君が何度も何度も私の名前を呼んだから

「いつもの場所
 いつもの空気
 あの日どこからか聞こえた私を呼ぶ声
 どうしてかな、
 すごくすごく、、ドキドキしたんだ。」




オレは自分では一応、ごく普通の高1だと思っている。
だけど、人に言わせたらオレは地味な方らしい。
中学時代は、一応弓道部で県大会出場もしたし、高校受験もそれなりに頑張って地元の進学校に合格して、毎日楽しく学校に通ってる。
友人関係も良好だと思うし、賑やかに過ごせてると、、
オレは思ってる。
オレは十河(そごう)朝陽(あさひ)
まあ、確かに名前から想像する人物像に比べたら、、やっぱりオレは地味なのかもしれない。

「あさひー!あ、さ、ひー!今日帰りカラオケ行こうぜーー!!」
終礼が終わるや否や、オレに駆け寄って来たのは
中学からずっと一緒の桐嶋(きりしま)周吾(しゅうご)
オレが地味だと言うならこいつは正反対。
明るさの象徴みたいな奴で声はでかいし、いかにも毎日楽しそうに笑っていて、クラスのムードメーカーだ。
まさに太陽みたいな奴だから、こいつの方が「朝陽」って名前の方がしっくりきたかもしれない。

「周吾、ごめん、今日はちょっと行くとこあるからさ、、」

オレが申し訳なさそうに言うと、周吾は周りがみんな振り向くくらいの声で言う。

「またー!!例のとこで読書する、とかいうんじゃないよなー?あさひっ!」

いや、、そんなでかい声でオレの行動を言わないで欲しい、、と思いながらも

「まあ、そうなんだけどさ」

オレはちょっと周りを気にしながら小さな声で答えた。

「もっとこう、、パーっとストレス発散したいと思わないの?せっかくテストも終わったことだしさ」

声のトーンを一切落とさず、周吾はオレの顔をグイッと下から覗き込むように顔を近づけてきた。

今日は1学期の中間テストの最終日だった。
高校になって初めての定期テストと言うこともあり、
ここ数週間はみんなピリピリしていた。
しかも担任が、なかなかの圧をかけてくるタイプで、
テスト期間を適当にやり過ごしては許されないような空気感を作り出したために、尚更だった。
そんな空気感から、やっと解放された今日。
周りを見渡しても、イキイキした顔でパーっとどこかへ遊びに行こうぜ!と言う、会話があちこちで交わされているのが見える。

オレがそんなみんなと、周吾の顔を交互に見ながら、何か言おうとすると

「ま、でもしょーがねーかー。また今度行こうぜ。」

周吾はニッと笑いながら、左手をひらひらと蝶のように振り、あっさりオレの前から離れて行った。

「おう、またな」

オレが手を振りかえすと、周吾は再び大袈裟なくらいに手を振って笑うと教室から出て行った。

周吾のこういうとこが好きだ。
無理やりとか、詮索とかもない。
かと言って、誘いに乗らないオレを見ても不機嫌になるでもなく、離れていくこともない。
オレはそんな周吾に甘えてるのかもしれないな。

そんなことを思いながら、机に出しっぱなしだった筆記用具を黒いカバンに詰めて席を立つ。
今日は、あそこに行くと決めていた。

「例のとこ」

さっき周吾が口に出した場所。

もうすぐ6月。
少し前まで、鮮やかな新緑に涼しげな風が吹いていて、この季節が一番好きだなぁ…と思っていたけど、昼間はずいぶん暑く感じる時間が増えてきていた。
もう少し、初夏っていうあの爽やかな空気感を感じる時間が長ければいいのに。
最近は暑い夏と寒い冬が長くて、、日本の四季ってやつはどこに行ったんだろうな。
てか、このセリフは田舎のじいちゃんがよく言ってる言葉だ。昔は、春や秋を充分感じられる時期がしっかりとあって過ごしやすかったと。
オレはそんな時代はよく知らないけど、、そんな時代ならもっともっとあの場所で心地よくすごせる時間があったのかもしれないなあ、、。

そんなことをぼんやりと考えながら、「例の場所」へとオレは向かう。
いつからだったかな、中学入ってしばらく経った頃。
まだまだ慣れない中学生活と、入ったばかりの部活でヘトヘトで、だからと言ってすぐに家に帰りたくもなく、あてもなく歩いていつのまにか立っていた場所。
それが、「例の場所」

小さな宝石を一面に散りばめたようなキラキラの水面、そこに吸い込まれていきそうな大きな太陽。
川沿いのその道は、散歩するおじいちゃんや休憩中のサラリーマンが座って缶コーヒーを飲んでいたりはするけど、ほとんど人はいなくてサラサラと水の流れる音が耳に心地いい。
ここには初めて来たわけではなかった。
小学生の頃、友達と自転車でよく走り抜けていた。
だけど、立ち止まってゆっくり見たことはなかった。
ただの日常の景色だったその場所が、急に映画の一場面のように切り取られてオレの目に飛び込んできたようだった。

3段ほどしかない石階段の一番上に腰掛けて、ぼんやりと水の流れとキラキラを見ていると時間が止まったように思えて、なんだか秘密の場所を見つけてしまったような気持ちにさえなった。
どのくらいそうしていたのか、いつの間にか辺りは暗くなっていて、水面の金色のキラキラは、街頭や街の明かりを映してカラフルに輝いていた。

帰り道。
ものすごく心地良くなって、鼻歌まじりで帰ったことを思い出す。
あの日から、あの場所はオレの秘密の場所になった。
秘密と言ったって、みんな知ってる場所なんだけどオレがあの場所に座って1人でゆっくり流れる時間が特別であることは、秘密。あ、周吾にだけはバレてるんだけどね。
こうやって思い返すと、やっぱりオレは地味なのかも。

そういえば、ここで読書を始めたのはいつだったっけ?

読みかけの小説を、厚紙に黄色いリボンを結んだしおりの場所までパラパラとページを進めながら、そんなことを思い出していた。
このしおりは、亡くなったばあちゃんが作ってくれた。
手先が器用で、そこらにある材料ですぐ何でも作ってしまうばあちゃんが、初めて分厚い本を読み始めたオレに、これを挟んでおきな、と作ってくれたものだ。
ばあちゃんが本を読むといろんな世界が知れていいんだよ、と言ってくれたから本を読むようになったのだ。
小さい頃はたくさん絵本を読み聞かせてくれて、少し大きくなってからも本はたくさん読むといいと言って、よく買ってくれた。

秘密の場所でも、最初はぼんやりと水面を眺めているだけだったけど、いつからか小説を開いて読むようになったっけ。

「目を閉じてごらん?絵本の世界が見えてくるだろ?」

ばあちゃんにそんなことを言われてからか、
昔から、文章を読むとその描かれた光景が脳裏に鮮やかにうかぶ。
「緑の草原」という言葉が出てくれば、柔らかな草の感触を足元に感じるし、「風がサーっと」と書かれていれば風が木々を揺らす音が聞こえてくる。
いつのまにか、小説の世界に足を踏み入れたかのように、はっきりと脳裏に浮かぶのだ。
だから、知らない間に随分と時間が経っていて、気づくと真っ暗、なんてこともよくある。


「うわっ!!」

思わず大きな声がでた。
小説を読みながらいつものように、その世界に入り込んでいた。

舞台は図書館で、すこし古びた椅子が軋んだような音でキィキィと鳴り、本の特有の香りに包まれているその場所には、窓からオレンジ色の光が差し込んでいる。誰かがこっそりと小さな声で話している声が聞こえて、、周りを見渡した瞬間。


現実世界にグイッと引き戻されたような気がした。

「ごめん、、」

驚いて声を上げたオレに小さな声で謝っている女性。
オレの真横に知らない女性が座っていた。
この状態が、小説の世界なのか現実なのか一瞬分からなくて、頭が混乱した。

「え?あ、いや、えっ!?」

あまりに至近距離だったから、オレの心臓はバクバクと音をたてて、「ハッハッハッ」と軽く走った後のような息遣いになった。


よく見ると、女性はオレより少し年上だろうか。
謝った後は少し困ったように俯きながら、それでもオレの至近距離で座ったまま動かない。

「あ、、あ、、の、、」

情けなくも言葉が出ない。

「何、読んでるの?」

オレがモゴモゴしていると彼女の方から声をかけて来た。

「ハァッ、、、」

息を吸い込みすぎて変な声が出た。

「プッ、、」

女性はちょっと吹き出して、オレの顔を覗き込んだ。

「これっ、、」

オレはどうしていいかわからなくなって、読んでいた小説をグイッと彼女の方につきだす。

「ふーん」

彼女はそう言って小説を受け取ると最初のほうのページをぱらりぱらりとめくりながら、

「主人公の名前は?」とたずねる。

「な、な、名前出てこないんだ」

やっと言葉が出た。

今読んでいる小説はすべて「私」「あなた」の1人称、2人称で語られていて、主人公の名前は出てこない。
名前が出てこないから、読み手によってかなり主人公の印象は違うかもしれないなあ、と思う。

