カタカタとキーボードを打つ。今時ノートパットやスマホアプリでもいいものはたくさん存在しているけれど、私の小説を書くスタイルは未だにデスクトップパソコンに有名ワープロソフトでの作業が一番はかどる。
手元にはインスタントコーヒーを淹れてあり、モニターを眺めながらときどき思い出したかのようにコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばし、それを飲んでいた。
モニターには男同士の絡み合いの文章が綴られている。前の絡みのシーンではこの体位は使ってなかったよなと確認し、文章にもうちょっと艶と粘りが出るよう書き足してから、ようやく原稿をパソコンに保存した。
メールソフトを立ち上げると、原稿ファイルを貼り付ける。
【いつもお世話になっております、乃々原かしこです。
原稿が完成しましたので提出致します。どうぞよろしくお願いします。】
定型文を書いて、そのまま送信した。全部終わったところで、私はようやく椅子の背もたれにもたれかかって、大きく伸びをした。
仕事がひとつ終わったのはいい。今日は仕事先の飲み会だから、明日は絶対に仕事にならないと思ったから、原稿を終わらせないといけないとと思っていたし。
ようやく自由になった私は、急いで服の準備に取りかかった。
世に言うところのBL小説家が私であり、それを書いて生活している。なんだかんだ言って出版社五件ほどとお世話になっているから、既に本職の給料は越えてしまっているけれど、今の不景気な世の中、一年先のことすら見通しが立たない。
くだらない飲み会に出たくはないし、正直今の職場だって辞めたいけれど。でも今の職場がなんだかんだ言って原稿を書くのに一番融通が利くから。個人情報を出さないってことにすら気を付け、ストレスが溜まるのを給料分と思って割り切れるかというデメリットはあるけれど。
そう思いながら、どうにか飲み会用の服の用意を整えた。
フェミニンなシャツにスラックス。派手過ぎず地味過ぎずの、普通の格好だけれど。どうせ飲むからなあ、匂いがつくからなあ。そう考えたら、これくらいが一番いいかと思って最後に鞄を用意した。
あとはスマホのアラームをセットした。飲み会に出発時間まで、少し仮眠させてもらおう。なんだかんだ言って、締切を前倒しで終わらせたせいで、頭の糖分が足りない感じがする。ラムネを口に放り込んでから、眠りについた。
締切明けはもっと開放的になるものなのに、飲み会前だとひたすら億劫だ。
****
「それでねえ、そこの家の家族なんだけれど……」
「あぁら、やあだ」
甲高いパートさんたちの声に辟易とする。ここ、院長先生のおごりじゃなかったら絶対に入れないくらいに高いフレンチなのに。私が普段ディナーで出すお金とひと桁違うから。その中でパートさんたちの下品な会話を聞き流しながら、できる限り皿の上のメニューに集中していた。
舌平目のムニエルも、子羊のプレートもおいしいのに、パートさんたちの会話で台無しだ。
私が働いているのは、地元の歯科医院で、歯科衛生士をしている。
小さな診療所だけれど、なかなか難儀な患者さんも多いため、その面倒を見ている従業員を引き連れて年に二回ほど飲み会に呼んでくれる院長先生は気前がいいんだろうけれど。
正直おいしいお酒で口が滑りやすくなったパートさんたちの会話は、驚くほど下品だ。どこかの家庭の離婚騒動からはじまって、我が家のマウント合戦、パートさんたち共通の知り合いの個人情報まで語り合うので、おかげで全く知らない人の個人情報にまで詳しくなってしまう。しまいには一緒にごちそうを食べに来た院長先生の娘さん……今は美容歯科医として矯正治療を生業としている……にまで矛先を向ける。
「ところで先生は、結婚どうなさるんですか?」
「えー、今時私よりも給料いい人じゃなかったら結婚できないですよぉ」
「そーう? 先生でしたら美人だし、引く手あまたじゃない?」
「ねえ?」
その会話に辟易とする。
なんだかんだ言ってどこの業界も男尊女卑がひどいし、比較的優しい院長先生ですらそれを痛感する。そういう中で歯科医として稼いでいる人が、仕事を取り上げられて家庭に入ることが幸せとは、傍から見ている私にすら思えなかった。
なんだかんだ言って先生はのらりくらりとかわしている中、私は皿の上のものがなくなってしまったために、仕方なく今度はグラスワインに逃げる。まるで糖蜜を舐めたかのようにコクのある貴腐ワインなのに、会話の内容がこんなんじゃ台無しだ。
もう院長先生はパートさんの会話を全部無視して、店内で出せるワインを全て注文する勢いで「このワインは?」「このワインは?」とソムリエさんを質問攻めにして注文し続けている。自分のお金とはいえどすごい。
「そういえば、柏原さんはー? もうすぐ三十でしょう? お相手見つかった?」
う。ワイングラスをガチンと鼻先にぶつけてしまった。痛い。私がグラスを置いて鼻先を押さえて俯きつつ、どうにか誤魔化す言葉を探す。
「いえ。副職もありますし、今の仕事が楽しいですから」
さすがに内容は伝えてないとは言えど、一応院長先生に副職のことを伝えると、院長先生は「ふーん」と気のない返事をしていたし、普通に確定申告は済ませているから歯科医の迷惑にはなっていないはずだ。
