芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

(4)
 放たれたのは、意外な言葉だった。
「写真、コンテスト?」
「あいつの写真が、コンテストで入賞した。それがきっかけで、全道、全国の写真コンテストにも参加して、その度にあいつは賞を獲っていた。あんまり簡単に獲っていくから、当時の俺たちはすごさがよくわからなかった」
 うそ。息吹の写真が?
 思いがけない兄の経歴に、芽吹は呆気にとられる。
「中学に入っても、あいつが写真を撮るのは続いた。大きな写真大会にも何度か出てたみたいだ。それから中2の時、あいつの母親……つまり、来宮の母親が再婚した」
「なるほど」
 時期的に、再婚相手は芽吹の父親だろう。
「中3のころに、あいつに妹ができた。お前のことだな。それからしばらくして、中学を卒業。あいつは、東京の全寮制の高校に進学した」
 全寮制。私が息吹の記憶が曖昧なのは、それが原因だったのか。
「俺は地元の高校だったから、特に目立った連絡を取らないまま時間が過ぎた。それが大学のころだったか、急に奴から手紙が届いた」
 窓から漏れる薄い日差しに、小笠原は目を向ける。その当時に記憶を馳せているようだった。
「その中には、なんて?」
「日本を離れることになった、元気で。写真の裏に、そんな文章が書いてあった」
「写真」
「あいつは大学を中退して、プロのカメラマンになったんだ」
 今度こそ、芽吹は呼吸を忘れた。
 プロの、カメラマンに?
 衝撃で、頭に白いもやがかかる。その直後、なんとも言えない重たい感情が、胸の中をじわじわと占領していった。
「外国を拠点にして、あいつは写真を撮り続けていた。あいつの写真が、時々思い出したような時期に送られてきた」
「あ……」
 自宅のリビングにいつの間にか飾られた、大きなフレーム。
 あの中には、たくさんの風景写真が飾られて、その写真は知らない間に少しずつ増えていた。小さいころから母が手入れしていて、あまり気に留めたことがなかった。
 もしかしてあの写真も、息吹が家に送ってきていた写真なの?
「それが、何の前触れもなく俺の前に姿を見せた。同じ職場の、購買の販売員としてな。あとはお前も知ってる通りだ」
「そう、ですか」
 息吹が現れてからの記憶を急いで遡る。
 その中には、写真もカメラもそれに関連するものも何もない。全てはなりを潜めたままだった。
 ただひとつ、あの「嫌い」という発言を除いては。
 もしかして、カメラマンを辞めたのだろうか。でも一体どうして。
 大学を中退してまで選んだ職だ。きっと生半可な考えで進んだ道じゃないはずなのに。
「あいつももう三十路の大人だ。それこそ異国に揉まれてりゃ、色々な事情もあったろう」
「私、何も知りませんでした」
「昔から、自分のことを話さない奴だったからな」
「家族なのに」
 小笠原の言葉に被さるように、子どものように感情的な言葉が出る。
 そして次の瞬間、ガラリと大きな音が保健室に響いた。
「何してんの、2人とも」
 窓から顔を乗り出したのは、渦中の人物だった。
「保健室を締め切ってるかと思えば……なに? 葵、なんで芽吹を泣かせてるわけ?」
「俺じゃねーよ。どっちかというとお前だ」
「窓も確認するべきだったな」とこぼし、小笠原は大きな溜め息をつく。
「は? どうして俺なのさ。芽吹に何を……」
 胸が詰まって、苦しくて、止まらなくなる。
 泣かせてる、なんて、冗談で言ったのだろう。それでも、芽吹が息吹を見上げた瞬間、涙に似た熱い吐息を零れ落ちた。
「芽吹?」
「何でもないから。失礼しましたっ」
 扉の鍵を開けると、保健室を駆け出した。
 自分が情けない。最初はあれだけ邪険にして、結局散々兄に迷惑をかけて、今はこんなにも頼りにしているのに。
 そんな息吹のことを――私は何も知らないんだ。


「芽吹。さっきから何を調べてるの」
「っ、わ、びっくりした」
 奈津美からの問いかけが、午後の授業がとうに終えたことを教えてくれた。
「びっくりするのはこっちだわ。あんたが授業中もスマホいじってるなんて、珍しい」
 う、気づかれていたらしい。
 昼休みに聞いた息吹の過去。そしてプロのカメラマンだったと聞いてから、芽吹はスマホで情報を探すのに躍起になっていた。
 それでも、名前やカメラマンの単語を打ち込んでみても、めぼしい情報は全くヒットしない。
「もしかして、一昨日頼んだモデルのこと? あのさ、生真面目なあんたには難しいのかもだけど、芽吹が断ってきたとしても私の態度が悪くなるとかそんなアホなことはないから。断らせる気はないけど」
「……色々言いたいところもあるし、関係なくもないんだけど、違う。それが原因じゃないよ」
「それじゃあ、何があったの。あんたがそんな顔するなんて……」
 見上げると、苦しげに眉を寄せる奈津美と目が合った。
 昼休みも昼食をそこそこに席を立ったからか、奈津美も華も違和感を覚えていたようだ。
 ああ、大切な友だちをこんなに心配させてる。咄嗟に笑顔を浮かべようとした芽吹の手首を、小さな手がぐいっと引き起こした。
「芽吹、来て。奈津美も行こう」
「え、ちょ、華?」
「よーし。そんなに煮詰まるくらいなら、話せ話せ、存分に!」
(5)
 6時間目のチャイムが鳴り響く中、芽吹たちは揃って屋上に足を踏み入れていた。
「あの、めっちゃサボりだけど、いいの?」
「うん。いいよ」
「そだね。どのみちあんたのそんな顔見た後じゃ、授業なんて頭に入らないし」
「っ……」
 2人の柔らかな笑みに、胸が情けなく湿り気を帯びる。大好きだ、本当に。
 屋上の塔屋に並んで背を預ける。遠くから迫る秋の香りがした。
「んで? いったい何がどうしたわけ? この際、全部白状しなさいよ」
「全部……」
 その単語に、思いがけずドキッとする。
 実は2人には、相談しておきながら報告していないことが2つあった。
