1

 僕の名前は楠木カノン。
 我ながら、女の子みたいな名だ。幼い頃「カノンちゃん」と、よくイジられたっけ。
 言い得て妙だが、この呼び名こそ、僕の人品を如実に物語っている。
 小学時代。野球やサッカーより、おままごとや人形遊びを好んだ。熱いバトル漫画やクールなロボットアニメより、甘い恋愛ドラマやほろ苦い青春小説を好んだ。母親の買うおニューのジーンズには目もくれず、一つ年上の姉のスカートを、嬉々として履くような子供だった。男友達より女友達の方が多く、男子から「オトコオンナ」と揶揄されたものだ。
 中学時代。肉体が雄々しく、たくましくなっていく反面、心は女々しく、しとやかになった。三年間、インテリ女子グループが発足した文芸部に、黒一点として所属。誰よりも乙女チックな話を量産し、注目を集めた。百合やBLもイケることから、マエストロと崇められ、リアルな恋愛相談に乗ったりもした。
 感性がズレている自覚はあった。けれどもこの頃は《思考が女子寄りなだけ》《これも一つの個性なのだ》と思うことで、心の均衡を保つことができた。……あの忌まわしい、修学旅行の日が来るまでは。
 修学旅行の行き先は、長崎だった。一番の思い出は、ハウステンボスでも、原爆資料館でもなく、入浴時間。入浴前、ひどく体の火照った僕は、脱衣場で、鼻から紅い噴水を一リットル噴射した。素っ裸の男子共は、腹を抱えて大笑い。「女子のヌードを想像して、興奮したか?」と口々に詰め寄った。
 確かに僕は興奮した……同性に。
 体調不良を理由に踵を返し、千鳥足で部屋へ戻るや否や、トイレに駆け込み、盛大に嘔吐。
 昔から、体育の着替えには抵抗があった。男子の肌を見るのも、見られるもイヤだった。
 薄々原因に感づきながら、認めるのが怖くて「シャイなだけさ」と、むりやり言い聞かせた。が、もう誤魔化せまい。僕はだんだん、女になりつつある。
 LGBTの割合は、世界人口中、約8%。内、LG(同性愛者)が3%、B(両性愛者)が4%、T(心と体の性別がアベコベ)が1%と言われている。僕は希少なTに該当。選ばれし者といえば聞こえがいいが、その実、男からも女からも弾かれ、孤立してしまった。
 いつしかこうなる予感はあった。それなりに覚悟していたが、いざ変異が進むと、途端におそろしくなった。自分が自分でなくなっていく感覚。楠木カノンのアイデンティティは、思春期固有の迷宮の深淵へ、迷い込んでしまった。あれから一年近く経つが、未だ日の目を見ていない。
 センシティブな悩みは、ありていな進路相談と違って、先生にも、友人にも打ち明けにくい。言ったが最後、変態の烙印を押され、健全な学園生活を送れなくなってしまうから。無論、家族も例外ではない。僕の中身が女だと知れたら、彼らはどんな顔をするだろう。怒るだろうか? 悲しむだろうか? どんな形であれ、深く傷つけてしまうのは目に見えている。誰にも打ち明けず、心の奥底にしまい込むのが一番なのだ。
 正体を悟られぬため、僕は志望高校を、知り合いのいぬ、片道百五十分の遠方を選んだ。同じ理由で、部活には入らず、同じ理由で、友達も作らない。結果手に入れたのが、灰色の高校生活。家と学校を行き来するだけの、単調な日々。正直言って、退屈である。窮屈である。

   2

 そうこうする内に、一学期が終了。長い長い夏休みがはじまった。
 僕の中に住まう女性は、日に日に存在感を増し、♂を侵食する。近頃は女物のパンツを履き、ブラジャーを着けるのが日課だ。化粧を施し、姉の洋服を失敬して、夜の町を出歩いたのも、一度や二度ではない。かつては抵抗し、ヤンキー・ルックに身を染めたりもしたが、生理的に受け付けず、すぐ辞めてしまった。二学期の始業式には、学ランではなく、セーラー服で登校するかもしれない。
 このままではダメだ。いい加減、白黒つけなければ……。
 八月中旬・某日。
 書店で『頭の中にもう一人』なる啓発本を買い、チャリを漕ぎ漕ぎ。隣町の隣町、そのまた隣町へ赴いた。
 三時間ほどして、人気のない川辺を発見。ここで腰を下ろし、本を開く。
 なぜ自宅で読まないのかって? 僕は何気ない日常から、性別が転じた。日々のルーチンを脱し、フレッシュな環境、フラットな心境で、己と向き合いたかったのだ。
 ……静かだ。川のせせらぎと、ページをめくる音以外、何も聞こえない。
 白黒つけるといったが、すでに九割方、勝負はついている。僕は自分が男であることに、強い嫌悪感を抱いている。ゴツゴツと骨張った肉体の気持ち悪さ。股にぶら下がる、不必要な竿のおぞましさときたら、うぅ……。
 いかんいかん! 読書に集中せねば。
 本によると【人は誰しも、潜在意識下に、もう一人の自分が眠っている。彼、あるいは彼女は、分別を持ち、目標達成の助力を惜しまない。誤りを正し、インスピレーションを授け、真実の道を照らしてくれる。最良のパートナーでありながら、ほとんどの人が、その存在に気づかない】とある。
 著者には悪いが、失笑を禁じ得ない。何が助力だ。何がパートナーだ。奴は侵略者だ。僕の精神を蝕み、とって変わろうとしている。
 自我をめぐる生存競争に敗れた暁には、異常は正常となり、僕は私となる。彼女は、僕の潜在意識が望んだ真の姿なのか? それとも、モラルや常識の及ばぬ狂人か?
 川べりに屈み、水面に映る己の顔を、しげしげと眺める。のっぺりと青白い、蝋人形のような顔。前髪はハネ、口は半開き、目はうつろ。心ここにあらずとは、よく言ったものだ。
「ホーント、死人みたい」
 僕の肩越しに、同じ年頃の少女の顔がニョッと現れ、心中を見透かしたかのような発言をした。
「ヒャン!」反射的に、女の子のような悲鳴を上げて飛びのく。「なな、ななな、なんだ君は!?」
 相手はニンマリ笑い、どこぞのお嬢様のように、スカートの端をチョンとつまんでお辞儀した。
「楠木カノン」
 あろうことか、彼女は僕の名を騙った。反論する前に、矢継ぎ早に登場した経緯を語る。
「自分と向き合いたかったのでしょう? お望み通り、対面を果たしたまでのこと」
「つまり君は……」
『頭の中にもう一人』の表紙を彼女に見せるや、コクンと頷く。真夏の猛暑に、僕の頭は本格的にどうかしてしまったらしい。

