「なあアキト、おまえ、今日どうしたんだよ」
清志の声が耳に飛び込んできて、ふと我に返ると、彼のまんまるい目が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。彼と僕は、パソコンの表計算ソフトによく似た名前のチェーン店のカフェで、カフェラテを一つずつ挟んで向かい合って座っている最中だった。
「そんな不思議そうな顔して、とぼけてんなよ」
清志の表情が、きゅっと引き締まる。テーブルの上に置かれていた彼の掌が、握りこぶしに変わった。
「別にいつも通りだけど」と、ぼそぼそと言った僕には、清志にそんなことを言われる心当たりは全くなかったが、心臓は悍馬のように、どくんと跳ね上がった。
「アキトはあんま喋んないほうだけど、今日は一段と口数が少ないぜ。オレの話も上の空だし、なんか考え事でもしてんのか?」
「上の空?」
僕の鸚鵡返しに、清志はああと頷いた。「じゃあ今、オレが話してた内容、言ってみろよ」
そう言われて、僕はうんともすんとも答えられなくなった。確かに清志は、何かを楽しそうに話していた。僕もうんうんと相槌を打っていた。それなのに、話の内容はと改めて問われると、答えが出てこない。これは、僕が彼の話を微塵も聞いていなかったのだと、認めざるを得ない。
「……ごめん」
気まずくなった僕は、それを誤魔化すかのように、おもむろにカフェラテを啜った。考え事をしていたのかと問われても、その答えはノーとなる。つまり僕は清志に訝しげな眼差しを向けられるまで、無意識に呆けていたというのだ。
清志は、僕の様子がおかしい時に、それを見透かしてくるのが上手い。思えば、学生時代にもこんなことがあった。
当時の僕は、部活での記録がうまく伸びなくて、密かに悩んでいた。自分がそんなものに心を惑わされていることを誰にも悟られたくなかったし、数字に囚われて一喜一憂している自分自身に、僕が一番驚いていた。
「アキト、なんか最近悩んでんのか?」
清志はその時も、単刀直入に僕を斬り込んできた。昼休み、学食で日替わり定食を挟み、二人で向かい合っているときのことだった。箸で挟んでいた唐揚げが、大皿の中にごろりと落ちる。それほどに僕は動揺したのだ。
「え? なにが?」
部活で悩んでいることは、誰にも言っていなかった。今考えると、周りが僕に気を遣って、敢えて話題にしてこなかっただけかもしれないけれど、当時の僕は、自分が悩んでいることを、誰にも気付かれていないと思っていたから、清志の問いかけは予想もしていないものだった。
結局その時は、僕が誤魔化したから、それ以上話題を掘り下げられることはなかったけれど、今回は同じようにはいかなさそうだ。それに僕も少なからず、話を聞いてほしいという思いを抱えていたのかもしれない。
「こないだ、一緒に遊んだ相良っていただろ」
「おお! 可愛いおまえの後輩な」
「まあ、可愛いかどうかはともかく、その後輩」
清志は「相良くんに何かあったのか!?」と、声を高くして身を乗り出してきた。
「うん。……実は、出勤してこなくなっちゃったんだ」
「え? それってつまり、とんだってことか?」
僕はグラスの結露を眺めながら、相良と遊んで以降に起こったこれまでの経緯を簡単に話した。休日に出勤させられて、働いていたこと。それがおそらく神田川の命令であろうこと。なんとかしようと僕と田曽井が動こうとしたが、相良に逆ギレされたこと。その後から彼が出勤してこなくなったこと。そして、相良の家まで様子を見に行ったが、会えなかったこと。
「全く、世の中ってのは、理不尽だよなあ」
僕が話し終えたとき、清志は開口一番にそう言った。「相良くんってのは、オレにはよくわからんけど、真面目なヤツだったんだろ? そんなヤツが潰されちまって、出世に目がくらんだゴミがのさばってるなんてさ、なんかモヤモヤするよな」
「出世に目がくらんでるのかどうかはわからないけど……」
神田川の冷酷そうな眼差しを思い出しながら、清志が強い言葉を使ったことに、驚いた。清志は普段、あまり人のことをひどく貶さない。そんな彼が、関係性のない人物に対して、『ゴミ』と呼んだことで、波風がうねる心中を察することができる。
「でも、なんで神田川は、相良をそんなに目の敵にしてるのか、僕にはよくわからないよ」
「そんなもん、どうせきっかけは些細なことだろ。例えば、相良くんがその神田川ってやつに迷惑をかけたことがある、とか、相良くんの言動が気に食わなかったとか、な」
「上司なら、部下にいくら迷惑をかけられたって、水に流すしかないと思うけど」
「上司って名のつくヤツらがみんな、そんな聖人君子みたいな考えを持ってるわけじゃねえってことだろ」
清志は、座ったまま、うーんと背伸びをして、その後首筋をぽりぽりと掻いた。「アキトはその清廉潔白なままでいてくれよな」
苦笑する。清廉潔白と清志は言ったが、僕は心が綺麗なのではない。世間の何たるかを、これっぽっちも知らないから、思考が浅いだけなのだ。努力も苦労も、大凡、人並みにはしてこなかった。そして人間関係に亀裂が入らないように、当たり障りのない人付き合いを心がけてきた。そのせいで僕は、人に怒らない、人を貶さない、誰かのことを悪く思わないと、周囲の人々に思われることが多い。心の中で、何を思っていたとしても、だ。どうやら、清志にまで、そう思われているようだ。人との関わり合いの中で、時として生じる憤りや憎悪、鬱憤といった負の感情を抱くことが表に出さないが故に、いざそれが心に芽生えたときに、どう昇華したらうまく生きていけるのかを、僕は知らない。
