マグカップの淵から、コーヒーが零れてテーブルにまで広がっている。それに気づいたのと、トーストが焼けた音がしたのは同時で、僕は一瞬迷ったあと、キッチンに入り、トースターの扉を開いた。零れたコーヒーは後ででも拭けるけど、焼きあがったトーストは、余熱で焦げてしまうかもしれないからだ。
程良く焼きあがったパンに、マーガリンを塗りながら、これがバターだとしたら、また違った味になるのだろうかと考える。考えるだけで、実際に試そうとは思わない。わざわざそのためだけにバターを買いにスーパーに走る気力もないし、僕はマーガリンでも、充分美味しいと思っている。
休みの日に、こんなに朝早く起きたのは久しぶりだ。夏だというのに、朝は幾分暑さも和らぐらしい。昨晩、冷房をつけ、部屋着にしている黒いハーフパンツしか身に纏わずに寝て、今も変わらずそんな格好でいるせいか、僕はくしゅんとくしゃみをした。
夜中にタイマーで切れたはずの冷房の冷気がまだ部屋に残っている。ずんと重くのしかかってくる暑さを無理やり追い払い、涼しくしてやったぞと言わんばかりのわざとらしい冷気に包まれながら、僕はトーストを一口かじった。
シャツも着ずに食事をするなんてはしたないと、ここに母がいれば口うるさく咎めてくるのだろうけど、生憎僕は、独り暮らしの身で、この家の中で何をしようと、それをとやかく言ってくる人はいない。食器洗いが面倒臭いから、いつまでもシンクにためていても、仕事で着る制服の洗濯を忘れていても、結局最後には僕がそれらをすべて処理しなければならないのだ。
「明日は、仕事か……」
独り言というのは、独りで言うから独り言なのだと、当たり前のことを思う。もそもそと齧っていたトーストは、いつの間にか半分まで減っている。耳をすませば、窓の外から聞こえるのは、雀か何かがさえずっている声と、砂浜に打ち寄せる波の音。とても静かで平和な朝だ。
僕の家は、海沿いに面した高台にぽつんと建っているアパートの一室だ。窓を開ければ海を一望できるそのロケーションが気に入って、下見の際にすぐに契約をかわした。部屋は角部屋で、入居した時は新築だった。不動産屋の担当者によれば、このアパートの入居者第一号は僕らしい。当時二十歳で初めての一人暮らしに胸を躍らせていた僕は、そんな些細でどうでも良いことまでもが嬉しくて、苦笑を浮かべながらも話を聞いてくれる友人たちにしきりと自慢をしたものだ。それから五年。当時と比べて変わったことは、勤務先と、車を買ったことくらい。人間といういきものは、五年という歳月ごときでは、そう簡単に劇的な変化を遂げる生き物ではないらしい。
城谷瑛斗と書いて、ちゃんと僕の名前を読めた人はこれまでに数えるほどしかいない。苗字は「しろたに」と、読んでくれるけれど、問題は名前で、大体が「えいと」と読まれる。本当は「あきと」と読むんですと、今まで何人の人に説明してきただろう。それすらも覚えていない。
トーストを食べ終えたのと同時に、テーブルの上に置いてあったスマホが鳴った。デフォルトのコール音が、遠い波音をかき消す。ディスプレイを見ると「桜庭清志」と表示されている。僕は慌てて端末を手に取り、電話に出た。
「もしもし」
「やあ、アキト。今日は休みかい?」
僕の名前を最初からちゃんと読んでくれた数少ない人の一人でもある清志は、これまた数少ない友達のうちの一人だ。中学のときに知り合った同級生で、その縁はもう十数年変わらず続いている。
「休みだよ。どうかした?」
「か」
「か?」
清志は一体何を言いかけたのだろう……などと、疑問に浸る余韻を、彼は与えてくれるはずもない。どうしたのと言おうとした僕を遮るように、彼は「買い物につきあってほしいんだ」と、勢いよくまくしたててきた。
「……また僕を足に使ってるよね、それ」
「え~、そんなことあるわけないじゃん。オレがオマエを誘わなきゃ、オマエは貴重な休日を家にこもって過ごすんだろ、どーせ!若いんだからさあ、もっと外に出て遊ぼうぜ、親友!」
苦笑する。清志の言う通り、僕は今日一日をこの家の中で過ごす予定だった。普段、仕事で外を駆け回っているものだから、何の予定もない休みの日は家でまったりと過ごすのが大好きなのだ。誰にも干渉されることのない一人だけの城。ああ、なんで一人暮らしはこんなにも楽しいんだろう!
