〜大嫌いな世界で生きる私たち〜

 テレビを点けると、やれ戦争だのやれ殺人事件だのと、暗いニュース続きで嫌になる。

 歴史を辿っても、ある者は戦場で名を()せ、ある者は戦場で命を落とす。

 また、ある者は暗殺され、突如この世界から去ってしまう。

 なぜ争いが起こるのか。

 なぜ殺し合いが起こるのか。

 明確な理由はないけれど、一つの理由として人の感情が関係しているのだろう。

 怒り、憎しみ、復讐心、あるいは利己欲も関係しているかもしれない。

 いずれにせよ、悪意は人の醜さを引き出し、呑み込まれてしまった人間は一瞬にしてモンスターへと化してしまう。

 しかし、世界にはそんな人間が溢れかえっている。

 それが現実だ。

 そんな負の感情に(まみ)れたこの世界が、私は大っ嫌いだ。



***



 20X‬X年8月

 いつもと変わらない朝。

 代わり映えのしないこの空間。

 今日も一日が始まった。

 トーストの良い香りで、私は目が覚める。

 「おはよう」

 「あら、おはよう。今日の陽菜(ひな)はお寝坊さんね」

 そう言う母の声は少し冷たかった。

 現在、私は夏休み真っ只中だ。

 休みの日くらいゆっくりしても良いじゃない。

 でも、そんなことも言ってられない。

 私は今年大学受験を控えているからだ。

 昨日も遅い時間まで勉強をしていたのだ。 

 「陽菜、おはよう。珍しいね。いつもは早く起きて勉強しているのに」

 そう話すのは、兄の(あおい)

 お兄ちゃんは私より二つ歳上で、桜庭大学の医学部へ通っている。

 頭脳明晰、博学多才、おまけに医学部のエースとも言われており、周囲からの期待を一身(いっしん)に背負っている。

 「ママー! お腹空いた!」

 甘ったるい声で話すのは、妹の莉子(りこ)

 莉子は私の五つ歳下で、もう中学生だというのにどこか子供っぽい。

 それでも、持ち前の愛嬌で家族のアイドル的存在だった。 

 莉子はメイクの道に進みたいらしく、美容系の動画をよく観ている。

 「今ちょうど完成したからね。はい! 今日の朝食はエッグベネディクト風トーストよ」

 そう言うお母さんは、ブログ用にと写真を撮り始める。

 お母さんは、料理研究家として食事の様子を定期的に投稿している。

 夫を支え、三人の子供を育てる母は、主婦達から絶大な人気を誇っていた。

 そんな私たちの父親は、ちょっとした有名人だ。

 「お! 始まったぞ」

 兄の声で一斉にテレビに視線が集まる。

 『それでは次に、臓器移植に関する研究を行ってきた黒崎教授、発表をお願いします』

 「わぁ……! パパだ!」

 画面に映っている男性こそ、私たちのお父さんだ。

 『桜庭大学医学部教授の黒崎達也(くろさきたつや)です。私は臓器移植後の合併症について研究を行ってきました』

 「やっぱ父さんは凄いよなぁ。俺も見習わないと」

 今も十分凄いのに、これ以上何を見習うと言うの?

 医学生である兄は、父の研究に釘付けのようだった。

 お母さんと莉子は、理解しているかどうかは分からないけれど、二人もテレビに釘付けだった。

 私はというと、そんな話には全く興味がない。

 臓器移植後の合併症?

 お父さんの研究が凄いものとは思うし、その研究によって大勢の患者が救われることになるのだろう。

 それでも、私にとっては関係のない話だった。

 「ちょっと、陽菜。ちゃんと聞いてる? お父さんの話に集中しなさい」

 いや、今は朝食の時間なんだからご飯に集中するべきでしょ。

 「はいはい。ちゃんと聞いてるよ。合併症について? へぇ、凄いね」

 正直あまり聞いていなかった私は、適当に返事をする。

 「はぁ……全く。陽菜も受験を控えているのに、こんなんで大丈夫かしらね」

 私はつい最近成人を迎え、数ヵ月後には大学受験も控えている。

 受験先はもちろん桜庭大学だ。

 だけどそこに自分の意思はなかった。

 ただ親が決めたから、兄のようになることを期待されてていたから、同じ大学を選んだ訳だ。

 「陽菜なら大丈夫だよ。毎日勉強頑張ってるじゃん」

 お兄ちゃんに言われても説得力はなかった。

 「……大丈夫だよ。この前の模試もA判定だったし」

 「それならいいんだけど。でも、油断したらすぐに成績落ちるんだから気を抜かないのよ?」

 お兄ちゃんや莉子にはそんなことを言わないのに、なんで私にばっかり……。

 私だって特別頭が悪い訳じゃないんだし、別に良くない?

