獣道の果てに

 アルプス席の最上段まで埋め尽くされた球場は、異様な熱気に包まれていた。

 吹奏楽部の美爆音が轟くなか、オーディエンスは息を呑んでダイヤモンドを見つめている。

 バックネット裏から、俺は電光掲示板を見上げた。

 9回裏、仙台秀英と東北第一のスコアは3対2。あとアウト2つで、仙台秀英の5連覇。だが——。

 「まさかこういう展開になるとは……」

 隣で百野塁がつぶやいた。

 継投で6回からマウンドに上がった仙台秀英の投手が、一死から長打、単打を連続で浴びて、まさかの一死満塁。あとたった一本でもヒットが出れば、サヨナラ負けだ。

 百野は試合開始から膝の上にスコアブック、その上にスマホを置いてネット速報も見ながら配球のメモまでつけていたが、最終回の思わぬ展開にペンも止まっていた。

 グラウンドに審判の「タイム!」の声が響いた。三塁ベンチから、仙台秀英の監督が、ゆっくりと出てくる。

 「ピッチャー交代だな」

 百野がオペラグラスを首から外しながら言う。俺は無言で頷いたが、内心、同情した。

 可哀想に。こんな状況で登板させられるなんて。

 最終回一死満塁での1点リードなんて、なんの慰めにもならない。むしろ、そのリードが投手を追い詰める。

 絶対に1点もやれない。ワンヒットも、たった一つの四球も許されない。
 
 そういう局面で自分の投球ができる投手は、一体どのくらいいるのだろうか。

 甲子園に出てくる強豪校のエースですら、顔はこわばり、フォーム全体がひと回り小さくなり、油の切れたブリキの人形みたいな動きになってしまう。そうしてたいていは、四球で自滅するか、置きに行った球を綺麗にフェアゾーンに運ばれるか──。

 自滅。

 言葉にすると簡単だが、受け入れるのは容易ではない。それも、押し出しで負けることはただの自滅ではなく、周りを巻き添えにする。自爆テロみたいなもんだ。

 でも自爆テロのほうが、巻き込まれて死ぬ人間が仲間ではない分、ラクだろう。 押し出しは違う。汗を流し、寝食を共にしながら夢を語り合った仲間を死地に追いやる。最悪、命運を絶ってしまう。

 心ある人間なら、その罪悪感、やるせなさは計り知れない。押し出しサヨナラ負けで膝から崩れ落ち、しばらく立ち上がれなくなってしまう投手を何人も見てきた。

 球場アナウンスが、ゆっくりと選手交代を告げる。

 「仙台秀英高校の選手の交代をお知らせします。ピッチャー、江藤くんに代わりまして世良天馬くん。ピッチャー、世良くん。背番号18」

 ベンチから走ってきたのは、見覚えのない選手だった。

 世良天馬。聞いたことのない名前だ。

 足元に置いていたリュックから大会パンフレットを取り出して、その名前を探す。

 仙台秀英の世良、世良、世良……いた。
 
 名前を見つけたとき、アッと声をあげそうになった。

 思わず、百野のオペラグラスを引ったくる。

 「ちょ、何すんだよ」

 百野の抗議を無視して、マウンドへ向かうソイツを覗き込む。球審が、プレイボールと試合再開を告げる。

 ここで1年生——? いや、それよりも。

 ワインドアップ?

 心の中でつぶやいたつもりのカタカナ7文字が、うっかり声に出ていた。

 サヨナラのランナーが塁上にいるこの状況で、まさかのワインドアップ。

 信じられなかった。普通、こんな場面ならセットポジション一択だ。スクイズもダブルスチールも警戒しなきゃならない。なのに、あいつは——大きく振りかぶった。