営業所に戻ると、何やら構内がざわついていた。荷下ろし場に人だかりが出来ている。何事だろうと思い、「どうかしたんですか」と、近くにいた社員に尋ねる。
「田曽井さんと神田川さんが言い争ってて……」と、その社員は伏し目がちに言った。
「え?」
 僕はすみませんすみませんと、人をかき分けて、人だかりの先頭へ飛び出した。そこには、向かい合って対峙する田曽井と神田川、それに田曽井の背後で腕を前に組み、俯きながら震えている相良の姿があった。
「だからさっきも言いましたけど、ここまで大袈裟にことを荒立てるようなことでもなかったでしょう」
「大袈裟にしたのはどっちだ。お前がいちいち首を突っ込んでこなければよかったんじゃないのか」
 神田川を睨む田曽井に、嘲笑で受ける神田川。僕は状況がよく分からず、「何があったんですか」と、隣で固唾を飲んでいる社員に聞いてみた。
「あそこで俯いてる子が、破損している荷物を客に謝らずに配達してしまったらしい。それでクレームが来て、神田川さんが謝罪に行ったんだけど、その後あの子に注意してたら、田曽井くんが割って入ってきたんだ」
 ここに人だかりを造っている社員たちの多くは、神田川が相良にパワハラをしている疑いがあることは、おそらく知らないだろう。だから、僕に説明をしてくれたこの彼も、なぜ田曽井が二人のあいだに割って入ったのか、疑問に思っているのかもしれない。
「オレも回収してきた荷物を見ましたけど、荷姿を見ただけじゃ、中身が破損しているなんて思いもしなかったと思いますよ。ダンボールはどこも破損していなかったし、相良が何も言わずに配達したのも、致し方ないんじゃないですか」
 田曽井は淡々とそう言った。神田川の眼鏡の奥の目が、キュッと細まる。こうして見ると、彼は運送会社の配達員というよりは、胡散臭い理系のビジネスマンのような見た目をしている。シバイヌのポロシャツではなく、スーツを着て、どこかの商社に紛れ込んでいても一瞬にして馴染みそうだ。腕っ節の力ではなく、理論で相手も打ち負かそうとしそうなのに、相良に対する仕打ちが事実だったとしたら、見た目からは乖離した印象だ。
「だから何だ。俺はそんなことを言っているんじゃない。そいつが素直に自分の非を認めなかったことに、注意をしただけだ。」
「破損に気づかなかった、と相良は言っただけですよね。自分の状況を説明しただけで、非も何もないでしょう」
「言い訳だ。客にそんなことが通じると思っているのか」
「客には謝罪をしたんだからもういいでしょう。俺らの間では『運が悪かったな』で済むようなことを、いつまでもネチネチネチネチ言ってるから、相良も萎縮しちまってるじゃないですか」
「始めからそうやって危機感も持たずに仕事をさせていたら、いざ大きなクレームになった時にどうするんだと、俺は言っているんだ」
 二人の押し問答がなかなか終わらないので、人だかりはやがてばらけていき、残されたのは僕だけとなる。みんな各々の業務が残っているのだろう。神田川と田曽井が取っ組み合いの喧嘩でも始めたらえらいことになりそうだが、今のところはそんな様子はなさそうだから、みんな関心を示さなくなったのだ。社員同士の小競り合いは、血の気の多い男たちが集う会社ではたまにあることだ。それにいちいち干渉していたら、身がもたない。とはいえ、僕には他人事とは思えなかった。無視をしてはいけないと思いつつも、今更僕まで参戦したら、余計に話がこじれるかもしれない。だから僕は、何をするでもなく、そこに立ち尽くして、成り行きを見守っていた。
「あ、あの、す、すみませんでした、おれ、もっと気をつけて、仕事、します」
 険悪な二人の間を埋めるかのように、相良が田曽井の横に出てきて、震える声で言った。神田川に深々と頭を下げる。伸びた手が、スラックスのクリースのあたりを、ぎゅっと掴んでいる。
「俺の足を引っ張りやがって、クズが」
 神田川は、吐き捨てるように言うと、田曽井と相良の脇を、早足で通り去っていった。構内の、荷物を流すベルトコンベアの轟音に紛れて、相良が鼻を啜る音がはっきりと聞こえた。肩を震わせ、腕で目頭を拭う姿を見た僕は、居た堪れなくなって、神田川の後を追いかけた。
「待て!!!!」
 いくら班が違うからといっても、神田川は営業主任という肩書きをもつ目上の人間だ。そんな人に投げるべき言葉ではない。頭の中では分かっていても、込み上げてくる怒りが理性を制御できなかった。神田川が立ち止まり、振り返る。奴の名を呼んだわけではないのに、反応したのは、自身に心当たりがあるからなのだろう。
「誰だお前」
 僕に投げつけてきた言葉の冷たさに、一瞬怯んだが、「久住班の、城谷です」と名乗る。
「フン、相良のお気に入りか」
「別にそんなんじゃないですけど、さっきのは言い過ぎじゃないですか?相良に謝ってください」
 感情の成すがまま、僕は神田川に詰め寄った。上背は奴の方が大きいが、身体の厚みは僕の方が勝っている。万が一殴りかかられても、負けはしないだろう。
「他所の班の者が、口を挟むな」
「誰であろうと関係ない。まだ経験の浅い新人を泣かせるなんて、上司失格だ!」
 今度は僕が注目の的になる番だった。営業所に帰ってきたドライバーたちがその後の業務のために集まる部屋をドライバーズルームというが、そこから何事かと顔を出して見てくるドライバー然り、帰り際に気まずそうに横を通っていく社員然り。田曽井の時と違うのは、周りに人だかりはできないところだ。
「口の利き方がなってない奴だな。社会人失格だぞ」
「話を逸らすな!おま……あなたのやっていることはパワハラだ!仮に相良に非があったとしても、あいつを貶めていい理由にはならない!」
