高校最後の夏休み。
今年は例年よりも暑いらしく、外には極力出ないでほしいとニュースキャスターが言っていた。
その言葉を受けてではないが、僕は家で受験勉強をしていた。
とは言っても未だ志望校を決めきれずにいる。
「……大学か」
僕は小さい頃から本を読むのが好きだった。
やがて書くことに興味を持つようになった。
今は文芸部に所属して小説を書いている。何度かコンテストに応募したけれど、賞を貰ったことは一度もない。
なのに大逸れた夢を抱いていた。
それは、プロの小説家になりたいということ。
当然、親はダメだと言った。文芸部の仲間ですらやめたほうがいいんじゃないかと言っていた。
でも、先輩だけは応援してくれた。
『夏樹くんの小説、好きだな。私は夢、叶えられると思う』
先輩、元気にしているといいけれど。
集中力が切れてしまったので、図書館へ移動した。
夏休みだからか、いつもより人が多い。
読もうと思っていた小説を借りていつもの場所へ向かう。
「……暑い」
当然だが自転車移動だ。日差しが肌を照り付け、汗が噴き出してくる。
次第に見えてくるのは、いつもの大きな橋。その下には大きな川が流れている。
自転車を押しながらゆっくりと土手を下る。
太陽の光が反射してキラキラと揺れる川に近づく。
橋のおかげで日差しが遮られ少しばかり涼しく感じた。
だが、気温が下がると共に気持ちも下がっていく。
周りを見渡して、いつの間にかため息を吐いていた。
ここへ来るときは、いつも期待してしまう。
先輩がいるかも――と。
当然、そんなことはないけれど。
「さて……」
自転車を停めて階段に腰を下ろした。
少し川を眺めた後、鞄から小説を取り出す。
図書館で借りた、純文学で有名な大川洋子の新刊。
先輩に勧められて読み始めた作家。
作風は特徴的で、登場人物の内面にはあまり踏み込まない。
理由は、読者の数だけ読者の中に人物の内面が生まれるから。
その分、視覚から生まれる情報を細かな描写をしてくれている。
先輩が一番好きだった――。
「やっぱりここにいた」
突然、空から声がした。その瞬間、僕の心臓が大きく波打つ。
見上げると、懐かしい、太陽みたいに明るい笑顔の女性が、僕を見ながら手を振っていた。
え、幻覚? どうして――。
そして落ち着く間もなくその声の主は土手を軽快に降りてくると、僕の視界の右側に飛び込んできた。
「元気にしてた? こんな暑い日に外で読書なんて、ほんとに本が好きだよね」
「そ、そうですけど、なんでここにいるんですか?」
藤川凛先輩。二年前、僕が所属する文芸部の先輩だった人。
でも、どうして――。
「夏休みは実家に帰るものじゃないの?」
そう言いながら、藤川先輩は前を向いて川を眺める。
何度も見た横顔、相変わらず綺麗だ。
「どう? それおもしろい?」
「え? まだ、読んでないんですか?」
「思ってたより大学が忙しくて、まだ読めてないんだよね……。こっちは、やっぱり落ち着くね」
藤川先輩は純文学が好きで、新刊が出るたびに読み漁っていた。
あの頃の事はよく覚えている。
放課後、僕と先輩は創作についてよく語り合っていた。
大学って、そんな忙しいのか……。
「いつ、帰ってきたんですか?」
「昨日の夕方くらいかな。乗るたびに思うけど、新幹線って早いよね。お弁当食べてのんびりしてたら着いちゃう。文明の利器って凄いなあ」
「いつまでいるんですか?」
先輩が返してくれた言葉に丁寧に返す余裕はなかった。心臓の鼓動が早い。
「夏休みいっぱい居る予定だよ。ちょっとやることがあるから」
「そうなんですか」
まだ二週間以上もある。その言葉に気づけば微笑んでいたのだろう。
「なに笑ってるの?」
先輩も笑いながら、僕をのぞき込むように顔を近づけてきた。
知らない香水の匂いがする。
長かった黒髪も肩までになって、色もほんのり明るい。
汗が滲んで透けてしまいそうな白いシャツは高校生の頃には感じなかった色気を纏っていた。
少し、いや、かなり大人びた気がする。
って――。
「ち、近いですよ!?」
「夏樹くん、大人っぽくなったね」
「何も変わってないですよ。僕は」
そう、変わっていない。本当に何も。
僕は、あの頃のままだ。
見た目も、成績も、――感情も。
「これ、一口もらっていい? 喉渇いちゃって」
すると先輩は、僕の飲みかけのペットボトルに手を伸ばそうとする。
慌てて制止し、立ち上がる。
「あ、じゃ、じゃあ新しいの買ってきますよ!?」
「んっ、それはもったいないよ。一口だけでいいから。だめ?」
「……いいですけど――」
「ありがと」
リップだろうか。ほんのり赤身を帯びた唇が、ペットボトルの淵につく。
水滴が首から落ちていく。
これって間接――いや、何を考えてるんだ僕は……。
「ありがと。美味しかった」
「いえ」
「あれ? ちょっと顔赤くない?」
「そ、そんなことありませんよっ」
慌てて否定するものの、きっと本当に赤くなっているだろう。
先輩はクスリと笑うと、また前向き川を眺める。
「夏樹くん、進路はもう決まった?」
「いえ……まだ、はっきりとは……」
「そっか。うん」
歯切れの悪い僕の返事に先輩は深く聞いては来なかった。
それが少しありがたく感じた。
それから少しだけ話をして先輩は立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行こうかな」
「え? もう行くんですか?」
「叔父さんの家に呼ばれてるんだよね。ちょっと、荷物の整理をしなきゃいけなくて」
先輩の叔父さんとは何度か会ったことがある。
純文学を書いていた小説家で、とても有名な人だ。
一度だけ書斎に入れてもらったが、あたり一面が本だらけだった。
先輩と一緒に夜まで本を読みふけって、親に怒られたこともあったな。
「それじゃあ、少しだったけど夏樹くんと話せて良かった。また時間があれば――」
「あの、僕も行っていいですか? 力仕事なら、ちょっとは手伝えるかと」
気づけば口に出していた。夏休みいっぱいまでいるならまた会う機会もあるだろう。
でも今は少しでも長く先輩といたかった。
「……構わないけど、でも、その……あんまり、楽しい仕事じゃないよ」
そう言った先輩の表情は、今までにないほど悲し気だった。
□ □ □ □
「凛ちゃんありがとね。わざわざ東京から来てくれて」
「いえ、叔父さんにはお世話になりましたから」
叔父さんの家は、過去の記憶と変わらず大きな家だった。
玄関を入ってすぐの螺旋階段を登ると叔父さんの書斎がある。
以前案内された時、ひどく緊張しながら階段を登ったのを覚えている。
応接間に案内された後、僕と藤川先輩は叔母さんに冷たいお茶を出してもらった。
「すいません大変な時にお邪魔させてもらって。僕の名前は――」
「もしかしてだけど……夏樹くんかしら? 違ったらごめんなさい」
「え? そうです」
「やっぱりね。あの人、言ってたのよ。小説のわかる、今どきめずらしい若者と出会ったって。凛ちゃんの後輩だって言ってたし、そうかなって。って、ごめんなさい偉そうよね、あの人」
「いえ、覚えていてくれて嬉しいです。それに、とても光栄です」
「光栄……ね。私にはさっぱりわからないんだけれどね」
叔父さんが亡くなった。その連絡を受けた藤川先輩は、書斎の整理をする為に地元に戻ってきたのだ。
叔母さんは今後、一人息子の家に住むらしい。
一人で暮らすにはこの家は広すぎるのと、足が悪いからとのこと。
「本当は息子も呼んでたんだけどね。直前で風邪を引いちゃってね」
「大丈夫です。でも、私の判断でいいんでしょうか?」
「私はさっぱりだから。それに凛ちゃんならあの人も安心だと思うわ。夏樹くんもいるしね」
「いえ、僕なんて……」
叔母さんと話している間も、先輩は凄く悲しげな表情を浮かべていた。
無理もない。僕が知っている先輩は、叔父さんのことを本当に慕っていたから。
今日やることは、小説を仕分けることだ。
生前、準備していた遺書に、小説は図書館や学校、施設などに寄贈してほしいと書いていたらしい。
ただその後、寄贈する本の仕分けの途中で叔父さんは亡くなってしまった。どれをどこに送りたいのか、それが叔母さんにはさっぱりわからなかった。
藤川先輩は、叔父さんと同じ感性を持っていた。だから、呼ばれたのだろう。
「ほら、みてこれ。凛ちゃんが賞を貰ったときの新聞の切り抜きよ。あの人、黙ってこういうのするのよね」
「……ほんとだ。でも、嬉しいです」
藤川先輩は、とても繊細で、人間の心を読み取り、さらけ出すような文章を書く。
切り抜きには、大手出版会社の大賞として名前が載っていた。
ただ、これには裏話がある。
大賞を受賞した作品は出版することが決まっていたはずなのに、そんな話は一向に出てこなかったのだ。
編集との折り合いがつかなかったと聞いているが、詳しくは教えてもらえなかった。
けれど、それで才能がなくなるわけじゃない。
またいつか凄い賞を取るだろう。僕はそう思っている。先輩は、本当に凄い人だから。
書斎に移動して、仕分けを始める。
僕と藤川先輩は思い出話や、手に取った小説の話をしながら作業をしていた。
「私が思うに、この作者は人間の心の奥底の葛藤を描こうとしてたと思うんだよね。ほら、あのシーンあるじゃない。勇気を出して、前を向くところ」
「はい。でも、僕は少し投げやりに思えたんですが」