「ちゃんとガソリン代は出すからさあ、お願いだよ、アキトぉ」
清志は決して強要はしてこない。こんなふうに下手にでて、人懐っこい態度で攻めてくる。幼いころからの彼の得意技に何度僕が折れてきたことか。とはいえ、別に出かけるのが嫌なわけではない。
「わかった。いこう」
「そうこなきゃな」
電話の向こうの清志はきっと満面の笑みを浮かべていることだろう。準備が出来て、家を出るときにまた連絡すると伝えて、僕は電話を切った。
とりあえず、服を着なきゃいけないな。そう思ってからの僕の行動は早い。
トーストの粉が散らばっているお皿と、一口も飲んでいないコーヒーが入っているマグカップをシンクに積み上げる。帰ってきたら、今日こそはちゃんと洗い物をしよう。
出かけるために身なりを整え、玄関で靴を履いた時、零したコーヒーを拭き取るのを忘れていたことに気づいたが、まあいいやと、僕はそのまま家を出た。
一人だと、どれだけ僕がいい加減か。
「一人暮らしの男ってそういうもんよ」と言ってくれる彼女の許容範囲も、そろそろ限界に達しているかもしれない。
ありえないと思うようなことが起こったとき、人はそれを奇跡と呼んだりする。昔流行った歌で、もう諦めかけていた相手が自分を選んでくれたのは、六月に雪が降ったり、太陽が月の周りを回ったりすることが起こってしまうくらいの奇跡だと歌ったものがある。素敵な例えだ。自分が大切に想う人と結ばれることは、果たしてどれほどの事象が重なって起こりうる出来事なのだろうか。
「最近、彼女とうまくやってるのか?」
助手席でコンビニのコーヒーを吸い上げながら、清志が聞いてきた。コーヒーはさっき買ったばかりなのにもう半分ほど減っている。対して僕のぶんはまだカップ一杯入ったままだ。
「うまくも何も、同じ職場だからね」
「毎日連絡してるんだろ?」
「うん、まあ」
車は、僕たちの住む市内の国道を軽やかに走っていく。右手には海が、左手には山がせまってきていて、景色は割と良い。
「でも、電話は嫌いなんだ」
「オマエ、喋り苦手だもんな」
「うん」
僕はあまり喋らない。そんなに僕のことを知らない人たちには、無口でクールなやつだと思われているらしいが、喋ることが苦手なのだ。どうやって会話を続けようとか、自分が出す話題に相手はちゃんとのってきてくれるだろうかなどと考えているうちに、二言、三言交わしていた会話は終わり、相手は愛想笑いを浮かべながら僕のもとから去っていく。
「かわいいヤツめ」
ズボボボと音をたてて、清志はコーヒーを飲みほした。余程喉が渇いていたんだろうか。それとも、僕があまり喋らないものだから、暇を持て余して飲み続けるしかなかったんだろうか。
誰かが同乗しているときにかける車内の音楽は、洋楽がいいと思っている。ラジオだと、喋っている人の話が気になって、同乗者との会話がし辛くなるし、日本語の歌だと、歌詞ばかりが頭に入ってきて、これまた会話にならない。洋楽だと、(僕は)何を言っているかよく分からないから、適当に聞き流すことが出来るのだ。
「てかさ、仕事。アキトの会社、こないだニュースに出てたじゃん。あれ、大丈夫だったのか?」
「まあ、僕には何の関係もないし。お客さんに時々話をされるだけで、特に何もないよ」
僕の勤めている会社は、運送業界では最大手のところで、社名を聞けば、おそらく日本中の人が知っていると答えるだろう。「カラー運輸」というのが正式な社名だが、世間の俗称として「シバイヌカラー」という呼び名でまかり通っている。というのも、会社のロゴが犬の足跡を模したデザインになっており、それにちなんでか、柴犬をモチーフにしたマスコットキャラクターがいるからだ。
入社当時の研修で、この俗称の由来として、「柴犬は賢く、愛嬌があり、ご主人様にはとても忠実なイメージを持たれている。我々もこのイメージにちなみ、任されたお荷物は笑顔で、迅速に、そして忠実に、お届け先に届けるようにすることを誓い、会社のイメージキャラクターを柴犬にした」と習った記憶がある。長年の歳月を経て、そのイメージが日本全国に広がり、宅配便と言えば、シバイヌカラーだというふうに定着したのだろう。
そんな会社が、清志のいうようにニュースになってしまったのは、カラー運輸の社員が、交際相手を殺害し、逮捕されたからだ。
同じ会社に勤める社員だというけれど、ニュースに名前が出るまで、僕はその人の存在も名前も、何も知らなかったのだ。だから所詮は他人事。僕が彼女に殺害されるかもしれないと怯える必要も、僕が彼女を殺害してしまうかもしれないという意味の分からない心配も、する必要がない。
現に、配達先のお客さんは大体の人がそんな話題など口にもしないし、話題にあがったとしても、せいぜい「こわいよねー」などとお互いに顔を見合わせて苦笑しあう程度だ。人を殺すような社員がいる会社に勤めているこの城谷瑛斗という男に、私も殺されたらどうしよう!などと頭のおかしい妄想をするお客さんは、今のところいない。清志が心配してくれるのはとても嬉しいけれど、それは杞憂だという他ならない。
「どんな理由があれ、人を殺すって、どんな神経してるんだろうね。ましてや付き合ってる相手だろ。オレには全く理解が出来ないね。どれだけ相手に苛立ったとしても、一線を踏み越えちゃあいけないよ」
「そうだね」
清志が知らないこの事件の詳細を、僕は知っている。一瞬、それを清志に言ってもいいのか躊躇ったが、別に守秘義務もないし、他の誰かが聞いているわけではないからいいだろうと考えなおし、口を開いた。
