〜不思議な出会い〜
不思議な出来事を体験した翌日。
今日は昨日と違い、早起きができた。
いつもの習慣で、私は勉強を始める。
一時間ほど時間が経ち、私はリビングへと降りた。
「おはよう」
昨日の今日だ、きっと今日も何か言われるのだろうと思っていた。
「おはよう。勉強してたんでしょ? 座って待ってていいわよ」
あれ?
今日のお母さんは、なんだか機嫌が良さそうだ。
「分かった」
そう言って私はリビングへと向かう。
げ、お父さんが居るじゃん。
厳格な性格だから少し怖くて苦手なんだよなぁ。
そんなお父さんは、お兄ちゃんと楽しそうにお喋りをしている。
きっと昨日テレビで話していた研究の話でもしているんだろうな。
そんなことを思い、リビングの扉を開く。
「陽菜、おはよう」
「うん。おはよう」
どうやらお兄ちゃんはいつも通りみたいだ。
そして、恐る恐るお父さんの方を見る。
「おはよう」
その声は、思ったよりも明るい声だった。
お父さんも機嫌がいい感じ?
それはそれでなんか怖いけどね。
「じゃあ陽菜も来たことだし、俺は莉子を起こしてくるな」
え、待って待って。
行かないで。
お父さんと二人っきりにしないでよ。
本当に気まずいから。
そんな私の気持ちをお兄ちゃんが知る由もなく、リビングには私とお父さんの二人っきりになってしまった。
しばらく沈黙の時間が続いた。
「陽菜、昨日のテレビは観たか?」
その沈黙を破ったのはお父さんだった。
「テレビって、お父さんの研究の話だよね」
「あぁ、陽菜はどう思う?」
さっきまで、お兄ちゃんと話していたんでしょ。
何言っても比較されちゃうじゃん。
正直、何とも思っていなかったので、呆れられるのを覚悟で正直に伝える。
「……私はお父さんやお兄ちゃんと違って、専門的なことは分からないけど、きっと、これから沢山の人を救う研究になるんじゃないかな、とは思う」
もっとちゃんと説明しろとか怒られるだろうな。
「そうか。陽菜にそう言ってもらえると嬉しいな」
……え?
本当に、今日のお父さんどうしたのだろう。
「うちの大学にさ、人間の細胞を研究している人が居るんだよ。御影ってやつなんだけど」
「……うん」
「本当に、才能があるから一緒に研究してみたいって思ってるんだ。ただ、あいつは……。いや、気にするな」
なんで言いかけてやめるのよ。
気になっちゃうじゃん。
そんなことを言って、医学に興味があると思われたら困る。
私は確かに桜庭大学を目指しているけれど、医学部に入りたいわけではない。
だから今まで、当たり障りのない返答を続けてきた。
お母さんやお父さんの機嫌を損ねたくなかったから。
しかし、今日はいつもと違い優しさを感じた。
受験を控えている私を気にかけてくれてるのかな?
そうに違いない。
いや、そうであってほしい。
理由は分からないけれど、優しくされて嫌な気はしなかった。
***
夏休みも終わりに近付いてきた頃。
あれからずっと家で勉強しかしていなかった。
私は、気分転換に近所の公園に行くことにした。
家から歩いて数分ほどで着く場所にあり、小さい頃はよくそこで遊んでいた。
あの頃は広いと感じていた公園も、いつの間にか狭いと感じるようになっていた。
時が経ったのだと実感する。
私は、入口近くのベンチに座った。
何をするわけでもなく、ただボーッとするだけ。
たまには勉強だけでなく、こんな風に何も考えないで過ごす日も良いかもしれないと思った。
その時、誰かの足音が聞こえた。
「近所の子供が遊びに来たのかな」と思ったけれど、それよりは歳上の足音に聞こえた。
そして、その足音は私の目の前で止まった。
「……?」
私はゆっくりと顔を上げる。
「えっと……どうかしましたか?」
「……いや、人が居たから驚いちゃって。いつもはこの時間、誰も居なかったから」
そう言いながら、彼は私の顔をまじまじと見てきた。
えっ……何?
もしかして、避けてほしいのかな?
そう思い、私は慌てて立ち上がる。
「すみません。今、帰りますね」
「いや! 大丈夫だよ。みんなの公園なんだし、君もゆっくりしたいでしょ? 僕も隣に座って良いかな?」
「ど、どうぞ」
そうして、私たちは並んでベンチに腰を下ろす。
……えっと、これはどういう状況?
どうして知らない男の子と並んで座っているのだろう。
「……あの」
「……はい!」
急に声をかけられたので、声に力が入ってしまった。
そんな私を見て、彼はクスクスと笑う。
「そんなに身構えないで。ただ声かけただけじゃん」
その言葉で、少し緊張が和らいだ。
改めて見ると、彼は整った顔立ちをしている。
それに、何となく親近感が湧いてきた。
「……そんなにじっと見られると恥ずかしいんだけど」
「……あ! ごめんなさい」
「君、面白いね。名前は? ……って、僕が最初に名乗らないとだよね。僕は八神幻って言うんだ」
そう言いながら、彼は地面に漢字を書いて見せた。
まぼろしと書いて、「幻」
珍しい苗字も相まって、なんだか儚げな名前だった。
「私の名前は黒崎陽菜」
私も地面に名前を書いた。
「陽菜……ちゃんか。良い名前だね!」
そう……かな?
自分の名前だから、よく分からない。
「陽菜ちゃんは今夏休み?」
「うん。明後日からまた学校が始まるけどね。八神くんは?」
彼がフレンドリーだからか、つられて私もタメ口で話してしまう。
「僕もそんな感じかなぁ。てか、幻って呼んでよ! 下の名前で呼び合った方が友達らしいでしょ?」
「友達らしいって……。私たち、さっき会ったばかりなんだけど」
「細かいことは気にしない。僕、あんまり友達居ないから、友達になってくれると嬉しいんだけどな」
こんなにフレンドリーなのに友達が居ないの?
まぁ、人は見かけによらないって言うもんね。
それに、わたしだって友達があまり居ないので、人のことを言えない。
「……まぁ、良いよ」
「やったー! あ、ちなみに陽菜ちゃんはどうして公園に来たの?」
「なんでって……。公園に来るのに理由なんてある?」
「そうだよねー。でもね、僕は理由があるんだよ。あんまり、家に居るのが好きじゃないんだよね」
家に居るのが好きじゃない?
何か、理由があるのだろうか。
「僕、家族と仲が悪いんだ。最近は、勉強ちゃんとしてるのか。そんなんで大学行けるのかって、毎日言われてるの」
「えっ……! 私も一緒。正直、息抜きにって思って公園に来たけど、家に居たくなかったってのも理由の一つなの」
こんな共通点があったなんて……。
「実はそれだけじゃなくてね、ほら……」
そう言って、彼は服の袖をめくった。
「え……」
そこには痛々しい痣が隠れていた。
「もしかして……虐待?」
「……うん。たまに殴られる程度なんだけどね」
「たまにって言っても、痛いものは痛いでしょ」
実は私の体にも、覚えのない痣が残っている。
でも、幻ほどではなかった。
「うーん、でももう慣れたかな。それにほら! 陽菜ちゃんとこうして出会えたんだから、結果オーライ?」
この人はポジティブなのか、能天気なのか。
どっちにしても、私の身近には居ない珍しいタイプだった。
「あ……そろそろ帰らないと」
「もう帰るの?」
もう少し話したかったのに。
初めて会った人なのに、時間を忘れるほど話をしていたことに驚いた。
「うん。帰らないと怒られちゃうからね」
「……大丈夫なの?」
「大丈夫だよ! じゃあまたね!」
「……うん。またね」
幻は手を振りながら帰っていった。
本当に大丈夫なのかな……。
それに、思わず「またね」と言ってしまったけれど、正直また会える保証はなかった。
今日だってたまたま会えたのだし、連絡先だって交換していない。
二度と会えないのなら、それは仕方のないことだろう。
でも、もしまた会うことができたのなら……。
その時は、私から話しかけてみようかな。
〜平凡な日常?〜
夏休みが終わり、学校が再開した。
周りでは挨拶が飛び交っている。
「陽菜ー! おっひさー」
「久しぶり」
この子は凛ちゃん。
私がいつも一緒に居る子。
この子と、あともう一人よく一緒に居る子がいる。
一年生の頃に話しかけられたから一緒に居るけれど、特に仲が良いかと言われれば、そうでもない。
「お! 美波、おはよー」
「おはよぉ! 陽菜ちゃんもおはよ!」
「おはよう」
相変わらず、美波ちゃんは元気だな。
二人は明るい性格でクラスの中心的な存在だ。
分かりやすく言えば一軍タイプといったところか。
私とはタイプが違うのに、何故か三年間一緒に居る。
「そういえばさぁ、今朝のニュース見た? 指名手配犯がようやく捕まったらしいね」
「見たみた! 理由が人生つまらなくて……とかだっけ? マジで、そんな理由で人殺すとか有り得ないっしょ」
二人は朝から何物騒なこと言ってるのよ。
「陽菜ちゃんもそう思うよね?」
「えぇ……私?」
急に話を振らないでもらえる?
私、この手の話苦手なんだけど。
「……どんな理由であれ、殺人はダメでしょ。罪人になるために生まれてきたわけじゃないんだし」
「深いねぇ。じゃあ陽菜ちゃんは何のために生まれてきたと思う?」
なんか規模広がってない?