 「うん。分かったよ」

 言い返しても無駄だと分かっていたので、適当に受け流すことにした。

 そんなやり取りの中でも、莉子はテレビに釘付けだ。

 ほんと、お父さんのことが好きなんだね。

 そんなこんなで、私はとっくに朝食を食べ終えてしまった。

 「ご馳走様。上で勉強してくるね」

 「はーい」

 聞こえてるのかどうか分からない空返事をされる。

 これが私の日常だ。

 ありふれた家庭。

 いや、少し裕福な家庭なんだろうけれど、面白みもなく、ただ時間が過ぎていく毎日。

 こんなつまらない日常が、これからも当たり前に続いていくと思っていた。

 ……あの事件が起きるまでは。

 どこから間違えてしまったのだろう。

 もしかしたら、既に歯車が狂い始めていたのかもしれない。
〜悪夢の始まり〜

 逃げるように自分の部屋に戻った私は、食事の時間以外は部屋に引きこもって勉強をした。

 辺りが真っ暗な闇に包まれた頃。

 勉強ばかりで流石に疲れてしまった。 

 気分転換に散歩でもしてこようかな。

 都会の少し肌寒い夜のことだった。 



 私は出歩くことがあまり好きではなかった。

 外に出ると、知らない人から声をかけられることがある。

 私自身は有名ではないけれど、お父さんが有名な教授だから。

 お父さんは、私たちの名前をメディアに何回か出したことがある。

 しかも顔写真付きで。

 全く、一般人からしたらとんだプライバシー侵害だよ。

 そんなこともあって、その記事を読んだことがある人はたまに私に声をかけてくるのだ。

 「黒崎教授は家ではどんな感じ?」とか、「やっぱり娘さんもお兄さん同様医学の道に進むの?」とかを聞いてくる人がいる。

 そんなことを聞かれたって、私が答える義理はないというのに。

 でも、お母さんからはうちの評判を下げないようにと言われ続けている。

 適当にあしらうこともできなかった。

 そういう訳で、できるだけ外に出ることは控えていたのだ。

 しかし、何を思ったか今日だけは違った。

 もう辺りは真っ暗だし、流石に声をかけてくる人もいないだろう。

 そう思った私は、薄手のパーカーにスウェットパンツというラフなスタイルで、都会の夜へと飛び出した。



 どれくらい歩いただろうか。

 特に決まった行き先もなく、ブラブラと歩いていた私は、薄暗い裏路地へと続く道の前で足を止めた。

 「こんなところに道なんてあったっけ?」

 その瞬間、何かに導かれるように裏路地へと足を踏み入れた。

 何もない暗い場所。

 ビルの明るさも、車が通る騒々しさも何もない、ただ静かな場所。

 一瞬怯んでしまったが、私の足は止まらず奥へと進む。

 「ところで、この道どこまで続いてるの……」

 そんな私の呟きも、暗闇の中にあっという間に消えてしまう。

 やっと開けてきたかな。

 そう思っていると、黒い影が見えた。

 「……何、あれ」

 私は少し怖くなった。

 やっぱりもう戻ろう。
 
 私は来た道を戻ろうと後ろを振り返ると、

 「……うぅ」

 !!

 人だ。

 今、間違いなく人の声がした。

 どうしよう。

 このまま聞かなかったことにもできるが、私の良心が残っていたのか、恐怖はそっちのけで、影の方へと向かった。

 「だっ……大丈夫ですか?」

 返事がない。

 私はもう少し近付いてみる。

 「あの……!」

 ピチャ

 ん?

 ピチャ?

 生々しい音が聞こえた。

 驚いた私は恐る恐る下を見る。

 「……ッ!!」

 そこは辺り一面鮮やかな血で染まっていた。

 そして、目の前には血だらけの男が壁にもたれて座っていた。

 いや、無理無理!

 こんな血だらけの人をどうしろと?

 「と、とりあえず救急車……!!」

 私はガタガタ震える手でスマホを取り出した。

 「えっと……。番号は……」

 ガシッ

 「ヒィィ……!」

 番号を押そうとした瞬間、何者かに腕を掴まれた。

 いや、何者かじゃない。

 目の前にいるこの男に手を掴まれたのだ。

 信じられない。

 こんなに血だらけなのに、意識があるわけがない。

 ガタガタ震える私をよそに、その男はゆっくりと顔を上げる。

 マズイ。

 目が合ってしまった。

 「ねぇ……。今、何しようとしたの?」

 ……ッ!

 話してる?

 それも普通に。

 訳が分からなかった。

 逃げようとするも、恐怖で足が動かない。

 何よりこの足元の気持ち悪い状態を何とかしたい。

 「……え?」

 何……。

 どういうこと?

 あんなに真っ赤に染っていた空間が、今はなんともなっていない。

 それに、目の前のこの人も、血はおろか傷跡さえ全く見当たらない。

 「ホッ……」

 安心した私はその場に倒れ込んでしまった。

 「大丈夫? 怯えたような顔をしていたけど」

 「いえ、一瞬血が見えたような気がして……」

 「えぇ? そんなもの全然なかったけど?」

 「でも確かに……!」

 「キミは何も見てない。そうでしょ?」

 何故かその声が脳に響く。

 何も……見てない。

 ナニモミテナイ。

 その言葉が私に暗示をかけたかのように、ここが血塗れだったことを忘れてしまった。

 「ところで……どうしてこんな所にいるんですか?」

 ここは薄暗いし、人通りも少ない。

 普通ならこの場所に居続けようなんて思わないだろう。

 「それはこっちのセリフだなぁ。どうしてここに来れたのかな?……陽菜ちゃん」

 !!

 「どうし、て……」
 
 「あはは! 驚いた顔してるね。黒崎陽菜十八歳。大学教授の父と、料理研究家の母の元に生まれる。五つ下の妹と二つ上の兄が居る。どう? 間違ってないよね」

 間違っていない。

 でもどうして?

 初めて会うこの人が、どうして私のことを知っているの?

 怖い。

 今すぐこの場から離れたい。

 私の足、早く動いて!

 「あ! ボクだけ君のことを知ってるのはなんかズルいかな? ボクの名前はねぇ、マリスって言うんだぁ。覚えておいて!」

 いや、どうして私がこの人の名前を覚えていないといけないの?

 てかマリスって外国の名前かよ。

 そんなことを突っ込んでいる暇はなかった。

 ようやく動いた足で必死にその場から離れる。

 「えー。もっと話したかったのに。まぁいいや。またね! 陽菜ちゃん!」

 やめて。

 私の名前を呼ばないで。

 「……やっとボクに会いに来てくれたね。陽菜ちゃん」
 
 マリスとかいう奴が、最後に何かを呟いたような気がしたけど、そんなことを聞いている余裕はなかった。



 必死で走ってその場から離れた。

 ……つもりだった。

 「えっ?」

 確かにその場から離れることはできた。

 ただ、何かがおかしい。

 あんな奥に入り込んだと思っていたのに、裏路地を抜けるのはあっという間だった。

 いや、それだけじゃない。

 さっき来たはずのあの道が消えているのだ。

 後ろを振り返ると、そこにあるのはただのコンクリートの壁だけ。

 「どういうこと……。確かに私、ここから出てきたよね?」
 
 嘘なわけがない。

 だってあんなにも鮮明に……!