早く次のメニュー来てくれと祈っていたものの、パートさんたちの追及は残念ながら終わってくれない。娘さんは話題の矛先が私に移ったのにあからさまにほっとした顔で、院長先生と一緒にワインを飲んでいる。このテーブルは私の敵しかいない。
「でも三十になったら、ぐっと結婚するの難しくなるでしょう?」
「そうそう。今だったらまだ間に合うんだし」
「なかなか難しいんですよ、今時の婚活は」
「でも柏原さん、日頃から家にいるから暇でしょう? もっと外に出て探したほうがいいんじゃないかしら?」
だから、この人たちは。私はイラリとするものの、理性が働いてどうにかお冷やに手を伸ばすことで誤魔化した。
ちなみに私はあの手この手を駆使してスマホのアプリのIDを教えていない。そんなもの教えたら最後、締切前の忙しいときでも、病院内の備品の買い出しやら早番での掃除の交替やらを頼まれるのが目に見えているため、必死の抵抗だった。それでもスマホの電話番号は教えざるを得なかったせいで、うちにじゃんじゃん電話がかかってくるせいで、休みの日はほとんど家にいることがバレてしまっている。家じゃなかったらデスクトップパソコンで原稿できないでしょうが。
世代が違うと、残念ながら価値観が違う。
既に結婚すれば人生安泰という時代は終わりを迎えているし、日本はよくも悪くも他の国ほどパートナーがいないと駄目というお国柄でもない。だったら現状維持でいいじゃない。私だって自分の原稿に理解がある人じゃないと無理だし。
……最近はドラマとか映画とかで話題になるようになったとはいえど、未だにBLが肩身狭いジャンルだということには変わりない。私だって公表してないし、少なくとも旧世代的な職場で言うのは危険だと思って、副職の内容だって未だに言っていないのだから。
さて、お冷やを口に含んでどうにか理性を保っている私は、どう言ったものかと考えあぐねた。
「副職に理解ある人じゃなかったら難しいですし。今の世の中、兼業じゃないと難しいでしょ」
「あら、資格持ちの柏原さんだったら、どこでだって働けると思うけど?」
「……ほら、家庭に入って欲しい男性って、今でもかなり多いですから。専業主婦は無理ですよ」
「そう? 子供ができたらなかなか大変だから、しばらく専業主婦になるのも手だと思うけど。どうせ資格持ってるんだから、再就職も楽でしょう?」
ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。もうやだ。パートさんとしゃべりたくない。私は家に帰って原稿だけしていたい。
癇癪を起こしそうになったけれど、お冷やのグラスが空になったのを見た給仕さんが「こちら、お替わりを淹れてもよろしいでしょうか?」と声をかけてくれたので、「お願いします」と言ったら、ようやく私から話が逸れて「ところでね……」と知らない人の個人情報へと話題が替わってくれた。私は心底ほっとしたところで、ようやく締めのデザートと食後の飲み物が運ばれてきた。
「お待たせしました、デザートのタルトオショコラです。それでは紅茶のお客様は……」
締めのデザートが来たことで、内心ガッツポーズを取る。
これを食べたら帰れる。院長先生と娘さんは未だにワインとつまみのチーズに夢中だけれど、それでも帰れる。
締めのセイロンのミルクティーに、ケーキ屋でもなかなかお目にかかれないレベルのタルトオショコラに舌鼓を打って、ようやく店を出ることができた。
「先生、今日はごちそうありがとうございました」
私もパートさんも挨拶を済まし、解散する。
電車にごとごと乗り、近くの駐輪場から自転車を取ってきて、それに乗り込んで走り出す。
デザートの前にたくさん水を飲んだおかげで、すっかりと酔いは冷めてしまった。そのままうちのアパートまで走る。夜風が腐りきった気持ちを癒やしてくれる。
うちのアパートは元々は新婚夫婦をターゲットにしているところだけれど、たまたま新築のときに借りることができた。
ネット回線はタダだし、収納はたっぷり。唯一の不満があまりにも壁が薄過ぎて、隣の家の音が全部筒抜けだから、編集さんとネットで打ち合わせをするときでも、あらかじめお隣さんがいないときを見計らわないと事故るから、こちらも気が気じゃない。
私は自分の家の階まで階段を登っている中、うちの前に誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。お隣の浜尾さんだった。
このアパートだと、私以外だったらひとり暮らしをしているのは彼くらいだ。でも、うちの家の前でしゃがみ込まれると、家に入れない。
「どうかしましたか?」
仕方なく声をかけると、浜尾さんはビクンッと肩を跳ねさせてから、気まずそうに私のほうに顔を上げた。
私、なんかしただろうか。思わず目をパチパチと瞬かせてしまった。
浜尾さんはくたびれた量販店のスーツに、ボサボサした頭と、不健康そうだなあという印象の人だった。それでも不潔には見えなかったのは、スーツはきちんとブラシがかけられてるなと思うくらい、挨拶するたびに眺めるスーツは白いところがどこもなかったし、ボサボサしている頭でも目はきちんと見える程度には切り揃えられていたからだ。多分あれだけボサボサなのは、癖毛がひど過ぎるんだろう。