 1つ目は、例の嫌がらせ騒動の主犯が百合だったこと。2つ目は、その後の起こった保健室での出来事。
 前者はもともと百合嫌いの奈津美が鬼と化して隣クラスに乗り込みかねない。後者はそれこそ、どんな反応が返ってくるのかまるでわからなかったからだ。
 2人に嫌われる勇気は、芽吹はどうしても持つことができなかった。
「……はいはい。わかった私が悪かった語弊があったからそんなしょぼくれないでよっ」
 いつの間にか俯いていた芽吹の頭を、奈津美の手のひらが乱暴に撫でる。
「言いたくないことまで、無理に聞くつもりはないって。ただ、あんたが今そんな頭を抱えてることくらい、分けてくれてもいいんじゃないかってこと!」
「……ね。もしかして、お兄さんのこと?」
 静かな華の指摘に、芽吹ははっと目を見開いた。
「そうなの? 華、よくわかったね」
「芽吹がこんな風に悩むのって、自分のことじゃなくて、人のことだと思ったから」
 こういう時、華の第六感の鋭さは他の追随を許さない。「なるほど」と奈津美も頷く。
「んで? 今度は何をしでかしたのよ、あんたのお兄様」
「しでかしたというか、私がただ、勝手に落ち込んでるだけなんだけどー―」
 そう前置きをした芽吹は、先ほど保健室で小笠原から聞いたことを説明した。
「……うっそ。芽吹のお兄さんが、プロのカメラマン?」
 一通り話し終えると、もともと大きな奈津美の目が、さらに丸く見開かれた。
「すごいね。外国で、ずっとカメラマンをしてたってこと?」
「え、もしかしてネットでも写真が出てきたりすんのかな?」
「そう思って私もさっき検索かけてたんだけど、全然ヒットしなくて」
「それで授業中も、検索の虫になってたってわけね」
 溜め息をつき、奈津美が自身のスマホを取り出す。
「芽吹、どうやって検索してた?」
「え。どうやってって? えっと、検索ワードに『カメラマン』って」
「あほーう」
 額に手を当て、奈津美が洩らす。
「検索ワードはね、3つくらい見繕って突っ込むのが1番効率良いんだって。例えば今回でいうと、『カメラマン』『息吹』『外国』とか……、!」
「え、出た?」
 奈津美のスマホ画面に、芽吹と華が集う。
 瞬間、芽吹の目には、画面に映された以上の光景が広がった。
 頭の中にバチバチと回路が繋がって、そのパワーに圧倒されて、しばらく呼吸を忘れる。写真の美しさだけではない。
 リビングで最も引き伸ばされた写真と、同じ写真だった。
「すごいね」
「うん、きれい」
「……ほんとに、息吹が?」
 ほとんど確信していても、どこか信じられない。いや、これは信じたくないのか。
 私の知らない息吹が、目の前に広がって、とても手を出せないほどだった。
「撮影者の写真は出てないね。でも、東海林息吹なんて、そうそういないでしょ」
 スマホ画面に広がる写真は、主に風景写真だった。
 青く澄んだ空、紅蓮の落ち日に照らされる大地、つぶらな瞳で休息をとる野生動物。
 ああ、どれもこれも、見覚えのある写真ばかりだ。
「いや、本当にすごいよ。芽吹のお兄さんにこんな才能があるなんて」
「ん、そうだね。でも」
 それならどうして、カメラは嫌いなんて言うんだろう。
 やっぱり、カメラマンをしている時に何かあったのか。それこそ、芽吹がおよそ立ち入れないような、大きな出来事が。
 息吹のことを知りたいという気持ちが強まる一方で、それに触れることに一層の恐怖心が湧き出る。
 もしかしたらこのまま、前職のことは知らないていを通したほうがいいのかもしれない。
「芽吹、私、気に入っちゃったな」
「え?」
「これも何かの縁だしさ。お兄さんに是非、私の写真撮影の指南役になってほしいって頼んでみてよ」
「……はあああ?」
 にんまり笑う奈津美に、芽吹は素っ頓狂な声を上げる。どうやら彼女は本気のようだ。
「いやでも、言ったよね。息吹はカメラが嫌いって言ってたし」
「未来ある若者の夢を応援すべく技術指南をするのは、大人の責務よ」
「いやいや、それっぽいこと言ってるけど、とてもそんなこと言いだせる空気じゃないからね」
「もしも触れてほしくない話なら、そもそも息吹さんだって、芽吹に話してないんじゃない?」
 急なトーンダウンに、一瞬怯む。
 すぐにまた笑顔に戻った奈津美に、華も同調するように頷いた。
「話だけでもしてみたら、どうかな。本当にだめなら、きっと息吹さん、断ってくる。それで終わり」
「で、でも」
「芽吹も、知りたいんでしょう? 息吹さんのこと」
 その言葉に、胸がきゅっと苦しくなる。
 散髪しても癖の残る、ふわふわ落ち着かない髪の毛。柔らかく細められる瞳。
 全身全霊の愛情をかけて「芽吹」と呼ぶ声。
 華の穏やかな指摘に、芽吹は無言で頷いた。
(6)
「それじゃ、俺も風呂に入ってくるね」
「あ、うん。わかった」
 ひらひらと手を振ってリビングから息吹の姿がなくなると、芽吹はふーっと長い息を吐いた。
 帰宅後も、夕食時も、皿洗いの時に至るまで、芽吹はあらゆる隙を狙っていた。ただ、その隙と芽吹の思いきりのタイミングがことごとくずれ込み、時間だけが空しく過ぎていく。
 踏ん切りのつかない自分に脱力しながら、芽吹はリビングのソファーに倒れ込むように腰を落とした。
「ただ、友達がカメラ指南してほしいらしい、って話すだけなのに」
 授業をサボってまで話を聞いてくれた2人の姿が脳裏に過る。
 今思えば、奈津美の「カメラ指南」発言も、私を後押しするために言いだした気がしていた。私が、息吹にカメラの話題を出しやすいようにと。
 そう考えると、あまり日を伸ばしたくはない。モデルの返答の件もある。
 でも、と芽吹は思う。
 息吹は、昼休みの保健室のことについては何も問いただそうとはなかった。芽吹が、あんなふうに逃げ戻ったにも関わらず。
 小笠原に話をすでに聞いているのか、芽吹の様子をおもんばかっているのか――もしも後者だとしたら、そんな息吹の古傷をえぐるような質問をしてもいいのだろうか?