「その人達、別れ話がこじれて事件に発展したらしいんだ。殺された男の人は、今回逮捕された人に日常的に暴力を振るっていたみたいで、その時も別れ話を切り出されて逆上した男の人がぼっこぼこに相手を殴りつけた。で、命の危険を感じた加害者が、近くにあったお酒の入った瓶で頭を殴ってひるませた後、台所に包丁を取りに行ってとどめを刺したらしいよ」
「頭を殴っただけなら、もしかしたら正当防衛って言い切れたかもしれないけど、包丁を取りに行って刺したってことは、やっぱり殺意があったってことだよな」
「まあ、そこんところは本人にしかわからないだろうけどね。僕なら、ここでこいつを殺せば、自分は暴力に悩むことはなくなる。それならいっそって思っちゃうかもしれない。それを実行できるかどうかは分かんないけど、きっと加害者の人も似たようなことを思ったんじゃないかな」
「なるほどなー」
清志の顔をちらりと見ると、なんだか腑に落ちないような顔をしている。曲が切り替わる。昔大ヒットした、豪華客船が沈む映画の主題歌だ。
「でも、殺されたのって男なんだな。……え?おとこ?」
清志はそのニュースをちゃんと聞いていなかったらしい。たしかにこの事件の詳細はまだ報道されていないが、被害者と加害者の性別は報されているはずだ。
「……逮捕されたのも、男って言ってなかったか?」
「そうだよ。この人たちは、同性愛者だったんだ」
清志は何とも言えない表情で、僕のほうを見てきた。僕は運転しているから前を見ているしかないけれど、視界の隅に清志の顔は映っている。学生時代からサッカーに打ち込んできたせいか、よく日に焼けた顔。そこにある、ぱっちりと大きい二重の目を向けられると、僕はなぜか心がぞわっとする。彼とは長い付き合いだが、しっかりと目を合わせたことは果たして何回あっただろうか。
「すげえな、その人達。何というか、自分たちの気持ちに正直に生きてきたんだなって感じがする。ちょっとうらやましいや。あ、結末以外はね」
「今時珍しくもなんともないよ。愛の形なんて、人それぞれなんだからさ」
「アキト、きしょ……」
清志は苦笑して、僕から目をそらした。信号にひっかかる。僕は目線のやりばに困り、ふとルームミラーを見た。後ろの車の運転手の女性が、大きな口を開けて何かを言っている。車内の音楽に合わせて熱唱でもしているに違いない。
豪華客船の映画の主題歌は、一番盛り上がるラストサビにさしかかる。清志が調子はずれの裏声でそれを口ずさむ。冷房を切って窓を開けてやろうかと意地悪なことを考えるが、実行には移さない。僕が暑くなる。
「いいよなあアキトは。こんないい車を買えて。シバイヌって、給料いいのか?」
「その話何回目だよ。何回聞いてきても、答えは一緒だぞ。めちゃくちゃいいってわけじゃないけど、同年代の平均年収よりは高いって。気になるならキヨもシバイヌに入ればいいじゃん。紹介するけど」
「やーだね。こんなくっそ暑い中、人の荷物を運ぶなんて、オレにはできない」
僕は昔から清志のことを「キヨ」と呼んでいる。最初は、どこかのお婆さんみたいな名前だと嫌がられたが、僕が面白がっているうちに慣れてきたのか、そのうち何も言わなくなった。そもそも清志は自分の名前があまり好きではないらしい。僕はいい名前だと思うが、本人曰く「同じ漢字なら『せいし』のほうがよかった」とぼやいていたことがあった。あれはたしか中学生の時だっただろうか。そんな読み方をすれば、当時お年頃だった僕たちは別のものを想像してしまうなとからかうと、清志は顔を真っ赤にして殴りかかってきた(本気ではない)。遠い遠い、学生時代の思い出だ。
「アキトはその恵まれた体とかっこいい顔を武器に頑張ればいいんだよ。オレだっていつか車買って、アキトを助手席に乗せてやるからな」
「普通、助手席に乗せるって言うのは、僕じゃなくて彼女なんじゃないの」
「ばーか!オレはそんなやつより、親友を一番に乗せたいんだよ。そもそも彼女なんていねえし」
清志だって、モテそうなのになと思う。身体つきは一見細身だか、サッカーをやっていただけあって、よく見ると体格もいいし、顔だって人懐っこそうな可愛らしい印象を抱く。背も高くスタイルもいいから、その気になれば女たちの方から群がってきそうだ。なのに、僕の知る中で、彼に彼女と呼べるような女性がいたことは一度もない。だから恋愛よりも、友情を大切にするタイプなんだと、僕は思っている。
でも、二十代も半ばにさしかかってくると、さすがの清志も焦ってきているのかもしれない。いや、そういうふうには見えないな。
「ありがとう、キヨ」
僕はそう言って微笑んでみせた。こんな僕でも、親友と呼んでくれる清志の存在が嬉しかったのだ。これまでにも何度かこういう場面があったけれど、それを言われる度に、「ああ、キヨは今も僕のことを友達だと思ってくれているんだな」と再認識出来る。嬉しいことは、何度言われても心地の良いものだ。
清志が行きたがっていた郊外のアウトレットモールは、僕達の住む街から山を越えて、一時間半ほど車を走らせたところにある。道中はくねくねとカーブの多い山道や、田んぼしかない景色が広がる場所をひたすら走り抜けていくだけなので、だんだんと口数の少なくなっていた僕達も、目的地に到着すると、おおきく深呼吸をして、あれがほしいだのこれが食べたいなどと、盛んに言い合った。
平日ということもあって、モールはだいぶ人も少なく、清志はすぐに目的のものが買え、上機嫌だった。
「あ、アキト、オマエ、これ買えよ!」
にやにやと笑いながら清志が指さしたのは、スポーツ用品を取り揃えている店のウインドウに飾られていた、競技用の水着だった。
「なんでだよ」
苦笑する。確かに僕は学生時代、水泳に打ち込んでいたが、今はもう現役から退いている。ごくまれに海やプールに行って泳ぐことはあっても、こんな本格的な水着を着用して泳ぐことは、たぶんもうないはずだ。