そんな浜尾さんは、私が声をかけても視線を右往左往と彷徨わせるばかりで、なかなか答えてくれない。
こんなところにしゃがまれたら、私が家に入れないからなんだけどな。仕方ないから、それを口に出してみることにした。
「ええっと……玄関塞がれてますので、このままじゃ家に入れないんです」
「あ……! ご、ごめんなさい! ちょっと……本を……落としてしまいまして」
「本?」
そこでようやく床に視線を落として納得した。紙袋の底が破れてしまって、そこに入れていたらしい本が散乱してしまったみたいだ。最近はなにかとエコエコ言ってくる割には、すぐに破れてしまうもの、すぐに駄目になってしまうものばかり無料提供してくるから困る。本屋で無料で配られる紙袋もビニール袋も、今やすっかりとへたってしまい、ちょっと重量オーバーしただけで簡単に破けるようになってしまった。
「あー……困りますよね。最近の紙袋って弱くて」
私はそう言ってしゃがみ込んで、紙袋を拾い上げると、その周りに散乱した本を拾い集める。浜尾さんは慌てたように訴える。
「だ、大丈夫ですよ! 自分で拾いますから! 自分を跨いで、すぐ家に帰ってくださ!」
「いや、さすがに人を跨ぐのはちょっと」
スラックスなんだから、そりゃ跨いでも問題ないとは思うけれど、ご近所さんを跨いで帰るのは申し訳なさの方が強い。
本にはどれもこれもカバーはかけられていない。ちょっと大きめの本だけれど小説みたいだった。そして。裏表紙はどれもこれも見覚えがある。最初は「あれ?」と思って本を拾うのに集中していたけれど、一冊だけ表表紙が丸見えになっている本と目があった。
『濡れ肌に熱情 乃々原かしこ』
「あ、それ私の本です」
「へあ……?」
気付いたら口にしていた言葉に、私のほうが喉を詰める。
……うそん。普段だったら絶対に口が裂けても言わないのに、なにお隣さんに暴露しているんだ。
そもそも。
お隣さんがばら撒いた本は、私のも含めて、全てBL本だった。どこの会社も全部私が原稿を上げたことのあるところばかりだったから、そりゃ裏表紙だけ見ても、「見覚えがあるな」と思うはずだった。
世の中には腐男子という人種がいるとは知っていた。ときどき私の元にもそういう人たちからファンレターが届くことはあったし、SNSでも見かけるから、いるところにはいるんだろうなあくらいに思っていたけれど。お隣さんがそういう人とは思っていなかった。今までずっと挨拶していたのに。
私が言った言葉に、浜尾さんは口元を抑えて、あからさまにうろたえはじめた。
どうしてオタクって、男女問わず突然の推しの登場に皆同じ反応をするんだろう。浜尾さんがどの程度のオタクなのかは知らないけれど。
「あ、あの……乃々原かしこ先生……ですか?」
うろたえながら、尋ねられた。頷く。
「はい」
「せ、先月発売されたオメガバース連作集は!?」
「『恋は遺伝子』」
「暁出版の看板シリーズは!?」
「もうあそこ廃業しましたけど……『揺り椅子紳士』シリーズ」
「し、七月に出る新作は!?」
「私もあれ編集さんから正式タイトル聞いてないんですよぉ。今は『異説ロマンチカ』カッコ仮で通販サイトだとタイトル登録されてますね」
「ほ、ホンモノだ……」
というより、世の中には世に出ているBL小説を全部網羅している人がいるとは風の噂で知っていたけれど、それがお隣さんだとは私も知らなかったわ。というか、編集さんでもここまで詳しい人そんなにいないのに。
いつもたどたどしい浜尾さんが、うっとりとした目で訴えてきた。
「あ、あの……自分、ずっと乃々原かしこさんのファンでして……」
「ありがとうございます……」
こう声に出して言われたのは初めてだ。こちらは万が一にでもパートさんにバレるのが嫌で、顔出しイベントの打診は全部断っているし、サイン本も編集部が本屋に配る分しか書いたことがないから、今までファンが実在するのかどうかも、ファンレターもらってさえ信じていいのかわからなかった。
そう言っている間に、浜尾さんが「ギュルル」とお腹を鳴らす音を立てた。どうも本を拾い集めていて、未だに食事を摂ってなかったようだ。ここで引き留めちゃって申し訳なかったな。私はそう思って本を差し出した。
「ファンにファンと言われたの、初めてで嬉しいです。ですけど、食事は摂ってくださいね?」
そう言って本を受け取る浜尾さんを見ると、浜尾さんは心底恥ずかしそうに顔を赤くした。なんだ。まだなにかあるのか。
「……新刊買うのに、財布に入っていたお金全部使っちゃったんで、給料日まで水だけ飲んでます」
「はい?」
オタク、ソシャゲの担当期間中にやりがちな案件、どうしてこの人がやっているの。私はダラダラと冷や汗を掻いた。
「ク、クレジットカードは……?」
「既に限度額越えてるので、来月まで使えません」
「ICカードとかは」
「もう電車賃くらいしか入ってないですね」
私のファンを名乗る人が、オタクにありがちなギリギリオタク貧乏生活で餓死しかかっている。
衝撃で打ちのめされつつ、私は「ちょっと待ってください!」と悲鳴を上げて家に飛び込んだ。
私も毎週締切に追われて、一度職場で倒れて救急車で運ばれている。唯一私の副業知っている院長には相当怒られてからは、懲りてそんな生活送ってないから、カロリーと糖分は常に気を配っている。