生まれてきた理由ね……。
「何だろうね……。強いて言えば幸せになる為、とか?」
「幸せになる為? 陽菜ちゃんって案外ロマンチストなんだね」
冷静を装ってるけれど、必死で笑いを堪えてるのバレバレだよ。
そっちから聞いておいて、バカにするとか本当にやめてほしい。
でも、本人たちは自覚がないんだろうな。
それを指摘しない私も私だけど。
そんなことを考えていると、凛ちゃんが違う話題を持ち出した。
「テレビといえば、黒崎教授のニュースも見たよ! 陽菜のお父さんやっぱ凄いね!」
「あはは……。ありがとう」
「陽菜ちゃんも桜庭大学目指してるんでしょ? この前の模試の判定Aだって聞いたよ!」
「ヤバっ! 異次元じゃん。マジウチらとは住んでいる世界が違うって感じ」
それはあなたたちが勉強をしないからでは?
しかし、やっぱり二人は悪気がなさそうだった。
私は二人のグループに入れてもらっている立場だ。
変に言い返して、いざこざができるのだけは避けたい。
そんな私は、愛想笑いを返すことしかできなかった。
何やかんやで、夏休み明け初日が終わる。
夏休み中に人との関わりを避けていた私にとって、この空間は地獄でしかなかった。
それでも、家よりは勉強に集中できる。
そう自分に言い聞かせて、何とか乗り越えることができた。
そろそろいつものお迎えの時間だな。
そう思った私は、カバンを背負い、玄関へと向かう。
その時、廊下でよく知っている声が聞こえた。
「碧くん! 久しぶりだな。最近の調子はどうだ?」
「お陰様で。最近は父の研究に携わる機会もあって、毎日充実しています」
「黒崎教授と言えば、今テレビでも話題になってるもんね。碧くんにも期待してるよ!」
「ありがとうございます」
何でお兄ちゃんがここに居るの?
一年生がチラチラとお兄ちゃんの方を見ている。
あぁ……。
卒業生って知らないし、お兄ちゃん、かっこいいからね。
どうしよう。
完全に出るタイミングを失った。
その時、お兄ちゃんと目が合ってしまった。
「お、陽菜。待ってたぞ」
いやいや、待たなくていいから。
何で来たのか分からないけど、何なら先に帰っていいから。
しかし、見つかってしまったのならしょうがない。
私は、渋々お兄ちゃんの傍に寄る。
「陽菜さんも来たことだし、俺は仕事に戻るな。碧くん、ぜひまた顔を出してくれ。陽菜さん、さようなら」
「……さようなら」
なんか勝手に帰ることになってる?
いやまぁ、帰るつもりだったけど。
「お兄ちゃん、どうしてここに居るの?」
「今日、母さん用事があって迎えに来れないって聞いてなかったか? 朝伝えたはずだけど」
「……あぁ、確かに」
「あぁ、って。俺の迎えじゃ不服なようだな」
「いや、別に。じゃあ……今日はお願いします」
お兄ちゃんのお迎えが嫌なわけじゃない。
お兄ちゃんと学校で一緒に居るのが嫌なだけだ。
お兄ちゃんはかなり優秀な為、常に比較対象にされてきた。
それは、高校時代も例外ではなかった。
おまけに、お兄ちゃんは私と違って愛想も良い。
常に周りには誰かが居て、後輩たちからは憧れの的だった。
そんな人と一緒に居れば、目立ってしまうのは当然のことだった。
だから私は、お兄ちゃんから少し離れて歩く。
「何だ? そんなに離れて」
「……別に」
「相変わらず無愛想だなぁ」
そんなことを言いつつも、お兄ちゃんは私の歩幅に合わせて歩く。
傍から見れば胸きゅんポイントなのだろうけど、私にとってはただの察しの悪いお兄ちゃんでしかなかった。
たった一日の出来事だったのに、一気に疲れが溜まったような気がした。
***
翌朝。
時刻は朝の六時。
幻のことを思い出し、あの公園にもう一度行ってみることにした。
まぁ、居るわけないよね。
そんな軽い気持ちだった。
しかし、いざ公園に着くと、同い歳くらいの男の子がベンチに座っている姿が見えた。
幻だった。
私はゆっくりと幻に近付き、声をかけてみる。
「おはよう」
「おはよう。朝早いね」
それはこっちのセリフだ。
私も早い時間に公園に来たけれど、幻は私よりももっと早くに来ていたことになる。
「まだ誰も起きてない時に家を出てきたから。ゆっくり散歩でもしてきたいなって思って」
「え! 奇遇だね。僕もだよ。いつも、どこ行くのって聞かれるから、バレないように出てくるしかないんだよね」
私と一緒だ……。
「今日はいつもより早めに家を出ちゃったけど、陽菜ちゃんに会えたからそれも良かったのかも!」
「ごめんね。学校始まってバタバタしてて、あんまりここに来れなかったの。それに、正直居るとは思わなくて……」
「あはは! そうだよねぇ。僕も陽菜ちゃんとまた会えるとは思わなかったなぁ」
そう言う幻は、何やら嬉しそうに見えた。
それに、以前よりも顔色が良い気がする。
「何か良いことでもあった?」
「どうして?」
「前よりも顔色が良くなってる気がする。それに、痣も薄くなってきたよね?」
まだ少し跡は残っているが、この調子でいけば、完全にとは言わなくても、目立たない程度には薄くなるだろう。
「あぁ、そういえば前よりも殴られる数は減ってきたかも」
そう言う幻の声はあっけらかんとしていた。
「でもねぇ、辛い生活もあと少しだけ我慢すれば良いんだ!」
「どうして?」
「もう少しで家族と離れられるからね」
「卒業したら一人暮らしをするの?」
「まぁそんな感じかなぁ」
一人暮らしかぁ……。
私も家族の元を離れたいって思うけれど、それを家族に説明できる自信がない。
何より、お兄ちゃんだって実家暮らしだ。
相談しても、私も実家から通えば良いと言われるのが目に見えている。
「そういえば、幻ってどこの大学を受験するの?」
「桜庭大学だよ。心理学部を目指してるんだ」
「えっ……! 私も……。凄い偶然だね」
こんな偶然があるのだろうか。
私は幻に不思議なものを感じ始めた。
「じゃあどっちも受かれば同級生になるわけだ! 勉強頑張んないとなぁ」
「そうだね」
幻だって私のお父さんが医学部の教授をしていることは知っているだろう。
しかし、幻はそのことは一切触れてこなかった。
私の周りの人は、当たり前のように私が医学部に進学すると考えていた。
幻は、私を"黒崎教授の娘"ではなく、"黒崎陽菜"として見てくれている。
会って間もない人が、こうして接してくれるのは不思議な感覚だった。
しかし、それが堪らなく嬉しかった。
「勉強のやる気が出てきたな。二人で絶対に合格しようね! 大学で再会できたら僕から声をかけるから!」
「うん。私も頑張るね」
そろそろ家族が起きる時間だ。
幻の方もそうだったらしく、私たちはここで解散した。
このやり取りが、試験の五ヶ月ほど前のことだった。
いよいよ、試験本番まで残り一ヶ月を切った頃のことだった。
当たり前に続くと思っていた日常は、ただの幻想に過ぎないということを実感することとなる。
それが、私の運命だというように、一瞬にして世界は変わってしまった。
〜最初の異変〜
その日は、近くの図書館に行って勉強をしていた。
休日は、場所を変えて勉強するというのが私のスタイルだった。
しかし、どうにも今日は集中できない。
「……あれ、私寝ちゃってたのかな」
一時間ほど勉強をしていると、いつの間にか眠ってしまったようだった。
受験が近いというのに、なかなか気が引き締まらない。
こんな私が嫌になる。
それよりも、なんだか悪い夢を見たような気がする。
この状態で勉強を続けても意味がない。
そう思った私は、まだ数時間ほどしか勉強をしていないが、家へと帰ることにした。
家に近付いてくると、何やら辺りが騒がしい。
その時、私の横を消防車が通り過ぎた。
私は嫌な予感がした。
急いで家に電話をかける。
「……お願いだから出て!!」
しかし、いくら待っても電話は繋がらなかった。
私は急いで家へと向かう。
家に着くと、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
「……嘘、でしょ」
目の前には大きな炎と煙が広がっていたのだ。
私は急いで側へと駆け寄る。
「何をしてるんですか! 危険です! 離れてください!」
消防隊員の声が響く。
「でも……! 中に家族が居るかもしれないんです!」
「この炎では中に入れません。まずは、火を消すことが優先です」
そんな……。
それまで待たないといけないってこと?