 「……鮮明に? 何をしてたの?」

 意識がフッとどこかに飛んだかのように、体験した出来事をすっかり忘れてしまっていた。

 「……マリス」

 不思議とその言葉だけは脳裏にこびりついて離れなかった。

 ふと時計に目を向けると、時間は全く進んでいない。

 「ちょっとボーとしちゃってたみたい」

 寒さも増してきたため、私は帰路へとつくことにした。

 「そういえば、なんで散歩してたんだっけ?」



***



 キィィ……

 家に着くと、できるだけ音を立てないよう静かに扉を開けた。

 こんな時間に外に出ていたことがバレたら、間違いなく怒られる。

 「……バレてないよね」

 「誰にバレてないって?」

 ガタッ

 「バカっ。音立てたら気付かれるだろうが」

 びっくりした……。

 こんな時間なのに、お兄ちゃんが起きていたなんて。

 「お兄ちゃんがまだ起きてるの珍しいね。驚いた」

 「それはこっちのセリフだ。こんな真夜中にどこいってたんだよ。バレたら間違いなく怒られるだろ」

 優等生のお兄ちゃんでもそんなことを考えるんだ。

 「ほら。いくら夏でも夜の外は冷えるだろ。早く中に入れ」

 「うん」

 お兄ちゃんに促されて、私は静かなリビングへと向かった。

 「それで。どうしてこんな時間に出歩いてたんだ? いつもなら勉強してただろ?」

 勉強、勉強って……。

 私はお兄ちゃんと違って好きで勉強をしてるわけじゃないんだから。

 「別に。ただ勉強ばっかで疲れたから。私ももう成人したし、外に出て少し息抜きでもしてこようかと思っただけ」

 「いくら成人したと言えど、まだ高校生だろ。都会の夜は危ないからひとりで出歩くなよ」

 え、まさか……。

 「心配してくれてるの?」

 「はぁ? 何言ってんだよ。当たり前だろ。いつも付いてるはずの電気が消えてたから覗いてみたら陽菜が居ないんだもん。そりゃあ驚くわ」

 お兄ちゃんが驚いてるところ、見てみたかったな。

 それにしても意外だった。

 私と真逆の性格のお兄ちゃんは、私のことなんか全く気にしてないと思っていたから。

 でもこんな風に心配をされるのも悪くはない。

 「ほら、陽菜も早く寝な。母さんと父さんには黙っておくから」

 「……ありがと」

 本当はまだ眠くなかったけど、相当お兄ちゃんに心配をかけたみたいだから、私は大人しく従うことにした。

 「あ、お兄ちゃん。一つ質問があるんだけど」

 「どうした?」

 私には理解できなかったけど、頭の良いお兄ちゃんなら、この意味が分かるかもしれない。

 「多分英語だと思うんだけど"マリス"ってどういう意味か分かる?」

 その時、お兄ちゃんの表情が一瞬変わった気がした。

 「マリス? 何だ。お前不良にでもなったのか?」

 「馬鹿にしてる?」

 なんで単語を聞いただけで、不良になったかって返答が返ってくるのよ。

 「いや、別に。てか大体そんな単語どこで聞いてきたんだよ」

 「それは……。あれ? 確かに。どこで聞いてきたんだっけ」

 どこかで聞いたような気がしたのだが、おかしなことに、それがどこで聞いた言葉なのかは思い出せない。

 「記憶力ニワトリ並かよ」

 はぁ?

 別に少し忘れただけで、そこまで言わなくてもいいでしょ。

 「あーあー。お兄ちゃんに聞いた私が悪かったですよ」

 せっかくお兄ちゃんを見直したところなのに、どうして自分から好感度下げるようなことを言うのだろうか。

 「ごめんって」

 そう言うお兄ちゃんの声も、少し震えていた。

 ほら、やっぱり馬鹿にしてるじゃない。

 「でも実際、お前にとってその程度の言葉だったってことだろ? 日常生活でも使わないし、意味なんて知らなくていいよ」

 そういうものかなぁ。

 釈然としないが、これ以上反論ができなかったため、深くは追及しないことにした。

 「おやすみ」

 「あぁ。おやすみ」

 馬鹿にされたような気がしたが、何故かその声からは温かみを感じた。

 全く眠くなかったのに、布団に入った瞬間睡魔が襲ってきた。

 そして一分も経たないうちに眠りに落ちてしまった。

 それはまるで、暗闇へと誘われるような感覚だった。
〜不思議な出会い〜

 不思議な出来事を体験した翌日。

 今日は昨日と違い、早起きができた。

 いつもの習慣で、私は勉強を始める。

 一時間ほど時間が経ち、私はリビングへと降りた。

 「おはよう」

 昨日の今日だ、きっと今日も何か言われるのだろうと思っていた。

 「おはよう。勉強してたんでしょ? 座って待ってていいわよ」

 あれ?

 今日のお母さんは、なんだか機嫌が良さそうだ。

 「分かった」

 そう言って私はリビングへと向かう。 

 げ、お父さんが居るじゃん。

 厳格な性格だから少し怖くて苦手なんだよなぁ。

 そんなお父さんは、お兄ちゃんと楽しそうにお喋りをしている。

 きっと昨日テレビで話していた研究の話でもしているんだろうな。

 そんなことを思い、リビングの扉を開く。

 「陽菜、おはよう」

 「うん。おはよう」
 
 どうやらお兄ちゃんはいつも通りみたいだ。

 そして、恐る恐るお父さんの方を見る。

 「おはよう」

 その声は、思ったよりも明るい声だった。

 お父さんも機嫌がいい感じ?

 それはそれでなんか怖いけどね。

 「じゃあ陽菜も来たことだし、俺は莉子を起こしてくるな」

 え、待って待って。

 行かないで。

 お父さんと二人っきりにしないでよ。

 本当に気まずいから。

 そんな私の気持ちをお兄ちゃんが知る由もなく、リビングには私とお父さんの二人っきりになってしまった。

 しばらく沈黙の時間が続いた。
 
 「陽菜、昨日のテレビは観たか?」

 その沈黙を破ったのはお父さんだった。 

 「テレビって、お父さんの研究の話だよね」

 「あぁ、陽菜はどう思う?」 

 さっきまで、お兄ちゃんと話していたんでしょ。
 
 何言っても比較されちゃうじゃん。

 正直、何とも思っていなかったので、呆れられるのを覚悟で正直に伝える。

 「……私はお父さんやお兄ちゃんと違って、専門的なことは分からないけど、きっと、これから沢山の人を救う研究になるんじゃないかな、とは思う」

 もっとちゃんと説明しろとか怒られるだろうな。 

 「そうか。陽菜にそう言ってもらえると嬉しいな」

 ……え?

 本当に、今日のお父さんどうしたのだろう。

 「うちの大学にさ、人間の細胞を研究している人が居るんだよ。御影ってやつなんだけど」

 「……うん」

 「本当に、才能があるから一緒に研究してみたいって思ってるんだ。ただ、あいつは……。いや、気にするな」

 なんで言いかけてやめるのよ。

 気になっちゃうじゃん。

 そんなことを言って、医学に興味があると思われたら困る。

 私は確かに桜庭大学を目指しているけれど、医学部に入りたいわけではない。

 だから今まで、当たり障りのない返答を続けてきた。

 お母さんやお父さんの機嫌を損ねたくなかったから。

 しかし、今日はいつもと違い優しさを感じた。

 受験を控えている私を気にかけてくれてるのかな?