「もういらないよ、こんなの」
「ちぇっ。水泳やってるアキト、結構好きだったのにな」
名残惜しそうにウインドウから目をそらした清志は、その次の瞬間にはすでに意識が別のものに飛んでいったらしく、僕の腕を引っ張ってたまたまそこにあったカフェにとびこんだ。
「ひと休みしようよ。オレ、喉乾いた」
「僕はお腹がすいた」
「ここ、パスタが旨いってよ。なんかネットで評判だった」
店に入った途端出迎えてくれた店員が、面倒くさそうに喫煙の有無を聞いてくる。僕たちはどちらも煙草は吸わないから、その旨を伝えると、窓際の禁煙席に案内された。椅子に座ると、隣のテーブルに陣取っていた女子高生に見える女の子たちのグループ全員にこちらを見られたため、慌てて目をそらした。
よく見ると、店内はカップルか女同士の客が多く、男同士なのは視界に入る限り、僕たちだけのようだった。
お冷やを持ってきた女性の店員に、アイスコーヒー、アイスティー、そして本日のランチ(メニュー表には、高菜と牛肉の和風パスタ、コンソメスープ、チョコレートケーキと書いてある)を二つ注文した。
「こういうところって、男同士で来るところじゃなかったね」
僕は、周りの人たちとは若干空気が違うこのテーブルに、なぜか負い目を感じながら言った。清志は「え?そうか?」と、全く気にしていない様子で、お冷やを飲んでいる。
「アキトはいちいち周りを気にしすぎなんだよ。べつに男同士での入店はご遠慮くださいって書いてあるわけじゃないんだから、もっと堂々としていればいいんだよ」
「そうするよ……」
僕には自信が足りない。もっと、たとえば、目の前にいる清志のように堂々としていれば、いちいち他人の目なんて気にする必要もないんだろうか。
料理が運ばれてくるまでのあいだ、僕達はなにをするでもなく、スマホをいじっていた。会話はない。かと言って別に気まずいでもなく、僕は二人のあいだに流れるこの不思議な空間が好きだ。
清志は最近はまっているという、ソーシャルゲームをしている。ゲーム内のガチャガチャでキャラを当てて、そのキャラをはじくという、単純なゲームだ。清志はしきりに僕をそのゲームに誘ってくるが、僕はいまだに清志の誘いにのっていない。
「アキト」
清志が突然顔をあげて、呼びかけてきた。
「好きでもない女に言い寄られてきたら、アキトならどうする?」
突然話題が飛躍したものだから、僕は思わず笑ってしまった。それを誤魔化すかのようにお冷やのグラスを掴み、一口飲む。
「どうだろうね。僕は、臆病な性格だから、頭ごなしに突っぱねることは、出来ないかもしれない」
出来ないかもしれないのではなく、出来ないのだと、心の中で訂正する。よく言えば人当たりがよい。悪く言えば八方美人。
僕はよく他人の顔色を窺ってしまうから、男女の関係はなく、人にいい顔をしてしまうのだ。
「まあアキトはそうだよな」
大袈裟に清志はため息をついた。そして、話の続きを促してほしそうに、こちらを見ている。僕はその視線に応えてやることにした。
「なんかあったの?」
「職場で、オレ、サッカーやってるじゃん。で、チームに部活のマネージャーみたいなことしてくれる女の社員がいるんだけどさ、そいつに今度二人で食事に行きませんかって誘われたんだよ」
「すごいじゃん。モテモテだね」
「だーかーらー、好きでもなんでもないヤツにそんなこと言われても困るんだよ。例えば一緒に飯食ったりしたら、脈アリだとかって勘違いされるかもしれないだろ」
興奮する清志の言葉を遮るように、僕達が注文した料理が運ばれてきた。少し気まずそうな顔をして、清志は店員にぺこぺこと会釈をして料理を受け取っている。僕はそれを見て笑いそうになるのを堪えた。
店員が去っていったあと、清志はフォークにスパゲティーを巻き付けながら、話の続きを始めた。
「オレは前から好きなヤツがいるんだよ。だから、興味のないヤツとは付き合ってられないわけ」
初耳だった。コーンスープをすくいながら、僕は顔に出さないように驚いた。
「まあ、きっと、叶わないんだろうけどな、オレの気持ちなんて」
清志の声の調子が落ちる。清志の気持ちに応えられない人なんて、一体どれだけ理想が高い人なんだろう。
「すぐに言うべきだったね、その時に。『自分には好きな人がいるから、ごめん』とかなんとか」
「だよなあ……」
清志は、はあっと息を吐いてスプーンを手にした。それをスープの皿に沈め、くるくるとかき回す。クルトンが小さな渦に巻き込まれて、くるくると回る。
「あとは、食事だけ一度一緒に行って、そういう話になったときに断るとか」
「やっぱそうなるよなあ……あー、だりいなあ……好きでもない女のためにオレの貴重な休日が消えちゃうんだぜ……んがっ、このスープうまっ!」
誰とでも隔てなく接する清志にも、他人との付き合いが面倒に感じるときがあるんだと、僕は少しうれしくなった。なぜ嬉しくなったのかは、わからない。自分と同じことを、清志も感じることが分かったからだろうか。それとも少なくとも僕は清志の『貴重な休日』と潰しているとは思われていないからだろうか。
それから僕は平均的な味のスパゲティーをもくもくと食べながら、清志の仕事の愚痴を聞いていた。
清志はスポーツジムで、インストラクターの仕事をしている。昔から彼は体を動かすのが好きで、高校時代には本格的にその道を目指すために勉強をしていた記憶がある。県外の体育大学に進学し、僕がシバイヌでせっせと荷物を運んでいる間に、たくさん努力をして、自分の夢を叶えたに違いない。スポーツが好きで、誰とでも分け隔てなく接することが出来て、明るい性格の彼にはぴったりの職業だと、僕は思う。