前に安かったからと買い置きしていたレトルトカレーに電子レンジで温めるご飯を手に取ると、そのまま家の鍵を探してもぞもぞしていた彼に「浜尾さん!」と声をかけた。
浜尾さんはかなり驚いた顔をしていた。
「かしこ先生?」
「……その呼び方は外では辞めましょう。食事持ってきました」
「えっ?」
「これ食べてください。別に返してくれなくていいですから。ほら」
「えっ?」
正直、レトルト食品を押しつけているだけだから、感謝しろなんて恩着せがましいことは言えない。ただ隣の人が実は私のファンで、知らない内にファンが野垂れ死んでいたら、しかも自分の新刊を買ってだとしたら、こちらが申し訳なさで頭を抱えてしまうっていう、それだけの話だ。
浜尾さんはキョトンとした顔をしたあと、私の押しつけたレトルト食品を、先程の本たちと同じく、大事に大事に抱えた。
「あ、ありがとう、ございます……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そのままそれぞれ家に帰っていった。
なんというか。乙女だった。ファンというか、乙女だった。
今日はさんざん知らない人の個人情報を聞かされ続けて耳が腐るかと思ったし、院長先生の娘さんやら私やらへの結婚しろコールで辟易したしで、ずっとむしゃくしゃしていたのが、最後の最後で癒やされてしまった。
都市伝説だと思っていたファンに会えたし、初めて腐男子という人に会えた。なんだかいいな。
変に和みながら、私はシャワーを浴びて寝ることにした。
明日は休みだし、原稿の直しでも来ない限りは、惰眠を貪っていることにしよう。
****
その日はうだうだ惰眠を貪る予定だったのに、突然の電話で目が覚めてしまった。
世の中固定電話を持たない家が増えてきているけれど、仕事の電話や通販の注文は、電波に左右されない固定電話のほうが未だに強い。
私は寝ぼけまなこで「はい、もしもし……?」と電話を取ると、苛ついた男性の声が飛び込んできた。
『柏原さんの家で合っていますか!?』
「あ、はい。私です。失礼ですがどちら様で……」
『こちらの大家ですけど、家賃が払われてないんですけど、どうなってるんですか?』
「え……?」
私は思わずどもる。うちは通帳からの振り込み式で払っているから、振り込みを忘れなかったら家賃は普通に引き落とされているはずなんだけれど。私は枕元に固めているお菓子の缶詰から公共料金引き落とし用の通帳を引っ張り出し、「あ」と気付く。
普段は通帳にお金を入れに行くのに、その日に限ってシフト変更があったから、入れ忘れていた。電気代やガス代が先に引き落とされるけど、こまめにお金を入れてなかったら、家賃が足りない。
「た、大変申し訳ございません、すぐに支払いを!」
『大変申し訳ないけど、ひと月は様子見てあげるから、出て行ってくれないかな?』
「はあ?」
今時そんな無茶苦茶なこと言う大家なんていないのに。私は「待ってください! すぐにお金は支払いますし!」と言うものの、大家さんを名乗る人の声は冷たい。
『困るんだよ、うちも一日でも支払い遅れるのは。一日くらいと許していたら、どんどん増長していって、しまいには家賃滞納のまま住み着くのも出るから。だから、一日でも家賃の支払いが遅れた場合は、うちを出て行ってもらってる。こっちだってすぐ出て行けなんて言ってないんだから、ひと月の内に荷物をまとめな』
そう言って一方的にガチャンと電話は切れてしまった。
ツーツー……と鳴る音を耳にしながら、私は唖然とする。
いくらなんでも無茶苦茶過ぎる。こんな理不尽な大家さんは平成を最後にいなくなったと思っていたのに。とにかくひとりで考えてもしょうがないだろうと、私は慌てて不動産会社に相談することにした。
いきなり家無き子になりそうな危機に、当然ながら不動産会社に相談したものの、取り次いでくれた不動産会社から、心底申し訳なさそうに告げられてしまった。
『申し訳ございません、お力になれそうにありません……』
「いえ、こちらこそ無理を言ってすみませんでした。私も家賃滞納してしまったんで」
なんでも、大家さんが自己申告していた通り、とにかく未払いの常連住人が多過ぎたらしい。あまりにも家賃滞納が続くせいで、とうとう不動産会社に仲介に入ってもらってアパートを運営するようになり、前よりも取り立てが厳しくなったと。
一周回って冷静になったら、たしかに大家さんの言うことももっともなんだよなと反省してきたけれど、同時に「私、あとひと月以内に新居探し出さないと家無き子になってしまう」という危機感が湧いてきた。
気を入れ直して、新しいアパートを探し出すけれど、今のところがとにかく都合がよかったから、それより上、上じゃなくてもいいから同等というのを探し出すのは、なかなか大変だった。
駅には近過ぎると、ネットでの打ち合わせになにかと支障を来す。セキュリティーが充実しているところじゃないと、仕事帰りがちょっと怖い。ネット回線タダがおいし過ぎる。正直仕事でいくらでもネットを使うから、金払って駄目な回線を使いたくなかった。
部屋は今よりも狭くてもいいけれど、収納はある程度ないと困る。本は貸倉庫借りればなんとかなるけれど、資料は手元に置いておきたいから、資料が置ける家じゃないとなあ。
