ヒモスキルで異世界無双 ~男も可愛げがあればだいたい生きていける~

 ×××


「こんなもんかなー」

 買い物袋の中身を確認して、明楽はひとりごちた。
 今日は真菜から、仕事でミスがあったので帰宅が遅くなると連絡があった。きっと落ち込んでいることだろう。
 明楽は帰ってきた彼女を慰めるために、彼女の好きな少々お高いアイスクリームを購入していた。

(先に風呂溜めておいてー、入浴剤はベルガモットのやつ。マッサージ用のボディクリームも出しておかないと。ワインは最近ハマってるオレンジ……)

 頭の中で必要なものとやることを思い浮かべる。今日は真菜をべたべたに甘やかしてやらなければならない。
 ヒモとは究極のサービス業である、とは誰の言葉だったか。
 経済面は全て女頼りだが、家でだらだらして競馬とパチンコだけが楽しみのクズとはわけが違う。あれは人生の脱落者だ。
 ヒモは飼い主に尽くす。飼い主の気分が良くなるように振る舞い、必要ならば家のこともやる。
 こう言えばまるで夫に尽くす専業主婦のようだが、ヒモは行動を制限されることはない。家の外では自由に振る舞うし、金も好きに使える。結婚のように契約で縛られることもない。
 何より違うのは、主導権がヒモの方にあることだ。経済面を全て頼っておきながら、それは男を繋ぎとめる要素にはならない。気に食わなければ別の飼い主を探す。女に甘えて生きられる男は、それが簡単にできる。
 必要なのは女をコントロールする技術だ。
 これを多数相手に詐欺紛いの行為も含めて行えるのがホストであり、そこまでいくと管理も大変で仕事の域になる。
 それなりにイイ線いくとは思うが、面倒も苦労もごめんである。大金が稼ぎたいわけではない。適当な相手に寄生しているくらいが気楽でちょうど良い。少なくとも、明楽はそう考えていた。
 安っぽい男のプライドさえ捨ててしまえば、生きることなど容易い。

「……ん?」

 夜道を照らす外灯の下に、黒い服を着た女がいた。女はフードを被っており、顔が見えない。それでも女だとわかったのは、ミニスカートとニーハイ、フードから垂れる長い黒髪のせいだった。
 明楽は眉を顰めた。どう見ても服装が地雷系。加えて嫌な空気がある。
 多数の女と関係を持つ明楽にとって、危機察知能力もまた必要な技術だった。
 あの女は、やばい。
 なるべく刺激しないように、自然にその場を離れようとする。

「アキラさぁん」

 水あめのような声が、明楽の足を地面に貼りつけた。
 特定されている。逃げられない。
 明楽に近寄った彼女は、ゆっくりとフードを取った。

「あたしのことわかりますぅ?」
「あー……ごめん、記憶にないな。会ったことある?」

 関係を持った女の顔は覚えている。しかし彼女の顔は本当に記憶になかった。

「会ったことはないですよぉ。でもぉ、あたしはあなたのことよく知ってますぅ。おねぇちゃんがよく自慢してたからぁ」

 おねえちゃん。ということは、彼女は誰かの妹なのか。
 真菜には妹はいない。過去の女たちの、誰か。

「おねぇちゃん、アキラさんに捨てられてからぁ、おかしくなっちゃってぇ」
「……それは誤解じゃない? 俺は誰かを捨てたことなんてないよ。過去の彼女とは皆円満に別れてる」
「そうやってぇ、おねぇちゃんが自分から身を引くように仕向けただけでしょぉ? ずるいオトコ~」

 にぃ、と吊り上がった唇に寒気を覚えた。手元を確認するが、ナイフを隠し持っている様子はない。突然刺されることはなさそうだが、油断はできない。

「それで? 君は誰の妹で、俺にどうしてほしいの」
「死んでほしいですぅ」
「……直球だな」

 思わず一歩引く。やはり殺しに来たのだろうか。姉の名前も聞き出せていない、情報が少なすぎる。
 平静を装いつつも、明楽のこめかみに冷や汗が伝った。

「でもぉ、あなたごときのせいでぇ、あたしのすんばらしい人生を棒に振るのはむかつくのでぇ」
「理性的で助かるよ」
「あなたを呪いますぅ」
「……はぁ?」

 先ほどまでの緊張感も忘れて、明楽は口を開けた。

「あたしぃ、魔女なんですぅ」
「……へぇ……」
「黒魔術が使えるのでぇ。あなたがぁ、今後一生おねぇちゃんの視界に入ることがないようにぃ、呪いをかけますぅ」

 なんだ、電波か。
 明楽は安堵した。ストーカー化するタイプの電波は実害があるが、呪いだのなんだのトんでいるタイプは適当にあしらっておけば大丈夫だ。せいぜい何かしらの不幸が明楽の身に起こった時、自分が呪ったせいだとほくそ笑むくらいだろう。
 呪いの効果がいつまでも望めなければ強硬手段に出る可能性はあるが、今はひとまず切り抜けられそうだ。

「それは怖いな。誰だかわからないけど、二度と君のお姉さんと関わらないように気をつけるよ」
「気をつけてもらわなくて結構ですぅ。絶対にできないのでぇ」
「そうだったな。じゃ、俺はこれで」

 片手を上げて、明楽は足早にその場を去った。早くしないとアイスクリームが溶けてしまう。
 黒い女は、その後ろ姿が見えなくなるまで、じぃっと見つめ続けていた。

 帰宅すると、明楽はアイスクリームを冷凍庫に放り込んで、バスタブに湯を溜めるため水道の蛇口を捻る。
 それからソファに腰掛け、スマホの連絡先を確認する。

「んー……やっぱ誰だかわからん」

 別れた女の連絡先は消していない。心当たりがないか一応確認してみたが、あの黒い女が誰の妹なのかはわからなかった。
 スマホを放り投げて、ソファに転がる。
 明楽はヒモではあるが、それなりに相手のことは大切にしている。言うことを聞かせたいだけならDVでもした方がよっぽど効率がいい。
 共に過ごすなら、お互いに好意があった方が心地が良い。恐怖で縛るより、進んでしてもらった方が罪悪感も後腐れもない。
 だから誰かを酷く扱ったり、こっぴどくフられたり、大きなトラブルに発展したことはなかった。
 あんな風に恨まれることなど。
 覚えのない悪意に体が重くなる。心なしか、ソファにどんどん体が沈んでいくようだった。