「……写真、綺麗だな」
 無意識にリビングに飾られた大きなフレームに視線を馳せる。ソファーから立ち上がり、フレームの前まで歩みを寄せた。
 物心ついたときからこれは壁にかけられていた。
 時折写真のことが話題にのぼったが、両親とも息吹の話につなげることはしなかった。
 もしかしたら、息吹に口止めでもされてたのかもしれない。現に、前職がカメラマンだったことすら、聞かされていなかった。何度目かわからない「どうして」が頭に過る。
「こんなに、素敵な写真が撮れるのに」
「素敵、ね」
「っ!」
 気づくと濡れた頭にタオルをかけた息吹が、寝間着姿で扉に寄り掛かっていた。その顔に浮かぶ表情は、どこか寂しげだった。
「そっか。昼に葵と話してたのって、この写真のことか」
「えっと……」
「まあ、それならいいや。いくら葵に聞いても、昼休みのこと口割らないんだもん。安心した」
 あ、ふたを閉じられる。
「ねえ、どうしてカメラが嫌いなんて言うの」
 勢いのままだった。
 でも、このままだと話題ごとさらりと流される気がしたのだ。それだけは、どうしても避けたかった。
「こんなに素敵な写真を撮ることができる人が、どうしてカメラが嫌いなんて言うの」
「芽吹」
「どうして、カメラマンだったこと、話してくれなかったの」
「めぶ」
「っ、どう、して」
 どうして、そんなふうに、見えない壁を作ったままなの。
 ぼろりと零れ落ちた本音に、息吹は目を見開いた。
 ほんの一瞬中で止まった後、息吹の手がそっと差し出される。息吹の指先が芽吹の頬を撫でると、冷たく湿る心地がした。
「ごめんね。でも芽吹のせいじゃない。俺が、俺の事情で話さなかっただけ」
「っ、いぶ」
「だから、泣かないで」
 言われてようやく、自分が泣いていることに気づいた。
 見上げるとそこには、初めて目にする兄の姿がある。こんな、弱り切った表情、するのか。
「確かに、カメラも写真もずっと好きだった。でも、もう撮らないって決めた」
「どうして」
「人が死ぬから」
 その言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「最後に撮ったのは、もうこの世にいない人。その人の写真が、俺の最後の写真」
 そう告げる息吹は、風に揺れる花のように、儚い幻のようだった。
(1)
 最後に撮ったのは、もうこの世にいない人。その人の写真が、俺の最後の写真。
 そう言った息吹の顔が、頭から離れない。


 息吹がうちに来て初めて、朝に顔を合わせることなく家を出た。
 一応簡単にメモを残して、朝食もそこそこに、逃げるように。
 だって、一体どんな顔をして「おはよう」なんて言えるんだろう。
 自分の気持ちを押し付けて、涙まで使って、無理やりあんなことを言わせるなんて。
「あれ。芽吹?」
 早すぎる登校時間に気づき、何となく顔を出したグラウンド。そこには水道で無造作に顔を洗う人影が佇んでいた。
「安達先輩……朝練ですか」
「そ。なんか朝から目が冴えてさ。にしても気合入れすぎたなー。すでに汗がやばい」
「はは、天才ピッチャーも、やっぱり陰で努力してるんですね」
「そーゆーこと。んで、お前はどうした? 登校時間にはまだだいぶ早いだろ?」
 白い朝日のような笑顔に、胸が透く思いがする。
 長い息を吐いてタオルをかぶる姿に瞳を奪われる。その姿は、昨日話した息吹の姿と、知らずのうちに重なっていた。
「――私、写真を撮られるのが苦手なんです」
「え?」
「昔、写真がきっかけでいじめを受けて」
 唐突な語りだしに、安達は目を丸くした。
 それに気づきながらも、一度紡ぎ出した言葉はまるで急くように吐き出されていく。
「小さい頃でしたけど、お父さんにお母さんにもすごくすごく心配かけました。だから何度も克服しようとして、でも、その度に具合が悪くなったり体が震えてきたりして、結局断念して」
「うん」
「さすがに今は、怖い気持ちもほとんど収まってます。でも、まだ体が覚えてるっていうか……さっと背中が冷えるんです。カメラのレンズが向くのを感じると」
「そっか。もったいねーな」
「え?」
「お前のふとした表情って、めちゃくちゃ色っぽいんだよ。知らなかった?」
 予想外のコースから投げられた言葉に、今度は芽吹が目を丸くする番だった。
 大型犬のようにぶるぶると水滴を辺りに散らすと、安達は芽吹のすぐ目の前まで歩みを進めてくる。至近距離で凝視される構図に、今さらじわりと顔が熱くなった。
「色っぽいって、また、そんな冗談を」
「だーかーらー冗談じゃねーって。お前だって知ってんだろ? 俺の気持ち」
 もはや開き直ったように告げられ、芽吹はぐっと言葉に詰まる。
「前見た写真もそうだけどさ。お前、魅力あるって。何だろなー、わかりやすい魅力じゃねーんだけど……周りの世界から、じわーっと浮き出てるみたいな感じ?」
「ぷ。何ですかその例え」
「うっせ。語彙力が貧困で悪かったな」
「ふふ、そんな子どもみたいな拗ね方しなくても」
「拗ねもするわ。どうせまた、あのシスコン兄貴のことでそんな顔になってんだろ?」
 せっかく緩んだ表情が、ぎくりと固くなる。その変化を見た安達は困ったように笑い、芽吹の頭に手を乗せた。
「まったく。お前ら兄妹は、案外似た者同士なのかもなあ」
「? それってどういう……」
「んー。相手のことばかりに気にして、自分をないがしろにして、爆発するタイプ?」
「うっ」
 語彙力のない口が、ずばりストレートに言い当ててくる。
 でも、今回の私は別に、自分をないがしろにしていない。むしろ逆だ。自分の勝手で、息吹を傷つけてしまって――。
「へえ、逆? それならいい傾向じゃね?」
「いい、って」
「お前ら、2人とも物分かりがよすぎんだよ」
 何が楽しいのか、安達はケタケタと大層愉快に笑った。
「よくわからねーけど、確かずっとずっと、離れてた家族なんだろ? そりゃぶつかり合いの10回や20回、するべきだと思うぜ」
 そうでなけりゃ、どう家族になるってんだよ?