仕事と原稿の合間にちくちくと新居を探すし、事情を知っている不動産会社もなにかとお勧めの物件を紹介してくれたけれど、あちらを立てればこちらが立たずで、なかなか見つからなかった。
どうしよう。このまま行ったら、家無き子。
まさか歯科医院の空いているスペースに済む訳にもいかないしな。私は不動産会社がくれた物件案内を見ながら、「うーんうーん」と唸って階段を登っていると「あれ、かしこ先生?」と声をかけられた。
私を「かしこ先生」なんて呼ぶの、ネットファン以外だったら浜尾さんしかいない。
「どうもー」
「……引っ越されるんですか?」
私の持っている物件案内に視線を向ける浜尾さんに、私は「あはは」と笑う。
「ちょっと凡ミスして、アパート追い出されそうなので、これを機によりよい物件に引っ越そうかと……まあ、なかなかありませんけどねえ、そんないい物件」
「……お仕事忙しいのに、大変じゃないですか?」
浜尾さんの言いたいのって、私が歯科衛生士として働いている以外に、BL作家やっていることだよなあ。
たしかに、今はまだ余裕があるけれど、来月に入ったら締切がふたつほどある。上手くやり繰りすれば締切がぶつかることなんてないけれど、上手くやらなかったら締切が被る。昼間は働きに出ているし、休み時間にスマホで下書きを打ち込んでうちのパソコンに送信しているとはいえど、推敲は私の場合はパソコンを使わないと無理だ。
「まあ、来月は締切ふたつ抱えてますし……」
「来月! 締切! に、二作も新しく出る予定なんですね……?」
浜尾さんが震えながら言う。うーん、まあまだ会社的には広報のGOサインは出てないけど、「原稿やってます」くらいだったらどんなジャンルの作家も普通にSNSで言っているからなあ。
「まあ、そうですね……?」
「だ、だったら! 早く、原稿に取りかからないと、駄目ですよね……?」
無茶苦茶ぐいぐい食いついてくるなあ。それだけ、新作読みたいのかな。まだどちらもプロットは切ってあるものの、原稿の肉付け作業には程遠い状態なんだけれど。
「そうですけど……」
「だったら! 俺ん家に住むのは……どうですか!?」
「……はあ?」
思わず目が点になった。
いきなりお隣さんが腐男子だった上に、私の読者でファンだったのが発覚したとこまではまあよかったものの、いきなりそのファンの家に住めと言われた場合、作家としてはどう答えるべきなのか。
「ごめんなさい」か? リアルでファンに声をかけられたの初めてで憎からず思っていたのを振るのは、こちらも気が引ける。
「考えておきます」か? ここはリップサービスでお茶を濁して、徹底的にスルーし続けるべきだろうか。あまりにも特に知る必要もない個人情報を大量入手状態の私にとっては、スルースキルは必要不可欠スキルだし、それを駆使して。
私が黙り込んで考えあぐねているのを見てか、勝手に浜尾さんはあわあわと手をジタバタさせた。前から思っていたけれど、この人本当にオーバーリアクションだな。
「す、すみません! そりゃ困りますよね。いきなり、男に同居誘われたら!」
「ま、まあ……そうですね」
「ち、違うんですよ……ただ、俺はかしこ先生の力になりたかっただけで……」
背中を丸めておどおどしはじめてしまった浜尾さんに、私はおろおろする。だからファン心を弄ぶ気はこちらもないんだってば。
「いや、別に本当に怒ってませんし。ただ、作家とファンが一緒に住むっていうのは、なにかとまずいんじゃないかという、それだけですから」
「自分、別にSNSでかしこ先生と同居なんて書き込みませんけど」
「それはたしかに困りますけど、そういうんじゃなくってですね……原稿の漏洩とかって、本当に契約関係とか会社の守秘義務に反しますから」
「あ、それは自分も守秘義務厳しい会社で働いてるんで、よくわかります。そういうのは絶対にしませんから安心してください。あと、かしこ先生のことは好きですが、かしこ先生の恋人になりたいとか、家族になりたいとか、そういうのは本当にありませんから。誓ってもいいです」
その言葉に、私は不覚にも「キューン」と来た。
ちなみにときめきではない。安心感だ。
そりゃ、男女が一緒に住んでいたら、周りがなにもない訳ないだろと勝手に外堀を埋めてくる。それが嫌だから、大学時代から男女混合の飲み会はなるべく避けていたし、就職活動で歯科医院を回ったときも、なるべく院長先生が既婚者で男の人が少ないところを選んだ。
周りから「結婚結婚」と言われても、仕事関係に男の人が既婚者か年寄りしかいなかったら、仕事のせいと言い訳が利くからだ。
しかし、まあ。半分くらいは浜尾さん家に住んでもいいかなという気には傾いているものの、半分は納得いっていない。
私が浜尾さんに対して知っていることは、彼が守秘義務に厳しい会社勤めだということと、腐男子だということ、私のファンだということくらいだ。
あそこまで細かく私の本を知っている人が、実はネットストーカーで勉強しました! とはならないような気がする。少なくともストレートの男性のBL耐性のなさは結構知っているから。
だとしたら、この人はゲイなんだろうか。バイなんだろうか。でもそんな性的な話を私が口に出すのは、いくらなんでも作家がファンに対して行うセクハラという奴ではないだろうか。それは駄目なような気がする。