「……ん、んん!?」

 いや、気のせいではない。
 明らかな体の違和感に明楽は身を起こそうとしたが、既に体は半分以上ソファに埋まっており、抜け出すことができなかった。

「なんだこれ!? どうなってんだ!?」

 じたばたと悪あがきをするが、ソファはどんどん明楽の体を呑み込んでいく。

 ――あなたを呪いますぅ。

「まさか……!」

 呪いなんて、そんなこと、あるはずが。
 完全に視界が暗くなる前に明楽が気にかけたのは、捻ったままの水道の蛇口だった。

 全てが暗闇に包まれた後。
 明楽の体は、どこかに放り出された。
 光が差して、風が肌を撫でる。目を開けると、空が見えた。自分が地面に寝転がっていることに気づいて、明楽は身を起こした。
 体に異変がないことを確認すると、立ち上がって周囲を見渡す。
 そこは何もない、だだっぴろい草原だった。
 呆然として、明楽は呟いた。

「どーこだここ……」
 ×××


「あたしの名前はメイア。あなたは?」
「俺はアキラ。よろしく」

 草原を歩き続けて暫く。
 小さなログハウスに辿り着くと、耳の長い少女――メイアが、そこが自宅だと言って明楽を招き入れた。
 木製の椅子に腰掛けて、小さなテーブルを挟んで向かい合う。
 家の中にはテレビやラジオといった情報収集に使えそうなものもなければ、そもそも電子機器の類が見当たらなかった。
 随分と田舎に来てしまったみたいだ、と明楽は溜息を吐いた。或いはメイアが自然派なだけかもしれないが。

「それで? アキラはあんなところで何をしていたの」
「うーん……あのさ、突然変なことを言うようだけど」

 ひどく真剣な表情で、明楽はメイアの目をまっすぐ見つめた。

「メイアは呪いって信じる?」
「は?」

 怪訝な表情で眉を寄せたメイアに、これはダメか、と思いかけたが。

「なに。あなた魔女に呪われたの?」

 意外な返答に、明楽は目を瞬かせた。
 呪われた、という申告に疑いを見せない。それどころか、言ってもいないのに相手が魔女である(自称だが)ことを知っている。

「うん、そうなんだけど。どうして相手が魔女だと?」
「呪いなんてかけるのは、黒魔術を使う魔女くらいよ。あたしたちエルフは白魔術しか使わないもの」

 明楽は表面上笑顔をたもったまま、頭を抱えたい気分だった。黒魔術、白魔術、そしてエルフ。なんの冗談だろうか。それともこれは、あの自称魔女が仕組んだ盛大などっきりだったりするのだろうか。
 だとしたらメイアも仕掛け人だ。利用することに良心は痛まない。
 しかしあの獣から感じた熱と息遣いは確かに本物だった。あれが仕込みだとしたら危険度が高すぎる。
 そこまで考えて、ふと思った。もしやこれは夢なのではなかろうか。
 呪いが本物かどうかは置いておいて、怪しげな薬品か何かで幻覚を見せられているか、意識を失って悪夢の中にあるか。
 夢だと思えば気が楽だった。元々ふらふらとその場限りで生きているような人間だ。
 深く考えるのはよそう。適当に生きていれば、その内目が覚める。
 そうと決まれば、まずはこの夢の世界で、生きる術を確保しなくてはならない。

「メイアの言う通り、俺は魔女に呪われた。そのせいで、突然知らない場所に放り出されちゃったんだ。俺はここがどこだか知らないし、メイアの言う……魔術とか、エルフとかってのも、わからない。何もわからないんだ」

 溜息を吐いて、顔を覆う。情けない顔を見られたくない、というように。けれどまいっている様子は見せる。

「正直、これからどうしたらいいのかもわからないよ。メイアに助けてもらえたことが、唯一の幸運だった。本当にありがとう」

 人好きのする笑顔で下から見上げるように微笑んで見せる。
 メイアは照れたように目線を逸らした。

「アキラは遠いところから来たのね。どこの国から?」
「凄く遠いと思うよ。日本、って言ってわかるかな」
「……ごめんなさい、わからないわ」
「だよね」

 肩をすくめた明楽を、メイアが気の毒そうに見る。

「メイア。申し訳ないんだけど、今晩だけ泊めてくれないかな? 女の子の家に悪いとは思うけど、見たところ他に家はなさそうだし。獣が出るような場所で野宿は怖い」
「ええ、もちろんよ。気にしなくていいわ、お客様なんて久しぶり。アキラの言う通り、このあたりにはあたししか住んでないの」
「君ひとりで? その歳で、大変だね」
「あのね。エルフは長命種なの。ヒューマンの基準で見た目通りだと思わない方がいいわ。多分あたし、あなたより年上よ」

 明楽は目を丸くした。どう見ても十代がいいところだと思っていたが、この言い草だとまさかの三十代以上もあり得るのだろうか。
 エルフなど御伽噺の存在だ。もしかしたら数百歳という可能性も、と一瞬過ぎったが、それなら「多分」とは言わないだろう。二十代から三十代あたりが妥当か。
 多少は気になるが、自己申告しないのだから、尋ねることはしない。
 明楽にとって重要なことは、彼女が子どもではない、ということだ。

(少なくとも、未成年淫行で捕まることはないと)