「……陽菜!」
その時、お兄ちゃんの声が聞こえた。
良かった……。
お兄ちゃんは無事だ。
「家が燃えてるって連絡があったんだ。一体何があったんだ?」
「……分からない。帰ってきたら家が燃えていて……。みんなと連絡もつかないし、何が何だか分からないよ……」
どうして急に火事なんか起きたのだろう。
少しずつ炎が小さくなってきた。
それとは裏腹に、不安な気持ちは大きくなる一方だった。
「隊長! 中に人が居ます!」
「えっ……?」
人ってまさか……。
隊員が連れ出してきたのは四、五十代の男女と中学生の女の子だった。
彼らは、間違いなく私たちの家族だった。
「この方々のご家族ですか?」
「……はい」
「残念ですが、既に亡くなっております……」
そんな……。
確かに、家族が憎いと思ったことがあったけれど、死んでほしかったわけじゃない。
家族との生活が当たり前に続いていくと思っていたのに、そんな考えは一瞬にして崩れてしまった。
ただでさえ受け入れ難い状況なのに、追い討ちをかけるように衝撃的なことを知らされる。
「ご家族の方かね?」
警察の方が私たちに声をかけてきた。
「はい。そうです」
何も言えない私の代わりに、お兄ちゃんがそう答える。
「この度は、誠にご愁傷様です」
その言葉を聞き、一気に辛い現実が押し寄せてきた。
「亡くなられた方は、黒崎達也さん、美咲さん、莉子さんで間違いないですか?」
「……はい」
「お二人がご無事なのは何よりです。近所の方から通報がありましたが、お二人はこの時間はどちらへ?」
「俺は、大学に行ってました。妹は図書館で勉強をしていました」
「図書館で勉強……。間違いありませんか?」
「……はい」
でも、どうしてそんなことを聞くのだろう。
まるで、事件の捜査みたいだ。
もしかして……
「あの、刑事さん。これは事故じゃないんですか?」
「おい、陽菜!」
突拍子もないことを聞いているのは分かる。
しかし、事故でここまで大きな火になるのだろうか。
刑事さんは、苦しそうな表情をしていた。
「……恐らくこれは放火でしょう」
その言葉が重くのしかかる。
それってつまり、家族は殺されたということじゃない。
「そんな……! 事故の可能性はないんですか?」
「ないとは言いきれませんが、ゼロに等しいかと」
「どうして……!」
流石のお兄ちゃんも取り乱している。
「一つ質問ですが、"Malice"という言葉が現場に残されていました。聞き覚えはありますか?」
マリス……?
どこかで聞いたはずなのに、思い出すことができない。
「……分かりません」
「そうですか。今のところ、これが犯人を特定する為の唯一の証拠です。何か思い出したら、何でも話に来てください」
「……はい」
私たちは、ボロボロとなった家の前に立ちすくんだ。
どうやっても、この事実が受け入れ難い。
「……ウッ」
その時、激しい眩暈に襲われた。
「陽菜……? 陽菜! 大丈夫か!」
目の前が真っ暗になる。
私まで倒れちゃうとか、本当に情けない。
「……ちゃん! ……陽菜ちゃん!」
「……げ、ん?」
お兄ちゃんの姿しか見えないけれど、そこに幻も居るの?
あぁ……。
嫌な姿を見せちゃったな。
幻だって、この悲惨な光景は見たくないだろう。
そこで私の意識は途切れてしまった。
これが夢ならば、どれ程良かっただろう。
私が過ごしていた時間が、全て夢であってほしいと何度願ったことか。
しかし、これは紛れもない現実だった。
私たちが生きているのは、日常さえも簡単に奪ってしまう世界。
やはり、そんな理不尽なことが溢れかえっている世界が、私は大っ嫌いだ。
***
「続いてのニュースです。昨夜、住宅が燃えていると近隣の住民から通報がありました。現場から三体の焼死体が見つかっており、検証の結果、黒崎達也さん五十歳、美咲さん四十七歳、莉子さん十三歳と断定しました。火元特定には至っておらず、警察は放火の可能性も含めて捜査を続けています」
「……あ」
ニュースを観ていると、お兄ちゃんが傍に来てテレビの電源を切った。
「観るな。陽菜が辛くなるでしょ」️
「……そうだよね」
それでもやっぱり、気になってしまう。
突然こんなことになるなんて、思ってもいなかったから。
不幸中の幸いだったのは、保険金が下りたことと、私たちが働くまでの間を十分に賄える財産が残っていたことだ。
その為、立派ではないけれど、一軒家を買うことができた。
「大学どうするんだ? 変えてもいいんだぞ」
確かに、親に言われて桜庭大学を目指していたんだもんね。
だけど……
「今更変える気はないよ。ずっと、桜庭大学しか目指してなかったんだから」
それより、尊敬していた人が死んでしまったのに、あまりにも冷静なお兄ちゃんに驚いた。
家族を三人も失ったと言うのに、普段と変わらな過ぎじゃない?
そんなことを聞いてみると、
「確かに尊敬はしていた。でも、起きてしまったことはしょうがないじゃないか。それに、これからは気を張らなくていいと言うか……。いや、別に嬉しいわけじゃないけど、ただ、少しプレッシャーはあったからな」
という返事が返ってきた。
医者を目指している以上、死は何度も経験するだろうから、そんなに不思議なことじゃないのかな?
でも、本当に殺される理由が分からなかった。
確かに、私はあまり家族と仲が良くなかったけど、周りからの評判は良かった。
明るくて、近所の人気者の莉子。
優しくて、料理上手のお母さん。
そして、研究熱心で真面目なお父さん。
近所の人たちからは、そんなイメージを持たれていた。
何か前触れがあったわけじゃないのに……。
「警察も動いているんだから、そんな気にしないの。陽菜は受験が近いんだから、そっちに集中しろ」
お兄ちゃんの言葉に静かに頷く。
この時の私は、まだ知らなかった。
この事件はこれから起こる悲劇の幕開けに過ぎないということを……。
〜大学デビュー〜
程なくして、私は無事桜庭大学に合格し、四月から学生として通うことになった。
私は、予定通り心理学部に入学した。
今日は、初めての講義の日だった。
お兄ちゃんと一緒に大学へと向かう。
「陽菜。覚悟しておけよ?」
「え?」
突然そんなことを言い出すから驚いた。
しかし、その言葉の意味をすぐに理解することになる。
「ねぇ、あの子じゃない?」
「え! 絶対そうだよ! 碧さんと一緒に居るし」
「やっぱそうだよね。うわぁ……やっぱり黒崎教授と碧さんの家族だね。すっごく美人……」
何やら、コソコソ話しているのが聞こえた。
「ねぇ、なんかすごい視線を感じるんだけど」
いたたまれない気持ちになった私は、お兄ちゃんにそう言う。
「やっぱ有名人の娘であり、妹だからかな」
何ニコニコしてるのよ。
この空気苦手なんだけど。
その時、女子グループが声をかけてきた。
「ねぇねぇ! 君、名前はなんて言うの?」
……凄い陽キャ。
「ひ、陽菜です……」
このテンションについていけず、声が小さくなってしまう。
あーあ。
お兄ちゃんにまた陰キャとか、小馬鹿にされちゃうな。
そう思い、お兄ちゃんの顔をチラッと見る。
あれ……?
何も言ってこない。
流石に、人前では私のことをいじるわけがないか。
一安心していると、さらなる追い打ちをかけられる。
「名前まで可愛いじゃん!」
「マジそれ! 陽菜ちゃんはさ、やっぱり医学部の学生?」
「えっと……心理学部です」
「えー! そうなの!? 何でなんでー?」
この人たち、悪気はなさそうなんだけど……。
それでも、ここまで問い詰められるとどう答えれば良いのか分からなくなる。
「はいはいそこまで。陽菜ちょっとシャイだからさ、こういうの慣れてないんだよね。学部も、無理して俺に合わせなくて良いって言ったんだよね」
今までただニコニコしていたお兄ちゃんが、ようやく声をかけてくれた。
「シャイなの? そこも可愛いぃぃぃ!」
「やっぱり、碧さん優しいですね!」
なんか、話が変な方向に行っている気がするけど、この地獄から開放されるのなら、何でも良かった。
先輩たちは、笑顔のまま去っていった。
良い人たちではあるんだけどなぁ……。
「あれ? そういえば、お兄ちゃんに合わせなくて良いとか言われたっけ?」
「それはまぁ、その場のノリだろ?」
何カッコつけてるのよ。
「変なお兄ちゃん」
お兄ちゃん、大学ではこんなにキャラだったんだ。
「碧ー! おはよう!」
しばらく歩くと、また別の人の声が聞こえた。
「おはよう」
お兄ちゃんが笑顔だ。
お友達かな?
「お! この子が噂の妹ちゃん?」
「そうだよ」
「どうも」と言って、一礼をする。
「うんうん。兄貴と違って礼儀正しいねぇ」
「俺と違ってって……」
大学でのお兄ちゃん、どんな感じなんだろ。
少し気になったが、さっきの態度を見る限り、少し貓被ってるのかな?