 すとんと落ちてきたその言葉が、胸の奥にそっと沁みていく。
 ようやく、朝が来た心地がした。


「そっかー、写真の指南作戦は、失敗だったか」
 午前の移動教室。
 話の顛末を聞いた奈津美が、静かにそう言った。
「ごめん、芽吹。私、ちょっと楽観的だったかもしれない」
「ううん、奈津美のせいじゃなくて、勝手に自爆した私のせい。写真指南のことは結局話題に出せてないしね」
 それに、と芽吹は思う。
 結局コンテストのためなんて建前で、本当は自分自身が聞いてみたかっただけだ。息吹が一体何を抱えて、どうしてそんな表情をして、私には何ができるのか。
 ずるいな、と芽吹は小さく自嘲する。
 でも、ぐちゃぐちゃと馬鹿みたいに考え込んだおかげで、1つ、心に決まった。
「ねえ奈津美。私、モデルを引き受けたいんだけど、いいかな」
「え?」「芽吹」2人の声が、ぴたりと重なった。
「え、え。いいの? 誘っておいてなんだけど、無理してない? てか、やけになってない?」
「奈津美。芽吹、せっかく決心してくれたのに」
「はは。そういう反応になるよね。でも大丈夫。ちゃんと考えて出した結論だから」
 息吹が言う、最後の写真がどんなものだったのか。どんな人だったのか。男の人? 女の人? その時一体何があったのか。たくさんの疑問が波のように次々押し寄せてくる。
 でもそのおかげで気づいたのだ。
 いつの間にか芽吹は、自分が思う以上に息吹を大切に思っていたということ。
 息吹の突拍子もない行動やおかしな価値観が、少なからず芽吹に影響を与えているということも。
 それなら、今度は私が。
「ただ……前々から言ってる通り、私カメラ苦手なんだ。不意打ちならまだしも、本格的に撮られるとなると、かなり迷惑をかけることになると思う。でも私、精一杯努力するから、少し見守ってくれる……?」
「……」
「……」
「……あの、2人とも?」
 次の瞬間、表情を一切変えない奈津美の手が伸び、芽吹の顔を胸の中に素早く抱いた。
 見た目よりも着痩せする奈津美のバストを押し付けられ、一瞬息に詰まる。
「何だこの子。今の芽吹、めっちゃ可愛かった」
「うん。可愛かった」
「は、はあ?」
 奈津美の抱擁から脱出しようとするも、なかなか力を緩める気配はない。しかし、その温もりにうっかり心が緩まる気がするのも事実だった。
(2)
 奈津美の髪は、肩よりも短い。
 それなのに髪の印象が凛と焼き付くのは、その美しさと繊細な揺れ方のせいだろう。
 いつもよりどこかその揺れ幅を大きくして、奈津美は校内の階段を下っていた。目指す先は、生徒玄関前のホールに隣接する、購買課。
「いらっしゃい。何かお探しですか、奈津美ちゃん」
「さすが、妹関連の名前は、憶えてくれましたか」
 授業と授業の間の時間は、さすがに購買を訪れる生徒も少ない。
 都合よく当人と2人きりのシチュエーションを手に入れた奈津美は、早々に本題に入った。
 もちろんその本題は、購買で何かを購入したいというものではない。
「実は私、小さいころからカメラ好きだったんです」
「へえ、そうなんだ」
「それで今度、ある写真コンテストに出るんです」
「そう。頑張ってね」
「モデルとして、芽吹にも協力してもらうつもりです」
 ここでようやく、息吹の飄々とした空気が一瞬乱れた。
 額が開けられた少し長めの前髪。その隙間から見える瞳のわずかな揺れに、奈津美はここぞと続ける。
「でも、それには提出する書類があって、未成年なんで保護者からの承認欄も必要なんですよ」
「……そうなの?」
「知りませんでしたか。もしかして芽吹、モデルのことお兄さんには言ってなかったのかな。それとも、今後も内緒にするつもりなのかな。でも、どうしてでしょうね」
 さらさらと繰り出される奈津美の言葉に、息吹は微笑を浮かべたまま押し黙る。
「まあ、あの子も恥ずかしがりですからね。保護者欄は、外国の両親に頼んで、送り返してもらうなんて言ってましたけど」
「そっか」
「ついでに言うと、私、あの子を炊きつけたんですよ。撮影の指南役をお兄さんに頼んでみてくれないかって。でもそれも、あの子は口に出せないままになったみたいですね」
「……」
「私は部外者だと承知の上で言います。妹にここまで気を遣わせて、保護者欄を埋めることのできないお兄さんって、どうなんでしょうね」
「南、奈津美さん」
 フルネームを知っていたとは驚いた。静かに告げられた名前に、怒りを燃料にしていた奈津美が一瞬怯む。
「芽吹は、いい友達を持ったんだね」
「は」
「安心した。ありがとう」
 ふわりと微笑む息吹が、チノルチョコを差し出す。
 非売品、とだけ告げられ、奈津美は無言で受け取った。どうやら退散の頃合いらしい。
 ぺこりと頭を下げた奈津美は、再び教室に続く道を戻っていく。
「さて。吉と出るか、凶と出るか」
 できれば自分のお節介が、少しでも親友の救いになりますように。