「その解釈も間違ってるとは言えない。でも私は、覚悟のシーンだと思うんだよね。まあ実際はわからないけど」
会話をしていると思い出す。僕と先輩はいつも遅くまで部室でこうやって話していた。
まだ話したりない時は、あの河川敷で話す。
近くに野球場があって、夜は照明がいい具合に当たるのだ。
夜風が気持ちよくて、川のせせらぎだけが聞こえる、僕と先輩だけの特別な空間だった。
たまに朝から話すこともあった。幸せな時間だった。
でも今は――。
「東京はどうですか?」
この言葉を言うのに、何度も躊躇した。すごく楽しいよ、なんて言われたら笑えるだろうか。
「人が多い。物価が高い。ラーメンが意外と美味しい」
「なんですか、それ」
「私が強く思った東京の印象。でも、そうだね。――私は地元の方が好きだよ」
嬉しい言葉が返ってきて思わず微笑んでしまったかもしれない。
「それに、こうやってまた夏樹くんと話せるしね。まるで、タイムスリップしたみたい」
「僕も同じこと考えてました。まるで、あの頃みたいですよね」
――本当にタイムスリップができたら……
「――本当にタイムスリップができたらなあ」
「え?!」
「あ、ごめん。変なこと言っちゃったね」
僕が考えていた同じタイミングで、先輩が口にした。
思わず驚いてしまったが、嬉しかった。
いや、でも……僕と同じ場面を思い浮かべたのかはわからないな。
別のことかもしれない。
「夏樹くんと小説の話をしていた毎日、凄く楽しかったらね」
ああやっぱり僕は――。
「そうですね。僕もですよ」
先輩のことが、好きだ。
「それじゃあ気を付けてね、夏樹くん」
「先輩は泊まっていくんですか?」
「そうだね。他にも色々やることがあるし、叔母さん一人じゃ心配だから」
「そうか、そうですよね」
「今日はありがとう。たくさん話もできて嬉しかった」
「あの、明日も来ていいですか?」
「え? でも、受験勉強とか――」
「最後までやりたいです。中途半端は、あんまり好きじゃないので。それに僕も、叔父さんには世話になりましたし」
これは本当だ。僕は、叔父さんから小説を譲ってもっらたり、創作の話をしてもらった。
だから、その恩も返したい。
もちろん、先輩との時間が楽しかったことが大きいけれど。
先輩は大人びた微笑みで「ありがとう」と言ってくれた。
□ □ □ □
「瀬尾まいこさんの作品って素敵だよね。嫌な人が一切出てこないのに凄くおもしろいし、何より心が温まる。悲しい話もあるけれど、最後はしっかり前を向こうってなる」
「わかります。僕は、夜明けのすべてが好きですね。お互いに気遣い合って、共に壁を乗り越えるというか、人は一人では生きていなくて、誰かに支えられているんだって実感します」
翌日、僕と先輩は再び書斎で小説の仕分けをしていた。
叔母さんは時折様子を見に来てくれて、冷たいお茶を持ってきてくれたり、お菓子を持ってきてくれたりする。
ありがとうと言われたが、少し申し訳なく感じた。なぜなら僕はこの時間が一生続いてほしいとまで思い始めていたから。
本当に、あの頃のようだ。
「そういえば先輩、小説はどうですか?」
「えっと……最近ずっと忙しくて……」
「そうなんですか? 大学、大変なんですね」
「夏樹くんは? 最近、書いてるの?」
「……一応。でも、先輩と違って全然おもしろく――」
「読みたいっ」
先輩は、突然振り返り僕を見つめた。
いつもは見せない、真剣な顔だ。
「い、いいですけど」
「ありがとう。じゃあ、あとのお昼休憩で。このあたり、最後までやっちゃおうか」
「わかりました」
□ □ □ □
「…………」
お昼ご飯に叔母さんがウナギ弁当を注文してくれた。
凄く美味しくて、多分人生で一番美味しかった。
でも今は先輩の返答が気になって気になって、ウナギの余韻に浸る時間もない。
僕がノートに書いた小説、まだ一章までしか書いてないが、先輩は真剣に読んでくれている。
恥ずかしい理由は、内容がいたってシンプルだからだ。
高校生の恋愛。後輩が、先輩に恋をする話。
先輩が賞を取ったのは、とても有名な純文学の賞だ。
小説に優劣があるとは思っていないが、僕には書けない、唯一無二の話だった。
それに比べると僕は文章も稚拙で、何よりも先輩ほどの熱量で書けているわけでもない。
読むことは好きだが、書くことは下手なのだ。
先輩と違って、僕は――。
「凄いね……。たった二年で、ここまで成長できるんだ」
そんなことを考えていたら、先輩が褒めてくれた。
冗談? いや、そんな冗談を言う人じゃない。本当に思ってくれたのだろう。
僕だって試行錯誤しながら自分なりに一生懸命に書いた。それでも――。
「そんなことないですよ。先輩のと比べると全然拙くて」
「ここの心理描写、ものすごく共感できた。やっぱり、夏樹くんの書く小説は素敵だね。真っ直ぐで純粋で、好きだな」
褒められすぎてなんだか照れてしまう。しかし先輩をよく見ると、少しだけ悲し気に見えた。
叔父さんのことがまだ尾を引いているのだろうか。
いつも笑顔を絶やさない人だったからこそ、こんな先輩を見るのはつらい。
「ありがとうね。さて、続きもがんばろっか」
「はい。先輩のもまた見せてくださいね」
「……そう、だね」
なぜか最後の顔がいっそう悲し気だった。
それから申し訳なく思いながらも、僕にとっては幸せな日々が続いた。
「うーん、この小説は中学生向けかな?」
「どうでしょうか。最近の小学生はませてるともいいますし」
「それじゃあこっちは?」
先輩が見せてきたのは、少し大人向けの小説だった。
官能とまではいわないが、それなりに攻めている話だ。
「……大学ですかね?」
「そうなの? でも、夏樹くんは見たんでしょ?」
恥ずかしくなりながら素直に見ましたと答えると、先輩は楽しそうに笑っていた。
小説の仕分けをしながら、先輩と創作話をする。
この時間がいつまでも続いてほしい。そんな邪な気持ちも芽生えていた。
ただ、それよりわかったことがある。
気づいたことがある。
先輩は自分の小説についての話題を避けている気がするのだ。
「先輩」
「ん、どうしたの?」
「何もなかったらごめんなさい。でも、もし何か悩んでいることがあったらいつでも頼ってください」
気づいたら言葉にしていた。でも、僕なんかに出来ることがあるだろうか。
ないかもしれない。それでも、先輩が悩んでいるなら、何か力になりたい。
先輩は驚いているようだった。
「どうしてそう思うの?」
「……わからないです。でもなんだか悩んでいるように見えて」
「凄いね夏樹くん。やっぱり、君に嘘はつけないなあ」
「え?」
そして、先輩はまた悲し気に微笑みながら言った。
「後で、少し話せるかな」
僕たちは橋の下に移動していた。
今日は空気が澄んでいて、星がよく見える。
手が届くのではないかと思うほど近く、でも決して届くことのない距離。
今の僕たちを表したような星空だった。
「やっぱりすごいなあ。東京じゃこんなに見えないよ。久しぶりに見ると圧巻だね」
「そんなにこことは違うんですか?」
「うん。まったく見えないよ。空を見上げても高いビルばっかり視界に入るし、明るいからね。やっぱりいいなー。もう、こっちに戻ってこようかな」
そうなってほしいと、本気で思った。でも、それが先輩のためにならないことはわかっている。
だから今はその話を深く追求はしなかった。
それから少しの間沈黙が続いた。
本当は気になっていることを今すぐ聞いてしまいたい。
でも、それを聞くのは先輩を追い込むことになるかもしれない。
僕は先輩の言葉を待つ。
しばらく星空を眺めた後、先輩が口を開いた。
「書けないんだよね」
「え?」
「……全然、書けないの。笑っちゃうでしょ。せっかく芸術大学に入ったのに、私何もできてないんだ」
話題を避けている気はしていたが、まさかだった。
あの先輩がそんなことになっているとは思ってもいなかった。
誰よりも小説に対して真剣で前向きで、いつも笑顔で小説のことを話していた先輩がここまで追い込まれていたとは。
「覚えてる? 私が賞を貰った時のこと」
「もちろんです。応募する前に見せてもらったこと、今でも覚えてます。それに本当に面白くて感動して、受賞して当然だと思いましたし、何より誇らしかったです」
「ありがとね。編集さんからもそう言ってもらえた。嬉しかった。推敲を重ねて、本にしようって話になったの。大学に入ってからもやり取りしてたんだけど……途中で書けなくなっちゃったの。書きたくても何も浮かばない。あの頃みたいに言葉が、文章が、想いが湧いてこないの。それで凄く迷惑をかけてしまった。今も、ずっとメールも返せてない。私は最低だよ。人を笑顔にするどころか、迷惑しかかけてない。叔父さんはいつも言ってた。プロになるのは楽しいことばかりじゃないって。でも、私はその土俵にすら上がれなかった」
先輩は気丈に振舞おうとしているが、その声は微かに震えていた。
「そうだったんですね……」
「ごめんね。突然、こんな話して」
「いえ、大丈夫です」
先輩の悲しそうな笑顔になんて返せばいいのかわからなかった。
僕は小説家でも何でもない、そんな僕が大丈夫ですよなんて言うのもおこがましい。
「叔父さんが今の私を見たらきっと失望するよね。小説を愛していたから。私って、ほんとダメだ」
悲し気な先輩を見ていると辛かった。
頼ってほしいとは言ったものの、僕になにができる?
