清志が行きたがっていた郊外のアウトレットモールは、僕達の住む街から山を越えて、一時間半ほど車を走らせたところにある。道中はくねくねとカーブの多い山道や、田んぼしかない景色が広がる場所をひたすら走り抜けていくだけなので、だんだんと口数の少なくなっていた僕達も、目的地に到着すると、おおきく深呼吸をして、あれがほしいだのこれが食べたいなどと、盛んに言い合った。
 平日ということもあって、モールはだいぶ人も少なく、清志はすぐに目的のものが買え、上機嫌だった。
「あ、アキト、オマエ、これ買えよ!」
 にやにやと笑いながら清志が指さしたのは、スポーツ用品を取り揃えている店のウインドウに飾られていた、競技用の水着だった。
「なんでだよ」
 苦笑する。確かに僕は学生時代、水泳に打ち込んでいたが、今はもう現役から退いている。ごくまれに海やプールに行って泳ぐことはあっても、こんな本格的な水着を着用して泳ぐことは、たぶんもうないはずだ。
「もういらないよ、こんなの」
「ちぇっ。水泳やってるアキト、結構好きだったのにな」
 名残惜しそうにウインドウから目をそらした清志は、その次の瞬間にはすでに意識が別のものに飛んでいったらしく、僕の腕を引っ張ってたまたまそこにあったカフェにとびこんだ。
「ひと休みしようよ。オレ、喉乾いた」
「僕はお腹がすいた」
「ここ、パスタが旨いってよ。なんかネットで評判だった」
 店に入った途端出迎えてくれた店員が、面倒くさそうに喫煙の有無を聞いてくる。僕たちはどちらも煙草は吸わないから、その旨を伝えると、窓際の禁煙席に案内された。椅子に座ると、隣のテーブルに陣取っていた女子高生に見える女の子たちのグループ全員にこちらを見られたため、慌てて目をそらした。
 よく見ると、店内はカップルか女同士の客が多く、男同士なのは視界に入る限り、僕たちだけのようだった。
 お冷やを持ってきた女性の店員に、アイスコーヒー、アイスティー、そして本日のランチ(メニュー表には、高菜と牛肉の和風パスタ、コンソメスープ、チョコレートケーキと書いてある)を二つ注文した。
「こういうところって、男同士で来るところじゃなかったね」
 僕は、周りの人たちとは若干空気が違うこのテーブルに、なぜか負い目を感じながら言った。清志は「え?そうか?」と、全く気にしていない様子で、お冷やを飲んでいる。
「アキトはいちいち周りを気にしすぎなんだよ。べつに男同士での入店はご遠慮くださいって書いてあるわけじゃないんだから、もっと堂々としていればいいんだよ」
「そうするよ……」
 僕には自信が足りない。もっと、たとえば、目の前にいる清志のように堂々としていれば、いちいち他人の目なんて気にする必要もないんだろうか。

 料理が運ばれてくるまでのあいだ、僕達はなにをするでもなく、スマホをいじっていた。会話はない。かと言って別に気まずいでもなく、僕は二人のあいだに流れるこの不思議な空間が好きだ。
 清志は最近はまっているという、ソーシャルゲームをしている。ゲーム内のガチャガチャでキャラを当てて、そのキャラをはじくという、単純なゲームだ。清志はしきりに僕をそのゲームに誘ってくるが、僕はいまだに清志の誘いにのっていない。
「アキト」
 清志が突然顔をあげて、呼びかけてきた。
「好きでもない女に言い寄られてきたら、アキトならどうする?」
 突然話題が飛躍したものだから、僕は思わず笑ってしまった。それを誤魔化すかのようにお冷やのグラスを掴み、一口飲む。
「どうだろうね。僕は、臆病な性格だから、頭ごなしに突っぱねることは、出来ないかもしれない」
 出来ないかもしれないのではなく、出来ないのだと、心の中で訂正する。よく言えば人当たりがよい。悪く言えば八方美人。
 僕はよく他人の顔色を窺ってしまうから、男女の関係はなく、人にいい顔をしてしまうのだ。
「まあアキトはそうだよな」
 大袈裟に清志はため息をついた。そして、話の続きを促してほしそうに、こちらを見ている。僕はその視線に応えてやることにした。
「なんかあったの?」
「職場で、オレ、サッカーやってるじゃん。で、チームに部活のマネージャーみたいなことしてくれる女の社員がいるんだけどさ、そいつに今度二人で食事に行きませんかって誘われたんだよ」
「すごいじゃん。モテモテだね」
「だーかーらー、好きでもなんでもないヤツにそんなこと言われても困るんだよ。例えば一緒に飯食ったりしたら、脈アリだとかって勘違いされるかもしれないだろ」
 興奮する清志の言葉を遮るように、僕達が注文した料理が運ばれてきた。少し気まずそうな顔をして、清志は店員にぺこぺこと会釈をして料理を受け取っている。僕はそれを見て笑いそうになるのを堪えた。
 
