芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

(2)
 体育館から保健室に行くまでは、どうしても購買前を通る必要がある。
「お兄さん、今は購買にいなかったみたい」
「そっか。よかった」
 華に付き添われる形で、芽吹は亀のようにゆっくりと廊下を進んでいく。その間も、手足が痺れるような感覚はなくならず、じとりと嫌な汗が額に浮かぶのがわかった。
 これだから嫌なんだ、生理痛は。
 月1で訪れるたびに、無意味な悪態をつく。さっき薬を飲んだのに、今回はなかなか効きが悪い。どうにも耐え切れなくなった芽吹を労わりつつ、華が保健室の扉を叩いた。
「失礼します。小笠原先生、ベッドは空いて……」
 保健室内の空気が、固まった。ただ1名を除いて。
 養護教諭の小笠原葵(おがさわらあおい)は、男性ながらいつも通り美しい佇まいだ。さらさらの黒髪と白い肌のコントラストに、少しだけ切れ長な瞳。
 男性の養護教諭は珍しいが、女子生徒からためらいなく「美人」と呼称されているこの人なら、そう違和感も覚えない。
 違和感だらけなのは――そう。
 ベッドに背をつき白衣が乱れた小笠原が、同じくらいの上背の男に組み敷かれている点だった。
 こちらを振り返る男の顔を見るなり、芽吹の視界が一気にぼやける。
「ああ、ベッドなら空いてるよー。俺たちがすぐにどければね」
 ――なんであんたが、小笠原先生とイチャコラしてんだ、息吹!
「どけ、息吹。来宮、折鶴。ひとまず扉を閉めろ」
「はい」
 小笠原に言われた通りに、華が扉を閉める。次に見たときには息吹はベッド下に叩き落されていた。
「保健室で養護教諭に怪我させられたー。あれ? これってもしかして大事件?」
「言っておくが、こいつがじゃれてきたのを避けきれなかっただけだ。誤解すんなよ二人とも」
「あ、葵ってば恥ずかしいのかー。そりゃそうだよね。うんうんそーそー、じゃれついてただけ」
「お前は黙れ。ぶっ殺すぞ」
 養護教諭らしからぬ殺伐とした物言いだが、特に驚きはない。保健室利用が初めてではない芽吹は、ベッドでまどろむ中で時折小笠原の粗雑な口調を何度か耳にしてきた。
 一部の女子生徒には、「そんなギャップもいい!」とさらに熱を上げる存在もいる。
 目の前の展開についていけなかったらしい華は、真顔のまま保健室を後にした。
「ベッド、いいですか?」
「ああ。いつものだな」
 小さく頷くと、芽吹はすぐにベッドに横になる。何となく、先ほど2人がイチャコラしていたベッドとは違うベッドを選んだ。
「にしても、珍しいですね。小笠原先生が病人以外を保健室に留まらせるなんて」
「もう100回『出て行け』と言ってる。1時間粘られて、こっちが疲れた」
「いいじゃん暇なんだし。久しぶりに会ったオトモダチのよしみ」
「お友達?」
「……中学時代のクラスメートだ」
「まじですか」
 心底嫌そうに答える小笠原に、笑みが漏れる。が、追うように鋭い痛みが腹を突き、早々に布団の中でうずくまった。
「どうしたの芽吹。顔色悪い」
 息吹が、いつの間にかベッドの隣にしゃがみ込んでいた。
「ただの、生理痛。薬は飲んだから、じきに良くなるけど」
 オブラートに包む余裕もなく、ストレートに答えた。「せいりつう?」漢字変換ができなかったらしい兄は放置することにする。
「役立たずの兄貴はどけ。来宮、これ、腹に当てとけ」
「ありがとうございます」
 なるほど小笠原先生は、私と息吹の関係も織り込み済みらしい。
 湯たんぽを手渡され、有り難くお腹に抱きかかえる。温かくして、薬を飲めばすぐに良くなる。自己暗示に近い思考をぐるぐる巡らせる。こう酷くなると、これで凌ぐ以外方法がない。
 その時、大きな手のひらが布団越しに乗せられた。手の主は、瞼を開かなくてもわかった。
「痛いの痛いの、飛んでいけー」
「馬鹿か。息吹、お前はとっとと職場に戻れ」
 本当、馬鹿か。
 小笠原の呆れ声に秘かに同意しながら、何故だろう。その温もりを避ける気にはなれず、溶けるように意識を手放した。


「芽吹の敵討ちは抜かりなく済ませたよ。あの女のチームをちゃんと粉砕しといたから」
 ひと戦終えた武将よろしく、奈津美は満面の笑みでおにぎりを頬張った。
「粉砕する必要はあったのだろうか」
「あったね。私、あの女嫌いだから。でもだからって、その辺歩いてるところを殴るわけにもいかないじゃない?」
 さらっと怖いことを言う。会話の内容と裏腹にふわりと爽やかな風が届いた。
 校舎前に立ち並ぶ桜の木は、夏の今は当然花も散っている。それでも心地いい木陰でとる昼食は、生徒の間でも秘かに人気だった。
「んで、芽吹はもうお腹は平気なわけ? 生理痛も辛い子は本当大変だねえ」
「うん、あのあと薬が効いたから。華も、付き添ってくれてありがとう」
「うん」
「……そうそう。小笠原先生とうちの兄、中学時代のクラスメートだったんだって。旧友なのをいいことに、保健室入りびたってたみたい」
 さり気ないていを装ったものの、妙に説明口調になってしまった。それでも、いつも以上に口数の少ない華の表情が、かすかに上向いたのがうかがえ、ほっとする。
「芽吹のお兄ちゃんも、今や我が校の人気キャラになってるもんねー」