そう考えると、少し可笑しくなってきた。
「あ、妹ちゃん。少し兄貴を借りてもいいか?」
「良いですよ」
「君の兄じゃないけどね。陽菜、ここからは一人で大丈夫か?」
「大丈夫だよ。何回か来てるし」
そう言って、私たちは別々の方向に向かって歩き出した。
心理学部エリアに向かっていると、沢山の荷物を抱えた男性に出会った。
「この大学の教授かな……?」
少し、大変そうだ。
私は、お手伝いをしようと声をかけた。
「あの……手伝いましょうか?」
「え……? あぁ、じゃあお言葉に甘えて」
そう言って、教授は比較的軽いものを私に渡した。
「この荷物を研究室まで運びたくてね」
「研究室までですね。分かりました」
私たちは並んで歩き出す。
「見慣れない顔だけど、もしかして新入生かな?」
「はい。そうです」
「入学早々こんなこと頼んで申し訳ないね」
「いえ、大丈夫です」
というか、研究室ってどこのだろう。
そんなことを思っていると、またもや質問がきた。
「君は、どこの学生かな?」
「心理学部です」
その時、教授の足が止まった。
「……どうかされましたか?」
「いや! ますます申し訳ない。実はこれ、医学部エリアに持っていく荷物なんだ」
医学部エリア……。
「……逆方面ですね」
「本当にすまない! ここまで運んでくれただけでもありがたいから、ここで戻っていいよ」
「大丈夫ですよ。時間はまだありますし、ルートを覚える良い機会ですから」
「本当に君は優しいんだね。親の教育が良かったのかな」
別に優しくないし、教育って言ってもスパルタ教育だけどね。
でも、いちいちそんなことを言わなくても良いので、ここは何も言わなかった。
しばらく歩いて、教授の研究室に着いた。
「ここだ」
そう言って、教授は扉を開く。
そこには、いかにも教授の部屋という感じの空間広がっていた。
この人は、医学部教授なのね。
「よし、ここに置いてて良いぞ。ありがとう。助かった」
教授に促されて荷物をそこに置く。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私は御影和樹だ。医学部の教授をしている」
御影……。
どこかで聞いたことのある名前だった。
「今は人間の細胞に関する研究を行っている」
あぁ、思い出した。
お父さんがたまに話題に出していた人だ。
「私は、心理学部に所属している黒崎陽菜です」
教授だけが名乗るわけにはいかないので、私も慌てて自己紹介をした。
「……黒崎」
その時、御影教授の雰囲気が一変した。
「どうかされましたか?」
「……そうか。君が黒崎教授の娘さんか」
同じ学部の教授なのだから、お互いのことを知っているのは当然のことだった。
ただ、少し様子がおかしい。
「来年には娘が入学するとか話してたのに、陽菜さんは心理学部に入学したんだな」
お父さんが私のことを話してたの?
でも、何でだろう。
何故かこの人からは、お父さんに対する敵意が感じられた。
「黒崎の娘だからどんなやつかと思っていたが、あいつの後を追って医学部に来ないあたりは、賢明な判断だな」
態度が変わりすぎじゃない……?
お父さんと御影教授は仲が悪かったのかな。
「そういえば、今年も黒崎教授の研究に興味があるって言ってた学生が入学したな。まぁ、当の本人はもう居ないがな」
何……その言い方。
酷すぎる。
優しそうな教授だと思ったのに、そのイメージが一瞬にして崩れた。
その後、私は追い出されるように研究室から離れた。
沈んだ気持ちのまま、私は講義を受けた。
初めての大学生活だったのに、全く楽しむことはできなかった。
一日目の講義が終わり、家に帰ろうとした時だった。
「……幻?」
少し離れたところに、幻の姿が見えた。
そういえば、入学したら幻から声をかけると言っていたのに、声をかけられていない。
私も今思い出したから、幻だって忘れている可能性があるな。
そう思い、私から声をかけることにした。
「幻!」
前を歩く幻に向かって名前を呼ぶ。
しかし、どうやら聞こえてないようだった。
そこで、今度はもう少し近くで呼んでみることにした。
「幻! 久しぶり」
「うわっ! びっくりした……。なんだ、陽菜か」
「覚えててくれたんだね」
しかも、いつの間にか呼び捨てになってる。
一気に距離が近く感じて嬉しいな。
「忘れるわけないだろ。だって、あ……」
どうしたんだろう。
何か言いたそうなのに言葉に詰まっている感じがする。
「……マジかよ」
「どうかしたの?」
「あ、わりぃ。何でもない」
高校生の時の幻と雰囲気が違うように感じる。
でもまぁ、幻も大学生だから雰囲気変わることだってあるよね。
「幻はさ、高校卒業してからすぐに一人暮らし始めたんでしょ? 慣れた?」
「げん……? あ、俺のことか」
「自分の名前、忘れることないでしょ」
「苗字で呼ばれることの方が多いからな」
幻の苗字、「八神」だもんね。
かっこいい苗字だし、確かにそう呼びたくなる。
一人称もちゃっかり「俺」に変わっちゃって。
少し会わないだけで、一気に男の子から男性になった気がする。
「それで、一人暮らしのことだっけ? 完全に、とは言えないけど、少しずつ慣れてきたよ。でもやっぱり、たまに家族が恋しくなったりするけど」
「幻って家族と仲悪くなかったっけ?」
それなのに恋しくなる……?
「それはまぁ……やっぱアレだ。離れてから気付くってやつ?」
それにしては、だいぶ親を嫌ってるような雰囲気があったけど。
それでも、私は一人暮らしをしたことがないし、私自身も、家族を失って悲しかった。
あまり仲は良くなかったけれど、少しは情が残っていたのだ。
きっと、幻も同じ感じだろう。
「とにかく、同じ学部に通うんだし、これからは同級生としてよろしくね」
「そっか……。陽菜と同級生かぁ」
「え? 何か文句あるの?」
「いやいや! 俺は嬉しいよ。てか、口悪くない?」
しまった。
お兄ちゃんと話す感覚で幻と話してしまった。
「ごめんって」
知り合いが少ない私にとって、幻という友達が居るのはとても心強かった。
それに、心做しか幻はお兄ちゃんと似た雰囲気を感じ、気兼ねなく話すことができたのだ。
〜親友との再会〜
それから数週間後。
相変わらず、新しい友達はできていないけれど、大学生活には慣れてきた。
今日は一コマ目に講義が入っていない為、少し遅めに家を出た。
大学の中央には広場がある。
そこで、お兄ちゃんの姿を見つけた。
「誰か一緒に居る?」
お兄ちゃんは、女子学生と話をしていた。
珍しいな。
女子と二人っきりで居るのは。
相手の女子学生の後ろ姿は、どこか見覚えがあった。
「碧先輩、お久しぶりです」
「君は確か……柚葉ちゃん?」
「……」
「どうかした?」
「いえ! 覚えててくれて嬉しいです。これから、何か分からないことがあれば聞きに行っても良いですか?」
「あぁ、構わないよ。そういえば、陽菜もこの大学に通ってるんだよ」
「……陽菜ちゃんが?」
「そろそろ大学に来る頃だと思うんだけど……あ! 居たいた!」
あ……バレた。
それよりあの子は確か……。
「……柚葉?」
お兄ちゃんと話している子は、確かに見覚えがあった。
彼女の名前は月島柚葉。
私と彼女は幼馴染で、中学まではよく一緒に遊んでいた。
しかし、別々の高校に通うことになり、しばらく疎遠になっていたのだ。
こうして再会できたことが嬉しかった。
「久しぶり。元気だった?」
「ひっ……陽菜ちゃん?」
何故か柚葉は驚いた表情をしている。
「どうしたの?」
「いや、陽菜ちゃん凄い美人さんになって驚いたの。昔から可愛かったけど、より磨きがかかったって言うか……」
「えっと……無理して言ってない?」
たどたどしい話し方に、少し違和感を覚える。
「いやいや! ほんとのことだから。久しぶり過ぎて、少し緊張してるのかも」
その割には、お兄ちゃんには普通に話してたけど。
まぁ、お兄ちゃんは私と違ってフレンドリーだからな。
話しやすいのかもしれない。
「久しぶりに会ったんだから、もう少し話してたらどうだ? 講義まで時間があるし、遅れなきゃ大丈夫だよ」
お兄ちゃんが気を利かせて、私と柚葉を二人きりにしてくれた。
……柚葉、まだ緊張してるのかな?
