帰りの通学電車に揺られながら、手にしたスマホの画面をじっと見つめていた。
流れていく景色が学校のある街から俺の住む街へ近づく。街と街とを繋ぐ大橋を渡っている時に見える堤防。小さい頃から考え事をしたり何かことがある度に、俺はあの場所に行く。
今日はどんな気持ちで行くことになるだろうか。
ふぅ。と、小さくため息を吐き出してから、ようやく何も写っていなかったスマホの画面に触れた。
確認するのは、半年前に応募した小説の結果発表のページ。さっき、SNSで結果が出たことはチラリと目にしていた。自分のペンネーム、カイトが一次選考に残っているかどうかを確かめなくてはいけない。
揺れる手元。電車の振動だけではない。気持ちを落ち着かせるために、一度軽く目を閉じてから心を決めて、ゆっくりとスクロールする。
一次選考に残った全ての名前を見終えて、心の中が空っぽになる。もしかしたら……と、見落としがないかまた最初から戻って見直す。
「…………ない」
ため息と共に、がっかりとこぼれ落ちた言葉。たどり着いた駅のホームにふらりと降り立った。
小学校の時に読んだ物語が面白くて、俺もこんな世界を書いてみたいと思ったのが始まり。ファンタジーは夢と希望溢れる世界で、話の中ではなんだって出来る。それが楽しくて、思いつけばノートの端っこに書き殴っていた。
今もそれは変わらなくて。だけど、挑戦した小説コンテストではことごとく端にも棒にも掛からない。
また、ダメだった。
肩の力が抜けて、歩く歩幅も狭くなる。だけど、やっぱり向かう先はいつもと同じ堤防の土手。草がちょうどいいくらいに伸びていて、橋のかげの石階段に落ちるように座り込むと、膝を抱えて顔を埋めた。
好きなことなのに、やる意味あるのかな。
頑張っているのに、結果が出ないと意味がないんじゃないか。
つい、そんなことを考えてしまう。
楽しく書いていたのは初めだけ。この一年は賞に入りたい気持ちが高まっていた。努力はしていたけど、自分が書きたいことがうまく書けなくなっているような気もしていた。
全然楽しくない。
もうやめるか。
才能なんてないし。
上手く書ける人は大勢いる。
こんなこと考えたくないのに、頭の中はどんどんマイナス思考に働いていく。
風が穏やかに吹いて、さわさわと草が揺れる音が耳に聞こえてきた。川を流れる水の音も混じっている。しばらくそのままでいると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
爽やかな中に夏の湿度を含んだ風が通り抜ける。夏休み前には決断しなければいけない。ずっと、考えていたことだ。誰にも小説を書いていることは伝えていない。だから、両親にも毎回、進路は自分の学力に合った大学を選ぶよと、曖昧に答えていた。
高校二年のこの夏までに成果が出なかったら、俺は小説家の夢を一旦、諦めようと思っていた。
ふと、ポケットの中のスマホが震えたのに気がついて取り出した。
》ねぇちゃんがこっち戻ってくるって
「はぁ!?」
思わず、スマホを見たままの状態で勢いよく立ち上がった。一気に体温が上昇する。落ち込んで下がっていた気持ちが、ゆるやかに上がっていく。
》婚約者となんかあったらしい
「…………婚約者?」
メッセージを送ってきたのは、家が近所で小さい頃から仲のいい大和。その大和の姉ちゃんのくるみちゃんに、俺はずっと片想いをしている。
六つも年上のくるみちゃんだから、家が近いとはいえ、なかなか会うことはない。大和から、くるみちゃんの情報は聞かずとも勝手に入ってきていた。それなのに、婚約者なんて言葉は今まで一度も聞いたことがなかったのに。
さっき見た公募落選の大ダメージを受けた後のこの報告は、打撃が強すぎて愕然とまた座り込んでしまった。
くるみちゃんに彼氏がいることは、この長い片想い期間にチラッと感じたことはあった。だから、片想いしているとは言え、完全に俺の恋は失恋決定。それでも、俺は女々しくくるみちゃんのことを好きでい続けていた。
同じ学校の女子とは普通に話せるけれど、恋愛感情は誰にも持てなくて、俺の人生でくるみちゃんが一番初めに好きだと感じた女性で、それ以上なんて現れるはずがなかった。
……はぁ。
またしてもため息が漏れる。
「婚約者って……マジか」
がっくりと項垂れた。悪いことって続けて起きてほしくないな。かなりのダメージを負う。これ、しばらくここから動けないかも。今日中に帰れるのかな。
案の定、気が付けば対岸に沈み始める太陽。煌々と輝く夕日に照らされて、傷心の俺はまるで小説の主人公のようだ。
……まてよ?