 例え相手の同意が取れても、未成年者であった場合、たいていの国では犯罪である。
 けれど大人同士であるならば、体の関係に持ち込んでも問題はないだろう。

「いくつだったとしても、ひとりは寂しいでしょ。俺、ダメなんだ。ひとりだと夜も眠れない」
「呆れた。あなたそれでも男なの?」
「情けないことにね。ひとりだと、寒くて、暗くて、怖くて……いつまでも夜が明けない気分になる。そんな時にさ」

 そっと、明楽はメイアの手を取った。白く細い手を、両手で柔らかく包み込む。メイアが息を呑む音が聞こえた。

「こうやって、手を取ってくれる人がいたんだ。触れているところから、全身に熱が広がっていくようで。温かかった。人の体温ってすごく安心するんだって、その時知ったんだよ。だから俺も、凍えてる人がいたら、その手を取れる人でありたいって思った」

 メイアの手を頬に当て、顔を預ける。
 目を細めて柔らかく微笑むと、メイアが狼狽えた。

「どう? 他人の体温って、安心しない?」
「そ、そんなこと急に言われても、わからないわ。人と触れ合ったのなんて、いつぶりかわからないもの」
「そんなに長い事ひとりだったんだ?」
「そうね。あたしは……いいえ、なんでもないわ」

 その時、メイアの顔に影が差したのを、明楽は見逃さなかった。

「そろそろ食事の支度をしなくちゃ。あなたも食べるでしょう?」
「手伝うよ」
「いいわよ。突然のことで疲れてるでしょう。ゆっくりしてて」
「手持ち無沙汰だと色々考えちゃうからさ。することがあった方が助かる」
「……そう? それなら」

 キッチンへ案内されて、明楽は調理を手伝った。ガスコンロもなければ電子レンジもない。けれど火起こしは魔術で簡単にできるようだったし、他の道具の扱いもメイアは手慣れていた。大きな不便は感じなかった。
 明楽も包丁捌きは慣れたものだったし、ふたりで和気あいあいと夕食を作った。
 そしてそれを同じテーブルで食べる。

「うん、これ美味しいな。初めて食べた」
「裏の畑で取れる野菜なのよ。今が旬だから、一番美味しい時ね」
「食べ物は自給自足?」
「そうね、基本的には。野菜は畑で作っているし、肉は狩りで取ってくるわ。でも調味料とか、他にも色々必要なものは、月に一度くらい王都に買い出しに行くの」
「へえ、王都。近いの?」
「遠いわよ。あたしは転移魔術を使えるから、それで」
「そっか。すごいんだね」
「……別に」

 共に食事を作り、共に食べる。相手の心を開かせるのに有効な手段であるし、自分の有用性も示しやすい。
 この短時間で、明楽はメイアと打ち解けていた。
 彼女は自分で言っていたように長らくひとりであったらしく、人との会話に飢えているようだった。明楽の他愛ない話を、いくらでも聞きたがった。
 食事が終わると、リビングに大きな布を敷いて、メイアがその上に毛布を乗せた。

「ごめんなさい、ゲストルームがないの。簡素で悪いんだけど」
「いや、助かるよ。ありがとう」
「毛布は一枚で足りる? 寒ければ、もう一枚持ってくるけど」
「んー……毛布は、一枚でいいけど」
「けど?」
「メイアが一緒に寝てくれた方が、あったかいかな」

 首を傾げてにこりと微笑んだ明楽に、メイアは一瞬詰まった後、わざとらしく溜息を吐いてみせた。

「そんな軽口が叩けるなら、大丈夫そうね」
(あ、これいけそう)

 怒ったような素振りを見せるメイアに、明楽は口には出さずに確信した。
 そもそも警戒心の高い女は自身のテリトリーに簡単に男を招き入れない。そういう女を攻略するのも楽しくはあるが、寄生するには向かない。
 望ましいのは、絆されやすく、他人に甘く、寂しさを抱えている女だ。
 身も蓋もない言い方をすれば、ちょろい女。
 
 容姿重視の軽い女は上がり込むのはちょろいが、寄生先にはならない。要は他人に自慢できるステータスが欲しいので、着飾らせて連れ歩いて見せびらかしはするものの、金銭的な面倒を長くはみてくれない。急に追い出された時の避難宅として便利なので、セフレとしてキープしておくくらいがちょうどいい。
 最初からペット扱いを決めているバリキャリも利害がはっきりしており気楽でいいが、あれは依存してくれないので、熱心に尽くさないと捨てられるのも比較的早い。向こうも替えがいくらでもいるからだ。
 逆にいかにもな男慣れしていない喪女は地雷である。引っ張ろうと思えばいくらでも引っ張れるのでホストにとっては好物件だが、うまくさばかないと刃傷沙汰になる確率が最も高い。素人がうかつに手を出すものではない。
 ヒモはあくまで恋人の延長線上にある。ちょっとお人好しなくらいの普通の女が、一番「恋人」になりやすい。困っているところを助けてもらって、恩義を返すことを口実に、気がある素振りで近づく。懐に入ってしまえば、もう見捨てられない。恋人だと思っているから、手順さえ間違えなければ、金絡みの修羅場にもならない。
 
 メイアが明楽を助けた時点で、七割方いけそうだとは思っていた。
 本来、男を助けるのは男であるべきだ。「他人の手助けが必要な状況」において、筋力の劣る女が手を貸す理由はなく、ましてや見知らぬ男とあっては何をされるかわからない。どれほど困って見えても、男に任せるか、男を呼んでくるべきだ。
 それらを考えもせず、あるいは考えたとしても「自分が」と思って手を差し伸べてしまうのは、よほどのお人好しか、少々考えが足りないか、向こうにも下心があるか。そういう女を判別するために、明楽はわざと「困って」みせる。
 メイアの場合、現代とは事情が異なる。あの草原にはメイア以外の誰もおらず、別の人間に助けを求めることは不可能だった。獣に襲われたのは明楽にとっても想定外のことであったし、本当に命の危機だった。あれはただの人道に則った行為だ、と言われても納得はするが。
 その後、明楽を自宅に招いたのはお人好しと言わざるをえない。この近辺に家がないことにも間違いはないが、先ほどの話からすると、メイアは王都に行くことができる。王都というからには繁華街だ。なら、明楽をそこに放り出してしまえばいいのだ。多くの人間が集まる場所なら、自力でなんとかすると考えるものだろう。何せ相手は成人男性である。
 しかしメイアは、明楽を泊めることに何の疑問もないようだった。それどころか来客を楽しんでいる節がある。加えて先ほどの反応。もうこれ役満じゃなかろうか。
 