「名前、ないんだ。」

彼女は不思議な顔をしてもう一度オレの顔を見た。

「うん」

「そっかー、じゃあまたね」

突然、彼女は立ち上がり小説をオレの手に返すと手を振って、くるりと背を向けた。
そのまま、走り出したかと思うとあっという間にどこかへ行ってしまった。


「ん、、すーーーぅぅ、はぁあああーーっ」

オレは。
今まで上手く吸えていなかった空気を思い切り吸い込んで、吐き出した。

「てか、、誰、、だよー」

思わず口に出た。
いきなり真横に座って来て、話しかけて来て、いなくなって。

パーソナルスペースって知らないのかよ!

心の中では毒付いてはみても、実際はあたふたしすぎて何にも言えなかった自分が情けなくもなった。
名前くらい聞けただろ、誰ですか?くらい言えただろ。
てか、あんなに至近距離て事は知り合いか?
周吾なら、初対面でも仲良くなったんだろうなあ。
なんか、頭の中がごちゃごちゃしていろんな事が浮かんでは消えた。


翌日。

「それはー、ナンパってやつじゃないですかー?」

昼休み。周吾がわざとらしくオレにくっついて座り、ニヤニヤしながらそう言った。

「ナンパ?」

周吾から出た言葉が、オレにはピンとこなくて繰り返す。

「だっていきなり声かけてきたんだろ?知り合いでもないのに」

周吾はオレの机の上の食べかけの弁当チラチラ見ながら言う。続けて

「いいなー。可愛かった?」

そう言ってにやっと笑った。
周吾はとっくに食べてしまった菓子パンの袋をくしゃくしゃに丸めて離れたゴミ箱に投げ入れる。
惜しくも、ゴミ箱には入らず周吾は「クソッ」と小さくつぶやいて席を離れた。

「可愛いっていうか、、、」

オレはあの時の光景を思い出す。
髪の毛は肩くらいだったかな、顔は、、、

光の加減か、オレがあたふたしたからか、、
顔が全く思い出せない。

「覚えてない」

オレがそう言うと、周吾は「なんだよー!」と大袈裟なくらいのけぞって見せた。

「あさひはさー、彼女欲しくないの?」

オレは彼女ほしいよー、と周吾はそう続けながら机に突っ伏した。

彼女かー。。
中学生の時に同じ弓道部の同級生に告白されて、まあよく話すし仲もいい方だったからオッケーして付き合ったこともある。付き合ってた、とは言っても部活帰り一緒に帰ったり、毎日連絡を取り合ったり。休みの日に彼女の行きたい場所に行ったり。
それぐらいだったなー、、1年くらいはそんな感じだったけど、いつの間にかあまり学校意外で会わなくなり、部活引退したら、受験のこともあって自然消滅みたいになっていった。
「私たちって、まだ付き合ってるんだっけ?」
いつだったか、彼女からそう言われて
「あ、いや、えっと、、」と口ごもった時、
「もう終わってるよねぇ!」と笑いながら肩をバシバシ叩かれて。
あれが、確実に終わった瞬間だったのか、彼女の中ではとっくに終わってたのか。
分からないけど、オレの彼女だった子は今までその子だけだ。
だけど、好きだったのか?と聞かれたら即答できないかもしれない。
始めて手を繋いだ時は、ドキドキもしたし毎日のやりとりや電話も楽しかったけど。
オレってやっぱり冷めてんのかなあ。

「ま、今度会えたらちゃんと顔見とけよー!」

昼休みの終了を知らせるチャイムがなると周吾はさっさと自分の席に戻って行った。
オレはあわてて残りの弁当をかき込んで、弁当箱をしまう。詰め込んだ唐揚げがうまく飲み込めなくて、水筒の水で流し込んだ。

午後1の授業は数学。
ただただ、淡々とテキストの問題を解かせては黒板に回答と説明を書いていくスタイルの先生。つまらないと言ったらなんだけど、単調な授業。
特に午後からの数学は頭が回らない。
テストも終わってなおさら、集中力が続かない。

「ふーっ、、」

窓ぎわ後ろから2番目という席のせいもあり、オレはいつの間にかうとうとしていたらしい。





「にゃぉー」

か細い子猫の声

少し汚れてるけど白い子猫

チリンチリン♪
首に小さな小さな鈴をつけて近寄ってくる

「お、久しぶりじゃん」

撫でようと近寄った瞬間、ガタンと体が揺れた。




ビクッとして顔を上げると黒板にひたすら数式を書き並べている、教師と目が合った。
何も言わず、しばらくこちらを睨んだ後、再び教師は黒板の方を向き、カッカッカッと軽快なチョークの音でリズムを刻むように書き始めた。

やべ、寝てたー。

周りをゆっくりと見渡すと自分だけではない。
数人の生徒が大胆に机に顔を伏せて寝ている。
周吾はめずらしく起きて、なにやら机の下でコソコソやっている。

「ふーーっ、、」

もう一度大きく息を吐いて、オレは窓の外を見た。
教室の窓から見える体育館の屋根で、鳩が2匹仲良く寄り添っている。鳩は一生同じパートナーと添い遂げるんだって、ばあちゃん言ってたな。
そんなことを思いながら、全く頭に入ってこない計算式をノートに書き写してチャイムを待った。

6時間目も同じく。
引き続き、全く頭に入ってこない物理の公式をぼんやりと聞きながら、事務作業のようにノートに書き写し時間をやり過ごした。

「じゃあな、あさひ」

周吾は終礼が終わるなり教室を後にした。
中学の時はサッカー部でバリバリやってたのに、高校に入るなりいきなり陸上部に入部した周吾。
どうやら、サッカー部時代の足の速さを買われて、陸上部の先輩からどうしてもと声がかかったらしい。
サッカーも楽しそうにやってたのにいいのか、と訊ねるとオレは足が速いだけでボールのコントロールはイマイチだったからな、と笑ってみせた。
オレは、というと高校に入ってからは何も部活に入らなかった。弓道部がなかったから、というのもあって特にやりたいこともないな、、と思ってるうちに今日まで来てしまった。

同じく部活に入っていない奴らも、塾だのバイトだのとバタバタといなくなりオレは1人席を立つ。

オレって寂しい奴ってやつか?

一瞬そんな考えが頭をよぎった。

確かに学校と家を往復して、特に何もせず毎日過ごしてるオレって、、なにやってんのかな。
両親は、特に何も言わない。
昔からやりたいことをやれ、というだけで何かを強制されたこともない。

やりたいことを、、、

オレの足はいつの間にか、あの場所へ向かっていた。

そういえば、最近見ないあいつ。
どうなったのかな。

5時間目のうたた寝のせいで見た夢の中に現れたあいつ。初めて会ったのいつだったっけ。

あの場所に着くと、いつものように石階段には座らずにその辺をゆっくり歩き回る。
木の下や、草むら、あいつがいそうな場所をあちこちのぞいて歩く。

あれは、半年くらい前だったか、、もっと前だったか、、結構寒い日だった。
いつものように石階段に座って、、。
確かあの日は定期テスト前で。
受験を間近に控えて自分でもピリピリしてたのを覚えている。思うように進まない勉強にもやもやして、ただただぼんやり水面を眺めていた。

そんな時

「にゃぁ、、」

か細い声とチリンチリンという澄んだ音がして、気づくとオレの横に小さな白い子猫が擦り寄って来ていた。
首に小さな鈴をつけた細いリボンが結ばれていたから、誰かの飼い猫だろうか。

「どこから来たんだよ、お前」

子猫はまるでオレの飼い猫のように膝によじ登ってきてちょこんと丸くなった。

「寒いのかー?」

オレは両手でそっと子猫を包み込んだ。小さくて力を入れたら潰れてしまいそうに思えた。
どのくらいそうしていたのか、子猫はオレの手の中で目を細めて気持ちよさそうにうとうとしている。

「早くおうち帰んなー。飼い主か、、母さんネコかわかんないけど心配してるぞ?」

そう言って膝から下ろすと、子猫はしばらくオレの体に自分の体を擦り付けてから、チョコチョコッと走ってどこかへ消えていった。

この辺に飼い主の家があるのかな、、?