   3

 僕と私は、岸辺の石段に並んで座り、横目で互いの様子をチラと観察した。こちらはおそるおそる、あちらは澄まし顔で。その間、終始無言。勝手知ったる間柄だというのに、二人の距離は、限りなく遠い。同一人物でありながら、見ず知らずの赤の他人なのだ。
 先に沈黙を破ったのは、私だった。
「今日は男物の下着なのね」
「うぐっ!」
 イタい所を。こやつ、初手からストレートを……。
「別にいいだろう? 何履いたって」
 己との対話という、千載一遇のチャンスを得たにも関わらず、ツンと突っぱねる。分身とはいえ、相手は超常。得体の知れぬ存在に、おいそれと心は開けない。
 塩対応を意に介さず、私は「この暑さだもの。汗でシャツが濡れたら、ブラがスケちゃう」と、自身の胸を揺らして熱弁する。さらに彼女は顔を近づけ「似合ってるよ」と甘く囁いた。
 これにはガラにもなくドキッとした。修学旅行の一件以来、欲情の矛先が同性になってしまったため、驚きも二乗。異性にときめくだけの理性が、まだ残っていたというのか? 否。私が抜け出たことで、薄れた♂が顕在化したのだ。すなわち、二人の力関係はほぼ互角。九割方征服されたとて、気おくれする心配はない。
「そう意気込まないで」鼻息荒くする僕を、私がなだめる。「私は敵じゃないわ。主人格は、あくまでアナタ。僕になるも私になるも、アナタの胸一つ」
 脳裏に『頭の中にもう一人』の文言が浮かぶ。本の内容にウソはなかった。著者よ、笑って済まなかった。
 いくらか安心し、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。

Q「思えば子供の頃から、僕には少女趣味の気があった。あの頃から君は、僕を操っていたのか?」
A「とんでもない。全てアナタの意志よ。子供は本能に従順なの。素直に動いた分、今よりむしろ充実感があったんじゃなくて?」
Q「僕はこの先どうなる? 体が男のまま、完全に女になるのか?」
A「残念だけど、そうなるわね。だけどその前に、アナタは壊れる」
Q「壊れるだって?」
A「他者との接触を絶ち、ストレスというストレスを、全部溜め込んでるでしょう? もうとっくにキャパオーバーよ。悲しくもないのに涙が止まらなかったり、そこここの皮膚がミミズ腫れになったり、夜な夜な不安と恐怖に襲われて眠れなくなったり、衝動的な自殺願望に駆られた経験があるでしょう。アナタの精神は、今や風前のともし火。脳細胞総出で、私という危険信号を発しているの。いわば私は、正気を保つ最後の砦って訳」

 ――こんな調子で、質疑応答がなされた。僕は自分が思っている以上に、あやうい立場にいるらしい。私は毅然とした表情で、核心に触れた。
「アナタは周りの目を気にしすぎている。そりゃあ性転換すれば、皆驚くし、奇異の目を向けられるでしょうけど、自分に一生フタをし続ける方が、遥かに辛いわ。全てを犠牲にして己を解き放つか、全てを守って己を圧し殺すか、道は二つに一つよ」
 主人格は僕の物だと私は言ったが、アイデンティティは彼女が握っている。彼女こそ僕の願望であり、本来なるべき姿なのだ。僕と私、どちらが欠けても、楠木カノン足り得ない。解き放つ時が来たのだ、己を。
「僕は、男と女の狭間で、ずっともがいてきた。どちらが正解なのか、正直まだわからない。ひょっとしたら、はじめから答えなんてないのかもしれない。でも僕は、ありのままの自分でいようと思う」
 中学時代、純愛物からSM物まで、様々な恋愛小説を手掛けてきたけれど、今からする行いは、そのどれよりも異色のものだ。
「カノンちゃん、お手を拝借」
 僕は私の手を取り、目をつむって、甲にそっと口づけをした。真なる自分になるには、まず己を愛すること。私は幼い女の子の声色で「ありがとう、カノンくん」と礼を言った。
 目を開けると、空が朱に染まり、遥か西の山あいに、陽が沈みかけていた。目の前の少女は、影も形もない。忽然と、姿を消してしまった。

   4

 涼しい夜風が、川の流れに沿って吹き抜ける。
 マズイな、ちょっと長居しすぎた。母さんたち、心配しなきゃいいけど。
 読みかけの本を拾い、自転車に乗る。不思議なことに、心が軽い。長年の憑き物が落ちたみたいに。
 久しぶりに……本当に久しぶりに……明るい気持ちで……私は……帰路についた。