小説も中途半端で、進路すらちゃんと決めることもできない。
何も結果を出したことのない僕が。
きっと、先輩はどうにかしてほしくて僕に言った訳でもないだろう。
でも、それでも……何か先輩のためにできることがあるはず――。
「先輩、明後日の夏祭り一緒に行きませんか」
「え? 夏祭り?」
「はい。明日には片付けも終わりそうですし、気分転換になると思うんです」
「どうしようかな。でも、こんな気持ちで行って夏樹くんに迷惑かけちゃわないかな」
先輩は迷っている。きっと気分も乗らないのだろう。
でも、僕は先輩と夏祭りに行きたい。
行きたい理由がある。
「僕は行きたいです。先輩と一緒に」
「そんなに?」
「はい。それに――リンゴ飴もきっとありますよ」
「もしかして、覚えてくれてるの?」
「当たり前ですよ。学園祭で、あれだけはゲットしなきゃって叫んでましたから」
「叫んではないよ」
「いえ、叫んでました」
「恥ずかしい。でも、確かにリンゴ飴……食べたいな」
僕の言葉に先輩がまた笑顔を見せてくれた。
ああやっぱり、こうやって笑っていてほしい。
「わかった。じゃあ楽しみにしておくね」
「はい」
翌日、僕たちはいつものように片付けを進めた。
落ち込んでる様子はなかったが、小説の話をすることはなかった。
夕方にはすべての仕分けが終わり、ガランとした書斎を先輩と見渡す。
「凛ちゃん、夏樹くん、手伝ってくれてほんとありがとうね」
「いえ、最後に叔父さんの想いに添えることができて良かったです」
「僕もとても有意義な時間を過ごせました」
この時間が終わってしまうことが寂しく感じた。
けれど僕は明日、先輩のためにやらなければならないことがある。
こんな僕が先輩のためにできること。
先輩に心から楽しんでもらいたい。
そして、元気を出してもらいたい。
□ □ □ □
夏祭りの会場近くの公園で待ち合わせをした。
約束の時間の15分前、人が大勢行き交っている。
「綿あめ食べたいー」
「はいはい、後で買ってあげるから」
「今日、久しぶりにするんだって」
「へえ、知らなかった」
夏の匂いがする。笑顔で溢れている。
そんな空間で一人待っていると無性に不安がこみ上げてくる。
……先輩、本当に来てくれるだろうか。
もしかして、直前で嫌になってないかな。
それか、直前で気づいて――。
「夏樹くん」
先輩の声がして視線をあげると言葉を失った。
朝顔模様の浴衣、サイドで編み込んだ髪を後ろで纏めた髪型。
いつもと違う先輩に思わず見惚れてしまう。
「待たせてごめんね。浴衣で歩くの久しぶりだったからか、時間がかかっちゃって」
「いえ大丈夫です。それに凄く……綺麗です」
気づけば口にしていた。
先輩は少し驚いた顔をしたが、とびきりの笑顔でありがとうと言ってくれた。
そして――。
「夏樹くんの浴衣も似合ってるよ。実は私だけだと思ってたから」
「ありがとうございます。いや、それは僕もです。事前に伝えようかなと思ったんですが、それで変にプレッシャーをかけるわけにはいかないと思ったので」
「言ってくれてもよかったのに。一人だけだと申し訳ないしね。でも、お互いに考えてたみたいで、なんか嬉しいかも」
「僕もです」
嬉しかった。そう言ってくれたことが。
それに驚きもした。
もしかして気づいている? いや、そんなわけないか。
「それじゃあ行きましょうか――」
歩き出そうとした瞬間、先輩が躓き転びそうになる。
咄嗟に腕を掴み支える。先輩も僕の袖をぎゅっと掴んだ。
「っごめん」
「いえ。大丈夫ですか?」
「実はここに来るまでも何度か転びそうになったんだよね」
少し恥ずかしそうにする先輩。
足元をよく見ると下駄のサイズが合っていないようだった。
今日のために無理して履いてきてくれたのだろうか。そんな先輩がなんだか可愛く思えた。
「あ、あの。このまま腕、掴んでてください。危ないので」
「いいの? ありがとう。あ、でも誰かに見られたりしたら嫌かな? 私の代はみんな卒業しちゃったけど、夏樹くんは学校の友達とか来てるかもしれないもんね」
「い、いえ、そんなことないです!」
思わず、声を上げてしまった。
確かに、誰かに見られてしまうかもしれない。でも、それよりも先輩とこうしていたい。その思いが強かった。
「ならよかった。あ、今年は花火やってるんだね」
「みたいですね。楽しみです」
立て看板には、今年からは花火が再開すると書かれていた。
コロナでずっと中止だったからだ。
とはいえ僕は知っていたけれど。
「それじゃあ行きましょうか。リンゴ飴が売切れる前に」
「始まったばかりで売り切れないでしょ」
「どうでしょうか。先輩みたいな人が100人いるかもしれないし」
「なにそれ」
ほんと、藤川先輩は綺麗だな。
今まで祭りなんて数えるほどしか行ったことがない。
人混みは苦手だし、家で本を読んでいる方が好きだからだ。
でも、先輩となら一緒に歩いているだけで楽しかった。
かき氷を食べて、綿あめを食べて、先輩の好きなリンゴ飴を一緒に食べた。
「夏樹くん、甘いものばっかりじゃ飽きてくるよね? フランクフルト食べよっか。好きだったよね」
先輩がフランクフルトの屋台を見つけて指をさす。
僕の好きなものを覚えていてくれたことが嬉しくて大きく頷く。
「美味しいね」
「はい! 美味しいです」
先輩と食べるフランクフルトは一段と美味しく感じた。
そんな僕を見て先輩はふっと笑う。
すると先輩の手が僕の口元に伸びてきて人差し指がそっと触れた。
「っ!!」
「ケチャップ、ついてたよ」
何でもないことのように僕の口についたケチャップを拭った先輩は次行こうか、と立ち上がる。
突然のことに声が出なかった僕は言われるがまま先輩の隣を歩き出す。
自然と掴まれた腕にドキドキしながらも、この距離が心地よく感じていた。
しばらく見て回っていると途中で射的を見つけた。僕は足を止める。
心なしか、先輩も見つめているようだった。
「ちょっとあれ、やっていいですか?」
「え? もちろん。頑張ってね」
裾を少しまくって、おじさんにお金を渡す。
「兄ちゃん、がんばってな! 彼女さんにいいとこみせんと!」
「はい。え、いや彼女ではないですけど――」
「夏樹くん、がんばれ! ふぁいとー!」
先輩が、いたずらっぽく笑いながら言った。
そんなこと言われたら、絶対に獲らないとな――。
「はい。お疲れさん! 残念賞のお菓子ね。」
「……先輩、もう一回していいですか?」
「もちろん、頑張ってね」
先輩は少し不思議そうだった。
何度もやって、そしてようやく落とした。
1200円もかかったが、それ以上の報酬があった。
「何でそれが欲しかったの? 誰かにあげるの?」
「すいません、ちょっとだけいいですか」
僕は、失礼しますといって先輩のまとめてある髪にガラス玉のついた簪を差した。
驚いていたが、嬉しそうに笑ってくれた。
「似合ってます。すごく、綺麗です」
先輩は少しだけ目を見開く。
そして気づいたようだった。
「……ありがとう、夏樹くん」
それからはお互い無言だった。
何かを思い出すように、何かを噛み締めるように歩く。
やがて花火の時間が差し迫っていた。
有料閲覧席なんてない。地元の祭りだ。花火もそこまで大きくないだろう。
でも、僕にとっては重要な花火だ。
どこで見ようかと考えていたら、先輩が言った。
「誰もいないところ。二人きりで花火が見たいな」
僕たちはいつもの橋の下まで移動した。
花火から遠いし、橋が視界を遮りよく見えないだろう。
けれどもそのおかげで人はほとんどいなかった。
「すいません、こんなものしかなくて」
「ううん、ありがとう。夏樹くんは紳士だね」
ハンカチを敷いて、先輩に座ってもらう。
横顔が綺麗だ。東京の大学でも、きっとモテてるんだろうな。
やがて花火が上り始める。
色とりどりの花火はとても綺麗で、弾けて広がっていく光たちはまるで、夏の夜空を包み込む流星のようだった。
先輩は子供のように無邪気な笑顔を向けてくれる。
僕は花火を見上げる先輩の横顔をずっと見つめていた。
「今日はありがとうね。誘ってくれて」
「こちらこそありがとうございました。本当に、楽しかったです」
僕は、深呼吸する。
「覚えてますか。学園祭で先輩が書いた小説」
学園祭で、僕たち文芸部は短編集を作った。
先輩の作品は飛びぬけておもしろくて、そのおかげでたくさんの人が短編集を買ってくれた。
僕たち後輩も自分の作品をたくさんの人に読んでもらうことができた。
読んでもらうことの喜びを知った。
「……覚えてるよ」
「僕、あの小説に救われたんですよ」
「救われた? どういうこと?」
「先輩と同じなんて言えないですが、僕も書けなくなった時期がありました。周りには書いてるって言って、でも何も浮かばなくて。それが辛くて苦しくて、でも先輩の小説を読んで凄いなって」
「全然凄くないよ。本当に」
「情景が頭に浮かんで、台詞の一つ一つが生きているみたいでした。それで、先輩は言ってくれましたよね。書くんじゃなくて、自分が楽しいと思うことや、してみたいことを形にすればいいって。それで書けるようになったんです」
あの時の事は鮮明に覚えている。先輩のおかげでまた書けるようになったのだ。
でも僕なんかが先輩に偉そうには言えない。それでも、伝えたかった。
だから――。
「だから今日花火に誘ってくれたんだね。ありがとう」