その時はあまり深くは考えなかったけど、その日以来時々その子猫は姿を現すようになった。
最初につけられていた小さな鈴とリボンはいつの間にかなくなっていて、真っ白だった毛も少しずつ汚れていた。

「お前飼い猫じゃなかったのか、、?」

それでもしばらくオレと戯れた後はどこかに消えていくから帰る場所があるのかな、と思っていた。
だけどオレにとってその子猫、、とはいえすぐに体は大きくなってきたけど、そいつと戯れる時間は結構楽しみな時間になっていて、いつしかそこに行くと姿を探すようになった。会うたび少しずつ痩せていってるような気がして、途中からは猫のおやつを買って行って食べさせてみたりもした。


そんな昔のことを思い出しながら、キョロキョロと辺りを見渡す。

そういえば、最近全然見かけなくなったなあ。
最後に見たのはいつだったのか、オレがこの場所に来る時間が変わったから会わなくなったのか、それとも誰かに拾われて飼ってもらえるようになったのかな。

しばらく歩き回ってみたけれど、あの白い姿は見えなかった。

オレは探すのをあきらめていつもの場所に座る。
小説を取り出して開いて目を落とした。
けど何となく、気持ちが乗らなくて同じページの文字を行ったり来たり。
しばらく忘れていたはずなのに、猫のことが気になって仕方なくなった。

「ねえ」

突然頭上から降ってきた声に、体がビクンとなる。
振り向くと、昨日の女性がオレを見下ろしていた。

「ごめん、またビックリさせた」

女性はニコッと笑うとまたオレの横に座る。

-- 次あったらちゃんと顔見とけよー  --

急に周吾の言葉を思い出して、彼女の顔をマジマジと見てしまう。
くるくる動く大きめの目がニコッと細くなってオレを見ていた。
慌てて、俯いて視線を外す。

「昨日の本の続き?」

彼女は小説を指差してそう言った。

「あ、うん」

「主人公、名前、ないやつね」

彼女はそう言うと、また笑った。

「あなたには、名前有るんでしょ?」

続けて彼女は真剣な顔をしてそう言うと、再びおかしそうに笑った。

「そりゃ、あるよ」

オレが真顔で答えると

「私はね、すず」

彼女は自分の鼻を指で指しながらそう言った。

「すず、、?」

「すーず!すず!名前。私の。」

「あ、ああ」

「キレイな音がするあれだよ。鈴ね」

彼女は右手で、鈴を鳴らすような仕草をしながらそう言った。

「いい名前でしょ、気に入ってるんだ」

鈴は、両手を体の後ろについて空を見上げながら、嬉しそうに言った。

「で?」

そのままの体勢で鈴が言う。

「で?って?あ、うんいい名前だね」

オレが答えると、

「ち、がーうよっ!」と鈴はオレの方へガバっと向き直った。

「名前、あるんでしょ?」

そう言われて初めて自分の名前を聞かれてることに気づく。

「あ、オレか。オレの名前は朝陽。十河 朝陽」

「あさひー!いい名前じゃん」

「ありがとう」

「でも、、雰囲気的にはあさひってより、夕日って感じだけどね」

鈴は、今にも沈んでいきそうな太陽を指差してそう言った。

「確かに」

妙に納得したオレを見て、

「あ、拗ねた?」

鈴は顔を近づけてきた。

「拗ねてねーし!オレも思ってるよ。朝陽って名前、オレのキャラに合わないって」

「わ、やっぱり拗ねてる!」

鈴はごめんごめんと言いながら、オレの右膝を左手で軽くポンポンポンと3回たたいた。

なんだかもともと友達だったみたいに普通に会話して
ることに気づいて、また周吾の言葉を思い出す。

-- それってナンパってやつじゃないですか --

「これってナンパなの?」

オレは思わず口にしてしまって、「あ」と口を押さえる。

「ナンパ?」

鈴は大きな目を更にまんまるにして、オレの顔を見た。
そして、しばらく首を傾げて考えこみ

「ナンパです」

と答えた。

「え?」

今度はオレが目がまんまるになって鈴の顔を見た。
冗談かと思いきや、鈴は真面目な顔をしている。

「オレ、ナンパされてんの?これ」

「うーん、、だって朝陽は、私のこと知らないんでしょ?知らない女の子がいきなり声かけてきてんだよ?
ナンパ以外になんかある?」

当然でしょ、みたいな顔して鈴がそう言うもんだから、オレは

「そうなんだ、ナンパか」

と納得した。

「こんな素敵な女子がナンパしてます、さて朝陽くんはどうします?」

鈴はニコニコしながらオレにくっついて座る。

「どうしますって、、、」

なんだ、この状況?頭が混乱した。
ナンパなんかしたこともないしされたこともない。
ナンパってこういうもんなのか?
もっと周吾にナンパについて教えて貰えばよかった。
最後は訳のわからないことを反省したりもした。
そして、それとは別に、今、オレの頭の中に全く違う場面が思い出されている。昔見たアニメ映画の一場面。

「鈴ってさ、、」

「うん?」

「あの時のさ」

「うん」

言いかけてやめる。

そもそもそんな事が現実にあるわけがない。
アニメじゃあるまいし、そんなベタな展開起きるわけがないし。そんなこと高1男子が口に出したら、絶対にヤバいやつだと思われる。

「何?」

言いかけて黙ったオレの顔を不思議そうな顔をして鈴が見ている。

でもなー、、鈴って、、偶然にしては、、
いや、ヤバい。オレの頭ん中、かなりヤバい。

「朝陽、さっきから百面相みたいに変顔連発してるよ。ナンパされたの、そんな嫌だった?」

「いやっ、そうじゃなくて、んーー」

なんだか、頭がおかしくなりそうだった。
疲れてるんかな、テスト勉強まあまあ頑張ったしな。
睡眠不足が今頃、影響してきたかな、そもそも今のこの状況だけでもかなり変な状況だよな、もしかしてこれ自体が夢か?オレ寝ちゃってる?

ドラマならここでガバっと目覚めて、やっぱり夢かー、みたいなオチかもしれないけど。
どうやら今のこの状況は、現実みたいだった。

「猫、、」

オレは思わずつぶやく。

「ねこ?」

言いかけてまた、思いとどまる。

「あ、いやちょっと前にここで可愛がってた猫がいてさ」

「うん」

「最近見ないなーって」

言いかけた言葉を飲み込んで、とりあえず普通の言葉を言ってみる。

鈴は急に黙ってオレの顔を見た。

「最近見ないからさ、どうしてるかなーってさ」

急に黙るから、オレは早口でそう付け足した。

「どうして今その話するの?」

そう鈴に言われて今度はオレが何も言えなくなった。

そうだよ、なんで急に猫の話なんかしたんだよ。

「あ、あのさ。頭おかしい事言うんだけどさ」

こうなったらもうどうでもいいや、どうせナンパだし昨日まで知らない人だったし。

「鈴ってさ。あの時のさ。」

「うん」

「猫だったりしない?」

言ってしまって、一気に頭に血が上ったようにカーッと熱くなった。
何言ってんだオレ。
目の前の女性にあなたはあの時の猫ですか?って?
ヤバイヤバイヤバイ!頭、お花畑か?
たまたま、名前が一緒なだけだよ!!!