私も話すのは苦手なんだけど……。
それでも、せっかくの再会なのだから、何とか話題を振り絞った。
「そう言えば、柚葉ってお兄ちゃんのこと好きじゃなかったっけ? 」
「えっ……!」
口から出た言葉は、そんな突拍子もないことだった。
「あっ……。急に変な質問だったね」
「いや、碧先輩は私の初恋の人だよ。でも、さっき再会したら好き! って気持ちは感じなかったな。まぁ、あれから三年以上も会ってなかったもんね」
そっか……。
たった三年と言うべきか、三年もと言うべきか。
とにかく、こうして再会できたことが嬉しかった。
当時の楽しい思い出が、一斉に蘇る。
「でもなんか、碧先輩変わったね」
「そうかな? 私には分からないけど」
「まぁ、ずっと一緒に居ればそんなもんか」
だいぶ、昔のように会話ができるようになってきた。
「……あ、そういえば。陽菜ちゃんのお家のこと、ニュースで観たよ。その……私自身も、凄く悲しかった」
柚葉は良く家に遊びに来ていたもんね。
私たち家族は、柚葉にとっても家族同然の人たちだった。
「莉子ちゃんと遊んだり、美咲さんの手料理を食べたりしたよね。あぁ、達也さんから医学の話をされたこともあったっけ。あの時は難しくて、良く理解できなかったな」
柚葉、理解できてなかったんだ。
私と違って熱心に聞いていたから、てっきり意味が分かっているものだと思っていた。
「もしかして、柚葉の学部って医学部?」
「そうだよ。だからさっき、碧先輩にも挨拶をしていたの」
「そうなんだ。医学に興味あるのかなとは思ってたけど……」
「実は、二年前に母が病気で死んじゃったんだよね。何もできなかった自分が嫌で……。そこから医者を目指すようになったんだよね」
「え! お母さん、亡くなってたの……?」
「報告できなくてごめんね。あの時はだいぶショックが大きかったから……」
そうだったんだ。
でも、何も言われなかったのは少し悲しいな。
「だからさ、陽菜ちゃんの家族が亡くなったって話を聞いた時も凄く悲しかった。特に達也さんは、医学に興味を持つきっかけをくれた人だったし、講義を受けるの楽しみにしてたの」
御影教授の言う、お父さんに憧れている学生って柚葉のことだったんだ。
「火事のことは、事件の可能性が高いみたい。決定的な証拠も見つかってないし、動機とかもまだ分からないけど……」
その時、柚葉が暗い表情に変わった。
「私にそんなに詳しく言ってもいいの? だって私は……」
急にどうしたのだろう。
これはテレビでも報道されて、柚葉も知っているはずなのに。
でも、そんなことは聞けなかった。
せっかく再会できたのだから、気まずくなるのだけは避けたかったから。
〜小さな違和感〜
大学に入学してからも、事件の捜査は続いていた。
なかなか証拠が見つからずにいた中、大学内ではある噂が流れるようになった。
それは、お父さんと御影教授に関する噂だった。
二人は同じ学部の教授で、関わる機会も多かった。
しかし、二人は仲が良い方ではなく、時々言い争うこともあったそうだ。
内容は研究に関することがほとんどだった。
「あれ。そこに居るのは哀れな黒崎教授のご息女じゃないか?」
その時、冷ややかな声が聞こえた。
「……御影教授」
「どうしてここに居るんだ。ここは医学部エリアだぞ」
あ……。
本当だ。
考えごとをしていたら、いつの間にかこっちまで来ていたようだ。
「でも、違う学部の生徒が医学部エリアに入っていけないルールはありませんよね」
その時、御影教授が顔をしかめたのが分かった。
ヤバっ。
ストレート過ぎたかな。
「……はぁ。親も親なら子も子だな。なんだ、その態度は。失礼だとは思わないのか」
失礼なのは教授の方でしょ。
しかし、そんなことは流石に言えなかった。
「……すみません。では、失礼します」
こういう場合、素直に謝るのが正解だと思った。
それに、早くここから立ち去った方が良いだろう。
「黒崎教授も可哀想だよなー。研究が認められた最中に殺されたんだもんな。あ、でもあの研究って盗用したものだったか」
「……は?」
「元々は私がまとめた論文だったのにな。まぁ、陽菜さんにとっては良かったんじゃないか? 犯罪者の娘よりかは、被害者の娘の方が同情心得られるもんな」
……この人は何を言っているの。
わざと私に聞かせているよね。
「でも誰が殺したんだろうな。黒崎教授はパワハラしてたって噂もあったから、被害者の誰かの恨みを買ったんだろうな。ほんと、最期まで可哀想な人だよ」
「何を言って……!」
「御影教授と陽菜? 何してるんだ?」
……お兄ちゃん。
危なかった。
つい、教授に掴みかかるところだった。
そんなことをしたら、それこそ噂になってしまうじゃないか。
「く、黒崎くん? 今の聞いて……」
「何の話だ?」
御影教授がたじろいでいる。
教授も、大学で有名なお兄ちゃんの顔色は伺ってるってことか。
でも私にはあんなことを……。
完全に差別じゃん。
「それより、俺陽菜に用事あったんだよね。ちょうど良かった。教授、陽菜を連れてってもいいですか?」
「あ、あぁ……。構わないさ」
ここまであからさまに差別をされると、怒りというより呆れた気持ちの方が強くなる。
御影教授を残して、私とお兄ちゃんはその場を離れた。
「お兄ちゃん、私に用事って何?」
「え? あぁ、そんなものないよ。陽菜困ってたみたいだから」
気付いていたんだ。
「あの……さ、さっきの話聞いてた?」
「教授もそんなこと聞いてたよな。なんか聞かれたらマズイことでも話してたのか?」
お兄ちゃんは、聞かなかったふりをしているの……?
それとも、本当に聞こえなかった?
お兄ちゃんはお父さんのことを尊敬していたから、もしあの話を聞いていたのなら怒り狂ってただろうな。
じゃあやっぱり聞こえなかったんだ。
「ちょうど良かった。君たち、少し話を聞かせてくれるかな?」
その時、刑事さんが声をかけてきた。
名前は、白井さんと言った。
お父さんの家での様子や大学での様子を聞きたかったそうだ。
私たちは場所を移し、事情聴取を受けることになった。
「では、どちらから話を聞こうかな」
「俺が最初に話します」
「分かった。じゃあ陽菜さんは少しここで待機してくれ」
「分かりました」
お兄ちゃんはどうして一人で話そうとしたのだろう。
別に一緒でも良かったんじゃないかな。
私は、お兄ちゃんが何を話すのか気になり、悪いと分かりながらもドアに耳を当てて二人の会話を聞いた。
「……父のことは尊敬していました。でも、それは父親として。世間からすれば、まさに完璧な人に見えたと思います。でも、実際は違います。父は完璧を求めるあまり、自分の理想を相手に押し付けようとしました。論文を全然認めてもらえないと言う学生も居ました。俺もそういうことがありました。だから、少なからず恨みを持つ人もいると思います」
「他の学生からは評判が高かったみたいだけどね。厳しいけれど、黒崎教授が担当した生徒は良い論文になると言われていましたよ」
「……さっきのは、あくまで俺のイメージです」
「あなたは教授を尊敬しているそうですが?」
「それとこれは話が別です。自分は、ただ事実を言ったまでです」
「……そうですか」
お兄ちゃんが私と同じ気持ち?
お兄ちゃんは、いつも「父さんは厳しいけれど、それも父さんなりの優しさだ」と言っていた。
だから、それが本心だと思っていたのに。
それが嘘だったってこと?
こちらに向かってくる足音が聞こえたので、私は慌ててその場を離れた。
「ありがとうございました」
「貴重な意見、参考にする。次は陽菜さんに話を聞いてもいいかな?」
「……はい」
一体、何を話せばいいの?
お兄ちゃんのように、素直に自分の気持ちを伝えれば良いのかな。
「すみません。陽菜はまだ気持ちの整理ができていないみたいで、今日は控えさせてもらって良いですか?」
「……え?」
「不安にさせたくないんです」
刑事さんは何かを考えているようだった。
「分かった。もし、何か話せるようになったら、その時は話を聞かせてほしい」
「ありがとうございます」
「じゃあ陽菜、帰ろうか」
その声は、普段のお兄ちゃんに戻っていた。
もしかして、さっきのはお兄ちゃんなりの優しさだったのかな。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま午後の講義を受けた。
そんな状態で集中できるわけもなく、ただ時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。
「昼間のことだけどさ」
「うん」
家に帰った途端に、急にお兄ちゃんが昼の話題を持ち出す。
「陽菜、聞いてたよね?」
まさか、バレていたの?
音を立てないように気を付けていたのに。
「盗み聞きはダメでしょ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。別に怒ってるわけじゃないから」
それなら良かったのだが。
バレたのならしょうがない。
私は思い切って、気になっていることを聞いてみることにした。
「ねぇ、あの時話してたことって……」
「あ! 今日は俺が夕飯作る日だよな? 陽菜は少し休んでな」
話をそらされた……?
やっぱり、今日のお兄ちゃんは何か変だ。
でも、何がおかしいのかは上手く言葉に表せなかった。
お兄ちゃん、一体私に一体何を隠しているの?