「……それもあります。ただ、思い出してほしかったんです。先輩はあの頃、凄く楽しそうでした。だから、今は書けなくてもきっとまた書けるようになると思います。すいません、無責任に」
簪を渡した時に先輩は気付いていたはずだ。
今日一日、あのときの小説を僕が再現しようとしていたこと。
ひと夏の恋を描いた幸せな物語……。
流れる煙を追うようにこっちを向いた先輩と目が合う。
「凛、さん……」
先輩が書いた小説のように名前で呼んでみた。
呼んでから、後悔した。
真っ直ぐに僕を見る先輩の表情は何を考えているかわからなかった。
「夏樹くん……。キス、する?」
「え?!」
「なんてね。冗談だよ」
先輩はクスリと笑う。その笑顔はとても自然で、あの頃の先輩みたいだった。
「ありがとね」
僕は何も言わず先輩の手をそっと握る。
僕の気持ちはあの頃から変わっていない。
――先輩が好きだ。先輩の書いた小説も、絶やさない笑顔も、可愛らしい声も。全部。
本当なら物語の中で二人はキスをする。そして、お互いの気持ちを確かめ合うのだ。
でも僕たちは恋人同士じゃない。久しぶりに会った、ただの先輩と後輩だ。
僕の気持ちを伝えるのは今じゃない。
まだ何も成し遂げていない。
胸を張って言えるまでは、今はまだ。
「こちらこそありがとうございます。僕も頑張ります。先輩に追いつけるように」
「私なんて大したことないよ。――でも、そう言ってくれて嬉しい」
先輩は手をぎゅっと握り返してくれた。
微かに触れる肩に、ほのかに香る先輩の匂いに、僕は決心を固めた。
先輩が東京に戻ってから数週間が過ぎた。仕分けした小説は各学校や施設に順番に寄贈され、多くの人に読まれていくという。
『これを手に取った子供たちが本を好きになってくれたら嬉しいね。それで小説を書きたいって思ってくれる子がいたらそれは私たちの頑張りの賜物かもね』
そう言った先輩の言葉が、とても素敵だなと思った。
僕たちの行動が誰かに影響を与えることができる、そんなふうに思わせてくれる言葉だった。
□ □ □ □
僕は、あれから人が変わったように受験勉強に精を出していた。
親からは『何を考えてるの?』と怒られている。それもそのはず、このタイミングで無謀な進路に決めたからだ。
偏差値も高いし、落ちたら周りから笑われるどころか呆れられるだろう。
それでも、僕は自分の道を行くと決めた。
先輩とは頻繁にやり取りしているわけではないが、ふいに「今日は雨上がり虹が出てた」「学食、美味しい」など他愛のないメッセージが来る。
僕はそれが楽しみだった。先輩が何を見て、何を感じているのか、それがわかるからだ。
たまに僕も写真を送った。もっぱら地元の写真ばかりだったが、河川敷の写真は特に喜ばれた。
同じ場所から撮る、同じ景色でもそれがいいのだと先輩は言っていた。
たくさんの思い出がある、僕にとっても一生忘れることのない特別で大切な場所だ。
先輩も同じことを思っているのかもしれないと考えると、嬉しかった。
10月、叔母さんが引っ越しをするとのことで、息子さんを含めて食事に誘ってもらった。
先輩は来れなかったが、後で叔母さんの元気な様子を伝えると、とても安心していた。
11月、叔父さんの家の前を通ると当たり前だがひと気もなくガランとしていて、なんだか心にぽっかり穴が開いたようだった。
12月、ずっと勉強をしていた。周りはクリスマスやなんやらで浮かれていたが、僕にとっては不安でしかなかった。
先輩、もしかして誰かと一緒にいるんじゃないかなって。
でも、そんな連絡なんてできるわけもなかった。
「……先輩!?」
クリスマスの当日、先輩から電話がかかってきた。
僕は家にいた。ドキドキしながら電話を取ると、いつもよりテンションの高い先輩の声がした。
「やほー、メリークリスマス! どう? 勉強、頑張ってる? それともお出かけしてる?」
「家ですよ。先輩は……楽しそうですね。何かしてるんですか? パーティーとか――」
「一人だよ。クリスマス、夏樹くんお祝いしたいと思ってね。電話していいか事前に確認しようかなと思ったんだけど、用事があるって言われたら悲しかったから」
悲しい? それってどういう意味なんだろうか。
って――。
「僕と一緒にですか?」
「そう。勉強中にごめんね。邪魔だったら――」
「全然邪魔じゃないです! むしろその……嬉しいです」
「良かった」
食い気味で返事をしてしまい、すぐに恥ずかしくなってしまった。
けれど本当に嬉しかった。電話越しだとしても、先輩の楽しそうな声には元気をもらえる。
東京は案外寒いらしく雪も降っているらしい。
他愛のない話をしていると、先輩が突然驚くことを言った。
「夏樹くんのおかげだよ。ありがとう」
また、小説を書けるようになったとのことだ。
編集さんも幸い、気にしないでくださいと言ってくれたらしい。
今はやり取りをしながら続きを書いているという。
「僕は何もしてませんよ」
「そんなことないよ。あの日、あの夜、本当に楽しかった。花火、凄く綺麗だった。おかげで思い出せたよ。あの頃の気持ち」
その言葉が、何より嬉しかった。
僕はやっぱり、先輩が好きだな。
「それで、受験する大学はいつ教えてくれるの?」
「まだ言えないです。ちょっと高望みしすぎてて、落ちたら恥ずかしいですし」
「夏樹くんなら大丈夫だよ。いつも頑張ってるの知ってるから」
「ありがとうございます。偉そうかもしれませんが、お互い、頑張りましょう」
「そうだね。あと、前に少し話してたけど年末はやっぱり帰れないかも。色々忙しくなりそうで」
「仕方ないですよ。忙しいって良いことですよね。応援しています。でも無理はしなでくださいね」
「うん。ありがとね」
残念だったが、良かったのかもしれない。
先輩と会えるとなると、その事で頭がいっぱいになってしまうからだ。
「それじゃあおやすみなさい、夏樹くん」
「おやすみなさい、藤川先輩」
「……ねえ、あの時みたいにまた、凛さんって呼んでくれていいんだよ?」
「え、いや、それは……」
「冗談だよ。おやすみなさい」
電話を切った後、僕は再び勉強をはじめた。
先輩もきっと書いている。頑張っている。
一人だけれど、一人じゃない。それが嬉しかった。
1月が過ぎ、2月が過ぎ、3月がやってきた。
「……はあ、緊張する」
初めて乗った一人きりの新幹線は新鮮で、それでいて不安だった。
努力は重ねた。後は、結果を出すだけだ。
「それでは、試験開始です」
今までの努力が実を結んでくれたのか、自分なりに手ごたえは感じた。
これなら、きっと――
少し緊張しながら大学の門をくぐる。
ここに、先輩がいる。
もちろん、ただ追いかけてきたわけじゃない。僕も小説をもっと頑張りたかったからだ。
先輩にメッセージを送る。
返ってきた答えに先輩らしいな、と思いながらその場所へ向かう。
高校とは違い、いろいろな服装、髪型、年齢の人が行きかっている。
そして、ようやく見つけた。
遠くからでもわかる、先輩の姿。
僕ははやる気持ちを抑え、ゆっくりと近づいていく――。
□ □ □ □
スマホのメッセージの通知が、ピコンと鳴る。
『先輩、今なにしてますか』
たったそれだけの短い文章。
『大学の中庭で本読んでるけど』
質問に返事をした後、続けてメッセージを入力する。
『久しぶりだね。受験、どうだった?』
本当に久しぶりだった。
きっと、勉強が大変だろう、忙しいだろう。そう思うと私からもなかなか連絡をすることができなかった。
送信ボタンを押そうとした瞬間、後ろから聞きなれた声が聞こえた。
ここに居るはずのない、大切でかけがえのない人。
「先輩」
「夏樹くん、なんで……」
立ち上がり、読んでいた本をベンチに置くと夏樹くんのところへ駆け寄る。
「驚かせてすみません。先輩と一緒に夢を追いかけたかったんです」
びっくりして、嬉しくて何も言葉が出てこない。
ずっと、夏樹くんのことが好きだった。
高校生の時からずっと。でも東京の大学に進学することが決まっていた私は気持ちを伝えることができなかった。
去年の夏、叔父さんが亡くなって地元に帰った時、無性に夏樹くんに会いたくなった。
まさか本当に会えるなんて思っていなかった。
夏樹くんに伝えたいことがある。あの夏、一緒に行った夏祭り。橋の下で見た花火は自信を無くし、どん底にいた私を救ってくれた。
夏樹くんのおかげであの頃の気持ちを取り戻せた。また、小説を書くことが楽しくて、書けることが嬉しくなった。目に映るものすべてが宝物のように思えた。
全部全部、夏樹くんのおかげだ。
「私ね、この夏に本が出ることが決まったよ」
「え! すごいです! おめでとうございます」
「ありがとう。夏樹くんのおかげだよ」
「そんな、僕なんて何も。先輩の努力の結果ですよ!」
自分のことのように喜んでくれる夏樹くん。
屈託のない笑顔が、やっぱり好きだと改めて思う。
「夏樹くん、好きだよ」
「……っ!」
思わず口にした。それでもいつか伝えようと思っていたこと。
夏樹くんは驚いているようだった。
それもそうか。こんな、再会してすぐに好きだなんて言われても困るだけだろう。
「ごめん、やっぱり――」
「――凛さん、僕も、好きです」
そう言って笑ってくれた夏樹くんは少し大人びて見えた。
呼んでくれた名前に、好きという言葉に、胸の奥が熱くなる。
きっと、私たちはこれから互いに支え合い、励まし合いながら自分たちの道を進んでいくだろう。
たくさんの言葉を、想いを、物語を、紡いでいくだろう。