「でも」と続けた奈津美が、手元の牛乳を飲み干して口を開いた。
「前にさ、芽吹言ってたじゃん。お兄ちゃんの昔の記憶が全然ないって。結構妙っていうか、不思議だよねー」
(3)
「まあ、息吹が妙で不思議なのは、今に始まったことじゃないから」
 小笠原との妙で不思議なやり取りを頭によぎらせ、答える。
 昼食を食べ終えた芽吹は、すくと立ち上がり大きく伸びをした。
 桜の幹に手を当てた。花がなくても、桜の香りがする。ザクザク無造作に切り込みを入れたような樹皮の模様を、指でなぞる。
 ――ああ、ごめん。電池が切れたみたい。
 誰のものかわからない声が脳裏に降ってきたのと、軽快なシャッター音が届いたのはほぼ同時だった。
「ちょっと、奈津美」
「視線はこっち向けなくてもいいから。さっきの表情すごくよかったよー。思わずこうしてカメラを構えたくなるくらい!」
「いいからカメラしまって。言ったでしょ、私は撮られるのは苦手なんだってば」
 芽吹の反応は想定通りだったからか、奈津美はすんなり求めに応じた。1枚でも不意打ちに撮影できて満足したようだ。
 久々に姿を見せたカメラに、華は大きな瞳をさらに大きく輝かせる。
「奈津美のカメラ、相変わらずすごい」
「うふふ。スマホのカメラもいいけどねー、やっぱりいざってときはこっちが馴染みいいんだよね」
 奈津美はカメラが好きだ。
 何せ芽吹や華へのファーストコンタクトが、「あとで被写体(モデル)になってほしいんだ。いい?」だったくらいだ。
 和風妖精の華に目を付けるのはわかる。どうして自分まで声をかけらえたのかは、いまだに謎だった。


「あー芽吹い、せいりつうはもう大丈夫?」
 非常に有り難い気遣いの言葉が飛び、放課後の玄関前の雑踏がいっせいに歩みを止めた。顔を引きつらせて振り返ると予想通り、購買を閉める息吹と目が合う。
 無視しようか、殴りつけようか、夕食に何か盛ってやろうかを一瞬のうちに考える。
 その間に、当の本人は邪気ない笑みを浮かべて芽吹の顔を覗き込んでいた。幸い周囲の空気はすでに元に戻っている。
「よかった。顔色はだいぶいいみたいだね」
「あんたね。公衆の面前でそういうこと言わないでよ」
「そういうこと? 何で」
「恥ずかしいでしょ」
「兄が妹を心配するのって、そんな恥ずかしい?」
 最近気づいた。息吹のこういったストレートな物言いは、時々すごく恥ずかしい。
 あと、息吹と話していると、よくよく話の主題がずれる。ちげーよ、と心中呟く。しかし毒気はすっかり抜けてしまい、まあいいやと一息ついた。
「お腹はもう平気。あとは帰って大人しくしてれば」
「俺もあと鍵を返すだけ。一緒に帰ろう」
「え」
「靴、履き替えていいから、外で待っててよ」
 返事をする前に行ってしまった。ゴーイングマイウェイも大概にしてくれ。
 数名からの好奇の視点を感じ、玄関に急ぐ。幸い、視線の中にイブイブ懐いていた女子生徒たちはいなかった。よかった。女子同士の諍いの火種になったら怖い。
 このまま素知らぬ顔で帰ると、「おーい芽吹い、またせいりつうで倒れてたりしないよねー?」なんて玄関前で吹聴しかねない。言われたまま待つしかなかった。
 一緒に帰るって、肩を並べて仲良く帰るという意味だろうか。なんかすごく駄目な感じがする。
 年の離れた兄妹って、こんなものなのだろうか。身近な例を見たことたないから、よくわからない。どこまでが普通で、どこまでが拒否すべきなのか。
 玄関口からも見えるだろうと判断し、昼食を食べた桜の木の下に赴く。
 幹を手でなぞる。不思議とこの動作が、芽吹の心を落ち着かせた。
 桜の葉の隙間に、キラキラと木漏れ日が光る。緑の香りが鼻孔をくすぐり、穏やかに深呼吸を漏らした。
「桜の木、好きなの?」
 声を主は、息吹ではなかった。
 久しぶりに目にした白い練習着姿が、何故かひどく眩しい。
「確か春にも、同じ文句で話しかけられましたっけ。マネージャー勧誘のとき」
「おー、覚えててくれたんだ」
「見知らぬ人から声かけられた経験なんて、なかなか忘れられないでしょ」
「はは、そりゃそーだ」
 芽吹の返しに、安達は会得したように笑った。
 背後には他の野球部員が困惑した表情を浮かべている。それもそうだろう。
 1か月前に突然辞めた元マネージャーに、嬉々として話しかけるエースピッチャー。違和感以外浮かばないのも無理はない。
「可愛い子がいるなあって、あの時は声をかけずにはいられなかったんだよな」
「そういうのはもういいです。これから部活ですよね。みんな、先輩を待ってますよ」
「冗談じゃないから。ちゃんと聞いて」
 静かに通り過ぎた風が、いつもの気安い空気を一蹴する。
 予期しない出来事が起こる気配に、心臓が低く胸を打ち付けた。
「戻ってきてほしい、野球部に。他の奴らも、みんなそう思ってる」
「……人手は足りてるはずですよね?」
「芽吹がいないと、俺の調子が出ない」
(4)
 初めて目にする安達の瞳が、そこにはあった。
 表情を崩すな。芽吹は自分に言い聞かせ、気取られないように呼吸を整える。
「それは気のせいですよ」
「気のせいじゃない。あいつらに聞けばわかる」
「スポーツマンなら、誰しも多少の波はあるものじゃないですか。それに」