あの時、子猫が最初につけていた小さな鈴の音があまりにキレイで、途中からその鈴はなくなったけど、オレは勝手に「すず」と名前をつけて子猫を呼んでいた。


あまりに恥ずかし過ぎて、顔を上げられない。
鈴、どんな顔してる?怖くて見れない。

「んー、、」

鈴が小さく唸るような声が聞こえた。

だよな、ひいてるよな、ヤバイよなー。
なんでこんな変なやつナンパしたのかと思ってるよな
あー、なんなら呆れてそのまま立ち去って欲しい。
オレはいたたまれなくなり、立ちあがろうとした瞬間。

「そだよ」

という鈴の声がした。

「バレたかー」

「は?」

ゆっくりと顔を上げると鈴が真顔でこっちを見ている。

「そ。私、あの時の猫」

「いやいやいやいや」

あまりに鈴があっさりと言うもんだから、オレの方がつっこむ形になってしまった。


「ないだろ。そんなベタな展開!」

自分で言っといて、自ら完全否定のオレ。

「だって、、そうなんだもん。いつも可愛がってくれたよね?おやつもくれたよね?」

鈴は、少し不服そうにオレを見る。

「じゃっ、、、」

オレは体が宙に浮くような変な感覚を味わいながら、鈴を上から下まで眺めた。

「どんな猫か、、言ってみ?」

鈴は、四つん這いみたいなポーズをして、右手を招き猫のようにくいっと曲げて見せた。
そして、いたずらっ子のような顔でニヤッと笑いながら

「まーっしろのネコだよー!にゃお!」

と言った。

「っ、、?!」

オレは思わず息を呑んでしまった。
確かに、真っ白な猫だった。
途中、少しずつ汚れてきたけど、なんの模様もない真っ白な猫だった。

「信じたかにゃん?」

鈴は、また左手でオレの膝をトントントンとつついてみせた。

信じていいやつ、、?
オレが小学校の低学年くらいまでなら、すんなり信じただろう。昔はアニメの影響もあってその辺に妖怪とかも隠れてるって信じてたし。
だけど、やっぱり歳を重ねるごとにフィクション、ノンフィクションの区別はつくようになってきて現実では起きるわけがない事も分かってる。

ましてや、猫が人間の姿をして現れるとか。
そんなこと、起きるわけがないだろ?

「だって、ほら。鈴って名前。朝陽がつけてくれたんでしょ?」

鈴はもう一度、鈴を鳴らすような仕草をしてみせた。

「信じてよ。いいじゃん。深く考えない!」

「いや、でも、、」

「ま。不思議なことってあるってことだよ。じゃあね、また会おうねっ」

鈴は、早口でそう言うと素早く立ち上がって背を向けた。

「バイバイ!」

振り向かず、そう言った鈴はまたそのまま小走りで去って消えてしまった。
いつの間にか日は沈み、辺りは薄暗くなっていた。
石段を照らす街灯が、取り残されたオレの影を長く伸ばしていた。



あの夜はよく眠れなかった。

鈴が立ち去った後も、しばらくあの場所から動けなくて1ページも進んでない小説を開いたままオレは川の水音をぼんやりと聞いていた。
どのくらいいたのか、ノロノロと立ち上がって家に帰って、シャワーして、メシ食って。

中学生の妹、千夏(ちなつ)がいつものように、オレが先にシャワーしたとかなんとかで、生意気にケンカをふっかけてきたけど、それすら耳に入らず部屋に入った。

「あれは、、夢、、?」

オレは、マジでベタなドラマみたいなセリフを口にして天井を眺めてた。

猫が、、猫の鈴が人間になって会いに来るとか、、あるのか?マジに?

流石に、周吾にも話せないよな、こんな話。

目が冴えて眠れない。

気づくと、真っ暗な窓の外は雨が降っていた。
車のタイヤが水たまりを跳ね上げる水音が、次々聞こえてくる。
オレはベッドの上で何回も体勢を変えながら目を閉じた。

朝方。
いつの間にか眠りについていたのか、気づくと遮光カーテンの細い隙間から眩しい光が差し込んできていた。



 あれから。
数週間が経った。
どうしてもあの場所に行くことができなくて、オレは周吾の部活のない日は2人で寄り道をして帰り、1人の日はブラブラと本屋に立ち寄ったり、珍しくまっすぐ自宅に帰ってみたりして、千夏に気持ち悪がられたりした。

あの場所に行って、鈴に会うのがなんだか怖かった。どんな顔していいか分からない。だけど、会ってもう一度確かめたい気持ちもあった。

「ヤベ、雨降ってきたじゃん」

周吾に付き合って立ち寄ったショップから外に出ると、外は結構雨が降っていた。

「傘持ってねー」

ショップの袋を大事そうに抱えて周吾は空を見上げる。

「梅雨入りしたって言ってたもんな」

さっきまで降りそうな空じゃなかったのに。

「走る?」
「あ、オレ、タオルあるわ」

周吾は自分ではなく、ショップの袋にタオルを被せた。

「あそこ抜けたら商店街につながるからあまり濡れずに帰れるかもよ?」

「あそこ?」

「あさひの例の場所だよ!ここからなら、近いしあそこ突っ切ったら商店街のアーケードにつながるじゃん?」

「あ、うん」

「行くぞ」

オレの返事を待たずに、周吾は走り出した。

土砂降りの雨の中、足の速い周吾の背中を追いかけて必死に走る。
すぐに、あの場所が見えてきた。

「もう少しだ、走れー!」

周吾に置いていかれないように必死に走るオレの目に、木の下で傘もなくたたずむ女性の姿が映った。

鈴、、?!

一瞬だけ目の端に入りこんだその姿は、よくは見えなかった。
止まって確認してる状態でもなくて、オレはその木の横を走り抜けた。大きな水たまりを飛び越えて軽快に走る周吾。
飛び越えきれずに激しく水飛沫をあげたオレ。

「やっばー」

やっとの思いで商店街のアーケードに滑り込んで、周吾は笑い出した。

「まあまあな濡れ方!」

2人ともずぶ濡れだった。

「あのまま雨止むの待ってた方が正解だったか?」

振り向くと、雨足はどんどん強くなってるようで、色鮮やかな傘があちこちで開いていた。

「待ってても多分止んでないよ」

オレは薄いペラペラのハンカチで顔と頭を軽く拭いて、体にベッタリと張り付いてくるシャツを引き剥がすように、引っ張った。ハンカチもすでにビチャビチャであまり意味はなかったけど。

さっきの木の下にいたのは鈴だった、、?

息を整えながら、さっきの女性を思い出す。

一瞬過ぎてよく見えなかった。
見知らぬ女性だったかもしれないし、鈴だったのかもしれない。雨宿りしている人だったかもしれないし、もしかしたら男性だったかもしれないのだ。

でも、あれから一度もあの場所へ行ってないから
もしかして、鈴がオレを待ってる、、とか?
まさかな。これって自惚れてるみたいだよな。

「あさひ!!聞いてる?」

ハッとすると周吾が振り返って立ち止まっていた。

「ごめん、なんだっけ?」

「最近、結構ボーっとしてない?大丈夫か?」

周吾の心配そうな顔を見てオレは笑ってみせた。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと息切れしただけ、周吾足早いからさ」

そう言うと「足だけなー」と周吾は笑い、「手も早いか?」と付け足して、オレも「それな」と笑い返す。

家に帰って、シャワーをして着替えると

「雨、これからかなりひどくなるみたいだよ」

千夏がスマホを見ながらそう言った。

「あそこの川が増水して氾濫しやすいんだよねー。明日警報出て学校休みにならないかな」

呑気にそんな事を言って千夏は窓の外を見た。
さっきよりさらに雨はひどくなっていた。
梅雨の雨というより、まるで台風のようだった。

さっきのが、、、鈴だったら、、
てか、本当にあいつが猫だったら、、
こんな雨の中、どこで過ごすんだ?
もしほんとに川が増水して溢れたら?
いや、ちゃんと逃げるよな?

頭の中で白い猫が川に呑まれて流されていく姿を想像して不安になる。

「あ、警報でたよ。大雨、洪水、土砂災害、、」

千夏はスマホ片手に、「お母さん、明日学校休みかなあ?」と、夕食を作っている母さんに向かってまだ呑気なことを言っている。
うちは高台にあるから、洪水の心配はあまりないけど、、

あいつは、、鈴は、、帰る家ある?

