「葉月(はづき)!おはよー」
友達の声がして、笑顔で振り向く。
「おはよー!今日も暑いねー」
「ほんとにそれな。暑くて溶けちゃう。」
「ねー」
他の友達と合流し、口角を上げて友達の話に相槌を打つ。一見簡単そうに見えるが、案外そうでもない。自分に興味がない話をされて相槌を打つ事しか出来ないのは、地味にしんどい。
「葉月は彼氏とか作らないの?」
適当に相槌を打っていると、唐突に聞かれた。またかと内心思いながらもいつもの返答を返した。
「んー、今は勉強に集中したいからいいかな。」
「もー、葉月ったら真面目なんだからー」
「はは...」
「あ、そういえばね...」
私の苦笑いに気づいたのか、気づいてないのか。友達は違う話を始めた。
この子達の事は嫌いではない。話していて楽しいとは思うし、一緒にいて嫌な気はしない。だけどこういう恋愛話ばかりなのは疲れる。
でもそう言ったら私は確実に一人になる。一人になるのは怖い。だから今日も私は明るくて笑顔の─仮面─を被る。
私が─仮面─を被るようになったのは忘れもしない、小学校六年生の時だ。
私の家族は父と母、弟の四人家族だ。そしてその弟がすごく優秀で、両親は弟の事を溺愛していた。
弟の用事が出来たら先に入っていた私の予定をずらしてでも合わせないと怒鳴られた。お前の用事なんて大した事ないだろって。
最初の頃は私も反抗していた。私だって家族の一員なのに。どうして弟ばっかりって。
だけどそんなある時、母親にこう言われた。
「あんたみたいな根暗でつまらない奴を育ててやってるんだから、弟の事を優先したっていいじゃない。」
そう言われて、何も反論出来なかった。だってその頃の私は自分の好きな事を黙々とやるタイプだったから。今みたいに外で笑顔でいる事の方が少なかったから、確かにつまらなくて根暗だったろう。
だけどそれを実の母親が言っていいのだろうか。親と言うのは子供の好きな事を応援するものではないのか。それが悪い事ではないなら、尚更。
でもこの人になにを言ってもダメだと悟った私は自分の好きな事をなるべく控えるようにした。そして誰からも好かれるように、明るくて笑顔の─仮面─を被るようにした。そうしたら学校でも人が沢山寄ってきた。家族からも明るくなったと言われた。
最初のうちは─仮面─を被っている状態がすごく疲れた。どうして素の私だと好いてもらえないのに、明るくて笑顔でいたら好いてもらえるんだろうって。
その気持ちも徐々に薄れていった。よくよく考えたら根暗でつまらない人になんて誰も近づきたくないって気づいたから。
でも心の奥底ではいつも叫んでる。本当の私を見て。それでもいいって言ってって。
私はその心の叫びを無視して毎日を過ごしている。
「じゃあね、葉月。また明日ー」
「うん、また明日ー」
友達と別れ、バイト先に行くこの時だけは明るく笑顔の─仮面─を外せる。今日もずっと口角を上げていたから頬の筋肉が痛い。
「おはよーございまーす」
「おはよー」
働いてる人達に挨拶をして事務所に行くと、バイト先で知り合った矢野(やの)夏音(なつね)ちゃんがいた。
「夏音ちゃん、おはよー」
「あ!葉月ちゃん!おはよー。今日一緒のシフトだったんだね。」
「休みだったんだけど、シフト代わったの!」
「そうだったんだね!よろしくー」
「うん!よろしくー」
夏音ちゃんはそう言うと先に表に出た。まだ時間前なのに偉いなぁと思いながら自分も着替え、髪をまとめていると。
「あれ、草辺(くさべ)さん?」
聞き覚えのある声がして振り向くと、そこには中学の同級生、星野(ほしの)悠(ゆう)君が立っていた。
「星野君だよね。久しぶり。」
「久しぶり。ここで働いてたんだね。」
「半年前から働いてましたけど?」
「え、そうだったの?シフト、自分の所しか見てないから知らなかった。」
「まあ、ホールとキッチンじゃあシフト別だからね。」
「そうそう。とりあえず、これからよろしく。と言っても俺、高校卒業したらここ辞めるんだけど。」
「あ、そうなの。じゃあそれまでの間よろしくね。」
「ん、よろしく。」
話しているとちょうどいい時間になり、表に出た。今日はお客さんが全然居なくて楽勝だなと確信した。
「今日お客さん、全然居ないね。」
「ね、夏音も思った。何すればいいかなぁ。」
「明日のためにデザートの補充しとこ。昼間の方が忙しいと思うからさ。」
「そうだね。じゃあ夏音、表の補充やるよ!」
「おっけー。私、後ろの補充するから混んできたら呼んでー」
「はーい」
ラッキー。今日はお客さんが居ないだけじゃなくて、表に出なくてもいいなんて。楽できる日は楽しないとね。
と思ったのも束の間。というのも何となく倉庫を覗いてしまったからだ。
「うわ...納品やば...」
倉庫はこれ以上奥には行かせないと言わんばかりに荷物が積み重なっていた。まずはここを片付けよう。
手前にあるダンボールを片っ端から空けていき、同じものが近くにあったらそこに片付けていく。そんな地道な作業をしているとじんわり汗が出てきた。この暑い夏にする作業ではない。
「あっつ...」
しゃがんでいる体勢が辛くて立ち上がると、急に立ったからか目眩がしてふらついた。
やばい、倒れる。そう覚悟した私は目を瞑った。だが一向に痛みがこない。恐る恐る目を開けると、誰かが支えてくれてた。
「大丈夫?」
その声で星野君が支えてくれたのだとわかった。
「うん、大丈夫!ありがとう、助かった!」
「それは良かった。てかこの量の納品、片付けてくれてたんだね。ありがとう。」
「全然!今日お客さん少なくてやる事ないし。だったらやっとこうかなって。」
「なら俺も手伝うよ。このダンボールからやっていけばいい?」
「え!大丈夫だよ。一人で出来るしさ、何よりここ暑いから。」
「それ言ったら草辺さんだって暑いでしょ。それに、また倒れそうになったら危ないからね。」
「ぐっ、」
「さ、やろ。二人でやった方が早く終わるよ。」
これ以上反論する余地もなく、二人で黙々と納品を片付けた。途中、オーダーが入り星野君が居なくなったりはしたが、一人でやるよりかは早く終わった。
「終わったー!」
「ほら、やっぱり二人でやった方が早かったでしょ。」
「早かった。手伝ってくれてありがとう。」
「俺もどこになにがあるかおおよそ知れて良かった。」
「知らなかったの?私より働いてる年月長いのに?」
「だって足りない物あったら他の人が持ってきてくれてたし。」
「じゃあ知れる良い機会だったんだね。」
「そうそう。」
星野君とは学生時代、接点が全くなかった。だから話すとこんなに面白い人だとは知らなかった。いつも周りに友達がいるのも納得だ。
「葉月ちゃーん、こっちの補充終わったよー」
納品を片付けた時に出てきたダンボールを星野君と片付けていると、夏音ちゃんがやってきた。
「ありがとー。こっちの補充、まだ終わってないんだ。倉庫の整頓しててさ。」
「あ、そうだったんだね。だからこんなにダンボールがあるのか!」
「そうそう。これ片付けてからこっちの補充するね。」
「あ、だったら夏音やっとくよ!」
「え!いいの?」
「いいよいいよー。だって暇だし。」
「ありがとー。じゃあ終わったら手伝うね。」
「はーい」
夏音ちゃんはニコニコ笑顔のまま冷蔵庫の中に消えていった。いいなぁ、人生楽しそうで。
「矢野さんと仲良いの?」
再びダンボールを片付けていると、星野君に聞かれた。
「うん。」
「へー、なんか意外。」
「え?」
「だって草辺さん、あんなキラキラした子と一緒にいるイメージなかったからさ。」
星野君はそこで一旦言葉を切り、続けた。
「無理してない?大丈夫?」
驚いて星野君の方を向くと、星野君は真っ直ぐ私を見ていた。その目は私の心の内を見透かしてきそうで、すぐ目を逸らした。
「無理なんてしてないよー。夏音ちゃんと居て、めっちゃ楽しいよ!あ、私ダンボール捨ててくるね!」
「あ、うん...」
星野君はまだ納得してなさそうだったけど、無視して畳んだダンボールを持って外に出た。
なんで?星野君とは学生時代、全くと言っていいほど関わりなんてなかったのに。なのにどうして私の─仮面─に気づくの?
─無理してない?大丈夫?─
星野君に言われた事を心の中で繰り返す。思い返せば人に心配されたのも久々だ。
「大丈夫なわけないでしょ...」
ポツリとこぼした本音は、ゴミ捨て場のドアを閉める音とともに消された。
「お疲れ様です。」
あがり時間になり事務所に戻ると、次のシフトの人が居て、私に気づくと駆け寄ってきた。
「おつかれー。納品片付けてくれたんだよね?矢野ちゃんから聞いたよ。ありがとー!めっちゃ助かるー」
「いえいえ!これぐらいお安い御用ですよー」
あれから少し混んできて、ダンボールは全部捨てきれなかった。それはまあいいとしよう。
「なんていい子なの!うちに来てくれて良かったー!」
キラッキラの笑顔を向けられてつい目を細めた。そういえば私、本心から笑ったのっていつだっけ。
「ありがとうございますー」
「さー、葉月ちゃんが頑張ってくれた分、私も頑張るかー。気をつけて帰るんだよー」
「はーい!」
シフトの人が見えなくなったと同時に、男の人の更衣室から星野君が出てきた。
「あ、草辺さん、お疲れ様。」
「おつかれー」
先程の事があるからかなり気まずいが、無視する訳にもいかないから笑顔で対応した。
「あれ、さっき矢野さん帰ってったけど。」
「夏音ちゃん、家族が迎えに来てくれたみたいでさ。先に上がっていいよーって言ったんだ。」
「あ、そうだったんだ。優しいね。」
「そう?だって家族が待ってるんだよ。早く帰らせてあげたいじゃん。」
私には待ってくれる家族なんて居ないから。そう言いそうになるのをぐっとこらえた。
「そっか...じゃあまた今度。」
「うん、またねー」
星野君を見送り、私も着替えバイト先を出た。
夏だから夜でも涼しくない。自転車を持っていない私は徒歩だから、そのせいでもっと暑い。迎えに来てもらった夏音ちゃん、いいなぁ。まあ、私の家はバイト先から歩いて十分の所にあるのだから迎えなんて勿体ないのだけれど。
「ただいまー」
家に入り声をかけるが、誰からも返事はない。それもそうか。弟の太陽(たいよう)は部活で疲れて寝てるだろうし、両親はまだ仕事から帰って来てないのだから。
手洗いを済まし、部屋から着替えをとってすぐお風呂に入る。ファミレス勤務は食べ物の匂いがつく。そのせいなのか、時給が高いのだけれど。
お風呂を出てリビングに入ると、洗い物が置いたままだった。太陽だ。絶対そうだ。あいつ、せめて水にはつけてって言ってるのに。
本当は部屋に怒鳴りこみに行きたかったが、そんな事したら怒られるのは私だからぐっとこらえ、静かに洗い物を片付けた。
部屋に戻るとそのまま寝てしまった。バイトした日の夜はすぐに寝れるから次の日の身体が楽だ。
「ん...土曜日か...」
目が覚め、スマホを見ると土曜日と記載されていた。休日は唯一私が私でいられる日だ。
「よし、支度するか。」
いつもより念入りに洗顔をして、万が一誰かに会ってもバレないように化粧をする。
「よし、完璧。」
鏡に映る私はいつもの冴えない私ではない。派手で、自分でも驚く程似合っている。
こういう格好で友達と一緒にいたら昨日みたいに無理してると言われることもないのだろう。無理してないと人と関われない人の気持ちなんてわからないくせに、あんな事言ってほしくない。
そこまで考えて頭をふるった。今日は自分の趣味を堪能する日なんだから、─仮面─を被っていた時にあった出来事なんて一旦忘れよう。
スマホとハンカチ、お財布を持って家を出た。外は暑いはずなのに、全然感じない。それは多分、これから行く所が楽しみでアドレナリンが出ているからだろう。
私が向かったのは大型ショッピングモールだ。ここの一角を使って私の好きなアニメのショップが出張オープンし、限定のグッズを売るらしい。ビジュアルも私の好きなやつで、オタクとして行かない手はない。ちなみにお目当てはアクリルスタンドだ。
「うわ...すごい人...」
開店の一時間前に来たのに、もう二十人ぐらい人が並んでいた。そこまで人気なアニメでは無いのにこんなに居るって事は、すごく人気なアニメだともっと人が並んでいるのだろう。そこまでする程では無いから、私のアニメに対する愛はそれぐらいしかないという事だ。
だからと言ってグッズを追いかけるだけがオタクではないからなと言い訳じみた事を考えた。
暑い...。この炎天下の中、帽子も被らず飲み物も持って来なかった自分を恨みたい。何がアドレナリンが出てるから暑くないだよ。普通に暑いよ。
三十分前の自分を恨み、早く中に入れてくれと思う事三十分。やっとショッピングモールが開いた。