この人を私のファンとしては信じたいんだけれど、どうしたら下心がないと信じられるだろう。
さんざん考え込んでいたら「わ、かりました……!」と浜尾さんが背筋を伸ばした。
「え、ええと? 浜尾さん?」
「わかりました、かしこ先生が困るようでしたら、俺は会社で泊まりますから、うちを好きに使ってください! これならかしこ先生は原稿に集中できますし、俺はかしこ先生の生活環境を守ることができて、一石二鳥ですよね!?」
「待って待って待って。いくらなんでも、それはし過ぎ。というより、それじゃ浜尾さんが体を壊してしまうから、それは止めましょう。ねえ?」
いくら推しのためとは言えど、家をプレゼントするファンは困る。なによりも浜尾さんの体に悪い。
そりゃ若い内はどんなに体を弄んでも次の日に疲れは残らないけれど、若い内の不摂生はボディーブロウのようにあとあとになって響いてくる。いくらなんでもそれを私のファンの浜尾さんにさせるのは、こちらだって申し訳ない。
少なくともこの人が本気で私を心配していること、下心がないということだけは、よくわかった。
「なら、私の引っ越しを手伝ってくださいよ。それで、それぞれどうやって暮らすのか考えましょう。幸い私たち同じアパートに住んでて、同じ間取りですから。私の期限までにいろいろ考えられるかと思います」
「かしこ先生……!」
彼は自分の口元に手を当てて、うっとりとした目でこちらを見てきた。本当にオタクは感極まったら皆同じポーズになるなあ……多分私も何度か推し声優に私原作のドラマCDに出てもらって見学に行ったとき、同じポーズしてたわ。
「俺、かしこ先生の仕事環境、絶対に守りますから……!」
「そーう? ええっと。ありがとう……」
こうして次の土日に一度荷物をまとめてみて、移動の準備をすることにした。
私は本棚の資料を積みつつ、パソコンの移動準備をしつつ、ひたすら首を捻っていた。これは引っ越しじゃない。右から左に移動だ。住所だって番号がひとつ変わっただけだ。
楽でいいけれど、どうして浜尾さんがそこまでしてくれるのかが私にはさっぱりわからなかった。
私だって推し声優は数多くいるけれど、推し声優が突然家無き子になったときに、素直に住居を提供して「私は職場に住みますから!」なんて言えるだろうか。私は言えない。だとしたら、私が困り果てているのを見かねて言い出した浜尾さんはなんなんだ。
わからないまま、私は空き缶を開けてみた。中には色とりどりの封筒が詰まっていて、中には私の宝物のファンレターが入っている。
BL作家は、人が思っているよりもよっぽどファンレターが少ない。その中でいただいた貴重なファンレターを眺めてみるけれど、私は数少ないファンレターには全て返事を書いているし、浜尾さんには書いた覚えがなく、やっぱりファンレターにもなかった。
世の中にはオタクに近付くオタクもどきがいるらしいけれど、浜尾さんの反応を見ている限り、完全にオタクのそれだ。同種だ。
「……わからない」
隣に聞こえない程度に呟いた。
彼が私のファンだということ以外、なにも確定情報がない。
まだなにも安心できる要素がないのだった。
その日私は院長先生に、有給休暇の申請と、引っ越しする旨を伝えに行った。
番号が変わるだけでもいろいろ変わるから、市役所なり銀行なり郵便局なりをはしごしなければならないんだ。並ばないなら休み時間に自転車を走らせて行くけれど、さすがに市役所の待ち時間を考えたら、有給休暇を使ったほうがよさそうだ。
院長先生は私の申請に、変な顔をしつつも了承してくれた。
「そりゃまあ、柏原さんは有休を滅多に取らないから消化してくれるのはいいけど。でも普段は副業の納期でしか取らないのに、副業のほうは大丈夫?」
院長先生には私の副業内容は教えてないものの、納期が存在することだけは伝えているし、あまりにも締切がタイト過ぎる場合は有休を申請している。そのことを心配されると心底申し訳ない気分になったけれど、まあ仕方ないか。
「大丈夫です。なんとかしますから」
「そうかい」
それだけ伝えてから院長室を出て行くと、パートさんがにこにこ笑いながら声をかけてきた。
「柏原さん、引っ越しするって本当? ついに同棲でも決まったの?」
その言葉に、私は自分の頬が引きつってないかを気にした。この人、まさか院長室に聞き耳立ててたんじゃないよなあと疑う。さすがにうちみたいな診療所、防音機能なんかないから、聞き耳立てたら聞き放題だ。
私はなんとか自分自身に「クールになれ、野々子」と言い聞かせてから答える。
「いえ。単純に引っ越しです」
「そーう? だって普段から家に篭もっている子が気分転換に引っ越しするなんて考えられないし、遂に腹でも括ったんじゃないかと思ってね」
そのカビの生えた価値観どうにかならないのかな。私はげんなりとした。
私はパートさんたちと違って、バブルの恩恵なんて受けた試しないし、結婚すれば幸せになれる信仰も持ち合わせていないし、そもそもなんでもかんでも恋愛に結びつける小学生女子みたいな発想、いい年なんだからそろそろ勘弁して欲しい。