考えれば考えるほど心配になってきた。
気付くとオレは、雨ガッパを着込み傘とタオルを片手に家を飛び出していた。

「バカ兄貴、警報でてんのにっ!どこ行くんだよー」

背中に千夏の声が追いかけてきたけど、オレは走り出していた。
あの場所が見えてくると、もうほとんど人影もなく、いつもは静かな水面が茶色く濁ってゴーゴーと流れていた。
さっき、人影が見えた木の下に行ってみるけど誰もいない。

辺りを見渡しても、鈴らしき人影はない。
もし、猫の姿だったら、、?
草の陰、ベンチの下、いつもオレが座ってる辺り、あちこち猫が隠れそうな場所を覗いては探す。
雨はどんどん強くなり、せっかくシャワーを浴びたのにオレはまた頭と足元からずぶ濡れになっていた。

「す、、、」

一度戸惑って立ち止まり息を吸い込む。

「鈴ーー!すずー!!」

大声で呼んでみる。
帰り道を急いでいる自転車の男性が、振り返る。

「すずー?!」

どうしても見つけなきゃいけない気がしてオレは必死に探し回っていた。だけど、どんなに探しても、猫の鈴も、人間の鈴もいなかった。

「何やってんだ、オレ、、」

そりゃいないよな。

我に帰り、ゆっくりと自宅に向かう。
玄関を開けると、母さんが呆れた顔で立っていた。

「バッカ、こんな大雨の中飛び出したっていうから何事かと思ったじゃないの。電話しても出ないし。どこ行ってたのよ、ただの大雨だと思ってなめたら大変なことになるよ!」

「ごめん、もいっかいシャワー浴びるわ」

「マジでバカ兄貴じゃん」

浴室に向かうオレの背中に、千夏の小馬鹿にしたような声が刺さった。
母さんも千夏も2人してオレにバカバカいうなよな、と思いながら、熱めのシャワーを頭から浴びる。

確かにバカかもな。
なんでオレ飛び出してったんだろ。
なんで、あそこに鈴がずっといると思ったんだろ。
なんで、猫だって信じてんだろ。
だけど、何か不安でたまらなくなった。
あのままもし鈴がいなくなったら、と思うと急に無茶苦茶怖くなったんだ。

雨は一晩中降り続いて、翌朝はどんより重い空ではあったけど雨は止んだみたいだった。

「川、氾濫しなかったけど、ギリギリだったみたいだよ」

またスマホ片手に千夏が言う。

「よかった」

オレはまだトースターに入ったままの食パンを取り出して、そのまま玄関に向かう。

「あっ、それあたしのっ、返せ、バカ兄貴ー!!」

再び、背中から千夏の怒鳴り声が追いかけてきたけれどオレは振り返らずに家を出る。
まだ、朝早くてほとんど人通りのない中を、あの場所へと小走りで向かう。

「結構、、ひどいな、、」

いつもキラキラと輝いているその場所は、いろんなものが散乱していた。溢れそうになった川から打ち上げられたのかたくさんの木枝や、ペットボトル、どこから来たのか紙のようなものが河岸にへばりついている。

オレは昨日、女性の姿を見た木の下へとゆっくりと視線を移したけれど、もちろんそこに誰の姿もなく。
そちらに近づいてみたけれど、ぐっしょりと濡れた木が葉先からポタポタと雨の雫をたらしているだけだった。

「ふーぅぅ、、」

鈴は、、大丈夫だったんだろうか?
あれから、どこに行ったんだろう。
オレに自分は猫だと言ったあの日。

別にまた会おうと言われたわけでも、約束したわけでもない。
なのに、あれから一度もこの場所に来なかったことに少し罪悪感を感じていた。
もし、あれからも鈴がオレに会うためにここに来ていたら?いや、、これってやっぱりただの自惚か?

頭の中でぐるぐる考えが巡る。
そんな時、河岸に横たわっている白い塊が見えた。

「え?!」

一瞬体にゾワッとしたものがはしり、オレはそこを目掛けて走り出す。

まさか?まさか?死んでないよな?!

「すずっ?!」

駆け寄り、しゃがみ込むと

「なん、、、だよー、、」

オレはその場で座り込みそうになった。

白い塊は流されてきたのか、コンビニの白いビニール袋で中にゴミのようなものが詰め込まれていた。
心臓がバクバクいっていた。
一瞬、鈴が川に飲まれてここで、、と想像して心臓が潰れそうになった。


その時。

「ゴミ拾いしてんの?」

と、オレの後ろで声がした。
ビクッとして振り向くと、
腰に手を当てて、鈴が笑っていた。

「す、、鈴、、、っ?!」

「なんて顔してんの?」

鈴はおかしそうに笑い出した。

「昨日の大雨で!一瞬鈴が流されたのかと思ってびっくりして、、!」

さっきよりもさらに心臓がバクバクと早く鳴り響いていた。

「え?あ、もしかして?その白いビニールがネコだと思ったの?」

鈴はオレの隣にしゃがみ込むと、さっきのビニールを指差しながら言う。

「そ、、そーだよ」

オレは、鈴が無事だったことへの安堵と、早とちりしたことへの恥ずかしさでまともに顔があげられなかった。

「心配してくれたんだ?」

鈴がオレの顔を覗き込む。

「そ、、そりゃ、、あれだけ増水したら小さい猫なんてすぐ流されちゃうだろ?」

ぶっきらぼうに言うオレの言葉に、被せるように鈴は言った。

「っていうかさ?信じちゃった?」

「え?」

「私がネコだって話」

思わずオレは顔を上げる。
鈴は、まだ濁って水かさの増した川をまっすぐ見たままだった。

「どゆこと、、?」

鈴はオレの方を見てわざとらしいくらいにアハハと笑った。

「普通信じないでしょー?ネコが人間になるとかさー、
どんだけ素直なんだよ!あさひは」

「は?」

「冗談に決まってるでしょ」

「だって名前も!それに白い猫って知ってたしさ」

頭がぐわんと回転した気がした。

「たまたま、あさひが白い猫と遊んでるの、見たことあったんだよー」

鈴はそういうと、またわざとらしく笑って見せた。

「オレのことからかったのかよ!」

オレの中で怒りと恥ずかしさと、いろんな感情がぐるぐると沸き起こって吐気がしそうだった。

「あ、怒った?まさかさ、信じると思ってなかったからさ、ごめんごめん」

鈴は、オレの右膝を左手でポンポンポンと軽く叩いた。

「触るなっ」

オレはその手を払いのけて、立ち上がった。
くるりと背を向け歩き出す。

なんなんだ、なんなんだ?
いいかげんにしろ、そりゃこんなくだらない話、信じたオレが悪いよ。
わかってるよ!

後ろから、「ほんとにごめん、でも聞いて!!」っていう鈴の何か言いたそうな声が聞こえた気がしたけど、オレは振り向かずに歩いた。
情けなくて、恥ずかしくて、くやしくて、涙が出そうだった。
そのまま、学校に行く気にもなれずオレは再び家に戻った。
すでに、親も仕事に出た後で、千夏も当然家を出た後だから誰もいなかったことが救いだった。

自分の部屋でベッドには入り、カーテンも閉め切った。

どう表現したらいいのか分からない感情に支配されて苦しかった。

「信じるなんて思わないじゃん」

鈴の声が聞こえるようだった。
猫が人間になるなんてことあるわけないのだ。
普通に考えたら分かることだ。
ましてや、この歳になって一瞬でもそんな話を信じてハラハラドキドキしてしまったことが情けなかった。

ピロン♪

スマホからの通知音でハッとする。
周吾からだ。

〈 昨日の雨で風邪でもひいたか? 〉

そういえば、あのまま学校に行かず引き返してしまった。

〈 ごめん、ちょい気分悪くてさ、しばらく休むかも 〉

なんかもう、しばらく誰にも会いたくない気分だった。
周吾にだってこんなくだらない話できるわけもない。
あいつはきっとバカにしたりはしないけど、こんなことで落ち込んでるなんて情けなくて言えやしない。

〈 そっか。無理すんなよ。今日英語の課題提出日だったけど、出来てるなら取りに行ってやろうか? 〉

周吾からの返信にハッとする。
英語の課題の再提出日が今日までだった。
中間の結果が最悪で出された課題。
1度提出するも、指摘が多くて再提出になった。
その期限が今日だった。
すっかり忘れて、返却されてからまったく見てもいなかった。かと言って今からやる気にもならない。

〈 ヤベー、全然やれてない 〉

〈 そっか。まあ体調不良なんだし、期限のばてもらえばいいよ 〉

周吾はそう送ってきた後

〈 何があったか知らないけど考えすぎんなよ。
  じゃまた元気になったら来いよ!
  オレ一人じゃさみちー(T ^ T) 〉

最後、ふざけたような周吾の言葉。別に周吾はオレが休んでいてもみんなとワイワイやれる奴だ。
周吾は多分気づいてるのだ、オレが体調不良じゃない事。さりげなく心配してくれてる周吾の言葉にオレは少し救われていた。

カーテンを少し開けると、また再び雨が降り始めている。
重くどんよりとした雲がオレの心の中を表してるようだった。

それからしばらくオレはモヤモヤを抱えたまま、ベッドでゴロゴロと過ごしていたけれど、昼過ぎに母さんから「無断欠席してると学校から連絡があった」と電話があり、休むなら休むで早く言え!と散々小言を言われた。
夕方、早めに帰ってきた千夏には、ズル休みしてるとまたギャンギャン小言を言われ、落ち着いて落ち込んでいられなくなった。

翌日。
オレは普通に学校へと向かった。
しばらく誰にも会いたくない気分だったけれど、1人でいるとずっと鈴のことでモヤモヤが止まらない気がしたのだ。

「あさひきゅぅぅーん。さみしかったわぁ!」

朝一番に、ふざけてクネクネしながら周吾が駆け寄ってきて、抱きついてきた!

