられればそれでよかった。
不意に安達の傷ついた笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
最悪だ、と芽吹は唇を噛んだ。
初恋の人に――少なくとも、自分はそう思っていた人に、あんな顔をさせるなんて。
息吹は今お風呂に入っている。
夕食を済ませた芽吹は、再び2階に上がる。芽吹の部屋でも息吹の部屋でもない、もうひとつの部屋にそっと踏み入れた。
もともと物置に近い形で使われていたこの部屋は、普段扉も明けないためやや埃っぽい。電気を点けた芽吹は、本棚の前にそっと腰を下ろした。
アルバムは確か、本棚の一番下の段にある。
両親が海外に発つ前にも眺めたそれを取り出し、芽吹は再び表紙をめくった。
目当ては、息吹の写真だ。できれば、高校時代のもの。
息吹が高校生の時の写真を見れば、もっと客観的に2人の違いを説得じゃないか――なんて。
「こんなことしても、きっと、意味なんてないんだろうなあ……」
でも、今の自分にできることが、他に思いつかない。
独り言さえ情けなく震えそうになり、きゅっと唇を締める。しかし、目当てものは一切見つからなかった。
他の数冊も、隅から隅まで探し続ける。その中に、息吹の姿はただの1つも見つけることができなかった。
「……どうして?」
どうして、息吹の写真がないんだろう。
念のため、自分が生まれて間もないころがまとめられたアルバムを引っ張り出す。
前に聞いた小笠原の話では、芽吹が0歳の時は、息吹は中学3年生。少なくとも半年くらいは、息吹も一緒に暮らしていたはずだ。
「……ここは……?」