 毛布を被って、明楽は窓辺から外を眺めていた。明かりがないので、星がよく見える。
 虫の声がする。自然界の音しか聞こえない。キャンプでも、こんな空気は味わったことがない。
 ふと外に出てみたい気もしたが、さすがに家主に黙って夜間の外出は憚られる。
 メイアが就寝すると言ってベッドルームにこもってから暫く。完全に眠っている可能性もあるが、明楽の予想では、そろそろ。

 キィ、と扉が静かに開いた音には気づかないふりをする。ぼうっとした顔で、窓の外へ視線をやり続けた。

「……眠れないの?」

 小さくかけられた声に、初めて気づいたようにはっとして、明楽は声の方に振り返った。

「驚いた。メイアこそ、眠ったんじゃなかったの?」
「あ、あたしは、ちょっと喉が渇いて」

 言い訳のように口にして、メイアは水瓶から水を汲んだ。

「アキラも飲む?」
「いや……俺は、いいかな」
「……ねえ、ちょっと。大丈夫?」
「なにが?」

 弱々しく微笑んだ明楽に、メイアは眉を寄せて、つかつかと明楽の真正面に来た。

「夜にごちゃごちゃ考えたって、いいことないわよ。はやく寝なさい」
「手厳しいなぁ」
「あなたがうじうじしてるからでしょ」

 苦笑する明楽に、メイアは少しだけ迷う素振りを見せて、明楽の手をとった。

「ほら」

 明楽が目を瞬かせると、照れたようにしながらも、メイアは握る手に力を込めた。
 
「手を握れば、眠れるんでしょ。なんなら、眠るまでついててあげるから。急にひとりになって、不安な気持ちは……わかるもの」

 そう言って目を伏せたメイアの言葉に、嘘はなさそうだった。
 薄々感じてはいた。彼女がここにひとりでいるのは、彼女が心底望んでそうしているわけではないということを。何か事情があるのだろう。
 そしてそれは、明楽にとっては都合が良かった。

「ありがとう。――メイアの手は、温かいな」

 メイアの手に、頬をすり寄せる。安心した子どものように微笑んでみせると、メイアも仕方なさそうに笑った。
 けれど明楽は子どもではない。

「手だけ?」
「え?」

 頬に添えていた手のひらに、キスを落とす。途端、メイアが赤くなった。

「あ、あなた、何して!」
「こうしたら、もっと温かいよ」
「ひゃっ!?」

 手を引いて、明楽がメイアの体を抱き込む。
 そのまま、被っていた毛布で自分ごとメイアを包む。

「ちょ、ちょっと!」
「嫌?」
「い、嫌っていうか」

 緊張は見られる。拒絶はない。嫌悪もなさそう。
 手は形だけ押すように添えてあるが、力は入っていない。
 メイアの様子を観察し、長年の勘からまんざらでもない空気も感じているが、もう一押し。

「嫌だったら、逃げていいよ。このまま部屋に戻るなら、俺は追いかけない。朝まで大人しくしてる。でも」

 メイアの顔に手を添えて、至近距離で見つめ合う。
 
「もし俺のこと嫌じゃないなら――拒まないで。お願い」

 くしゃりと顔を歪めた明楽に、メイアが小さく唸った。
 うっかりそれに笑いそうになりながらも、心中に留める。
 キスをする寸前まで唇を近づければ、メイアがぎゅっと目を閉じた。
 触れるか触れないかの距離で、最後の確認と明楽が囁く。
 
「逃げなくていいの?」
「逃がす気ないじゃない……」
「逃げられる強さでしょ?」
「心理的に!」

 つまり逃げないということだ。
 はい言質取った、と明楽は内心ほくそ笑んで、メイアの唇を塞いだ。
 ×××


 朝の光で目を覚まして、明楽は大きく伸びをした。横を見れば、きらきらと光を反射する金髪。
 日の出と共に起きていそうな女だが、久々で疲れているのかもしれない。寝かせておこう、と明楽は起こさないように気をつけながら、さらさらと髪を梳いた。
 正直暇ではあるが、さすがに最初の朝に隣にいないというのは減点である。
 このまま世話になろうと企んでいるのだから、なるべく点数は稼いでおきたい。
 穏やかに眠る顔を眺めながら、昨夜のことを思い出す。耳は長いが、他の部分は人間とそう変わらない作りで良かった。具体的に生殖について尋ねてはいないが、体の作りが同じなら、それも同じと考えるべきだろう。

(パイプカットしてて良かったー)
 
 明楽の初体験は中学の時である。多くの男が選択するように、明楽も避妊はコンドームくらいしか知らなかった。
 しかし大学生の時。社会人の彼女が、コンドームにわざと穴を開けていた。
 いわく、どうしても明楽の遺伝子が欲しかったらしい。責任を問う気はなく、顔のいい男を産みたかっただけで、ひとりで育てるつもりだったそうだ。
 そう言われたところで、自分の子どもが、知らないところで産み育てられているなど恐怖でしかない。当然彼女とはすぐに別れた。
 そして次の彼女と付き合ってすぐ、パイプカットの手術を受けた。費用は上手いこと言って彼女持ち。
 コンドームは細工をされたり途中で外れたりしたらそれで終わりだ。相手がピルを飲んでいる、という申告は真偽を確かめる術がない。強く疑えば関係が破綻する。自分主導で避妊するには、パイプカットが確実だった。