今まで書いたことなかったけど、恋愛とか青春系の話でも書いてみようかな。もういっそ、くるみちゃんへの想いを思う存分綴ってやる。俺の失恋大決定の供養作だ。
今年何の成果も出なければ、いよいよ進路も真面目に考えなければいけない時期が来る。一度、筆を置くことも考えなければならなかった。次の作品で終わりにしよう。執筆も、くるみちゃんへの想いも。
拳にグッと力を込めて立ち上がると、夕日に向かって高らかに突き上げ歩き出す。
落選をいつまでも引きずっていても仕方がない。ダメだったものはダメだったんだ。今まで何度も挑戦してきたけど、全然ダメだ。
でも、俺は書くことは好きだし楽しいし、やめたくはないんだ。書き続けていれば、きっと、もしかしたら、少しだけ、ほんの数ミリだけでも……って、可能性は諦めたくない。
頭の中でぐるぐると回る掴めることのない希望にため息を吐き出しながら家の玄関を開けた。
「ただいまー」
「おう、海斗! 遅かったじゃん」
俯いていた顔をあげれば、大和がいる。
「あれ? 来てたの?」
別に大和がうちに来ていることはしょっちゅうだし、驚きはしない。だけど……靴を脱ごうとして、大和のデカいシューズの隣にちょこんと揃って並ぶパンプスが目に入った。
「うん、ねぇちゃんも来てるよ」
にやりと笑う大和に、俺は心臓がドクンっと大きく高鳴るのを感じた。
「と、とりあえず、俺部屋行って着替えてくる」
「おう、早くこいよー」
浮き足立ちそうな足を前へと進めて、階段を駆け上がった。
部屋のドアを閉めてカバンを置くと、急いで制服を脱いで普段着のTシャツにカーゴパンツを身につける。姿見の前で髪型を整えた。
くるみちゃんに会える。俺にとってはなによりも嬉しいことだ。
もちろん、小説が賞をとることも嬉しいけれど、くるみちゃんに会える方が断然嬉しい!
ドキドキする胸を落ち着かせて、平常心を保ちながらリビングへ向かう。
ドアの向こうから、優しくて穏やかな笑い声が聞こえてきて、一気にまた胸が締め付けられた。
「あ、海斗くん。おかえりー」
ドアを開けるとすぐに、くるみちゃんが気が付いてくれてこちらに手を振ってくれる。
「お邪魔してましたぁ」
「あ、ひ、久しぶり……」
あまりにも笑顔が眩しすぎて、直視できない。
すぐに視線を逸らして、母さんが「運んでー」と声をかけるから、夕飯の準備を手伝いにキッチンに向かう。
父さんも帰ってきて、大和とくるみちゃんと俺の家族で食卓を囲んだ。二人の両親は居酒屋を経営していて夜遅い為に、前から夕飯をうちで食べることはしょっちゅうだった。
「くるみちゃんちょっと見ないうちに綺麗になったなぁ」
「ほんと、元々可愛かったけど大人っぽくなったわぁ。いくつになったんだっけ?」
「二十二です」
照れながら遠慮がちに答える姿が本当に可愛くて、対面して座っていた俺はくるみちゃんに見惚れてしまう。
「そっかぁ、もう大人ねー、肌もツヤツヤで羨ましいっ」
あははと母が笑うから、みんなも釣られて食卓は賑やかになった。
母がくるみちゃんに話題をふってくれるだろうと思っていたのに、なかなか「婚約者」と言う言葉は出てこない。
楽しい夕飯はあっという間に終わってしまって、大和が気を利かせてくれることもなく二人はあっけなく帰って行ってしまった。
仕方なく部屋に篭り、懲りもせずに一次選考を通過した名前の中に自分のペンネームがあるんじゃないかと、見落としを疑って画面をうつろに眺めていた。
すると、スマホの画面に着信を告げる大和の名前が表示された。ため息を吐き出した後に、面倒くさそうな雰囲気を出しつつ「なに〜?」と出る。
『あ、ごめんね。今、大丈夫?』
いつもの調子で大和の緩い声が聞こえてくるんだとばかり思っていた俺は、項垂れていた姿勢をシャンッと起こして背筋を伸ばす。
「く、くるみちゃん!?」
『ふふふ、うん。ごめんね、大和の電話借りちゃった』
「あ、そう、なんだ。びっくりした……はは」
本当に、心臓が止まるかと思った。
『久しぶりだね、海斗くん』
「……うん」
『まだ、あの場所に行ったりしてる?』
「……あの場所?」
『うん。大橋の下。小さい頃からよくあそこで本読んでたよね』
「あ……うん。今も、たまに」
くるみちゃん、俺のお気に入りの場所を覚えていてくれたんだ。嬉しくて、思わずたまに、とか言っちゃったけど、ほぼ毎日行っている。