 僕も思わず口を滑らせてしまいそうだったが、寸でのところで言い直した。怒りやら焦りやらで身体が熱くなって、冷や汗が背中に流れるのを感じる。
「アキトさん、すみませんおれのせいで……もういいっす。アキトさんまで巻き込んで騒ぎにしたくないです」
 パタパタと足音を鳴らして、相良が近寄ってくる。目が潤み、赤くなっている。彼がそう言うなら……と引き下がることも一瞬考えたが、ここでうやむやになってはいけないと、後には引けなかった。
「やめておけ」
 口を開こうとした僕の腕を引っ張ったのは、田曽井だった。思いのほか、強い力で腕を掴まれる。僕が振り解いて、神田川に突っかかっていかないためだろうか。田曽井の顔を見ると、鋭い眼光を投げかけられ、たじろいだ。
「あまり騒ぐな。気持ちはわかるが、相良の気持ちも分かってやれ」
「……」
 僕はあまり納得がいかなかったが、田曽井の言うことに従った。神田川はチッと舌打ちをして、場から離れていく。ドライバーズルームから顔を覗かせていた他の社員たちも、騒ぎが収まったと認識したのか、各々の業務へと戻っていった。僕は怒りを燻らせたまま、「残荷を片付けてくる」とぶっきらぼうに言い放ち、田曽井と相良とは目も合わせずに、トラックへと戻った。僕がもっと分別の無い人間だったとしたら、壁や物に当たっていたかもしれない。それほどに、感情のやり場に困っていた。
「くそったれ……」
 トラックの荷台に僕の独り言が虚しく響いた。

「城谷、ちょっといいか」
 業務が終わり、着替えを済まして更衣室から出た僕を、田曽井は待ち構えていたようだ。隣には相良も立っていた。僕を見て、ぺこりと頭を下げる。肩から提げているショルダーバックの紐を、両手でぎゅっと掴んでいた。
 僕に拒否権はない。田曽井、相良、僕の順に並んで廊下を歩き、階段を降りる。三人揃って社員証を機械にかざし、退勤の打刻をした後、建物の外に出た。営業所の入り口のすぐ近くには、自販機が並んでいて、ベンチが何台か置かれている。さらには灰皿も設置されているから、業務の合間や終業後に、そこでたむろして雑談をしている社員を見かけることが多い。
 田曽井は自販機で飲み物を三本買い、僕と相良に一本ずつ投げて寄越した。
「ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
 僕には水、相良にはオレンジジュース。そして自分は缶コーヒー。それぞれの好みの飲み物を購入してくれたようだ。
「お前があんなにキレるとは、ちょっと意外だった」
 ベンチに腰をおろした田曽井は、缶コーヒーのプルタブを開け、空を見ながらそう言った。相良もそれに倣う。僕も続くと、相良を真ん中にして三人の男が夏空を見上げながら飲み物を飲んでいる光景が出来上がった。
「い、いや、だってあれは」
 夜とはいえ、真夏だ。昼間ほどではないが、じめじめと蒸された空気が身体にまとわりつく不快感は、健在だった。時折吹く申し訳程度のそよ風が心地よい。
「おれがもっとちゃんとしてたら、田曽井さんにもアキトさんにも迷惑をかけることはなかったと思います。すみません」
 相良が言葉にも缶を握る手にも力を入れて言った。アルミ缶がペコっと鳴る。
「相良、お前はあまり自分を卑下するな。卑屈になると、どんどん病んでいくぞ」
「……はい」
「社会なんてな、理不尽なことしかないもんだ。どこに行っても、どんな仕事をしていても、神田川みたいなヤツはいる。相良がこの先どんどん成長して、俺たちより優秀なドライバーになったとしても、ああいうヤツはお前の揚げ足取りをしてくるだろう。そんな糞みてえなヤツに人生を狂わされるなよ。お前が頑張ってることは、みんな知ってるから。なんかあったら、俺と城谷が守ってやるから、元気出せ」
「……うぅ」
 相良が俯いて、ズズズっと長く鼻を啜った。田曽井はぽんぽんと優しく、相良の頭を撫でる。
「僕も班は違うけど、いつでも頼ってよ」
「暴力沙汰は起こすなよ」
 間髪入れずに田曽井が茶化してくる。「うるさい」と一蹴し、そっぽを向いて、水をがぶ飲みした。
「リングの上ならあんなヤツ、ボッコボコにしてやるんだがな」
 そう言って田曽井は缶コーヒーを飲み干し、その缶をぐしゃりと潰した。僕はぎょっとする。スチール缶を片手で潰せる人間を見たことがなかったからだ。田曽井なら、リンゴも粉々に砕いてしまうんじゃないだろうか。
「お二人とも、ありがとうございます、おれ、頑張ります」
 顔をあげた相良に笑顔が戻っていた。目はまだ潤んでいたが、「ちなみに頭の中で、主任を何回もブッ飛ばしてます」と、拳をつくってみせてきた。田曽井がにっと笑い、「オマエもなんかやってたのか」と聞くと、相良が「学生時代は喧嘩ばかりしてたっす」と言ったものだから、僕はまた驚いた。喋り方からしてやんちゃそうな奴だなとは思っていたけれど、学生時代の彼は、僕が考えていた以上のやんちゃっぷりだったのかもしれない。
「よく我慢したな」
「やっぱ、大人になって、真面目に生きようと思ったんで、なるべくキレないようにって決めてました。社会に出たら、ガキの時の喧嘩の強さなんて、なんの役にも立ちませんから。でも、悔しいもんは悔しいし、お二人の優しさに感動して、ちょっと泣いちゃったっす」
「神田川のパワハラを、課長や所長に報告する気はないの?」
「アキトさんはどう思うんすか」
 相良がオレンジジュースの蓋を開け、ぐびぐびと飲んでいる間に、僕は考えた。
「僕なら、する、かな」