「やめろー!気持ち悪いー!」

「やだ、あさひきゅん!冷たいこと言わないで!」

絡みついてくる周吾の腕を振りほどきながら、オレは笑っていた。

「ありがとな、周吾」

ポソっというオレに

「いいっていいって!英語の課題ができてなくてズル休みしたんだろ?黙っててやるって〜♪」

周吾はオレの頭を小さい子にするみたいにワシャワシャと撫でた。

「ちがうわー!って課題ーーー!!」

ツッコミながらオレは叫んだ。
課題のことすっかり忘れていた。

「ヤバ!今からやるわ!!」

「あさひくん、元気で何より!」

周吾の言葉を背に、オレは慌てて課題に取り掛かった。





 ダラダラと続く梅雨が終盤に差し掛かった日曜日。
珍しく朝から眩しい光がカーテンの隙間から差し込んできていた。久しぶりにすっきりと晴れた朝だった。
母さんは、一気に洗濯をすると張り切ってバタバタと動いている。

「あ、ちょっとまってもう柔軟剤がないじゃないの!あさひ!あさひー!!」

朝ごはんを食べようと、リビングに向かおうとしたオレを母さんが呼び止める。

「あさひ、柔軟剤買ってきて?!ほら商店街抜けたとこのお店なら朝早くから開いてるから!」

「うん、メシ食ったら行くわ」

大きな欠伸をしながらオレがそのままリビングの椅子に座ろうとするのを母さんが阻止する。

「今!先に行ってよ!またいつ雨が降ってくるからわかんないでしょ?晴れてるうちに洗濯ジャンジャン回したいじゃない、ね?早く!」 

「えー、、、」


「自転車乗ってシャーって行ったらすぐじゃない、は、や、く!」

半ば追い出されるような形でオレは家を出た。

「おー、、久々に眩しいな」

梅雨の合間の太陽は、いつもよりキラキラと輝いていて眩しく感じた。

自転車にまたがり漕ぎ出すと、頬にあたる風が気持ちいい。

「やっぱ、太陽の光はいいな」

久しぶりに気持ちもスッキリして思わずつぶやく。
商店街を抜け、お目当ての店で柔軟剤を買うと、オレは自転車に乗り家とは違う方向にペダルを漕いだ。
あの場所は、すぐ近くだ。

あの日以来1度も近づかなかった。
雨も降っていたから、どうせ座って読書もできないし、と自分に言い訳をして。
本当は鈴との出来事を思い出したくなかったからだ。
だけど、久しぶりの日差しに気持ちが晴れて、あの場所に行ってみたくなった。

「あ、、」

ほんの一瞬で、あの場所に着いたけれど少し様子が変わっていた。

赤い三角コーンに黄色と黒の縞模様のポールで囲われていて、オレがよく座っていた辺りには黄色の看板。
ご丁寧にヘルメットのおじさんが深々とお辞儀をしたイラストが書かれていて、
「工事中」の文字と、「ご迷惑をおかけします」の文字。

河辺には重機が停まっていて、タイルのようなものが敷き詰められていた川沿いの道は少し掘り起こされて、土が剥き出しになっていた。
今日は日曜日だからか重機は動いてなかったけれど、
立ち入りができないように、すべてに囲いがしてあった。

「いつからだ、、?」

なんだか、自分の居場所を奪われたような気持ちになった。
鈴とのあの出来事があって、全く近寄らなくなっていたけれど、今になってあの時、鈴が何かを言おうとしていたことを思い出す。

「ねえ聞いて」

最後にそう言ってた気がする。
どうせ言い訳するんだろと、あの時怒りに任せて振り返りもしなかった。
だけどもしかして、鈴は他にも言いたいことがあったのかもしれない。今更そう思ってもどうにもならないことも分かっていた。あの時、「なんだよ冗談かよ」と笑い飛ばせなかった自分の幼さ、怒りに任せて振り払った鈴の手。

オレはそんな鈴との再会の場所さえも奪われてしまった気がしてしばらくその場に立ちすくんでいた。




|梅雨が明け、一気に気温が上がり蝉の声が聞こえ出していた。

「あちぃー、マジで熱中症になるってぇ」

周吾がスポドリをがぶ飲みしながら、嘆く。
陸上の大会が近いらしく、こんな暑い中今から走り込みだという。

「気温おかしいよな、いくら夏とはいえ日差しが火傷しそうだもんな、体感40℃くらいあるわー」


35℃を超えると外での走り込みは中止らしいが、スマホの天気アプリはギリギリ34℃を示している。
16時前だというのに、灼熱だ。

「マジでぶっ倒れんなよ」

オレの言葉に、周吾はわざと白目を剥いて見せた。

オレは、周吾と別れて図書室へ。
クーラーの効いた図書室は天国だった。
最近、まともに本も読んでいない。
久しぶりに小説の世界にのめり込みたい衝動にかられた。
たくさんの本に囲まれると独特の古い紙の香りがオレの心をくすぐる。
 
目についた1冊を手にとって、一番端の席に座りページをめくる。

舞台は海沿いの小さな公園。
いつの間にか、うるさかった蝉の声も聞こえなくなり、オレの耳には波の音が聞こえていた。
毎日公園のベンチに座り、遊んでいる子供達をにこにこと眺めている1人の老人。
彼が見ている些細な光景が一枚一枚の絵画のようにイキイキと描かれている。本当にただの何気ない毎日なのに、それは老人の目には映画のようにドラマチックに映っている。何よりその光景を見ている老人の気持ちが満たされて暖かく幸せなのが伝わってくる。

オレはいつの間にか深くその世界に引き込まれ、チャイムの音さえ聞こえなかった。先生にもう閉めるわよ、と声をかけられハッとして我に帰る。

オレは、その一冊を借りて学校をでた。
オレの足は自然にあの場所に向かっていた。
今日、クラスの女子たちが話しているのが聞こえたからだ。
その話によると、あの工事は氾濫しかけたあの大雨の日に、道の一部が崩落して危険なことと、全体的にひび割れや痛みが目立っていたから全体的に補修工事をすることになったのだそうだ。
あれだけ行っていながらオレは知らなかったけれど、あの場所はただの河辺の道ではなく、ちゃんと名前があるらしい。その名前はちゃんと聞き取れなかったけど、最近工事が終わってきれいになってたよ、と言っていた。

さっきまで焼け付くように暑かったけれど、いつの間にか風がでて少し過ごしやすくなっていた。

あの場所に着くと、道も綺麗に補修され新しくベンチのようなものも設置されて何人かが座っていた。

でもオレはあえていつも座っていた石階段に腰を下ろす。

「久しぶりだな、、、」

ここで初めて鈴に出会って話しかけられて。
ほんの数回しか会ってないのに、いろんなことがあっていつのまにかここにくることがほとんどなくなっていた。なんだかあれは夢だったのか?とさえ思える。

オレはさっき借りた小説を開いて目を落とす。
こうしていると、鈴と出会う前に戻ったような感覚になった。川のせせらぎが、いつの間にか海の潮騒に聞こえオレは再び小説の世界に入り込もうとしていた。

「ねぇ?何読んでんの?」

耳元で突然そんな声が聞こえて

え、デジャヴ?!