 教室に戻る道すがら、奈津美は静かに祈った。


 芽吹の放課後は、週5で野球部マネージャーの仕事が入っている。
 その事情もあり、コンテストに向けた撮影練習は、基本的に休み時間で行われることになった。
「芽吹、ちょっと休もう」
「大丈夫。まだ始めたばかりだし」
「いいから。あんた、顔色が相当きてるよ」
 カメラを下ろした奈津美に、強めの語気で告げられる。
 近くで見守っている華も心配そうに眉を下げていて、芽吹はようやく我に返った。
 何度も広げたはずの拳が、またも固く握られている。小さく震える手を開くと、じとりと嫌な汗が滲んでいた。
「改めて見るとよくわかるわ。芽吹、あんた本当に写真苦手だったんだねえ」
「芽吹、はい、お水」
「あ、りがとう」
 しみじみ告げる奈津美に、軽口をたたく気力もない。
 久しぶりにまっすぐ向き合ったカメラレンズに、芽吹の心はすっかり委縮してしまっていた。
 カメラへの恐怖心が薄れていたと思っていたのは、ただの思い違いだったようだ。ただ撮影の機会から逃れ、心の奥に刻まれた傷に蓋をしていただけだ。
「迷惑かけてごめん。でも、引き受けたからにはちゃんとやり通すから」
「そりゃそうだ。あんたをモデルに選んだのは、この私なんだからね」
 間髪入れずに頷く奈津美が、「でも」とくぎを刺す。
「それであんたを追い詰める真似はしたくないから。だから何でも相談してよね。私たち、今はチームなんだから」
「ん。ありがとう、リーダー」
 とはいえ、このままじゃ駄目だ。
 撮影を始めて1分もたたないうちに貧血でやられていたら、どんな作業も進まない。このままじゃ、奈津美の大きなチャンスを奪いかねない。
 どうにかしなくちゃ。
 重くぐらつく思考を抱えた芽吹は、正反対に澄んだ青空をぐっと睨みつけた。


「……息吹?」
 何度かドアに耳を押し当てた後、音を立てないように慎重に扉を開く。
 中は予想通りすでに消灯し、セミダブルのベッドには息吹が横になっていた。つま先立ちで顔を覗くと、瞼はしっかり閉じられている。
 それにしても――やっぱり、黙っていればいい男、なのかもしれない。
 変に感心する自分にかぶりを振った後、芽吹はまた静かに扉を閉めた。
 忍び足で1階に降りたつと、キッチンの電気だけをそっと灯す。リビングにもほのかに差す光を確認し、芽吹は懐からあるものを取り出した。
「えっと。確か、このボタンを入れれば電源が入るって言ってたよね」
 奈津美から教わった手順を思い出し、恐る恐るスイッチを入れる。赤いランプが点灯し、内部のふたが軋むように開く音がした。
 その音だけでもドキッと震える心臓が情けない。
 しっかりしろ。これで無理なら、写真のモデルなんて100年かかっても無理だ。
 奈津美と華の心配そうな表情を思い出す。
 そして――カメラはもう撮らないと告げた、息吹の消えそうな表情も。
 結局息吹とは、今日1日ろくに口をきけないままだった。
 朝は気まずさが先行して逃げるように家を出た。帰宅後は、息吹が芽吹とあえて重ならないように行動していた。朝あからさまに避けたんだ。そうさせてしまったのは他でもない自分だろう。
 でもきっと、この壁を乗り越えることができれば。
「自分で、決めたことでしょ」
 大丈夫だよ。幼かったころの自分に言い聞かせる。
 きっと、自分のカメラ恐怖症を克服できれば、息吹の心を動かせる。そうしたらきっと、あの苦しそうな表情を和らげることだって。
 リビングに飾られた写真は、いつだって清々しくて心が澄んだ。
 息吹がカメラを無心で構えている姿。
 それを、いつか見てみたい、と芽吹は思った。
(3)
 次の日は、いつも通り息吹に挨拶をすることができた。
 その様子で判断したのか、息吹も昨日の1日がなかったかのようにいつも通りだ。こういう時、息吹はやはり大人なのだと感じてしまう。
「あれ。芽吹、もう行くの」
「うん。ちょっと、野球部の朝練に付き合うことになって」
 嘘だった。本当は早めに登校して、人目のないところで写真の特訓をするためだ。
 今は、時間の許す限りカメラに接していくしかない。
 あらかじめ用意していた言い訳をすると、息吹は少し考えた様子で押し黙った。
「息吹?」
「芽吹、ちょっとこっち」
 言うなり、息吹の長い指が伸びてくる。
 そっと目尻に触れた指先は、しなやかに見える印象とは対照的に、意外と固かった。
「目、赤いね。寝不足だった?」
「あ、うん。寝る直前、スマホいじっちゃって」
「そう」
 じっと見つめる息吹の視線に、何とか耐える。
 あまり不自然に目を逸らすと、心の中を覗かれてしまいそうだった。心臓の音が、どくどくと体を震わせる。
 頬に触れた指先はしばらく芽吹の目尻を小さく撫でていたが、そのままさっと離れた。
「あまり、無理しちゃ駄目だよ」
 息吹は懐から何か取り出した。チノルチョコだ。
「非売品。いってらっしゃい。気を付けて」
「ありがと。いってきます」