 明楽は自分の性格上、家庭というものは持てないと思っている。だから子どもができなくても、全く構わなかった。それにどうしても、と思うなら、再建手術を受ければ子どももつくれる。
 流れでそうなった時にいちいちコンドームの存在を気にしなくて済むし、明楽は受けて良かったと思っている。
 ただし、コンドームも常に持ち歩いてはいた。パイプカットは避妊にはなるが、性病は防げない。
 特定の相手とだけするなら構わないが、そうでないケースも往々にしてある。一度痛い目を見たことがあるので、初めての相手とする時は必ずコンドームをする。あの時は毎晩ムスコが腐り落ちる夢を見た。二度とごめんである。
 寄生する相手が変わった時は、まず性病検査を一通り受ける。医者には多分そういう仕事の人間だと思われている。あながち間違ってはいない。

 メイアとする時にも本当ならコンドームが欲しかったが、あの流れで出してくれと言うのも格好がつかないし、そもそもこの世界の避妊方法がわからないので、コンドームが存在するかも怪しい。
 とりあえず、長らくひとりであることは確かなようだから、病気持ちということはないだろう。
 避妊云々についてはその内ちゃんと確認しておこう、と明楽は心に決めた。
 
「んん……」

 弄んでいた髪が顔にかかってくすぐったかったのか、メイアが小さく身じろぎをした。
 うっすらと緑の瞳が見えたので、目元にキスを落とす。
 その感触で覚醒したのか、ぱちりと完全に目が開かれた。

「おはよ」

 明楽がにこーっと微笑んでみせると、じわじわとメイアの顔が赤くなっていく。
 毛布を引っ掴んでがばりと身を起こすと、きょろきょろと周囲を見回した。

「服そこ」
「どうも!!」

 明楽が拾って纏めておいた服を抱えると、毛布を体に巻いて、そのまま慌ててベッドルームに引っ込んだ。その際、一度毛布を踏みつけて転びそうになっていたのはご愛嬌。

(おもろ……)

 口に出したら怒られそうな感想を抱きつつ、毛布が取られたので明楽も全裸のままではいられない。自分の服を拾って着る。
 一晩経って正気に戻ると気が変わるタイプもいるが、起き抜けに殴られなかったからひとまず大丈夫だろう。自分が許可したことはちゃんと覚えていそうだ。

「さて」

 着替えた明楽は、キッチンで腕を組んだ。
 これが現代だったら朝食のひとつも用意しておくところだが、ここのキッチンは明楽ひとりでは使えない。まず火がつけられない。メイアは魔術でつけることを前提としているようで、他の着火道具は見当たらなかった。
 自分ひとりでは湯も沸かせないとは不便である。このあたりも確認しておかないとな、と思っていると、身なりを整えたメイアがキッチンに入ってきた。

「何してるの?」
「ああ、ごめん。何か用意しておけたらと思ったんだけど……俺、火がつけられなかったなと思って」
「気にしなくていいわよ。あたしやるから」
「ありがとう」

 ここは素直に甘えておこう、と明楽はリビングに引っこんだ。
 暫くすると、簡単な朝食とハーブティーを持って、メイアがリビングに戻ってきた。
 手を合わせて、ありがたくいただく。ハーブティーは覚えのない香りだったが、すっきりとした良い香りで頭が冴えるようだった。

「メイアは料理うまいね」
「ひとりが長いと、自分でやるしかないもの」
「自分の分だけなんて、もったいない。こんなに美味しいのに。毎日食べられたら幸せだろうなー」
「何それ」
「毎日食べたいってアピール」

 率直な言い分に、メイアは思わず吹き出した。

「もうちょっと隠しなさいよ」
「えー、本心だよ? 俺メイアのこと好きだし。朝起きて、メイアが隣にいて、こうやって一緒にご飯食べる毎日が続いたらなって」

 メイアが僅かに動きを止めた。明楽は落とさないようにと、メイアが手に持っていたカップを取り上げてテーブルに置き、片手を絡める。

「俺のこと、ここに置いてよ」

 今まで一度も断られたことがない甘えた顔で、メイアを窺う。
 メイアの顔に皺が寄っているが、これは怒っているのではない。何らかの衝動を耐えているのだろう。

「……それは、昨晩の責任を取ってくれるってこと?」
「え」

 びし、と甘い空気に亀裂が走った。責任。明楽の一番嫌いな言葉である。
 そんなことに決してならないようにパイプカットしたのに。

「嫁入り前の娘を傷ものにしたんだもの。この先一生添い遂げる覚悟があってのことよね?」
「娘って歳じゃないんじゃ」
「お黙んなさい。エルフはね、生涯にひとりとしか契りを結ばないの。この人と決めた相手にだけ体を許して、初夜の翌日に結婚式をするのよ。そして一度結婚したら、離婚は禁止。素敵でしょう?」
(おっも!!!!)

 明楽は表面上笑顔を貼りつけたまま、内心では滝のように冷や汗をかいていた。
 まさかエルフにそんな慣習があったとは。いやでも昨夜の受け入れ方はそんな重い関係を決めたようには到底思えなかったが。
 どうしたものか、と高速で頭を回していると、唐突にメイアが吹き出した。

「冗談よ」
「へ」
「ちょっと考えたら矛盾に気づくでしょう。生涯にひとりなら、アキラの前の人はどうしたと思ったの?」
「あ」

 そうだ。メイアは処女ではなかった。今の話が事実なら、メイアは初めての相手と結婚しているはずだ。未亡人という可能性もなくはないが、それでも生涯にひとり、とは矛盾する。
 やられた、と明楽は頭を抱えた。