執筆に行き詰まったり、テストでひどい点数をとって落ち込んだり、友達とうまくいかなかったり、くるみちゃんのことを思い出して切なくなったりしては、あの場所に行く。
『海斗くんが夏休みに入ったらさ、あたしこっちに戻ってくるから、また一緒に行かない?』
「え……」
『あたしもあの場所けっこう好きだったんだよね』
嬉しそうに弾む声が耳元に心地良くて、じんわりと胸が温かくなる。
「うん、俺はいつでも」
『やった! じゃあ、帰ってきたら連絡するね。大和から海斗くんの番号聞いちゃうね』
「え……」
『今通話切ったら、あたしから連絡するね。じゃあ、またね』
「あ、う、うん」
左手に通話の終了したスマホを手にして、右手をグッと握りしめてガッツポーズ。
なにこれ。今までずっと完全な俺の片想いで、なんの縁もなかったくるみちゃんと連絡先交換出来てしまった。しかも、お気に入りの場所でデート付き? まじか。なにこれ、幸せじゃん俺。
有頂天に登っていく嬉しさに舞い上がってソファーに座り込むと、そのまま寝転んだ。そこで、ハッと思い出す。
「婚約者……」
一気に崖から転落していくように落ち込む気持ちに、握っていた手の力が緩んでスマホが顔面に見事に直撃してきた。
「いでっ!!」
起き上がってぶつかった額と瞼の辺りを摩りながらスマホを拾い上げると、知らない番号からの着信。すぐに切れて、新しいメッセージが届く。
》くるみだよ。番号登録よろしくね!
痛みで半泣き状態だった目尻の涙がヒュッと引っ込んでいく。
《了解!!
すぐに返事を返す。
くるみちゃんとこんな風にやりとりできる日が来るなんて、信じられない。
とりあえず、今は婚約者のことは忘れよう。
深く頷いてから机に向かう。パソコンを開いて真っ白だった原稿に、文字を打ち込んでいく。
次のコンテストでダメだったら、もう書くのをやめる。その勢いのまま、くるみちゃんと出逢った日の事を思い出しながら、初めて俺は恋愛青春物語を書く。
生まれた時から当たり前にそばにいてくれたのは、大和の姉ちゃんで六つ歳上のくるみちゃん。面倒見が良くて、一人っ子の俺は大和と一緒に兄弟みたいに仲良くしてもらえていた。きっと、くるみちゃんから見たら、俺も大和と同じ弟ポジション。ずっとそうだった。
だけど、ある日くるみちゃんが読んでいた本が気になって、小学生だった俺はくるみちゃんと大和とは違う話がしたくて聞いてみる。
『何読んでるの?』
『え? この本?』
『うん』
『これはねー、はてしない青春って物語』
ジャンッと、表紙が見えるようにこちらに向けられて、その時のくるみちゃんの顔がすごく楽しそうで可愛くて、本が大好きなんだなぁって感じた。
俺からしたら、分厚いその本は見た目だけで読む気が失せる。嫌いじゃないけど、まだ文字だけの本は読んだことがなかった。
『これはまだ海斗くんには難しいかな。あ、そうだ、あたしのお気に入りの本貸してあげるよ』
立ち上がって、自分の家に一旦帰って行ったくるみちゃんが一冊の本を手にしてまた戻ってくる。
『海斗くんにはこの本がおススメだよ』
またしても、満面の笑みで一冊の本を差し出してくれる。さっきよりも薄い文庫本。
なんだか、胸がドキドキと高鳴っていくのを感じて苦しくなった。
『……ありがとう』
受け取った本の表紙は、アニメで見るようなキャラクターが描かれたもの。くるみちゃんの持っていた本と比べたら、確実に俺向きだ。
パラパラと巡ってみると、中にも所々挿絵がついている。これなら読めるかも。
『すっごく面白いんだよ! 冴えない男の子がある日ヒーローになっちゃうんだけどね、このネコタンが実は……って、ネタバレになっちゃうな、危ない危ないっ、とにかく、読んでみて!』
はしゃいで話すくるみちゃんの表情が、くるくる変わっては楽しそうで、その瞬間から、俺はくるみちゃんのことが好きになったんだと思う。
もちろん、本もそこからよく読むようになって、物語を書くまでになっていた。小学生の頃はノートの切れ端に書いては、あの橋の下で内緒でくるみちゃんに渡して読んでもらったりしてたこともあったなぁ。
もしかして、あの頃のことを覚えていてくれているのかな……なんて、そんなの俺だけの淡い思い出だろうと、またしても「婚約者」の言葉が頭の中に浮かぶ。
はぁ、と小さくため息が溢れた。
くるみちゃんと結婚する男って、どんなだよ。全然想像付かない。今までも彼氏はいたんだろうけど、姿を見たことはないし。どんな男が好みかもわからない。実は俺って、くるみちゃんのことなんも知らなくね?