 受け取った小さな気遣いを握りしめ、芽吹は学校へと急ぐ。胸に抱いた決意のために。
 その背中を、息吹は視界から消えてもしばらく見つめていた。


 ところが、カメラ嫌いの克服はそう簡単にはいかなかった。
「奈津美。1分30秒経過」
「よし。ちょっと休憩しようかね」
「ん。ありがと、2人とも」
 ぺたりとその場に腰を落とした芽吹に、華が甲斐甲斐しくお茶を差し出す。手中のスマホには、ストップウォッチ画面が開かれていた。撮影時間を計測するためだ。
 初日1分以内に不調を訴えていた芽吹の撮影持続時間は、数日経過した時点で1分30秒になっていた。
「はは。ほとんど事故のような誤差だよねえ」
「そんなことない。初日は1回もいかなかった時間だよ。たぶん」
「ただ、問題は本番の撮影場所では、周りの視線も追加されるってことなんだよねー」
 今撮影練習している場所は、もっぱら人目のない屋上か学校の裏庭だ。
「だから、ある程度カメラ自体に慣れたら、今度は人目にも慣れる練習をしなくちゃ。ぶっちゃけ私も、そのときは緊張しそうだしねえ」
「そうだよね。了解」
 いまだにお腹の奥に力が入らない状態で、芽吹は努めて普段通りに答える。
 人の目がある撮影。カメラ嫌いの症状が悪化するのが嫌でも想像できる。それでもゆっくりしていられない。
 もう少し特訓の時間を増やさないと、と芽吹は自分に言い聞かせる。ふとポケットに入れたままになっていた小さな塊に気づき、かさかさと包みを開く。
「芽吹。それって」
「あ、チノルチョコ。今朝家を出るとき、息吹が渡してきたの。非売品って」
「非売品、ねえ」
 意味ありげに見下ろしてくる奈津美に、首をかしげる。
「実は昨日、私もお兄さんからチノルチョコもらったんだよね、非売品って言って」
「え、そうなんだ」
「でも、私のにはこんなこと書いてなかったなあ」
 そう言って指摘したチョコの包みに、視線をやる。そこには、小さな文字が追加されていた。
『お兄ちゃんの魔法入り』
「……なんだこれ」
 ふっと噴き出したはずが、目測を誤って泣き笑いになりそうだ。
 何の魔法かはわからない。
 それでも不思議と胸の奥から、温かな力が湧いてくるのを感じた。


「……で。俺に協力を要請したい、と」
「本当にすみません。でもこんな図々しいお願いできるの、先輩しかいないんです」
 2年生の廊下の角隅で、2人の人影が揺れた。
 授業の合間の時間で安達を呼び出した芽吹が、深々と頭を下げる。
「今はもう、どんなわらにもすがるべき時と言いますか」
「え、俺ってわらと同列? そゆこと?」
「いえ、決してそういうことではなくて」
 疲労が募っているからか、今の芽吹は少し言葉の選定力に欠けていた。
 それでもさして気分を害した様子のない安達に、芽吹はほっと救われる思いがする。
「でもなあ、俺写真なんて滅多に撮らねーし、専門的なことはわからねーよ?」
「いや、先輩に求めているのはそういうことじゃないんです。ひとまず、この写真を手に持ってください」
「ん? これ、前も持ってた写真じゃねーか」
 薄暗い廊下でも瞬時に判別できる。さすがエースピッチャー。視力もピカ一だ。
「この写真を見て、その、つまり、感想を言ってほしいんです」
「はい? 感想?」
「その……『写真写り、悪くないな』……みたいな?」
「はいい?」
 言いながら声量が小さくなる。
 自分でも馬鹿なことを頼んでいる自覚はある。でも今は、本気で手段を選んでいる余裕はないのだ。
「その、前に聞いてもらいましたよね。カメラが怖くなった理由が、『写真写り悪い』って言われたことだって」
「……おう」
「だからその……トラウマとは逆の言葉を耳にしていれば、効果が相殺されるんじゃないかと」
「ほう、なるほど」
「……すみません。馬鹿みたいですよね」
「いや。それだけ、カメラを克服したい気持ちが強いってことだろ?」
 そう告げると、安達の唇がそっと芽吹の耳元に寄り添った。
 驚きを表現する間もなく、唇が言葉を辿る。
「写真写り、いいじゃん。すっげー可愛い」
(4)
「……っっ」
 ぞくり、と背筋に痺れが走る。
 反射的に距離を取った芽吹に、安達は至極嬉しそうに白い歯を剥いた。
「はは。なんで飛び退くんだよ。ご所望通りに感想を言ってやっただけだろ?」
「そ、そんな甘い口調で言う必要はありません……!」
「どんな口調で言おうと俺の勝手だろー。それに、好きな子に頼りにされてんだし。少しは浮かれても許されんじゃね?」
 もはや恒例になりつつある安達の告白めいた言葉に、芽吹の心臓が大きく揺す振られた。
 その言葉を耳にするたびに、どうしていいのかわからなくなる。
 嬉しい気持ちと、恥ずかしい気持ちと、困惑する気持ちと、耳を塞ぎたくなる気持ち。あまりに不慣れな感情が一気に押し寄せて、調子がどうしても崩れてしまう。
 そして――それを予測できるというのに、こうして再び安達と接点を持ってしまう自分が、芽吹は1番不思議だった。
