風呂からあがって、ソファーに座っていると、里菜が横に座り、僕の太腿の上に頭をのせてきた。
「こんな動画が送られてきたよー」
 そう言って里菜は、自分のスマホを僕に見せてくる。そこに映っていたのは、ほんの数時間前に、僕が神田川に刃向かった時の様子だった。
「……撮られてたんだ」
 冷静になってみると、自分の行為に恥ずかしくなってくる。画面の中の自分は、誰が見ても自分なのに、僕から見たら、どこか別人のように思えてしまう。
「カスタマーのみんなが話題にしてたよ。『いつもはおとなしい城谷さんがあんなふうに言ってるの初めて見た』って」
「うぅ……」
「アキトはカスタマーの女の子たちのなかで、人気なんだよー。ドライバーの人達ってね、業務におわれてると、私たちとの電話のやりとりで、結構きつく当たってくる人もいるんだけど、アキトはいつ電話しても、丁寧に受け答えしてくれるから、身構えなくていいって評判。それにルックスもいいし」
「……そんな褒めても、何も出ないぞ」
 僕はそっぽを向いた。シバイヌのカスタマー課に配属されている社員は、管轄内の客からの問い合わせを全て引き受け、要望や再配達の受付、時には苦情などの対応を担うのが仕事だ。その中で実際に現場にいるドライバーにも連絡を取ることがしょっちゅうあるが、ドライバーの中には、社内の人間だからと軽い気持ちで、その時の機嫌で態度を変える人もいるらしい。
「照れちゃって」
 里菜がにやにやと笑う。「あと、神田川主任の相良くんに対する仕打ちも、カスタマー内では結構話題になっててね、管理職の人達はなぜ動かないのかって、結構みんな思ってるんだよ」
「相良が声をあげないから、見て見ぬふり、みたいな対応をされてるのかな」
「そうかもねー」
 語尾を間伸びさせて、里菜が立ち上がる。「お腹空いてるでしょ、ご飯にしよう」
「そうだね」
 里菜と話をしていると、よく話題が変わる。僕が内心「え?もう話終わったの?」と戸惑うくらい、突然別の話を振ってくることが多いのだ。女の子ってそういうものなんだろうか。
 食卓に出されたのは、鶏の唐揚げ、味噌汁、サラダ、ご飯。別に気を衒ってお洒落なものでなくても、ご飯を作ってくれるだけで、僕は充分嬉しい。コップにお茶を注ぐ音が耳に心地よい。僕は酒を飲まない。飲めなくはないけれど、ドライバーとして働く以上、次の日にアルコールが体内に残っていたら……と思うと、手が伸びないのだ。別に無理して飲みたいものでもないから、苦ではない。
「いただきます」
 箸をとり、唐揚げを摘もうとした時、僕のスマホが鳴った。電話だ。
「もう、なんだよ」
 お預けを喰らったような気分になり、立ち上がりソファーに戻ると、画面には「キヨ」と書かれてあった。
「もしもし」
「おう、アキト。オレオレ」
 一昔前に流行った詐欺の手口のような言葉選び。僕が小さく息を吐くと、お腹がぎゅるるとなった。
「どうしたの」
「オレこないださあ、アキトの車にサンダル忘れてなかったか?」
「後部座席にそれっぽいのがあった気もするけど」
「ごめんなぁ。また次会ったときでいいからさ、持ってきてくれよ」
「うん」
「いま家か?」
「うん、ご飯食べようとしてたところ」
「悪りぃ、じゃ、切るわ。また遊ぼうなあ」
 別に大丈夫、と言う前に、電話が切れる。タイミングが悪かったと、清志に思わせてしまったかもしれない。ああ見えて、結構気にしすぎな面もあるからなあ。
「電話、誰から?」
 食卓に戻ると、里菜は先に食事を始めていた。今度こそ、と箸をとり「キヨ」と答える。二人は面識がないけれど、僕がよく彼のことを話題に出すから、里菜も清志の名前とあだ名くらいは知っているのだ。
「そういえばこの間、海に行ったとか言ってたわね。私も行きたかったなあ」
「里菜は仕事中だったからね」
 僕が言うと、里菜の箸が止まり、一瞬不自然な沈黙が流れた。何か変なことでも言ってしまったかと焦る。里菜はクスリと笑って「アキトってたまにバカだよね〜」と困ったように呟いた。
「こういう時は、『今度一緒に行こうね』とかって言ったほうがいいと思うよ」
「うん、ごめん」
 そうは言ったが、僕にはまるでその発想がなかった。里菜と二人で、海に行くという考えが、だ。別にそれが嫌なわけではないと思う。それなのに、思考回路からすっぽりと抜け落ちたように、気の利いたことのひとつも言えなかった。
 唐揚げを咀嚼しながら、何故だろうと考えてみる。思えば学生時代から、海には何度も行っているが、その全てが男友達とだった。そのせいだろうか、里菜に気の利いた言葉のひとつも出なかったのは。
「私、お酒呑みたい。ある?」
「あるよ!」
 僕はぴょんと跳び上がるように立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを出した。グラスと共に里菜の前に置く。
「ありがと」
 里菜はにっこりと笑い、グラスにビールを注いだ。「アキトはお酒飲まないのに、いつもちゃんと私のために置いてくれてるんだね」
「当然だろ、それくらい」
「なかなかできることじゃないよ、優しいね」
 里菜はグラスを持って、僕の横に座った。ことりと音が鳴り、グラスがテーブルの上に置かれる。そのまま彼女は、僕の裸の胸に顔をうずめ、すうっと大きく鼻から息を吸った。僕はそんな里菜の上半身を、腕でそっと抱き締める。
「しばらくこうしてて、いい?」
 上目遣いに言った里菜に、僕はこくりと頷いた。
「里菜ってほんとに筋肉好きだよな」
「ばか、改めて言われると恥ずかしいじゃない」
 里菜の細い腕が、僕の腕に絡みつく。自然とそこに力が入る。「アキトの身体、今まで会ってきた男の人の中で、一番好みなんだもの」
「これが維持できるように頑張るよ」
 苦笑する。仮に僕が急激に太ったとして、膨らみのある胸筋も、八つに割れた腹筋も、力を入れなくても自然とできる力瘤も失ったとしたら、里菜はそれでも僕の彼女としていてくれるのだろうか。そしてその時の僕は、果たしてそれを望んでいるのだろうか。まだ来ぬ未来のことは、いくら考えても結論は出ないものだ。
男には、女から一定のステータスが求められるものだ。ルックス然り、年収然り。中には、軽自動車に乗っている男は駄目(この時点で僕とは感性が合わない)だの、学歴がない男は駄目だとか、スポーツが出来ないと駄目だのという人もいる。随分と相手に求めるものが多いなと、僕は思う。その点、普段の里菜は、あまり僕に何かを求めてくることはない。それは自分の方が年上だからという大人としての余裕からきているものなのか、別の理由なのか……。そんな里菜が僕の体型維持を求めるのならば、それを完遂することなど、至極容易いことだ。