 店員が去っていったあと、清志はフォークにスパゲティーを巻き付けながら、話の続きを始めた。
「オレは前から好きなヤツがいるんだよ。だから、興味のないヤツとは付き合ってられないわけ」
 初耳だった。コーンスープをすくいながら、僕は顔に出さないように驚いた。
「まあ、きっと、叶わないんだろうけどな、オレの気持ちなんて」
 清志の声の調子が落ちる。清志の気持ちに応えられない人なんて、一体どれだけ理想が高い人なんだろう。
「すぐに言うべきだったね、その時に。『自分には好きな人がいるから、ごめん』とかなんとか」
「だよなあ……」
 清志は、はあっと息を吐いてスプーンを手にした。それをスープの皿に沈め、くるくるとかき回す。クルトンが小さな渦に巻き込まれて、くるくると回る。
「あとは、食事だけ一度一緒に行って、そういう話になったときに断るとか」
「やっぱそうなるよなあ……あー、だりいなあ……好きでもない女のためにオレの貴重な休日が消えちゃうんだぜ……んがっ、このスープうまっ!」
 誰とでも隔てなく接する清志にも、他人との付き合いが面倒に感じるときがあるんだと、僕は少しうれしくなった。なぜ嬉しくなったのかは、わからない。自分と同じことを、清志も感じることが分かったからだろうか。それとも少なくとも僕は清志の『貴重な休日』と潰しているとは思われていないからだろうか。
 それから僕は平均的な味のスパゲティーをもくもくと食べながら、清志の仕事の愚痴を聞いていた。
 清志はスポーツジムで、インストラクターの仕事をしている。昔から彼は体を動かすのが好きで、高校時代には本格的にその道を目指すために勉強をしていた記憶がある。県外の体育大学に進学し、僕がシバイヌでせっせと荷物を運んでいる間に、たくさん努力をして、自分の夢を叶えたに違いない。スポーツが好きで、誰とでも分け隔てなく接することが出来て、明るい性格の彼にはぴったりの職業だと、僕は思う。

「アキトは最近、彼女とはどうなんだよ」
 ジムの利用客より、同僚や上司に対して、いろいろと不満が溜まっていたらしい清志は、突然話題を変えた。折角の休日にまで仕事のことは考えたくないと、思い直したのだろうか。あまりにも突然話題を変えたので、僕は飲んでいた水にむせそうになった。
「どうって、べつにどうもしないよ」
「そんなこと言って~、ほんとは毎晩ベッドでイチャイチャしてんだろ~?」
「そんな暇ないよ」
「え?……じゃあ一人でやってんのか?」
「ちょ!声が大きい!」
「それはアキトだろ。オレはいたって普通の声量」
 僕はにやにやと笑う清志の顔を見て、顔がカッと熱くなるのを感じた。ちらりと周りを見てみると、少なくとも僕たちの会話に聞き耳を立てているような人は見当たらない。

 僕の『彼女』は、西野里菜という。有名な二人の歌手を合わせたような名前の彼女は、僕より四歳年上の二十九歳。三十路になるまで一年を切ってしまったことが最近の悩みらしい。歳なんて時間の流れとともに誰もがとっていくものなのだから、そんなに悲観するものでもないと、僕は思うけれど。僕と同じシバイヌで働いているが、配達員ではなく、主に客からの電話などを取り次ぐ、カスタマーサービスの仕事をしている。出会いは社内で意気投合したのがきっかけで、僕達の仲は、たぶん営業所のほとんどの人が知っているだろう。
 お互いのシフトの兼ね合いもあって、プライベートで会えるのは週に一回ほどだろうか。それでも定期的に会えているのだから、もしかするとお互いの上司が示し合わせて僕達の休日を調整してくれているのかもしれない。