 そうに違いない。

 いや、そうであってほしい。
 
 理由は分からないけれど、優しくされて嫌な気はしなかった。



***



 夏休みも終わりに近付いてきた頃。

 あれからずっと家で勉強しかしていなかった。

 私は、気分転換に近所の公園に行くことにした。

 家から歩いて数分ほどで着く場所にあり、小さい頃はよくそこで遊んでいた。

 あの頃は広いと感じていた公園も、いつの間にか狭いと感じるようになっていた。

 時が経ったのだと実感する。

 私は、入口近くのベンチに座った。

 何をするわけでもなく、ただボーッとするだけ。

 たまには勉強だけでなく、こんな風に何も考えないで過ごす日も良いかもしれないと思った。

 その時、誰かの足音が聞こえた。

 「近所の子供が遊びに来たのかな」と思ったけれど、それよりは歳上の足音に聞こえた。

 そして、その足音は私の目の前で止まった。

 「……?」

 私はゆっくりと顔を上げる。

 「えっと……どうかしましたか?」

 「……いや、人が居たから驚いちゃって。いつもはこの時間、誰も居なかったから」

 そう言いながら、彼は私の顔をまじまじと見てきた。

 えっ……何?
 
 もしかして、避けてほしいのかな?

 そう思い、私は慌てて立ち上がる。

 「すみません。今、帰りますね」

 「いや! 大丈夫だよ。みんなの公園なんだし、君もゆっくりしたいでしょ? 僕も隣に座って良いかな?」

 「ど、どうぞ」

 そうして、私たちは並んでベンチに腰を下ろす。

 ……えっと、これはどういう状況?

 どうして知らない男の子と並んで座っているのだろう。

 「……あの」

 「……はい!」

 急に声をかけられたので、声に力が入ってしまった。

 そんな私を見て、彼はクスクスと笑う。

 「そんなに身構えないで。ただ声かけただけじゃん」

 その言葉で、少し緊張が和らいだ。

 改めて見ると、彼は整った顔立ちをしている。

 それに、何となく親近感が湧いてきた。

 「……そんなにじっと見られると恥ずかしいんだけど」

 「……あ! ごめんなさい」

 「君、面白いね。名前は? ……って、僕が最初に名乗らないとだよね。僕は八神幻(やがみげん)って言うんだ」

 そう言いながら、彼は地面に漢字を書いて見せた。

 まぼろしと書いて、「(げん)

 珍しい苗字も相まって、なんだか儚げな名前だった。

 「私の名前は黒崎陽菜」

 私も地面に名前を書いた。

 「陽菜……ちゃんか。良い名前だね!」

 そう……かな?

 自分の名前だから、よく分からない。

 「陽菜ちゃんは今夏休み?」

 「うん。明後日からまた学校が始まるけどね。八神くんは?」

 彼がフレンドリーだからか、つられて私もタメ口で話してしまう。

 「僕もそんな感じかなぁ。てか、幻って呼んでよ! 下の名前で呼び合った方が友達らしいでしょ?」

 「友達らしいって……。私たち、さっき会ったばかりなんだけど」

 「細かいことは気にしない。僕、あんまり友達居ないから、友達になってくれると嬉しいんだけどな」

 こんなにフレンドリーなのに友達が居ないの?

 まぁ、人は見かけによらないって言うもんね。

 それに、わたしだって友達があまり居ないので、人のことを言えない。

 「……まぁ、良いよ」

 「やったー! あ、ちなみに陽菜ちゃんはどうして公園に来たの?」

 「なんでって……。公園に来るのに理由なんてある?」

 「そうだよねー。でもね、僕は理由があるんだよ。あんまり、家に居るのが好きじゃないんだよね」

 家に居るのが好きじゃない?

 何か、理由があるのだろうか。

 「僕、家族と仲が悪いんだ。最近は、勉強ちゃんとしてるのか。そんなんで大学行けるのかって、毎日言われてるの」

 「えっ……! 私も一緒。正直、息抜きにって思って公園に来たけど、家に居たくなかったってのも理由の一つなの」

 こんな共通点があったなんて……。

 「実はそれだけじゃなくてね、ほら……」

 そう言って、彼は服の袖をめくった。

 「え……」

 そこには痛々しい痣が隠れていた。

 「もしかして……虐待?」

 「……うん。たまに殴られる程度なんだけどね」

 「たまにって言っても、痛いものは痛いでしょ」

 実は私の体にも、覚えのない痣が残っている。

 でも、幻ほどではなかった。

 「うーん、でももう慣れたかな。それにほら! 陽菜ちゃんとこうして出会えたんだから、結果オーライ?」

 この人はポジティブなのか、能天気なのか。

 どっちにしても、私の身近には居ない珍しいタイプだった。

 「あ……そろそろ帰らないと」

 「もう帰るの?」

 もう少し話したかったのに。

 初めて会った人なのに、時間を忘れるほど話をしていたことに驚いた。

 「うん。帰らないと怒られちゃうからね」

 「……大丈夫なの?」

 「大丈夫だよ! じゃあまたね!」

 「……うん。またね」

 幻は手を振りながら帰っていった。

 本当に大丈夫なのかな……。

 それに、思わず「またね」と言ってしまったけれど、正直また会える保証はなかった。

 今日だってたまたま会えたのだし、連絡先だって交換していない。

 二度と会えないのなら、それは仕方のないことだろう。

 でも、もしまた会うことができたのなら……。

 その時は、私から話しかけてみようかな。
〜平凡な日常?〜

 夏休みが終わり、学校が再開した。

 周りでは挨拶が飛び交っている。

 「陽菜ー! おっひさー」

 「久しぶり」

 この子は(りん)ちゃん。

 私がいつも一緒に居る子。

 この子と、あともう一人よく一緒に居る子がいる。

 一年生の頃に話しかけられたから一緒に居るけれど、特に仲が良いかと言われれば、そうでもない。

 「お! 美波(みなみ)、おはよー」

 「おはよぉ! 陽菜ちゃんもおはよ!」

 「おはよう」

 相変わらず、美波ちゃんは元気だな。

 二人は明るい性格でクラスの中心的な存在だ。

 分かりやすく言えば一軍タイプといったところか。

 私とはタイプが違うのに、何故か三年間一緒に居る。   

 「そういえばさぁ、今朝のニュース見た? 指名手配犯がようやく捕まったらしいね」

 「見たみた! 理由が人生つまらなくて……とかだっけ? マジで、そんな理由で人殺すとか有り得ないっしょ」

 二人は朝から何物騒なこと言ってるのよ。

 「陽菜ちゃんもそう思うよね?」

 「えぇ……私?」

 急に話を振らないでもらえる?