清志の声が耳に飛び込んできて、ふと我に返ると、彼のまんまるい目が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。彼と僕は、パソコンの表計算ソフトによく似た名前のチェーン店のカフェで、カフェラテを一つずつ挟んで向かい合って座っている最中だった。
「そんな不思議そうな顔して、とぼけてんなよ」
清志の表情が、きゅっと引き締まる。テーブルの上に置かれていた彼の掌が、握りこぶしに変わった。
「別にいつも通りだけど」と、ぼそぼそと言った僕には、清志にそんなことを言われる心当たりは全くなかったが、心臓は悍馬のように、どくんと跳ね上がった。
「アキトはあんま喋んないほうだけど、今日は一段と口数が少ないぜ。オレの話も上の空だし、なんか考え事でもしてんのか?」
「上の空?」
僕の鸚鵡返しに、清志はああと頷いた。「じゃあ今、オレが話してた内容、言ってみろよ」
そう言われて、僕はうんともすんとも答えられなくなった。確かに清志は、何かを楽しそうに話していた。僕もうんうんと相槌を打っていた。それなのに、話の内容はと改めて問われると、答えが出てこない。これは、僕が彼の話を微塵も聞いていなかったのだと、認めざるを得ない。
「……ごめん」
気まずくなった僕は、それを誤魔化すかのように、おもむろにカフェラテを啜った。考え事をしていたのかと問われても、その答えはノーとなる。つまり僕は清志に訝しげな眼差しを向けられるまで、無意識に呆けていたというのだ。
清志は、僕の様子がおかしい時に、それを見透かしてくるのが上手い。思えば、学生時代にもこんなことがあった。
当時の僕は、部活での記録がうまく伸びなくて、密かに悩んでいた。自分がそんなものに心を惑わされていることを誰にも悟られたくなかったし、数字に囚われて一喜一憂している自分自身に、僕が一番驚いていた。
「アキト、なんか最近悩んでんのか?」
清志はその時も、単刀直入に僕を斬り込んできた。昼休み、学食で日替わり定食を挟み、二人で向かい合っているときのことだった。箸で挟んでいた唐揚げが、大皿の中にごろりと落ちる。それほどに僕は動揺したのだ。
「え? なにが?」
部活で悩んでいることは、誰にも言っていなかった。今考えると、周りが僕に気を遣って、敢えて話題にしてこなかっただけかもしれないけれど、当時の僕は、自分が悩んでいることを、誰にも気付かれていないと思っていたから、清志の問いかけは予想もしていないものだった。
結局その時は、僕が誤魔化したから、それ以上話題を掘り下げられることはなかったけれど、今回は同じようにはいかなさそうだ。それに僕も少なからず、話を聞いてほしいという思いを抱えていたのかもしれない。
「こないだ、一緒に遊んだ相良っていただろ」
「おお! 可愛いおまえの後輩な」
「まあ、可愛いかどうかはともかく、その後輩」
清志は「相良くんに何かあったのか!?」と、声を高くして身を乗り出してきた。
「うん。……実は、出勤してこなくなっちゃったんだ」
「え? それってつまり、とんだってことか?」
僕はグラスの結露を眺めながら、相良と遊んで以降に起こったこれまでの経緯を簡単に話した。休日に出勤させられて、働いていたこと。それがおそらく神田川の命令であろうこと。なんとかしようと僕と田曽井が動こうとしたが、相良に逆ギレされたこと。その後から彼が出勤してこなくなったこと。そして、相良の家まで様子を見に行ったが、会えなかったこと。
「全く、世の中ってのは、理不尽だよなあ」
僕が話し終えたとき、清志は開口一番にそう言った。「相良くんってのは、オレにはよくわからんけど、真面目なヤツだったんだろ? そんなヤツが潰されちまって、出世に目がくらんだゴミがのさばってるなんてさ、なんかモヤモヤするよな」
「出世に目がくらんでるのかどうかはわからないけど……」
神田川の冷酷そうな眼差しを思い出しながら、清志が強い言葉を使ったことに、驚いた。清志は普段、あまり人のことをひどく貶さない。そんな彼が、関係性のない人物に対して、『ゴミ』と呼んだことで、波風がうねる心中を察することができる。
「でも、なんで神田川は、相良をそんなに目の敵にしてるのか、僕にはよくわからないよ」
「そんなもん、どうせきっかけは些細なことだろ。例えば、相良くんがその神田川ってやつに迷惑をかけたことがある、とか、相良くんの言動が気に食わなかったとか、な」
「上司なら、部下にいくら迷惑をかけられたって、水に流すしかないと思うけど」
「上司って名のつくヤツらがみんな、そんな聖人君子みたいな考えを持ってるわけじゃねえってことだろ」
清志は、座ったまま、うーんと背伸びをして、その後首筋をぽりぽりと掻いた。「アキトはその清廉潔白なままでいてくれよな」
苦笑する。清廉潔白と清志は言ったが、僕は心が綺麗なのではない。世間の何たるかを、これっぽっちも知らないから、思考が浅いだけなのだ。努力も苦労も、大凡、人並みにはしてこなかった。そして人間関係に亀裂が入らないように、当たり障りのない人付き合いを心がけてきた。そのせいで僕は、人に怒らない、人を貶さない、誰かのことを悪く思わないと、周囲の人々に思われることが多い。心の中で、何を思っていたとしても、だ。どうやら、清志にまで、そう思われているようだ。人との関わり合いの中で、時として生じる憤りや憎悪、鬱憤といった負の感情を抱くことが表に出さないが故に、いざそれが心に芽生えたときに、どう昇華したらうまく生きていけるのかを、僕は知らない。