「あーだーちー。てめーは、部活外でもマネージャーを困らせてんじゃねーよ!」
「げ。2人の世界を邪魔する奴が来たー」
「田沼先輩」
 野球部で現在の正捕手である田沼が、廊下の向こうから超スピードでやってくる。
「安達の保護者」として監督たちから頼りにされているだけあって、真っ先に口に出たのは芽吹への謝罪だった。
「すまん来宮、この馬鹿を野放しにして。怪我はないか。精神的な意味で」
「おいおい。マウンド上のパートナーに向かってそりゃないんじゃねーの、田沼」
「るっせーよ馬鹿しゃべんな。またマネージャー辞めてほしくなけりゃ少しは行動を慎め」
「酷!」
「あ、違うんです。安達先輩に話があったのは、私の方で」
「話? ……って、何だ、この写真」
 安達を拘束する形で組みかかっていた田沼が、その手に見つけた写真に気づく。
「へえ。これ写ってるの、来宮だよな?」
「あ、その、はい」
「すげー……。いい写真だな。綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
 田沼はもともとチームの要の役割ということもあってか、気遣いのプロだと芽吹は思っている。
 さらりと投げかけられた褒め言葉に、芽吹は慌てて頭を下げた。するとほぼ同時に、安達が田沼の視線を塞ぐように写真を後ろ手に隠す。
「どうしてお前が褒めんだよ。見んな」
「……写真にも嫉妬かよ。見苦しいぞ」
「うっせ。いいからあっち行け」
 しっし、と手を払う安達に、呆れ顔の田沼は退散した。安達が芽吹に、危害を与えていないと判断したんだろう。
「……」
「……あの、安達先輩?」
「お前、さ」
 今度は田沼にも、同じ頼みごとをしに行くのかよ。
 安達らしくない、冷たい口調だった。それに気づいたのは、安達自身も同じだったらしい。
 互いに何か口にしようとした瞬間、階段を上がってきた教師に教室に戻るように告げられる。
 なんてタイミングの悪い。結局その後の言葉を続けられないまま、芽吹と安達はともに自分の教室へ戻っていった。


「あーだーちー。今はあんたと面倒ごと起こしてる場合じゃねーんだよイケメントラブルメーカーがあ!」
「奈津美、暴言が過ぎる。抑えて」
 まるで先ほどの正捕手が乗りうつったかのような友人の姿に、クラス中の視線が刺さる。その元凶になった芽吹は、当然恐縮しきりだった。
「だから違うんだって。完全に私が押し掛けたことだから。安達先輩が悪いわけじゃ」
「おかしなヤキモチ焼いて気まずい感じのまま芽吹の顔色をさらに悪くさせて解き放ったのは他でもない奴なわけでしょおお?」
「や、ヤキモチ……」
「奈津美、暴言が過ぎる。抑えて。ひとまずこれ食べて」
 言葉で解決しないと悟ったらしい。弁当のお稲荷さんをすくうと、華は奈津美の口に蓋をした。
「でも、芽吹が悩んでるなら、早めに解決した方がいい。きっと、先輩もそう思ってる」
「そう、だよね」
 でも、何をどうすれば解決するんだろう。
 何かフォローする言葉をかけたらいいんだろうか。でも、わざわざ話を蒸し返すのも、かえって気を悪くさせてしまうかもしれない。彼女でもないのに出過ぎた真似ではないだろうか。
 いや、そもそも先輩後輩の関係で、私が先輩に甘えすぎた?
 自分が何をすべきかわからないまま、芽吹は昼休みの時間を使って再び2年生の教室を訪れた。
 しかし、安達の姿はどこにもない。
「安達? ああ、あいつならさっき田沼と一緒に来たけどなあ」
「ああ。たぶん向こうのクラスに行ってるな」
「え、安達? さっきまでいたけど、今はたぶん購買じゃね?」
 野球部員の先輩にことごとく安達の行方を聞きながら、芽吹は購買に向かう。
 その背中を、部員たちは意味ありげに見つめる。
 彼らから、「大変だなー」といういつもの視線とは違う、別の視線を送られていることに、芽吹は気づかない。
「安達先輩!」
 購買にたどり着く直前の廊下で目当ての人物を見つけ、思わず声を上げた。
「あの、ちょっとお話が」
「……っ、待て!」
(5)
 急に上がった制止の声が、芽吹の駆け足を留める。
 差し出された安達の手の長さだけ、互いの距離が担保された。それがまるで自分に置かれた距離のようで、芽吹の胸が苦しくなる。
「安達先輩……その、さっきは本当に」
「言うな。いいからとりあえず、これ」
「えっ」
 反対の手が持つものに視界を奪われる。スマホだ。たぶん安達先輩の。
「動画。撮ったから、見てよ」
 そういうと再生された動画は、既視感のある光景を流し始める。そうだ、これ、さっき自分が駆け回ってきた2年の野球部員の顔じゃないか。
 耳を澄ませると、先ほど安達の行方を教えてくれた面々がスマホカメラを向けられ、何かインタビューを受けているようだった。
『この写真を見た感想を聞かせてほしい。遠慮とかはなしな。率直なやつを頼む』
 ……え?