「アキトは最近、彼女とはどうなんだよ」
ジムの利用客より、同僚や上司に対して、いろいろと不満が溜まっていたらしい清志は、突然話題を変えた。折角の休日にまで仕事のことは考えたくないと、思い直したのだろうか。あまりにも突然話題を変えたので、僕は飲んでいた水にむせそうになった。
「どうって、べつにどうもしないよ」
「そんなこと言って~、ほんとは毎晩ベッドでイチャイチャしてんだろ~?」
「そんな暇ないよ」
「え?……じゃあ一人でやってんのか?」
「ちょ!声が大きい!」
「それはアキトだろ。オレはいたって普通の声量」
僕はにやにやと笑う清志の顔を見て、顔がカッと熱くなるのを感じた。ちらりと周りを見てみると、少なくとも僕たちの会話に聞き耳を立てているような人は見当たらない。
僕の『彼女』は、西野里菜という。有名な二人の歌手を合わせたような名前の彼女は、僕より四歳年上の二十九歳。三十路になるまで一年を切ってしまったことが最近の悩みらしい。歳なんて時間の流れとともに誰もがとっていくものなのだから、そんなに悲観するものでもないと、僕は思うけれど。僕と同じシバイヌで働いているが、配達員ではなく、主に客からの電話などを取り次ぐ、カスタマーサービスの仕事をしている。出会いは社内で意気投合したのがきっかけで、僕達の仲は、たぶん営業所のほとんどの人が知っているだろう。
お互いのシフトの兼ね合いもあって、プライベートで会えるのは週に一回ほどだろうか。それでも定期的に会えているのだから、もしかするとお互いの上司が示し合わせて僕達の休日を調整してくれているのかもしれない。
「職場が同じだから結構顔は見るけど、休みのときにたまに会うだけだから、毎日会ってるわけじゃないんだよ」
「そっかあ、オレはてっきり、毎日いちゃついてんのかと思ってた」
僕は苦笑した。清志は僕をそんな目で見ているのだろうか。
「このあいだは一緒に映画を観に行ったよ。高校生の中身が入れ替わるやつ」
「あ、それオレも観たい!なんで誘ってくれなかったんだよ」
「キヨ、アニメ嫌いじゃなかったっけ」
「あんまし好きじゃないけど、めちゃめちゃいいって聞くからさ、どんなもんなんだろうって気になってる」
清志はコーヒーをストローで吸い上げながら、もう一度「なんで誘ってくれなかったんだよ~」と言った。
「そんなに観たいなら、キヨの気になってるって人を誘えばいいじゃん」
今度は清志がむせる番だった。
「いや、それは無理だ。ソイツも、その映画観たって聞いたし」
「残念。それなら、一人で観に行くしかないね」
「バカ。いい歳した男がアニメを一人で観るとか拷問かよ。いいよ、いつかテレビでやるだろうし」
「テレビだと、タダで観れるね!」
清志はそうだなと、笑った。僕がいつまでも飲まないアイスティーの表面に、氷が溶けて水が張っている。慌ててそれを飲むと、なんとも言えない味がした。
「アキトはいいよなあ、好きな人と結ばれて!結局さあ、みんなみんな結婚結婚って、歳をとるにつれてそんな話題ばっか。お前ら、それしか頭にないのかよって、感じだよ」
「分かる。僕も、職場でよく言われる。お前らいつ結婚するんだよって。なんか、付き合うのと結婚とはまた違うと思うんだ。みんななにを焦ってるんだろうね。所詮は他人である僕がいつ誰と結婚するかなんて、べつにどうでもいいことだろうに」
「他人の不幸は蜜の味っていうけどさ、じゃあ他人の幸せはどうなんだろうな。ゴーヤの味ってか」
清志はそう言ってケラケラと笑った。残念ながら、あまり面白くはない。
「まあ、お互い、いろいろ頑張ろうぜ」
「うん……」
一体何を頑張るというのだろう。仕事か、恋か、それとも友情か。仕事はともかくとして、恋や友情なんてものは、それらを育むために頑張らないといけないものなのだろうか。
自分は一体、何のために生きているんだろうと思う時がある。人間は、いつか絶対に死ぬ生き物だ。それなのに、どうして生きているのだろう。
小説家は、自分の創りあげた物語を本にして、世に残す。俳優や女優になって、数々の作品に出演し、その姿を映像に残す。音楽を作って、人々の心に残るものを世に送り出す。スポーツの才能がある人たちは、その競技に打ち込み、華々しい活躍をする。
そんなふうに、夢を掴んだ人たちは、自分が生きた証を、とてもよくわかりやすく、この世に残していく。それは才能と、運と、努力が実を結び、かたちとなってあらわれた結果だ。
だが、僕を含めて、この世界に生きている大多数の人は、無名のまま、生涯をすごしていく。
僕はこの世界で、あらゆる形の荷物を運び、誰かのもとへと送り届ける仕事をしている。社会の役に立っているとは思う。だが、例えば僕が急に死んだとしても、僕の代わりに誰かがその役目を継ぐ。僕がこの世界に生きていたことも、せいぜい周りのみんなが覚えているだけで、その他の大勢の人たちにはどうでもいいことだ。そればかりか、僕という存在すら知らない人たちのほうが、圧倒的に多い。社会は、僕がいなくなっても、何事もなかったかのように回り続けるだろう。
小さな世界がたくさんあって、大きくなる。だからこの世界にはいろんな出来事や、人や、生き物があふれている。僕がシバイヌの制服を着て荷物を運んでいるということも、きっとこの世界を創るのに必要なことなのかもしれない。
今日は荷物が一段と多い。月末ということも相まって、僕が運転するトラックには、スペースぎりぎりの量の荷物が積まれている。ぎりぎりといったが、乗り切れなくて、営業所に残してきた荷物もいくつかある。昼すぎに一旦戻り、再び現場まで運んでくるのだ。
