微睡む意識から覚める。懐かしさすら感じるようになった魔法の香りがする空気に、疲れがどっと浮かぶ。

「おかえりなさい」

 いつも通り、タリスさんが傍で迎えてくれた。
 私は返事をすることも忘れ、先ほどまでのネメリスさんリンデルさんの会話にぼんやり思い返していた。
 中々、難しい話だ。帰って来たものの、まだ私の中で結論は出ていなかった。

 ――二人で、世界を騙そう。

 その言葉から先の内容が、どうしても客観的に受け止められなかった。

「姿かたちを変える『擬態』という魔法がある。ネメリス……どうか僕のために人間として生きてはくれないだろうか」

 リンデルさんは苦しそうに告げる。この人もまた、何も考えていないわけではないのだろう。たくさん葛藤して、悩み抜いて、出した結論はどんなことをしてでも、ネメリスさんと添い遂げたい。その一心なのだ。
 リンデルさんの言葉にネメリスさんは困惑の色を浮かべた。

「あまり、話が見えないのだが……」

「数の少ないダークエルフに僕がなるのは流石に無理がある。その点、人間は数多といる。貴族の一人や二人、偽造することだって僕ならできる」

 ……まあ、こうやって聞くと良いことではないのは確かなんですよね。でも……。

 トンっとタリスさんの肩に頭を乗せる。どうせ、いつも過去に潜る時は借りているのだ。少しくらい、私に考えをまとめさせる安定材料として使わせてもらおう。

「あの、マナさん……」

「どうしましたか。私は今、タリスさんにお力を貰っているのです。駄目ですか?」

「駄目ではないのですが……。その、お客様の前ですので」

 瞬間、私は勢いよく身体を起こす。まるで、ねじ曲がったばねが強く戻るような勢いだ。
 耳まで真っ赤に染まる私に、ネメリスさんが戸惑いがちな笑みを向ける。

「あ……えっと、その……」

 言葉が出てこない。というか、完全にネメリスさんがいることを忘れていた。
 何だろうか、このやり返された感。今回は過去で本人と接触していないから、時流しの魔法の辻褄合わせは起きていないはずなのに。

「二人は仲が良いのだな。いいではないか、恥ずかしがることではない」

「あぁあああっ……!? 本当にすみませんでした……。何といいますか、お見苦しいところをお見せして……」

 こればっかりはタリスさんも苦笑いを浮かべる。
 私、一体何をしているのでしょうか。

「それで、早かったですが、ちゃんと調査はしてこれましたか?」

 急に話を戻され、余計に感情がぐちゃぐちゃになってしまう。

「それなんですが……」

 次の言葉が出てこない。ダークエルフの秘魔法を買い取ることは何ら問題はない。しかし、『擬態』の魔法を売っても良いのか、その決断はまだしかねていた。
 ネメリスさんを一瞥する。すると、彼女は少し悲し気な自虐じみた笑みを浮かべた。

「タリス殿から訊いた。見てきたのだな。私の過去を」

「はい……」

「ならば、私はマナ殿の決断に従おう。何ら、異を唱えることもないと誓う。私自身、ここまで来てしまったものの、答えの出しようがないのだ」

 微かに彼女の手は震えていた。
 半端な気持ちで答えられる話じゃない。
 大きく深呼吸をして、未だに暴れる心臓を沈める。

「もう少し、お時間をください」

 結局、私にはまだ考える時間が必要だった。


 宵闇に包まれる小川を眺め、ため息が零れ落ちる。ここに来た時には夕照にすら染まっていなかったのに、どれだけこうしていたのだろう。
 いつの間にか膝の上で丸まって眠るナーを起こすのも気が引けて、身動きが取れない。
 ……いや、そんなのは言い訳に過ぎない。結局、私は自分の中で答えが付かない限り、『ノイアッシェ』には戻れないんだと思う。
 ネメリスさんとその護衛の方々には一日だけ待ってもらうことになった。だから、明日までに結論を出さなければいけない。

 タリスさんに相談することも考えた。あの人のことだ、きっと親身に相談に乗ってくれるだろう。しかし、元々彼は私を信じてこの仕事を任せてくれているのだ。だから、私なりの答えが出たうえで、タリスさんに事を告げたい。

「こんなところにいたのですか」

 本当、間が悪い。今、独りで考えるべきだと再度、決心を固めたばかりなのに。

「タリスさん……」

「探しましたよ。いくら経っても戻ってこないので、心配しました」

「ご、ごめんなさい。つい、ぼーっとしてしまって……」

 タリスさんは少し間を置き、隣に座った。そして、私と同じように川辺を眺める。

「ネメリスさんに大方の事情は伺いました。そのうえで、きっとマナさんが悩んでいることも予想が付きます」

「そうでしたか。見ての通り、すごく悩んでいます……」

 タリスさんはそっと私の膝の上のナーを撫でる。流石にナーも寝ていれば無防備だ。

「私なりの結論を述べてもいいのですが、それでは意味がありません。私はたとえ、マナさんが出した答えが私の考えと違くとも、マナさんの意見を『ノイアッシェ』の総意とします」

 すっと私の心の奥までタリスさんの瞳が射抜く。

「タリスさんはどうして、そこまで私を信用してくれるのですか……?」

 私の質問にタリスさんは微笑みで返した。
 そして、タリスさんは手元で魔方陣を浮かび上がらせる。小さかった魔方陣が、魔力を放ちながら拡大し、すっと空気に溶け込む。
 一拍置いて、水中を小さな光球が浮かんだ。その光は瞬く間に無数に広がり、形を変える。色とりどりの光輝く魚の群れが、小川を踊るように回遊する。
 その様子に、私は目を奪われた。
 優雅に泳ぐ魚たちが、パシャっと水面を飛び跳ね、そのまま今度は輝く小鳥となって、私とタリスさんの周りを飛び回る。

「綺麗……」

 無意識に口を衝いていた。
 タリスさんはそんな私に柔らかな顔を向けて、尋ねる。

「マナさん、この一か月どうでしたか?」

「と言いますと?」

「色々な場所を巡り、景色を見て、たくさんの人々とふれあって、何を感じましたか?」

 その言葉に濃密な一か月が思い返される。
 そうか、私はまだ『ノイアッシェ』で働きだして、一か月しか経っていないんですね。
 それにしては、随分と色々なことがあった。たくさんの魔法を見たし、人の良いところ、悪いところにもいっぱい触れた。

「私が何よりも信頼に置いているのは、マナさんが見て、感じた全てのことです。そうして出した結論に、誰が異を唱えられるというのでしょうか」

「ナァー!」

 いつの間にか、ナーが起きて私を見上げていた。

「難しく考えなくてよいのです。マナさんが過去を体験して、その上であなたが望む未来を思い描けばいい。そうすれば、自ずと答えが出ると思いますよ」

「私が、見たい未来……」

 すっと浮かんでしまった。あの二人の姿が。
 そうして出した結論が正しかったのかは、やっぱり良くわからない。けれど、次の日、少なくとも私は笑顔でネメリスさんを見送ることが出来た。