列になっていた人達は我先にと中に入り、列の意味がなくなっていた。私も急ぎたかったが、暑くて早く動けない。もうアクリルスタンドは買えなくてもいいや精神で歩く事にした。同じビジュアルのグッズさえ買えればこの際良しとしよう。
出張オープン場は四階にあり、私が着く頃にはもう品物はほぼなかった。それに人も少なかった。ただ私が狙っていたアクリルスタンドは沢山残っていた。なんだか複雑だ。
「はぁ...買えてよかった。」
目当ての物を買えた私はショッピングモールを出てすぐの所にあるカフェに入った。熱い身体に冷房の風が心地良い。
「お待たせしましたー、アイスカフェオレです。」
「ありがとうございます。」
カフェオレを飲みたいのをこらえ、持ってきていたアクスタと写真を撮った。よし、これで今日の目標は達成した。
カフェオレを飲みながらぼーっと外を見る。この暑い中スーツを着て忙しそうに歩く人、 小さい子供を連れて歩く親達。
この人達もみんな、─仮面─を被って生活してるのかな。好きな事を好きと言えず、隠して生きてるのかな。それが大人だと言うのなら、─仮面─を被っているのがしんどい私は一生大人にはなれないだろう。
「あれ、電話だ。」
ランチでも食べようかなとメニューを開いていると、電話がかかってきた。なんだか嫌な予感がする。
「はい、草辺です。」
「あ、草辺さん!今から来れる?欠員が出ちゃってさ。」
一旦外に出て電話に出ると、バイト先からの電話だった。まあそんな予感はしていた。
「大丈夫ですよ。ただ、今出先なので、制服を取りに家に戻ってから行くので、少し遅くなります。」
「あ、制服だったら予備のがあるからそれ着ていいよ!てか出かけてる最中にごめんね。」
「全然大丈夫ですよ!それじゃあ、向かいますね。」
「はーい、気をつけてね!」
電話を切り、カフェに戻りお金を払いバイト先に向かおうとしたが、自分が化粧をしている事を思い出した。この姿のままでは、いつもと明らかに違いすぎて恥ずかしい。
バイト先に向かっていた足を違う方に向け、ドラッグストアに入った。すぐ近くにあって助かった。
化粧落としを買い、トイレに駆け込み急いで化粧を落とした。夏で化粧が落ちやすいからしっかり対策していたのが裏目に出た。全然落ちない。
かなり強めの力で擦り、やっと落ちた。肌には可哀想な事をしたが、仕方ない。
ドラッグストアを出て、走ってバイト先に向かう。ここはバイト先から遠くて最低でも二十分はかかる。だが走った事によって十五分でつけた。
お店に入ると満席で、しかも待っている人も居た。これは一人欠員のまま営業は出来ない。
「おはようございます。」
「おはよー!来てくれてありがとう!」
「全然大丈夫です!着替え、倉庫にありますよね。」
「うん、そう!ちょっとここ離れられないから探して欲しい!」
「オッケーです!」
荷物をロッカーに入れて倉庫に入り制服を探すが、見当たらない。早く探して、前に出ないといけないのに。
「どこにあんの...」
昨日倉庫の整頓をした時に制服を見た気がしない。本当にあるのか悩み始めた頃。
「制服ならここだよ。」
頭上から声がした。誰かなんて見なくてもわかる。
「星野君。」
「草辺さん。おはよう。」
「おはよう。制服、上にあったんだね。ありがとう。」
「草辺さん、俺より背低いからね。」
「うわ、ひどっ。こう見えて女子の中では高い方なんですけど。」
「はいはい。早く着替えてきな。前、めっちゃ忙しそうだから。」
「言われなくても行きますー」
制服を受け取り、急いで着替える。いつもズボンは制服を履いて来てるから時短になっていたが、今日は私服のズボンだから汗で張りついて中々脱げない。だから夏を嫌いな人が多いのだろう。
なんとか着替えを終え、前に出ると先程より混んでいた。今日は一体何時で帰れるのだろうと静かにため息をついた。
「はぁ...疲れた...」
二十時。私はやっと労働から解放された。十二時から入り、休憩は一時間ももらえなかった。いや、正確に言えば少し人が引いた時にもらえたのだが、また混んできてしまってすぐに前に出る羽目になった。まあそれも推し活の費用の為だと割り切ればなんとも思わない。
早く帰って買ったグッズを並べよう。どう並べようか。もうアクリルスタンドを置いてる棚は置けるスペースないんだよな...。
配置を考えながらロッカーから荷物を出していると、
「あ、草辺さん、それ...」
ちょうど更衣室から出てきた星野君にグッズを見られてしまった。グッズは専用の袋に入れてもらったから、誤魔化しがきかない。
どうしよう。なんて言われるかな。もしオタクだ、キモイって言われたら私はもう立ち直れない。
せっかくひいた汗がまた出てくる。反応が怖くて星野君を見れない。
二人で何も言わない時間は長く感じたが、実際は数分だろう。先に口を開いたのは星野君だった。
「好きなの?そのアニメ。」
言われた瞬間はからかう為に聞いてきたのかと疑ったが、星野君を見てそれは違うとわかった。だってその目はキラキラしていたから。
「...友達に頼まれて買っただけだから知らない!」
だけど私は嘘をついた。もしこれで認めて、他の人に私がアニメを好きな事を言いふらされても困る。
「あ、そうなんだ...」
「うん、そう!それじゃあまたね!」
星野君に何か言われる前に事務所を出た。あのままあそこにいたら、私が嘘をついてるってバレてしまう。星野君は他の人が気付かない事も気づいてしまうから。そうなったら私は誤魔化せる自信がない。
結局私は、自分が積み上げてきたものを壊されるのが怖いのだ。心の奥底では本当の私を見てって叫んでるくせに、いざ本当の私を見せようとすると表面上の私がそれを拒否する。矛盾もいい所すぎる。
頭がごちゃごちゃしてどこをどう歩いたのか覚えていないが、家には無傷でついた。
今日も太陽以外帰ってきてなくて、また食器は水についてないのを片付けてからグッズを飾った。推しのグッズは疲れた身体を癒してくれる。また頑張ろうという気力をくれる。
なのにどうしてそれを他の人に言えないで隠しているのだろう。悪い事など一つもしていないのに。
「生きるのって大変だな...」
小さい頃はただ生きているだけで良かった。でも今はそれなりに世の中の事がわかってきて、お金の事や今後の進路を考えるようになった。それがたまにしんどくて、誰かに話を聞いてもらいたくて涙を流す日もある。
それでも誰にも話さないのは、母親に言われた言葉がずっと心に残ってるから。もしこれで心の内を話してまたあんな風に言われてしまえば、もう立ち直れない。それに推しの事を馬鹿にされて、推し活をしなくなってしまう自分が居そうで、それも嫌だ。推しは何も悪い事してないのに。好きな事を好きって胸を張って言えない自分が悪いのに。私の人生は良くも悪くも、推し中心で回っている。
それより、今度星野君に会った時、どう接しようか。でも本人、たった数分話しただけの事なんて覚えてないよね。それに今まであまりシフトが被らなかったのだから、これからも被らないだろう。
そう結論づけてその日は眠りについたのだった。
「ねぇ、このキャラかっこいいと思わない?」
それから何日か経ち、学生は夏休みに入った。課題とかも特にないし、バイトを詰め込んで推し費用を稼ごうと意気込んだ矢先。星野君とシフトが被り、私が好きなアニメのキャラを見せながらそう聞いてきた。
あぁ、やっぱりこの間の会話、覚えてたのか。
「んー、そうだねー」
当たり障りのない返事をして逃げたかったが、お互い休憩時間でそれは叶わなかった。だからこれ以上話を広げないようにスマホを見たのに。
「ねぇ、やっぱりこの間のやつ、自分用に買ったやつでしょ?」
星野君はなお、聞いてきた。
「この間も言ったけど、友達用だよ。なんでそう思うの?」
「俺、草辺さんのインスタ見つけたし。」
ほら、と見せられたスマホの画面には確かに私のアカウントが映っていた。星野君のアイコンを見て、そういえばこの人昨日フォロバしたなと思った。星野君だったとは...。
「このグッズの写真、この間持ってた袋の日にちと一緒なんだよね。」
星野君は言い逃れ出来ないよ、とでも言いたげな表情をしていた。その表情を見てもういいやと諦める事にした。もしこれで他の人にバラされるならここを辞めればいい。
「そうだよ。あのグッズは自分の為に買ったよ。なんか文句あります?」
少し睨みつけながら言うと、星野君は笑った。どこで笑う要素があった。こっちは真剣に怒ってるのに。
「文句なんてないよ。それに他の人にも言わないよ。」
「...じゃあなんでしつこく聞いてきたの?」
「俺もそのアニメ好きだから。草辺さんも好きなんだったら仲良くしたいなと...」
「誰推し!?」
星野君の話を最後まで聞かず聞いていた。前にも言ったがこのアニメはそこまで人気ではない。だから身近に知っている人がいるなんて思わなかった。それもインスタのフォロワーさんなんて。中々出会えない。
「さっき写真で見せた人が好き。」
「うんうん!かっこいいよね!私も最初はその人が好きだった。」
「今の推しはこの間のグッズの人?」
「そう!話を見ていくにつれその人に感情移入してさ。今やその人に貢ぐ為にバイトしてる。」
「...すごいね」
星野君は若干引いていたが、全然気にならなかった。いつもの私なら気にするが、今は同じ物が好きな人が居て嬉しい気持ちでそれどころではない。
「てことは遠征も行くの?このアニメって遠い所でコラボするの多いし。」
星野君は何の気なしに聞いてきたのだろうが、私のテンションは一気に下がった。
「遠征は行かないよ...遠いし何よりお金かかる。今、一人暮らしする為の費用も貯めてるし。」
そう、私は早くあの家から出る為に推し活費用を稼ぎながら、一人暮らし費用も貯めていた。バイトを始めてすぐ貯め始めたからそこそこ貯まってきている。
「へー、そうなんだ。俺たまに行くよ。」
「え!どこまで!?」
「親が結構協力してくれるからかなり遠くまで行く。」
「いいなぁー」
私の親は否定しかしないからな。アニメにお金を使うなんて勿体ないって。自分が稼いで計画的に使ってるのにそんな事言われたくない。太陽は無駄遣いしかしてないのに。
「ねぇ、草辺さん。ちょっと近いかも...」
星野君に言われて私はやっとあと少しでお互いのおでこがぶつかる距離にいる事に気づいた。
「わぁ!ごめんね!...いった!」
急に恥ずかしくなって勢いよく後ろにのけぞると、距離感をミスってロッカーに頭をぶつけた。
「待って、面白い。」
頭をさすっている私を見ながら星野君は笑っている。
「心配とかないんですか?」
「心配ももちろんあるけど、それより面白さが勝ってる。」
「酷い!かなり痛かったんだからね?」
「いや、自分でやったんじゃん。」
「そうだけど...」
ごもっともな事を言われて黙ると、また星野君は笑った。シラフでこれなのだから、お酒を飲んだら笑い上戸になりそうだ。
「草辺さんって面白いね。」
「そんな事ないよ。ただ星野君の笑いのツボが浅いだけじゃない?」
「まぁ、笑いのツボは人それぞれだからね。俺は草辺さんの事面白いと思うよ。それに...」
星野君は一旦そこで区切ると、今まで見た事ない笑顔でこう言った。
「俺は自然な草辺さんの方が好きだよ。」
─仮面─を被ってない私を好きだと言ってくれたのは星野君が初めてだ。それが嬉しくて目が潤んだ。
ずっと本当の私を見て欲しかった。アニメオタクで、恋愛話には興味がない私の事を。両親がつまらないと言った私の事を。
「え、俺なんか変な事言った?」
私が泣きそうだからだろう。星野君は慌てていた。でも今は星野君に構ってる余裕はない。泣かないようにするので精一杯だから。
「ねぇ、本当に大丈夫?もうすぐ休憩終わるけど...」
顔を隠して必死に涙を耐えていると、星野君は現実を突きつけてきた。もうそんな時間か。
「うん!もう大丈夫。さー、働くかぁー!」
いつもの─仮面─を被って立ち上がり、事務所のドアノブに手をかけた。その時。
「あ、ねぇ、連絡先交換しようよ。」
星野君が少し声を張りながら言ってきた。インスタを知っているのに、なんの連絡先を交換すると言うのだろう。
「ほら、インスタは知ってるけど、ラインの方がアニメの話するのにいいかなって。」
「あぁ、それもそうだね。」
私はインスタの通知を切っているから、メッセージがきてもすぐにはわからない。その分、ラインだと通知がきたらすぐにわかるからアニメの話をするにはもってこいだろう。
少し休憩時間を過ぎていたがラインを交換した。
「これでいつでもアニメの話出来るな。」
「うん!すっごく嬉しい...」