「あなた本当にエルフのこと知らないのね」
「言ったろ……こっちのこと、何も知らないんだよ」

 だからこんな簡単な手に引っかかったとも言える。普段ならこんな失態あり得ない。
 自分の常識の通用しない場所だから、つい言われたままを受け入れそうになった。

「危なっかしいわね。本当に戒律が厳しい宗教もあるから、迂闊に手を出すと痛い目見るわよ」
「肝に銘じておきます……」

 項垂れた明楽に、メイアはくすりと笑みを零した。

「危なっかしいから、あたしが面倒見てあげる」

 顔を上げた明楽の目に映ったのは、存外優しい目をして微笑むメイアだった。

「……ちゅーしていい?」
「な、なによ急に!」
「今したい」
「食べたばっかりだから嫌」
「中学生かよ」
「意味はわからないけど馬鹿にされてるのはわかるわよ」

 軽口の応酬に、明楽は心が解れていくのを感じていた。
 知らない世界に放り出されて、柄にもなく緊張などというものをしていたのかもしれない。
 これが夢である説はまだ捨てていない。けれどそうではない、という印象の方が、今は強かった。
 とにもかくにも、これで無事生活の術は確保できた。世話をしてくれる女も。
 
 それがメイアであったことは、この先も明楽にとって、一番の幸運と言える出来事となる。
 ×××

 
 明楽がメイアの家で暮らし始めて、数週間。

「…………暇だ……」

 日光に当たりながら、明楽は玄関ポーチでぼうっと空を見上げていた。
 退屈は人を殺す、とはよく言ったものだ。
 異世界での生活は、まさにスローライフと言えるものだった。
 メイアは狩りに出たり畑仕事に精を出したり他にも何やら色々としているようだったが、明楽にできることは少なかった。簡単な家事をこなしたり、畑の手入れを手伝ったりが精々。
 汗水流して働くようなことはしたくなかったので、良いと言えば良いのだが、何が不満かと言えば娯楽がない。これは現代で生活していた明楽からすると、耐えがたいほどに暇だった。
 もはや日々の楽しみはセックスしかない。平安貴族かよ、と明楽は内心ぼやいた。恋の歌を詠むくらいしかできないのも納得だ。恋愛以外に何をしろと言うのだ。
 それも相手はメイアしかいない。彼女が動けなくなれば困るのは明楽の方なので、あまり無理もさせられない。
 
 メイアとの共同生活が決まった後。明楽の生活に必要なものを買い出しに行くというので、明楽はてっきり自分も王都に行けるのだとばかり思っていた。ところが、メイアは不慣れな明楽を連れては行けないと、ひとりで出かけてしまった。
 一緒に行きたいと直前までねだったが、無駄だった。意外なところで線引きをする。荷物持ちだっていた方がいいだろうに、何がそんなにダメだったのだろうか。
 早々に機嫌を損ねても事なので、明楽は大人しく引き下がった。

 娯楽と勉強を兼ねて、メイアは明楽に本を与えた。さほど読書をする方ではなかったが、暇すぎたのである程度は読んだ。
 この世界の文字は明楽の記憶にあるどの文字とも違ったが、何故か問題なく読むことができた。夢だと思っていたので最初から気に留めていなかったものの、言葉が通じることも含め、何かしらの力が働いているのだろう。
 あまり真面目には読まなかった明楽が本から得られた知識はざっくり以下の内容だ。
 
 この世界に住む「ひと」は大きく分けて三種類。最も数の多いヒューマン、魔術に長けたエルフ、技術に長けたドワーフ。エルフとドワーフはあまりヒューマンと交わらず、集落に固まって暮らしているケースが多い。
 メイアの家があるここは、リチェアル王国。王都はラトルア。
 リチェアル王国はかつて魔王討伐のために勇者パーティーを派遣した国で、魔王封印に成功したため、現在はかなり力を持っている。
 明楽を最初に襲った獣は魔物。魔王が封印されたことで、魔族は果ての地でひっそりと暮らしているが、知能の低い魔物を全て回収することはできず、現在も各地に出没している。

 最低限このくらい把握しておけば大丈夫だろうと、本は本棚で眠っている。
 しかし本に寄れば、エルフは集落で暮らしているはずだ。何故メイアはひとりで暮らしているのだろうか。
 その理由は、尋ねていない。聞けば答えるかもしれないが、踏み込む時には覚悟がいる。まだその時ではない、と明楽は判断していた。
 今は久々の人との触れ合いに、色々麻痺しているのだろう。大層甘やかしてくれるが、時間が経てばそうはいかなくなる。
 長続きさせるのであれば、精神的な繋がりは必須だ。この人は自分を理解してくれる、と思わせなければ先がない。
 しかし深入りすれば、離れるのにもまたひと手間かかる。
 現状明楽が頼れる相手はメイアしかいないが、この先行動範囲が広がり出会いが増えれば、寄生先は変わる可能性がある。
 明楽もまだ、メイアのことを量っている最中だ。

「……ん?」

 聞き慣れない音がして、明楽は音の出どころを探した。
 遠くから車輪の音がする。よくよく目を凝らせば、馬車が走ってくるのが見えた。
 このあたりにはメイアの家以外に何もない。今まで来訪者など見たことがないが、メイアの客だろうか、と明楽は立ち上がった。
 眺めていると、馬車は家から離れた場所で止まり、荷台からひとりの女が降りてきた。
 小柄なその女は、まっすぐにメイアの家の方へ歩いてくる。
 次第に鮮明になる姿に、明楽は思わず目を丸くした。

(でっっっか)

 もちろん身長のことではない。背丈は一五〇ないのではないかと思われるほど小さい。その体躯に見合わない、たわわな胸。アンバランスすぎて、逆に転ばないか心配になる。
 彼女はおそらく、ドワーフだ。
 ドワーフと聞くと髭面のずんぐりむっくりした筋肉自慢を思い浮かべるのだが、この世界のドワーフは、単に手先の器用な小人族を指すらしい。小人と言ってもヒューマンからすれば幼く見えるくらいで、幼児ほど小さいわけでもない。
 少女のような愛らしい顔に、くりくりとウェーブするボブヘア。足首まであるワンピースは胸の下で絞られているので、余計に胸が強調される。
 けれどあれは別に好きで強調しているわけではない。巨乳がIラインのワンピースを着ればどうなるのか知っている明楽は、大変だな、と他人事のように思った。歴代の巨乳彼女はだいたい服選びに文句を言っている。
 近づいてきた彼女の方も明楽の姿を確認したらしく、目に見えて戸惑っていた。
 会話のできる距離まで来た彼女に、明楽は敵意のなさを示すように微笑みかけた。