僕は特別仕事ができるわけでもないから、業務をうまく遂行させるために、いつも何かを犠牲にしている。例えば、休憩時間を削って配達をするとか、食事を抜くとか……。
そうでもしないと、一日の仕事が終わらず、家に帰れないかもしれないのだ。家に帰れないのは百歩譲って別にいいとしても、仕事が終わらないのは嫌だ。
トラックを停めて車外に出る。途端に灼熱の空気が僕の体を包み込む。年々、夏の暑さはその勢いを増して僕たちに襲いかかってくるような気がするけれど、気のせいだろうか。僕が子供の頃は、もう少し過ごしやすかったように思う。太陽は、僕たち人間の体中の水分を吸い尽くそうとしているのかもしれない。
「あっちいなあ、もう」
そんな独り言をこぼしながら、僕はトラックの荷台に飛び乗り、大口の荷物を台車に乗せていく。どんなに暑くとも、僕は一人で、このトラックに乗っている荷物を全部捌かなければならない。
営業所に戻ったのは昼の二時前だった。助手席には、飲み干した二リットルの水のペットボトルが投げ出してある。荷台に残った荷物と、営業所に残した荷物の量を見て、僕は久しぶりに社員食堂に行こうと思い立った。朝、トラックに積み込まれていた荷物の量は多かったけれど、汗を拭く暇すら惜しんで配達に勤しんだおかげで、少し時間に余裕がある。荷付き場に残されていた荷物を全部トラックに乗せた後、僕は駆け足で社員食堂へと向かった。
「アキトさん!」
日替わり定食の唐揚げを二つまとめて口に詰め込んでいる時、背後から呼ばれた。
「お疲れっす、隣いいっすか」
声の主は、僕の返事も待たず、僕の隣に座る。同じ班の後輩、相良洸平だった。彼は椅子に座るやいなや、茶碗にかき氷のように盛った米に箸を突っ込んで、口の中に放り込んだ。相良は、僕よりも小柄な青年だ。学生時代は野球をやっていたらしく、ポジションはショートだったらしい。犬のように人懐っこい性格をしていて、なぜか直属の上司ではない僕を慕ってくれている。今年の新卒枠として入社した彼を最初に教えたのが僕だったからだろうか。ついこの間までは、制服の短パンを履いて、小麦色の足をさらけ出していたというのに、今日は長ズボンを履いている。洗濯が間に合わなかったのだろうか。
「アキトさんがこの時間に、ここにいるってことは、昼からはヨユーってことっすね」
「どういう意味だよ」
相良は、僕の問いには答えず、僕と同じ唐揚げを頬張った。
「ほら、アキトさんはなんかいつもヨユーなさそうなんで」
ズズズっと大きな音を立てて、相良は唐揚げを味噌汁で流し込む。あまりにも図星なもので、僕は何も言い返せなかった。
「でもおれも人のこと言えねーっす。軽四ドライバーなのに、毎日ヒイヒイ言いながら配達してるし。トラックのドライバーみたいに、配達も集荷も営業も……なんて考えただけで気が滅入ります」
そう言った相良の視線はどこか遠い場所を見ていた。新卒の社員として、シバイヌに入ってきた相良は、そろそろ入社して四ヶ月ほどになる。ここに入社した社員のほとんどは、最初は配達員として、誰か先輩のドライバーの横について、配達や集荷など、基本的な業務を習う。そして、車の運転の研修をみっちりと受けた後、実際に自分の担当コースと車両を当てがわれ、今度は先輩ドライバーが横乗りをして、実際に集配をしながら独り立ちを目指すのだ。新人が入社してから独り立ちするまでには、大体二ヶ月程度かかる。相良は独り立ちをして、ようやく二ヶ月が経過したということだが、まだ彼の名札には彼が新人ドライバーであることを示す、若葉マークがついている。このマークをつけている新人には、営業所の先輩たちが一丸となって、気にかけてあげなければならないのだ。
「おれ、やっぱ向いてないのかなあ」
カチャンと音を立てて、相良が持っていた箸がお盆の上に落ちる。僕は思わず、相良の背中に手を触れていた。汗が染み込んだポロシャツの湿った感触が、少し気持ち悪い。それでも僕は、この二十歳そこそこの後輩を慰めてやらねばならない衝動にかられていた。
「大丈夫だよ。僕も、新人の頃は毎日必死だった。あ、今もだけど。相良はよくやってると思うよ。先輩らの手を借りず、なるべく一人で頑張ってるらしいじゃん。それって中々すごいと思うよ」
「そうっすかね……だって、皆さん忙しそうですし、おれのせいで皆さんに負担かけたくないですし」
「えらいよ」
相良は僕の言葉にフッと笑って「あざっす」と言うと、再び箸を持って、残りの飯を書き込んでいった。
月並みな会話が、相良の心情にどんな影響を受けたのかはわからないが、彼は食事を終えると嬉しそうに「久しぶりに話せて楽しかったっす」と言い残し、そそくさと現場に戻っていった。僕も食堂を後にして、午後の配達へと出発する。僕なんかの言葉で、相良の気が少しでも晴れたなら、僕だって嬉しいことだ。
「噂なんだけど」と、里菜が神妙な面持ちで僕に話しかけてきたのは、二人の休みが被る日の前日の仕事終わり、僕の家に彼女が遊びにきた日のことだった。僕は着替えのTシャツを頭から被ったまま「ん?」と答えた。風呂上がりに下着姿でいたら、里菜が困ったように「誘ってんの?」と言ってきたから、仕方なく服を着ようとしたのだ。
「アキトの班の新人くん、ほら、アキトの横乗りで最初頑張ってたコいるじゃん」
「相良?」
「そうそう!そんな名前の!」
「相良がどうかしたの」
その日の時点で、、僕は社員食堂で相良と会ったきり、彼とは会話をしていない。営業所内で姿を見かけてはいたが、僕も相良も自分の業務で手一杯だったのだ。
「神田川さんに虐められているんじゃないかって、カスタマーの女の子たちの間で話題になってるの」
「え!?」