カタカタとリズミカルに打ち込んでいたはずの指が、次第にゆっくりになり、ついに止まってしまった。
またしても、今度は大きなため息が吐き出た。
だけど、ここで止まってなんていられない。なんとか頭を動かす。キーボードを、叩き続ける。
──
「君が好きだ」
真正面からはっきりと告げる。
なんて、一生かかっても小心者の俺には無理な話だ。
だからせめて、小説の中でだけは強気でいさせてほしい。現実の俺は、片想いの相手に告白一つ出来ない情けない男だから。
紙の上ではどうとでもなれる。正義のヒーローになって、ヒロインに惚れられるんだ。最高だよな。現実ではありえないことが、物語の中ではなんだってありなんだ。
だけど、嘘はつきたくないから、ラストは本当の俺の気持ちを暴露する。
ヒーローのそんな姿を見たヒロインは、その後どんな行動に出るのか。現実ならあり得ない結末を、書いては消して、書いてはまた消して、今の想いを精一杯に込めて執筆する。
最後と決めたこの作品は、くるみちゃんへのラブレターだ。
俺の想いを思う存分書き留めて、完結したら公募に出す。それで一旦、俺の恋と執筆活動は休憩だ。
無事に作品を完成させた俺は、やり切った達成感と共に夏休みを迎えた。
*
部活もなくて遅く起きた俺はリビングに行くと、ソファーでスマホを片手にくつろぐ大和の姿を横目にキッチンへ向かう。
冷蔵庫からサイダーを取り出して飲みながら部屋に戻ろうと、また大和の後ろを通り過ぎる瞬間、くるりと大和がこちらを向いた。
「明日だって」
傾けたサイダーを、飲む手前で止めた。
「なにが?」
大和の会話にはいつも主語がない。
「帰ってくるの」
「だれが?」
「姉ちゃん」
すぐに、くるりと前に向き直って、またスマホをいじり始めるから、俺は一旦サイダーに蓋をする。
大和の隣に座って、肩を組んだ。
「なぁ、くるみちゃんの婚約者ってどんなやつ?」
「は?」
「今まで彼氏とか見たことないじゃん」
「え? 彼氏いたことあんのかな?」
「はぁ? あるだろ」
あんだけ可愛いんだし彼氏の一人や二人……いや、いてほしくないけどさ。
「姉ちゃんに男の影なんかあったかなぁ?」
「あっただろ。男と並んで歩いてるの見たことあったぞ」
一度だけ。きっとあれは彼氏なんだろうなって、相手のやつがどんなだったかは覚えてないけど、遠目に見かけてショックを受けたことは忘れもしない。
「そうなの? ふーん」
「お前さ、興味なさすぎ」
「ないでしょ、姉に興味なんか」
「……そのわりに、俺にはくるみちゃん情報欠かさずくれるよな」
俺がくるみちゃんに好意があることを知った瞬間から、事あるごとにくるみちゃんについて話してくるから、それが嬉しかったりモヤモヤしたり。面白がってんなとは思っていたけど。
「だって、親友の恋は応援したいでしょ」
サラリと言いながら、スマホのゲームにまた夢中になる大和。くるみちゃんはもちろんだけど、大和もいい奴なんだよな。
「ってかさ、だったら婚約者がいたこともっと早く教えてくれても良かったんじゃない?」
そしたら、地元を離れてしまったくるみちゃんのことを女々しく想い続けるなんてこともなかったのに。もっと早く諦められたのかもしれないのに。
「あー! 負けた!」
ガックリと肩を落として、大和はさっきから真剣に見ていたスマホをポケットにしまった。
「ってか、婚約者って何の話?」
怪訝な顔でこちらを見る大和に苛立つ。
「なんのって、くるみちゃんの婚約者の話!」
「…………は?」
俺の言葉に、理解が追いつかないような顔をして首を傾げる大和。
「ん? 婚約者? え?」
まさか、こいつ俺に送ったメッセージを忘れてるのか? いや、メッセージを忘れていたとしても、くるみちゃんの婚約者のことは忘れないだろ。仮にも将来義理の兄になる人が出来るんだ。
「この前メッセージよこしただろ」
通じない会話にため息まで出てきてしまう。
ポケットからスマホをまた取り出して、大和は画面を見ながら操作し始めた。
そして、口もとに手を当ててゆっくりこちらに目を合わせてくる。
「……いや、これ、婚約者じゃなくて研修先って書きたかったのかも」
「は?」
「あー、うん、打ち間違いだったわ、わりぃ」
は!? 打ち間違い? 誤字!?