 あなたの世話焼きならあの子1人で十分ですよ、と言いかけてやめた。
 途切れた言葉を追求しない安達との間に、沈黙が落ちてくる。
「ねえ、俺のこと、どんな風に思ってる?」
「格好よくて、男女問わず人気がある、かなり調子よくて、軽い先輩」
「あー、めっちゃ的確じゃん、その表現」
 眉を下げて頭をかく表情は、いつもの安達だ。芽吹は内心ほっと胸を撫で下ろした。
 いい加減しびれを切らしたらしい部員の1人が、安達に声をかける。あんたらもそんな所に突っ立てないで、早くこの男を回収していってくれ。
 芽吹が大きく溜め息をついたのと安達が大きく息を吸ったのは、ほとんど同時だった。
「お願いします、来宮芽吹さん! 週末の練習試合で俺がノーヒットノーラン決めたら! 野球部マネージャーに戻ってきてください!!」
「――っ!?」
 びりびりと響くほどの声量とともに、深々と頭を上げられる。
 呆気にとられた芽吹は、ようやく動き出した思考の中で「やられた」と眉をしかめた。
 外履きに履き替えて校門を出ようとしていた生徒たちの視線が、一斉に安達と芽吹の2人に向けられる。
「え、何今の」「あれって、野球部の安達先輩じゃん?」「え、なんか女にめっちゃ頭下げてるんだけど」「なんか、マネージャーがどうとか言ってた?」
 さざ波のように広がっていった噂話は、明日には学校内の周知の事実になるに違いない。
 当事者が他でもない、この男だからだ。
「……汚い手を」
「悪いな。でもこうでもしないと、本気で会話もできないみたいだから」
「おい安達! お前、また何めちゃくちゃなこと言ってんだよ!」
 ようやく待ちぼうけを食らっていた部員の1人――正捕手の田沼が、安達を物理的に止めに来た。向けるべき言葉が見つからない風体のまま、芽吹とは小さく会釈だけ交わした。
「大体、週末の練習試合って相手わかって言ってんのか。佐久翔だぞ」
 佐久翔。去年の練習試合で安達が大量失点し、途中降板した相手だ。当時一年だったとはいえ安達には珍しい成績だったので、データを整理したときに記憶していた。
「わからねーかな田沼。だからこそ、賭ける価値があるんだろ?」
 満足げに笑う安達を、田沼は呆れたように睨む。「滅茶苦茶な奴ですまん、来宮」と視線だけで詫びられた。
「な、芽吹。さっきの約束を守ったら、戻ってきてくれるよな?」
 何の握手かわからない手を差し出される。大きな手。チームを勝利に導き、想像つかない期待と負担を背負う手だった。
「俺! 絶対にノーヒッ」
「わかりました! だから黙ってください!」
 一時前の思考をすぐさま取り消しにかかる。何が期待と負担を背負う、だ。ほとんど脅しじゃないか。
 してやったり、と笑う安達は、悪の申し子のように見えた。


「あ、何かスーパーで買い出しはない?」
「いらない。まだ冷蔵庫に食材あるから」
「そか」視線もスピードを変えないまま短く答えた。
 学校への赴任が決まってすぐ、息吹はスクーターをどこからか調達してきた。見るからに中古だったが、動くものなら何でも構わない主義らしい。ヘルメットが2つあることについては、当初は気にも留めていなかった
「一応聞くけど、ちゃんと免許あるんだよね」
「大切な妹を乗せるのに、無免許なんてするはずないでしょ」
 ヘルメットで表情は窺えないが、恐らくへらへら笑う息吹を芽吹は無言で睨む。
 大切な妹なら、さっきの騒動のときもどうにか手を貸してほしかった。
 とはいえ、具体的に何をしてほしかったわけじゃないけれど。
「にしても、さっきの安達くん? すっごかったねえ、公衆の面前で大告白」
「告白じゃない。あの人はいつもああいう感じなの」
 ピンポイントで振られた話題に、くすぶる苛立ちをそのまま言葉に乗せる。そして予想通り、そんな口調を意に介するような兄ではなかった。
「芽吹、野球部のマネージャーだったんだね」
「たった、数か月だけだよ」
「芽吹は1年生なんだから、そりゃ数か月に決まってるでしょ」
 そりゃそうだ。馬鹿なこと言ってしまった。
「でも。色々あって辞めたの。1か月前」
「いいんじゃない。またやってみれば」
「簡単に言うね」
「だって、なんか楽しそうじゃない」
 始終軽い口調。
 それでも、あえて削いだ事情もすべて察しているように、息吹は言った。
「芽吹だって、ほんの少しは後ろ髪をひかれてるように見えたし」
「……」
 そうなのだろうか。実はずっと、小さな何かが引っかかってはいた。
 でもその正体はわからなかったし、部活が円滑に回っているのならそれでいいとも思っていたのだ。
「もし何かあったら、兄ちゃんが守ってあげるからさ」
 横目で、一瞬だけこちらに視線が向けられる。
 その瞳は、正面から照らす夕日の眩しさに阻まれ、よく見えなかった。
(1)
 深いもやがかかった広場に、芽吹は1人だった。
 緑生い茂る丘をゆっくり上っていくと、どこからか大きな木が現れる。木漏れ日がちらちら届いて綺麗だ。
 大丈夫。気づいたときには連絡するし。
 届いた誰かの声に、芽吹は振り返る。大人3人が話し込んでいた。背の低い芽吹は、慌てて近くに駆け寄っていく。話題に入れなくて少し不機嫌になるも、隠すように下ろされていたカメラを見て、小さく呟く。
 それ、わたしたち?