また悩んでしまったり、壁にあたってしまうかもしれない。
でもきっと大丈夫。
これからは大切な人が近くにいてくれるから。
今年は例年よりも暑いらしく、外には極力出ないでほしいとニュースキャスターが言っていた。
その言葉を受けてではないが、僕は家で受験勉強をしていた。
とは言っても未だ志望校を決めきれずにいる。
「……大学か」
僕は小さい頃から本を読むのが好きだった。
やがて書くことに興味を持つようになった。
今は文芸部に所属して小説を書いている。何度かコンテストに応募したけれど、賞を貰ったことは一度もない。
なのに大逸れた夢を抱いていた。
それは、プロの小説家になりたいということ。
当然、親はダメだと言った。文芸部の仲間ですらやめたほうがいいんじゃないかと言っていた。
でも、先輩だけは応援してくれた。
『夏樹くんの小説、好きだな。私は夢、叶えられると思う』
先輩、元気にしているといいけれど。
集中力が切れてしまったので、図書館へ移動した。
夏休みだからか、いつもより人が多い。
読もうと思っていた小説を借りていつもの場所へ向かう。
「……暑い」
当然だが自転車移動だ。日差しが肌を照り付け、汗が噴き出してくる。
次第に見えてくるのは、いつもの大きな橋。その下には大きな川が流れている。
自転車を押しながらゆっくりと土手を下る。
太陽の光が反射してキラキラと揺れる川に近づく。
橋のおかげで日差しが遮られ少しばかり涼しく感じた。
だが、気温が下がると共に気持ちも下がっていく。
周りを見渡して、いつの間にかため息を吐いていた。
ここへ来るときは、いつも期待してしまう。
先輩がいるかも――と。
当然、そんなことはないけれど。
「さて……」
自転車を停めて階段に腰を下ろした。
少し川を眺めた後、鞄から小説を取り出す。
図書館で借りた、純文学で有名な大川洋子の新刊。
先輩に勧められて読み始めた作家。
作風は特徴的で、登場人物の内面にはあまり踏み込まない。
理由は、読者の数だけ読者の中に人物の内面が生まれるから。
その分、視覚から生まれる情報を細かな描写をしてくれている。
先輩が一番好きだった――。
「やっぱりここにいた」
突然、空から声がした。その瞬間、僕の心臓が大きく波打つ。
見上げると、懐かしい、太陽みたいに明るい笑顔の女性が、僕を見ながら手を振っていた。
え、幻覚? どうして――。
そして落ち着く間もなくその声の主は土手を軽快に降りてくると、僕の視界の右側に飛び込んできた。
「元気にしてた? こんな暑い日に外で読書なんて、ほんとに本が好きだよね」
「そ、そうですけど、なんでここにいるんですか?」
藤川凛先輩。二年前、僕が所属する文芸部の先輩だった人。
でも、どうして――。
「夏休みは実家に帰るものじゃないの?」
そう言いながら、藤川先輩は前を向いて川を眺める。
何度も見た横顔、相変わらず綺麗だ。
「どう? それおもしろい?」
「え? まだ、読んでないんですか?」
「思ってたより大学が忙しくて、まだ読めてないんだよね……。こっちは、やっぱり落ち着くね」
藤川先輩は純文学が好きで、新刊が出るたびに読み漁っていた。
あの頃の事はよく覚えている。
放課後、僕と先輩は創作についてよく語り合っていた。
大学って、そんな忙しいのか……。
「いつ、帰ってきたんですか?」
「昨日の夕方くらいかな。乗るたびに思うけど、新幹線って早いよね。お弁当食べてのんびりしてたら着いちゃう。文明の利器って凄いなあ」
「いつまでいるんですか?」
先輩が返してくれた言葉に丁寧に返す余裕はなかった。心臓の鼓動が早い。
「夏休みいっぱい居る予定だよ。ちょっとやることがあるから」
「そうなんですか」
まだ二週間以上もある。その言葉に気づけば微笑んでいたのだろう。
「なに笑ってるの?」
先輩も笑いながら、僕をのぞき込むように顔を近づけてきた。
知らない香水の匂いがする。
長かった黒髪も肩までになって、色もほんのり明るい。
汗が滲んで透けてしまいそうな白いシャツは高校生の頃には感じなかった色気を纏っていた。
少し、いや、かなり大人びた気がする。
って――。
「ち、近いですよ!?」
「夏樹くん、大人っぽくなったね」
「何も変わってないですよ。僕は」
そう、変わっていない。本当に何も。
僕は、あの頃のままだ。
見た目も、成績も、――感情も。
「これ、一口もらっていい? 喉渇いちゃって」
すると先輩は、僕の飲みかけのペットボトルに手を伸ばそうとする。
慌てて制止し、立ち上がる。
「あ、じゃ、じゃあ新しいの買ってきますよ!?」
「んっ、それはもったいないよ。一口だけでいいから。だめ?」
「……いいですけど――」
「ありがと」
リップだろうか。ほんのり赤身を帯びた唇が、ペットボトルの淵につく。
水滴が首から落ちていく。
これって間接――いや、何を考えてるんだ僕は……。
「ありがと。美味しかった」
「いえ」
「あれ? ちょっと顔赤くない?」
「そ、そんなことありませんよっ」
慌てて否定するものの、きっと本当に赤くなっているだろう。
先輩はクスリと笑うと、また前向き川を眺める。
「夏樹くん、進路はもう決まった?」
「いえ……まだ、はっきりとは……」
「そっか。うん」
歯切れの悪い僕の返事に先輩は深く聞いては来なかった。
それが少しありがたく感じた。
それから少しだけ話をして先輩は立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行こうかな」
「え? もう行くんですか?」
「叔父さんの家に呼ばれてるんだよね。ちょっと、荷物の整理をしなきゃいけなくて」
先輩の叔父さんとは何度か会ったことがある。
純文学を書いていた小説家で、とても有名な人だ。
一度だけ書斎に入れてもらったが、あたり一面が本だらけだった。
先輩と一緒に夜まで本を読みふけって、親に怒られたこともあったな。
「それじゃあ、少しだったけど夏樹くんと話せて良かった。また時間があれば――」
「あの、僕も行っていいですか? 力仕事なら、ちょっとは手伝えるかと」
気づけば口に出していた。夏休みいっぱいまでいるならまた会う機会もあるだろう。
でも今は少しでも長く先輩といたかった。
「……構わないけど、でも、その……あんまり、楽しい仕事じゃないよ」
そう言った先輩の表情は、今までにないほど悲し気だった。
□ □ □ □
「凛ちゃんありがとね。わざわざ東京から来てくれて」
「いえ、叔父さんにはお世話になりましたから」
叔父さんの家は、過去の記憶と変わらず大きな家だった。
玄関を入ってすぐの螺旋階段を登ると叔父さんの書斎がある。
以前案内された時、ひどく緊張しながら階段を登ったのを覚えている。
応接間に案内された後、僕と藤川先輩は叔母さんに冷たいお茶を出してもらった。
「すいません大変な時にお邪魔させてもらって。僕の名前は――」
「もしかしてだけど……夏樹くんかしら? 違ったらごめんなさい」
「え? そうです」
「やっぱりね。あの人、言ってたのよ。小説のわかる、今どきめずらしい若者と出会ったって。凛ちゃんの後輩だって言ってたし、そうかなって。って、ごめんなさい偉そうよね、あの人」
「いえ、覚えていてくれて嬉しいです。それに、とても光栄です」
「光栄……ね。私にはさっぱりわからないんだけれどね」
叔父さんが亡くなった。その連絡を受けた藤川先輩は、書斎の整理をする為に地元に戻ってきたのだ。
叔母さんは今後、一人息子の家に住むらしい。
一人で暮らすにはこの家は広すぎるのと、足が悪いからとのこと。
「本当は息子も呼んでたんだけどね。直前で風邪を引いちゃってね」
「大丈夫です。でも、私の判断でいいんでしょうか?」
「私はさっぱりだから。それに凛ちゃんならあの人も安心だと思うわ。夏樹くんもいるしね」
「いえ、僕なんて……」
叔母さんと話している間も、先輩は凄く悲しげな表情を浮かべていた。
無理もない。僕が知っている先輩は、叔父さんのことを本当に慕っていたから。
今日やることは、小説を仕分けることだ。
生前、準備していた遺書に、小説は図書館や学校、施設などに寄贈してほしいと書いていたらしい。
ただその後、寄贈する本の仕分けの途中で叔父さんは亡くなってしまった。どれをどこに送りたいのか、それが叔母さんにはさっぱりわからなかった。
藤川先輩は、叔父さんと同じ感性を持っていた。だから、呼ばれたのだろう。
「ほら、みてこれ。凛ちゃんが賞を貰ったときの新聞の切り抜きよ。あの人、黙ってこういうのするのよね」
「……ほんとだ。でも、嬉しいです」
藤川先輩は、とても繊細で、人間の心を読み取り、さらけ出すような文章を書く。
切り抜きには、大手出版会社の大賞として名前が載っていた。
ただ、これには裏話がある。
大賞を受賞した作品は出版することが決まっていたはずなのに、そんな話は一向に出てこなかったのだ。
編集との折り合いがつかなかったと聞いているが、詳しくは教えてもらえなかった。
けれど、それで才能がなくなるわけじゃない。
またいつか凄い賞を取るだろう。僕はそう思っている。先輩は、本当に凄い人だから。
書斎に移動して、仕分けを始める。
僕と藤川先輩は思い出話や、手に取った小説の話をしながら作業をしていた。
「私が思うに、この作者は人間の心の奥底の葛藤を描こうとしてたと思うんだよね。ほら、あのシーンあるじゃない。勇気を出して、前を向くところ」