「おれはしません。めんどくせーし。いつか、おれにしてきたことが公になって、自滅してくれるのを待つっす。冷凍庫に閉じ込められた時は焦ったけど」
 僕は相良のことを少し誤解していたかもしれない。お調子者だけど、少し気の弱い子犬のような奴だと思っていた。だが、実際は違う。子犬も牙を剥く時だってあるのだ。いや、もしかすると彼は子犬のふりをしているだけかもしれない。愛らしく振る舞って、味方をつくり、いざという時には敵を欺く。良い意味で狡猾な獣のように。
「冷凍庫の件、神田川にやられたって気づいてたの?」
「はい。直前におれ、主任に怒られてましたし、冷凍庫に荷物を返しにいく時、近くに主任がいましたから。最初は自分の不注意で鍵が閉まっちゃったのかなと思ってましたけど、そんなことありえないはずだし」
「神田川がやったっていう証拠はあるのか?」
「もちろんっす」
 そう言って彼は得意げな表情でポケットからスマホを取り出した。しばらく操作して、僕たちに画面を見せてくる。そこには、営業所の防犯カメラのモニターを映した動画が表示されていた。
「守衛のおっちゃんに頼んで、あの日の防犯カメラの映像を見せてもらったっす。『荷物を無くしちゃったみたいで』って頼んだらすんなり確認させてくれました。おっちゃんがタバコを吸いに行ってる間に、この映像を観ました」
 相良のスマホの中の動画に映るモニターには、彼が冷凍庫に入った後、扉の鍵を閉める神田川の姿がはっきりと映っていた。
「おれの切り札っすよ。ちゃんと家のパソコンにバックアップも取ってます。もしスマホを壊されたとしても、証拠は消えないっす」
「すげえじゃん」
 田曽井はなぜかとても嬉しそうにそう言った。「オレとしてはすぐにでもその動画を拡散してほしいところだけど、まあ、それは相良の気持ちを尊重するよ」
「田曽井さんが言うなら、考えときます」
 相良が言い終えた後、一際強い風が吹いて、僕はぶるっと身体を震わせた。
「ふうん、良かったじゃない。相良くんもやられてるだけじゃなかったのね」
 里菜が僕の背中の上に乗ったまま、感心した様子で言った。家に帰ると里菜が出迎えてくれたのだ。合鍵を使って僕の家に入っていたようだ。随分と待ちくたびれていたようで、手持ち無沙汰となっていた彼女は、僕が日課としている筋トレの、プランクをこなしている時に、ふざけて背中に乗ってきたのだ。僕はフーッと息を吐き、時間が流れるのを待った。胸筋や腹筋がぎゅっと収縮し、身体が地に着くまいとぷるぷる震えている。汗が床に流れ落ちて、小さな水溜まりができていた。
「相良も、ちゃんと、自分の、身を守るために、いろいろ、考えてて、良かった」
 女とはいえ、いつもより大人の人間一人分の負荷が上半身にかかっているのだ。一句一句、言葉を絞り出すように、話す。床に着けている腕が痺れてきて、頭がぼうっとなってきた頃、セットしたスマホのタイマーが鳴り、それと同時に僕は床に平伏した。
「お疲れ」
 人を乗せての三分間のプランクは、拷問に近い。僕は荒い呼吸がしばらく止まらず、うつ伏せのまま動けないでいた。
「やば、死ぬかと思った」
「そりゃあ、私を乗せて十分もやってたらそうなるわよ」
 里菜は呆れたようにそう言ったが、僕が頼んだわけではない。彼女が勝手に上に乗ってきたのだ。僕は起き上がって「シャワー浴びてくる」と言い残し、リビングを後にした。

 風呂からあがって、ソファーに座っていると、里菜が横に座り、僕の太腿の上に頭をのせてきた。
「こんな動画が送られてきたよー」
 そう言って里菜は、自分のスマホを僕に見せてくる。そこに映っていたのは、ほんの数時間前に、僕が神田川に刃向かった時の様子だった。
「……撮られてたんだ」
 冷静になってみると、自分の行為に恥ずかしくなってくる。画面の中の自分は、誰が見ても自分なのに、僕から見たら、どこか別人のように思えてしまう。
「カスタマーのみんなが話題にしてたよ。『いつもはおとなしい城谷さんがあんなふうに言ってるの初めて見た』って」
「うぅ……」
「アキトはカスタマーの女の子たちのなかで、人気なんだよー。ドライバーの人達ってね、業務におわれてると、私たちとの電話のやりとりで、結構きつく当たってくる人もいるんだけど、アキトはいつ電話しても、丁寧に受け答えしてくれるから、身構えなくていいって評判。それにルックスもいいし」
「……そんな褒めても、何も出ないぞ」
 僕はそっぽを向いた。シバイヌのカスタマー課に配属されている社員は、管轄内の客からの問い合わせを全て引き受け、要望や再配達の受付、時には苦情などの対応を担うのが仕事だ。その中で実際に現場にいるドライバーにも連絡を取ることがしょっちゅうあるが、ドライバーの中には、社内の人間だからと軽い気持ちで、その時の機嫌で態度を変える人もいるらしい。
「照れちゃって」
 里菜がにやにやと笑う。「あと、神田川主任の相良くんに対する仕打ちも、カスタマー内では結構話題になっててね、管理職の人達はなぜ動かないのかって、結構みんな思ってるんだよ」
「相良が声をあげないから、見て見ぬふり、みたいな対応をされてるのかな」
「そうかもねー」
 語尾を間伸びさせて、里菜が立ち上がる。「お腹空いてるでしょ、ご飯にしよう」
「そうだね」
 里菜と話をしていると、よく話題が変わる。僕が内心「え?もう話終わったの?」と戸惑うくらい、突然別の話を振ってくることが多いのだ。女の子ってそういうものなんだろうか。
 食卓に出されたのは、鶏の唐揚げ、味噌汁、サラダ、ご飯。別に気を衒ってお洒落なものでなくても、ご飯を作ってくれるだけで、僕は充分嬉しい。コップにお茶を注ぐ音が耳に心地よい。僕は酒を飲まない。飲めなくはないけれど、ドライバーとして働く以上、次の日にアルコールが体内に残っていたら……と思うと、手が伸びないのだ。別に無理して飲みたいものでもないから、苦ではない。
