朝露に濡れる薔薇の棘はやっぱり痛いから

 それから尚樹くんとは、時々電話したり、ショートメッセージを送りあったりした。年齢の話を聞かれたりしたら面倒だなと思っていたが、女性に年齢の話をするのは失礼だと思っているのか、聞かれることはなかった。
 基本的には、尚樹くんからアクションがあり、電話したり、メッセージをやり取りしていた。
 俺としては、「じゅり」としてのボロがどこで出るか分からず、迂闊に自分から話題を振ることができないので自分から連絡することはないのだが、そのあたりは尚樹くんから当たり障りない話題を振ってくれ、俺から連絡しないことに何も言わないでいてくれるのは正直助かっていた。

 ただ、高架下で練習していたセリフについてはこちらから質問した。
 尚樹くんは演劇部らしい。あの高校に演劇部があったことに驚いたが(部活紹介でも記憶がなかった)、今の演劇部に男子は彼以外にいないようで、新入生なのにヒーロー役という準主役をやらざるを得ないということだった。
 あの日練習していたのは9月の文化祭で披露する劇だったらしく、尚樹くんから「文化祭、ぜひ見に来てください!」と誘われたので「いいですよ」と返したが、同じ学校の生徒だし、どうするかな・・・。

「いらっしゃいませ」
「じゅりさん、こんにちは」
 今日も尚樹くんがカフェに来た。土日は両日来ている。
 カフェに尚樹くんが来ていたのは本当にそうで、演劇部の部活がない土日もそうだし、うちのカフェは午後6時が閉店なのだけど、部活が終わって少しでも時間があればカフェ店内で飲食していくし、閉店ギリギリのときはテイクアウトまで利用してくれていた。
 なぜこれまで俺が彼に気づかなかったのか、逆によく分からない。

 日曜日の午後、ちょうど客のピークが過ぎた時間帯だったので、俺は心に余裕を持って尚樹くんの接客をしていた。
「ご注文はお決まりですか?」
 俺が1オクターブ高い声で彼に話しかけると、質問を受けた。
「あの、じゅりさんのオススメって何かありますか?」
 この手の質問には具体的には答えないようにしているが、尚樹くんは友人なので、素直に答えることにする。
「そうですね、コーヒー豆にこだわりがあるので、ドリップコーヒーを一番に味わってほしいなと思っているけど、コーヒーが苦手ならカフェオレでもカフェラテでもいいと思いますよ。私は甘い飲み物がそんなに好きじゃないから、ドリップコーヒーが好きですかね」
 客に自分の好みを伝えたのは初めてだ。
 尚樹くんは俺の話を聞いて、「ドリップコーヒーにします」と笑顔で答えた。
 学校では、尚樹くんは同級生の男子高校生である俺のことを知らない。
 俺だけが尚樹くんを知っている状態だ。
 廊下ですれ違ったり、体育の時間に、つい彼を目で追ってしまう。

 よく考えれば、尚樹くんのことをほとんど知らない。
 学校での立ち位置とか、クラス内での立ち位置とか。
 気になるというか、こいつは女性である「じゅり」以外の前ではどんなやつなんだろう?という単純な好奇心があって。
 しばらく注意深く観察することにした。

 その結果分かったことがある。
 クラス内では、それなりに友達がいるタイプ。いろんなタイプの人間と一緒にいるところを見かけた。クラスの女子とも話をしているところも結構見た。
 演劇部というマイナーな部(そう言うのは失礼かもしれない)に所属しているけど、いわゆる文化系部活の陰キャではないみたいだ。まあ確かに、演劇部で男子1人と言っていたから、女子との関係性をうまく築けなかったら所属し続けることが難しいだろうな。
 その割に、「じゅり」の前では童貞っぽいところもあったから、よく分からない。
 中学のときの部活は知らないけど、体育の時間はどのスポーツのときも普通に動けているので、運動音痴って訳でもないんだな。
 そんな風に、学校での彼について、少しずつパズルのピースが集まるように情報が蓄積されていった。

