「やぁ、凛音。お迎えかな?」
月が綺麗な夜、音を立てないように彼の部屋に降り立ったあたしは、彼に軽い口調で話し掛けられてぴくりと肩を震わせた。
「……お迎え、だけどさ。愛空お兄ちゃん、軽くない? なんか、口調とか、色々」
「下手に重くする必要ある?」
からからと笑った愛空くんに、思わず拍子抜けした。もっと怯えるとか、逃げるとか、されると思ったのに。
「……ご家族には伝えたの? 命日」
「うん、家族って言っても僕には母さんしか居ないけど…伝えた。後、その日はそっとしといてくれ、とも。死神さんとゆっくり話したいしさ」
穏やかな表情を浮かべる彼の手が微かに震えているのを認めて、胸がきゅうっと痛くなった。
「そう。あたしも仕事だし、サクッと済ませたいんだけどな」
「あ、もう殺される感じ?」
「いいの? 逆に、もう殺して」
冷静な表情を作って問うたあたしの目をしっかりと見て、うーん、と彼が少し首を傾げた。
「あ、名前」
「……名前?」
「うん。凛音も本名、あるでしょ? 最期だからさ、教えて欲しいな、なんて」
そんなこと。
死ぬという時になって、自分を殺す死神の名前を尋ねる人がいるだろうか。
涙と笑いが同時に込み上げてきて、思わず顔を伏せた。
一度だけ目を擦って、愛空くんの目を見つめ返す。
「……本当にそれだけ?」
「うん」
そっか、と返して、ベッドの上に座っている彼と膝がくっつくぐらいの距離で座った。
天音ちゃんには怒られそうだけど、2人はもっとひっついてただろうから、今だけ。あたしは愛空くんの死神以外の何者でもないから、許して、天音ちゃん。
「……(りん)神村(かみむら)(りん)
自分の名前。もちろん凛音という名前も大好きだけど、やっぱり凛という名前が本当にあたしの名前という感じがした。
「凛、か。あぁ、やっと知れた」
嬉しそうに笑う彼を見て、思わずあたしは一瞬動きを止めた。
「……凛。殺さないの?」
あたしは死神だ。
そのことを、今日ほど辛く思ったことはあっただろうか。
「ねぇ、愛空くん」
お兄ちゃんと呼ばなかったことに、彼は少し驚いたようだった。
「ありがとう。ごめんね」
「此方こそ。ありがとう、凛」
愛空くんが静かに笑って、目を閉じる。
あたしはそっと、彼の額に自分の額を押し当てた。
月明かりに照らされて、彼の手に雫が一粒、落ちていくのが見えた。


静まり返った部屋の中で、彼をそっとベッドに横たえる。
そして、扉に手を当てて、その向こうにいるはずの彼女に小さく呟いた。
「お母さん、ありがとう。それから、ごめんなさい」
彼女は、声を殺して泣いているようだった。
扉一枚隔てたその向こう側に、ずっとあった気配だった。