今までアニメを好きな人とリアルで出会った事がなかったし、このアニメを好きって言う人は尚更だ。インスタとかにはアニメが好きな人が沢山いるのに、私の身の回りにはいないから本当にこの世にアニメ好きがいるのか疑っていたぐらいだ。だから今、目の前に同じ物を好きな人がいて心から嬉しい。
「俺も嬉しいよ。改めて、これからもよろしく。」
「うん!よろしく!」
多分その時していた私の笑顔は─仮面─を被っていない、素の私だったと思う。
そんな私を見て、星野君は目を細めていた。
それから私達は急速に仲良くなった。ラインを交換した直後はまだぎこちなかったが、星野君が毎日のようにアニメの話をしてくるからぎこちなさなんてどこかにいった。
とにかく星野君とアニメの話をするのは楽しかった。好きなキャラは違うものの、好きなシーンや好きな表情の好みは似ていた。だから気を遣う必要がなくて楽だった。
星野君の前では素の私で居れた。ずっと─仮面─を被っていた私の前に現れた一筋の光。この光がずっと私だけを見てくれてればいいのに。次第にそう思うようになっていた。
それが恋だとは、まだ色々と未熟な私にはわからなかった。
そんな風に過ごしていると、あっという間に夏休みが終わった。元々、公立は私立より夏休みは物理的に短いのだが。
「葉月ー、久しぶり!おはよー!」
首に汗をたらしながら歩いていると、友人が後ろから抱きついてきた。ただでさえ暑いのにやめて欲しい。
「おはよー!元気だった?」
だがそんな事言えるはずもなく。いつも通り─仮面─を被って友人に声をかけた。
「めっちゃ元気だったよ!そういう葉月は?」
「私もめっちゃ元気だよ!夏休み中はほぼ毎日バイトしてたぐらい!」
「すごっ!私も葉月を見習わなくちゃなー」
「ははは...」
友人と話していて気づいた。─仮面─を被るのが下手になっている事に。友人は気づいていなさそうだが、長年─仮面─を被っている自分にはわかった。それは多分夏休み中、ほぼ星野君としか関わっていなかったからだろう。
どうしよう。このまま─仮面─を被れなくなったら。学校でひとりぼっちになるのは心にくるものがある。せめて卒業までは頑張らないと。
「それで葉月はさ、高校卒業したら何したいの?」
「自分の学力にあった大学に行こうかな。それでやりたい事見つける。」
─仮面─を被れなくなる危機の事を考えてて、話なんて何も聞いていなかったから、どうして進路の話になったのかわからない。だからそれらしい事を答えた。どうせ卒業してしまえばこの子とも関わらなくなるし。
「そっかー。葉月、頭いいもんね。」
「はは、ありがとう!」
「あ、ねぇ聞いて!夏休み中彼氏がね...」
それから話は恋愛話になり、ただ頷くだけになった。
あぁ、早く星野君とアニメの話をしたいなぁ。
「じゃあまた明日ねー!」
「うん、また明日!」
学校が午前で終わり、友人と別れた私はアニメショップに向かった。今日から好きなアニメの新グッズが出るのだ。
小走りでショップに向かい、ショップに入ってからもお目当ての場所まで小走りした。
「うわ...最悪...」
なのに売り切れていた。私の好きなキャラは大体最後まで売れ残るのに。今回はビジュが良かったもんな。それに最近人気になってきてるし。
推しの良さが世間にわかってきてるのはとても喜ばしい事だが、私が昔から好きだったのにと我ながら面倒臭い事を思った。
「あれ、草辺さん?」
ない物は仕方ないから帰ろうと踵を返すと、もう聞きなれた声が後ろから聞こえた。
「星野君。」
振り返ると、星野君が制服姿でアニメショップの袋を持って立っていた。学校帰りにそのまま来たのだろう。
「もしかしてグッズ買いに来たの?」
「うん。欲しかったやつ全部売り切れてなかったんだけどね。」
「今回売り切れるの早いよね。俺も欲しかったの全部は買えなかった。あ、そうだ。これあげるよ。」
そう言いながら袋から出したのは、私が欲しかったキャラのアクリルスタンドだ。
「え!買えたの!?なんで!?」
「来たら残り一個で、草辺さんに会ったらあげようと思って。」
「えぇ...優しすぎる...」
「草辺さんのおかげで最近、アニメの話できて楽しいからさ。そのお礼。」
「それ言ったら私もだよ。だから受け取れない。」
受け取るのに戸惑っていると、星野君は無理矢理手に握らせてきた。
「はい、これで草辺さんの物。」
「ありがとう...あ、じゃあお金払うよ。」
元々自分で買うつもりだったからお金は持っている。カバンから財布を漁っていると止められた。
「本当に大丈夫だから。お礼だと思って受け取って。」
「私もお礼したい。」
「あ、だったらお昼奢ってよ。まだ食べてないでしょ?」
言われてみたら学校終わりにすぐここに来たから、ご飯など食べていない。食欲より推しの事が優先だからすっかり忘れていた。
「食べてない。」
「ならそうしよう。どこで食べよっか。あ、今日バイト入ってる?」
「入ってる。なんなら連勤。」
「何時から?」
「十六時。てかシフト一緒だよ。」
「え、そうなの?」
「うん。ちゃんとシフト見た方がいいよ。」
「まあまあ。ならそのままバイト先で食べる?」
「やだ。働く以外であそこに行きたくない。」
「ウケる。んー、だとしたら俺がよく行く所でもいい?ここから近いからさ。」
「いいよ、どこでも。」
「ありがと。あー、腹減った。」
先を歩き始めた星野君の後を追った。横に並ぶ事はせず、少し後ろを歩いた。
「なんで後ろ歩くの?」
途中、横断歩道が赤で立ち止まると聞かれた。
「なんとなく。」
そう濁した返事をしたが、知り合いに見られてカップルだと思われたくなかったからだ。私と星野君はあくまで─友達─なのだから。
「そっか。」
それに気づいているのかいないのか。星野君はそれ以上追求する事なく青になった横断歩道を歩き始めた。私もその後を追うようについて行った。
「ここだよ。」
それから歩く事五分。星野君の行きつけに辿り着いた。
「ラーメン屋なんだね。」
「そう。ここ、安いのにめっちゃ量多くて、しかも美味しいんだ。」
「へぇー」
見るからに個人店という感じだが、人は結構いるようだ。多分、お店のドアに貼ってあるテレビで紹介されたというポスターがあるからだろう。テレビを観ない私でもタイトルぐらいは知っている番組で紹介されたのだから、人も多くて納得だ。
「ラーメン嫌いだった?」
ぼーっとお店を眺めていると星野君が顔を覗き込みながら聞いてきた。
「え?そんな事ないよ。休日に自分で作るぐらいには好きだよ。なんで?」
「なんかお店を見た時の反応が良くなかったからさ。」
「え、ごめん。」
星野君の前ではアニメの話以外の、プライベートでも─仮面─を被る事を忘れてしまう。気をつけないと、今みたいに人を不快にさせてしまう。─仮面─を被っていない私は、無愛想でつまらないのだから。
「謝らなくて平気だよ。さ、中入ろ。」
「うん...」
星野君は本当に優しい。これが他の、友人や家族だったら、嫌な顔をされて気まずくなる。
どうして星野君は本当の私を見ても嫌な顔せず、むしろ楽しそうにしてくれるのだろう。
その理由を聞こうと思えば聞ける。だけど聞いたら今の関係が壊れてしまいそうな気がして怖い。
やっと出会えた、─仮面─を被らなくても関われる人。それを今、手放す訳にはいかない。もう少し私自身が強くなってから理由は聞こう。
「草辺さん、どうする?」
「へぇ?」
完全に一人の世界に入っていて、星野君の声でやっとこっちに帰ってきた。だからなんで聞かれているのかわからなくて変な声が出た。
「今二人席が満席で、カウンターなら一つ空いちゃうけど座れるって。どうする?」
星野君の問いかけでお店を見渡す。人が沢山居て、早く決断しないと後ろで待っている人も困ってしまう。
「カウンターで大丈夫だよ。」
「そう?ならそれでお願いします。」
「ありがとうございます。こちらです。」
店員さんに案内された席は、頭の毛が少なくて少しふくよかなサラリーマンを挟んだ席だった。
「こちらお冷です。注文の際はカウンターに向かってお声掛けください。」
「ありがとうございます。」
お冷を受け取って私が一番端、星野君がサラリーマンを挟んだ席に座った。サラリーマンは料理が来たばかりみたいで、帰る素振りはない。
一つ空いて座ったものの、私はここに来た事がないからどういうメニューがあるかわからないし、どうトッピングしたらいいのかもわからない。
「君、わからないの?おじさんが教えてあげるよ。」
私がおろおろしているからだろう。隣に座っていたサラリーマンが声を掛けてきた。親切心なのだろうが、ラーメンを食べ終えたばかりで汗をかいていて、それがいっそう怖さを増していた。
「あ...大丈夫です。調べるんで。」
素っ気なく言い、これ以上話しかけられないようにスマホを開いたのに。
「調べるより常連の人に聞いた方が確かだよ。おじさん、よく来るからおすすめ沢山あるから。」
サラリーマンは少し腰を浮かして近づいてきた。それに便乗して太ももを触ってきた。
怖い。気持ち悪い。誰か、助けて。
よくニュースとかで痴漢をされて、被害者は声を出せなかったというのを見て、どうしてだろうと不思議だった。でも今、やっとわかった。出したくても出せないのだ。身体が声を出す事を忘れたみたいに。
「何やってんだよ、おっさん。」
スカートに手を入れられそうになっていると、星野君がサラリーマンの肩を掴んだ。その顔はかなり怒っていて、サラリーマンは震え上がった。
「いや、その...わからなそうだったから教えてあげようかと...」
「じゃあその手はどう説明すんだよ。」
サラリーマンの手は未だにスカート付近にある。焦っているのか手汗をかいていてよりいっそう気持ち悪い。
「ちっ、なんだよ、彼氏持ちかよ。だったらこんな所来んなよ。貧乏人が。」
「おい、待てよ!」
サラリーマンはそう吐き捨てると荷物を持って急いで出て行った。星野君が追いかけようとしたが、止めた。
「いいよ、追いかけなくて。」
「でも...」
「助けてくれてありがとう。怖くて声出せなかったから助かったよ。」
「それなら良かったけど...気づくの遅かったよな。本当にごめん。俺が誘ったばかりに怖い思いさせちゃった。」
「もー、全然大丈夫だよ!それよりほら、早く食べよ!おすすめ教えてよ。」
本当は手が震えている。だが星野君にこれ以上自分を責めて欲しくなかったから─仮面─を被って明るく言ったが、星野君の表情は晴れない。それでもにこにこしていると、折れてくれた。
「...わかった。なら店員さんに事情話して席、隣にしてもらうよ。」
「大丈夫だよ...って行っちゃった...」
星野君はすぐ近くにいた店員さんに事情を話し、店員さんが上の人に言いに行き、素早く対応してくれた。
「お客様に大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。今後、気をつけていきます。今回の食事の料金は二名様とも、いただきません。」
「そんな...申し訳ないです。」
店長らしき人が出て来て、私達に深く頭を下げた。
この忙しい時に席を隣にしてくれただけではなく、料金も貰わないと言われてしまい、どうしたらいいかわからない。隣に座った星野君をチラリと見る。でも星野君は私とは違って涼し気な表情だった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
素直に頷いていて、店員さんが居なくなった後ひっそり聞いた。
「いいの?料金払わなくて。」
「店長さんがいいって言ってるんだからいいんじゃない?だって草辺さんが怖い思いしたのは事実だし、俺からすれば足りないぐらいだし。」
「うわぁ...こわー」
星野君は見た目ではわからないが、かなり怒っているようだ。逆撫でしないよう、これ以上何も言わなかった。
「あー、美味しかった!」
あの後私は星野君におすすめの味噌ラーメンを注文し、味玉とチャーシューをトッピングした。今まで食べたラーメンで一番美味しくて、リピしようと決めたぐらいだった。
「それは良かったよ。あのじじいさえいなければもっと良かったのに...」
星野君はまだ怒っているようだが、私はそうでもない。確かにやられた直後は怖かったが、ラーメンが美味しくてそんな気持ちはどこかに行った。それを世では馬鹿と言うのだろう。
「まあ確かに、あんな事があったけどラーメンは美味しかったから!連れてってくれてありがとう。」
─仮面─ではなく心からの笑顔でお礼を言うと、怖い顔をしていた星野君は目を細めた。
「ありがとう。今度はもっと空いてる時に行こう。」
「そうだね。あ!私奢ってない!どうしよう。」
元々、お昼を二人で食べる事になったのはアクリルスタンドを貰ったお礼がしたかったからだ。色々あってすっかり忘れていた。これでは私はアクリルスタンドを貰って、ただ助けてもらっただけの人だ。