 もちろん俺からは学校で話しかけたりはしない。
 あくまでも隣のクラスの人間として観察者の立場を貫いた。
 俺だけど俺じゃない「じゅり」のことをたぶん好きだろうと思われる人間のことを遠くから観察するのは、自分事のようでそうではないふわふわした心地が、不安定だけどなぜか面白くて、いつしか楽しくなってきている自分がいた。

「尚樹くん、コーヒー以外も飲んでいいんですよ?」
 ある日の夕方、テイクアウトでアイスコーヒーを注文した彼に、俺は1オクターブ高い声であえてそう伝えた。
 俺がドリップコーヒーが好きだと言ってから彼がいつもコーヒーを頼んでいるような気がして、無理をさせているのではと心苦しくなったからだ。
「じゅりさん、大丈夫ですよ。僕もこのカフェのコーヒーが好きになったんですから」
 尚樹くんが明るくそう言って笑ってくれたので、その後カウンターにアイスコーヒーを取りに行ったときに、キッチンにいた母さんが嬉しそうにしていて、俺も心があったかくなった。
 体育祭。うちの学校は6月開催だ。
 でも理解できない。梅雨時期なのになぜこの時期に開催しようと思ったんだろう。
 案の定、今年予定されていた日程は雨で順延し、1週間後の開催となった。
 1週間後の今日が晴れてよかったね、と思うしかない。

 俺はそんなに運動が得意というほどでもないし(現に家業の手伝いメインの帰宅部だし)良くも悪くも目立ちたくなかったので、出場種目は集団競技の綱引きにして、体育祭の準備係は、Tシャツ作り、フラッグ作り、ダンス要員の3つの中から無難で人手の必要なTシャツ作りを選んだ。
 チーム割は、3学年合同チームで、クラスごとに色が決められて分けられている。1年生は準備係の中で、ほとんどがTシャツ作りとフラッグ作りに要員を求められる。Tシャツデザインとフラッグデザインも配点対象となっているが、当日一発勝負のダンスは特に配点が高く、チームの得点源として重要な位置を占めることから、毎年ダンス要員は2年生と3年生が主に担当することになっていた。
 1年生が出る場合は、ダンスがうまい精鋭隊かダンスが好きな人に限られているのが通常だ。何せ、ダンス衣装も自作で準備しないといけないし、ダンスの練習にも参加しないといけない。
 俺は家業のバイトメインだったこともあり、とてもじゃないけど無理だと思った。来年と再来年どうしようと思いつつ、ダンス担当になった同じクラスメイトをある意味尊敬の念を込めた眼差しで眺めていた。
 ちなみにうちの姉ちゃんはクラス内交渉がうまいので、今年もダンス担当を無事に外れたらしい。

 梅雨時期だというのに、雲一つない晴れ日和だった。
 俺はプログラム序盤にあった綱引きを難なくこなし、あとは人様の競技を眺めるだけの時間となっている。
 体育祭は防犯上の理由(女子生徒の盗撮などが過去にあったらしい)で、関係者以外は立入禁止となっており、家族であっても1家族につき3名までと人数制限がされていたこともあってか、それまでに尚樹くんと体育祭の話はしていなかった。
 実は、あいつがどの競技に出るんだろう?と、内心楽しみにしているのだ。
 少なくとも、俺と同じ綱引きではなかったし、午前中のプログラムの中に彼が出ている気配はなかった。
 これから午後のプログラムに入るが、昼休み後最初に行われるのは、ダンス競技となっていた。
 
 最初は1組、尚樹くんのいるクラスからだ。
 俺は、たぶんないだろうけど念のため・・・と思いながら、グラウンドに散らばったダンス競技者に目を凝らした。
 い、いるー!
 尚樹くんがグラウンドで踊っているのを見つけてしまった。
 
 え、あいつダンス要員だったの?
 じゃあ、ダンスの練習に参加していた?
 あんなに平日のカフェにも来ていたのに?
 一体いつ練習してた?
 そうするとダンスが好きなタイプだったってこと?