神田川というのは、相良の直属の上司の名前だった。僕の脳裏に、その男の姿が思い浮かぶ。歳は三十代で、ドライバー職の主任をしている。性格は明るい方ではなく、寡黙な
男であるというのが僕の印象だった。だから、時に彼の思考が分からず、あまり関わりたくない人物ではあった。主任という立場を担っているから、仕事は随分出来るんだろうなとは思うけれど。
営業所には、担当する地域がいくつかあって、その数だけ、社員は班ごとに分けられている。班の名前は、主任の苗字をとって、〇〇班と呼ばれており、そうすると相良の所属しているのは、神田川班ということになる。ちなみに僕の班は、久住班。久住主任は、いまだに僕のことを新卒扱いする、色んな意味で面倒見の良いおじさんだ。
「少し前にね、クール便の冷凍庫に、相良くんがいたのよ。夜、ドライバーのみんなが仕事を終えて帰った後、たまたまカスタマーにクール便の再配達の問い合わせがあって、担当の子が残荷を見にいったら、中に相良くんがガタガタ震えながらしゃがみ込んでたって。相良くんは荷物を片付けてたら、その間になぜか扉が閉まっちゃって、中から開けられなかったって言ってたみたい。でもあそこ、外から鍵をかけない限り、開けられないってことはないでしょ?」
「うん、多分」
僕が曖昧な返事しかできないのは、普段無意識にそこを出入りしているから、扉の仕組みが思い出せないからだった。
「相良くん、その子に『まじあざっす、助かったっす。ちょっとだからって、コートを着ずに入ったらえらい目に遭っちゃったっす。ヒヤリハットっすね』ってえらく感謝してたらしいし、それ以上何も言わなかったから、大ごとにはならなかったけど、よく考えたら怖いよね」
僕も、仕事の日は連日そこに立ち寄ることがある。冷凍庫内は年中氷点下だから、夏でも半袖シャツのまま中に入ると、刺すような冷気が全身を襲ってくる。そのため、冷凍庫の横には誰でも着られる分厚いアウターが置いてあって、中で作業をする際にはそれを着用するように決まっている。とはいえ、ほんの数十秒、長くても数分で終わる庫内の作業のために、それを脱ぎ着する時間は惜しいから、僕を含め、大抵のドライバーは制服姿のまま中に入っている。相良も、例に漏れずそうだったのだろう。そのために、ひどい目にあったというのだ。
しかし、普段あそこに鍵はかけないはずだ。夜中は知らないが、少なくともドライバーがまだ作業をしている時間帯はいつでも開閉ができるようになっている。相良が中から扉を開けられなかったのは、誰かの過失で、もしくは故意に、扉を開けられないようにされていた、ということだろう。
「だけどそれを誰かにやられたとして、どうして神田川さんの名前が出てくるんだよ。今のままだと、営業所の全員が犯人だって言えるだろ」
「それだけじゃないのよ。先週だったかな、更衣室で、神田川さんが相良くんに詰め寄ってるのを見たって人がいるの。なんか、お前の配達が遅いから俺が帰れないみたいなことが聞こえてきたから、ちょっと気になって中を覗いたら、扉に背中を向けて神田川さんが立っていて、その向こうに相良くんが怯えた表情で立ってるのが見えたって。着替えの途中で神田川さんが入ってきたのか、相良くんはくしゃくしゃの制服をぎゅっと握り締めて、汗びっしょりだったって、言ってたわ」
「やることがえげつないなあ」
僕は、神田川の姿を思い浮かべる。確かに、あいつに詰め寄られると、怯えてしまうのもわかる気がする。体育会系の男が多い職場には珍しい、どこか冷たい印象を持つ眼鏡の男だ。
「みみっちい男よね、あいつ。新人の仕事が遅いのなんて、当たり前じゃない。それをカバーするのが先輩ってもんでしょ。なのに、目の敵にしていじめるってダサすぎ。アキト、相良くんのためにガツーンと言ってやりなよ」
「ええ!?ああ、うう」
里菜は、もう完全に神田川が相良を虐めていると思っているようだ。僕だって、里菜の話を聞くと、そうじゃないかと思ってしまう。世の中には、上に立つべきでない人間が、その立場に胡座をかいていることなんて、ザラにあるのだ。
「体だけは逞しいくせに、何ビビってんのよ。それともその肉体は、私とセックスするだけのもの?」
里菜はそう言って、僕をソファーに押し倒してきた。「そうじゃない」と僕はモゴモゴ言って、里菜を抱き寄せる。里菜は僕の胸板に顔を埋め、僕は里菜の頭頂部に顔を埋める。シャンプーの香りが、僕の鼻腔を撫でる。里菜のひんやりとした指先が、僕の腹筋を撫でる。里菜は筋肉フェチなのだ。それを隠そうともせず、行為の際は、僕の体を持て余すことなく堪能する。
僕たちはどちらから示し合わせたわけでもないのに、抱き合ったまま立ち上がり、ベッドへ移動した。布団に入り、互いの衣服を剥ぎ取っていく。里菜は再び露わになった僕の胸に顔を埋め、その歯で僕の乳首を噛んだ。
「うっ……」
吐息と共に、僕の口から声が漏れる。里菜は、僕が弱いところをよく知っている。流石だ。僕は里菜の首筋にそっと口づけをする。里菜の乳房が、僕の腹に触れる。里菜がくすぐったいのを我慢するかのように、クスクスと笑う。ベッドの軋む音が時折鳴り、僕たちはすぐに汗ばんだ。冷房の風が、より冷たくなって、僕たちを撫でる。
「アキト、好き」
「……うん」
ひと段落して、僕の腹の上に顔を置いた里菜が、呟いた。やむなくして、彼女は眠りに落ちるであろう声色だった。僕はといえば、行為に集中できずにいた。いつまでも、相良のことが心に焼き付いてはなれなかったのだ。折角の彼女と共に過ごすはずの一夜なのに、僕は彼女のことよりも、職場の後輩のことを考えていたのだった。