「はい。でも、僕は少し投げやりに思えたんですが」
「その解釈も間違ってるとは言えない。でも私は、覚悟のシーンだと思うんだよね。まあ実際はわからないけど」
会話をしていると思い出す。僕と先輩はいつも遅くまで部室でこうやって話していた。
まだ話したりない時は、あの河川敷で話す。
近くに野球場があって、夜は照明がいい具合に当たるのだ。
夜風が気持ちよくて、川のせせらぎだけが聞こえる、僕と先輩だけの特別な空間だった。
たまに朝から話すこともあった。幸せな時間だった。
でも今は――。
「東京はどうですか?」
この言葉を言うのに、何度も躊躇した。すごく楽しいよ、なんて言われたら笑えるだろうか。
「人が多い。物価が高い。ラーメンが意外と美味しい」
「なんですか、それ」
「私が強く思った東京の印象。でも、そうだね。――私は地元の方が好きだよ」
嬉しい言葉が返ってきて思わず微笑んでしまったかもしれない。
「それに、こうやってまた夏樹くんと話せるしね。まるで、タイムスリップしたみたい」
「僕も同じこと考えてました。まるで、あの頃みたいですよね」
――本当にタイムスリップができたら……
「――本当にタイムスリップができたらなあ」
「え?!」
「あ、ごめん。変なこと言っちゃったね」
僕が考えていた同じタイミングで、先輩が口にした。
思わず驚いてしまったが、嬉しかった。
いや、でも……僕と同じ場面を思い浮かべたのかはわからないな。
別のことかもしれない。
「夏樹くんと小説の話をしていた毎日、凄く楽しかったらね」
ああやっぱり僕は――。
「そうですね。僕もですよ」
先輩のことが、好きだ。
「それじゃあ気を付けてね、夏樹くん」
「先輩は泊まっていくんですか?」
「そうだね。他にも色々やることがあるし、叔母さん一人じゃ心配だから」
「そうか、そうですよね」
「今日はありがとう。たくさん話もできて嬉しかった」
「あの、明日も来ていいですか?」
「え? でも、受験勉強とか――」
「最後までやりたいです。中途半端は、あんまり好きじゃないので。それに僕も、叔父さんには世話になりましたし」
これは本当だ。僕は、叔父さんから小説を譲ってもっらたり、創作の話をしてもらった。
だから、その恩も返したい。
もちろん、先輩との時間が楽しかったことが大きいけれど。
先輩は大人びた微笑みで「ありがとう」と言ってくれた。
□ □ □ □
「瀬尾まいこさんの作品って素敵だよね。嫌な人が一切出てこないのに凄くおもしろいし、何より心が温まる。悲しい話もあるけれど、最後はしっかり前を向こうってなる」
「わかります。僕は、夜明けのすべてが好きですね。お互いに気遣い合って、共に壁を乗り越えるというか、人は一人では生きていなくて、誰かに支えられているんだって実感します」
翌日、僕と先輩は再び書斎で小説の仕分けをしていた。
叔母さんは時折様子を見に来てくれて、冷たいお茶を持ってきてくれたり、お菓子を持ってきてくれたりする。
ありがとうと言われたが、少し申し訳なく感じた。なぜなら僕はこの時間が一生続いてほしいとまで思い始めていたから。
本当に、あの頃のようだ。
「そういえば先輩、小説はどうですか?」
「えっと……最近ずっと忙しくて……」
「そうなんですか? 大学、大変なんですね」
「夏樹くんは? 最近、書いてるの?」
「……一応。でも、先輩と違って全然おもしろく――」
「読みたいっ」
先輩は、突然振り返り僕を見つめた。
いつもは見せない、真剣な顔だ。
「い、いいですけど」
「ありがとう。じゃあ、あとのお昼休憩で。このあたり、最後までやっちゃおうか」
「わかりました」
□ □ □ □
「…………」
お昼ご飯に叔母さんがウナギ弁当を注文してくれた。
凄く美味しくて、多分人生で一番美味しかった。
でも今は先輩の返答が気になって気になって、ウナギの余韻に浸る時間もない。
僕がノートに書いた小説、まだ一章までしか書いてないが、先輩は真剣に読んでくれている。
恥ずかしい理由は、内容がいたってシンプルだからだ。
高校生の恋愛。後輩が、先輩に恋をする話。
先輩が賞を取ったのは、とても有名な純文学の賞だ。
小説に優劣があるとは思っていないが、僕には書けない、唯一無二の話だった。
それに比べると僕は文章も稚拙で、何よりも先輩ほどの熱量で書けているわけでもない。
読むことは好きだが、書くことは下手なのだ。
先輩と違って、僕は――。
「凄いね……。たった二年で、ここまで成長できるんだ」
そんなことを考えていたら、先輩が褒めてくれた。
冗談? いや、そんな冗談を言う人じゃない。本当に思ってくれたのだろう。
僕だって試行錯誤しながら自分なりに一生懸命に書いた。それでも――。
「そんなことないですよ。先輩のと比べると全然拙くて」
「ここの心理描写、ものすごく共感できた。やっぱり、夏樹くんの書く小説は素敵だね。真っ直ぐで純粋で、好きだな」
褒められすぎてなんだか照れてしまう。しかし先輩をよく見ると、少しだけ悲し気に見えた。
叔父さんのことがまだ尾を引いているのだろうか。
いつも笑顔を絶やさない人だったからこそ、こんな先輩を見るのはつらい。
「ありがとうね。さて、続きもがんばろっか」
「はい。先輩のもまた見せてくださいね」
「……そう、だね」
なぜか最後の顔がいっそう悲し気だった。
それから申し訳なく思いながらも、僕にとっては幸せな日々が続いた。
「うーん、この小説は中学生向けかな?」
「どうでしょうか。最近の小学生はませてるともいいますし」
「それじゃあこっちは?」
先輩が見せてきたのは、少し大人向けの小説だった。
官能とまではいわないが、それなりに攻めている話だ。
「……大学ですかね?」
「そうなの? でも、夏樹くんは見たんでしょ?」
恥ずかしくなりながら素直に見ましたと答えると、先輩は楽しそうに笑っていた。
小説の仕分けをしながら、先輩と創作話をする。
この時間がいつまでも続いてほしい。そんな邪な気持ちも芽生えていた。
ただ、それよりわかったことがある。
気づいたことがある。
先輩は自分の小説についての話題を避けている気がするのだ。
「先輩」
「ん、どうしたの?」
「何もなかったらごめんなさい。でも、もし何か悩んでいることがあったらいつでも頼ってください」
気づいたら言葉にしていた。でも、僕なんかに出来ることがあるだろうか。
ないかもしれない。それでも、先輩が悩んでいるなら、何か力になりたい。
先輩は驚いているようだった。
「どうしてそう思うの?」
「……わからないです。でもなんだか悩んでいるように見えて」
「凄いね夏樹くん。やっぱり、君に嘘はつけないなあ」
「え?」
そして、先輩はまた悲し気に微笑みながら言った。
「後で、少し話せるかな」
僕たちは橋の下に移動していた。
今日は空気が澄んでいて、星がよく見える。
手が届くのではないかと思うほど近く、でも決して届くことのない距離。
今の僕たちを表したような星空だった。
「やっぱりすごいなあ。東京じゃこんなに見えないよ。久しぶりに見ると圧巻だね」
「そんなにこことは違うんですか?」
「うん。まったく見えないよ。空を見上げても高いビルばっかり視界に入るし、明るいからね。やっぱりいいなー。もう、こっちに戻ってこようかな」
そうなってほしいと、本気で思った。でも、それが先輩のためにならないことはわかっている。
だから今はその話を深く追求はしなかった。
それから少しの間沈黙が続いた。
本当は気になっていることを今すぐ聞いてしまいたい。
でも、それを聞くのは先輩を追い込むことになるかもしれない。
僕は先輩の言葉を待つ。
しばらく星空を眺めた後、先輩が口を開いた。
「書けないんだよね」
「え?」
「……全然、書けないの。笑っちゃうでしょ。せっかく芸術大学に入ったのに、私何もできてないんだ」
話題を避けている気はしていたが、まさかだった。
あの先輩がそんなことになっているとは思ってもいなかった。
誰よりも小説に対して真剣で前向きで、いつも笑顔で小説のことを話していた先輩がここまで追い込まれていたとは。
「覚えてる? 私が賞を貰った時のこと」
「もちろんです。応募する前に見せてもらったこと、今でも覚えてます。それに本当に面白くて感動して、受賞して当然だと思いましたし、何より誇らしかったです」
「ありがとね。編集さんからもそう言ってもらえた。嬉しかった。推敲を重ねて、本にしようって話になったの。大学に入ってからもやり取りしてたんだけど……途中で書けなくなっちゃったの。書きたくても何も浮かばない。あの頃みたいに言葉が、文章が、想いが湧いてこないの。それで凄く迷惑をかけてしまった。今も、ずっとメールも返せてない。私は最低だよ。人を笑顔にするどころか、迷惑しかかけてない。叔父さんはいつも言ってた。プロになるのは楽しいことばかりじゃないって。でも、私はその土俵にすら上がれなかった」
先輩は気丈に振舞おうとしているが、その声は微かに震えていた。
「そうだったんですね……」
「ごめんね。突然、こんな話して」
「いえ、大丈夫です」
先輩の悲しそうな笑顔になんて返せばいいのかわからなかった。
僕は小説家でも何でもない、そんな僕が大丈夫ですよなんて言うのもおこがましい。
「叔父さんが今の私を見たらきっと失望するよね。小説を愛していたから。私って、ほんとダメだ」
悲し気な先輩を見ていると辛かった。
頼ってほしいとは言ったものの、僕になにができる?