 頭の中が「?」マークでいっぱいになりつつも、次々踊りながら移動していく彼を必死で探す。
 尚樹くんは、周りにいる人と比較しても、楽しそうにキレのあるダンスを颯爽と踊っていた。

 そうか、彼はダンス精鋭隊の方だったのかと、その理由を悟った。
 意外だったな。
 彼の想定外のダンス出場に、俺はゾクッとしてなぜか落ち着かなかった。
 体育祭が終わったら、それとなく本人に裏事情を聞いてやろうかなと考えたりして、何とかして自分の心を鎮めようと努めた。

 全チームのダンス競技が終わり、得点が加算される。
 ダンス競技の1位は1組、2位は6組、3位は4組だった。
 ベスト3の得点が3位から発表され、その度にそのチームの応援席がワッと沸く。
 1位の1組がアナウンスされた瞬間、俺はそっと隣の応援席にいる尚樹くんを盗み見た。
 ひときわ大きな歓声が上がり、周りのクラスメイトと満面の笑みでハイタッチをする彼は、俺の知らない人に見えた。
 その後の競技のことは正直よく覚えていない。
 あいつの出場する種目を見ないといけないのにと思っても、どうしても目の前の競技に集中できなかった。

 しまったな、見逃したかもしれないなと考えながら、プログラムは最後のリレー種目になっていた。
 でもまぁ、いいか。
 あの尚樹くんのダンスを見ただけでも、今の俺には破壊力は十分だった。

 リレー種目には、クラスの中で一番仲のいい友達が出場することになっていたので、応援のために気持ちを切り替える。
 入場門から入場してくる選手の中から友達を探そうとする。
 そのとき、友達ではなくて、別の人間を見つけてしまい、俺は息が止まったかのような感覚に襲われた。
 嘘だろ・・・。
 尚樹くんもリレー選手としてそこにいた。

 リレー種目は男女混合で、第1走者が1年女子から始まり、男女交互に選手が配置され、アンカー走者は3年男子になっている。女子はグラウンドの半周、男子はグラウンドを1周するルールだ。
 俺の友達と尚樹くんは、第2走者だった。

 俺の心の準備が全然整わないうちに、第1走者がスタートする。
 うちのクラスの第1走者の女子は陸上部だし、仲のいい友達も陸上部だ。
 つまり、リレー種目は基本的に陸上部の人間が出場して、他はバスケ部やバレー部など体育会系の部活の人間が活躍する場なのだ。
 それなのに、それなのに!
 あいつは何を考えているんだ?
 お前は演劇部だろ!
 俺は彼に対して、怒りにも似た感情が湧いていた。
 同時に、キレキレのダンスを踊っていた尚樹くんを思い出してしまう。
 まさかね。
 違うと思いたい。

 第2走者にバトンが渡される。
 俺は友達の名前を叫んだ。
 暫定1位は友達だった。
 うちのクラスの第1走者が2位にかなりの距離をつけて1位に立っていたらしく、第2走者もうちのクラスが1位で通過すると思われた。

 嫌な予感は当たるものだ。

 友達の後ろから、猛烈なスピードで追いついてくる人物は尚樹くんだった。
 ぐいぐいと疾走感のある走りに目が離せなかった。
 そして、ラスト4分の1周を残して彼は俺の友達を完全に追い抜き、1位で第3走者にバトンを渡した。

 走り終わった尚樹くんが、チームの仲間に弾けるような笑顔でピースサインをしていた姿がくっきりと俺の脳裏に焼き付いていた。

 後はもう、覚えていなかった。
 リレーの結果はうちのチームが2位で、またもや尚樹くんのチームが1位だった。
 総合優勝も彼のチームだったことは覚えているけど、忘れたいと思った。