 私、この手の話苦手なんだけど。

 「……どんな理由であれ、殺人はダメでしょ。罪人になるために生まれてきたわけじゃないんだし」

 「深いねぇ。じゃあ陽菜ちゃんは何のために生まれてきたと思う?」

 なんか規模広がってない?

 生まれてきた理由ね……。

 「何だろうね……。強いて言えば幸せになる為、とか?」

 「幸せになる為? 陽菜ちゃんって案外ロマンチストなんだね」  

 冷静を(よそお)ってるけれど、必死で笑いを堪えてるのバレバレだよ。

 そっちから聞いておいて、バカにするとか本当にやめてほしい。

 でも、本人たちは自覚がないんだろうな。

 それを指摘しない私も私だけど。

 そんなことを考えていると、凛ちゃんが違う話題を持ち出した。

 「テレビといえば、黒崎教授のニュースも見たよ! 陽菜のお父さんやっぱ凄いね!」

 「あはは……。ありがとう」

 「陽菜ちゃんも桜庭大学目指してるんでしょ? この前の模試の判定Aだって聞いたよ!」

 「ヤバっ! 異次元じゃん。マジウチらとは住んでいる世界が違うって感じ」
  
 それはあなたたちが勉強をしないからでは?

 しかし、やっぱり二人は悪気がなさそうだった。

 私は二人のグループに入れてもらっている立場だ。

 変に言い返して、いざこざができるのだけは避けたい。

 そんな私は、愛想笑いを返すことしかできなかった。



 何やかんやで、夏休み明け初日が終わる。

 夏休み中に人との関わりを避けていた私にとって、この空間は地獄でしかなかった。

 それでも、家よりは勉強に集中できる。

 そう自分に言い聞かせて、何とか乗り越えることができた。

 そろそろいつものお迎えの時間だな。

 そう思った私は、カバンを背負い、玄関へと向かう。

 その時、廊下でよく知っている声が聞こえた。

 「碧くん! 久しぶりだな。最近の調子はどうだ?」

 「お陰様で。最近は父の研究に携わる機会もあって、毎日充実しています」

 「黒崎教授と言えば、今テレビでも話題になってるもんね。碧くんにも期待してるよ!」

 「ありがとうございます」

 何でお兄ちゃんがここに居るの?

 一年生がチラチラとお兄ちゃんの方を見ている。

 あぁ……。

 卒業生って知らないし、お兄ちゃん、かっこいいからね。

 どうしよう。

 完全に出るタイミングを失った。

 その時、お兄ちゃんと目が合ってしまった。

 「お、陽菜。待ってたぞ」

 いやいや、待たなくていいから。

 何で来たのか分からないけど、何なら先に帰っていいから。

 しかし、見つかってしまったのならしょうがない。

 私は、渋々お兄ちゃんの傍に寄る。

 「陽菜さんも来たことだし、俺は仕事に戻るな。碧くん、ぜひまた顔を出してくれ。陽菜さん、さようなら」

 「……さようなら」
 
 なんか勝手に帰ることになってる?

