坂道を、転がるように下っていく。
音は聞こえない。
ただ、幾ら両手を握りしめてもスピードは増していく一方だった。足を地面に押し付けても酷い振動が伝わってくるだけで、一向に減速の兆しは見えない。
目の前にガードレールが迫っていた。
それを突き破ってしまえば、その先は崖だ。
8年間の人生で、殆ど感じたことのなかった「死」が、それに対する恐怖が、あたしの鼻先で大きく口を開けている。
ガシャン、と音がして。
案外軽い音だな、なんて思いながら。
あたしは、自転車と一緒に「死」に呑み込まれていった。

【やぁやぁ、どうも!】
いやに明るい声が聞こえて、あたしはそっと目を開けた。
地面が目の前に迫ったまま止まっていて、まるで一時停止の画面に取り残されたみたいだな、なんて呑気に思う。
ふわふわとあたしの目の前に浮かんでいた彼は、神様だという。神様ってこんなにノリが軽いものなのだろうか。
【きみは予期せぬ事故で亡くなることになるから、私が救済を用意してあげよう。きみはこのままだと確実に死ぬ。でも死神(タナトス)になれば、人間を辞める代わりに悠久の時を生きられる。どちらがいい?】
「タナトス?」そう尋ねようとしたけど、神様の一時停止機能と思われる現象で口が動かない。神様はテレパシーでも使えるのか、淡々と答えた。
【そう、タナトス。ギリシャ神話の死神だ。私はギリシャ神話の神々が実在しようがしまいがどうでも良いんだが、呼びやすいからこの名前を使っている。端的に言えば、私が余命宣告をした人間の魂を狩り取る仕事だ】
人を殺すってこと?
【そうとも言えるが、私が余命宣告をした人々はそれが運命として決まっている者だけ。つまりは、お前が手を下す下さない関係なく、彼らの死は確定事項なわけだ】
理解が追いつかないあたしを、神様は冷徹な目で見つめていた。
【人間は莫迦(ばか)だ。だから単純明快な質問をしよう】
神様がぴんと人差し指を立てて、あたしに顔をぐぐっと近づけてくる。
【お前は、まだ生きたいか?】
まだ、生きたいか。
決まっている。そんなものは──
「うん。まだ、生きたい」
何故か口が動いて、震えた声が零れた。
【そうか。ではようこそ、『こちら側』へ】
神様がにやりと笑ったのが見えた。暴力的なまでに白い光に包まれて、あたしは「死神」になった。

【君、名前は】
そう問われて名前を名乗ると、神様は聞いてきた癖にさほど興味なさそうに頷いた。
【分かった。では、君の先輩を紹介しよう。来なさい、死神(タナトス)・スズネ】
はい、と落ち着いた声が聞こえて、1人の女の子が現れた。高校生くらいだろうか。
「初めまして。鎌代(かねしろ)紗音(すずね)です。本名は矢絣(やがすり)天音(あまね)。よろしくね」
「……本名?」
死神(タナトス)として活動する時には、本名じゃない名前を名乗ることが多いの。私みたいに事件に巻き込まれて死ぬ所だった人もいるしね」
淡々と語る紗音ちゃんに、驚かなかったと言えば嘘になる。でも死神になって、同じ境遇の人と出会えたことへの安堵感の方が強かった。
「彼女も、名前考えましょうか」
【そうしてくれ。私は面倒だから帰る】
神様が空気に溶けるように消えた。神様の言う『こちら側』では、物理法則無視の移動は日常のようだ。
「さて。何か新しい名前の案ある?」
「凛然の凛……いや、凛に音、とか。天音ちゃんの字、ひとつ貰って」
「良いね。なんて読ませようか…うーん、リンネ…いや、リオンかな?」
「リオン?」
「うん。谷村(たにむら)凛音(りおん)とか。苗字とかかなり原型残ってるけど、どうかな?」
あたしの苗字をもじって付けてくれたらしい。
「谷村、凛音。かわいい、ありがとう天音ちゃん」
「いいえ。これから、よろしくね」
天音ちゃんが優しげに笑った。