「あー、じゃあまた今度奢ってよ。」
「あ、そっか。従食奢ればいいね。」
「いや、今日みたいにまた二人で出かけて奢ってよ。」
「え?」
驚いて星野君を見る。だが星野君はそんな私を不思議そうに見ている。
「俺、変な事言った?」
「うん。え?だって...」
─男女と二人で出かけるなんて、変じゃない?─
と聞こうとしたが、男女とかを気にしているのは自分だけで、星野君はそんな事一ミリも気にしていないだろう。なんだか自分ばかりそういう事を気にしていて恥ずかしい。
「ん?」
星野君は私の考えている事がわかっているみたいで、わざとらしく首を傾げた。これが女子だったらあざといとか言われるのだろう。
「んーん、なんでもない!そうだね、また二人で出かけようね。どこ行こっか!」
「まあ実際、俺ら受験生だからしばらく無理だけどね。」
人が明るく言っているのにこの人は現実を見せてくる。なんて性格が悪い。
「星野君って性格悪いって言われない?」
「言われない。」
「じゃあその人の目がおかしいんだね。」
「酷い事言うね。そういう草辺さんはなんか言われないの?」
「言われませんけど?星野君以外の人と関わる時は言動に気をつけてますから。」
「俺、それは喜んでいいやつ?」
「星野君の取り方によるんじゃない?」
いつだかの星野君の言い方を真似してみた。そして二人顔を見合わせて笑った。さっきまで隣同士で歩くのをためらっていたのに、今は隣で歩いている。もうカップルに間違われてもいいと思った。
「草辺さん、そっちの方がいいよ。いつもの貼り付けてる笑顔より。」
「...もっと自分自身に自信がもてたら皆にもこの顔で接するようにするよ。だから今は星野君の前でだけ。」
機嫌が良かった私はいつも誤魔化す所を誤魔化さず、本当の事を言った。それに星野君は全部気づいてる。そんな人に嘘をついても意味がない。
それにもう星野君は本当の私を知っても馬鹿にしたり、逃げたりしないってわかったから。
「そっか。じゃあ俺は貼り付けてる笑顔じゃない草辺さんを見る、第一号なんだね。」
「そうそう。家族にもこの顔は見せてないからね。」
「そうなの?疲れない?」
「今までは疲れたって思う事もあったけど、今は星野君と話せるからそこまでじゃないよ。」
「そっか。役に立てたようでなにより。」
「本当に感謝してるよ、ありがとう。星野君と再会できて、本当に良かった!」
「俺も...」
「俺も?」
「いや、やっぱりなんでもない。」
そう言い、そっぽを向いてしまった。その横顔は赤い。
何か変な事を言ったか言動を思い返すと、かなり恥ずかしい事しか言っていなかった。私も恥ずかしくなってしまい、星野君を見れなかった。
しばらく無言のまま歩いていると、バイト先に着いた。
「一緒に入るとなんか変だから私、近くの公園で時間潰してくるね!」
「え、あ、うん...」
走って星野君から離れた。あれ以上一緒に居たら心臓が止まってしまう。今でさえバクバクしてうるさいのに。
走って三分の所にある公園に入ると、人が一人も居なくて閑散としていた。私が保育園生の時は外で遊んでいる子が大半だったのに。今の親達は子供を外で遊ばせたくても、この暑さで遊ばせる事が出来ないのだろう。だから今の子供は体力がないと年配の人に言われるのだろうな。けれどこの暑さで命より体力をつける事を優先する人が居たら、それはそれで叩かれるのだけれど。
そんな普段なら考えない事を考えながら木の下にあるベンチに座ろうとしたが、ブランコが目に入ってしまいそこに座った。ブランコなんて、何年ぶりに乗ったのだろう。
誰も周りに居ない事を確認して少し漕いでから、カバンから星野君から貰ったアクリルスタンドを取り出して写真を撮り、インスタのストーリーに載せた。結構フォロワーさんもこのアニメのアクリルスタンドを載せていて、全部にいいねをつけた。
そんな事をしているといい時間になり、バイト先に戻った。夏休み明けのファミレスはそれほど混んでいないだろう。
「おはようございまーす...」
「もー!悠君面白い!」
「夏音さんもね。」
事務所に入ろうと扉を少し開けたら、そんな声が聞こえてきた。星野君と夏音ちゃんの声だ。
入りずらくて扉を閉めた。その手は震えている。
この二人、下の名前で呼び合う程仲良かったっけ。私ですら星野君の事、下の名前で呼んだ事ないのに。
「悠君、こことかどう!?」
「いいね、楽しめそう。」
扉の向こう側で二人は楽しそうに話している。話しぶりからして、どこか出かける計画を立てているのだろう。
もしかしてこの二人、付き合ってる...?そうだとしたら下の名前で呼び合っているのも納得だし、出かける計画を立てていてもおかしくない。
よくよく考えてみればこの二人は一緒にいる時のが多かった。シフトが被っているのも多かったし。
ああ、なんだ、彼女居たんだ。それなのに偶然とはいえ、私と二人でご飯を食べたら浮気ではないか。それにラインのやりとりも毎日のようにしていた。それも嫌な人は嫌だろう。
「あれ...?」
気づいたら私の目からは涙が溢れていた。なんで泣いているの?別に星野君が誰と付き合おうが自由ではないか。なのに一人で勝手に傷付いて泣くのはおかしい。
そこで私は星野君の事が好きなのだとわかった。
「あ!そろそろ時間だね。また後で続きは話そー」
「そうだね。」
扉の向こうでは二人がこちらにやってきそうな雰囲気になった。私は急いで裏口からバイト先を出た。この顔を見られるのは嫌だし、不可抗力と言えど、盗み聞きしていたのがバレるのも嫌だった。
「あー、どうしよう...」
そのまま戻るに戻れなくなった私はバイトをバックれて、さっきまでいた公園に戻って来た。スマホにはバイト先からの着信でいっぱいだ。電話に出て、体調が悪くなったとか誤魔化せばいいものの、それも出来ないぐらい星野君に彼女が居た事にショックを受けていた。それも私の仲良しの子と。それがよりいっそうショックだった。
これからどうしようか。今日、バイトをバックれて明日、何事もなかったかのようにバイトに行ける程心臓に毛が生えていない。
もうこのバイトを辞めようか。明日、なんとか行けたとしてもいつかはあの二人と会う事になる。その時私はいつもみたいに─仮面─をつけて関われるだろうか。
...多分無理だ。どちらかを見た瞬間、泣いてしまう。それ程、星野君が好きだから。好きだから、私以外の人と付き合ったなんて信じたくない。
こんなに星野君が好きだったなんて自分でも驚いている。人って、失って初めて気づくんだな。
「はぁ...帰るか...」
いつまでも公園にいる訳にもいかないから、重たい腰を上げて立ち上がった。三十分前は楽しい気持ちでいっぱいだったのに、今は辛い気持ちでいっぱいだなんて。人生ってどうしてこうも上手くいかないのか。
「新しいバイト探すか...」
とにかく、新しくバイトを探そう。そして今のバイトは適当な理由をつけて辞めよう。こんな事で逃げてしまっていいのかと思う所もあるが、今は自分の心を優先しよう。
それから私はすぐに新しいバイトを見つけた。また飲食店だが、この際働ければどこでもいい。一人暮らしをする為の費用を稼がなければいけないのだから。推し活の費用も。
星野君達が居るバイト先にバックれた事を謝り、辞める有無を伝えると、長期休暇でもいいから在籍はしてくれないかと言われた。断ろうかと思ったが、星野君は高校を卒業したらここのバイトを辞めると言っていた。だったら別に長期休暇でもいいやと言う事で辞めるのは保留になった。
あれから星野君から何度も連絡がきた。だけど全部無視した。これで私が何かしら返事をしてしまえば、夏音ちゃんからしたら浮気になってしまう。それに私自身も星野君の事を諦められなくなる。中途半端な優しさは誰もいい思いはしない。星野君は一体、誰の事を大事にしたいのか。
...いや、もうそんな事考えるのはやめよう。星野君の事を諦める為にバイトを長期休暇にしたのに、考えたら長期休暇にした意味がない。それにこれから、大学受験に向けて勉強を真剣にしなければいけない。失恋したからといって時間は待ってはくれない。頑張らないと。
そう自分を奮い立たせながら毎日を過ごしていると、あっという間に年を越していた。この間まで何しても暑かったのに、今は沢山動いても震える程寒い。本当に時の流れは早い。
「葉月ー!ヘルプー!」
年を越して初めての登校。いつもの友人が駆け寄ってきた。この子ともあと何回会えるのか。
「おはよー!どうしたの?」
「大学受験の勉強が全然進まない...どうしよう!」
「なんでよー」
「勉強しようと教科書を開くんだけど、いつの間にかスマホ触ってんの。怖くない?」
「怖いねー。そんな君の為に私が教えてあげるよ。」
「え!いいの!?」
「うん。私も復習になるし。それに私とやった方が集中力続くんじゃない?」
「神さま仏さま葉月様ー!」
「もー、調子いいんだからー」
星野君も受験に向けて勉強してるのかな。それとも、どこかに就職するのかな。友人と話しながら、そんな事を考えていた。
夏から結構な月日が経ったのに、私は星野君の事を忘れられずにいた。むしろ想いは強くなる一方だ。
連絡も、高頻度ではないが未だにくる。全部無視しているが、それでもめげずに連絡してくるのはどうしてだろう。アニメの話がしたいから?だったら夏音ちゃんにすればいいだけの話だから多分違う。
星野君の事なんて考えたくないのに、結局考えてしまう。恋愛ってこんなに辛いんだ。世の中の恋をしてる人って、こんな想いをしているのだったら私はもう恋なんてしたくない。元々、恋なんてしないで推しの事だけを考えて生きていくつもりだったのに、星野君と再会してから予定が狂った。
でも楽しかった事があるのも事実だ。アニメの話や何より、─仮面─をつけていなくても接する事が出来た。私の─仮面─に初めて気づいた人。─仮面─をつけていない私の事を好きだと言ってくれた。そんな風に言われて、好きにならない方がおかしい。
早くにこの気持ちに気づいていれば、違う未来があったのかな。
考えても考えても正解が出ない毎日。それでも受験の日は近づいてきて、もう受験前日となった。
「じゃあまたねー!お互い頑張ろうね!」
「うん!頑張ろー!」
友人と別れて、一人で歩く帰り道。この道も、あと少しでお別れだ。
私は大学が合格したら一人暮らしをする事が決まっている。両親が私の為の貯金をしていてくれたからだ。両親は私がなんて言おうが、高校までしか面倒を見ないつもりだったらしい。早くに一人暮らしをしたかった私には好都合だが、もし私が反対したらどうしていたのだろう。無理にでも一人暮らしさせていたのか。でもそんな事はこの際どうでもいい。それよりも、本当に両親は私の事なんてなんとも思っていなかったという事がわかって複雑な思いだ。
「そういうものだよね...」
頭では理解出来る。だけどそれが心もかと言われると違うみたいだ。みたいだと他人事で言ったのは、そうでなければ今、泣いている自分に説明がつかないからだ。
「草辺さん!!」
...あぁ、この人はいつも私が辛い時、苦しい時に声を掛けてくれるな。
「星野君...」
「どうしたの!?どこか痛い?」
半年ぶりに会ったとは思えない程、星野君は星野君のままだった。
「なんでもない。」
「そんな事ないでしょ。どうしたの?転んだ?」
おろおろとしている星野君に何故か腹が立った。心の隅では会えて嬉しいと思ってるくせに。
「そんなにドジじゃない!ほんとに大丈夫だから。てかなんでここにいんのよ。」
「草辺さんがライン全部無視するから直接話に来たんだ。」
今更何を話す事なんてあるのか。それに、彼女がいるくせに違う女の子と二人で会うなんて最低が過ぎる。
「彼女がいるくせに、直接話しに来たとか馬鹿じゃないの!?」
「誤解だよ。それは...」
「聞きたくない!星野君なんて大っ嫌い!」
「あ、待って...!」
星野君の引き止めを無視して走った。涙で前が霞んでよく見えない。それでも必死に走った。
その勢いのまま家に入り、すぐ自室に籠った。そのまま扉の前に座り、顔を自分の膝に埋めた。
でもなんで今更、直接話に来たのだろう。話したいならもっと早く来れば良かったのに。
やっと冷静になれた私は考えた。でも星野君に会ってしまった疲れなのか、受験勉強の疲れか。そのまま眠ってしまった。
次に起きたのはスマホがけたたましく鳴っていたから。誰かと見ると夏音ちゃんからだった。夏音ちゃんから電話なんて初めてで、何となく嫌な予感がした。
そしてその嫌な予感は的中した。
星野君が、事故で亡くなったと聞かされた。
そして私は思い出した。星野君に言ってしまった言葉を。心から思ってない言葉を言ってしまったのが、最後の言葉になってしまった事を。