「職場が同じだから結構顔は見るけど、休みのときにたまに会うだけだから、毎日会ってるわけじゃないんだよ」
「そっかあ、オレはてっきり、毎日いちゃついてんのかと思ってた」
 僕は苦笑した。清志は僕をそんな目で見ているのだろうか。
「このあいだは一緒に映画を観に行ったよ。高校生の中身が入れ替わるやつ」
「あ、それオレも観たい!なんで誘ってくれなかったんだよ」
「キヨ、アニメ嫌いじゃなかったっけ」
「あんまし好きじゃないけど、めちゃめちゃいいって聞くからさ、どんなもんなんだろうって気になってる」
 清志はコーヒーをストローで吸い上げながら、もう一度「なんで誘ってくれなかったんだよ~」と言った。
「そんなに観たいなら、キヨの気になってるって人を誘えばいいじゃん」
 今度は清志がむせる番だった。
「いや、それは無理だ。ソイツも、その映画観たって聞いたし」
「残念。それなら、一人で観に行くしかないね」
「バカ。いい歳した男がアニメを一人で観るとか拷問かよ。いいよ、いつかテレビでやるだろうし」
「テレビだと、タダで観れるね!」
 清志はそうだなと、笑った。僕がいつまでも飲まないアイスティーの表面に、氷が溶けて水が張っている。慌ててそれを飲むと、なんとも言えない味がした。
「アキトはいいよなあ、好きな人と結ばれて!結局さあ、みんなみんな結婚結婚って、歳をとるにつれてそんな話題ばっか。お前ら、それしか頭にないのかよって、感じだよ」
「分かる。僕も、職場でよく言われる。お前らいつ結婚するんだよって。なんか、付き合うのと結婚とはまた違うと思うんだ。みんななにを焦ってるんだろうね。所詮は他人である僕がいつ誰と結婚するかなんて、べつにどうでもいいことだろうに」
「他人の不幸は蜜の味っていうけどさ、じゃあ他人の幸せはどうなんだろうな。ゴーヤの味ってか」
 清志はそう言ってケラケラと笑った。残念ながら、あまり面白くはない。
「まあ、お互い、いろいろ頑張ろうぜ」
「うん……」
 一体何を頑張るというのだろう。仕事か、恋か、それとも友情か。仕事はともかくとして、恋や友情なんてものは、それらを育むために頑張らないといけないものなのだろうか。

 自分は一体、何のために生きているんだろうと思う時がある。人間は、いつか絶対に死ぬ生き物だ。それなのに、どうして生きているのだろう。
 小説家は、自分の創りあげた物語を本にして、世に残す。俳優や女優になって、数々の作品に出演し、その姿を映像に残す。音楽を作って、人々の心に残るものを世に送り出す。スポーツの才能がある人たちは、その競技に打ち込み、華々しい活躍をする。
 そんなふうに、夢を掴んだ人たちは、自分が生きた証を、とてもよくわかりやすく、この世に残していく。それは才能と、運と、努力が実を結び、かたちとなってあらわれた結果だ。
 だが、僕を含めて、この世界に生きている大多数の人は、無名のまま、生涯をすごしていく。
 僕はこの世界で、あらゆる形の荷物を運び、誰かのもとへと送り届ける仕事をしている。社会の役に立っているとは思う。だが、例えば僕が急に死んだとしても、僕の代わりに誰かがその役目を継ぐ。僕がこの世界に生きていたことも、せいぜい周りのみんなが覚えているだけで、その他の大勢の人たちにはどうでもいいことだ。そればかりか、僕という存在すら知らない人たちのほうが、圧倒的に多い。社会は、僕がいなくなっても、何事もなかったかのように回り続けるだろう。
 小さな世界がたくさんあって、大きくなる。だからこの世界にはいろんな出来事や、人や、生き物があふれている。僕がシバイヌの制服を着て荷物を運んでいるということも、きっとこの世界を創るのに必要なことなのかもしれない。