「いただきます」
 箸をとり、唐揚げを摘もうとした時、僕のスマホが鳴った。電話だ。
「もう、なんだよ」
 お預けを喰らったような気分になり、立ち上がりソファーに戻ると、画面には「キヨ」と書かれてあった。
「もしもし」
「おう、アキト。オレオレ」
 一昔前に流行った詐欺の手口のような言葉選び。僕が小さく息を吐くと、お腹がぎゅるるとなった。
「どうしたの」
「オレこないださあ、アキトの車にサンダル忘れてなかったか?」
「後部座席にそれっぽいのがあった気もするけど」
「ごめんなぁ。また次会ったときでいいからさ、持ってきてくれよ」
「うん」
「いま家か?」
「うん、ご飯食べようとしてたところ」
「悪りぃ、じゃ、切るわ。また遊ぼうなあ」
 別に大丈夫、と言う前に、電話が切れる。タイミングが悪かったと、清志に思わせてしまったかもしれない。ああ見えて、結構気にしすぎな面もあるからなあ。
「電話、誰から?」
 食卓に戻ると、里菜は先に食事を始めていた。今度こそ、と箸をとり「キヨ」と答える。二人は面識がないけれど、僕がよく彼のことを話題に出すから、里菜も清志の名前とあだ名くらいは知っているのだ。
「そういえばこの間、海に行ったとか言ってたわね。私も行きたかったなあ」
「里菜は仕事中だったからね」
 僕が言うと、里菜の箸が止まり、一瞬不自然な沈黙が流れた。何か変なことでも言ってしまったかと焦る。里菜はクスリと笑って「アキトってたまにバカだよね〜」と困ったように呟いた。
「こういう時は、『今度一緒に行こうね』とかって言ったほうがいいと思うよ」
「うん、ごめん」
 そうは言ったが、僕にはまるでその発想がなかった。里菜と二人で、海に行くという考えが、だ。別にそれが嫌なわけではないと思う。それなのに、思考回路からすっぽりと抜け落ちたように、気の利いたことのひとつも言えなかった。
 唐揚げを咀嚼しながら、何故だろうと考えてみる。思えば学生時代から、海には何度も行っているが、その全てが男友達とだった。そのせいだろうか、里菜に気の利いた言葉のひとつも出なかったのは。
「私、お酒呑みたい。ある?」
「あるよ!」
 僕はぴょんと跳び上がるように立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを出した。グラスと共に里菜の前に置く。
「ありがと」
 里菜はにっこりと笑い、グラスにビールを注いだ。「アキトはお酒飲まないのに、いつもちゃんと私のために置いてくれてるんだね」
「当然だろ、それくらい」
「なかなかできることじゃないよ、優しいね」
 里菜はグラスを持って、僕の横に座った。ことりと音が鳴り、グラスがテーブルの上に置かれる。そのまま彼女は、僕の裸の胸に顔をうずめ、すうっと大きく鼻から息を吸った。僕はそんな里菜の上半身を、腕でそっと抱き締める。
「しばらくこうしてて、いい?」
 上目遣いに言った里菜に、僕はこくりと頷いた。
「里菜ってほんとに筋肉好きだよな」
「ばか、改めて言われると恥ずかしいじゃない」
 里菜の細い腕が、僕の腕に絡みつく。自然とそこに力が入る。「アキトの身体、今まで会ってきた男の人の中で、一番好みなんだもの」
「これが維持できるように頑張るよ」
 苦笑する。仮に僕が急激に太ったとして、膨らみのある胸筋も、八つに割れた腹筋も、力を入れなくても自然とできる力瘤も失ったとしたら、里菜はそれでも僕の彼女としていてくれるのだろうか。そしてその時の僕は、果たしてそれを望んでいるのだろうか。まだ来ぬ未来のことは、いくら考えても結論は出ないものだ。
男には、女から一定のステータスが求められるものだ。ルックス然り、年収然り。中には、軽自動車に乗っている男は駄目(この時点で僕とは感性が合わない)だの、学歴がない男は駄目だとか、スポーツが出来ないと駄目だのという人もいる。随分と相手に求めるものが多いなと、僕は思う。その点、普段の里菜は、あまり僕に何かを求めてくることはない。それは自分の方が年上だからという大人としての余裕からきているものなのか、別の理由なのか……。そんな里菜が僕の体型維持を求めるのならば、それを完遂することなど、至極容易いことだ。
「アキトぉ、オレは嬉しいぞ〜!こうしてオレに会いにきてくれるなんて!!」
 人目を憚らずに、感嘆の叫び声をあげ僕に抱きついてくる男がいる。清志だ。あまりの恥ずかしさに、僕は持っていたバッグを落としてしまった。清志と待ち合わせをした駅前は、通勤の時間と重なっていることもあり、そこそこ人通りもあった。通行人の幾らかは、清志の大声に驚き、怪訝そうな表情で僕たちを見る。朝からうるせえよと思われているに違いない。
「朝から元気、だね」
 胴体に清志がまとわりついたままではあったが、とりあえずバッグを拾う。今日の清志は、黒いタンクトップの上に前あきのカラーシャツを羽織っている。水色を基調としたそれはよく見ると白いマーガレットのような大きな花柄が生地全体に散らばっていた。
「テンション上げてかないと、やってられねーよ。折角の親友との貴重な休日なんだからさあ」
 聞けば、以前清志が悩んでいた、「好きでもない女」からの誘いは、受けなかったという。それ以来、何だか気まずくなって、職場のサッカーチームの集まりには顔を出していないらしい。今日も本当はそれがある日らしいのだが、大事な用があるからといって休んだとヘラヘラ言っていた。