友達の声がして、笑顔で振り向く。
「おはよー!今日も暑いねー」
「ほんとにそれな。暑くて溶けちゃう。」
「ねー」
他の友達と合流し、口角を上げて友達の話に相槌を打つ。一見簡単そうに見えるが、案外そうでもない。自分に興味がない話をされて相槌を打つ事しか出来ないのは、地味にしんどい。
「葉月は彼氏とか作らないの?」
適当に相槌を打っていると、唐突に聞かれた。またかと内心思いながらもいつもの返答を返した。
「んー、今は勉強に集中したいからいいかな。」
「もー、葉月ったら真面目なんだからー」
「はは...」
「あ、そういえばね...」
私の苦笑いに気づいたのか、気づいてないのか。友達は違う話を始めた。
この子達の事は嫌いではない。話していて楽しいとは思うし、一緒にいて嫌な気はしない。だけどこういう恋愛話ばかりなのは疲れる。
でもそう言ったら私は確実に一人になる。一人になるのは怖い。だから今日も私は明るくて笑顔の─仮面─を被る。
私が─仮面─を被るようになったのは忘れもしない、小学校六年生の時だ。
私の家族は父と母、弟の四人家族だ。そしてその弟がすごく優秀で、両親は弟の事を溺愛していた。
弟の用事が出来たら先に入っていた私の予定をずらしてでも合わせないと怒鳴られた。お前の用事なんて大した事ないだろって。
最初の頃は私も反抗していた。私だって家族の一員なのに。どうして弟ばっかりって。
だけどそんなある時、母親にこう言われた。
「あんたみたいな根暗でつまらない奴を育ててやってるんだから、弟の事を優先したっていいじゃない。」
そう言われて、何も反論出来なかった。だってその頃の私は自分の好きな事を黙々とやるタイプだったから。今みたいに外で笑顔でいる事の方が少なかったから、確かにつまらなくて根暗だったろう。
だけどそれを実の母親が言っていいのだろうか。親と言うのは子供の好きな事を応援するものではないのか。それが悪い事ではないなら、尚更。
でもこの人になにを言ってもダメだと悟った私は自分の好きな事をなるべく控えるようにした。そして誰からも好かれるように、明るくて笑顔の─仮面─を被るようにした。そうしたら学校でも人が沢山寄ってきた。家族からも明るくなったと言われた。
最初のうちは─仮面─を被っている状態がすごく疲れた。どうして素の私だと好いてもらえないのに、明るくて笑顔でいたら好いてもらえるんだろうって。
その気持ちも徐々に薄れていった。よくよく考えたら根暗でつまらない人になんて誰も近づきたくないって気づいたから。
でも心の奥底ではいつも叫んでる。本当の私を見て。それでもいいって言ってって。
私はその心の叫びを無視して毎日を過ごしている。
「じゃあね、葉月。また明日ー」
「うん、また明日ー」
友達と別れ、バイト先に行くこの時だけは明るく笑顔の─仮面─を外せる。今日もずっと口角を上げていたから頬の筋肉が痛い。
「おはよーございまーす」
「おはよー」
働いてる人達に挨拶をして事務所に行くと、バイト先で知り合った矢野(やの)夏音(なつね)ちゃんがいた。
「夏音ちゃん、おはよー」
「あ!葉月ちゃん!おはよー。今日一緒のシフトだったんだね。」
「休みだったんだけど、シフト代わったの!」
「そうだったんだね!よろしくー」
「うん!よろしくー」
夏音ちゃんはそう言うと先に表に出た。まだ時間前なのに偉いなぁと思いながら自分も着替え、髪をまとめていると。
「あれ、草辺(くさべ)さん?」
聞き覚えのある声がして振り向くと、そこには中学の同級生、星野(ほしの)悠(ゆう)君が立っていた。
「星野君だよね。久しぶり。」
「久しぶり。ここで働いてたんだね。」
「半年前から働いてましたけど?」
「え、そうだったの?シフト、自分の所しか見てないから知らなかった。」
「まあ、ホールとキッチンじゃあシフト別だからね。」
「そうそう。とりあえず、これからよろしく。と言っても俺、高校卒業したらここ辞めるんだけど。」
「あ、そうなの。じゃあそれまでの間よろしくね。」
「ん、よろしく。」
話しているとちょうどいい時間になり、表に出た。今日はお客さんが全然居なくて楽勝だなと確信した。
「今日お客さん、全然居ないね。」
「ね、夏音も思った。何すればいいかなぁ。」
「明日のためにデザートの補充しとこ。昼間の方が忙しいと思うからさ。」
「そうだね。じゃあ夏音、表の補充やるよ!」
「おっけー。私、後ろの補充するから混んできたら呼んでー」
「はーい」
ラッキー。今日はお客さんが居ないだけじゃなくて、表に出なくてもいいなんて。楽できる日は楽しないとね。
と思ったのも束の間。というのも何となく倉庫を覗いてしまったからだ。
「うわ...納品やば...」
倉庫はこれ以上奥には行かせないと言わんばかりに荷物が積み重なっていた。まずはここを片付けよう。
手前にあるダンボールを片っ端から空けていき、同じものが近くにあったらそこに片付けていく。そんな地道な作業をしているとじんわり汗が出てきた。この暑い夏にする作業ではない。
「あっつ...」
しゃがんでいる体勢が辛くて立ち上がると、急に立ったからか目眩がしてふらついた。
やばい、倒れる。そう覚悟した私は目を瞑った。だが一向に痛みがこない。恐る恐る目を開けると、誰かが支えてくれてた。
「大丈夫?」
その声で星野君が支えてくれたのだとわかった。
「うん、大丈夫!ありがとう、助かった!」
「それは良かった。てかこの量の納品、片付けてくれてたんだね。ありがとう。」
「全然!今日お客さん少なくてやる事ないし。だったらやっとこうかなって。」
「なら俺も手伝うよ。このダンボールからやっていけばいい?」
「え!大丈夫だよ。一人で出来るしさ、何よりここ暑いから。」
「それ言ったら草辺さんだって暑いでしょ。それに、また倒れそうになったら危ないからね。」
「ぐっ、」
「さ、やろ。二人でやった方が早く終わるよ。」
これ以上反論する余地もなく、二人で黙々と納品を片付けた。途中、オーダーが入り星野君が居なくなったりはしたが、一人でやるよりかは早く終わった。
「終わったー!」
「ほら、やっぱり二人でやった方が早かったでしょ。」
「早かった。手伝ってくれてありがとう。」
「俺もどこになにがあるかおおよそ知れて良かった。」
「知らなかったの?私より働いてる年月長いのに?」
「だって足りない物あったら他の人が持ってきてくれてたし。」
「じゃあ知れる良い機会だったんだね。」
「そうそう。」
星野君とは学生時代、接点が全くなかった。だから話すとこんなに面白い人だとは知らなかった。いつも周りに友達がいるのも納得だ。
「葉月ちゃーん、こっちの補充終わったよー」
納品を片付けた時に出てきたダンボールを星野君と片付けていると、夏音ちゃんがやってきた。
「ありがとー。こっちの補充、まだ終わってないんだ。倉庫の整頓しててさ。」
「あ、そうだったんだね。だからこんなにダンボールがあるのか!」
「そうそう。これ片付けてからこっちの補充するね。」
「あ、だったら夏音やっとくよ!」
「え!いいの?」
「いいよいいよー。だって暇だし。」
「ありがとー。じゃあ終わったら手伝うね。」
「はーい」
夏音ちゃんはニコニコ笑顔のまま冷蔵庫の中に消えていった。いいなぁ、人生楽しそうで。
「矢野さんと仲良いの?」
再びダンボールを片付けていると、星野君に聞かれた。
「うん。」
「へー、なんか意外。」
「え?」
「だって草辺さん、あんなキラキラした子と一緒にいるイメージなかったからさ。」
星野君はそこで一旦言葉を切り、続けた。
「無理してない?大丈夫?」
驚いて星野君の方を向くと、星野君は真っ直ぐ私を見ていた。その目は私の心の内を見透かしてきそうで、すぐ目を逸らした。
「無理なんてしてないよー。夏音ちゃんと居て、めっちゃ楽しいよ!あ、私ダンボール捨ててくるね!」
「あ、うん...」
星野君はまだ納得してなさそうだったけど、無視して畳んだダンボールを持って外に出た。
なんで?星野君とは学生時代、全くと言っていいほど関わりなんてなかったのに。なのにどうして私の─仮面─に気づくの?
─無理してない?大丈夫?─
星野君に言われた事を心の中で繰り返す。思い返せば人に心配されたのも久々だ。
「大丈夫なわけないでしょ...」
ポツリとこぼした本音は、ゴミ捨て場のドアを閉める音とともに消された。
「お疲れ様です。」
あがり時間になり事務所に戻ると、次のシフトの人が居て、私に気づくと駆け寄ってきた。
「おつかれー。納品片付けてくれたんだよね?矢野ちゃんから聞いたよ。ありがとー!めっちゃ助かるー」
「いえいえ!これぐらいお安い御用ですよー」
あれから少し混んできて、ダンボールは全部捨てきれなかった。それはまあいいとしよう。
「なんていい子なの!うちに来てくれて良かったー!」
キラッキラの笑顔を向けられてつい目を細めた。そういえば私、本心から笑ったのっていつだっけ。
「ありがとうございますー」
「さー、葉月ちゃんが頑張ってくれた分、私も頑張るかー。気をつけて帰るんだよー」
「はーい!」
シフトの人が見えなくなったと同時に、男の人の更衣室から星野君が出てきた。
「あ、草辺さん、お疲れ様。」
「おつかれー」
先程の事があるからかなり気まずいが、無視する訳にもいかないから笑顔で対応した。
「あれ、さっき矢野さん帰ってったけど。」
「夏音ちゃん、家族が迎えに来てくれたみたいでさ。先に上がっていいよーって言ったんだ。」
「あ、そうだったんだ。優しいね。」
「そう?だって家族が待ってるんだよ。早く帰らせてあげたいじゃん。」
私には待ってくれる家族なんて居ないから。そう言いそうになるのをぐっとこらえた。
「そっか...じゃあまた今度。」
「うん、またねー」
星野君を見送り、私も着替えバイト先を出た。
夏だから夜でも涼しくない。自転車を持っていない私は徒歩だから、そのせいでもっと暑い。迎えに来てもらった夏音ちゃん、いいなぁ。まあ、私の家はバイト先から歩いて十分の所にあるのだから迎えなんて勿体ないのだけれど。
「ただいまー」
家に入り声をかけるが、誰からも返事はない。それもそうか。弟の太陽(たいよう)は部活で疲れて寝てるだろうし、両親はまだ仕事から帰って来てないのだから。
手洗いを済まし、部屋から着替えをとってすぐお風呂に入る。ファミレス勤務は食べ物の匂いがつく。そのせいなのか、時給が高いのだけれど。
お風呂を出てリビングに入ると、洗い物が置いたままだった。太陽だ。絶対そうだ。あいつ、せめて水にはつけてって言ってるのに。
本当は部屋に怒鳴りこみに行きたかったが、そんな事したら怒られるのは私だからぐっとこらえ、静かに洗い物を片付けた。
部屋に戻るとそのまま寝てしまった。バイトした日の夜はすぐに寝れるから次の日の身体が楽だ。
「ん...土曜日か...」
目が覚め、スマホを見ると土曜日と記載されていた。休日は唯一私が私でいられる日だ。
「よし、支度するか。」
いつもより念入りに洗顔をして、万が一誰かに会ってもバレないように化粧をする。
「よし、完璧。」
鏡に映る私はいつもの冴えない私ではない。派手で、自分でも驚く程似合っている。
こういう格好で友達と一緒にいたら昨日みたいに無理してると言われることもないのだろう。無理してないと人と関われない人の気持ちなんてわからないくせに、あんな事言ってほしくない。
そこまで考えて頭をふるった。今日は自分の趣味を堪能する日なんだから、─仮面─を被っていた時にあった出来事なんて一旦忘れよう。
スマホとハンカチ、お財布を持って家を出た。外は暑いはずなのに、全然感じない。それは多分、これから行く所が楽しみでアドレナリンが出ているからだろう。
私が向かったのは大型ショッピングモールだ。ここの一角を使って私の好きなアニメのショップが出張オープンし、限定のグッズを売るらしい。ビジュアルも私の好きなやつで、オタクとして行かない手はない。ちなみにお目当てはアクリルスタンドだ。
「うわ...すごい人...」
開店の一時間前に来たのに、もう二十人ぐらい人が並んでいた。そこまで人気なアニメでは無いのにこんなに居るって事は、すごく人気なアニメだともっと人が並んでいるのだろう。そこまでする程では無いから、私のアニメに対する愛はそれぐらいしかないという事だ。
だからと言ってグッズを追いかけるだけがオタクではないからなと言い訳じみた事を考えた。
暑い...。この炎天下の中、帽子も被らず飲み物も持って来なかった自分を恨みたい。何がアドレナリンが出てるから暑くないだよ。普通に暑いよ。
三十分前の自分を恨み、早く中に入れてくれと思う事三十分。やっとショッピングモールが開いた。