 あまりにも尚樹くんに関して不意打ちが多すぎて、俺は体育祭の次の日に設定されていた振り替え休日に、高熱を出して1日中寝込む羽目になった。
 その日、彼からの「じゅり」に対する連絡は全て無視した。
 あれ以来、体育祭での彼の姿が忘れられない。
 ことあるごとに、これまで自分に向けられたことのないあの弾けるような笑顔とか、グラウンドを駆け抜ける姿とか、楽しそうにキレキレのダンスを踊る姿とかがふいに目の前に蘇り、その度にその理由が分からなくなる。

 別に彼が体育祭で活躍したというただそれだけの事実なのだが、なぜ自分がこんなにもその姿に囚われているのか。
 演劇部だからといって油断していたから?
 事前に何も聞いていなかったから?
 リレーであんなに注目されるようなことをすると思っていなかったから?
 そのどれもが違うような気がする。

 尚樹くんを学校内で無意識に探し求める時間が増えていることに気づいたのは、なかなか姿が見られないときに落胆している自分がいることに愕然としたときだった。
 これでは、まるで俺が彼に片想いしているみたいじゃないか。
 俺は頭を振り払い、一方的に学校での彼に度肝を抜かれたことが悔しいと感じているだけだろうと無理やり結論付けた。
 自分の負けず嫌いに火がついたのかもしれない。

 それ以来、「じゅり」としての俺は、どうしたって学校での自分とバランスを取るかのように、必要以上に彼に対して接近してしまうようになった。
 彼にも、自分と同じような感情を味わせてやりたい。
 そんな気持ちが勝ってしまい、他の客がいてもカフェで声をかけたり、じっと彼の目を見つめて話したり、あざとく小首を傾げたりしてしまう。
 電話やメッセージで、気のあるようなことをそれとなく言ったり伝えてしまう。
 
 頭では分かっている。
 尚樹くんは「じゅり」に好意を持っているから、俺が簡単にそう行動するだけで、嫌でも「じゅり」との距離が縮まることに。
 これ以上は彼に近づいてはいけないと思いながらも、どうしても自分の行為が止められなかった。
 
 俺は、当然の結果として、彼からの視線や言動が、「じゅり」に対する甘さを急激に持ち始めたことを感じ取っていた。
 最初に思ったのは、戸惑いよりも嬉しさだった。
 避けたいけど避けたくない。
 応えられないけど応えたい。
 二律背反の併存できない感情に、余計に自分が振り回される状態に陥っている。

 「じゅり」のときの俺と普段の俺は、尚樹くんに対する立場が逆転する。
 くるくると立ち位置が変わり、その度に真逆の立場を行ったり来たりしているうちに、俺はだんだんと頭の中が混乱してきてしまい、常に心が書き乱されているような気がしてきていた。
 7月に入り、期末テストが近づいていた。
 尚樹くんは、テスト勉強をうちのカフェでするようになっていた。
 とは言っても、俺も同じ学校の高校生である。
 期末テストがあるのも同じなので、テスト期間前は家業の手伝いが免除になるのだ。
 うちの家は、主に父さんと母さんがキッチン担当で、姉ちゃんと俺がホール担当になっているが、俺たちのテスト期間の間だけは母さんがホール担当をすることになっていた。
 (もともと、姉ちゃんと俺がバイトする前は2人だけで経営していたわけだし)
 つまり、テスト期間はカフェで彼に会うことがなくなったのだ。

 そのことについては、直接尚樹くんから「最近はカフェで働いていないんですか?」と質問されていたため、俺は仕方なく「テスト時期なんです」と答えた。
 彼からは「学生なんですね!」という返事が返ってきて、一体「じゅり」は何歳だと思われていたのか分からなくなったが。

 彼に対して複雑な感情を持ち始めていたこともあり、俺としては彼に会わないでいられる時間を少しでも確保できたことで、自分を冷静に振り返って感情の整理ができると考え、むしろほっとしていたくらいだったのだ。
 だけど、その自分の考えが甘かったことを思い知らされることになる。