「別にオレがいなくとも、チームは回るさ」という清志の表情は、ちょっとだけ哀愁が漂っているようにも見えた。
「で、オマエの可愛い後輩は、どこにいるのかなー?」
 そんな清志が突然、相良に会ってみたいと言い出したのが数日前。それから今日までの間、僕が相良に根回しをして、ちょうど三人の休日が被った今日、遊びに行こうぜと、トントン拍子にことが進んだのだ。
「相良なら、僕の車で待ってるよ」
「待たせてたら悪りぃから、早く行こうぜ」
 清志は僕の先を行く。途中でコンビニに寄って、アイスコーヒーを二人分と、オレンジジュースを一本購入した後、駅のロータリーに停めてある僕の車に戻った。
「きみが噂のサガラくんか!オレ、桜庭清志。アキトの一番の親友、よろしくな!」
 清志は助手席に乗るなり、後部座席の方を振り返り、にこやかにそう言った。初対面なのに物怖じしない彼の言動には、いつも感心してしまう。
「あ、相良洸平っす。いつもお世話になってます」
「オレ、別にお世話してないけどなあ」
 清志はそう言ってゲラゲラ笑う。後部座席に縮こまって座る相良は、いつにも増して忠犬のようだ。僕が渡したオレンジジュースのボトルを、大事そうに両手で抱えている。車が走り出す。BGMの一曲目は、いつもたくさんの観衆から「あなたは特別だ」と褒め称えられているが、心の中では人のために踊り続けるしかない自分を哀れだと思うようになってしまったという一人のダンサーの歌だ。猿のように踊り続けるしかないのかと、自分を卑下している。コミカルな曲調と、一聴しただけで頭に残る個性的な声が織りなす楽曲の中に、哀愁が漂っている。毎日誰かのために荷物を運び続ける僕。人生の大半を、荷物運びで終わらせていいのだろうかと、ふと考えてしまう。それでも生きるためには金を稼がないといけない。難しい問題だ。
 車は国道を走り、街の中心部から離れていく。車内は空調が効いているから分からないが、アスファルトには陽炎が見えることから、外は相当な暑さだ。清志と相良の会話も、ヒートアップしていた。
「ほんとまじうざいんすよ。自分がちょっと偉いからって、おれを目の敵にしていじめてくるんすよ。あ! いじめって言っちゃったけど、あれはれっきとしたいじめっす。おれが出るとこ出たら、あいつもブタ箱行きっすね」
 曲を聴いていたから、二人の会話は全く聴いていなかったけれど、耳をすませると、相良は神田川のことを清志に愚痴っているらしかった。清志が話を吹っ掛けたに違いない。
「サガラ君もよく頑張ってるよなあ!オレならビビって引きこもっちゃうね」
「嘘つけ」
 突然会話に入った僕に気を遣ったのか、相良が「あ、つまらない話をしてすみません」と急に遠慮がちに言った。「いいよ、オフレコ。溜まってた分、全部吐き出せよ」と返すと「うっす」と嬉しそうに笑った。
「ひでえぞ!オレだって、たまには傷つくこともあるんだぜ」
「清志なら、会社の裏に神田川を呼び出して、ボコボコにしそうだけど」
「そんなん、オレがムショ行きになるじゃねえか」
「桜庭さん、すげえっす!!」
 相良の緊張も、すぐにとけたようだ。清志が苗字のさん付けで呼ばれているのを聞いたのは随分と久しぶりで、何だかおかしくなる。僕一人、口許が緩んで仕方がなかったので、ぎゅっと歯を食いしばった。

 車をパーキングに停めて、僕たちはアスファルトの照り返しの灼熱地獄の中を歩くことにした。駅前の中心街を外れたとはいえ、飲食店や商店街、ショッピングモールが立ち並ぶこの辺りは、まだ人通りもそれなりに多い。夏休み真っ只中の学生たちの眩しい声が、ざわざわと空中を蠢いている。色鮮やかなアクアブルーのTシャツに派手なアロハシャツ、ベージュのキュロットパンツなんかが視界に飛び込んでくる。自分の身体に自信がある人は、男女問わず、露出度が高めの衣装を身に纏っていたりする。
僕たち三人は、清志を先頭に、群衆の中を掻い潜って目的地へと目指した。車中で、清志がクレープを食べたいと言ったので、それに乗っかったのだ。

「へー、最近のクレープって色んなのがあるんすね!」
 クレープ屋に着いた途端、相良がショーケースに向かって駆け出していった。清志が肩をすくめて、アメリカのドラマのように大袈裟なジェスチャーを僕に見せてくる。
「未来ある若者よ、お兄さんが奢ってやろう」
「マジっすか! あざっす」
「あ、アキトは自分で買えよ」
 いつもは仕事中の相良しか見たことがなかったから、清志にすっかり懐いている彼を見るのは新鮮だった。三人で店の前のテラス席に座り、クレープにかぶりつく。僕は無難にチョコバナナを、清志と相良は、イチゴ、メロン、バナナ、生クリームを包んだ随分と合成なものを注文していた。
「うめええ!」
 相良が生クリームを口の周りにいっぱいつけ、叫んだ。僕も、自分の分にかぶりつく。なるほど、これは美味しい。
「相良くんは、彼女とか、いるのかい?」
 清志が、にやにやと笑いながら質問する。
「いないっす。絶賛募集中っす!」
「アキトでもいるのに、意外だなあ」
「でもってなんだよ」
「え? アキトさん、彼女さんいるんすか?」
 相良が目を丸くして僕を見る。里菜との仲は公然の事実だと思っていたが、それは流石に自意識過剰だっただろうか。
「お二人ともイケメンだから、モテるでしょうねえ」
 前から思っていたが、相良は食べるのが早い。一口が大きいのか、僕がクレープを半分食べている間に、彼はもう最後の一口を口に放り込んだ。
「いんや、オレは全くモテねえ」
「僕はそういうのはあんまり考えたことない」
 僕たちの発言に、相良は目を丸くして、僕と清志の顔を交互に見た。