***
一ヶ月も経てば、大学生活もだいぶ慣れてきた。
いつも通り講義を受け、昼ご飯を食べようとしていたところを幻に引き止められた。
「陽菜、ちょっといいか?」
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあ、食堂でご飯を食べながら話すか」
私たちは食堂へと向かった。
「なんて言えば良いか分からないから単刀直入に聞くけど、昨日警察が取り調べに来てたよな?」
ある程度予想はしていたが、やっぱりその話か。
「噂になっちゃうよね」
「なんて答えたんだ?」
なんて答えたって言われても……。
「私は何も話してないよ。お兄ちゃんが代わりに答えてくれた」
「黒崎が……。なんて言ったか分かるか?」
「お父さんが誰かの恨みを買っていたかもしれないって」
「は? アイツそんなこと言ったのか? そんなこと全然思ってないぞ?」
なんでこんなに気にしているのだろう。
それよりも……
「ちょっと言い方がよく分からないんだけど」
「あぁ、わりぃ。俺はそう思わないって意味だ。黒崎教授、結構慕われてたぞ?」
「でも、幻ってお父さんに会ったことあったっけ?」
「オープンキャンパスで何度かな。模擬授業も面白かったし、よく学生からも声をかけられてたよ」
「そんなに授業面白かったのに、結局心理学部を選んだんだ」
「……え。まぁ、心理学部の模擬授業ももちろん受けたさ。てか陽菜って意外と鋭いんだな」
「意外とって何よ」
「ごめんごめん」
まぁ、大学選びはそんな感じだよね。
私だって、お父さんやお兄ちゃんが医学部だったのに、心理学部を選んでいるわけだし、特に深い理由はないのだろう。
「でもまぁ、実際どうだったかは本人にしか分からないところあるからな」
「それはそうだね。でも、もしかしたらお兄ちゃんの言ってることも正しいのかもね。ずっと一緒に生活してきたわけだし」
「ずっと一緒ねぇ。陽菜はその話どう思う?」
正直、私のお父さんに対するイメージはほとんどお兄ちゃんと同じだ。
しかし、幻はお兄ちゃんのことを尊敬しているみたいだから、間違ってもそんなことは言えなかった。
「……分からない」
「家族なのに分からないのかよ」
「家族でも分からないことはあるの。てか、ずっと思ってたんだけど、なんでお兄ちゃんのこと呼び捨てなの?一応二歳年上なんだけど」
軽い気持ちで聞いてみたつもりだった。
「……陽菜には悪いけど、俺アイツのことあんまり好きじゃないんだ」
「……え?」
予想外の答えに戸惑ってしまう。
理由を聞こうにも、そんな雰囲気ではなく、謎が深まるばかりだった。
講義が終わり、私と柚葉は大学近くのカフェに来ていた。
「そういえば、一つ気になることがあるんだけど、なんで家が燃やされたのかな?」
「言われてみれば確かに。お父さんだけを狙ったのなら、一人だけ殺せば済む話じゃない?」
「いやいや、急に怖いことを言わないでよ。でも確かに、あの家を燃やす必要があったのかな。ほら……美咲さんと、莉子ちゃんも亡くなったわけでしょ? 一人だけを狙ったと言うよりは、黒崎家を狙っていたとしか思えないんだよね」
お父さんの周辺だけ、調査がされているイメージがあったから気が付かなかったけれど、お母さんや莉子は、殺される理由が全く分からない。
近所からの評判は良かったから。
「家族全員……ってことは、私やお兄ちゃんも巻き込まれていた可能性があるってこと?」
「それは分からない。そもそも陽菜ちゃんの家族は有名だし、その分良い思いをしない人も居たのかもしれないね。でも、私の知る限りは評判が良くて、恨みなんて買わなさそうだけど」
「うーん」
そうなのかなぁ。
「ていうか、あの時、陽菜ちゃんは家に居なかったんでしょ? 碧先輩は大学で論文を書いていたって聞いたけど、陽菜ちゃんは何をしてたの?」
「図書館で勉強をしてたはずだよ。……多分」
「多分って……。自分のことでしょ。陽菜ちゃんってそんなに記憶力悪かったっけ?」
「いや、良い方だと思うんだけどな。早めの認知症とか?」
「私の見立てではそんなことないから安心して。とにかく、今一番調べる必要があるのは、御影教授と黒崎教授の関係性でしょ。そこはもう警察に任せるしかないね」
御影教授、か。
確かに、御影教授はお父さんに対して敵意を持っているように感じる。
彼が犯人だとすれば、動機は十分にある。
しかし、それを証明するためには情報が足りない。
それに、なんだかこの事件はそんなに単純な話ではないような気がした。
〜彼の本性〜
あれから、捜査はなかなか進展しなかった。
そんな中、どうしても気になったことがあった私は、御影教授に直接話を聞くことにした。
コンコンッ
「失礼します」
「どうぞ」
研究室から聞こえた教授の声を合図に、私はゆっくりと扉を開いた。
「黒崎陽菜です。お時間よろしいですか」
「なんだ君かね。用件はなんだ」
突然押しかけた私も悪いけど、何なのよその態度は。
「教授が言ってたことは本当なんですか? 学生の話を聞くと、黒崎教授がそんな人とは到底思えません」
「はっ! 何事かと思えばその話か。それはお前の父親だからそう見えるだけじゃないか?」
「いいえ。私はあまり父とは仲が良くなかったので、これはあくまで客観的な意見です」
「あっはっはっはっ!」
なっ……何?
どうして急に笑うの?
「黒崎の野郎、娘にも嫌われてんじゃないか」
御影教授の態度が一気に変わる。
「それでも、学生には慕われていました。本当にパワハラをしたり、盗用をしたりしたんですか?」
「私が嘘を付いているとでも言いたいのか」
「そこまでは言ってません。ただ、本当のことが知りたいだけなんです」
「探偵ごっこもいい加減にしろよ! これ以上戯言を言うようなら警備員を呼ぶからな!」
そう言って、御影教授は拳を振り上げた。
まさか、私を殴る気なの?
思わずぎゅっと目をつぶってしまった。
カシャッ
その時、どこからかシャッターを切る音が聞こえた。
「はい。パワハラの証拠ゲット」
「幻!?」
幻がどうしてここに……。
「おいっ……お前。今何を撮ったんだ」
「何って、教授が陽菜を殴ろうとしたところだけど?」
「今すぐ消せ! 盗撮は立派な犯罪だぞ!」
「罪を犯してるのはどっちだよ」
「なっ……何を言う」
そうだよ幻。
いつもと雰囲気が違う。
今日の幻は、何故か苛立っているように見える。
「名誉毀損罪、侮辱罪、あぁ……著作権侵害罪も含まれるかもね」
それって……。
「御影教授、どうして嘘なんかついたんですか?」
「私は嘘なんか……!」
「へぇ……。これを見てもそんなことが言えるのかな」
そう言いながら、幻は御影教授に何やら難しい資料を見せる。
「……こ、これは!」
そこには、お父さんの研究資料と、御影教授の研究資料がまとめられていた。
「……同じ内容?」
パッと見ただけでは違いが分からないほど、二つの資料は似ていた。
日付を確認すると、
「ほら。発表日は黒崎教授の方が前だろ」
それってつまり、御影教授が不正をしたってこと?
「そ、それは……! 私が発表する前に黒崎が!」
「あぁ、そう言えば。最近発表した移植に関する論文。それも元々は御影教授の研究って言ってたっけ? じゃあその内容を詳しく言ってみろよ」
「……うっ」
何も答えられない。
ということは、やはり御影教授は嘘を付いていたのだ。
「そう言うお前だって、そのコピーは違法じゃないのか!」
「あぁ、これ? ちゃんと文献複写申込書出してるし、勉強するためにとったコピーだから全く問題ないよ」
心理学部の学生が医学部の勉強を……?
いや、それはどうでも良くて。
教授がそのことに気付けないということは、よっぽど焦っているに違いない。
「パワハラをしていたのも御影教授だろ?」
御影教授は肩を震わせている。
マズイ。
これ以上怒らせたらどうなるか分からない。
「幻……もう良いよ」
「は? 良いわけないだろ」
「もう良いから!!」
幻は、私の声にかなり驚いているようだった。
「御影教授、すみません。私たちは失礼します」
あまりにも怖くて、後ろを振り返ることさえできなかった。
恐らく、教授がこのことを口外することはないだろう。
そうすれば、自分の不正がバレてしまうから。
しかし、どんな腹いせが待っているか分からない。
「……な。おい、陽菜……。陽菜!」
「えっ……何?」
「腕、痛い」
「あっ、ごめん……」
どうやら、幻の腕を強く握っていたようだ。
「一人であんな無謀なことをして、何かあったらどうするつもりだったんだ」
「それはこっちのセリフだよ! どうして教授を刺激するようなことを言ったの? さっきの幻、幻らしくなかったよ!」
思わず大声で叫んでしまう。
「それは……! ごめん。一度話し出したら止まらなくなったんだ。今思うと確かに俺、冷静じゃなかったよな。止めてくれてありがと。あのままじゃ俺、ガチでヤバかったかも」
本当だよ。
さっきの幻は、私以上に危険な状態だった。
「……幻はそんなこと言われたくないと思うけど、幻って私のお兄ちゃんに似てる」
「どんなところが似てるんだ?」
「私のお兄ちゃんもね、一度話し出すと止まらなくなるの。医学に関しては特に。お兄ちゃん、最初は興味なさそうだったんだけど、段々と興味を示し始めて……」
私は、幻の顔を伺いながら話す。
「……続けて」
「だから、さっきの幻の姿が、お兄ちゃんに重なったの。お兄ちゃんもお父さんとよく研究の話をしてたんだよ。それこそ何時間もずっと。私は医学には全く興味はないけど、好きなことを話しているお兄ちゃんはかっこよかったな」
「黒崎のこと大好きなんだな」
「好き……なのかは、正直分からない。でも、人としては尊敬している。きっと、お兄ちゃんなら良いお医者さんになれるよ」
「……そっか。そうなんだな」
お兄ちゃんのことが嫌いと言った割には、何故か嬉しそうな顔をしていた。
その笑顔まで、お兄ちゃんにそっくりだった。
「でも、なんで不正のこと知ってたの? あの論文は私たちが入学する前のものだよね?」
一瞬、幻の表情が固まる。
「俺も黒崎教授のファンだからな。推しの作品は全部見たくなる」
「だからなんで医学部行かなかったのよ」と突っ込みたくなる。
でも、それはできなかった。
幻の表情は、大切な人を思う、あまりにも切ないものだったから。
そんなことを聞いたところで、今更何になると言うのだ。
「これから一人で帰るのか?」
「そのつもりだけど、どうかしたの?」
「なんかあったら怖いし、今日は俺が送るよ。黒崎は今学校に居ない時間だし」
「何で知ってるのよ……」
そんなことを言いながらも、確かに一人で帰るのは怖かった。
私は、幻の言葉に甘えて送ってもらうことにした。
他愛もない会話をしながら家へと向かう。
いつもの道が、あっという間のように感じられた。
「ただいま」
「おかえり……って、え?」
「どうも」
「あー……初めまして」
「二人って初めて会うの?」
「初めて、だな。一応」
じゃあなんでお兄ちゃんのこと嫌ってるのよ。
「陽菜にこんなイケメンな友人が居たとはな。送ってくれてありがとね」
「いえ。できれば毎日送ってやりたいところですが、すみません」
「良いのいいの。普段は俺が送るから」
何故か二人の間に火花が見える。
「あの……二人とも?」
「……あ、わりぃ。じゃあ俺はそろそろ戻るな。また明日な」
「うん。またね」
そう言って私たちは別れた。
「……あいつ」
もしかして、お兄ちゃんも幻のことを嫌ってる感じ?