 その持ち主は、ばれたか、と儚く笑った。
 お守り代わりだから、許して。
 おまもり? 聞き返した芽吹に、大きな手のひらがそっと乗せられる。
 元気でね、芽吹。


 カン、と短く強い響きに、胸が透く心地がする。
 久しぶりにかぶる野球帽に少しの違和感を覚えつつ、芽吹はグラウンドの隅を休みなく動き回っていた。バッティング練習後のヘルメットを素早くタオル掛けし、ドリンクの残りを確認し、1年生が次のメニューで使うティーバッティング用のボール箱をネット裏に準備する。
 首の後ろに感じる日差しが、じりじり熱い。
「戻ったか、来宮」
「伊藤監督」
 後ろから掛けられた朗らかな声に、帽子を外して礼をする。野球部特有の挨拶も、いつの間にかきちんと身に戻りつつあった。
「またあの安達がやらかしたらしいなあ。玄関前でマネージャー復帰依頼とは。お前も妙なやつに懐かれたもんだな」
「まあ、約束したのは私ですから、仕方ないです」
 例の「約束」を交わした週末。問題の練習試合で安達は、ノーヒットノーランを叩き出した。
 まさかと思ったが、嫌な予感がしていたのも事実だった。
 いいんじゃない。またやってみれば。軽く言い放たれた息吹の言葉がよぎり、小さく顔をしかめた。
 あの言葉にうっかり、それもいいのかもしれない、と思ってしまった自分に。
「芽吹、タオルとって」
「今から洗濯なので無理です。というか、先輩の方が置いてる場所に近いじゃないですか」
「おい安達。来宮が返ってきたのが嬉しいのはわかるが、あんま甘えて迷惑はかけるなよ」
 苦笑しながら忠告する監督に、安達は悪戯っ子のように笑って去っていく。
 目で追うと行った先で捕手の田沼にどつかれていた。大方、監督と同じ忠告を受けたのだろう。
 1か月ぶりの野球部は、意外にも居心地も悪くなかった。
 選手たちも最初こそ腫物を扱うような言動も見えたが、すぐに適度な距離感で付き合えるようになった。
「来宮さん。私、シートノックに行くね。あと宜しく」
「ん。いってらっしゃい」
 そして1番意外だったのは、もう1人のマネージャー――倉重百合とも、それほど苦痛なく過ごせていることだ。
 何か、心境の変化でもあったのかしら。単に仕事が追い付かなくて、ともにいる時間が少ないというだけかもしれない。
 復帰まで知らなかったが、芽吹が辞めた後、他のマネージャーも次々に辞めていたらしい。結局残ったのは百合1人で、1年生選手の手を借りてなんとか仕事を回していた。
 他のマネージャーが辞めてしまった理由は、大よその察しはついた。
 まあいいや、ひとまず溜まっている仕事をこなしていこう。
「芽吹」
 雑巾をひとしきり洗濯レーンにかけ終わったところで、声をかけられた。安達だ。
「わっ、びっくりした。まだいたんですか」
「うわー、酷い反応」
 違和感があった。先ほどまでの軽口は変わらないのに、表情はどこか無理して見える。夏の暑さにやられたのだろうか。
「もしかして、アイシング必要ですか。それかドリンクがもうなくなったとか……」
「なあ、誰か、この辺りにいたか」
「いえ、私以外は誰も」
「そっか、ありがとうな」
 真意を掴めない質問だった。ただ、安達が「ありがとう」とは程遠い感情でいることだけはわかった。
「先輩」
 咄嗟に捉えた安達の手は、予想に反してひやりと冷たかった。
「熱中症、ではないですね。夏風邪ですか。ご飯はちゃんと食べました?」
「あ、え?」
「頭痛とか吐き気はありませんか。他に痛むところは? ちょっと、動かないで」
 つま先立ちをする。芽吹の手のひらが、安達の頬から喉元を丁寧にたどっていく。
 熱を帯びたり腫れがあったりはなさそうだ。単に疲労が溜まったのかもしれない。そう考えた瞬間、喉元に触れていた芽吹の手が掴まれた。
「……ちょっと。何してるんですか」
「んー、ちょっと、幸せに浸ってる」
「馬鹿なこと言ってないで」
「芽吹にとっては馬鹿かもね。でも、俺にとっては超真剣」
 超真剣、と言われて真剣にとるやつがいるか。
 自分の手を引き抜こうとすると、意外にも掴む力が強く、そのまま体ごと安達の胸元にぶつかった。
 それでも、安達は芽吹の手を放そうとしない。
「安達、先輩?」
「おい! どこ行った安達い!」
 田沼先輩。倉庫裏から飛んできた怒号に、何事もなかったように安達は芽吹と距離をとった。
「んじゃ、ランニング行ってきまーす」
「はあ、気を付けて」
 気の抜けた返しをした芽吹は、しばらくその背を見送る。
 安達の胸元に押し付けられた頬は、まだかすかに熱を持っていた。
(2)
「そっかあ。それならまあ、部活に復帰してよかったのかもねー」
 移動授業のあと、今回の部活復帰にいきさつについて詰問を受ける。
 野球部に半強制で戻された話に最初は憤った奈津美も、最後には首を縦に振った。
「てっきり、また体よくあの先輩に言いくるめられたのかと思ったけれど」
「いや、それはその通りだけどね」
「でもさー、芽吹ってなんか妙にその先輩に弱いよね」
 自覚していたことを突き付けられ、居心地が悪くなる。
 あの先輩の独特な雰囲気はどうも不思議と人を惹くのだ。本当、始末に置けない。
「そうそう。そういや安達と倉重、別れたらしいって噂で聞いた」
「あ、やっぱりそうだったんだ」
 ぽんと手を打った奈津美の言葉に、思わず納得した。
 前に部活に所属していた時は、安達の身の回りの世話はすべて百合がしていた。