 俺は、「じゅり」として自分が優位に立つ時間を失っただけで、彼を追い求める時間だけが増えたことに考えが思い至らなかった。
 学校で一方的にこちらだけが尚樹くんを探している。
 でも、彼はそれに気づかない。
 俺は学校では彼の中でいないものとして扱われる。
 その時間だけ積み重なっていくことが、こんなにも自分の精神をじりじりと追い詰めるとは思わなかった。

 端的に言おう。
 これ以上その状態に耐えられそうになかった。
 それはなぜか。
 尚樹くんのことをもっと知りたい、もっと話したい、もっとありのままの滝沢柊二である自分のことを知ってほしいという欲望があふれてきてしまっていたから。

 これまで、俺自身の恋愛対象は女性だった。
 そのことを軽く忘れそうになって、ふとした時にぐっと立ち止まる。
 彼は俺と同じ同性の男子だ。
 その彼に対してこの欲望をぶつけたくなる感情の名前を、もちろん知っている。
 
 けれど、俺自身がその事実を受け入れられない。
 向こうは「じゅり」としての俺しか知らないのに。
 彼にこの気持ちが受け入れられる、なんていう現実がありえないことへの絶望感がどっと押し寄せてきて、とてもじゃないけど自分の気持ちを直視することができないでいる。
 彼を騙している罪悪感がその根本的な原因であることは重々承知していた。
 その罪悪感が、この間にどんどん膨らんでいって、いつ爆発するかも分からないなとも感じていた。

 同時に、尚樹くんから無条件に好意を寄せられている「じゅり」に対して、嫉妬心すら芽生えている事実にもまた、自分のことながら困惑を隠しきれないでいる。
 電話やメッセージは「じゅり」としてのボロがどこで出るか分からないから、俺の中で自分からは連絡しないと決めていたはずだった。
 それなのに、期末テスト前日である日曜日の夜、ついに自分のルールを破って、俺は尚樹くんに電話してしまった。
 高校生になって初めての期末テストを前に、極度に気持ちが不安定になっていたせいだと思い込む。
 気がついたら、電話のボタンをタップしていた。
 呼び出し音が鳴り始めてハッと我に返ったが、どうせ着信履歴も残るし、どのみち電話に出るかどうかも分からないし、と自分に言い訳をしてそのまま彼が出るのを待った。

 2コール目で電話に出た彼は、ひどく舞い上がっていたように感じた。
「じゅりさんから連絡くれるのって初めてですね!」
 尚樹くんの浮かれている気持ちが伝わってきて、思わず
「うん、なんか尚樹くんの声が急に聴きたくなっちゃって・・・」
 と、こぼしてしまった俺がいた。

 自分でも驚くほど、甘ったれた言い方をしている、と思った。

 それは彼も同じだったようで、スマホの向こう側で尚樹くんが無言で息を呑んだ気配を感じた。
「・・・話したいことがあるから、少し会えませんか?」
 彼からそう提案される。
 今の自分が喉から手が出るほど欲しい言葉だった。

「うれしいな。いいよ?」と答える俺の声は、いつもの地声より1オクターブ半くらい高い声だった。

 カフェの近くにある公園で会うことになった。
 最初はあの高架下でとも思ったけど、彼から「あの辺りは夜暗いから、女性が一人で来てはダメです」と止められた。

 公園に向かうためにメイクをしているとき、大事なことに気づく。
「女装の私服持ってない・・・!」
 慌てて姉ちゃんに助けを求めたが、「デートする訳じゃなし、Tシャツとジーパンで行きな。令和の時代は男女兼用が流行りだから」とあっさり断られ、仕方なく俺の私服でビッグサイズのTシャツとジーパン、それと尚樹くんの高架下はダメだという忠告をヒントに、髪型から一見して女性(女装)姿だと分からないよう、キャップを被っていくことにした。

「行ってきまーす」
 テスト前日だというのに、俺のテンションは急上昇して戻らないまま、家を出た。
 
「お待たせ」
 俺がクロスバイクで公園に着くと、尚樹くんは先に公園に着いてベンチに座って待っていた。
 彼とカフェの制服以外でカフェの外で会うのが変な感じがして、急に恥ずかしさがこみあげてくる。