「だいたい、そういうのって、モテてる人が言うんすよ。けっ」
 相良はふんと鼻を鳴らした。「時々、おれってなんのために生きてるんだろうって思うときがあるんです。仕事に負われる毎日で、恋愛とか遊びとか、全然できねーし、おれこんなんでいいのかなーって、虚しくなるときがあって」
「おいおい若いのにダイジョウブか? シバイヌってそんな過酷なのか?」
 今度は清志が目を丸くする番だった。僕は苦笑する。僕もよく、同じようなことを考えたりするよ、と心の中で思う。
「休みなんか寝てたら一日が終わっちゃうっす」
「もったいないもったいない、若いのにそんなつまらん人生、もったいないぜよ」
 有名な歴史上の人物の人みたいな口調で、清志が言う。清志もクレープの最後の一口を放り込んで、もぐもぐと咀嚼をする。僕も慌てて口の中に、残りのクレープを詰め込んだ。

「行ってみたいと思ってるところがあるんすよ」と、相良が言ったので、僕たちは岩盤浴のある、大衆浴場まで車を走らせた。クレープ屋を後にして、清志が「この後どうする?」と聞いてきた時、うーんと思いあぐねていた僕を案じてか、相良が挙手をして、岩盤浴に行ってみたいと提案したのだ。
 清志はよく大衆浴場に顔を出しているらしいので、その提案に乗り気だったし、僕も岩盤浴は未経験だけど、かと言って代替案はなかったので、流れに乗ることにした。
「清らか温泉」と看板を掲げたその施設は、随分とおしゃれな内装だった。どうも温泉というと、僕は和風をイメージしてしまいがちなのだけれど、ここは大理石のようなデザインが敷き詰められていて、ギリシャとか、そっち方面の建物のような雰囲気だ。清志みたいな響きの店名からはかけ離れたその様子に、僕は目を奪われた。
「靴箱に靴を入れて、鍵をとるんだ。無くすなよ」
 僕たちの中で唯一の岩盤浴経験者である清志が、二人に説明をしてくれる。僕と相良はいそいそと靴を脱ぎ、鍵についている輪っかを、手首に装着した。
「大人三人、岩盤浴で」
 清志が受付の女性に声をかける。そうすると、受付の彼女は、僕たちの靴箱の鍵についているバーコードをスキャナーでスキャンする。なるほどこれでお金の管理をするのかと気づく。
「館内でサービスを使うときは、全部このバーコードで管理して、最後にまとめて精算するんだ」と、また清志が教えてくれた。
 服のサイズを聞かれ、答えると、館内着を手渡された。岩盤浴に入るには、これを着るらしい。なるほど、あたりを見渡してみると、同じ服装をしている客が至るところに点在している。

「着ている服を全部脱いで、これを着るんだ。下着もだぞ、全裸だぞ全裸」
 男湯の更衣室で、清志がはしゃぐ。「岩盤浴に入る前に、風呂に入るといいぞ」
清志がいうには、風呂で毛穴や皮脂汚れを洗い流すことによって、汗腺が整えられ、岩盤浴で汗をかくときに、それがきれいなものになるらしい。
「アキトさん腹筋すげえ!」
 僕が服を脱ぐと、相良が叫んだ。あまりにも大きな声だったので、更衣室中にそれが響き渡り、周りからの視線が一気に僕に突き刺さる。正直、とても恥ずかしかった。
「やめろよ、恥ずかしい」
 恥じらう僕をみて、清志がうひゃうひゃと笑う。「アキトは水泳選手だったから、毎日バカみたいに鍛えてたんだぜ」
「すげーっす」
 相良はそう言って、自分もシャツを脱いだ。哀れむことはない、若者よ。相良も、ちゃんと身体が引き締まってるじゃないか。
 僕たちの中の誰よりも先に、生まれたままの姿になって、「チ◯チ◯、ブラブラ、ソーセージ」などと、今時小学生でもいわなさそうなことを口ずさみながら、浴場に入っていく清志の後を、僕と相良も追った。平日ということもあってか、ご年配の客が目立つ。僕たちは洗い場の隅の方で三人並んで身体を洗い、「天然」と銘打っている温泉の中に身を委ねた。
「あ〜〜〜」
 清志が褐色の腕を思いきり伸ばし、力の抜けた声を出した。相良は折り畳んだタオルを頭の上に置き、目を閉じてリラックスしている。僕はそんなふたりの間で、湯舟の外に見える青空をぼーっと眺めていた。
 三人とも、無言のまま時間はゆっくりと流れていく。僕たちがこの非日常を味わっている最中にも、誰かが代わりに、僕の担当コースの配達をやってくれているんだろうなとか、営業所の事務所で、誰かからかかってきた電話を里菜が対応しているのかなとか、目には見えない世界のことを考えた。時々、本当に時々だけど、かつて机を隣り合わせていたクラスメイトだとか、親だとか、しょっちゅう配達に行く顔見知りの人だとかは、今どこで何をしているんだろうと考えたりする。僕がそんなことを気にしたところで、誰のためにもならないことだけは確かだけれど、僕も同じように、誰かの脳裏によぎったりすることはあるのだろうか。
「おれ、社会人になってから気づいたことがあるっす」
 気づくと、相良が僕のすぐ隣まで来ていた。湯から腕を伸ばし、わしゃわしゃと顔を拭っている。僕は、彼の言葉の続きを待った。
「学生の時は、みんなが横並びの世界で生きてきたし、それが普通だと思ってたけど、社会に出てみると、その横並びで生きてきたやつが、いつの間にか上にいたり、下にいるように思えたりするんです」
 相良は言う。学生時代は、『学校』という狭い世界の中で、成績の良し悪しなんかはあれど、概ね一定のペースでみんなが日常を過ごしていた。しかし、学校を卒業して、社会の波に揉まれるようになった今は、周りのみんながどんどん離れていってしまっている。学校の『卒業』が、社会人としてのスタート地点だとしたら、そこに留まったままの者もいれば、ゆっくりと歩んでいる者もいる。途轍もない速さで、頭ひとつ抜けて走り抜いていった奴もいる。後ろを向けば安心してしまう自分がいる。前を向けば、途端に焦りが生じてしまう。