 それは部内でも公然の事実で、他のマネージャーも受け入れていた。うちのエースピッチャーはと美人マネージャーの仲は、誰も邪魔しないようにと。
 百合には、それを良しとするような美貌がある。付き合い始めたと聞いたときも、それほど驚かなかった。
 だけど、部活に戻って以降、安達と百合は絶妙な間合いをもって互いとの接触を避けていたように思えた。
「やっぱり。それで気まずくなって、私をマネージャーに引き戻したんだ。なるほどね」
「違うと思う」
「違うと思う。けど」
 話を黙って聞いていた華が、口元をふわりと柔らかく緩ませる。
「芽吹、楽しそう。だから、安心した」
「そうだね。部活のことでは、心配ばかりかけたもんね。でも、もう大丈夫そう」
 笑って返した芽吹は、心からそう思っていた。
 部活を一度辞めたとき、芽吹はマネージャー内で孤立していた。
 当時のマネージャーは芽吹を含めて4人。その孤立は絶妙な間合いを図られたもので、注意していないと気づかない――言ってみれば女子特有の陰湿なものだ。きっかけは今でも謎のままだが、きっとあってないようなものなのだろう。
 その程度ならまだ良かったが、その嫌な空気が選手たちにも徐々に伝わりつつあった。部内の空気が淀む前にと、結局芽吹は部活を辞めたのだ。
 理不尽さを感じていなかったといえば嘘になる。しかし芽吹自身野球部にそこまで執着がなかったのもあり、後腐れなく離れられたと思っていた。……退部後も、安達に廊下で声をかけられるまでは。
 奈津美たちと別れ廊下から階段の踊り場を通ると、見覚えのある人がいた。息吹だ。
 また保健室に入り浸っていたのか。保健室の引き戸を後ろ手に閉めた息吹は、どこかに電話をかけ始めた。写真サイズのメモを手にして。
 誰にかけているんだろう。息吹の視線が、不意に芽吹のそれと重なる。思わず肩を揺らした芽吹に、息吹はいつもの笑みを浮かべて手を振った。
 さっさと職場に戻りなよ、とジェスチャーして歩みを戻そうとすると、広げた手を付き出され引き留められた。
 芽吹と息吹が兄妹ということは、苗字が違うこともあってごく少数しか知らない。
 噂立つことは避けたい芽吹は、辺りを気にしながらそっと息吹に近づいた。
「ありがと。いつも助かる。じゃね」
 電話途中だった息吹は、短く言って早々に電話を切った。息吹にも、電話をかける相手がいるのか。
「ごめんね、引き留めちゃって」
「本当にね。どうしたの、何かあった?」
「ううん。ただ、芽吹元気かなーってね」
 相変わらずのゆるい口調に、一気に力が抜ける。それなら家でも聞けるでしょ。
「また小笠原先生に迷惑かけて。保健室はあんたの休憩所じゃないんだからね」
「はは、芽吹もそんな冗談言うんだ」
「……その休憩所じゃない!」
 思わず声を上げる。最近はこんな調子でしょっちゅう気を乱される。でも、そこまで嫌じゃない自分もいた。「そういえば」
「今日の芽吹、いつもと違うことがあるかも」
「なにそれ、占い?」
「うん。お兄ちゃん占い師からの予言」
「占いか予言かどっちかにして」
「でも、心強いお兄ちゃんがいるから、ちゃんと大丈夫」
 謎の日本語の予言を残し、息吹は手を振った。
 手にしていたはずの写真サイズのメモは、いつの間にか姿を消していた。


「来宮さん、ちょっといいかな。話したいことがあるの」
 そして、いつもと違うことはすぐに訪れた。
 放課後前のホームルーム直前、隣のクラスの百合が唐突に芽吹を呼び出した。隣のクラスの美女の登場に、クラスの視線が一気に集まる。
「部活の連絡事項?」
 席を立った芽吹は、小走りで百合のもとに向かう。
「ここで話すのはアレなんだけど、でももうホームルーム始まるよね」
 だったらこのタイミングで来る必要なかったんじゃね、と近くの席に座る奈津美の鋭い視線が飛ぶ。
 内心同調しながら、ひとまず扉から数歩離れた廊下まで出た。
「実はね、私、部活を辞めようと思うんだ」
「え、そうなの」
 素っ頓狂な声が出た。
 マネージャー1人で仕事を回すことになるのか。ちょっと辛い。監督に仕事内容の相談にいこう。
 そこまで考えていると、辺りの空気がどよめいたのがわかった。百合は唇をわなつかせ、瞳は潤みが集まっている。
 え、なんで泣いてるんだろう。
(3)
「えっと、倉重さん?」
「本当は私も、辞めたくなんかなかったんだけど……でも私、やっぱり今でも、克哉さんのこと……」
 ん? 辞めるけど、辞めたくないけど、辞める?
 よくわからない発言を残したまま、百合は潤んだ瞳をしっかりこちらに見せつけた後、廊下の向こうに走り去って行った。え、何だったんだ今の。というか、克哉さんって誰のこと。
 ぽかんと立ち尽くしていた芽吹に、廊下奥からやってきた担任が声をかける。ああそうだ、ホームルームだ。
 教室へときびすをかえした芽吹を待ち受けていたのは、好奇と不信の目線だった。
「やってくれたね。あの性悪女」
 扉近くの席の奈津美が、隠す気のない声量で吐き捨てる。
 いまだ混乱する頭を抱え、ひとまず自分の席についた。そこでようやく合点がいく。
 さっきのやりとりを見た人のほとんどは、芽吹とのやりとりが原因で百合が泣き出したと思うだろう。平民の芽吹が、隣クラスの美少女を傷つけたと。
 わざわざ注目を浴びるタイミングで呼び出したのも、人目につく場所で話を始めたのも、もしかして仕組まれた?