列になっていた人達は我先にと中に入り、列の意味がなくなっていた。私も急ぎたかったが、暑くて早く動けない。もうアクリルスタンドは買えなくてもいいや精神で歩く事にした。同じビジュアルのグッズさえ買えればこの際良しとしよう。
出張オープン場は四階にあり、私が着く頃にはもう品物はほぼなかった。それに人も少なかった。ただ私が狙っていたアクリルスタンドは沢山残っていた。なんだか複雑だ。
「はぁ...買えてよかった。」
目当ての物を買えた私はショッピングモールを出てすぐの所にあるカフェに入った。熱い身体に冷房の風が心地良い。
「お待たせしましたー、アイスカフェオレです。」
「ありがとうございます。」
カフェオレを飲みたいのをこらえ、持ってきていたアクスタと写真を撮った。よし、これで今日の目標は達成した。
カフェオレを飲みながらぼーっと外を見る。この暑い中スーツを着て忙しそうに歩く人、 小さい子供を連れて歩く親達。
この人達もみんな、─仮面─を被って生活してるのかな。好きな事を好きと言えず、隠して生きてるのかな。それが大人だと言うのなら、─仮面─を被っているのがしんどい私は一生大人にはなれないだろう。
「あれ、電話だ。」
ランチでも食べようかなとメニューを開いていると、電話がかかってきた。なんだか嫌な予感がする。
「はい、草辺です。」
「あ、草辺さん!今から来れる?欠員が出ちゃってさ。」
一旦外に出て電話に出ると、バイト先からの電話だった。まあそんな予感はしていた。
「大丈夫ですよ。ただ、今出先なので、制服を取りに家に戻ってから行くので、少し遅くなります。」
「あ、制服だったら予備のがあるからそれ着ていいよ!てか出かけてる最中にごめんね。」
「全然大丈夫ですよ!それじゃあ、向かいますね。」
「はーい、気をつけてね!」
電話を切り、カフェに戻りお金を払いバイト先に向かおうとしたが、自分が化粧をしている事を思い出した。この姿のままでは、いつもと明らかに違いすぎて恥ずかしい。
バイト先に向かっていた足を違う方に向け、ドラッグストアに入った。すぐ近くにあって助かった。
化粧落としを買い、トイレに駆け込み急いで化粧を落とした。夏で化粧が落ちやすいからしっかり対策していたのが裏目に出た。全然落ちない。
かなり強めの力で擦り、やっと落ちた。肌には可哀想な事をしたが、仕方ない。
ドラッグストアを出て、走ってバイト先に向かう。ここはバイト先から遠くて最低でも二十分はかかる。だが走った事によって十五分でつけた。
お店に入ると満席で、しかも待っている人も居た。これは一人欠員のまま営業は出来ない。
「おはようございます。」
「おはよー!来てくれてありがとう!」
「全然大丈夫です!着替え、倉庫にありますよね。」
「うん、そう!ちょっとここ離れられないから探して欲しい!」
「オッケーです!」
荷物をロッカーに入れて倉庫に入り制服を探すが、見当たらない。早く探して、前に出ないといけないのに。
「どこにあんの...」
昨日倉庫の整頓をした時に制服を見た気がしない。本当にあるのか悩み始めた頃。
「制服ならここだよ。」
頭上から声がした。誰かなんて見なくてもわかる。
「星野君。」
「草辺さん。おはよう。」
「おはよう。制服、上にあったんだね。ありがとう。」
「草辺さん、俺より背低いからね。」
「うわ、ひどっ。こう見えて女子の中では高い方なんですけど。」
「はいはい。早く着替えてきな。前、めっちゃ忙しそうだから。」
「言われなくても行きますー」
制服を受け取り、急いで着替える。いつもズボンは制服を履いて来てるから時短になっていたが、今日は私服のズボンだから汗で張りついて中々脱げない。だから夏を嫌いな人が多いのだろう。
なんとか着替えを終え、前に出ると先程より混んでいた。今日は一体何時で帰れるのだろうと静かにため息をついた。
「はぁ...疲れた...」
二十時。私はやっと労働から解放された。十二時から入り、休憩は一時間ももらえなかった。いや、正確に言えば少し人が引いた時にもらえたのだが、また混んできてしまってすぐに前に出る羽目になった。まあそれも推し活の費用の為だと割り切ればなんとも思わない。
早く帰って買ったグッズを並べよう。どう並べようか。もうアクリルスタンドを置いてる棚は置けるスペースないんだよな...。
配置を考えながらロッカーから荷物を出していると、
「あ、草辺さん、それ...」
ちょうど更衣室から出てきた星野君にグッズを見られてしまった。グッズは専用の袋に入れてもらったから、誤魔化しがきかない。
どうしよう。なんて言われるかな。もしオタクだ、キモイって言われたら私はもう立ち直れない。
せっかくひいた汗がまた出てくる。反応が怖くて星野君を見れない。
二人で何も言わない時間は長く感じたが、実際は数分だろう。先に口を開いたのは星野君だった。
「好きなの?そのアニメ。」
言われた瞬間はからかう為に聞いてきたのかと疑ったが、星野君を見てそれは違うとわかった。だってその目はキラキラしていたから。
「...友達に頼まれて買っただけだから知らない!」
だけど私は嘘をついた。もしこれで認めて、他の人に私がアニメを好きな事を言いふらされても困る。
「あ、そうなんだ...」
「うん、そう!それじゃあまたね!」
星野君に何か言われる前に事務所を出た。あのままあそこにいたら、私が嘘をついてるってバレてしまう。星野君は他の人が気付かない事も気づいてしまうから。そうなったら私は誤魔化せる自信がない。
結局私は、自分が積み上げてきたものを壊されるのが怖いのだ。心の奥底では本当の私を見てって叫んでるくせに、いざ本当の私を見せようとすると表面上の私がそれを拒否する。矛盾もいい所すぎる。
頭がごちゃごちゃしてどこをどう歩いたのか覚えていないが、家には無傷でついた。
今日も太陽以外帰ってきてなくて、また食器は水についてないのを片付けてからグッズを飾った。推しのグッズは疲れた身体を癒してくれる。また頑張ろうという気力をくれる。
なのにどうしてそれを他の人に言えないで隠しているのだろう。悪い事など一つもしていないのに。
「生きるのって大変だな...」
小さい頃はただ生きているだけで良かった。でも今はそれなりに世の中の事がわかってきて、お金の事や今後の進路を考えるようになった。それがたまにしんどくて、誰かに話を聞いてもらいたくて涙を流す日もある。
それでも誰にも話さないのは、母親に言われた言葉がずっと心に残ってるから。もしこれで心の内を話してまたあんな風に言われてしまえば、もう立ち直れない。それに推しの事を馬鹿にされて、推し活をしなくなってしまう自分が居そうで、それも嫌だ。推しは何も悪い事してないのに。好きな事を好きって胸を張って言えない自分が悪いのに。私の人生は良くも悪くも、推し中心で回っている。
それより、今度星野君に会った時、どう接しようか。でも本人、たった数分話しただけの事なんて覚えてないよね。それに今まであまりシフトが被らなかったのだから、これからも被らないだろう。
そう結論づけてその日は眠りについたのだった。
「ねぇ、このキャラかっこいいと思わない?」
それから何日か経ち、学生は夏休みに入った。課題とかも特にないし、バイトを詰め込んで推し費用を稼ごうと意気込んだ矢先。星野君とシフトが被り、私が好きなアニメのキャラを見せながらそう聞いてきた。
あぁ、やっぱりこの間の会話、覚えてたのか。
「んー、そうだねー」
当たり障りのない返事をして逃げたかったが、お互い休憩時間でそれは叶わなかった。だからこれ以上話を広げないようにスマホを見たのに。
「ねぇ、やっぱりこの間のやつ、自分用に買ったやつでしょ?」
星野君はなお、聞いてきた。
「この間も言ったけど、友達用だよ。なんでそう思うの?」
「俺、草辺さんのインスタ見つけたし。」
ほら、と見せられたスマホの画面には確かに私のアカウントが映っていた。星野君のアイコンを見て、そういえばこの人昨日フォロバしたなと思った。星野君だったとは...。
「このグッズの写真、この間持ってた袋の日にちと一緒なんだよね。」
星野君は言い逃れ出来ないよ、とでも言いたげな表情をしていた。その表情を見てもういいやと諦める事にした。もしこれで他の人にバラされるならここを辞めればいい。
「そうだよ。あのグッズは自分の為に買ったよ。なんか文句あります?」
少し睨みつけながら言うと、星野君は笑った。どこで笑う要素があった。こっちは真剣に怒ってるのに。
「文句なんてないよ。それに他の人にも言わないよ。」
「...じゃあなんでしつこく聞いてきたの?」
「俺もそのアニメ好きだから。草辺さんも好きなんだったら仲良くしたいなと...」
「誰推し!?」
星野君の話を最後まで聞かず聞いていた。前にも言ったがこのアニメはそこまで人気ではない。だから身近に知っている人がいるなんて思わなかった。それもインスタのフォロワーさんなんて。中々出会えない。
「さっき写真で見せた人が好き。」
「うんうん!かっこいいよね!私も最初はその人が好きだった。」
「今の推しはこの間のグッズの人?」
「そう!話を見ていくにつれその人に感情移入してさ。今やその人に貢ぐ為にバイトしてる。」
「...すごいね」
星野君は若干引いていたが、全然気にならなかった。いつもの私なら気にするが、今は同じ物が好きな人が居て嬉しい気持ちでそれどころではない。
「てことは遠征も行くの?このアニメって遠い所でコラボするの多いし。」
星野君は何の気なしに聞いてきたのだろうが、私のテンションは一気に下がった。
「遠征は行かないよ...遠いし何よりお金かかる。今、一人暮らしする為の費用も貯めてるし。」
そう、私は早くあの家から出る為に推し活費用を稼ぎながら、一人暮らし費用も貯めていた。バイトを始めてすぐ貯め始めたからそこそこ貯まってきている。
「へー、そうなんだ。俺たまに行くよ。」
「え!どこまで!?」
「親が結構協力してくれるからかなり遠くまで行く。」
「いいなぁー」
私の親は否定しかしないからな。アニメにお金を使うなんて勿体ないって。自分が稼いで計画的に使ってるのにそんな事言われたくない。太陽は無駄遣いしかしてないのに。
「ねぇ、草辺さん。ちょっと近いかも...」
星野君に言われて私はやっとあと少しでお互いのおでこがぶつかる距離にいる事に気づいた。
「わぁ!ごめんね!...いった!」
急に恥ずかしくなって勢いよく後ろにのけぞると、距離感をミスってロッカーに頭をぶつけた。
「待って、面白い。」
頭をさすっている私を見ながら星野君は笑っている。
「心配とかないんですか?」
「心配ももちろんあるけど、それより面白さが勝ってる。」
「酷い!かなり痛かったんだからね?」
「いや、自分でやったんじゃん。」
「そうだけど...」
ごもっともな事を言われて黙ると、また星野君は笑った。シラフでこれなのだから、お酒を飲んだら笑い上戸になりそうだ。
「草辺さんって面白いね。」
「そんな事ないよ。ただ星野君の笑いのツボが浅いだけじゃない?」
「まぁ、笑いのツボは人それぞれだからね。俺は草辺さんの事面白いと思うよ。それに...」
星野君は一旦そこで区切ると、今まで見た事ない笑顔でこう言った。
「俺は自然な草辺さんの方が好きだよ。」
─仮面─を被ってない私を好きだと言ってくれたのは星野君が初めてだ。それが嬉しくて目が潤んだ。
ずっと本当の私を見て欲しかった。アニメオタクで、恋愛話には興味がない私の事を。両親がつまらないと言った私の事を。
「え、俺なんか変な事言った?」
私が泣きそうだからだろう。星野君は慌てていた。でも今は星野君に構ってる余裕はない。泣かないようにするので精一杯だから。
「ねぇ、本当に大丈夫?もうすぐ休憩終わるけど...」
顔を隠して必死に涙を耐えていると、星野君は現実を突きつけてきた。もうそんな時間か。
「うん!もう大丈夫。さー、働くかぁー!」
いつもの─仮面─を被って立ち上がり、事務所のドアノブに手をかけた。その時。
「あ、ねぇ、連絡先交換しようよ。」
星野君が少し声を張りながら言ってきた。インスタを知っているのに、なんの連絡先を交換すると言うのだろう。
「ほら、インスタは知ってるけど、ラインの方がアニメの話するのにいいかなって。」
「あぁ、それもそうだね。」
私はインスタの通知を切っているから、メッセージがきてもすぐにはわからない。その分、ラインだと通知がきたらすぐにわかるからアニメの話をするにはもってこいだろう。
少し休憩時間を過ぎていたがラインを交換した。
「これでいつでもアニメの話出来るな。」
「うん!すっごく嬉しい...」