「こんにちは」
「ひえっ!? こここ、こんにちは」

 どもりながらぺこぺこと頭を下げた彼女に、コミュニケーションは苦手そうだ、と苦笑する。

「俺はアキラ。わけあって、メイアに世話になってるんだ。メイアに用事?」
「あ、は、はい。わた、わたし、ミルカっていいます。メイアとは古い知り合いで」
「そっか。悪いんだけど、メイアは今出かけてるんだ。家の中で待ってる?」
「そう、させて、もらえると」
「ん、わかった。どうぞ」

 手を差し伸べると、ミルカはきょとんとした。

「足元。階段危ないから」
「えっ!? あや、だ、大丈夫で」
「遠慮しないで。メイアのお客さんなら、俺にとっても大事なお客さんだから。怪我させたら大変」

 ミルカは真っ赤な顔で、おそるおそる手を取った。
 エスコートに慣れていないのだろうか。童顔で巨乳で男慣れしていない女など、現代日本ならモテ放題だろうに。
 
(巨乳って足元見えないんだよなー)

 特に階段の下りが怖いらしい。だったらピンヒールを履くな、と呆れた彼女の手を引いた日々を思い出す。
 ここの階段は上りで、ミルカの足元はフラットなブーツだが、手すりがないのでエスコートした方が安全だろう。
 扉を開けて中に招き入れ、椅子を引いて座らせる。
 声をかけてから、明楽はお茶を淹れるためにキッチンに向かった。
 棚に置いてある赤い石を手にとって、竈門の前で数回打つ。すると火が燃え上がった。
 これは魔術が使えない明楽のためにメイアが用意した魔石だ。火打ち石のように使うことができる。これのおかげで、今は明楽ひとりでもキッチンが使える。
 沸かした湯でハーブティーを淹れ、カップに注ぐ。爽やかな香りのハーブは裏の畑で栽培されているものだ。害虫駆除にも使えるらしい。
「おまたせ」
「あ、ありがとうございます」

 テーブルに置いたカップを手に取ると、ミルカは一生懸命息を吹きかけて冷ましてから、ハーブティーを口にした。喉が動いて、ほっとしたような顔をする。
 その一連を眺めていた明楽に気づいたのか、ミルカは内心の動揺をそのまま顔に出した。
 あまりにも素直な表情変化に、明楽はにこりと笑って見せる。

(不用心……)

 箱入りなのか、こちらの世界の女はこうなのか。
 家主不在の状況で、初対面の男から出された飲食物など口にするものではない。
 確かに明楽はメイアに世話になっていると説明したが、それが事実かどうかはメイアが戻ってくるまで確かめようがない。
 それを言えばミルカが本当にメイアの知り合いであるかも確かではないが、ミルカが明楽より強いとは思えなかったし、不審な動きがないかは気を配っていた。
 共用スペースに明楽が触ってはならないものは置かれていない、つまり貴重品はない。メイアのベッドルームには鍵がかかっているし、そう簡単に侵入はできないだろう。
 突然の来訪者に対し、明楽は警戒を忘れてはいなかった。対してミルカは、どうにでもできそうな隙しかない。
 離れた場所に馬車を停めていたが、供の者がいるなら連れてきた方が良かったのではないだろうか。扉も完全に閉めてしまって、中の様子も窺えないというのに。
 ぽやぽやとしたお嬢様を前に、悪戯心が疼く。しかし彼女はメイアの客である。まだメイアとの信頼関係も万全ではない。ここで要らぬ揉め事は起こすべきではない、と堪えた。

「あ、あ、あの」
「うん?」
「アキラさん、は、メイアと……どういう関係なんですか?」
「ただの居候だよ」
「で、でも、一緒に住んでる……んですよね?」
「まあね」
「それなら……あの、お願いが、あるんです」

 ミルカがカップを置いて、真剣な目で明楽を見据えた。

「メイアに、王都に戻るように口添えしてくれませんか」

 ミルカの言葉に、明楽は少なからず驚いた。
 メイアがひとりで暮らしているのは理由あってのことだとは思っていたが、戻るように、ということは、メイアは王都に居場所があるのだ。そしてメイアが王都で暮らすことを望む人もいる。
 それなのに、あえてこの辺境にひとりでいるのは何故なのか。

「悪いけど、それは無理かな」
「どうして?」
「俺はメイアがここで暮らしている理由を知らない。事情もわからないのに、王都に戻れなんて言えないよ。そこに居たくない理由があるから、メイアはここにいるんだろ?」
「……聞いてないんですか?」
「まあね」
「何も知らないのに、あなたはメイアと暮らしてるんですか」

 何も知らない、ということもない。
 本人も知らない場所にあるほくろとか。そういうことではないだろうが。
 明楽にとって重要なのは、メイアの背景情報などではない。

「メイアが優しいことは知ってるから。それで十分」

 明楽がそう言うと、ミルカは何度か口を開閉させて、やがて噤んだ。
 
「……あなたみたいな人と一緒なら、メイアはこのままここで暮らした方が幸せなのかもしれません……」

 おや、と明楽は首を傾げた。この口ぶりだと、メイアを王都に連れ戻したいのは、ミルカの意思ではないのだろうか。
 それを尋ねようとした時、外で物音がしたかと思うと、家の扉が開かれた。