……なんて。思っていても言ったらなにをばら撒かれるかわかったもんじゃないから言わないけど。この人、嘘をばら撒いて勝手に人間関係を悪辣に仕立てていくから、適当に受け流す以外に道はない。
ひとりでそう結論付けて、私は話を変えることにした。
「今日朝イチで早めの患者さん来るんでしたよね?」
「あー、はいはい。歯周病こじらせている方と、歯石取りの方ですね」
「わかりました。歯周病は院長先生にお任せしますから、歯石の方は私のほうに回してください」
「わかりました」
正直、仕事の話だけしたい。私はそう思いながらマスクを付けてゴム手袋を嵌めた。
歯科衛生士は基本的に治療はしない。それは歯科医の仕事だからだ。逆に言ってしまえばそれ以外はなんでもする。歯垢歯石を取るのも、歯磨き指導も、レントゲンや治療の補佐も。
患者さんは看護師も歯科衛生士もパートの助手も歯科医も区別が付かない。そりゃ細かい仕事内容なんて、患者さんがわかる訳がない。
私はそれらをこなしながら、治療が終わるたびにゴム手袋を外し、必死に手を洗った。
この仕事を嫌い抜いていても、BL小説で稼いだ印税のほうが、とっくの昔に私の本職の給料を追い抜いてしまっていても、あまり辞めたくない理由は、ゴム手袋でマスクを付けて接していても、失礼に当たらない数少ない仕事だからだ。
これを付けている限りは無敵になれるけれど、これを付けていなかったら、私はただの非力な人間になってしまう。他の仕事ができるとはお世辞にも思えなかった。ネットだけで仕事ができる小説家以外の仕事のほとんどは、ゴム手袋とマスクを外すことを求められるのだから。
そう思ったら、簡単に辞められるものでもなかった。
****
有給を取ったから、その日の内に各届け出をざっと出して、その日までに荷物を全部浜尾さん家に運ばないといけない。
ひとまず私は、段ボールをひとつ運びにチャイムを鳴らすと、すぐに出てくれた。
「かしこ先生こんばんは!」
「ええっと、浜尾さん。引っ越しなんですけれど……」
「あ、はい。でも玄関じゃあれですんで、かしこ先生が使ってもかまわない場所を見てもらってもいいですか?」
「ええっと? はい」
私は浜尾さんに連れられて部屋にお邪魔して、少しだけ「あれ?」と思った。
この人といると不思議だなと思うのは、距離感が妙に適切なのだ。
私は基本的に人間嫌いが過ぎて、宅配便は玄関に宅配ポストを設置する程度には、なるべく人との交流を避けている。買い物だって営業終了間近の人が少ない時間を選んでしているくらいだし。
だというのに、浜尾さんといても、特に背中を仰け反らせるようなことがない。
思えば、隣の家に挨拶したときも、私たちは当たり障りのない挨拶しかせずにここまで来たし、この間私の本を拾ったときも、私は拒否感を示さなかった。
なんでだろう。
不思議に思いながらも、部屋に入った。
同じ間取りにもかかわらず、流れる匂いが違う。人の家の匂いって拒否感を示しがちなのに、不思議と浜尾さん家の匂いは落ち着いた。
リビングに部屋がふたつ。台所には最新式電子キッチン。部屋の間取りは同じだから、それはわかっていたけれど、本当に同じ部屋なのかと思うくらいに、浜尾さん家にはなにもなかった。
私はなにもないのは寂しいからと、百均ショップで買った花瓶とフェイクフラワーを端っこに置いてあるけれど、そういう遊び心は一切なかった。
テレビは置いてないものの、パソコンはものすごく大きなモニターが三つくっついたカスタマイズされまくったデスクトップがあるから、問題がないんだろう。
「これ、趣味のですか?」
私が何気なく尋ねると、浜尾さんが照れたように頷いた。
「仕事と実益を兼ねて、いろいろ足していったら気付いたらこう魔改造されてたんですよね。お金はパソコン以外だったら、本当にBL小説しか使ってないんで」
「BLマンガではないんですねえ?」
何気なく聞いてみると、浜尾さんは困ったように首を傾げた。
「なんて言うんでしょう。BL小説の場合は、挿絵を見ずにいろいろ想像することができるんですけど、BLマンガだと想像の余地がないと言いますか。なんかマンガに描かれている以上のことが想像できないと言いますか……だから、自分はBLは小説のほうが好きなんですよ」
「はあ……そういうものなんですね?」
少し意外な気分になった。
BL小説はイラストがあるのとないのじゃ扱いが大きく変わるし、表紙だけだと文句が出る。その上挿絵が見たいシーンじゃなくっても文句が出るけど、イラストの指示は基本的に編集さんだから作家に申請するのは勘弁して欲しい。
それはさておき、挿絵を見ず、表紙イラストも見ず、想像したいからBL小説を読むというのは、なんだか崇高な趣味な気もする。
私、そんな崇高は話は書いた覚えがないんだけどな。そう思いつつも、浜尾さんは「ここなんですけど」と案内してくれた。
一室、なにもない部屋があった。北側だから年中日当たりが悪いのはネックだけれど、返って本や資料が日焼けしにくいからちょうどいい。でもそんな本を置いておくには都合のいい部屋を、私がいただいてしまってもいいんだろうか。
「あの……物書きとしてはものすっごく申し分ないくらいにいい部屋なんですけど……こんないい部屋、もらってしまってもよろしいんでしょうか……? 浜尾さんも本集めてらっしゃるじゃないですか」