「おれはおれの人生を歩んでいるだけなのに、一体何を焦ってるんすかね」
 頭ではわかっているんすよと、相良は苦笑した。
「おいおい若者、なーに悩んでんだよ」
 清志だ。彼は頭に手ぬぐいをのせたまま、すーっと相良に近寄って、肩を組むように、腕を彼の首にまわしてみせた。清志のスキンシップがやたら多いのは、僕だけにかと思っていたが、そうではなさそうだ。社交的な性格というのは、誰かと距離を縮めることに何の躊躇もしないのだろうか。そうだとすると、結構、羨ましい。
「平凡に生きるって、難しいっすね。キヨさんはいつも楽しそうだけど、悩みとかあるんすか」
 いつの間にか、相良から清志への呼び方も変わっている。人の懐に一段深く潜り込むのは、一体どんな基準で決めているのだろう。
「オレなんかどうせ何の悩みもねえだろって言いたいのかよ!」
「ち、違いますよ!」
 相良が慌てたように言う。
「オレにも悩みのひとつやふたつやみっつくらいあるっつーの」
 清志はむくれてそう言ったあと、温泉たまごが食いてえと呟いた。僕も食べてみたいと思っていたら、相良もそれに乗っかったので、僕たちは早々に切りあげて、施設の中の売店を目指したのだった。
里菜の目つきを見た途端、僕は身の危険を察知した。以前、里菜がこうなってから、半年ぶりくらいか。後ろ手に玄関の扉を閉めながら、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「やっと、帰ってきた。待ってたのよ」
「う、うん」
 大手通販の特売だか何だかで、いつもより一段と荷物が多い日だった。時計は夜の十一時前を指している。体は疲弊し、睡魔が押し寄せてきていた。明日が休みなのが幸いだ。いや、今日に限ってはそうとも言えないかもしれない。
「おかえり、アキト」
「……た、ただいま」
 やけに勿体ぶって挨拶をしてくる里菜に、僕は身構える。
「どうしたの? なんか、怖がってみたい」
「い、いや、別に」
 これから自分の身にふりかかるであろう出来事を考えると。胃から酸っぱいものが込み上げてきそうだ。僕は再び、唾を飲み込んだ。
 玄関の框を上がり、里菜の横を通り過ぎた僕の後ろを、彼女は無言でついてくる。リビングを横切り、寝室に入った僕は、通勤用のリュックを床に下ろして、半身をかがめた。
 視界がぐわんと揺れ、体がバランスを崩し、前のめりに倒れ込んでしまう。背中の真ん中あたりが、じんじんと痛い。背後から、里菜に蹴り飛ばされたのだと、僕は思った。
「こっちを向きなさいよぉ」
 里菜は僕の両肩を掴み、無理矢理に体をひねる。思いの外、強い力だった。痛みには逆らえず、僕は仰向けの体勢になった。
 里菜と目が合う。彼女の白目は血走っていて、心なしか目が吊り上がっているようにみえた。僕は床に寝そべったまま、里菜を見上げていた。里菜が無表情のまま、その場からジャンプした。
「や、やめっ……がっはあああ!」
 咄嗟の静止も言葉にならなかった。僕の腹の上に、里菜が着地したのだ。直前に、出し得る限りの力を腹筋に込めたが、それでも衝撃は緩和されなかった。女とはいえ、一人の大人の体重が、加速度をつけて僕の体に飛び込んできたのだ。僕は腹部を襲う激痛と呼吸苦に身をよじり、のたうち回った。冷房が効いた部屋なのに、僕の全身には、一気に脂汗が噴き出した。
「ぐはっ……ぜえ……ぜえ……」
「たった一回でグロッキーになっちゃうなんて、鍛え方が足りないんじゃない」
 里菜は口角をあげて、僕の髪を掴んだ。
「アキト、シャツを脱ぎなさい。大丈夫。顔は殴らないでいてあげる」
 何が大丈夫なのか。顔以外は、無遠慮に殴られるということじゃないか。僕はそう思ったが、逆らえるはずもなく、黙って里菜の言葉に従った。

 里菜が人を痛めつけることで快感をおぼえるサディストであることに気づいたのは、彼女と付き合い始めて間もなくのことだった。その発作は、不定期に訪れる。標的は今のところ、僕だけだ。
 最初は体をつねったり、甘噛みをしてきたりする程度のものだった。しかし発作が起こるにつれ、その行為は段々とエスカレートしてきた。止める者がいないのだ。自分の快感を満たすためなら、人はどこまでも過激になってしまうものなのかもしれない。
「手を後ろに組みなさい」
 僕はその場に膝をついて、言われたとおりにした。防御することなく、私の暴力を受け入れろと、彼女は言っているのだ。
「あー、ストレス溜まった。なんなのよ、もう!」
里菜は髪を振り乱し、感情のままに声を荒げた。「荷物が来ないからって、私に、文句を、言われても、知らないじゃない! 大体、配達して、もらう、立場なんだから、ちょっとは、辛抱して、待ちなさい、よ!」
 言葉が途切れるたびに、里菜は僕の体に蹴りを入れた。僕は無言のまま、耐え忍ぶことに専念した。男女の筋力の差のおかげで、なんとか我慢できそうな痛みだった。相手がもし、僕と同等の体格の男だったとしたら、僕は今頃、床に這いつくばって惨めな姿を晒しているかもしれない。
 里菜は、仕事で溜まった鬱憤を、僕にぶつけているのだ。物量の多い時期だから、それに比例して、電話の問い合わせも増えているのだろう。中にはどうすることもできない、理不尽なクレームなんかも混じっているはずだ。それらをひとつひとつ、感情を波立たせないように冷静に対応しなければならない。たとえ一件のクレームが小さなストレスだったとしても、それが積み重なれば、心も疲れてくるだろう。そのストレスが最高潮に達したとき、里菜は僕に残虐な一面をみせるのかもしれない。