 聞き手の声は安達だ。そこでようやく気付き、はっと息をのんだ。
 そういえば、写真を安達に見せたまま、受け取ることを忘れていた。
『へえ、美人だね。……ってあれ、これ、もしかしてマネージャーか?』
『ふえー。来宮さんって、こうして見ると結構可愛いのな』
『何これ、お前が隠し撮りしたのかよ安達。撮りたくなる気持ちはわからんでもないけど、さすがに危ねーぞその趣味』
「……!」
 次々に語られる写真への感想に、胸がじんと熱くなってくる。嬉しい、と素直に思える。
 無意識に口元に添えていた両手をつつくように、写真がそっと差し出された。
「……以上。野球部2年の野郎どもの感想一覧でした」
「先輩……わざわざ、皆さんに聞いて回ってくれたんですか」
「まああれだ。やっぱ人数が多い方が、お前も信頼しやすいだろ? その方が、お前の苦手克服に役立つんじゃねーかって……」
「くくっ、見栄はってんなあ、安達」
 その時、後ろからひょいっと田沼が顔を出した。
「こいつ、来宮が他の奴らにも頼ろうとするんじゃないかって、気が気じゃなかったらしいよ。だから先手を打って、自分がインタビュアーなんて慣れないことしてな」
「え」
「たーぬーまー。余計なことばっか言ってんじゃねーっての!」
「お前をいじれるのは、来宮関連のことくらいだからな。ちったあ日頃の俺の苦労を知っとけ、マイペース人間」
 愉快そうに肩を揺らして、田沼はその場を後にした。残された芽吹と安達は、そのまましばらく沈黙に浸る。
「先輩、その、ありがとうございます」
「……別に。半分以上、俺のためだったからな」
 視線を逸らしながら話す安達は、子どもが拗ねるように唇を尖らせる。
 そういえばそんな表情、前は見せてくれなかった。些細な変化に気づき、自然と口角が上がるのを感じる。
「だから、さ。これからも何かあったら、俺のことを頼ってくれていいから。っていうか頼れ。これ、先輩命令な」
「……それじゃあ私も、後輩命令、してもいいですか」
「え?」聞き返す安達の声を耳に掠めながら、写真の端をそっと受け取る。
 一瞬だけ写真で隠れた芽吹の表情は、すぐにはっきりと安達の視界に現れた。
「私、きっとカメラ恐怖症を克服します。だからその時は……『よくやったな』って、思い切り褒めてください」
「っ……」
 ふわりと小さな花が咲く。
 その瞬間に立ち会ったような感覚に、安達は声が出ない。安達もまた思ったのだ。そんな表情、前は見せてくれなかった、と。
「先輩?」
「……わかった。約束な」
「はい。約束です」
 小指を出しかけて、慌てて引き留めた。
 子どもみたいな動作の一端を見た安達は、眩しそうに笑みを浮かべた。


「……息吹?」
 夜も更けた時間帯に、芽吹は慎重に部屋の戸を開く。
 すでに消灯された視線の先には、いつも通り瞼を閉じる兄の姿があった。
 よかった。今日もちゃんと眠ってる。
 この夜の個人特訓や安達の動画の効果か、最近は少しずつカメラ嫌いが薄れつつあった。
 長丁場になると無理だが、強張っていた表情も少しずつほぐれてきていると奈津美も言ってくれている。華は毎回撮影タイムと崩れる兆候を細かく分析していて、芽吹専属マネージャーのようになっていた。
 今夜も少しだけ、頑張ろう。ほっと胸を撫で下ろし、そっとベッドに背を向ける。
「っ、え」
 しかし、踏み出したはずの歩みが床に付くことはなく、ぐるりと宙を浮遊した。
「ぎゃっ」
「芽吹」
(6)
「い」
 ぶき、と紡ぐはずだった言葉は、震える吐息になって溶けていく。
 薄いタオルケットと混ぜこぜになった体が、息吹の腕にぎゅうっと抱き締められていた。
 カーテンに淡く浮かぶ月明かりで、次第に暗闇でも目が慣れてくる。
 至近距離でかち合った胡乱な眼差しに、芽吹の心臓が大きく飛び跳ねた。
「っ、ちょ、息吹、あんた起きて……」
「起きてたよ。今日も、今までも、ずっと」
「え、嘘。ほんとに?」
「うーん、まあ、半分以上夢の中だったけど」
 ごしごしと乱暴に目を擦ると、幾分か意識がはっきりしたらしい。
 ベッドに横並びになった兄妹の図。うん、ひとまずこの構図を何とかしよう。体に巻き付いた腕をほどこうと試みるが、大人の男に敵うはずもなかった。
「ちょっと、私、抱き枕じゃないんだけど」
「芽吹さ。部活の朝練付き合ってるって最近早めに朝出てるの、あれって嘘だよね」
 ぎくり、と自分でも驚くほどわかりやすく肩が震えた。
 正直いつか気づかれると思っていたけれど、その前に自分の口で説明しようと思っていたのに。
「安達くんと最近特に仲がいいみたいだよね。もしかして、彼と密会してるとか?」
「みっか……、ち、違うっ」
「それじゃ、やっぱり写真コンテストの関係?」
 え、どうしてそれを。
 目を瞬かせる芽吹に、息吹が奈津美との会話を復唱してみせた。写真コンテストのこと、モデルのこと、写真の指南役のことも全て。
「奈津美……話したなら話したって言ってほしかった……」
「どうして、俺に話さなかったの」
「え、それは」
「俺が、カメラはもう撮らないって言ったから? それとも――」
「……息吹?」
 続きの言葉がなかなか届かず、顔を覗き込む。
 その表情は、まるで触れてはいけないような繊細さで覆われていた。一度躊躇しながらも、芽吹は慎重に言葉を選んで口を開く。
「話せなかったのは、息吹がカメラに抵抗があるって知ったから。知った直後に写真のモデルを引き受けるのを相談したり、カメラの指南役を頼むのは、無神経かなって思って」
「ほんとに、それだけ?」
「それだけ、って」
 他に何があるというのだろう。
 でも、その疑問をそのままぶつけることはできなかった。軽口で済ませるには、あまりに目の前の表情が弱々しかった。
 無意識に差し出した手で、息吹の髪を梳く。柔らかそうに見えたそれは、意外に芯が固かった。
 芽吹の手のひらに、息吹の頬が小さくすり寄る。こんなに近くにいるのに、1人で寂しそうにしているなんて。
 支えたい、と芽吹は思う。
 力になりたい。ほんの少しでもいいから。
「……ねえ息吹。カメラの指南役、やっぱり引き受けてくれないかな」
 口から滑り出た意外な誘いに、息吹は目を丸くした。
「それで、私の写真嫌いを克服するのを、そばで見ていてほしい」
「芽吹」
「大丈夫だから」
 ひやりと冷たい指先を、そっと包み込む。
「もし息吹に何かあったら、私が守ってあげる」
 いつか、誰かに言われた言葉だ。
 意図せず口にした言葉に、息吹はようやくふにゃりと相好を崩した。
「そっか。芽吹が、守ってくれるんだ」
「うん」
「……そっか」
 霞のような呟きが、互いのわずかな隙間に消えていく。
 息吹に抱き締められていたはずが、いつの間にか芽吹が抱き締めていた。