 そして、ようやく思い出した。
「それと、来宮芽吹は、ホームルーム後速やかに職員室まで来るように」
 克哉――ああそれ、安達先輩の名前だ。


 職員室に来たはずの芽吹は、いつの間にか校長室に立っていた。
 目の前には、教頭と学年主任、そして野球部監督と顧問と、そうそうたるメンツが揃っている。
 促されて椅子に腰を掛けたが、座り心地を堪能する余裕はもちろんなかった。今から何が起こるのかまるでわからず、思考がほとんど停止している。
「突然お呼びだてしてごめんなさいね、来宮さん」
「いえ、大丈夫です」
「今日来てもらったのはね、その、あなたに確認したいことがあったからなの」
 まるで羊に似た印象を覚える女性教頭が、言いにくそうに話を切り出す。
 テーブルにそっと差し出されたものに、芽吹は息をのんだ。
「今朝早く、匿名でこの写真が送られてきたの。それでその、ここに写っているのは、あなたじゃないかしら」
 見覚えのある光景だった。
 グラウンド隅の野球部倉庫の陰。雑巾類を洗濯するためのレールが引いてある、あの場所だ。
 扉が半開きになっている倉庫の中に、男女2人が肌をむき出しにして絡む姿が写っていた。
 1人は芽吹、もう1人は――安達だ。
「それでね。こちらもこんなものが送られてきた以上、何か対処しなければということになって。あ、もちろん男女交際に口を出すつもりはないわ。個人の自由よ。ただ、その」
「教頭先生、後は私が」
 言葉を探りあぐねている教頭に代わって、学年主任が引き継いだ。
「あー、つまりだ。こういった行為が学内であったと世間に知れたら、どの程度影響が出るかわからない時代だ。野球部はここ数年活躍も目覚ましいし、安達は2年ながらすでに期待のエースだ。ここでチームから抜けることは、お前としても本意ではないだろう」
「……」
 ああ、そういうことか。
 藍の色がじわりと布に染みるように、云わんとすることを読み取れた。
「……はい。入部間もないマネージャーがいなくなったほうが、ずっとましでしょうね」
「来宮。俺はこの写真を信じられない。本当のことを言ってくれないか。この写真は本当にお前と安達なのか」
 ずっと押し黙っていた監督が、堪えきれなくなったように声を上げた。でも、そんな確認はすでに無意味だ。
 出所のまるでわからないこの写真が誰かから送られてきた以上、次はどこに流出するのかわからない。
 今とれる最良の策は、問題の2人の関わり合いを完全に断つことだ。
「ありがとうございます。でも、部に迷惑をかけてまでマネージャーを続けるつもりはありません」
「来宮……!」
 写真をそっと一瞥した後、芽吹は深く頭を下げた。
 きっと、この野球部には縁がなかったのだろう。1か月前にも抱いた諦めの感情が、胸の中を支配する。
「何度もお手数をお掛けしてすみません。退部届を頂けますか」
「待てよ」
 無理やり扉が開けられる音とともに、憮然とした声が校長室に響く。
 頭を上げると、息を大きく弾ませてこちらを睨む安達の姿があった。瞬間、つん、と芽吹の鼻の奥が痺れる。
「先輩……、なんでここに」
「当事者の1人しか呼ばないなんて、フェアプレイじゃないですよ。そうでしょ、監督」
「……ああ。まったくだ」
 同調する監督に促されるようにして、安達がテーブルの前に進む。
 その上に置かれた写真を手に取り、ぐっとその手に力がこもった。
 それ、私の裸じゃありません。とっさにそう言いたくなった自分に、芽吹は驚いた。
「これは、100%有り得ません」
「でも、じゃあ、この写真はいったい」
「知りません。合成とかそういうことでしょ。少なくともこんなこと、俺もこいつも一切身に覚えがありません」
「しかしなあ、どう見てもこれは」
「俺は、こいつに絶賛片想い中なんですよ」
(4)
 ――はい?
 呆気にとられた周囲をしり目に、安達は淀みない口調で続けた。
「だから、こういうことされると、まじで迷惑なんです。地道に距離を縮めてる最中なのに、こいつ、また俺を避けるようになるじゃないですか」
「あの、安達先輩?」
 何を言ってるんだろう、この人は。
「それと、これ」
 テーブルの上に無遠慮に出されたのは、ランニングシューズだった。見覚えがある。恐らく安達が使ってるものだろう。
 ただおかしな点がひとつ。シューズのつま先部分の靴底が、ぱっくり横にはがれてしまっていた。
「安達、これは」
「黙っててすみません監督。実は最近、こんな具合で嫌がらせを受けてました。と言っても、この靴が1番大きな被害ですけどね」
 突然の告白に、監督も顧問も目を見合わせた。その中で芽吹は、もしかして、と記憶を巡らせる。
 ――なあ、誰か、この辺りにいたか。
 もしかして、この靴の状態を発見して、あの質問を?
「ですから、きっと今回の写真も俺狙いの嫌がらせの一環です。こいつは関係ありません。こいつが辞めるなら、俺も一緒に部活を辞めます」
「先輩!」
 何を言い出すのか。慌てて大声を上げた芽吹に、安達は力なく笑った。1人で何者かの悪意に耐え続けた、疲れの色が見てとれた。
 次の瞬間、芽吹は自らのネクタイを首から引き抜いた。
「芽吹?」
 驚愕する安達を無視してベストのボタンをはずし、腕を抜きとる。
 周囲から制止の声が飛ぶ中、芽吹はためらいなくシャツのボタンに手をかけた。
 素肌が空気に触れる、冷たい感触。
 それと同時に包まれたのは、熱く大きな手のひらだった。
「ストーップ。校長室で生徒に一体何やらせてるんですか。先生方」
「……っ、いぶ」
 芽吹のはだけたシャツを覆うように、息吹の腕の中に収められる。
 馬鹿みたいに安心させられ、涙腺がどうしようもなく緩んでいった。
「い、いいえ。その、今のは来宮さんが自分から……」
「それほど、追い詰められてたから――なんて、俺みたいな学のない馬鹿でもわかりますよ」
 現に肩を小さく震わせる芽吹の姿に、先生たちは押し黙るしかない。
「ああ、そういえば。例の写真の真偽がつきましたよ」
 そう言うと、息吹は大きな茶封筒を弾いて渡した。怪訝な顔の先生方が中身を確認し、揃って顔を見合わせる。