にしてはかなり違くないか? こんなん小説でやらかしたらとんでもないぞ。話変わってくるから。なにしてんの?
「あはは、なにこれ、おもしれー俺」
いや、なんも面白くない。ひどい誤字だから。めちゃくちゃ突っ込まれるよ? どう言う間違いしてんの? 笑い事じゃないし。
「……ってことは、婚約者ってのは嘘?」
「嘘もなにも。間違いだよ。姉ちゃんが結婚とか、ありえないでしょ。大人にもなりきれてないよ、あの人。人のスマホいつの間にか勝手に使ってるし」
ぶつぶつと文句を垂れる大和。
「え、こっちに戻ってくるのは本当?」
「戻ってくるってば、明日」
ようやく、話が元に戻る。
「何があったんだろ?」
「さぁ。思ったより仕事きつかったんじゃねーの?」
くるみちゃんは、何の仕事をしているんだろう。ちゃんと聞いたことがなかった。好きと言っても、何の行動もできずにいたから。
小学生の頃だけだ、素直に一緒にいたくてずっと隣にいて、中学になると部活や生活リズムの違いですれ違いが多くなって、たまに会えた時がすごく嬉しくて。でも、何を話したらいいのか分からなくて、結局他愛無い天気のこととか家族のこととか。そんなことしか会話ができなかった。
だから、この前うちに来てくれた時も、嬉しかったのに、俺からなにか話すことはなかなか出来なかった。
「海斗今日はなにすんの?」
「課題やってしまうかな」
「うわ、真面目ー! 俺も暇だし、最初に終わらせて残りの休みは遊んで暮らすかー」
グッと背伸びをして大和は立ち上がると、玄関へ向かった。たぶん家に課題を取りに帰るんだろう。自由な大和を横目に自分の部屋に戻ると、サイダーのペットボトルを机に置いて椅子に座った。スマホを手に取り、画面に触れる。
メールが届いている。
開いてみると、この前応募したコンテストの投稿サイトからだった。
受賞の発表まではまだ日がある。それなのに、メール? 不思議に思って開くと、そこには最後だと決めて応募した作品が青春賞に選ばれたことが記されていた。
「は……え? ……まじで?」
思わず手が震える。
今まで賞に入ったことは一度もなかった。
これでダメだったらと、最後と決めて書いて応募した作品。それが評価してもらえたことがなによりも嬉しい。諦めなくていいんだと、安堵する。
誰かにこの喜びを伝えたい。だけど、俺には小説を書いていることを知っているリアルの知り合いは一人もいない。
「……いや、いるな」
いつも俺の書いた拙い物語を読んでくれていた、くるみちゃん。この喜びは、彼女にも知らせたい。絶対に。
*
「海斗、姉ちゃん来たらどうすんの?」
課題を持って戻ってきた大和と真面目に部屋で勉強していると、ペンを止めずに聞かれる。
「……どうする、て?」
「そもそもさ、まだうちの姉ちゃんのこと好きなの?海斗は」
直球に聞いてくるから言葉に詰まる。
「お前も物好きだよな」
ははっと笑っているけど、大和が呆れたり馬鹿にしているわけじゃ無いのは感じる。
「帰ってきたら、思い出の場所に連れてってって言われてる」
「……え? なにそれ」
大和は手を止めて顔を上げた。
「小学校ん時によく、くるみちゃんと会ってた場所があるんだよ。大和には話したことないけど」
あの場所は、俺だけの特別な場所だった。
綺麗に整備された堤防の橋の下。犬の散歩をする人やウォーキングする人を良く目にする。橋のすぐ下は意外と人が少なくて、日陰になっていて本を読んだり物語を書いたりするのにちょうど良かった。
学校から帰ってきてから自転車に乗って、いつも通り出発しようとした俺の前に現れたのは、制服姿のくるみちゃん。
俺が自転車でどこかへ行くのをたまに見かけていたらしい。どこへ行くのか聞かれて、戸惑いながらも、くるみちゃんならと誰にも言わないことを約束して、俺の特別な場所に連れて行った。
そこで、たまに一緒に本を読んだり話をしたりして過ごした。すごく楽しかったけど、中学校にあがってからは毎日なんて行けなくて、くるみちゃんだって忙しいし、会うことも少なくなっていった。
「いつの間にか仲良くなってたのか、ふーん」