小説も中途半端で、進路すらちゃんと決めることもできない。
何も結果を出したことのない僕が。
きっと、先輩はどうにかしてほしくて僕に言った訳でもないだろう。
でも、それでも……何か先輩のためにできることがあるはず――。
「先輩、明後日の夏祭り一緒に行きませんか」
「え? 夏祭り?」
「はい。明日には片付けも終わりそうですし、気分転換になると思うんです」
「どうしようかな。でも、こんな気持ちで行って夏樹くんに迷惑かけちゃわないかな」
先輩は迷っている。きっと気分も乗らないのだろう。
でも、僕は先輩と夏祭りに行きたい。
行きたい理由がある。
「僕は行きたいです。先輩と一緒に」
「そんなに?」
「はい。それに――リンゴ飴もきっとありますよ」
「もしかして、覚えてくれてるの?」
「当たり前ですよ。学園祭で、あれだけはゲットしなきゃって叫んでましたから」
「叫んではないよ」
「いえ、叫んでました」
「恥ずかしい。でも、確かにリンゴ飴……食べたいな」
僕の言葉に先輩がまた笑顔を見せてくれた。
ああやっぱり、こうやって笑っていてほしい。
「わかった。じゃあ楽しみにしておくね」
「はい」
翌日、僕たちはいつものように片付けを進めた。
落ち込んでる様子はなかったが、小説の話をすることはなかった。
夕方にはすべての仕分けが終わり、ガランとした書斎を先輩と見渡す。
「凛ちゃん、夏樹くん、手伝ってくれてほんとありがとうね」
「いえ、最後に叔父さんの想いに添えることができて良かったです」
「僕もとても有意義な時間を過ごせました」
この時間が終わってしまうことが寂しく感じた。
けれど僕は明日、先輩のためにやらなければならないことがある。
こんな僕が先輩のためにできること。
先輩に心から楽しんでもらいたい。
そして、元気を出してもらいたい。
□ □ □ □
夏祭りの会場近くの公園で待ち合わせをした。
約束の時間の15分前、人が大勢行き交っている。
「綿あめ食べたいー」
「はいはい、後で買ってあげるから」
「今日、久しぶりにするんだって」
「へえ、知らなかった」
夏の匂いがする。笑顔で溢れている。
そんな空間で一人待っていると無性に不安がこみ上げてくる。
……先輩、本当に来てくれるだろうか。
もしかして、直前で嫌になってないかな。
それか、直前で気づいて――。
「夏樹くん」
先輩の声がして視線をあげると言葉を失った。
朝顔模様の浴衣、サイドで編み込んだ髪を後ろで纏めた髪型。
いつもと違う先輩に思わず見惚れてしまう。
「待たせてごめんね。浴衣で歩くの久しぶりだったからか、時間がかかっちゃって」
「いえ大丈夫です。それに凄く……綺麗です」
気づけば口にしていた。
先輩は少し驚いた顔をしたが、とびきりの笑顔でありがとうと言ってくれた。
そして――。
「夏樹くんの浴衣も似合ってるよ。実は私だけだと思ってたから」
「ありがとうございます。いや、それは僕もです。事前に伝えようかなと思ったんですが、それで変にプレッシャーをかけるわけにはいかないと思ったので」
「言ってくれてもよかったのに。一人だけだと申し訳ないしね。でも、お互いに考えてたみたいで、なんか嬉しいかも」
「僕もです」
嬉しかった。そう言ってくれたことが。
それに驚きもした。
もしかして気づいている? いや、そんなわけないか。
「それじゃあ行きましょうか――」
歩き出そうとした瞬間、先輩が躓き転びそうになる。
咄嗟に腕を掴み支える。先輩も僕の袖をぎゅっと掴んだ。
「っごめん」
「いえ。大丈夫ですか?」
「実はここに来るまでも何度か転びそうになったんだよね」
少し恥ずかしそうにする先輩。
足元をよく見ると下駄のサイズが合っていないようだった。
今日のために無理して履いてきてくれたのだろうか。そんな先輩がなんだか可愛く思えた。
「あ、あの。このまま腕、掴んでてください。危ないので」
「いいの? ありがとう。あ、でも誰かに見られたりしたら嫌かな? 私の代はみんな卒業しちゃったけど、夏樹くんは学校の友達とか来てるかもしれないもんね」
「い、いえ、そんなことないです!」
思わず、声を上げてしまった。
確かに、誰かに見られてしまうかもしれない。でも、それよりも先輩とこうしていたい。その思いが強かった。
「ならよかった。あ、今年は花火やってるんだね」
「みたいですね。楽しみです」
立て看板には、今年からは花火が再開すると書かれていた。
コロナでずっと中止だったからだ。
とはいえ僕は知っていたけれど。
「それじゃあ行きましょうか。リンゴ飴が売切れる前に」
「始まったばかりで売り切れないでしょ」
「どうでしょうか。先輩みたいな人が100人いるかもしれないし」
「なにそれ」
ほんと、藤川先輩は綺麗だな。
今まで祭りなんて数えるほどしか行ったことがない。
人混みは苦手だし、家で本を読んでいる方が好きだからだ。
でも、先輩となら一緒に歩いているだけで楽しかった。
かき氷を食べて、綿あめを食べて、先輩の好きなリンゴ飴を一緒に食べた。
「夏樹くん、甘いものばっかりじゃ飽きてくるよね? フランクフルト食べよっか。好きだったよね」
先輩がフランクフルトの屋台を見つけて指をさす。
僕の好きなものを覚えていてくれたことが嬉しくて大きく頷く。
「美味しいね」
「はい! 美味しいです」
先輩と食べるフランクフルトは一段と美味しく感じた。
そんな僕を見て先輩はふっと笑う。
すると先輩の手が僕の口元に伸びてきて人差し指がそっと触れた。
「っ!!」
「ケチャップ、ついてたよ」
何でもないことのように僕の口についたケチャップを拭った先輩は次行こうか、と立ち上がる。
突然のことに声が出なかった僕は言われるがまま先輩の隣を歩き出す。
自然と掴まれた腕にドキドキしながらも、この距離が心地よく感じていた。
しばらく見て回っていると途中で射的を見つけた。僕は足を止める。
心なしか、先輩も見つめているようだった。
「ちょっとあれ、やっていいですか?」
「え? もちろん。頑張ってね」
裾を少しまくって、おじさんにお金を渡す。
「兄ちゃん、がんばってな! 彼女さんにいいとこみせんと!」
「はい。え、いや彼女ではないですけど――」
「夏樹くん、がんばれ! ふぁいとー!」
先輩が、いたずらっぽく笑いながら言った。
そんなこと言われたら、絶対に獲らないとな――。
「はい。お疲れさん! 残念賞のお菓子ね。」
「……先輩、もう一回していいですか?」
「もちろん、頑張ってね」
先輩は少し不思議そうだった。
何度もやって、そしてようやく落とした。
1200円もかかったが、それ以上の報酬があった。
「何でそれが欲しかったの? 誰かにあげるの?」
「すいません、ちょっとだけいいですか」
僕は、失礼しますといって先輩のまとめてある髪にガラス玉のついた簪を差した。
驚いていたが、嬉しそうに笑ってくれた。
「似合ってます。すごく、綺麗です」
先輩は少しだけ目を見開く。
そして気づいたようだった。
「……ありがとう、夏樹くん」
それからはお互い無言だった。
何かを思い出すように、何かを噛み締めるように歩く。
やがて花火の時間が差し迫っていた。
有料閲覧席なんてない。地元の祭りだ。花火もそこまで大きくないだろう。
でも、僕にとっては重要な花火だ。
どこで見ようかと考えていたら、先輩が言った。
「誰もいないところ。二人きりで花火が見たいな」
僕たちはいつもの橋の下まで移動した。
花火から遠いし、橋が視界を遮りよく見えないだろう。
けれどもそのおかげで人はほとんどいなかった。
「すいません、こんなものしかなくて」
「ううん、ありがとう。夏樹くんは紳士だね」
ハンカチを敷いて、先輩に座ってもらう。
横顔が綺麗だ。東京の大学でも、きっとモテてるんだろうな。
やがて花火が上り始める。
色とりどりの花火はとても綺麗で、弾けて広がっていく光たちはまるで、夏の夜空を包み込む流星のようだった。
先輩は子供のように無邪気な笑顔を向けてくれる。
僕は花火を見上げる先輩の横顔をずっと見つめていた。
「今日はありがとうね。誘ってくれて」
「こちらこそありがとうございました。本当に、楽しかったです」
僕は、深呼吸する。
「覚えてますか。学園祭で先輩が書いた小説」
学園祭で、僕たち文芸部は短編集を作った。
先輩の作品は飛びぬけておもしろくて、そのおかげでたくさんの人が短編集を買ってくれた。
僕たち後輩も自分の作品をたくさんの人に読んでもらうことができた。
読んでもらうことの喜びを知った。
「……覚えてるよ」
「僕、あの小説に救われたんですよ」
「救われた? どういうこと?」
「先輩と同じなんて言えないですが、僕も書けなくなった時期がありました。周りには書いてるって言って、でも何も浮かばなくて。それが辛くて苦しくて、でも先輩の小説を読んで凄いなって」
「全然凄くないよ。本当に」
「情景が頭に浮かんで、台詞の一つ一つが生きているみたいでした。それで、先輩は言ってくれましたよね。書くんじゃなくて、自分が楽しいと思うことや、してみたいことを形にすればいいって。それで書けるようになったんです」
あの時の事は鮮明に覚えている。先輩のおかげでまた書けるようになったのだ。
でも僕なんかが先輩に偉そうには言えない。それでも、伝えたかった。
だから――。
「だから今日花火に誘ってくれたんだね。ありがとう」
「……それもあります。ただ、思い出してほしかったんです。先輩はあの頃、凄く楽しそうでした。だから、今は書けなくてもきっとまた書けるようになると思います。すいません、無責任に」