 いやまぁ、帰るつもりだったけど。

 「お兄ちゃん、どうしてここに居るの?」

 「今日、母さん用事があって迎えに来れないって聞いてなかったか? 朝伝えたはずだけど」

 「……あぁ、確かに」

 「あぁ、って。俺の迎えじゃ不服なようだな」

 「いや、別に。じゃあ……今日はお願いします」

 お兄ちゃんのお迎えが嫌なわけじゃない。

 お兄ちゃんと学校で一緒に居るのが嫌なだけだ。

 お兄ちゃんはかなり優秀な為、常に比較対象にされてきた。

 それは、高校時代も例外ではなかった。

 おまけに、お兄ちゃんは私と違って愛想も良い。

 常に周りには誰かが居て、後輩たちからは憧れの的だった。

 そんな人と一緒に居れば、目立ってしまうのは当然のことだった。

 だから私は、お兄ちゃんから少し離れて歩く。

 「何だ? そんなに離れて」

 「……別に」

 「相変わらず無愛想だなぁ」

 そんなことを言いつつも、お兄ちゃんは私の歩幅に合わせて歩く。

 傍から見れば胸きゅんポイントなのだろうけど、私にとってはただの察しの悪いお兄ちゃんでしかなかった。

 たった一日の出来事だったのに、一気に疲れが溜まったような気がした。



***



 翌朝。 

 時刻は朝の六時。
 
 幻のことを思い出し、あの公園にもう一度行ってみることにした。

 まぁ、居るわけないよね。

 そんな軽い気持ちだった。

 しかし、いざ公園に着くと、同い歳くらいの男の子がベンチに座っている姿が見えた。

 幻だった。

 私はゆっくりと幻に近付き、声をかけてみる。

 「おはよう」

 「おはよう。朝早いね」

 それはこっちのセリフだ。

 私も早い時間に公園に来たけれど、幻は私よりももっと早くに来ていたことになる。

 「まだ誰も起きてない時に家を出てきたから。ゆっくり散歩でもしてきたいなって思って」

 「え! 奇遇だね。僕もだよ。いつも、どこ行くのって聞かれるから、バレないように出てくるしかないんだよね」

 私と一緒だ……。

 「今日はいつもより早めに家を出ちゃったけど、陽菜ちゃんに会えたからそれも良かったのかも!」

 「ごめんね。学校始まってバタバタしてて、あんまりここに来れなかったの。それに、正直居るとは思わなくて……」

 「あはは! そうだよねぇ。僕も陽菜ちゃんとまた会えるとは思わなかったなぁ」

 そう言う幻は、何やら嬉しそうに見えた。

 それに、以前よりも顔色が良い気がする。

 「何か良いことでもあった?」

 「どうして?」

 「前よりも顔色が良くなってる気がする。それに、痣も薄くなってきたよね?」

 まだ少し跡は残っているが、この調子でいけば、完全にとは言わなくても、目立たない程度には薄くなるだろう。

 「あぁ、そういえば前よりも殴られる数は減ってきたかも」

 そう言う幻の声はあっけらかんとしていた。

 「でもねぇ、辛い生活もあと少しだけ我慢すれば良いんだ!」  

 「どうして?」

 「もう少しで家族と離れられるからね」

 「卒業したら一人暮らしをするの?」

 「まぁそんな感じかなぁ」
 
 一人暮らしかぁ……。

 私も家族の元を離れたいって思うけれど、それを家族に説明できる自信がない。

 何より、お兄ちゃんだって実家暮らしだ。

 相談しても、私も実家から通えば良いと言われるのが目に見えている。

 「そういえば、幻ってどこの大学を受験するの?」

 「桜庭大学だよ。心理学部を目指してるんだ」

 「えっ……! 私も……。凄い偶然だね」

 こんな偶然があるのだろうか。

 私は幻に不思議なものを感じ始めた。

 「じゃあどっちも受かれば同級生になるわけだ! 勉強頑張んないとなぁ」

 「そうだね」

 幻だって私のお父さんが医学部の教授をしていることは知っているだろう。

 しかし、幻はそのことは一切触れてこなかった。

 私の周りの人は、当たり前のように私が医学部に進学すると考えていた。

 幻は、私を"黒崎教授の娘"ではなく、"黒崎陽菜"として見てくれている。

 会って間もない人が、こうして接してくれるのは不思議な感覚だった。

 しかし、それが堪らなく嬉しかった。

 「勉強のやる気が出てきたな。二人で絶対に合格しようね! 大学で再会できたら僕から声をかけるから!」

 「うん。私も頑張るね」

 そろそろ家族が起きる時間だ。

 幻の方もそうだったらしく、私たちはここで解散した。

 このやり取りが、試験の五ヶ月ほど前のことだった。

 いよいよ、試験本番まで残り一ヶ月を切った頃のことだった。

 当たり前に続くと思っていた日常は、ただの幻想に過ぎないということを実感することとなる。

 それが、私の運命(さだめ)だというように、一瞬にして世界は変わってしまった。
〜最初の異変〜

 その日は、近くの図書館に行って勉強をしていた。

 休日は、場所を変えて勉強するというのが私のスタイルだった。

 しかし、どうにも今日は集中できない。

 「……あれ、私寝ちゃってたのかな」

 一時間ほど勉強をしていると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 受験が近いというのに、なかなか気が引き締まらない。

 こんな私が嫌になる。   

 それよりも、なんだか悪い夢を見たような気がする。

 この状態で勉強を続けても意味がない。

 そう思った私は、まだ数時間ほどしか勉強をしていないが、家へと帰ることにした。

 家に近付いてくると、何やら辺りが騒がしい。

 その時、私の横を消防車が通り過ぎた。

 私は嫌な予感がした。

 急いで家に電話をかける。

 「……お願いだから出て!!」   
 
 しかし、いくら待っても電話は繋がらなかった。

 私は急いで家へと向かう。

 家に着くと、そこには衝撃的な光景が広がっていた。

 「……嘘、でしょ」

 目の前には大きな炎と煙が広がっていたのだ。

 私は急いで側へと駆け寄る。

 「何をしてるんですか! 危険です! 離れてください!」

 消防隊員の声が響く。 

 「でも……! 中に家族が居るかもしれないんです!」

 「この炎では中に入れません。まずは、火を消すことが優先です」

 そんな……。

 それまで待たないといけないってこと?

 「……陽菜!」

 その時、お兄ちゃんの声が聞こえた。
 
 良かった……。

 お兄ちゃんは無事だ。
 
 「家が燃えてるって連絡があったんだ。一体何があったんだ?」

 「……分からない。帰ってきたら家が燃えていて……。みんなと連絡もつかないし、何が何だか分からないよ……」

 どうして急に火事なんか起きたのだろう。

 少しずつ炎が小さくなってきた。

 それとは裏腹に、不安な気持ちは大きくなる一方だった。

 「隊長! 中に人が居ます!」

 「えっ……?」

 人ってまさか……。

 隊員が連れ出してきたのは四、五十代の男女と中学生の女の子だった。

 彼らは、間違いなく私たちの家族だった。

 「この方々のご家族ですか?」

 「……はい」

 「残念ですが、既に亡くなっております……」

 そんな……。

 確かに、家族が憎いと思ったことがあったけれど、死んでほしかったわけじゃない。

 家族との生活が当たり前に続いていくと思っていたのに、そんな考えは一瞬にして崩れてしまった。

 ただでさえ受け入れ難い状況なのに、追い討ちをかけるように衝撃的なことを知らされる。
 
 「ご家族の方かね?」

 警察の方が私たちに声をかけてきた。
 
 「はい。そうです」

 何も言えない私の代わりに、お兄ちゃんがそう答える。 
 
 「この度は、誠にご愁傷様です」

 その言葉を聞き、一気に辛い現実が押し寄せてきた。

 「亡くなられた方は、黒崎達也さん、美咲(みさき)さん、莉子さんで間違いないですか?」

 「……はい」

 「お二人がご無事なのは何よりです。近所の方から通報がありましたが、お二人はこの時間はどちらへ?」

 「俺は、大学に行ってました。妹は図書館で勉強をしていました」

 「図書館で勉強……。間違いありませんか?」

 「……はい」

 でも、どうしてそんなことを聞くのだろう。

 まるで、事件の捜査みたいだ。

 もしかして……

 「あの、刑事さん。これは事故じゃないんですか?」

 「おい、陽菜!」

 突拍子もないことを聞いているのは分かる。

 しかし、事故でここまで大きな火になるのだろうか。

 刑事さんは、苦しそうな表情をしていた。  

 「……恐らくこれは放火でしょう」

 その言葉が重くのしかかる。

 それってつまり、家族は殺されたということじゃない。
 
 「そんな……! 事故の可能性はないんですか?」

 「ないとは言いきれませんが、ゼロに等しいかと」 

 「どうして……!」

 流石のお兄ちゃんも取り乱している。
   
 「一つ質問ですが、"Malice(マリス)"という言葉が現場に残されていました。聞き覚えはありますか?」

 マリス……?

 どこかで聞いたはずなのに、思い出すことができない。

 「……分かりません」

 「そうですか。今のところ、これが犯人を特定する為の唯一の証拠です。何か思い出したら、何でも話に来てください」

 「……はい」

 私たちは、ボロボロとなった家の前に立ちすくんだ。

 どうやっても、この事実が受け入れ難い。

 「……ウッ」

 その時、激しい眩暈に襲われた。

 「陽菜……? 陽菜! 大丈夫か!」

 目の前が真っ暗になる。

 私まで倒れちゃうとか、本当に情けない。

 「……ちゃん! ……陽菜ちゃん!」

 「……げ、ん?」

 お兄ちゃんの姿しか見えないけれど、そこに幻も居るの?

