高校三年生の頃、クラスに香川という女の子がいた。香川の下の名前は非常によくありふれた名前だったので、彼女が俺にとってひどく印象深い人間であるのにも関わらず、俺は香川の下の名前を思い出せない。

俺と香川は高校一、二年生の頃は別のクラスに属していて、そして高校三年生の時にはじめて同じクラスになった。高校三年ともなれば、それまで部活やら恋愛やらに精を出していた奴らも受験を意識し始めるわけで、普通の人々ならば高校三年間において高三の記憶がもっとも疎ましいものだろうと思う。俺もそうだ。そして香川もそうなのだろう。きっと、皆とは少し違う意味で。





「……一口、いる?」

 四月の中旬、香川に対して俺が初めてかけた言葉はコレだ。正確にはその前にいくつかの事務的なやりとりはあったかもしれないが、中身を伴った会話はこれが初めてだった。

 一口いる?と声をかけたのは、隣の席から香川の猛烈な視線を感じたからだ。香川は俺が右手に持っていた新作の炭酸飲料を、じっと見つめていた。

 俺の声掛けに対して、香川がはっとした表情をする。そして数秒後、顔が真っ赤に染まった。

「み、見てたのバレた……?」

「え、バレバレだったよ」

 真顔でそう伝えると、香川は両手で顔を覆った。耳まで真っ赤だ。

「なんかその……君の持ってるそのしゅわしゅわ、美味しそうだなって思って。え、ほんとに一口もらっていいの……?」

『しゅわしゅわ』?ああ、炭酸のことか。独特な言葉遣いに思わずふっと笑みがこぼれる。

「いいよ。一口どうぞ」

 俺は香川にペットボトルを渡した。ペットボトルを手にした香川が不安げに俺を見つめたから、俺は香川を見て頷いた。

 香川が意を決して炭酸を飲む。キスをするかのようにくちびるを飲み口にふれさせた瞬間、香川の目がらんらんと光った。

「!?

 すっごくおいしい!!飲ませてくれてありがとう」

「おおげさ」

 俺はまた笑った。ずっと欲しかったおもちゃを買ってもらった子どものように、香川も満足気に笑っていた。





 次の日から俺は炭酸飲料を毎日一本買うようになった。そして香川がペットボトルを見つめて、それに対して俺はこう問いかけるのだ。「一口、いる?」と。

 昔クラスメイトの女子たちが噂をしているのを聞いて知ったのだが、香川の家はどうやら経済的に厳しいらしい。そのせいで欲しいお菓子も満足に買えないとか、そんなことを彼女たちは駄弁っていた。

 香川はいわゆる美少女だったし、女子特有のくだらない嫉妬だろうと思っていたのだが、香川の反応を見る限りそれは本当なのではないだろうか、と思うようになった。経済状況ゆえに大好きな炭酸飲料を買えず、だからあんなに大げさに喜んだのではないかと。

 かと言って、俺が炭酸を買って、それを一本まるまる香川に与えたのでは、それは単なる施しだ。俺達は単なる同じクラスの仲間なわけで、対等な関係でなくてはならないはずだった。だから、一口だけ、毎日香川に炭酸を飲んでもらうことにした。

「一口、いる?」

「いるー!」

 最初は遠慮がちだった香川も、次第にノリノリに炭酸をもらってくれるようになった。心をひらいてくれたような感じがして、俺はそれが嬉しかった。

 それから香川と俺はよく話すようになった。香川とは席が隣だったから、話すために移動する必要もなくて、休み時間のちょっとした息抜きとしておれは香川の存在を重宝していた。香川はどんなくだらない話もきちんと聞いてくれるし、笑ってくれる。俺はそれが心地よかった。俺と香川はどんどんと仲良くなっていった。男友達に冷やかされることもあった。「おまえ最近香川さんといい感じじゃん。実際どうなの、付き合ってんの?」。そう聞かれるたびに俺は笑いながらこう答えるのだ。「そういうんじゃないから、第一俺ら受験生だろ」、と。





 夏休みに入り、俺は香川と会う機会を失っていた。窓からはさんさんと夏の眩しい日差しが差し込んできて、俺の陰鬱な感情を際立たせているかのようだった。香川に逢いたいな、と思って、それでようやく自分が香川を好きであることを自覚した。香川は苦しい受験生生活の、俺の支えとなったいた。

 俺は香川の連絡先を持っていなかったから、クラスの別の女子に連絡して香川のアカウントを教えてもらった。そして十分ほど考えあぐねて、そして香川にこう送った。「真野です。よかったら明日遊びに行かない?」と。受験生失格だな、と俺は笑った。

 香川からの返信はとてつもなく早かった。確か三十秒以内に返ってきたと記憶している。メッセージにはかわいいスタンプを添えられ、こう記されていた。「もちろん!どこ行く?」と。俺はガッツポーズをした。