今までアニメを好きな人とリアルで出会った事がなかったし、このアニメを好きって言う人は尚更だ。インスタとかにはアニメが好きな人が沢山いるのに、私の身の回りにはいないから本当にこの世にアニメ好きがいるのか疑っていたぐらいだ。だから今、目の前に同じ物を好きな人がいて心から嬉しい。
「俺も嬉しいよ。改めて、これからもよろしく。」
「うん!よろしく!」
多分その時していた私の笑顔は─仮面─を被っていない、素の私だったと思う。
そんな私を見て、星野君は目を細めていた。
それから私達は急速に仲良くなった。ラインを交換した直後はまだぎこちなかったが、星野君が毎日のようにアニメの話をしてくるからぎこちなさなんてどこかにいった。
とにかく星野君とアニメの話をするのは楽しかった。好きなキャラは違うものの、好きなシーンや好きな表情の好みは似ていた。だから気を遣う必要がなくて楽だった。
星野君の前では素の私で居れた。ずっと─仮面─を被っていた私の前に現れた一筋の光。この光がずっと私だけを見てくれてればいいのに。次第にそう思うようになっていた。
それが恋だとは、まだ色々と未熟な私にはわからなかった。
そんな風に過ごしていると、あっという間に夏休みが終わった。元々、公立は私立より夏休みは物理的に短いのだが。
「葉月ー、久しぶり!おはよー!」
首に汗をたらしながら歩いていると、友人が後ろから抱きついてきた。ただでさえ暑いのにやめて欲しい。
「おはよー!元気だった?」
だがそんな事言えるはずもなく。いつも通り─仮面─を被って友人に声をかけた。
「めっちゃ元気だったよ!そういう葉月は?」
「私もめっちゃ元気だよ!夏休み中はほぼ毎日バイトしてたぐらい!」
「すごっ!私も葉月を見習わなくちゃなー」
「ははは...」
友人と話していて気づいた。─仮面─を被るのが下手になっている事に。友人は気づいていなさそうだが、長年─仮面─を被っている自分にはわかった。それは多分夏休み中、ほぼ星野君としか関わっていなかったからだろう。
どうしよう。このまま─仮面─を被れなくなったら。学校でひとりぼっちになるのは心にくるものがある。せめて卒業までは頑張らないと。
「それで葉月はさ、高校卒業したら何したいの?」
「自分の学力にあった大学に行こうかな。それでやりたい事見つける。」
─仮面─を被れなくなる危機の事を考えてて、話なんて何も聞いていなかったから、どうして進路の話になったのかわからない。だからそれらしい事を答えた。どうせ卒業してしまえばこの子とも関わらなくなるし。
「そっかー。葉月、頭いいもんね。」
「はは、ありがとう!」
「あ、ねぇ聞いて!夏休み中彼氏がね...」
それから話は恋愛話になり、ただ頷くだけになった。
あぁ、早く星野君とアニメの話をしたいなぁ。
「じゃあまた明日ねー!」
「うん、また明日!」
学校が午前で終わり、友人と別れた私はアニメショップに向かった。今日から好きなアニメの新グッズが出るのだ。
小走りでショップに向かい、ショップに入ってからもお目当ての場所まで小走りした。
「うわ...最悪...」
なのに売り切れていた。私の好きなキャラは大体最後まで売れ残るのに。今回はビジュが良かったもんな。それに最近人気になってきてるし。
推しの良さが世間にわかってきてるのはとても喜ばしい事だが、私が昔から好きだったのにと我ながら面倒臭い事を思った。
「あれ、草辺さん?」
ない物は仕方ないから帰ろうと踵を返すと、もう聞きなれた声が後ろから聞こえた。
「星野君。」
振り返ると、星野君が制服姿でアニメショップの袋を持って立っていた。学校帰りにそのまま来たのだろう。
「もしかしてグッズ買いに来たの?」
「うん。欲しかったやつ全部売り切れてなかったんだけどね。」
「今回売り切れるの早いよね。俺も欲しかったの全部は買えなかった。あ、そうだ。これあげるよ。」
そう言いながら袋から出したのは、私が欲しかったキャラのアクリルスタンドだ。
「え!買えたの!?なんで!?」
「来たら残り一個で、草辺さんに会ったらあげようと思って。」
「えぇ...優しすぎる...」
「草辺さんのおかげで最近、アニメの話できて楽しいからさ。そのお礼。」
「それ言ったら私もだよ。だから受け取れない。」
受け取るのに戸惑っていると、星野君は無理矢理手に握らせてきた。
「はい、これで草辺さんの物。」
「ありがとう...あ、じゃあお金払うよ。」
元々自分で買うつもりだったからお金は持っている。カバンから財布を漁っていると止められた。
「本当に大丈夫だから。お礼だと思って受け取って。」
「私もお礼したい。」
「あ、だったらお昼奢ってよ。まだ食べてないでしょ?」
言われてみたら学校終わりにすぐここに来たから、ご飯など食べていない。食欲より推しの事が優先だからすっかり忘れていた。
「食べてない。」
「ならそうしよう。どこで食べよっか。あ、今日バイト入ってる?」
「入ってる。なんなら連勤。」
「何時から?」
「十六時。てかシフト一緒だよ。」
「え、そうなの?」
「うん。ちゃんとシフト見た方がいいよ。」
「まあまあ。ならそのままバイト先で食べる?」
「やだ。働く以外であそこに行きたくない。」
「ウケる。んー、だとしたら俺がよく行く所でもいい?ここから近いからさ。」
「いいよ、どこでも。」
「ありがと。あー、腹減った。」
先を歩き始めた星野君の後を追った。横に並ぶ事はせず、少し後ろを歩いた。
「なんで後ろ歩くの?」
途中、横断歩道が赤で立ち止まると聞かれた。
「なんとなく。」
そう濁した返事をしたが、知り合いに見られてカップルだと思われたくなかったからだ。私と星野君はあくまで─友達─なのだから。
「そっか。」
それに気づいているのかいないのか。星野君はそれ以上追求する事なく青になった横断歩道を歩き始めた。私もその後を追うようについて行った。
「ここだよ。」
それから歩く事五分。星野君の行きつけに辿り着いた。
「ラーメン屋なんだね。」
「そう。ここ、安いのにめっちゃ量多くて、しかも美味しいんだ。」
「へぇー」
見るからに個人店という感じだが、人は結構いるようだ。多分、お店のドアに貼ってあるテレビで紹介されたというポスターがあるからだろう。テレビを観ない私でもタイトルぐらいは知っている番組で紹介されたのだから、人も多くて納得だ。
「ラーメン嫌いだった?」
ぼーっとお店を眺めていると星野君が顔を覗き込みながら聞いてきた。
「え?そんな事ないよ。休日に自分で作るぐらいには好きだよ。なんで?」
「なんかお店を見た時の反応が良くなかったからさ。」
「え、ごめん。」
星野君の前ではアニメの話以外の、プライベートでも─仮面─を被る事を忘れてしまう。気をつけないと、今みたいに人を不快にさせてしまう。─仮面─を被っていない私は、無愛想でつまらないのだから。
「謝らなくて平気だよ。さ、中入ろ。」
「うん...」
星野君は本当に優しい。これが他の、友人や家族だったら、嫌な顔をされて気まずくなる。
どうして星野君は本当の私を見ても嫌な顔せず、むしろ楽しそうにしてくれるのだろう。
その理由を聞こうと思えば聞ける。だけど聞いたら今の関係が壊れてしまいそうな気がして怖い。
やっと出会えた、─仮面─を被らなくても関われる人。それを今、手放す訳にはいかない。もう少し私自身が強くなってから理由は聞こう。
「草辺さん、どうする?」
「へぇ?」
完全に一人の世界に入っていて、星野君の声でやっとこっちに帰ってきた。だからなんで聞かれているのかわからなくて変な声が出た。
「今二人席が満席で、カウンターなら一つ空いちゃうけど座れるって。どうする?」
星野君の問いかけでお店を見渡す。人が沢山居て、早く決断しないと後ろで待っている人も困ってしまう。
「カウンターで大丈夫だよ。」
「そう?ならそれでお願いします。」
「ありがとうございます。こちらです。」
店員さんに案内された席は、頭の毛が少なくて少しふくよかなサラリーマンを挟んだ席だった。
「こちらお冷です。注文の際はカウンターに向かってお声掛けください。」
「ありがとうございます。」
お冷を受け取って私が一番端、星野君がサラリーマンを挟んだ席に座った。サラリーマンは料理が来たばかりみたいで、帰る素振りはない。
一つ空いて座ったものの、私はここに来た事がないからどういうメニューがあるかわからないし、どうトッピングしたらいいのかもわからない。
「君、わからないの?おじさんが教えてあげるよ。」
私がおろおろしているからだろう。隣に座っていたサラリーマンが声を掛けてきた。親切心なのだろうが、ラーメンを食べ終えたばかりで汗をかいていて、それがいっそう怖さを増していた。
「あ...大丈夫です。調べるんで。」
素っ気なく言い、これ以上話しかけられないようにスマホを開いたのに。
「調べるより常連の人に聞いた方が確かだよ。おじさん、よく来るからおすすめ沢山あるから。」
サラリーマンは少し腰を浮かして近づいてきた。それに便乗して太ももを触ってきた。
怖い。気持ち悪い。誰か、助けて。
よくニュースとかで痴漢をされて、被害者は声を出せなかったというのを見て、どうしてだろうと不思議だった。でも今、やっとわかった。出したくても出せないのだ。身体が声を出す事を忘れたみたいに。
「何やってんだよ、おっさん。」
スカートに手を入れられそうになっていると、星野君がサラリーマンの肩を掴んだ。その顔はかなり怒っていて、サラリーマンは震え上がった。
「いや、その...わからなそうだったから教えてあげようかと...」
「じゃあその手はどう説明すんだよ。」
サラリーマンの手は未だにスカート付近にある。焦っているのか手汗をかいていてよりいっそう気持ち悪い。
「ちっ、なんだよ、彼氏持ちかよ。だったらこんな所来んなよ。貧乏人が。」
「おい、待てよ!」
サラリーマンはそう吐き捨てると荷物を持って急いで出て行った。星野君が追いかけようとしたが、止めた。
「いいよ、追いかけなくて。」
「でも...」
「助けてくれてありがとう。怖くて声出せなかったから助かったよ。」
「それなら良かったけど...気づくの遅かったよな。本当にごめん。俺が誘ったばかりに怖い思いさせちゃった。」
「もー、全然大丈夫だよ!それよりほら、早く食べよ!おすすめ教えてよ。」
本当は手が震えている。だが星野君にこれ以上自分を責めて欲しくなかったから─仮面─を被って明るく言ったが、星野君の表情は晴れない。それでもにこにこしていると、折れてくれた。
「...わかった。なら店員さんに事情話して席、隣にしてもらうよ。」
「大丈夫だよ...って行っちゃった...」
星野君はすぐ近くにいた店員さんに事情を話し、店員さんが上の人に言いに行き、素早く対応してくれた。
「お客様に大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。今後、気をつけていきます。今回の食事の料金は二名様とも、いただきません。」
「そんな...申し訳ないです。」
店長らしき人が出て来て、私達に深く頭を下げた。
この忙しい時に席を隣にしてくれただけではなく、料金も貰わないと言われてしまい、どうしたらいいかわからない。隣に座った星野君をチラリと見る。でも星野君は私とは違って涼し気な表情だった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
素直に頷いていて、店員さんが居なくなった後ひっそり聞いた。
「いいの?料金払わなくて。」
「店長さんがいいって言ってるんだからいいんじゃない?だって草辺さんが怖い思いしたのは事実だし、俺からすれば足りないぐらいだし。」
「うわぁ...こわー」
星野君は見た目ではわからないが、かなり怒っているようだ。逆撫でしないよう、これ以上何も言わなかった。
「あー、美味しかった!」
あの後私は星野君におすすめの味噌ラーメンを注文し、味玉とチャーシューをトッピングした。今まで食べたラーメンで一番美味しくて、リピしようと決めたぐらいだった。
「それは良かったよ。あのじじいさえいなければもっと良かったのに...」
星野君はまだ怒っているようだが、私はそうでもない。確かにやられた直後は怖かったが、ラーメンが美味しくてそんな気持ちはどこかに行った。それを世では馬鹿と言うのだろう。
「まあ確かに、あんな事があったけどラーメンは美味しかったから!連れてってくれてありがとう。」
─仮面─ではなく心からの笑顔でお礼を言うと、怖い顔をしていた星野君は目を細めた。
「ありがとう。今度はもっと空いてる時に行こう。」
「そうだね。あ!私奢ってない!どうしよう。」
元々、お昼を二人で食べる事になったのはアクリルスタンドを貰ったお礼がしたかったからだ。色々あってすっかり忘れていた。これでは私はアクリルスタンドを貰って、ただ助けてもらっただけの人だ。