簪を渡した時に先輩は気付いていたはずだ。
今日一日、あのときの小説を僕が再現しようとしていたこと。
ひと夏の恋を描いた幸せな物語……。
流れる煙を追うようにこっちを向いた先輩と目が合う。
「凛、さん……」
先輩が書いた小説のように名前で呼んでみた。
呼んでから、後悔した。
真っ直ぐに僕を見る先輩の表情は何を考えているかわからなかった。
「夏樹くん……。キス、する?」
「え?!」
「なんてね。冗談だよ」
先輩はクスリと笑う。その笑顔はとても自然で、あの頃の先輩みたいだった。
「ありがとね」
僕は何も言わず先輩の手をそっと握る。
僕の気持ちはあの頃から変わっていない。
――先輩が好きだ。先輩の書いた小説も、絶やさない笑顔も、可愛らしい声も。全部。
本当なら物語の中で二人はキスをする。そして、お互いの気持ちを確かめ合うのだ。
でも僕たちは恋人同士じゃない。久しぶりに会った、ただの先輩と後輩だ。
僕の気持ちを伝えるのは今じゃない。
まだ何も成し遂げていない。
胸を張って言えるまでは、今はまだ。
「こちらこそありがとうございます。僕も頑張ります。先輩に追いつけるように」
「私なんて大したことないよ。――でも、そう言ってくれて嬉しい」
先輩は手をぎゅっと握り返してくれた。
微かに触れる肩に、ほのかに香る先輩の匂いに、僕は決心を固めた。
先輩が東京に戻ってから数週間が過ぎた。仕分けした小説は各学校や施設に順番に寄贈され、多くの人に読まれていくという。
『これを手に取った子供たちが本を好きになってくれたら嬉しいね。それで小説を書きたいって思ってくれる子がいたらそれは私たちの頑張りの賜物かもね』
そう言った先輩の言葉が、とても素敵だなと思った。
僕たちの行動が誰かに影響を与えることができる、そんなふうに思わせてくれる言葉だった。
□ □ □ □
僕は、あれから人が変わったように受験勉強に精を出していた。
親からは『何を考えてるの?』と怒られている。それもそのはず、このタイミングで無謀な進路に決めたからだ。
偏差値も高いし、落ちたら周りから笑われるどころか呆れられるだろう。
それでも、僕は自分の道を行くと決めた。
先輩とは頻繁にやり取りしているわけではないが、ふいに「今日は雨上がり虹が出てた」「学食、美味しい」など他愛のないメッセージが来る。
僕はそれが楽しみだった。先輩が何を見て、何を感じているのか、それがわかるからだ。
たまに僕も写真を送った。もっぱら地元の写真ばかりだったが、河川敷の写真は特に喜ばれた。
同じ場所から撮る、同じ景色でもそれがいいのだと先輩は言っていた。
たくさんの思い出がある、僕にとっても一生忘れることのない特別で大切な場所だ。
先輩も同じことを思っているのかもしれないと考えると、嬉しかった。
10月、叔母さんが引っ越しをするとのことで、息子さんを含めて食事に誘ってもらった。
先輩は来れなかったが、後で叔母さんの元気な様子を伝えると、とても安心していた。
11月、叔父さんの家の前を通ると当たり前だがひと気もなくガランとしていて、なんだか心にぽっかり穴が開いたようだった。
12月、ずっと勉強をしていた。周りはクリスマスやなんやらで浮かれていたが、僕にとっては不安でしかなかった。
先輩、もしかして誰かと一緒にいるんじゃないかなって。
でも、そんな連絡なんてできるわけもなかった。
「……先輩!?」
クリスマスの当日、先輩から電話がかかってきた。
僕は家にいた。ドキドキしながら電話を取ると、いつもよりテンションの高い先輩の声がした。
「やほー、メリークリスマス! どう? 勉強、頑張ってる? それともお出かけしてる?」
「家ですよ。先輩は……楽しそうですね。何かしてるんですか? パーティーとか――」
「一人だよ。クリスマス、夏樹くんお祝いしたいと思ってね。電話していいか事前に確認しようかなと思ったんだけど、用事があるって言われたら悲しかったから」
悲しい? それってどういう意味なんだろうか。
って――。
「僕と一緒にですか?」
「そう。勉強中にごめんね。邪魔だったら――」
「全然邪魔じゃないです! むしろその……嬉しいです」
「良かった」
食い気味で返事をしてしまい、すぐに恥ずかしくなってしまった。
けれど本当に嬉しかった。電話越しだとしても、先輩の楽しそうな声には元気をもらえる。
東京は案外寒いらしく雪も降っているらしい。
他愛のない話をしていると、先輩が突然驚くことを言った。
「夏樹くんのおかげだよ。ありがとう」
また、小説を書けるようになったとのことだ。
編集さんも幸い、気にしないでくださいと言ってくれたらしい。
今はやり取りをしながら続きを書いているという。
「僕は何もしてませんよ」
「そんなことないよ。あの日、あの夜、本当に楽しかった。花火、凄く綺麗だった。おかげで思い出せたよ。あの頃の気持ち」
その言葉が、何より嬉しかった。
僕はやっぱり、先輩が好きだな。
「それで、受験する大学はいつ教えてくれるの?」
「まだ言えないです。ちょっと高望みしすぎてて、落ちたら恥ずかしいですし」
「夏樹くんなら大丈夫だよ。いつも頑張ってるの知ってるから」
「ありがとうございます。偉そうかもしれませんが、お互い、頑張りましょう」
「そうだね。あと、前に少し話してたけど年末はやっぱり帰れないかも。色々忙しくなりそうで」
「仕方ないですよ。忙しいって良いことですよね。応援しています。でも無理はしなでくださいね」
「うん。ありがとね」
残念だったが、良かったのかもしれない。
先輩と会えるとなると、その事で頭がいっぱいになってしまうからだ。
「それじゃあおやすみなさい、夏樹くん」
「おやすみなさい、藤川先輩」
「……ねえ、あの時みたいにまた、凛さんって呼んでくれていいんだよ?」
「え、いや、それは……」
「冗談だよ。おやすみなさい」
電話を切った後、僕は再び勉強をはじめた。
先輩もきっと書いている。頑張っている。
一人だけれど、一人じゃない。それが嬉しかった。
1月が過ぎ、2月が過ぎ、3月がやってきた。
「……はあ、緊張する」
初めて乗った一人きりの新幹線は新鮮で、それでいて不安だった。
努力は重ねた。後は、結果を出すだけだ。
「それでは、試験開始です」
今までの努力が実を結んでくれたのか、自分なりに手ごたえは感じた。
これなら、きっと――
少し緊張しながら大学の門をくぐる。
ここに、先輩がいる。
もちろん、ただ追いかけてきたわけじゃない。僕も小説をもっと頑張りたかったからだ。
先輩にメッセージを送る。
返ってきた答えに先輩らしいな、と思いながらその場所へ向かう。
高校とは違い、いろいろな服装、髪型、年齢の人が行きかっている。
そして、ようやく見つけた。
遠くからでもわかる、先輩の姿。
僕ははやる気持ちを抑え、ゆっくりと近づいていく――。
□ □ □ □
スマホのメッセージの通知が、ピコンと鳴る。
『先輩、今なにしてますか』
たったそれだけの短い文章。
『大学の中庭で本読んでるけど』
質問に返事をした後、続けてメッセージを入力する。
『久しぶりだね。受験、どうだった?』
本当に久しぶりだった。
きっと、勉強が大変だろう、忙しいだろう。そう思うと私からもなかなか連絡をすることができなかった。
送信ボタンを押そうとした瞬間、後ろから聞きなれた声が聞こえた。
ここに居るはずのない、大切でかけがえのない人。
「先輩」
「夏樹くん、なんで……」
立ち上がり、読んでいた本をベンチに置くと夏樹くんのところへ駆け寄る。
「驚かせてすみません。先輩と一緒に夢を追いかけたかったんです」
びっくりして、嬉しくて何も言葉が出てこない。
ずっと、夏樹くんのことが好きだった。
高校生の時からずっと。でも東京の大学に進学することが決まっていた私は気持ちを伝えることができなかった。
去年の夏、叔父さんが亡くなって地元に帰った時、無性に夏樹くんに会いたくなった。
まさか本当に会えるなんて思っていなかった。
夏樹くんに伝えたいことがある。あの夏、一緒に行った夏祭り。橋の下で見た花火は自信を無くし、どん底にいた私を救ってくれた。
夏樹くんのおかげであの頃の気持ちを取り戻せた。また、小説を書くことが楽しくて、書けることが嬉しくなった。目に映るものすべてが宝物のように思えた。
全部全部、夏樹くんのおかげだ。
「私ね、この夏に本が出ることが決まったよ」
「え! すごいです! おめでとうございます」
「ありがとう。夏樹くんのおかげだよ」
「そんな、僕なんて何も。先輩の努力の結果ですよ!」
自分のことのように喜んでくれる夏樹くん。
屈託のない笑顔が、やっぱり好きだと改めて思う。
「夏樹くん、好きだよ」
「……っ!」
思わず口にした。それでもいつか伝えようと思っていたこと。
夏樹くんは驚いているようだった。
それもそうか。こんな、再会してすぐに好きだなんて言われても困るだけだろう。
「ごめん、やっぱり――」
「――凛さん、僕も、好きです」
そう言って笑ってくれた夏樹くんは少し大人びて見えた。
呼んでくれた名前に、好きという言葉に、胸の奥が熱くなる。
きっと、私たちはこれから互いに支え合い、励まし合いながら自分たちの道を進んでいくだろう。
たくさんの言葉を、想いを、物語を、紡いでいくだろう。
また悩んでしまったり、壁にあたってしまうかもしれない。
でもきっと大丈夫。
これからは大切な人が近くにいてくれるから。