「こんな鑑定書、いったいどうやって」
「俺の知人に専門職がいるんです。写真データを送ったところ、100%合成だとの鑑定結果が出ました。詳細はそちらの書類にある通り。何かご不明点は封筒の連絡先に欲しいとのことです」
 いつもに息吹からは考えられない、理路整然とした物言いが、今はひどく心強い。
 胸に閉じ込められている芽吹には、息吹の表情を窺うことはできなかった。
「さてと。安達くん、芽吹。そろそろ部活の時間なんじゃない?」


 結局、部活に直行するまで気持ちが回復せず、芽吹と安達は揃って保健室に留まらせてもらうことにした。
 話は息吹からすでに通っていたらしく、小笠原は何も言わず部屋の一角を開けてくれた。
「お前、どうしてあそこまでしたんだ」
 長い沈黙を切り裂いた安達からの質問に、芽吹は視線を落としたまま答えた。
「あの写真の私、左肩が見えてたじゃないですか。私の左肩、生まれたときからちょっとした痣があるんですよ」
 説明する口調はみるみる小さくなり、恥ずかしさに頬に熱が帯びる。
 咄嗟の勢いが消えた今となっては、先ほどの自分の行動は確かに信じられなかった。
「だから、その痣を見せれば、写真が嘘だってことの証明になるかと」
「馬鹿……」
 溜め息交じりに零す安達に、思わずむっとする。
「誰のせいですか。もとはと言えば、先輩が自分も辞めるとか無茶苦茶言うからでしょ」
「無茶苦茶はお前だ。そんなのわざわざ、あの場の全員に見せる必要あるか。中年の親父もいたんだぞ。せめて女教頭だけに見せれば済む話だろ」
「そりゃ、そうですけど」
 正論を真正面からぶつけられ、言い返す言葉もない。でも、あの時は。
「だって、仕方ないじゃないですか。ああでもしなくちゃ、先輩から野球を奪うことになってたんですもん」
 スカートがしわになるのも忘れ、ぎゅっと両手で握りしめる。
「先輩、野球大好きじゃないですか。私、ほんの少ししか見てなかったけれど、わかりますよ。だから、嫌がらせだって、1人でじっと耐えてたんじゃないですか。だから、私、もう夢中で」
「あー、もう、いい。わかった!」
 がごん、と大きな音が響く。
 作業机に向かっていた小笠原も、さすがに何事かとこちらに視線を向けた。
 ベッド脇の机に額を思い切り打ち付けた安達が、そのままの体勢で動かなくなっていた。
「え、安達先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃねーよ。お前のせいだ」
 いや、今額を打ち付けたのは、先輩自身だ。すぐさま浮かんだ反論は、垣間見えた安達の横顔に喉元で溶けていった。
「有りもしねー合成写真でっち上げられた直後だ。下手にお前に手出しするわけにはいかねーだろ」
(5)
「せん、ぱ」
「そんな時に、抱きしめたくなるようなこと言うなって言ってんの。……馬鹿」
 ほんの一瞬、視線が絡んだ。それが何かのスイッチのように、2人の頬を朱色に染める。
 重い鉛を飲み込んだような顔の小笠原は、何事もなかったように自分の席に戻っていった。


家に帰ると、息吹はすでにリビングでくつろいでいた。
「おかえりー。夕飯作ったけど、お腹空いてる?」
 いつもよりほんの少しだけ口数が多い兄に、自然と笑みが漏れる。
「うん。空いてる」
「それじゃ、準備するかな」
「ねえ息吹。今日はありがとう。すごくすごく、助かったよ」
 あえて触れないようにという気遣いだと、すぐにわかった。だから、芽吹は素直に感謝を告げることができた。
 あの時息吹の声が聞こえなければどうなっていたのか、想像もできない。
 普段はなかなか振り払うことが難しい兄への反発のようなものが、今はみるまに解けていく。
「言ったでしょ。困ったときは、お兄ちゃんが助けてあげるって」
「ん。本当だね」
 言葉通りの頼もしさを、不覚にも感じてしまう。
 あの時素肌を晒そうとしていた芽吹を腕の中に閉じ込めた温もり。その場所は、酷く居心地のいいものだった。
「でしょ。それじゃ、ご褒美ちょうだい」
 聞き返す前に、息吹が芽吹の顔を覗き込んだ。
 てっきりいつものふざけた緩い笑顔かと思いきや、目の前にあるのは感情の読めない澄んだ眼差しで、芽吹は一瞬たじろぐ。
「ご褒美、って」
「約束して。もう二度と、あんなふうに自分の体を安易に扱わない」
 吸い込まれそうに綺麗な瞳に、胸がぎゅっと苦しくなった。
「うん、でも、あれは」
「わかってる。きっとここの痣を見せようとしたんでしょ。肩にあるやつ」
 たしなめられているのに、その手のひらは驚くほど優しく芽吹の肩を撫でた。
「でも、それでもだめ。俺が嫌だ。だから、今度からはやめて」
「俺が嫌だ、って」
「芽吹」
 わざと冗談に舵きりをしようとした芽吹を、息吹は意に介さず断ち切った。
 本気だ、と芽吹は思った。
「返事は?」
「……わかりました」
「ん。ありがと」
「それじゃ、夕食にしようかー」満足げに頷いた息吹が、キッチンへいそいそ姿を消す。いつもの息吹だ。秘かに安堵すると、芽吹も手伝いに加わる。
「そういや芽吹、安達くんに告白されてたねえ」
 ……やっぱり、聞かれてたのか。可能性は0じゃないと思っていたので、表情を下手に動かさずに済んだ。
「あれは、そういうんじゃないから。息吹もあまり冷やかさないでよね」
 まるで自分に言い聞かせている気分になり、内心かぶりを振った。
 話題を無理やり終わらせようと、記憶をさかのぼり「そういえば」と務めて明るく告げる。
「息吹って、写真関係の知り合いなんていたんだね。初めて聞いたよ」
「んー、まあ、この歳になれば色々ね」
「ふうん。……まあ、私は正直、写真撮られるのは苦手なんだけど」
「そう」
 ふと自身の苦い思い出がよぎる。だからか、息吹の口調が固くなることに、気づくのが遅れた。「俺は、苦手じゃない」
「カメラは、嫌いだ。これからもずっとね」
 重い本心の言葉だと、直観で悟る。
 思わず見上げた表情からは、すでにその名残は消えていた。でも、気のせいじゃない。
 今のは、何?