セックスをした翌朝の、日常が何事もなく始まる感覚が、僕は好きだった。昨晩、あんなにも激しく愛を確かめ合った二人が(僕は集中していなかったけど)、それに触れることもなく目覚め、日常のルーティーンを始めていく。学生時代なら、それが面映くも感じたこともあったけれど、今は何ともない。人は、この世の全てにおいて、何事も慣れていってしまう生き物なのだろう。
「やだ、ご飯炊き忘れてるじゃない!アキト、パンでいい?」
里菜はすでに服を着て、僕の家のキッチンに立っていた。僕はというと、お決まりの下着姿で、ポリポリと脇腹なんかをかいて「いいよ」と返事をした。そのままベッドに横たわり、里菜が調理をしている音を聞いていた。
「できたよ」
里菜が呼びにきて、僕はようやく起き上がった。一人の時は朝ごはんなんか食べないで、昼まで惰眠を貪っている僕だけれど、里菜はどんな時も三食しっかり食べないと気が済まないらしい。
以前、里菜が買ってきた食パン専門店のパンを食べて以来、スーパーなどに売っている市販のものを食べるのを、敬遠するようになってしまった僕のために、里菜が用意してくれたパンがこんがりと焼けている。ただし、僕の分は、とても分厚くカットされていて、冷静にそれを見ると、滑稽だ。ワンプレートにその分厚いトーストが二枚(多分、合わせて一斤)と、ハムエッグ、それにほうれん草のソテーがのっている。里菜の前にも同じものがあるが、トーストは僕の分よりも随分と薄い。
「いただきます」
僕が大口を開けて、マーガリンがたっぷり塗られたトーストを齧るのを見て、里菜も箸を手にとった。
「なあ、昨日のことだけど」と、僕は相良の話を蒸し返した。折角の休みだというのに、専らの話題は仕事関係のことばかりだ。僕達は社会人になると、人生の大半を仕事に費やされるのだ。それも、仕方ないのかもしれない。
「そこまでされて、相良はどうして黙ってるんだろう。僕なら、すぐに他の人に助けを求めるけど」
「アキトなら、ね」
里菜は、ほうれん草を箸でつつきながら、意味ありげな口調で言った。お前がそうだとしても、他の人も同じとは限らないと、言葉にはしなかったが、彼女はきっと、そう言いたかったのだろう。
「周りに迷惑をかけたくないから、自分さえ我慢していればいいって思っちゃうのよ。でも、そういう人って、全然我慢できていないものよ。ある日突然、周りが想像もしていなかったことをやらかして、立場は余計に悪くなっちゃったりするの。それに相良くんは明るい子だけど、仕事は真面目にこなすから、責任感も人一倍強くて、どんどん自分を追い込んでいっちゃうタイプかも。自分では気付かないうちに、ね。」
里菜の話しぶりは、まるで相良のことを熟知しているかのようだった。僕よりも社歴は長いから、過去にも相良と同じようなタイプの社員がいたのかもしれない。
「折角二人の休みが重なったのに、アキトは相良くんのことばかり考えてるのね」
「……ごめん」
不意に気まずくなって、僕は自分の太腿に視線を落とした。
「まあ、困ってるかもしれない仲間を放っておけないくらい優しい男だってことよね」
顔をあげると、里菜は苦笑していた。
「そんなアキトが私は好きよ」
多分、僕の顔は真っ赤になっていただろう。今日一日が無事に終わりそうで、良かった。
「このご時世に、まだそんなキモいことする奴がいるんだな」
僕の目の前で、清志が呆れたように鼻で笑った。
里菜との休日から、数日が経っていたが、僕は相良の件については、社内で大きな行動をとれずに、また次の休日を迎えていた。それは仕事に忙殺されていたからといえば聞こえはいいが、その実、どうすればいいのか手立てが見つからなかっただけだった。
相良は、一見すると何事もないように振る舞って、仕事をこなしている。神田川と僕は接点すらない。早くもふん詰まりとなった僕は、シバイヌにはなんの関係もない清志をカフェに呼び出して、相談を持ちかけたのだ。
「ただ、どれも確証がないんだ。更衣室はともかく、冷凍庫の件は、神田川がやったという証拠はない。それに、上司が部下を怒鳴りつけたりするのなんて、正直シバイヌではよくあることだ」
仕事の性質上、体育会系タイプの人は、圧倒的に多い。そういう人達は、学生時代から、上下関係はびっちりと叩き込まれているだろうから、目上の人の言うことにはなかなか逆らえないものだ。僕も、相良の立場だったとしたら、上司に一方的に怒られたとしても、自分が悪かったのかなと、理不尽な状況を耐え忍ぶだろう。
「まあ、ソイツも子供じゃないんだから、アキトが首を突っ込まなくても、自分で何とかするんじゃねえの」
「そうだよね……」
僕は困って、お冷やの入ったグラスをあおった。注文したアイスコーヒーはとっくに飲み干していたけれど、何か話し足りない気がして、ピッチャーに入っているお冷やを清志のグラスにも並々と注いだ。
「おう、サンキュー」
清志もグラスを手にとり、一口水を飲む。二人の間に沈黙が流れたせいで、店内に流れているどこかで聞いたことのあるピアノのインストゥルメンタルが、耳に流れ込んできた。
「アキトの会社は、最近大きなニュースになってるから、気をつけねえとな」
清志が不穏なことを言うものだから、僕の心に再び暗雲が立ち込める。こういう時に、僕は何か気になることがあれば、しつこくそればかりを考え込んでしまう質なのだと思い知らされる。配達をしているとき、友人や彼女との時間を過ごしているとき、スーパーで夕食の材料を吟味しているとき。思考の片隅に、『気になること』が、しっかりと居座っている。パソコンやスマホで、メインの作業をこなしているときに、他のデータを立ち上げたままにしていると、ふとタスクを開いたときにたちまち画面がその情報に切り替わる。僕の心模様も、それとよく似ていた。