 あぁ……。

 嫌な姿を見せちゃったな。

 幻だって、この悲惨な光景は見たくないだろう。

 そこで私の意識は途切れてしまった。

 これが夢ならば、どれ程良かっただろう。

 私が過ごしていた時間が、全て夢であってほしいと何度願ったことか。

 しかし、これは紛れもない現実だった。

 私たちが生きているのは、日常さえも簡単に奪ってしまう世界。

 やはり、そんな理不尽なことが溢れかえっている世界が、私は大っ嫌いだ。



***



 「続いてのニュースです。昨夜、住宅が燃えていると近隣の住民から通報がありました。現場から三体の焼死体が見つかっており、検証の結果、黒崎達也さん五十歳、美咲さん四十七歳、莉子さん十三歳と断定しました。火元特定には至っておらず、警察は放火の可能性も含めて捜査を続けています」

 「……あ」

 ニュースを観ていると、お兄ちゃんが傍に来てテレビの電源を切った。
  
 「観るな。陽菜が辛くなるでしょ」️

 「……そうだよね」
 
 それでもやっぱり、気になってしまう。

 突然こんなことになるなんて、思ってもいなかったから。

 不幸中の幸いだったのは、保険金が下りたことと、私たちが働くまでの間を十分に賄える財産が残っていたことだ。

 その為、立派ではないけれど、一軒家を買うことができた。 

 「大学どうするんだ? 変えてもいいんだぞ」

 確かに、親に言われて桜庭大学を目指していたんだもんね。
  
 だけど……

 「今更変える気はないよ。ずっと、桜庭大学しか目指してなかったんだから」

 それより、尊敬していた人が死んでしまったのに、あまりにも冷静なお兄ちゃんに驚いた。

 家族を三人も失ったと言うのに、普段と変わらな過ぎじゃない?
 
 そんなことを聞いてみると、
 
 「確かに尊敬はしていた。でも、起きてしまったことはしょうがないじゃないか。それに、これからは気を張らなくていいと言うか……。いや、別に嬉しいわけじゃないけど、ただ、少しプレッシャーはあったからな」

 という返事が返ってきた。

 医者を目指している以上、死は何度も経験するだろうから、そんなに不思議なことじゃないのかな?

 でも、本当に殺される理由が分からなかった。

 確かに、私はあまり家族と仲が良くなかったけど、周りからの評判は良かった。

 明るくて、近所の人気者の莉子。

 優しくて、料理上手のお母さん。

 そして、研究熱心で真面目なお父さん。

 近所の人たちからは、そんなイメージを持たれていた。

 何か前触れがあったわけじゃないのに……。
  
 「警察も動いているんだから、そんな気にしないの。陽菜は受験が近いんだから、そっちに集中しろ」

 お兄ちゃんの言葉に静かに頷く。

 この時の私は、まだ知らなかった。

 この事件はこれから起こる悲劇の幕開けに過ぎないということを……。  
〜大学デビュー〜

 程なくして、私は無事桜庭大学に合格し、四月から学生として通うことになった。

 私は、予定通り心理学部に入学した。

 今日は、初めての講義の日だった。

 お兄ちゃんと一緒に大学へと向かう。
 
 「陽菜。覚悟しておけよ?」 

 「え?」

 突然そんなことを言い出すから驚いた。

 しかし、その言葉の意味をすぐに理解することになる。 

 「ねぇ、あの子じゃない?」

 「え! 絶対そうだよ! 碧さんと一緒に居るし」

 「やっぱそうだよね。うわぁ……やっぱり黒崎教授と碧さんの家族だね。すっごく美人……」

 何やら、コソコソ話しているのが聞こえた。 

 「ねぇ、なんかすごい視線を感じるんだけど」

 いたたまれない気持ちになった私は、お兄ちゃんにそう言う。

 「やっぱ有名人の娘であり、妹だからかな」

 何ニコニコしてるのよ。

 この空気苦手なんだけど。

 その時、女子グループが声をかけてきた。

 「ねぇねぇ! 君、名前はなんて言うの?」

 ……凄い陽キャ。

 「ひ、陽菜です……」

 このテンションについていけず、声が小さくなってしまう。

 あーあ。

 お兄ちゃんにまた陰キャとか、小馬鹿にされちゃうな。

 そう思い、お兄ちゃんの顔をチラッと見る。

 あれ……?

 何も言ってこない。

 流石に、人前では私のことをいじるわけがないか。

 一安心していると、さらなる追い打ちをかけられる。

 「名前まで可愛いじゃん!」

 「マジそれ! 陽菜ちゃんはさ、やっぱり医学部の学生?」

 「えっと……心理学部です」

 「えー! そうなの!? 何でなんでー?」

 この人たち、悪気はなさそうなんだけど……。

 それでも、ここまで問い詰められるとどう答えれば良いのか分からなくなる。
  
 「はいはいそこまで。陽菜ちょっとシャイだからさ、こういうの慣れてないんだよね。学部も、無理して俺に合わせなくて良いって言ったんだよね」

 今までただニコニコしていたお兄ちゃんが、ようやく声をかけてくれた。

 「シャイなの? そこも可愛いぃぃぃ!」 

 「やっぱり、碧さん優しいですね!」

 なんか、話が変な方向に行っている気がするけど、この地獄から開放されるのなら、何でも良かった。

 先輩たちは、笑顔のまま去っていった。

 良い人たちではあるんだけどなぁ……。

 「あれ? そういえば、お兄ちゃんに合わせなくて良いとか言われたっけ?」

 「それはまぁ、その場のノリだろ?」

 何カッコつけてるのよ。    

 「変なお兄ちゃん」

 お兄ちゃん、大学ではこんなにキャラだったんだ。

 「碧ー! おはよう!」

 しばらく歩くと、また別の人の声が聞こえた。
 
 「おはよう」

 お兄ちゃんが笑顔だ。

 お友達かな?

 「お! この子が噂の妹ちゃん?」

 「そうだよ」

 「どうも」と言って、一礼をする。

 「うんうん。兄貴と違って礼儀正しいねぇ」

 「俺と違ってって……」

 大学でのお兄ちゃん、どんな感じなんだろ。

 少し気になったが、さっきの態度を見る限り、少し貓被ってるのかな?