全く……。
何なのよ二人は。
幻が帰った後、私は少し気になることがあり、医学書を手に取った。
「珍しいね。陽菜が医学書を読むのは」
「ちょっと気になったことがあるからね」
「医学のことなら、俺に聞いた方が早いのに」
それもそうだけど……。
「なんか聞きづらいじゃん」
「気軽に聞いてくれて良いんだけどな」
それでもやっぱり、医学のことはお兄ちゃんに聞くのは何か気まずさを感じた。
翌日、私はいつも通り大学に向かう。
昨日のこともあって、私は少し憂鬱な気持ちだった。
できれば今日は、御影教授に会いたくなかった。
「あれ、幻? どこに向かってるんだろう」
その時、幻の姿を見つけた。
話しかけようにも、到底そんなことができる雰囲気じゃなかった。
昨日のこと、まだ引きずってるのかな。
とにかく、今日はできるだけ医学部エリアに近付かないようにしよう。
講義が終わり、帰ろうとした矢先だった。
「……あれ、なんで私ここにいるんだっけ」
気が付くと、いつの間にか医学部エリアに来ていた。
ダメだな。
ボーッとしてると、つい道を間違えてしまう。
今日は早く帰って休もう。
そう思い、医学部エリアを後にした。
ガサッ
「ん? 誰かいるの……?」
今何か音が聞こえたような……。
まぁ、気のせいだよね。
もしくは風の音だったのかも。
そんなことがあった次の日。
悪夢が再び繰り返されることとなる。
御影教授が、研究室で亡くなっているのが発見された。
〜重ねられる嘘〜
「続いてのニュースです。昨日、桜庭大学の教授である御影和樹が研究室で亡くなっているのが発見されました。御影教授は、パワハラ、不正疑惑が上がっており、捜査が入る矢先の事件でした。桜庭大学では昨年も教授が亡くなっており、警察は関連性を含めて捜査を進めています」
***
大学に行くと、何やら医学部の方が騒がしかった。
「どうかしたんですか?」
私は、近くに居た学生に尋ねた。
「あなた、ニュースを見てないの?」
「ニュース……?」
今日は起きるのが遅くなってしまい、急いで準備をして家を飛び出した。
だから、テレビを観る余裕などなかったのだ。
「御影教授が亡くなったらしいの」
「えっ……!」
御影教授が……?
耳を澄ますと、様々な声が聞こえてきた。
「どうやら即死だったらしい」
「医学の知識あるやつの可能性があるって聞いたぞ」
「マジ? ウチらの中に犯人いるとか? 怖ぁ……」
「そういえば、御影教授不正してたらしいよ」
「やっぱり? それなのに黒崎教授に罪をなすりつけようとしてたのね」
「誰の恨み買ったんだろうな」
みんなが口々に御影教授を非難する。
確かに私も苦手な教授だったけど、亡くなったって言うのに、ここまで言うものなの?
私は、その現実が恐ろしく感じた。
「ねぇ、あなた大丈夫? 顔色悪いけど」
「だっ、大丈夫……です」
一体何があったというのだ。
気が付くと、私は研究室の方に向かって走っていた。
「ちょっと! どこに行くの!」
そんな声が聞こえた気がしたが、今の私の耳には届かなかった。
研究室の辺りには警察が沢山居た。
やっぱりこれは、自然死ではなく事件だったんだ。
その時、一人の刑事に声をかけられた。
「どちら様ですか?」
「あっ……えっと、ここの学生です」
「そうですか。こちらにはどのようなご用件で」
確かに。
ここに来て何ができるというのだ。
「高橋、誰か来たのか?」
「ここの学生らしいです」
「医学生か? ……って、陽菜さんか。どうしたんだ?」
そう言ったのは、白井さんだった。
「先輩、この子知り合いですか?」
「あぁ、捜査の関係でちょっとな。黒崎達也さんの娘さんだ」
「黒崎達也って……あぁ! いや、すみません。大変失礼しました」
「いえ、大丈夫です」
お父さんの名前を出しただけで態度が変わった。
今更だけど、お父さんって本当に有名人だったんだな。
「でも、御影教授は黒崎教授に不正をなすりつけようとしていたと聞きました。その腹いせでうっかり……ってことはありませんか?」
「……えっ?」
「こら! 高橋、根拠もなく疑うのは失礼だろ!」
びっくりした。
急に疑われるのとか、慣れていない。
「ごめんな。コイツまだ新人で、疑り深いのは別に良いんだけどな。ただ、たまに度が過ぎることがあるんだ」
新人さんだったのね。
さっきは驚いたけれど、なんだか正義感の強そうな人だな。
「ちなみに、陽菜さんは昨日の午後は何をしていたかのな?」
「えっと、昨日は……」
「あぁ、疑ってる訳じゃなくて、一応これも捜査の一環だからな」
そうだよね。
えっと……昨日は……。
昨日の午後……。
「……」
「陽菜さん?」
「昨日は俺と一緒に居ました」
!!
後ろからお兄ちゃんの声が聞こえた。
「……お兄ちゃん」
「碧さんの話は本当かね?」
「はい。昨日講義が終わったら、直ぐに家に帰りました。だよな?」
「……はい」
正直、昨日のことはあまり覚えていないから、嘘を付いているようで後ろめたさを感じる。
でも、仕方がないよね。
昨日は疲れて直ぐに寝ちゃったし、それこそお兄ちゃんが嘘を付く理由はないから、本当のことなのだろう。
「そうか。ところで碧さんはどうしてここへ?」
「妹を探してたんです。ここに居るという話を聞いたので」
「それは引き止めて悪かったね。高橋! 二人を外まで送ってやれ」
「え! 大丈夫ですよ!」
「良いからいいから。高橋、頼んだぞ」
「分かりました」
そうして、高橋さんに連れられて私たちは玄関へと向かった。
「そういえば二人とも、"Malice"って言葉に心当たりあったりします?」
「Maliceって、放火の時の……」
「やっぱそう思うよね。実は、今回もその言葉が残されていたんです」
Malice……。
何かものを表しているのか、それとも名前なのか。
いずれにせよ、犯人の手がかりになるものに違いはなかった。
しかし、あえてその言葉を残した理由はなんだろう。
バレたくないのなら、その言葉は残さないはずなのに。
証拠は一切残さないのに、「Malice」という言葉だけを残すのは、どう考えても不自然だった。
「ここまでですね。貴重なお話、ありがとうございました」
「あまり、お力になれませんでしたが」
その時、人混みの中からこちらへ向かってくる人に気付いた。
「陽菜っ……! と、刑事さん」
「いや、俺も居るんだけど」
幻……あからさまにお兄ちゃんを無視するのね。
「君は……」
「取り乱してすみません。八神幻です」
「あぁ、あなたが。八神さんは御影教授の死亡推定時刻の直前にお会いしていたと聞きましたが」
「……俺を疑ってますか?」
「……あ。またやっちゃった。すみません。ぶしつけでしたね。自分の疑り深い性格が嫌になります」
「いえ、怪しい行動をした俺も悪いですから。でも、疑り深いのは悪いことではないと思います」
「八神さん……!」
まるで神を見るかのような目つきだった。
高橋さん、すごく純粋な人なんだな。
そして高橋さんは現場へと戻った。
「それで、陽菜がどうしてここに居るんだ?」
やっぱりこのまま帰してもらえないよね。
「それは……なんか警察が集まっていたから」
「だからって……!」
「ねぇ、さっきから陽菜にばっか言ってるけど、君こそどうしてここに居るのかな? 赤の他人の割には、陽菜を気にしているみたいだね。見られたくなかった?」
「こんな悲惨な光景、見ない方が良いのは当たり前だろ。黒崎こそまさか、陽菜をここに連れてきたとかじゃないよな?」
何故か喧嘩腰の二人。
「とっ……とりあえずここから離れよ。人目もあるし……」
私は周りからの視線が気になった為、一刻でも早くこの場を去りたかった。
「陽菜、申し訳ないけど、俺この後用事あるから先に失礼するな」
「分かった」
そうして、お兄ちゃんは早めにその場から立ち去る。
私たちも、自分の心理学部エリアに向かって歩き出した。
二人っきりになり、少し気まずい空気が流れたところで幻が口を開いた。
「……なぁ、黒崎のことだけど、あまり信用しない方が良いと思うぞ」
「どうして? 私のお兄ちゃんだよ?」
「……それでもだ。今は、誰も信用しない方が良い」
誰も信用しないって……。
「意味が分からない。お兄ちゃんが犯人だって言いたいの?」
「そこまでは言ってないだろ。それでも、何か危険なものを感じるんだ」
「そう? むしろ前より雰囲気が柔らかくなったし、私は今のお兄ちゃんの方が好きだな。確かに、たまに不思議なことを言うけど、そこまで気にしてないよ」
「今の兄が好き……か」
何故か幻は悲しそうな表情を浮かべていた。
「それより、お兄ちゃんのことは私がが一番良く知っているから。だから私はお兄ちゃんを信じてる」
「黒崎のことは黒崎が一番よく知ってると思うけどな」
「それは当たり前でしょ! お兄ちゃんを除いたら私が一番だよ」
そんなやり取りが続いたが、私のモヤモヤは晴れないままだった。
気にしないようにしても、さっきの幻の言葉が頭から離れない。
"誰も信用するな"
確かに、犯人が身近に居る可能性がある。
誰も信じるなって……。
幻のことも信じちゃいけないの?
