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 だが本格的に再生するのはまだまだ未来の話。
 そんなこんなで、わたしの病院はオープンした。だが病院はいつも閑古鳥が鳴いていた。生き残った人たちは実に健康で、丈夫な体を持っていたからだ。
 まぁ医者としては喜ぶべきことだろう。やがてわたしはタバコを吸い始めるようになり、昼間は日当たりのいい診察室でボーっとタバコをふかしていることが多くなった。ちなみにタバコもたくさんあった。
 そんなある日のことである。わたしの前に意外な人物がやってきた。
 それも二人連れ。さぁ誰でしょう?
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 なんとコウジだった!
 そしてコウジが連れてきたのはわたしの母だった。
 あれだけ金持ちだったのに、よくもノックを聞かなかったものだ。と最初はそう思ったが、なんといってもわたしはこの二人とは血がつながっていたのだ。
 コウジは相変わらずの巨漢で、まだラッパースタイルだった。そして小脇に抱えて連れられた母は、真っ青な顔で汗をびっしょりとかいていた。母もずいぶん歳をとった。顔や首、手もしわくちゃになっていた。
「珍しいですね、キミが来るとは思いませんでしたよ、そしてあなたもね」
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「レンジ、た、た、たのむ! 母さんをヘルプしてくれよ、プリーズ」
 コウジの変な英語はあいかわらずだった。でもとにかく真剣で必死だった。
 どうも様子がおかしい、わたしはすぐに『医師』にもどった。
「どうしました?」
「マミーが急にお腹が痛いって、セイ、言い出して、それで、いいホスピターを探したんだけど、どこもクローズしててよ……」
「あー。なるほどね。まぁとにかくそこに寝かせてください。ああ、それでいいです。診察しますから外で待っていてください」
「センキューな、レンジ、助かったぜ、イェー」
 とコウジ。変なポーズを決めて礼を言われた。
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 わたしの診断では母は虫垂炎、つまり盲腸炎というやつだった。
 幸いにもわたしの病院には道具も、薬もたっぷりとあった。そこですぐに手術をすることになった。手術自体は簡単な内容で、すぐに終わった。
 だが問題が一つあった。
 開腹したときに気付いたのだが、母はガンに侵されていた。
 その細胞の固まりがあちこちに見えていた。たぶん余命は一年、もって二年というところだろうか。
 さて、本人に告げるべきかどうか……わたしは母に対し、患者の一人という興味しか抱いていなかった。
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 すると、母が麻酔からさめてわたしを見つめていた。
 病室にいるのは二人きりだった。
 白衣を着てすっかり大人になったわたし、ガウン姿でベッドに横たわる年老いた母。夕暮れのオレンジ色が、白い病室の中を燃えるように染め上げていた。
「お加減はいかがです?」わたしはニッコリとそう聞いた。
「レンジ。母さんのこと覚えてる?」
 母はいきなりそんなことを言った。
 何をいまさら!
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 わたしは予想外の言葉にちょっと戸惑った。
「僕に母はいません」
 気づくとこうつぶやいていた。
「あらまぁ、ずいぶん冷たい子ね」
 母は少しむくれて天井を見上げた。でもすぐに微笑んだ。
 なぜだろう? 女性の考えることは相変わらずわからない。
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「母はむかしに僕を捨てたんです。だから僕も母を捨てることにしたんですよ。それ以来、僕に母はいません」
 わたしは穏やかな気持ちでそういった。
 誤解しないでほしいのは、わたしは母を憎んでいたわけではなかった、ということである。わたしは意地悪なことを言ったつもりもなかった。もう親子という絆が完全に欠落していた。それだけだった。
「そうね、もうあたしの子じゃないのよね。ムニャムニャちゃんは」母はそう言った。
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 会話は続く。
 どういうわけだか、母はうれしそうにしていた。
 わたしの言葉にも、始終なんとも穏やかな笑顔を浮かべていたのだ。わたしにはそれが不思議だった。だが悪い気分ではなかった。それが母という人なのだろう。
「ツバサはどうしてる? 元気なの?」
「ツバサ? ……ああ、コトラのことですね。元気にやってますよ」
「そうそう、コトラって呼んでたわね。でもなんだってそんな名前にしたのよ? せっかくかっこいい名前をつけてあげたのに」
「僕たちの恩人が付けてくれたんです。とてもいい名前だと思ってますよ、僕もコトラもね」
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 母は少し辛そうに顔をしかめた。それから長々と大きく息を吐いた。
 何かを考えている様子で、皺だらけの手をもんだ。
「レンジ、あの屋敷で知らないふりしたこと、まだ怒ってるんでしょ?」
 母は言いづらそうにそう言った。また何をいまさら!
 だがわたしの心は何も乱れなかった。それはずいぶん昔の話だし、わたしはもう大人になっていたからだ。
「いいえ。言っておきますけど、僕はあなたを恨んだり、憎らしいと思ったことなんて一度もないんです」
「そういうものなのかしらねぇ。それを聞いて、まぁ、少しは気が楽になったけど」
「それはよかった」
「結局、わたしはあなたたちを永遠に失ってしまったということね」
 そういう母はなんだかさびしそうだった。
 なんと答えていいものか……だが返事はわたしの心から勝手に流れ出していた。
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「それは違いますよ。最初からぼくたちはあなたのものじゃなかったんです。始めから、生まれたときから、たぶん人は誰のものでもないんですよ。わかりますか? 誰もが、誰のものでもないんです。僕は昔、金の涙を流した子供を、片っ端から誘拐しました。今、あなたの言葉でその理由が分かりましたよ。あの子達は親のものなんかじゃなかった。親の理屈で泣かされる理由なんかなかったんです。だから僕は子供たちを救いたかったんです。それをみんなに教えてやりたかったんです」
 わたしは不意に流れた自分の言葉に、あらためて自分の想いを知ることになった。
 そう、わたしはそういう正しいことをしたかっただけなのである。
 だが母は一言こういった。
「親のいないムニャムニャの考えそうなことね」
 まったく容赦ない!
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 まぁ母とは結局理解しあえる仲ではなかったということだ。
 そして母は最後にこういった。
「レンジ、やっぱり母さんとは呼んでくれないんだね」
 ベッドに横たわる母の姿は思い出よりも小さく細く、枯れ木のようだった。
「今でもそう呼んで欲しかったんですか?」
「分かんないわよ。もういいわ、さっさと出てって」
 入れ替わりに入ってきたコウジは、母の元気そうな姿を見てとても喜んでいた。
 そして二人だけで楽しそうに話を始めたのだった。
 わたしは静かに扉を閉めた。
 それは別れだった。
 わたしの背後で一つの世界が扉を閉じたのだ。
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 結局、わたしは母に真実を告げるのをやめた。
 コウジにも母がガンであることを告げないことにした。
 もちろんコトラにも、ケンちゃんにもレイにも、誰にも母のことは告げなかった。
 それはわたしだけの秘密だった。