(1)
 深いもやがかかった広場に、芽吹は1人だった。
 緑生い茂る丘をゆっくり上っていくと、どこからか大きな木が現れる。木漏れ日がちらちら届いて綺麗だ。
 大丈夫。気づいたときには連絡するし。
 届いた誰かの声に、芽吹は振り返る。大人3人が話し込んでいた。背の低い芽吹は、慌てて近くに駆け寄っていく。話題に入れなくて少し不機嫌になるも、隠すように下ろされていたカメラを見て、小さく呟く。
 それ、わたしたち?
 その持ち主は、ばれたか、と儚く笑った。
 お守り代わりだから、許して。
 おまもり? 聞き返した芽吹に、大きな手のひらがそっと乗せられる。
 元気でね、芽吹。


 カン、と短く強い響きに、胸が透く心地がする。
 久しぶりにかぶる野球帽に少しの違和感を覚えつつ、芽吹はグラウンドの隅を休みなく動き回っていた。バッティング練習後のヘルメットを素早くタオル掛けし、ドリンクの残りを確認し、1年生が次のメニューで使うティーバッティング用のボール箱をネット裏に準備する。
 首の後ろに感じる日差しが、じりじり熱い。
「戻ったか、来宮」
「伊藤監督」
 後ろから掛けられた朗らかな声に、帽子を外して礼をする。野球部特有の挨拶も、いつの間にかきちんと身に戻りつつあった。
「またあの安達がやらかしたらしいなあ。玄関前でマネージャー復帰依頼とは。お前も妙なやつに懐かれたもんだな」
「まあ、約束したのは私ですから、仕方ないです」
 例の「約束」を交わした週末。問題の練習試合で安達は、ノーヒットノーランを叩き出した。
 まさかと思ったが、嫌な予感がしていたのも事実だった。
 いいんじゃない。またやってみれば。軽く言い放たれた息吹の言葉がよぎり、小さく顔をしかめた。
 あの言葉にうっかり、それもいいのかもしれない、と思ってしまった自分に。
「芽吹、タオルとって」
「今から洗濯なので無理です。というか、先輩の方が置いてる場所に近いじゃないですか」
「おい安達。来宮が返ってきたのが嬉しいのはわかるが、あんま甘えて迷惑はかけるなよ」
 苦笑しながら忠告する監督に、安達は悪戯っ子のように笑って去っていく。
 目で追うと行った先で捕手の田沼にどつかれていた。大方、監督と同じ忠告を受けたのだろう。
 1か月ぶりの野球部は、意外にも居心地も悪くなかった。
 選手たちも最初こそ腫物を扱うような言動も見えたが、すぐに適度な距離感で付き合えるようになった。
「来宮さん。私、シートノックに行くね。あと宜しく」
「ん。いってらっしゃい」
 そして1番意外だったのは、もう1人のマネージャー――倉重百合とも、それほど苦痛なく過ごせていることだ。
 何か、心境の変化でもあったのかしら。単に仕事が追い付かなくて、ともにいる時間が少ないというだけかもしれない。
 復帰まで知らなかったが、芽吹が辞めた後、他のマネージャーも次々に辞めていたらしい。結局残ったのは百合1人で、1年生選手の手を借りてなんとか仕事を回していた。
 他のマネージャーが辞めてしまった理由は、大よその察しはついた。
 まあいいや、ひとまず溜まっている仕事をこなしていこう。
「芽吹」
 雑巾をひとしきり洗濯レーンにかけ終わったところで、声をかけられた。安達だ。
「わっ、びっくりした。まだいたんですか」
「うわー、酷い反応」
 違和感があった。先ほどまでの軽口は変わらないのに、表情はどこか無理して見える。夏の暑さにやられたのだろうか。
「もしかして、アイシング必要ですか。それかドリンクがもうなくなったとか……」
「なあ、誰か、この辺りにいたか」
「いえ、私以外は誰も」
「そっか、ありがとうな」
 真意を掴めない質問だった。ただ、安達が「ありがとう」とは程遠い感情でいることだけはわかった。
「先輩」
 咄嗟に捉えた安達の手は、予想に反してひやりと冷たかった。
「熱中症、ではないですね。夏風邪ですか。ご飯はちゃんと食べました?」
「あ、え?」
「頭痛とか吐き気はありませんか。他に痛むところは? ちょっと、動かないで」
 つま先立ちをする。芽吹の手のひらが、安達の頬から喉元を丁寧にたどっていく。
 熱を帯びたり腫れがあったりはなさそうだ。単に疲労が溜まったのかもしれない。そう考えた瞬間、喉元に触れていた芽吹の手が掴まれた。
「……ちょっと。何してるんですか」
「んー、ちょっと、幸せに浸ってる」
「馬鹿なこと言ってないで」
「芽吹にとっては馬鹿かもね。でも、俺にとっては超真剣」
 超真剣、と言われて真剣にとるやつがいるか。
 自分の手を引き抜こうとすると、意外にも掴む力が強く、そのまま体ごと安達の胸元にぶつかった。
 それでも、安達は芽吹の手を放そうとしない。
「安達、先輩?」
「おい! どこ行った安達い!」
 田沼先輩。倉庫裏から飛んできた怒号に、何事もなかったように安達は芽吹と距離をとった。
「んじゃ、ランニング行ってきまーす」
「はあ、気を付けて」
 気の抜けた返しをした芽吹は、しばらくその背を見送る。
 安達の胸元に押し付けられた頬は、まだかすかに熱を持っていた。