 デート(と言っていいのか分からないが)に現れた香川はひどく輝いて見えた。普段の地味な制服ではなく、モダンな感じの紺色のワンピースを着ていたことが大きかったと思う。行き交う人々がちらりと香川を見て何かを言っていた。香川もそれに気づいて、「私、なんか変?」と不安げに俺に聞いた。変じゃないよ、とだけ俺は言った。可愛い、とは恥ずかしくて言い出せなかった。

 その日、俺と香川はショッピングモールに行って、いろいろなお店を見て回った。香川が洋服屋さんを見てはきらきらと目を輝かせるので、俺はその時初めて香川が服の類に強い興味を抱いていることを知った。

「服、好きなの?」

「み、見てたのバレた……?」

 見てたのバレた?というセリフに既視感があって、俺と香川は顔を見合わせて笑った。行き交う人々からの冷めた目線も意に介さず、げらげらと二人して大きな声で笑った。

 一通り笑いが落ち着くと、目尻のかすかな涙を拭いながら、香川がポツリと言った。

「昔からお洋服、好きで。弟に作ってあげたりもしてたの。だからほんとは行ってみたい。被服の専門学校とか」

「行けばいいじゃん」

 そして俺はこの浅はかな発言を後悔した。そうだ、香川の家は……。

「我が家、ちょっと進学はきびしいかなぁ」

 香川はそう言ってへらりと笑った。悪いことを言ったと、そう思った。







 香川に炭酸を一口上げる関係が終わりを告げたのは、12月に入ってからだった。放課後、二人きりの教室で、香川は「回し飲みしたら、インフルとか移るかもしれないじゃん?真野くんは大学受けるんでしょ?もし病気かかったら、困っちゃうよ」と言った。真っ当な言い分だと思った。

 そうだね、と俺は言った。

「香川は」

 俺は口を開いて、そしてすぐに閉じた。セミロングの黒髪を揺らしながら、香川がいたずらっぽく俺の顔を覗き込む。

 なにー?と香川が笑う。

「香川は進学……しないの」

 そう言うと、香川の瞳がふっと暗くなった。けれどその暗さもすぐに何処かに行って、香川はいつものように朗らかに笑った。

「前も言ったじゃん、私は進学しないって。ほら、真野くんも知ってると思うけどさ、うち、貧乏なんだよね。だからまあ、しょうがないっていうか」

「奨学金とか、今の時代なら色々あるじゃん」

「いいよ別に。返済とか大変って聞くし、そこまでして大学も専門学校も行きたくない。めんどくさい」

 めんどくさい、の言い方は、香川にしてはやけにぶっきらぼうだった。そしてそれは香川の本心ではないのだろうと思った。俺は香川を進学する気にさせようと躍起になっていた。小さな子どもが持つ正義感のような、ちっぽけでくだらない感情だった。

 でもさ。俺がそう口を開くと、香川は「真野くん」と言った。冬の公園の鉄棒のような、ひどくひんやりとした声だった。

「それ以上は、君が立ち入ってくる問題じゃないよ」

 俺ははっとして香川を見つめた。香川の目は潤んでいた。

「第一さ、私に毎日しゅわしゅわを一口だけくれてたのも、私のこと憐れんでたからでしょ?一本まるまる上げるのはあからさまだからっていう、そういうちっちゃな配慮だったんでしょ?

 真野くんが私のことを単なる癒やしを貰える存在として消費してきてることなんてずっと気づいてたよ、猫とか兎とかに餌付けするみたいな気持ちだったんじゃないの?自分が優位に立って楽しかった?人のことコンテンツ扱いして愉快だった?ねえ、私の気持ち分かる?」

「……ごめん」

 それ以外の言葉が出てこなかった。香川がこんなまくしたてるように喋ったのを俺は初めて聞いた。俺が香川に対して炭酸を一口あげることは、炭酸をまるまる一本あげることよりも香川にとっては惨めなことだったのだと、そのときようやく気がついた。俺は俺の浅はかな感情をすべて見透かされていたことが恥ずかしかった。

「……いいよ。別にもういいから、真野くんは受験、頑張って」

 そう言って香川はスクールバッグを持ってさっさと教室から去っていった。未開封の青色の炭酸が、冬の冷徹な日差しを受け止めて、机の上で寂しげに光っていた。







 三月、俺は無事国立の第一志望に合格した。合格を知ったその瞬間、頭に一番に浮かんだのは、両親でも塾の先生でもなく、香川だった。

 受かったという報告をしようかとメッセージアプリを開き、けれどすぐに閉じた。さすがに無神経すぎるだろうと思ったのだ。もし「受かった」と言えば、前デートに誘ったときのように可愛いスタンプを添えて返信してくれるのだろう。そして良かったね、と香川はきっと言うのだろう。

 俺は香川のことを考えた。香川の笑う顔が浮かんだ。香川はよく笑う子だった。でも違う。違うのだ。香川はあの笑顔の裏に、きっとたくさんの感情を隠していたのだ。そしてそれは俺が踏み込んではいけない問題だった。

 合格掲示板から離れて駅へと向かうと、ふわりふわりと小さな雪が舞い始めた。俺は空を見上げた。香川と初めて話した日の、あの柔らかな春の日差しを思い出した。あのときは春だったのに、今はもう冬だ。随分と長い時間が経ってしまった。