その後の講義はなんとか無事終えることができた。
今日は柚葉を誘って一緒に帰ろうかな。
そう思った私は、改めて医学部エリアへと向かう。
「あ! 柚葉!」
「ひ、陽菜ちゃん? びっくりしたぁ……」
「そこまで大きな声出してないけどね。何してたの?」
柚葉は、エリアに向かう途中にあるベンチに座っていた。
何やら考え事をしていたようだ。
「ううん。ただ、ボーッとしてただけ。それより、どうしたの?」
「今日、一緒に帰らない?」
「もちろんいいよ!」
柚葉が立ったところで、お兄ちゃんの声が聞こえた。
「陽菜と柚葉ちゃんじゃん。今から帰りか?」
「うん。お兄ちゃんはあと一コマあるんだよね」
「あぁ、気を付けて帰れよ」
「じゃあ柚葉、帰ろうか。……柚葉?」
柚葉はまたボーッとしていた。
「……えっ、あ、ごめん! 陽菜ちゃん、少し碧先輩に話あるんだけど、待っててもらっても良い?」
「俺に?」
お兄ちゃんに話なんて何をするのだろう。
まさかこのタイミングで告白……は、ないだろうし。
「良いよ。じゃあここで少し待ってるね」
「そんな遠くでは話さないから。先輩、ちょっとこっちです」
そう言って柚葉は、少し離れたところにお兄ちゃんを連れて行く。
声は聞こえないけれど、顔ははっきりと見える場所だった。
「何話してるか気になる……。でも盗み聞きはダメって言われたし……」
私は、気になる気持ちを必死で抑えた。
「……お前、何考えてんだ」
……え?
何故か、その言葉だけははっきりと聞こえた。
今の低い声、お兄ちゃんのだよね?
ますます内容が気になっちゃうじゃん。
程なくして、二人はこちらに戻ってきた。
思ったよりも長い会話だった。
「お待たせ! それじゃあ帰ろうか」
「う、うん」
「先輩も、さようなら」
「……あぁ」
そこには、さっきの笑顔はなかった。
ずっと、二人で何を話していたのかを聞きたかった。
でも、聞いても何も教えてくれない気がした。
それに、柚葉のことを疑いたくない。
だから私は、何ごともなかったかのように柚葉に接するしかなかった。
その選択が間違いだったと分かったのは、ほんの数日後のことだった。
〜信じていた人〜
「ここで速報です。桜庭大学の教授が殺害された事件について、進展がありました。犯人と名乗る十九歳の女が、自首をしました。現在、女は取り調べを受けており、警察は慎重に捜査を進めています」
「犯人、自首したんだ」
十九歳……。
私と同い歳じゃん。
そんな人が殺人をするなんて、正直信じ難い。
「陽菜、ご飯できたぞ……って、は?」
「どうしたの?」
お兄ちゃんは料理を持ったまま固まっている。
「……どういうことだ」
「……お兄ちゃん?」
その顔は、信じられないという驚きを滲ませていた。
その時、突然スマホが鳴った。
「あ……幻からだ。ちょっと出てくるね」
「……あぁ」
お兄ちゃんは、何か言いたそうな表情をしていたが、「先に食べてていいよ」と伝えると、ご飯に手をかけ始めた。
「もしもし? 急にどうしたの」
『……大変だ!』
電話の向こうから、焦った声が聞こえる。
「どうした? そんなに慌てて」
『陽菜、ニュース見たか?』
「教授の事件のこと? なんか犯人が自首したみたいだね。安心した」
『そうじゃなくて……! ネットの記事読んでみろ!』
何をそんなに急いでいるのだろう。
不思議に思いながらも、言われた通りにネットの記事を漁ってみる。
テレビと似たような内容が書かれた記事を見つけた。
「……何、これ」
記事を読み進めると、コメント欄には信じられないような文章が溢れていた。
"この犯人、桜庭大学の学生らしいよ"
"そうそう。なんか黒崎教授が居るから進学したらしいけど、入学前に亡くなったじゃん"
"あーその話ね。うちの大学でも結構有名だよ。黒崎教授と御影教授が良く言い争ってたみたいで、黒崎教授を殺したのが御影教授なんじゃないかなって噂されてる"
"それってつまり、復讐ってこと? 怖っ。完全に洗脳されてんじゃん"
"そう言えば、犯人の名前「月城柚葉」らしいよ"
ガタッ
嘘……でしょ。
柚葉が犯人だって言うの……?
それにこの内容、きっとうちの大学の生徒が書いたものだ。
噂好きの奴らが、ゴシップを嗅ぎ付けて好き勝手話すことは良くあることだ。
しかし、こんな身近な人をどうして簡単に侮辱することができるだろうか。
情報が多すぎて頭がパンクしそうだ。
その時、何かを感じたのかお兄ちゃんがこちらに顔を出した。
「……陽菜? おい、陽菜! 落ち着け!」
「無理だよ……! 柚葉が犯人? そんなわけないじゃん! それにこの書き込みはなんなの! 消して! 消してよ……!」
お兄ちゃんは私を静かに抱きしめる。
「まずは落ち着け。それに柚葉ちゃんは犯人じゃないって信じてるんだろ?」
「……うん」
「なら、彼女を信じてやれ。陽菜が信じたいことを信じるんだ」
そう言いながら、私の背中を優しくさすってくれる。
しばらくして、いくらか呼吸が落ち着いたところで、お兄ちゃんは体を離す。
「……お兄ちゃんは?」
「ん?」
「お兄ちゃんも、柚葉は犯人じゃないって信じてるよね?」
「……あいつが犯人なわけないだろ」
何故かその声は暗いものだった。
その理由は分からなかったが、お兄ちゃんが言うのならきっと正しいのだろう。
いや、もしかしたらそう自分に言い聞かせていただけなのかもしれない。
翌日、私は警察署へと向かった。
お兄ちゃんに話すと絶対に止められると思ったので、一人でこっそりと向かう。
でも、警察署なんて来たことがないからどうすれば良いか分からない。
入口付近でウロウロしていると、一人の警官に声をかけられた。
「どうかしましたか?」
「あっ……えっと……。私、黒崎陽菜と言います。その……月城柚葉さんの件でお話があって来ました」
「黒崎……。あぁ! 月城さんのご友人の方ですね。それでしたら、只今担当の刑事を呼んで参りますので、少々お待ちください」
そう言われて、応接室へと案内された。
待っている間、一秒が一分。
一分が一時間のように感じられた。
そのくらい、私は緊張していたのだ。
その時、ノックの音が聞こえた。
思わずスっと背筋が伸びてしまう。
「陽菜さん、待たせたね」
「いえ、そんな……。お忙しい中すみません」
「良いんだ。これも捜査の一環のようなものだからね」
捜査……。
てことは、本当に柚葉は自首したんだ。
「あの……! 単刀直入に聞きますが、本当に柚葉が犯人なんですか?」
白井さんは目を丸くしている。
「本当にストレートに聞いてくるね。先日、月城さんが自首をしてきた。今はまだ、捜査の段階だ。取調べをしているところなんだ。まだ起訴はされていない」
️
「そう……ですか。柚葉が犯人じゃない可能性もあるってことですよね?」
「実はこちらとしても、彼女は白ではないかと考えている」
白井さんの話によると、柚葉は「御影教授を恨んでいた」「御影教授はパワハラ気質があって、それに耐えられなかった」などと、動機を詳細に話しているそうだ。
しかし、いざ事件について質問をすると、曖昧にしか答えることができなかったとのことだ。
「現場を隅々まで捜索したところ、『Malice』という言葉が残されていたんだ。この話は聞いてたか?」
「……はい。放火の時と同じですよね」
「あぁ。だからこの二つの事件は、同一犯だと考えている。月城さんはそっちの事件に関しては何も知らない、関与していないと言っている」
偶然同じ言葉が残された可能性や、複数犯と可能性は低いってことか……。
「だから、彼女は誰かを庇っているのではないかと我々は考えている」
「……庇う?」
「こちら側としては、彼女は犯人ではないと考えている。でも、何かを知っているのは確実だ。もしかしたら真犯人を直接見たのかもしれない」
「そこまでして庇いたい人って……」
柚葉が自分を犠牲にしてでも守りたい人……。
「それはまだ分からない。だから今は、彼女から話を聞くのが優先だ。慎重に捜査を進めるよ。冤罪を生むわけにはいかないからね」
……そうだよね。
これは私たち一般市民がどうこうできる話ではない。
詳しい捜査は警察にお願いして、私はただ真実が明らかになるのを望むことしかできない。
「……柚葉に会えますか?」
一回くらいは、柚葉と直接話したかった。
「今はまだ無理だ。明後日には面会できるようになるから、二日後の同じ時間にまた署に来てくれるか?」
「分かりました」
この二日間が、私にとってはとても長い時間に感じられた。
一体、どんな顔で会えば良いというのだろう。
それに、柚葉は誰を守ろうとしているの?
疑問はますます膨らむばかりだった。
柚葉に会えたなら、少しは気が晴れるのだろうか。
いや、この事件はそう簡単には解決できない。
ただの勘だけれど、私はそう感じた。