「うげっ……」
 たかが女の力と、心のどこかで侮っていた僕は、里菜の蹴りが鳩尾にまともに入って悶絶した。うずくまり、空気を求めてひいひいと喘ぐ僕を、里菜は嘲笑う。
 僕は思わずカッとなったが、駄目だ駄目だと、必死で心を鎮めた。どんなに理不尽な目にあったとしても、女に手を出すわけにはいかなかった。僕の信念だ。
「アハハハハハハハ!!!」
 里菜が突然笑い始めた。僅かに顔を上げると、彼女は僕が苦しんでいるのをみて、悦に浸っているのであろう光景が見えた。僕は歯を食いしばった。

 誰にも相談はできなかった。他人に僕と里菜の関係を漏らしたとしても、誰もが異口同音に言うだろう。
 そんな女、早く別れろよ、と。
 言葉で言うのは容易い。所詮は他人のことと割り切り、無責任に自分の意見をぶつけられる。僕が逆の立場だったとしても、同じことを言うだろう。だが、当事者である僕はそうも簡単にはいかない。別れようと言い出す勇気がない。里菜の暴力は恒常的なものではなく、嵐のように襲い掛かり、やがて過ぎ去っていく一過性のものだ。その時に僕が我慢すれば、済むことだ。それに僕との関係が切れれば、彼女は別の男を手中に収めるだろう。そのまだ見ぬ彼が里菜の理不尽な暴力の犠牲になってしまうなら、僕が食い止めなければならない。里菜の良いところも悪いところも受け止めてこそ、僕は彼女と付き合っているといえるのではないだろうか。

「あーすっきりした」
 里菜の満足げな声が耳朶にかかって、僕は一息ついた。彼女は僕のそばを離れ、ダイニングテーブルに置いてあったグラスの水を飲んでいる。僕はそれを横目に見ながら、立ち上がり、よたよたとした足取りで風呂場を目指した。吐き気を堪えていた。かかなくてもいい嫌な汗が、ダラダラと体を流れる気配が不快だった。
 バスルームの扉を閉め切り、一人の空間で流れ落ちるシャワーの水流に、しばらく身を委ねていた。
 人間はこの世界で唯一、言語を操り、感情をもって他人とコミュニケーションをはかる生き物だ。言葉と心は複雑に絡み合い、時に自分の気持ちがうまく言い表せない時がある。僕たちは歳を重ねるにつれて、いろんな物事を知っていく。それでもきっと、生涯を尽くしても知ることのできないことなんて、ごまんとあるだろう。
 現に今、僕は抱いている感情をうまく言い表すことができない。里菜への感情、仕事への不満、将来への不安。そうカテゴライズ出来ても、中身を開けてみれば、言語化することの不可能な思いが、ごちゃごちゃと渦巻いているような感じだ。
 バスルームの扉が開く音がする。鏡越しに、背後に里菜が立っているのが見えた。振り返ることもなく彼女と目が合う。あっと思った瞬間、里菜は僕に抱きついてきた。
「アキト、ごめんね」
 シャワーの湯が、衣服を纏っている自分の体にも流れていることもお構いなしに、里菜は僕の背中に顔を埋め、そう言った。
 僕は鏡に写る、少し赤くなった打撃痕の残る自分の腹と、そこに纏わりついてきた里菜の白い腕を眺めていた。体を流れ落ちるお湯は、どんどんと排水口に吸い込まれていく。僕の心に渦巻いていたものも、心の排水口の蓋を開放したかのように、流れ出していくような感覚に襲われて、その時初めて、自分が抱いていたと思われる感情を、言い表す言葉が頭に浮かんだ。帰宅し、里菜の姿を見た時の絶望感。里菜に暴力を振るわれている時に感じた屈辱と怒り。彼女の発作が思いのほか早く終わったという安心感。次はいつ、同じ目に合うんだろうという焦燥感。そして里菜に謝られ、嬉しくなっている今の僕がいた。
「もう大丈夫だから」
 シャワーを止め、振り返る。僕は濡れた体のまま、里菜を抱きしめ返した。心の中でしぶとく残っているわだかまりを無視して、僕は微笑んだ。
 里菜の全てを受け止められるのは、この世界で僕だけしかいない。
 そんな傲慢な優越感に浸る。ただ、拭き取らないといつまでも体についている水滴のように、本当にこのままでいいのだろうか、という思いは、無視をしようとしても執拗に、滲み出てくるのだった。
 このところ、久城さんの店に、毎日配達がある気がする。決まって、夜の時間指定がついているから、一日の最後に伺うことになる。店が開いていれば必ず荷物を配達できるから、その点ではありがたい。
トラックを降り、久城さん宛の荷物を荷台から持ち出し、僕は店の裏口から「カラー運輸です!」と声をかけた。グラスが重なり合う音が耳に飛び込んできて、その後すぐに「はあい」と久城さんの声が聞こえてきた。僕の姿を確認した彼女の表情が綻ぶ。
「いつもありがとう、アキトくん」
 最近の久城さんは、第一印象からは随分とかけ離れた言動をしてくるようになった。僕のことを名前で呼び、配達のたびに世間話をしてくる。
「ありがとうございます、ではこちらにサインを」
 僕は彼女の距離の縮め方に戸惑いながら、他人行儀な姿勢を崩さない。
「アキトくんは、いつアタシの店に来てくれるのかなー」
 伝票にペンを走らせながら、久城さんはそう言った。
「最近、毎日来てるじゃないですか」
 僕の返答に、久城さんはぷっと笑う。「お仕事じゃない時、よ」
 ああそうかと、僕は心の中で考える。僕がこの店に来ることによって、多少なりとも売上が上がるだろう。自分の店の儲けに貢献しろと、久城さんは言っているのだ。
「き、機会があれば……」
 僕は苦笑いを浮かべて、伝票を受け取った。久城さんは笑みを崩さず、僕の手を取る。
「またね、アキトくん」
「ありがとうございました」
 僕はそう言って、足早に店を立ち去った。