「あー、じゃあまた今度奢ってよ。」
「あ、そっか。従食奢ればいいね。」
「いや、今日みたいにまた二人で出かけて奢ってよ。」
「え?」
驚いて星野君を見る。だが星野君はそんな私を不思議そうに見ている。
「俺、変な事言った?」
「うん。え?だって...」
─男女と二人で出かけるなんて、変じゃない?─
と聞こうとしたが、男女とかを気にしているのは自分だけで、星野君はそんな事一ミリも気にしていないだろう。なんだか自分ばかりそういう事を気にしていて恥ずかしい。
「ん?」
星野君は私の考えている事がわかっているみたいで、わざとらしく首を傾げた。これが女子だったらあざといとか言われるのだろう。
「んーん、なんでもない!そうだね、また二人で出かけようね。どこ行こっか!」
「まあ実際、俺ら受験生だからしばらく無理だけどね。」
人が明るく言っているのにこの人は現実を見せてくる。なんて性格が悪い。
「星野君って性格悪いって言われない?」
「言われない。」
「じゃあその人の目がおかしいんだね。」
「酷い事言うね。そういう草辺さんはなんか言われないの?」
「言われませんけど?星野君以外の人と関わる時は言動に気をつけてますから。」
「俺、それは喜んでいいやつ?」
「星野君の取り方によるんじゃない?」
いつだかの星野君の言い方を真似してみた。そして二人顔を見合わせて笑った。さっきまで隣同士で歩くのをためらっていたのに、今は隣で歩いている。もうカップルに間違われてもいいと思った。
「草辺さん、そっちの方がいいよ。いつもの貼り付けてる笑顔より。」
「...もっと自分自身に自信がもてたら皆にもこの顔で接するようにするよ。だから今は星野君の前でだけ。」
機嫌が良かった私はいつも誤魔化す所を誤魔化さず、本当の事を言った。それに星野君は全部気づいてる。そんな人に嘘をついても意味がない。
それにもう星野君は本当の私を知っても馬鹿にしたり、逃げたりしないってわかったから。
「そっか。じゃあ俺は貼り付けてる笑顔じゃない草辺さんを見る、第一号なんだね。」
「そうそう。家族にもこの顔は見せてないからね。」
「そうなの?疲れない?」
「今までは疲れたって思う事もあったけど、今は星野君と話せるからそこまでじゃないよ。」
「そっか。役に立てたようでなにより。」
「本当に感謝してるよ、ありがとう。星野君と再会できて、本当に良かった!」
「俺も...」
「俺も?」
「いや、やっぱりなんでもない。」
そう言い、そっぽを向いてしまった。その横顔は赤い。
何か変な事を言ったか言動を思い返すと、かなり恥ずかしい事しか言っていなかった。私も恥ずかしくなってしまい、星野君を見れなかった。
しばらく無言のまま歩いていると、バイト先に着いた。
「一緒に入るとなんか変だから私、近くの公園で時間潰してくるね!」
「え、あ、うん...」
走って星野君から離れた。あれ以上一緒に居たら心臓が止まってしまう。今でさえバクバクしてうるさいのに。
走って三分の所にある公園に入ると、人が一人も居なくて閑散としていた。私が保育園生の時は外で遊んでいる子が大半だったのに。今の親達は子供を外で遊ばせたくても、この暑さで遊ばせる事が出来ないのだろう。だから今の子供は体力がないと年配の人に言われるのだろうな。けれどこの暑さで命より体力をつける事を優先する人が居たら、それはそれで叩かれるのだけれど。
そんな普段なら考えない事を考えながら木の下にあるベンチに座ろうとしたが、ブランコが目に入ってしまいそこに座った。ブランコなんて、何年ぶりに乗ったのだろう。
誰も周りに居ない事を確認して少し漕いでから、カバンから星野君から貰ったアクリルスタンドを取り出して写真を撮り、インスタのストーリーに載せた。結構フォロワーさんもこのアニメのアクリルスタンドを載せていて、全部にいいねをつけた。
そんな事をしているといい時間になり、バイト先に戻った。夏休み明けのファミレスはそれほど混んでいないだろう。
「おはようございまーす...」
「もー!悠君面白い!」
「夏音さんもね。」
事務所に入ろうと扉を少し開けたら、そんな声が聞こえてきた。星野君と夏音ちゃんの声だ。
入りずらくて扉を閉めた。その手は震えている。
この二人、下の名前で呼び合う程仲良かったっけ。私ですら星野君の事、下の名前で呼んだ事ないのに。
「悠君、こことかどう!?」
「いいね、楽しめそう。」
扉の向こう側で二人は楽しそうに話している。話しぶりからして、どこか出かける計画を立てているのだろう。
もしかしてこの二人、付き合ってる...?そうだとしたら下の名前で呼び合っているのも納得だし、出かける計画を立てていてもおかしくない。
よくよく考えてみればこの二人は一緒にいる時のが多かった。シフトが被っているのも多かったし。
ああ、なんだ、彼女居たんだ。それなのに偶然とはいえ、私と二人でご飯を食べたら浮気ではないか。それにラインのやりとりも毎日のようにしていた。それも嫌な人は嫌だろう。
「あれ...?」
気づいたら私の目からは涙が溢れていた。なんで泣いているの?別に星野君が誰と付き合おうが自由ではないか。なのに一人で勝手に傷付いて泣くのはおかしい。
そこで私は星野君の事が好きなのだとわかった。
「あ!そろそろ時間だね。また後で続きは話そー」
「そうだね。」
扉の向こうでは二人がこちらにやってきそうな雰囲気になった。私は急いで裏口からバイト先を出た。この顔を見られるのは嫌だし、不可抗力と言えど、盗み聞きしていたのがバレるのも嫌だった。
「あー、どうしよう...」
そのまま戻るに戻れなくなった私はバイトをバックれて、さっきまでいた公園に戻って来た。スマホにはバイト先からの着信でいっぱいだ。電話に出て、体調が悪くなったとか誤魔化せばいいものの、それも出来ないぐらい星野君に彼女が居た事にショックを受けていた。それも私の仲良しの子と。それがよりいっそうショックだった。
これからどうしようか。今日、バイトをバックれて明日、何事もなかったかのようにバイトに行ける程心臓に毛が生えていない。
もうこのバイトを辞めようか。明日、なんとか行けたとしてもいつかはあの二人と会う事になる。その時私はいつもみたいに─仮面─をつけて関われるだろうか。
...多分無理だ。どちらかを見た瞬間、泣いてしまう。それ程、星野君が好きだから。好きだから、私以外の人と付き合ったなんて信じたくない。
こんなに星野君が好きだったなんて自分でも驚いている。人って、失って初めて気づくんだな。
「はぁ...帰るか...」
いつまでも公園にいる訳にもいかないから、重たい腰を上げて立ち上がった。三十分前は楽しい気持ちでいっぱいだったのに、今は辛い気持ちでいっぱいだなんて。人生ってどうしてこうも上手くいかないのか。
「新しいバイト探すか...」
とにかく、新しくバイトを探そう。そして今のバイトは適当な理由をつけて辞めよう。こんな事で逃げてしまっていいのかと思う所もあるが、今は自分の心を優先しよう。
それから私はすぐに新しいバイトを見つけた。また飲食店だが、この際働ければどこでもいい。一人暮らしをする為の費用を稼がなければいけないのだから。推し活の費用も。
星野君達が居るバイト先にバックれた事を謝り、辞める有無を伝えると、長期休暇でもいいから在籍はしてくれないかと言われた。断ろうかと思ったが、星野君は高校を卒業したらここのバイトを辞めると言っていた。だったら別に長期休暇でもいいやと言う事で辞めるのは保留になった。
あれから星野君から何度も連絡がきた。だけど全部無視した。これで私が何かしら返事をしてしまえば、夏音ちゃんからしたら浮気になってしまう。それに私自身も星野君の事を諦められなくなる。中途半端な優しさは誰もいい思いはしない。星野君は一体、誰の事を大事にしたいのか。
...いや、もうそんな事考えるのはやめよう。星野君の事を諦める為にバイトを長期休暇にしたのに、考えたら長期休暇にした意味がない。それにこれから、大学受験に向けて勉強を真剣にしなければいけない。失恋したからといって時間は待ってはくれない。頑張らないと。
そう自分を奮い立たせながら毎日を過ごしていると、あっという間に年を越していた。この間まで何しても暑かったのに、今は沢山動いても震える程寒い。本当に時の流れは早い。
「葉月ー!ヘルプー!」
年を越して初めての登校。いつもの友人が駆け寄ってきた。この子ともあと何回会えるのか。
「おはよー!どうしたの?」
「大学受験の勉強が全然進まない...どうしよう!」
「なんでよー」
「勉強しようと教科書を開くんだけど、いつの間にかスマホ触ってんの。怖くない?」
「怖いねー。そんな君の為に私が教えてあげるよ。」
「え!いいの!?」
「うん。私も復習になるし。それに私とやった方が集中力続くんじゃない?」
「神さま仏さま葉月様ー!」
「もー、調子いいんだからー」
星野君も受験に向けて勉強してるのかな。それとも、どこかに就職するのかな。友人と話しながら、そんな事を考えていた。
夏から結構な月日が経ったのに、私は星野君の事を忘れられずにいた。むしろ想いは強くなる一方だ。
連絡も、高頻度ではないが未だにくる。全部無視しているが、それでもめげずに連絡してくるのはどうしてだろう。アニメの話がしたいから?だったら夏音ちゃんにすればいいだけの話だから多分違う。
星野君の事なんて考えたくないのに、結局考えてしまう。恋愛ってこんなに辛いんだ。世の中の恋をしてる人って、こんな想いをしているのだったら私はもう恋なんてしたくない。元々、恋なんてしないで推しの事だけを考えて生きていくつもりだったのに、星野君と再会してから予定が狂った。
でも楽しかった事があるのも事実だ。アニメの話や何より、─仮面─をつけていなくても接する事が出来た。私の─仮面─に初めて気づいた人。─仮面─をつけていない私の事を好きだと言ってくれた。そんな風に言われて、好きにならない方がおかしい。
早くにこの気持ちに気づいていれば、違う未来があったのかな。
考えても考えても正解が出ない毎日。それでも受験の日は近づいてきて、もう受験前日となった。
「じゃあまたねー!お互い頑張ろうね!」
「うん!頑張ろー!」
友人と別れて、一人で歩く帰り道。この道も、あと少しでお別れだ。
私は大学が合格したら一人暮らしをする事が決まっている。両親が私の為の貯金をしていてくれたからだ。両親は私がなんて言おうが、高校までしか面倒を見ないつもりだったらしい。早くに一人暮らしをしたかった私には好都合だが、もし私が反対したらどうしていたのだろう。無理にでも一人暮らしさせていたのか。でもそんな事はこの際どうでもいい。それよりも、本当に両親は私の事なんてなんとも思っていなかったという事がわかって複雑な思いだ。
「そういうものだよね...」
頭では理解出来る。だけどそれが心もかと言われると違うみたいだ。みたいだと他人事で言ったのは、そうでなければ今、泣いている自分に説明がつかないからだ。
「草辺さん!!」
...あぁ、この人はいつも私が辛い時、苦しい時に声を掛けてくれるな。
「星野君...」
「どうしたの!?どこか痛い?」
半年ぶりに会ったとは思えない程、星野君は星野君のままだった。
「なんでもない。」
「そんな事ないでしょ。どうしたの?転んだ?」
おろおろとしている星野君に何故か腹が立った。心の隅では会えて嬉しいと思ってるくせに。
「そんなにドジじゃない!ほんとに大丈夫だから。てかなんでここにいんのよ。」
「草辺さんがライン全部無視するから直接話に来たんだ。」
今更何を話す事なんてあるのか。それに、彼女がいるくせに違う女の子と二人で会うなんて最低が過ぎる。
「彼女がいるくせに、直接話しに来たとか馬鹿じゃないの!?」
「誤解だよ。それは...」
「聞きたくない!星野君なんて大っ嫌い!」
「あ、待って...!」
星野君の引き止めを無視して走った。涙で前が霞んでよく見えない。それでも必死に走った。
その勢いのまま家に入り、すぐ自室に籠った。そのまま扉の前に座り、顔を自分の膝に埋めた。
でもなんで今更、直接話に来たのだろう。話したいならもっと早く来れば良かったのに。
やっと冷静になれた私は考えた。でも星野君に会ってしまった疲れなのか、受験勉強の疲れか。そのまま眠ってしまった。
次に起きたのはスマホがけたたましく鳴っていたから。誰かと見ると夏音ちゃんからだった。夏音ちゃんから電話なんて初めてで、何となく嫌な予感がした。
そしてその嫌な予感は的中した。
星野君が、事故で亡くなったと聞かされた。
そして私は思い出した。星野君に言ってしまった言葉を。心から思ってない言葉を言ってしまったのが、最後の言葉になってしまった事を。