「なんで、佐伯がそれを……」
「昨日、近所のお姉ちゃんに貸して貰ったんだー。昨日話してたから、悠くん読みたいかなって」
「読みたい」


 思わず即答すると佐伯が目をまんまるにして驚いている。
 こんなところで巡り合ってしまった感動から、柄でもない行動ばかりしてしまっている。

 だけれど、口元の緩みが抑えられない。
 ずっと楽しみにしていた小説だ。興奮するなというのが無理な話だ。

 俺の反応を食い入るように見ていた佐伯が、心底嬉しそうに頬を緩ませている。


「悠くんのそんな反応見れたら、持ってきた価値あったなあ」
「……うん、ありがとうございます」
「敬語! やばい、悠くんの弱点を発見してしまった」
「そういうのじゃないから」


 なんとか口元の緩みを抑えて言葉を返したけれど、彼女は急に無表情になった俺に爆笑している。
 はい、と笑い混じりに手渡された分厚いそれを、少し迷ってリュックの中に入れる。


「今読まないんだ?」
「佐伯の横だと集中できなさそうだから。今読んだらもったいない」
「ひどっ。さすがのわたしでも静かにするよ?」
「騒がしい自覚はあったんだな」


 俺が言うと、佐伯は「活気があるって言ってよ」と軽く頬を膨らませていた。

 中学の頃、生徒会長に立候補して見事に落選した話。
 この前の定期テストで赤点ギリギリだった話。
 学校近くの公園に住みつく野良猫の話。

 ハイテンションが通常運転な佐伯からぽんぽんと放たれていく話題たちに相槌を返しておく。
 よくもまあこんなに話すことが見つかるなと感心してしまう。
 だけれど同時に、弾けるように明るく話す彼女に心の黒色が薄れていったのも事実だ。

 見上げた空は透き通った青が積み重なっていて、意識ごと吸い込まれてしまいそう。
 太陽の光が白いラインをいくつも作って青色を広げている。

 空にまっすぐ線を引く飛行機雲をぼんやり眺めていると、野良猫の可愛さを熱弁していた佐伯が「そういえば」となにか思い出したように口を開いた。


「今日の朝、悠くん村木くんたちとなにか揉めてた? 大丈夫?」


 心臓が凍りついたような感覚だった。
 あるいは、日光浴をして暖まっていたところに冷水を浴びせられたような緊張。

 村木、というのは涼成の名字。

 驚いたというよりは触って欲しくない部分を逆撫でされたかのような不穏。
 一度落ち着いていた闇がその言葉で駆けめぐり、思考を黒く染めていく。

 涼成と純矢との喧嘩については、ひとりでゆっくりと考えたかった。
 佐伯にこの話題に触れて欲しくなかった。

 はじめに沸いたのは、苛立ち。
 彼女の察する能力が低いことは分かっている。
 本人も気にしていることだし、それに対して批判も文句も言いたくない。

 それでも、気づいて欲しかった。
 俺の心情も、言って欲しくない言葉だったということも。