「やっぱり興味ないよな」
大和の反応に笑ってしまう。
「いや? 興味ないって言うか、納得、と言うか」
「なんだよそれ」
「さぁねー」
ふふんと涼しい顔をして、大和はまたノートに向き合う。だから、俺もその後はツッコミもしないでノートを開いた。
「じゃあまた明日な」
「おう」
やるとなれば真面目な大和とは課題もなんなく進んだ。一人になった部屋でベッドに仰向けに寝ると、スマホを開く。良く見れば、昨日のうちに届いていた受賞を知らせるメール。あまりにも信じられなくて、嬉しすぎて、まだ返事を返していなかった。
起き上がって、深呼吸をする。
このコンテストの賞に入ると、書籍化も検討してもらえる。もし、俺の書いた作品が書籍になったら、くるみちゃんへの想いがたくさんの人に読まれて知れ渡っていくってことだ。
そんなの恥ずかしすぎる。いや、もうすでにサイトにはアップしているし、読まれているのは確実なんだけど。改めて読んだらまじで羞恥。
いや、書いたことに後悔はしてないけど。してないけど……でも、これって、本人にこそ伝えないといけないことだよな……。
力無くスマホを持つ手が膝の上に落ちた。
俯いて顔を覆った前髪をくしゃりとかき上げた。
小説の主人公は、ヒロインとハッピーエンドだ。もちろん俺が設定した結末。
だけど、現実は分からない。どうなるかなんて、決められない。だから怖い。小心者すぎるだろ、俺。きっと、この賞のことを伝えたら、くるみちゃんは喜んでくれる。それだけは確実に分かる。でも、俺が喜びの勢いで「好きだ」と伝えたら、どうなる?
くるみちゃんの反応が全くもって分からなすぎる。
「私も!」なんて、夢見たいな返事が返ってくるなんてことは、現実ではあり得ない。
明日、くるみちゃんと話ができるだけでも幸せなんだ。それだけでいいか。それに、大和は間違えたって言っていたけど、六つも歳が離れたくるみちゃんは高校生の俺と違って大人だ。
そう言う相手がいるのも覚悟しておいた方がいいかもしれない。
嬉しいはずなのに、素直に喜べなくて落ち込んでいく。
*
太陽がすでに高くて、気温も上昇している午前十時過ぎ。自宅から駅までの道のりでいつも使っている自転車で、今日は大橋まで走る。
風が生ぬるくて、日差しがジリジリと肌を焼いてくる。負けないように力を込めてペダルを漕いだ。
川沿いには日陰なんかなくて、日の当たる場所に自転車を停めた。日陰を求めて橋の下の階段に足を運ぶ。
ようやく落ち着いて座ると、一気に汗が噴き出てきた。持ってきたトートバッグからタオルを取り出して拭き取ると、タオルをしまいながら一冊の本を取り出す。
パラパラとめくるけれど、気持ちは落ち着かない。
拭いたはずの汗は、また額に滲んでくる。
持ってきたサイダーで乾いた喉を潤した。
昨日、投稿サイトをなにげなく見ていたら、俺の書いた作品に感想が届いていたのに気がついた。まだ新しく登録したばかりのサイトだったから、機能をうまく使いこなせていなくて、感想の見方もよくわかっていなかった。
開いてみれば、完結した作品を投稿した次の日に届いていた感想だった。
──
彼女へのまっすぐな想いがとても印象的で、こんな風に言われたら、きっと一生忘れないだろうなって感じました。とても素敵なお話でした。ありがとうございます。嬉しいです。
》ウォールナッツ
感想をもらえたのは、これが初めてではない。毎回、作者としてはすごく嬉しいことだ。次の作品への糧にさせてもらっている。
だけど、この人の感想。
「……嬉しい、です?」
いや、感想自体はすごく俺には嬉しい。でも、読んでくれた方が嬉しいって、何かが引っかかった。そして、ウォールナッツって名前。
返信する手が震えて、何と打ち込めばいいのか分からなくて。とりあえず感想の許可申請は押したものの、次へは進めずにいた。
まさか。まさかだよな……
昨日の夜、眠れずにいた俺のスマホが着信を告げた。登録したばかりのくるみちゃんから。
「も、もしもし?」
思わず上擦ってしまう俺に、クスクスと笑ってくれるから余計に心臓がうるさくなる。