 俺は決意した。香川と関わるのは、もうやめにしよう、と。それが香川を好いている俺にできる、精一杯の好意の伝え方だった。






 今、俺は大学に入学して二度目の夏を迎えている。香川をデートに誘った日のあの熱烈な夏の日差しを思い出す。俺は結局、香川を怒らせてしまったあの日以降香川と言葉を交わしていなかった。

 大学に入学してからは彼女ができた。香川とはまた系統の違う可愛い子だ。名前は遙という。香川は確かに俺にとって特別な存在ではあるけれど、俺が今一番大事にしなければいけないのは遥なのだ。遥から愛を囁かれるたびに感じる胸のジクジクを、俺はそう思い込んでごまかしていた。ごまかしていた、と表現する時点で、俺は今でもやはり香川のことが好きなのだと思う。





 サークルの飲み会から抜け、ふらりと家へと向かう。

 もう俺は二十歳だ。お酒を飲める年になった。香川と酒を飲んでみたかった、という思いが頭に浮かんで、俺酔ってるなぁ、と自嘲した。

 渋谷のスクランブル交差点は、夜9時という時間の割には混雑していた。人々が行き交う雑踏の中に、もしかしたら香川がいるかも知れないと思った。不審者のようにキョロキョロと周りを見回した。それでもやはり都合よくいるはずがなかった。

 渋谷駅にたどり着く。壁には大きな宣伝のポスターが貼られている。新しい炭酸飲料のポスターだった。商品名は『しゅわしゅわ』と言うらしい。黄色のレモン味の、ポスターを見る限りはあまり美味しそうには見えない炭酸飲料だった。

 しゅわしゅわだって、ヤバ、ださーい。
 開発担当のネーミングセンスどうかしてるよ。

 広告を指さしてそう笑う人々の声が聞こえた。俺は立ち止まって、ただずっと、そこに立っていた。

 ___そのしゅわしゅわ、美味しそうだなと思って。

 あの春の日、そう言った香川の声が蘇った。俺はおもむろにスマホを取り出し、ポスターの写真を取って、香川に送った。

『新しい商品 しゅわしゅわ だって』

 香川からの返信は相変わらず早かった。そしてやはり可愛らしいスタンプが添えられていた。

『時代が私に追いついたね』

『ねえ香川』

『なあに』

『俺、彼女できたんだ』

『私も彼氏できたよ』

 証拠、と言わんばかりに、香川はイケメンとのツーショットを送ってきた。そのイケメンは香川と雰囲気がよく似ていて、カップルが長く付き合うと似てくるという噂は本当なのだなと思った。

 目元より下はハートのスタンプで隠されていたし、髪も茶色でショートになっていたけれど、やはりその優しい目元はあの頃の香川のままだった。

『でも俺ほんとはね』

『うん』

『香川のことが好きだったよ。大好きだった』

 香川からの返信がぴたりとやんだ。送らなければよかった、とは不思議と思わなかった。

 家についた俺は、お酒のせいでぐわんぐわとした頭のままベッドへと倒れ込んだ。次の日目を覚ますと、『私も』という端的なメッセージが香川から送られていた。香川がそのメッセージを送ったのは夜の二時らしかった。

 それを見て、俺の恋はようやく終わりを告げた。小さな、淡すぎる恋だった。けれどもそれでよかった、と思った。

 俺は二日酔いの頭のまま遥に電話をかけた。

『どうしたのー?めずらしいじゃん、朝から電話なんて。あっ、もしかして私の声が聞きたくなっちゃった的な?』

「……」

『ちょ、なんか言ってよ!恥ずかしいじゃん』

「……遥、あのね」

 真剣な俺の声色に呼応するかのように、遥の空気がピリつく。俺は一呼吸置いて、

「俺、遥のことが一番大切だから。愛してる」

 と言った。

 遥は「知ってる」と電話越しに笑った。

『それだけ?』

「それだけ」

『なによ急に〜。じゃ、またサークルでね』

 遥が照れを隠すかのように電話を切った。俺は仰向けになって真っ白な天井を見つめた。あの『しゅわしゅわ』の広告が頭に浮かんだ。

 俺はゆっくりと目をつぶり、香川と過ごしたあの日々をひとつひとつ思い出して、そして炭酸の泡のようなそれらすべてをぷちぷちと潰して、頭の中から消した。

 そしてまだ重い体を起こし、スマホだけ持ってコンビニへと向かった。『しゅわしゅわ』は思ったよりも品薄で、不味そうだからこそ皆逆に試してみたくなっているのかもしれない、と思った。

 俺は『しゅわしゅわ』ではない、あの日初めて香川に渡したのと同じ炭酸飲料を一本手にとって、レジへと歩いた。キャッシュレス決済を済ませ、店から出てすぐに蓋を開ける。カシュッという気持ちのいい音が聞こえた。

 夏の暑く重苦しい空気に圧迫されながら、炭酸を飲む。

「……まっず」

 俺は一人で、そう笑った。