「ただいまー」
「お、戻ってきた」

 玄関からリビングは直通である。入ってきたメイアは、すぐにミルカの姿を目に留めた。

「ミルカ……」
「メイア。ごめんね、勝手にお邪魔しちゃって」
「……いいわよ。どうせアキラが入れたんでしょ」

 メイアの言い草に、ミルカは苦笑していた。
 明楽は微妙な空気を感じ取り、口を挟めずにいた。仲が悪そうではない。けれど、旧友と親交を深めに来たという感じでもない。

「俺、ちょっと外出てくるよ」

 大事な話があるのだろう。この小さなログハウスで、話を聞くなと言う方が無理である。
 家の近辺なら魔物も出ない。暫く周囲をぶらついてこよう、と席を立つと。
 何かに引っ張られて、動きを止める。
 視線を落とせば、メイアが服の裾を掴んでいた。
 正直なところ、ややこしい気配があるので、この場から逃げたい気持ちもあったのだが。

(こーいうとこちょっと可愛いんだよなぁ……)

 はっきり口に出しては言わないくせに。
 気づかないふりで逃げることもできるが。
 明楽は裾を掴むメイアの手を取ると、一度ぎゅっと握って離した。

「メイアの分もお茶淹れてくるよ。その間に、椅子もう一個持ってきてくれる?」
「……うん、ありがと」

 リビングには椅子がふたつしかない。三つめが必要ということは、明楽も同席するということ。
 ほっとした表情のメイアに、明楽は軽く頭を撫でた。

 リラックス効果のあるハーブティーを淹れると、三人分のカップを並べる。
 気まずい沈黙に、お茶を啜る音だけが響く。
 最初に口を開いたのは、ミルカだった。

「もう何度か来てるから、用件はわかると思うけど……メイアを、迎えに来たの。王都に戻ってほしいって」
「もう何度も答えてるけど、あたしは王都に戻る気はないわ」
「だよね」

 メイアの言葉に、ミルカは軽く笑った。明楽が住みついてからは初めて会ったが、どうも度々訪れていたようだ。であれば、もう何度も交わされたやり取りなのだ。なら穏やかにお茶だけして終わるのではないだろうか。それとも毎回こんな深刻そうな空気を味わっているのだろうか。不毛。

「またダメでしたーって、簡単に言えればいいんだけど……。今回は、女王陛下の(めい)で来てるの」
「陛下が……?」
「アレイスター様が亡くなられたのは、知ってる?」
「アレイスター様が……!?」

 明楽には誰のことだかさっぱりわからなかったが、メイアは大層驚いていた。ということは、既知の人物なのだろう。メイアはあまり頻繁に王都に行かないので、情報が遅れているのかもしれない。

「今、王立軍には魔術指導者が不在の状態なの。アレイスター様の後任となると、並みの魔術師では務まらないし……。そこで陛下が、魔王を封印した勇者パーティーの魔術師なら、誰も文句がつけられないだろうって」

 明楽は思わずお茶を吹きそうになって、すんでのところで堪えた。
 勇者パーティーの魔術師。誰が? メイアが。
 本を流し読みしていた明楽は、てっきり昔の出来事なのだとばかり思っていた。しかしメイアが当事者であるならば、割と最近の出来事だということになる。

「一応、依頼って形ではあるの。でも、陛下から直接書状も託されていて……」
「実質、断る権利はないってことね」
「……ごめんね」
「ミルカが謝ることじゃないわ」

 会話の内容から推察するに、メイアはこの()()を断れない。依頼を受けるためには、王都に移住する必要がある。それをメイアは嫌がっている。
 依頼を持ってきたのはミルカ。ミルカは女王と近い位置にある。もしくは、女王の頼みを断れない立場にある。
 メイアとミルカの関係は良好。だからメイアはこの依頼を跳ねのけることができない。
 いくら女王の命令とはいえ、ほぼ自給自足でひとり暮らすメイアを罰することは難しい。勇者パーティーで活躍したという話から考えれば、英雄のひとりとも言える。そんな人物を正当な理由なく牢に閉じ込めたりすることはできないだろう。つまり、依頼を拒否した場合の罰は、ミルカの方に与えられると考えるのが妥当だ。だからミルカは責任を感じている。
 可愛い女性がふたりでお茶をしているというのに、この暗い顔はどういうことか、と明楽はわざとらしく明るい声を出した。

「よくわかんないけど、俺たち王都に引っ越すことになるんだよね? 楽しみだなー王都!」
「え……」
「ア、アキラ……?」
「結局メイアは俺を王都に連れてってくれなかったし。ふたりでスローライフもいいけどさ、ちょっとは遊ぶ場所も欲しいと思ってたんだよ」
「あなたね……」

 呆れたように半眼になったメイアに、明楽は遠足前の子どものように弾んだ声で笑いかけた。

「メイアと一緒なら、どこで暮らしたって楽しいよ。いいじゃん、一緒に行こ?」
「……一緒に、来てくれるの」
「えっ俺のこと置いてくつもりだったの? 無理だよ、俺ひとりじゃ生きらんないもん。メイアがいてくれなきゃ」

 言っている内容は最低だが、メイアは驚いたように目を丸くしたあと、くしゃりと顔を崩して微笑んだ。

「本当に、どうしようもないわね。いいわ、連れて行ってあげる」

 仕方なさそうに明楽の髪をかき混ぜたメイアに、明楽はふざけて「わん」と答えた。
 王都に行くことは避けられない。ならばせめて、少しでも前向きな気持ちで。
 そこに何があるのかはわからない。メイアが何を忌避しているのかも知らない。
 けれど、彼女が暗い顔をする度に。笑わせてやることくらいは、できるだろう。
 飼い主の機嫌をとることは、ペットの大事な役割である。

「ミルカ。陛下に伝えて。準備が整い次第、王都に行くって」
「メイア……。いいの?」
「ええ、大丈夫。今のあたしは、ひとりじゃないもの」

 笑みを交わすふたりを見て、やはり女は笑顔に限る、と明楽も目を細めた。


 
 この先、彼を待ち受けるものを、今はまだ誰も知らない。
 ただひとつ言えることは。
 異世界に来ても、やはり彼はヒモ気質である、ということだけである。

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