『こんばんは、海斗くん。明日、十時半にあの場所で会いたいんだけど、都合はいいかな?』
「うん、大丈夫」
『良かった。じゃあ、また明日』
「……う、うん」
簡単な通話は一瞬だった。
え、夢? とか思ってしまうほどに。
だから、ますます眠れなくなる。
約束の時間よりも少し早めに着いて気持ちを落ち着かせたかった。
冷たい炭酸が喉を通り、身体を冷やしながら落ちていく。ようやく気持ちも暑さも落ち着いて、本を開いた俺の隣に、ふんわりと風に舞いながら香る花のような匂い。
黄色のロングスカートが視界に入ったかと思ったら、しゃがんでこちらを見ながら笑いかけてくれるくるみちゃんの姿。時が止まったんじゃないかと思うくらいに景色がゆっくり動いていく。
「海斗くん、お待たせ!」
「あ……うん」
また、この笑顔を前にすると口が重くなる。
何を話していいのか、途端に分からなくなって、手にしていた本に視線を落とした。
「本が好きなのは相変わらずなんだね。嬉しい」
すぐ隣に座って、こちらを見ながら話しかけてくれるから、嬉しいのは俺の方だ。
……嬉しい、って。
引っかかっていたあの感想を思い出す。
「ウォールナッツって……」
ポツリとつぶやいた俺に、くるみちゃんは驚いた顔をしてから、ほんのり顔が赤くなっていく気がして、確信する。
感想をくれたウォールナッツって人は、くるみちゃんだった? まさかが、本当になってしまった。
照れた表情をするくるみちゃんに、俺はなんと答えたらいいのか分からなくなっていく。
きっと、作品を読んでくれたのなら、俺の気持ちはわかっているはずだ。そう思うと、今度は一気に恥ずかしさが湧き上がってくる。
「ちゃんと、会って聞いてみたかったの」
きっと、熱った顔をしている俺とは違って、涼しい顔をしながらくるみちゃんは聞いてくる。
こう言うところは、大和と姉弟だなと冷静に感じてしまうけど、今はそれどころではない。
「あたしね、小さい頃の海斗くんは大和と一緒に弟みたいにずっと思って接してたの。だけどね、中学校に入った海斗くんとはなかなか会えなくなって、たまに書いた物語を渡されるのがすごく嬉しくて。高校生になった海斗くんは、背も伸びてかっこよくなっちゃって、もう、近寄れないなって、諦める意味も込めて実家を離れたの」
「……え」
諦める? それって。
「ウォールナッツはくるみ。あたしだよ。海斗くんがくれた物語に、いつもペンネームまで書いてくれていたでしょ? なにげなくSNS見てたら発見しちゃって。海斗くんの青春、すごく良かった!」
向けられた笑顔に、俺の好きなくるみちゃんだと改めて感じる。
「あの作品のヒロイン、くるみちゃんなんだよ」
好きなことを諦めるために、夢も恋もこれで最後にしようと思って書いた作品。届くことなんてないと思いながらも、どこかで届いて欲しいと思いながら。
「俺、ずっとくるみちゃんのこと好きだった。叶わない想いだと思って、だから小説にして、せめて話の中ではハッピーエンドにしたくて……」
勝手な妄想をしてしまった。
「青春ってさぁ、すれ違いだよね」
川の向こうを眺めながら、くるみちゃんが目を細めて笑う。
「好きな気持ちが自分の中で大きく膨らんで、相手の気持ちが見えなくなる。そして、勝手に不安になる。あたし、完全にそれだった」
俺の書いた物語は、ファンタジーが多くて。でも、どこか誰かを想うようなことを書いていて、くるみちゃんはそれが自分に向けられているだなんて思いもしなかったらしい。それはそうだ。俺だっていつも無意識で書いていたんだから。
「くるみちゃんのために書いたよ」なんて、カッコつけたことは言えなかったし、あの頃恋なんてものも良く分からなかった。
「くるみちゃんが読んでくれた作品、実はさ……」
「おめでとう!」
「……え?」
「君に捧ぐラストレター。青春賞受賞!」
「え!? なんで!?」
嬉しそうな笑顔のくるみちゃんに驚いていると、バックから取り出したスマホの画面をこちらに向けてきた。
「結果発表出てたよ!! 本当におめでとうっ!」
結果、発表!?