オレはまた一気に現実に引き戻される。

過去にタイムスリップしたかのように、オレの隣にはまた鈴が座っていて小説を覗き込んでいる。

「鈴、、?」

「主人公の名前はなんて言うの?」

鈴は顔を上げずに、また同じことを尋ねた。

「名前、、ないんだ」

オレはあの時と同じように答えた。
この小説も「老人」としか書かれておらず、名前は一度も出てこない。

「ふーん」

鈴はあの時と同じように、そして少し不服そうにそう言うと

「名前。すごく大事なのにね」

とつぶやいた。

あの時は話聞かずにごめん、と謝ろうとしたオレを
さえぎるかのように、鈴は話を続けた。

「私ね。朝陽が私の名前を呼んでくれたことがすごくうれしかったんだよ」

「え?」

意味がわからず聞き返す。

「私ね、小さい頃に両親亡くなって。ちゃんと「鈴」って名前を優しく呼んでもらった記憶がないんだ。それでさ、、朝陽がここでネコちゃんに、「すずー」って何度も呼んでるのを聞いてね。なんだか自分が呼ばれてるみたいで、すごくすごく、、ドキドキしたんだ」

何も言えずにいるオレの方を見ずに鈴は続ける。

「なんでかな、、すっごくあったかい気持ちになって。
朝陽が「鈴」って呼ぶの聞くと涙が出たんだよ、、
だからさ、、」


そう言って鈴は顔をあげてオレを見た。

「ごめんね、ネコになりたくなっちゃった」

鈴の目には涙が浮かんでるように見えた。
名前を呼ばれるって、オレにとっては当たり前のことで、特別なことだと思ったこともなかった。

「鈴、、ごめん。あの時ちゃんと話聞かずに、、これからはちゃんと鈴の話聞くよ。ほら、ここもさ、綺麗になったし、、」

オレはどうしていいか分からずに必死だった。

「ありがと。でもさ、もう会えないや」

「え?」

突然の鈴の言葉にオレは固まる。

「会えないって?あ、オレがあまり来なくなったから?でもほら、連絡先とか交換すればさ、、」

必死にいうオレの顔を鈴は優しく、そして少し悲しい顔で見ながら首を横に振った。

「私ね!引っ越すんだ。結構遠いとこ。新しいスタートだよ!だからね、もう会えない」

無理に元気そうに、鈴は大きな声でそういうとニコッと笑って見せた。

「遠くって、、」

「内緒」

「なんで、、?」

「朝陽の名前!大好きだよ!朝陽の名前はギラギラ太陽じゃなくて、ポカポカ太陽の朝陽!雨ばっか続いてどんよりしてる雲の間から、優しく顔出して照らしてくれる柔らかい日差しの朝陽!照らしてくれてありがとね。」

オレの質問には答えず、鈴は一気にそう言った。

なんだろ、それを聞いてオレも泣きそうになる。

「なんだよー、あさひが泣くなよ、またいつかどこかで会えるよ」

鈴は。
オレの右膝を左手でポンポンポンと軽く叩いた。

「じゃねっ。会えてよかった!バイバイ!」

鈴はパッと立ち上がると、ほんとに風の中に消えるようにいなくなった。

取り残されたオレは呆然として、なぜか涙が溢れて止まらなかった。
ノロノロと立ち上がり、歩き出すと小さな丸太のようなものに文字が刻まれている。

「邂逅公園」

この場所、やっぱり名前あったんだな。
でもなんて、、読むんだ?
スマホで検索する。

「かいこう、、こうえん、、」

邂逅(かいこう)

意味 邂逅(かいこう)する 思いがけなく出会うこと。偶然の出会い、めぐりあい。


鈴と出会ったのは偶然だったんだろうか、、?
それはもう誰にも分からない。

「母さん、オレの名前ってさ。なんでつけたの?」

自宅に帰るとオレは台所に立つ母さんにそんな質問をした。

「何、急に気持ち悪い。熱中症にでもなったんじゃないの?」

母さんは、そう言いながらも

「あんたが生まれる数日前からずっと雨が降っててね。ずっとどんよりしてたんだけどね、あんたが生まれた日の朝は急に晴れて。病院の窓から差し込んできた朝日がそりゃー優しくてポカポカしてて。あーこんなふうに人を優しく照らすような子になるといいなあ、って。それで朝陽。」

と、料理をする手を止めて話してくれた。
鈴が、オレに言ってくれた言葉と似ていて驚く。

「ね、母さん私は?」

千夏が割り込んできて騒ぐ。

「あんたは暑ーい夏に生まれたから千夏!」

「え?なんそれ、超絶普通なんですけど?!」

千夏はかなり不服そうに母さんにまとわりついて他になんかないのか?とさわいでいたけど、オレは鈴が言ってくれた言葉を思い出していた。

もう一度鈴に会いたい。
もう会えないなんて、どうしてだよ。
急に胸が締め付けられるように苦しかった。
いつかまた会えるだなんて、嘘だ。
そんなの、いやだ!

オレは。
再び家を飛び出す。
さっきまでいたあの場所を目指して。
もうすぐ日が沈む。

邂逅公園にはまだちらほら人がいたけれど、もちろん鈴の姿はない。どうしてまた来たのか分からない。もしかしたらまだ鈴がいてくれるんじゃないかと期待したのかな。川の水面に大きなオレンジ色の太陽が吸い込まれていく。オレンジ色が一面に広がって世界が飲み込まれてしまいそうにさえ思えた。
その時だった。

少し離れた木の影の辺りを何かがサッと動いたように見えた。

「鈴?」

そんなわけはなかったけれど、もしかしてまた「なんちゃってー」と鈴が木の影から現れたりして、、と
そんな微かな期待を持っておれは木の方に向かって歩く。

「にゃぉ、、」

「え、、?」

そこにいたのは、白い猫だった。

「え、お前、、、えっと、、鈴?」

名前を呼ぶのに一瞬戸惑う。
白い猫はオレの足元に体を擦り付けてもう一度微かな声で「ニャゥー」と鳴いた。

「ほんとにあの時の鈴?」

ずいぶん長く姿を見ていなかった。
時々おやつをあげて可愛がっていたけどいつの間にか姿を現さなくなっていたからどこかの飼い猫にでもなってしまったのかなと思っていた。

しゃがみこんだオレの膝に白い猫はよじ登ってくる。

「痩せたんじゃないか?お前」

猫はゴロゴロと喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細めた。
いつの間にか太陽は沈み、辺りは少しずつ暗闇にのまれはじめていた。

どうしよう、家から飛び出したきたから、今日は何も食べ物持ってない。財布もない。

猫は膝の上で喉を鳴らして、時々オレの顔を見上げては小さく鳴いた。

とりあえず、、うちでなんか食べさそうか、、

オレは猫を抱き上げ自宅へ向かって歩き出した。


「きゃー、どうしたの?可愛いー!」

玄関に入るなり風呂上がりの千夏に見つかり大声をあげられた。

「なに?」

その声に母さんも出てくる。

「どうしたのよ、あさひ。自分の名前の由来聞いたかと思えば、急に飛び出して今度は野良猫拾ってきたの?」

「いや、、うーん。。腹すかしてるみたいだからなんか食わしてやろうかなと思ってさ。食わしたらまた置いてくるからさ」

オレがそう言い終わる前に母さんの手には煮干しが握られていた。

「にゃんこちゃーん、こんなものしかないけど食べるー?あ、お水持ってこよっか?」

白い猫は母さんの手から煮干しを上手に受け取ると美味しそうにむしゃむしゃ食べ、小さなお皿に入れられた水を勢いよく飲んだ。

「やっぱりお腹空いてるのね、他に何かあったかな。
あ、ササミは?ササミはどう?」

あまりに甲斐甲斐しく世話をする母さんに、オレはただ黙って玄関で見ているだけだった。

思わず連れて帰って来たけれどこの後どうしようと思っていたオレにとって

「ずいぶん汚れてるわね、お風呂もいかが?」

お母さんが言い出した時には、オレの方が「え?」と聞き返したくらいだ。
白い猫は、ご飯を食べて母さんに庭でたらいにお湯を張ってもらい洗ってもらっている間も、特に嫌がるでもなく、大人しく母さんにされるがままになっていた。