 そう考えると、少し可笑しくなってきた。

 「あ、妹ちゃん。少し兄貴を借りてもいいか?」

 「良いですよ」 

 「君の兄じゃないけどね。陽菜、ここからは一人で大丈夫か?」

 「大丈夫だよ。何回か来てるし」

 そう言って、私たちは別々の方向に向かって歩き出した。

 心理学部エリアに向かっていると、沢山の荷物を抱えた男性に出会った。

 「この大学の教授かな……?」

 少し、大変そうだ。

 私は、お手伝いをしようと声をかけた。

 「あの……手伝いましょうか?」

 「え……? あぁ、じゃあお言葉に甘えて」

 そう言って、教授は比較的軽いものを私に渡した。

 「この荷物を研究室まで運びたくてね」

 「研究室までですね。分かりました」

 私たちは並んで歩き出す。

 「見慣れない顔だけど、もしかして新入生かな?」

 「はい。そうです」

 「入学早々こんなこと頼んで申し訳ないね」

 「いえ、大丈夫です」

 というか、研究室ってどこのだろう。

 そんなことを思っていると、またもや質問がきた。

 「君は、どこの学生かな?」

 「心理学部です」

 その時、教授の足が止まった。

 「……どうかされましたか?」

 「いや! ますます申し訳ない。実はこれ、医学部エリアに持っていく荷物なんだ」

 医学部エリア……。

 「……逆方面ですね」

 「本当にすまない! ここまで運んでくれただけでもありがたいから、ここで戻っていいよ」

 「大丈夫ですよ。時間はまだありますし、ルートを覚える良い機会ですから」

 「本当に君は優しいんだね。親の教育が良かったのかな」

 別に優しくないし、教育って言ってもスパルタ教育だけどね。

 でも、いちいちそんなことを言わなくても良いので、ここは何も言わなかった。

 しばらく歩いて、教授の研究室に着いた。

 「ここだ」

 そう言って、教授は扉を開く。

 そこには、いかにも教授の部屋という感じの空間広がっていた。

 この人は、医学部教授なのね。

 「よし、ここに置いてて良いぞ。ありがとう。助かった」

 教授に促されて荷物をそこに置く。

 「そういえば自己紹介がまだだったな。私は御影和樹(みかげかずき)だ。医学部の教授をしている」  

 御影……。

 どこかで聞いたことのある名前だった。

 「今は人間の細胞に関する研究を行っている」

 あぁ、思い出した。

 お父さんがたまに話題に出していた人だ。

 「私は、心理学部に所属している黒崎陽菜です」

 教授だけが名乗るわけにはいかないので、私も慌てて自己紹介をした。

 「……黒崎」

 その時、御影教授の雰囲気が一変した。

 「どうかされましたか?」

 「……そうか。君が黒崎教授の娘さんか」

 同じ学部の教授なのだから、お互いのことを知っているのは当然のことだった。

 ただ、少し様子がおかしい。

 「来年には娘が入学するとか話してたのに、陽菜さんは心理学部に入学したんだな」

 お父さんが私のことを話してたの?

 でも、何でだろう。

 何故かこの人からは、お父さんに対する敵意が感じられた。

 「黒崎の娘だからどんなやつかと思っていたが、あいつの後を追って医学部に来ないあたりは、賢明な判断だな」

 態度が変わりすぎじゃない……?

 お父さんと御影教授は仲が悪かったのかな。   

 「そういえば、今年も黒崎教授の研究に興味があるって言ってた学生が入学したな。まぁ、当の本人はもう居ないがな」

 何……その言い方。

 酷すぎる。

 優しそうな教授だと思ったのに、そのイメージが一瞬にして崩れた。

 その後、私は追い出されるように研究室から離れた。

 沈んだ気持ちのまま、私は講義を受けた。

 初めての大学生活だったのに、全く楽しむことはできなかった。



 一日目の講義が終わり、家に帰ろうとした時だった。

 「……幻?」

 少し離れたところに、幻の姿が見えた。

 そういえば、入学したら幻から声をかけると言っていたのに、声をかけられていない。

 私も今思い出したから、幻だって忘れている可能性があるな。

 そう思い、私から声をかけることにした。

 「幻!」

 前を歩く幻に向かって名前を呼ぶ。

 しかし、どうやら聞こえてないようだった。

 そこで、今度はもう少し近くで呼んでみることにした。
 
 「幻! 久しぶり」

 「うわっ! びっくりした……。なんだ、陽菜か」

 「覚えててくれたんだね」

 しかも、いつの間にか呼び捨てになってる。

 一気に距離が近く感じて嬉しいな。 

 「忘れるわけないだろ。だって、あ……」

 どうしたんだろう。

 何か言いたそうなのに言葉に詰まっている感じがする。

 「……マジかよ」  

 「どうかしたの?」

 「あ、わりぃ。何でもない」

 高校生の時の幻と雰囲気が違うように感じる。

 でもまぁ、幻も大学生だから雰囲気変わることだってあるよね。

 「幻はさ、高校卒業してからすぐに一人暮らし始めたんでしょ? 慣れた?」

 「げん……? あ、俺のことか」

 「自分の名前、忘れることないでしょ」

 「苗字で呼ばれることの方が多いからな」

 幻の苗字、「八神」だもんね。

 かっこいい苗字だし、確かにそう呼びたくなる。

 一人称もちゃっかり「俺」に変わっちゃって。

 少し会わないだけで、一気に男の子から男性になった気がする。  

 「それで、一人暮らしのことだっけ? 完全に、とは言えないけど、少しずつ慣れてきたよ。でもやっぱり、たまに家族が恋しくなったりするけど」

 「幻って家族と仲悪くなかったっけ?」 

 それなのに恋しくなる……?

 「それはまぁ……やっぱアレだ。離れてから気付くってやつ?」

 それにしては、だいぶ親を嫌ってるような雰囲気があったけど。

 それでも、私は一人暮らしをしたことがないし、私自身も、家族を失って悲しかった。

 あまり仲は良くなかったけれど、少しは情が残っていたのだ。

 きっと、幻も同じ感じだろう。

 「とにかく、同じ学部に通うんだし、これからは同級生としてよろしくね」

 「そっか……。陽菜と同級生かぁ」

 「え? 何か文句あるの?」

 「いやいや! 俺は嬉しいよ。てか、口悪くない?」

 しまった。

 お兄ちゃんと話す感覚で幻と話してしまった。

 「ごめんって」

 知り合いが少ない私にとって、幻という友達が居るのはとても心強かった。

 それに、心做しか幻はお兄ちゃんと似た雰囲気を感じ、気兼ねなく話すことができたのだ。