思わずスマホに食いついて見る。
大賞、準大賞と続いて、青春賞の欄に、俺のペンネームのカイトとタイトル「君に捧ぐラストレター」と書かれているのを見つけた。
「今日の十時頃発表だったんだよ。これを見てから会いたくて、待ち合わせを十時半にしたの!」
楽しそうに話すくるみちゃんに、唖然としてしまう。俺はくるみちゃんに会うことで頭がいっぱいだったのに。
「あたしね、ヒーローくんの言葉って、海斗くんの言葉だと思ってしまっているんだけど、それって間違ってる?」
「ま、間違ってないよ!」
「良かった。なら、ウォールナッツさんからの返事は受け取ってもらえたかな?」
ウォールナッツさんからの、返事?
──嬉しいです。
「……嬉しいって……」
「うん、もしも、ヒーローくんの言葉があたしに向けての言葉だったら、嬉しいなって思ったから。だから、あの感想を送らせて頂きました」
ぺこりと頭を下げるくるみちゃんに、俺は座ったまま姿勢を正す。
これは、改めてちゃんと気持ちを伝える場面ではないだろうか?
嬉しいって、どっちなんだろう?
俺と同じ気持ち?
それとも、単にありがとうってだけの意味?
頭の中でぐるぐる考えていても、目の前の笑顔には答えが書いてあるわけじゃない。答えは、ちゃんと自分の気持ちを伝えないと返ってこない。
「くるみちゃん、俺、くるみちゃんのことずっと好きだった。もちろん、今でも大好きだ」
気温のせいなんかじゃない。俺の体温が沸騰してしまっている。クラクラしてしまう視界に、くるみちゃんの笑顔が見えた。
「うん、ありがとう。あたしも好きだよ」
「……え?」
拍子抜けしてしまうくらいに間抜けな声を出してしまった。目の前のくるみちゃんは、そんな俺に不服そうな顔をしている。
「あれ? ヒーローは両想いだって分かったら、ギュッと抱きしめてくれるんじゃないの?」
「え……」
「お互いに好きが溢れ出してしまって、抱きしめるだけじゃ足りなくて何度もキッ……!」
それ以上は言わないでくれ。
俺の書いた作品読み込みすぎだろ。現実はそう簡単じゃないんだよ。恥ずかしすぎて、くるみちゃんを抱きしめる? それじゃ事足りずにキ……!?
無理無理無理無理。
俺が目の前に突き出したサイダーのペットボトルに驚いたくるみちゃんは、ふうっと息を吐き出すと、仕切り直すみたいに笑った。
「大人気なかった。あたしがしてあげればいいんだよね。年上は相手にされないだろうなって、勝手に思ってた。あたしで本当にいい? 後悔したって知らないよ? 好きの先は、あたしがリードしていくから、これからも素敵な作品作っていってください」
ふわり。くるみちゃんの体温が近づいて俺を抱きしめる。
「カイトのファン一号はあたしだからね。いままでも、これからも。ずっと大好き」
そっと離れたかと思えば、目がゆっくり閉じて顔が近づく。唇に柔らかい感触。ほんの一瞬の出来事に、俺は目を閉じるのも忘れてしまっていた。
「良かった。ちゃんと伝えられた。ありがとう。よっし、これでまた仕事頑張れそうっ!」
「え、あ、そういえば、仕事キツかったり?」
だから帰ってきたんだよな。
「え? 違う違う。たしかに楽な仕事じゃないけど、辞めて帰ってきたわけじゃないよ? みんなよりも早い夏休みなだけ」
「……そうなの?」
大和はくるみちゃんのなにを聞いてるんだ?
前からくるみちゃんに関しては情報はあれども信用ならなかった。ほんとに、なんの協力にもなってないぞ。
「大和にね、それとなく海斗くんのことは色々聞いてたんだ。探るようなことしてごめんね」
「え、いや。それは別に」
ってか、大和、くるみちゃんが俺に気があること知ってたってことか?
あいつ……!
「書籍化したら、サインしてね!」
俺以上に受賞を喜んで、書籍化まで望んでくれる展開になるなんて予想もしてなかった。
現実で片想いが叶うことなんてないと思っていたから。だけど、人生何があるか分からない。
好きなことを好きで居続けたいし、好きな人を好きであり続けたい。
たまに休んでも良いけれど、諦めたらおしまいだから、きっと俺はこれからも書き続ける。