 ちらりとキャップのつばを上げて彼の顔を見ると、彼も嬉しそうだったのでほっとした。
「じゅりさんの私服見れて嬉しい」
「ごめんね、可愛い感じの格好じゃなくて・・・」
「いえ、どんな格好してても、じゅりさんは可愛いですよ」
 尚樹くんが甘い笑顔でそんなことを言うから、俺はたまらなく嬉しいと感じるのと同時に切なかった。

 彼のその言葉は、俺に向けての言葉じゃない。
 彼が好きなのは「じゅり」だから。
 彼のその優しさと甘さを向けられているのは、俺じゃない。

「うん、ありがとう・・・」
 口ではそう言ったけれど、ぽろぽろと涙が頬を伝わっていく。
 メイクが取れるから泣きたくないのに。
 止まれ止まれ涙止まってくれと思っても、言うことを聞いてくれない。

「どうしたんですか!?」
 急に泣き始めた俺を前にしてオロオロする尚樹くんに、ふいに抑えきれない気持ちが口をついて出る。

「尚樹くんのこと、好きなんだよね」

「え!? それって・・・」
 呆気にとられる彼の答えを待つ前に、俺は彼にどうしても伝えないといけないことを口早に言葉にした。

「でもごめん。俺、女じゃないんだ。
 本当は女装している男だから」
 そう言って俺はキャップを取り、ウィッグと地毛をしまっていたヘアネットをバサッと取り外した。
 くしゃくしゃっと片手で髪型をならす。
 ああ、今日Tシャツとジーパンで来てほんとよかったわ、なんて冷静に考えていた。

「嘘だろ・・・」
 彼が目を見開いて口元を覆い、言葉を失った。
 一歩後ずさる。

「本当だよ。『じゅり』じゃない。
 俺の本当の名前は、滝沢柊二。
 お前の隣のクラスだよ。
 体育一緒だろ?」

「マジかよ・・・」
 彼が確認するように、改めてまじまじと俺の顔を見た。
 ようやく学校での俺に気づいてくれただろうか。
 俺のことは知っていてくれただろうか。
 せめて顔だけでも。

「騙すつもりはなかった。
 俺、学校のやつに家業のカフェ手伝ってることバレたくないから、女装してただけなんだ。
 お前に言えなかったのもそれが理由」
「・・・・・・」
「お前のことが好きなのは事実だよ。
 そこに嘘はない。
 お前のことをからかっているわけでもない。
 でも、俺はゲイじゃない。
 恋愛対象は女性だよ。
 だけど、お前だから好きになった。それだけ。
 いろいろごめん。
 会うまではこんな話するつもり全然なかったけど・・・。
 お互い期末がんばろうな。それじゃ」

 俺はキャップを目深に被り、ウィッグとヘアネットをベンチの近くにあった公園のごみ箱に叩き捨てて、クロスバイクを全力で漕いで帰宅した。
 頬を濡らす涙が風で蒸発し、顔をヒリヒリと焦がしているようだった。
 家に着いて、自分の部屋に直行する。
 泣きながら帰ったから、涙はもう、乾いていた。

 スマホを取り出し、尚樹くんから何も連絡が来ていないことに心底安堵した。
 今のうちに、今のうちに全部手放そう。
 俺は、手早く彼の連絡先を着信拒否設定にする。
 
 ショートメッセージのアプリを開いたとき、彼とのメッセージのやり取りを思い出として残しておきたい気持ちと、全て諦めろという気持ちが心の中で拮抗していたが、真実を伝えたときの彼のこわばった表情がふいに脳裏に浮かんで、俺は一切の思考回路が停止したまま、削除マークをタップした。

 期末テストが終わったら、もう女装はやめよう。
 そんなことをかろうじて考えて、ベッドに倒れ込んだ。

 明日から始まる期末テストのことなんて、もうどうでもよかった。