 軽率に問いかけれないまま、聞き流す以外に術を見出せないまま、滑稽なほど普段通りに来宮家の夕食は終えた。
(1)
 昨日の何気ない質問は、きっと自分の失言だったのだろう。
 あの一瞬を除いて、息吹はどこまでもいつも通りだった。その事実が、余計に芽吹の後悔を膨らませる。
 あんな石のような芽吹の瞳を見るなんて、思ってもみなかった。
「そんなん、家族間ならよくあることでしょうよ」
 あっけらかんと告げた奈津美は、ノートで芽吹の頭を軽く小突いた。角でやらないあたり、奈津美はさり気に優しい。
「家族なんて世界で1番身近な人間なんだから、そういう小さな傷のつけあいってお互い様じゃない? やばいやつは謝らなくちゃかもだけどさ」
 奈津美の言うことはわかる。でも、それはきっと長年培ってきた家族のなせる業なのだろう。
 芽吹と息吹の間にはまだ、そんな魔法を引き出すほどの時間は流れていない。
「それはそうと。まず解決すべきはあの性悪女よ。あの女、あんな見え透いた演技披露しておいて、いまだに野球部マネージャーに居座ってるって?」
「倉重さんね」
 結局あの後、1年選手の引きとめにあい、退部を撤回したらしい。
「信じられん。あの安い涙はなんだったの。面の皮の千枚張りってやつだわね」
 百合嫌いに拍車がかかっている。憤る奈津美に苦笑するも、隣に座る華もそれに同調するように深く頷いた。
「私も、あの人嫌い。芽吹を貶めようとしてる。芽吹、何もしてないのに」
「華、よく言った。共に杯を交わそうぞ」
「こらこら、2人とも落ち着いて」
 正直、こちらに八つ当たりしたくなる気持ちもわからなくはなかった。
 1人で必死に切り盛りしていたマネージャー業に、気まぐれで復帰されては気に食わない気持ちもあるだろう。加えて、あんなに熱を上げていた安達とも別れた。ストレスが溜まっていて当然だ。
「奈津ちゃん思うんですけど。安達先輩が受けてる嫌がらせ? それももしかして、あの性悪女がやってたりってこと、ない?」
 推測にすぎないとわかってか、奈津美の口調はひどく慎重だった。
 芽吹もそれは考えた。安達に悪意を向ける人物を考えたら、真っ先に上がるのが百合だろう。
「たぶん、それはないと思う」
 安達に聞いたところ、受けた嫌がらせの中には、明らかに百合には無理なシチュエーションで起こったものもあったらしい。2年の教室内や、百合が監督に呼ばれたタイミングにも。
「とにかく、嫌がらせなんてバカなことは早急にやめてほしいもんだわね」
 校長室に乗り込んで自ら被害を受けたランニングシューズをさらした、あの時の安達は毅然としていた。その表情が脳裏に浮かんでは、やるせなさに芽吹を苦しめる。
「本当に」
 早く先輩に、無心で野球に専念してほしい。


「どうしたのー来宮さん。なんか怖い顔して」
 先日の涙の演出は存在しなかった、という設定になったらしい。
 花のような笑顔で首をかしげる百合に、芽吹は乾いた笑みで応えた。花のようだと思うのに、裏にあるトゲの鋭い光が、ちらちらとこちらに向いている。
 珍しく2人は共に、野球部小屋の掃除を進めていた。
 中は簡易カーペットが敷いているが、選手や監督が入れ代わり立ち代わりするため、グラウンドの砂が否応でも入り込む。イタチごっこのような掃除機をかける芽吹に、窓ふきをする百合は思い出したように口を開いた。
「そういえば、来宮さんに聞きたいことがあったんだよね」
「聞きたいこと?」
「来宮さんってさ、克哉さんのこと、どう思ってるの?」
 今度は、「克哉さん」が誰のことか、すぐに思い出すことができた。
「どうしたの、急に」
「急じゃないよー。本当はずっと聞いてみたかったんだ。だって来宮さん、彼とすごく仲がいいみたいだし」
「太陽みたいな人」
 真意を探るのも、すぐに諦めた。
 お互い本気で深入りしたいと思わない間柄だ。芽吹は浮かんだ言葉をそのまま告げる。
「ふふ、ポエムみたいだね。可愛い」百合の瞳が、嬉しそうに細められた。
「そんな可愛い来宮さんだから、克哉さんもつい構っちゃうのかなあ。あ、もしかして来宮さん、甘え上手な末っ子?」
 甘え上手かはさておき、「うん。一応、兄がいるよ」と端的な返答をする。ドア付近の砂が、なかなか吸い取れない。壁をこすらないように、何度も掃除機を往復させる。
「実は私もなんだ。年が少し離れてる兄なんだけど。妹がいる兄ってさ、何か単純~って感じしない?」
「そうかな」
「そうだよ。妹好きな、単純馬鹿」
 最近日常を占領する兄の姿を思い起こす。
 息吹は、単純に見えて意外に手綱が引きにくい。
 こちら側には無遠慮に入り込むのに……なんだろう。向こう側に入ることは、慎重に監視されているような気がするのだ。
「来宮さん、ぼーっとしてるもんねえ。いいなあ、そういうことに鈍感だと楽だもん、羨ましい」
「そうかな」
「だから、克哉さんの口車に乗せられて、また野球部に戻っちゃったんだ?」
 そうかな、と言いかけて、はたと我に返る。そして気づかないでもいいことに気づいた。
 あれ、もしかして今、喧嘩売られてる?
「いつもみたいにぼーっとしていればよかったのにねえ。そうすれば変な期待もせずに済むことだってあるよ?」
 屈んでいた上体を起こすと、思いのほか近距離に百合は立っていた。
 笑顔にかかる薄い影に、芽吹の胸のどこかが冷えていく。
「克哉さんも罪作りだよねえ。来宮さんみたいな慣れない子をからかうんだもん」
「……」
「正直ね、あっちのことでも、克哉さんのお願いに付き合わされて、体が辛いこともあったし……『待て』ができない男なんだよね、あの人って」
「安達先輩のこと、まだ、好きなの?」