ドライヤーで乾かしてやると、真っ白な毛色に戻り見違えるようになった。

「ニャー」

フワフワになった毛で、白い猫は母さんに擦り寄りペコリと頭を下げたように見えた。

「あらぁ、、お礼言ってくれるの?礼儀正しい子ねぇ、朝陽、あんたも見習いなさいよ?」

母さんがそういうと猫は、オレの膝によじ登り丸くなる。

「もう、うちの子になっちゃう?!」

母さんがそう言うと、オレより先に千夏が「いいの?飼いたい!」と声を上げた。

「名前なんにしよっかなー♪」

「そうね、千夏と同じ夏の日に来たからー、、」

2人がウキウキして話し出す。

「すっ、、鈴!」

オレは思わず慌てて口を挟む。

「鈴?なんで?」

急に名前を提案したもんだから、2人はお互い顔を見合わせて、オレに不審な目を向けた。

「いやっ、、あのもしかしたらだけど。この猫オレがよく公園で読書してる時に近づいてきてた猫かもしれなくてさ、、」

「は?」

「てか、まず公園で読書してんの、兄貴?」

2人はますます不審な顔をする。

「してるよ、悪いかよ」

小声で答えるオレに

「え、ヤバ。地味」

千夏が口を手で押さえる。

「地味っていうなっ!」

「だって男子高校生が公園で読書って!」

「うるさい!」

「やーめなさい2人とも、猫ちゃんがびっくりしてるでしょ!」

母さんが割って入ると、白い猫はオレの膝の上でまんまるい目をしてオレを見上げていた。

「なんで鈴なの?」

母さんは、「大丈夫よー」と言いながら猫の頭を撫でた。

オレは、初めて出会った時に小さな鈴をつけていた事、その音がすごくきれいで、途中からはその鈴は無くなってしまったけど、その印象が強くてずっと勝手に「鈴」と名前をつけて呼んでいたことを2人に話した。

「でも、、ここしばらく姿見てなくてさ。だからどこかの飼い猫にでもなったのかな、と思っていたんだけど、、。てか同じ白い猫だけど、、絶対あの時の鈴かって言われると、、自信ないかも。」

オレはフワフワになった背中を撫でながら、そう言った。

「朝陽にそれだけ安心し切った顔してんだもん、多分その子でしょ。」

母さんはそう言ったけど、オレは少し不安だった。

「ま、そこまで言うなら名前はすずちゃんで決定ね!
今日はもう遅いから何にも用意できないけど、いろいろ準備しなくちゃねー!」

母さんはそう言うとなんだかうれしそうに立ち上がった。

「お腹すいたー」

千夏もそう言いながら何事もなかったようにリビングに戻る。



今日は、、いろんなことがあったな。

「もう会えない」人間の鈴に突然そう言われて、なんか、、オレちゃんとしたことも言えなくて。
鈴の事情も全く知らずに、情けない対応して。
マジで自分が嫌になった。
もう一度会えるなら、ちゃんと謝ってちゃんと話聞いてあげたい。
なのにもう会えない。
思い出して再び胸が苦しくなる。

「にゃっ、、」

いつの間にか手に力が入っていたのか、猫のすずがオレの腕から飛び出した。

「ごめん、鈴、、」

鈴という名前を口に出すと涙が出そうになった。
オレ、もしかしていつの間にか好きになってたのかな、鈴の事。
鈴の笑顔、不満そうな顔、、
そんなにも交わさなかった会話なのに、はっきり覚えてる鈴の声。

「あー、、ヤバい。鈴って名前にするんじゃなかったかも、、」

これから何度も猫を「鈴」と呼ぶたび苦しくなるのかな。
思い出して切なくなるのかな。。
オレは、目の前で体を舐めながら、リラックスしている鈴をぼんやりと眺めていた。
あれから。
夏休みに入り、鈴はすっかりうちの猫になった。
最初に出会ったときのように、赤い首輪に小さな鈴をつけて、可愛い音を鳴らしている。

だけどオレはどうしても名前を呼ぶことに抵抗を感じてしまってなかなか呼べずにいた。でも、家族みんなには「すずちゃーん」とか「すーちゃん」と呼ばれて、すっかり鈴は懐いていた。

時間が経てば、あの日の出来事は忘れるかもしれないと思っていたけど、オレの心はなかなかすっきりと晴れない。

周吾には、「失恋でもしたか?」とズバリ言われて
そもそも、あれが失恋というのかそれすらも分からなかった。
あれから一度だけ邂逅公園に足を運んだこともある。もちろん鈴がいないことはわかっていたけど、大好きだったあの場所を嫌いになりたくなかった。
あれだけ何回も1人で通った場所なのに、あそこに行くと思い出は鈴のことばかりだった。



そんなある日。

「朝陽、大変。すずちゃんがいなくなっちゃった!」

夕方、本屋から帰ったオレに母さんが血相変えて言う。
うちに来てから一度も外へは出たがらなかったのに、オレが出かけてすぐ母さんが宅配便を受け取るためにドアを開けた途端、鈴が外に飛び出したんだそうだ。

「すぐに追いかけたんだけど、全然姿見えなくて」

「大丈夫だよ、もともと外で暮らしてたんだし、また帰ってくるよ」

オレはそう言いながらソワソワしていた。

「車に撥ねられでもしたらどうしよう。
なんで、すずちゃん、うちが嫌だったのかな」

母さんはすっかり動揺して、手に持った鈴の餌が入った容器の蓋を開けたり閉めたりしている。

「オレも探してみるよ」

オレは自転車にまたがり、近所の空き地や住宅街、あちこちを覗きながら鈴を探す。
夕方でもまだまだ気温は高くて、ジリジリと太陽の日差しが首や背中を照りつけてくる。
こう暑いと、鳥さえもいないような気がする。
それでもオレは鈴の白い姿を探してあちこち走り回った。


なんでだよ、お前までいなくなるなよ!
急に姿消すなんてやめてくれよ!
会えなくなるなんて嫌なんだよ!


あの日、突然鈴にもう会えないと言われて別れて、喪失感でいっぱいだったオレの前に再び現れた猫の鈴。
オレが鈴って名前つけたのに、呼ぶとどうしてもあの日のこと思い出してしまうから、今日までほとんど名前を呼ばずにきた。

でも、、

「朝陽に名前呼んでもらってすごくうれしかったんだよ」

あの日、鈴はそう言って笑った。
名前を呼ばれることなんて、オレには少しも特別じゃなかったけど、鈴は、、鈴は、、自分の名前を呼んでくれたことがすごく嬉しかったって言ったんだ。

「す、、すずー!鈴ー!!」

自転車を走らせながら、大きな声で名前を呼ぶ。

「すずー!どこにいるんだよ、鈴ー!!」

すれ違う人がオレを見ている。
それでもオレは呼ぶのをやめなかった。
いつの間にか、初めて鈴と出会った場所が見えてきて、オレは自転車を停めて歩き出す。

「鈴ー!鈴ー!」

呼びながらなんだか涙が溢れてきた。
どうしてか分からない。
だけど、鈴の名前を大きな声で呼ぶたびに、オレの心の中で何かが解けていくようなそんな気持ちになっていた。
いつしか、小走りになり、鈴の名前を呼びながらずいぶん走り回ったんだろう。

「ハァ、ハァ、ハァ、、」

ついには息切れしてオレは立ち止まった。
石階段の上に座り込み、息を整える。
もうすぐ太陽が沈む。

オレはもう一度叫ぶ。

「鈴ーーーっ!!!」

青春さながらだ。
夕陽に向かって大声で叫ぶなんて、地味なオレには到底似合わないことしてるな。

そう考えたら少し笑えた。

その時だった。

チリン♪

小さな澄んだ音がして

「ニャーゥ、、」

いつの間にかオレの横には鈴がすり寄ってきていた。

「鈴っ?!鈴!!よかった、よかったー」

オレは泣き笑いのような顔をして鈴を抱きしめた。



それからの事はあまりよく覚えてない。
自転車を押しながら鈴を抱き、何度も何度目名前を呼びながら帰ったことは覚えている。

だけど。
オレの心臓は、ほんとは何も考えられなくなるほどドキドキが止まらなくなっていたんだ。


なぁ、、鈴?
ほんとに君は猫じゃなかったの?
ほんとにあれは嘘で、
オレをからかっただけだったの?
今なら笑われたっていいよ
君が猫だったって
オレは信じたい
君が笑うならオレは何度でも君の名前を呼ぶよ


だって。
オレが泣き笑いのような顔で鈴の頭を撫でた時。

鈴は前足で
オレの左足を3回、ポンポンポンと、、
軽く叩いたのだから。。



               完


























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