私がそう言うと、浜尾さんが慌てて手を振る。
「い、いえ! むしろ北側の日当たりの悪い部屋を渡すことになって申し訳ないです! もっと日当たりのいい場所のほうがとも思いましたけど……」
「いえ! 充分です! 本や資料が焼けたほうが悲しいですし、ここの大家は浜尾さんですから! 充分いい部屋を借りてたと思いますし!」
普通だったら同居というと、プライベートゾーンとかを考えるのに、真っ先に確保してくれたのを、どうして感謝せずにいられるのか。私があわあわと言うと、浜尾さんが心底ほっとした顔をした。
「よかったです。かしこ先生のお役に立てて」
私はそこら辺を見て、ようやく浜尾さんといても、私の人間嫌いが発動しないのか気が付いた。
この人、私のパーソナルスペースに入ってこない。仕事でなかったら嫌だと思うくらいに駄目だし、仕事中だって割り切れなかったら無理だし、本当にパートさんとの付き合いが嫌っていう位に、パーソナルスペースに入ってくる人に対して緊張するのに。
浜尾さんは私との距離を一定に保っているのだ。それこそ、自分から入るときは謝ってくるから、私の緊張が緩む。だからこそ、私の人間嫌いが発動しなかったんだ。
人から見れば、私のパーソナルスペースは相当広いらしい。過度の潔癖性も同じような行動らしいけれど、私は仕事でしてくる人に対しては若干緩い……ただし、自分が完全に休業中になっていると、本当に誰にも会いたくないし、誰とも肉声でしゃべりたくなくなる……から、美容院にも病院にも普通に通えるし、触られても平気だ。そもそも潔癖症が過ぎる人は、歯科医院では働けないと思う。
そのパーソナルスペースに土足で踏み込んでこないということは。
きっとこの人も、私と同じでパーソナルスペースが相当広いんだ。そう考えたら、私は一連の出来事に少しだけ納得した。
同族意識を持っているなら、よそに行ったらきっと困ることがあるだろうと心配して、ここに住ませてくれることになったんだろう。わざわざ私のプライベートゾーンをつくってくれたということは、そういうことだ。
「ありがとうございます……ひとまず、段ボールここに置かせてもらいますね。本格的な引っ越しは来週の土日かなと」
「ああ! だったら鍵もそれまでに用意していますね! あの、手伝いましょうか?」
「えっと……できたらパソコンの設置、お任せしたいんですけど……」
さすがにパソコンの設定もろもろを弄って仕事が滞ったら困る。
IT関係の人だからって、さすがに甘え過ぎだろうか。そう思ったけれど、浜尾さんはキリッとした顔で言う。
「かしこ先生の原稿を守るために、精一杯頑張ります!」
どうも、私は納期関係は難なくクリアできそうだ。
初めて見かけた同類さんのおかげで。
有給休暇の前に、無事に荷物を隣に持ち運ぶ作業は完了した。ずっと危惧していたデスクトップパソコンの移動も、浜尾さんがもろもろ回線を繋いでくれたので、無事完了したのに、私が手を合わせてしまった。
「でもかしこ先生。これ原稿全部入ってるんですよね? 原稿保存どうしてますか?」
「一応パソコンに保存してますが」
「えっ? まさかと思いますけど、ここだけですか?」
「まあ、本当にパソコン駄目になりそうな直前に、HDDに保存してますけど……」
「だだだだだだだ、駄目ですよ! 尊い原稿が一瞬で消えることとかあるんですよ!? 更新もろもろでデータ吹き飛ぶとか、ありますから!」
普段全然声を上げない人に、声を荒げられ、私はびっくりする。でも私、原稿が保存できずに悲鳴上げた例、新しいパソコン買い立てで更新が止まらなくなったときくらいしか、ないんだけどな。
「……保存しないと駄目ですかねえ?」
「先生の原稿消えたら、全世界の先生のファンが泣きますよ。もしよかったら、クラウドで保存できるよう設定しましょうか?」
「よく聞くんだけど、そもそもクラウドってなに?」
「そこからですか……」
原稿書くのに使っていても、未だにパソコンのことなにもわからない私につきっきりで、原稿の保存方式の設定を見直してくれ、もろもろの登録を確認してくれた。
「IT関連の人って、すごいですねえ……」
素直に感想を言ったら、浜尾さんに今にも泣きそうな顔を向けられてしまい、申し訳なくなった。現代人とは思えないくらい、機械に弱くてごめんなさい……。
有給休暇の一日を使って各方面に引っ越しの連絡を済ませる。
市役所やら郵便局やら公共料金に関する場所やらにも、住所変更の旨の連絡をして、取引先の出版社にも住所変更の連絡を入れていたら、あっという間に夕方になってしまった。
今日は連絡しかせず、ひとつも原稿に手を付けていない。そんな私を労ってか、浜尾さんは「あ、あの、かしこ先生」と声をかけてきた。
「すみません……引っ越し早々バタバタしてしまって」
「い、いえ。自分こそこう……なんのお役にも立てず」
心底申し訳なさそうにしているけれど、そもそも家無き子を回避できたのは浜尾さんのおかげだ。こちらも感謝しかないというのに。
しかも。浜尾さんはおずおずと尋ねてきた。
「あのう……引っ越し祝いでお寿司を取ろうと思うんですけど、かしこ先生はお寿司で食べれるもの食べれないものってありますか……?」
「へっ?」
出前を頼もうとしている浜尾さんに、私はますます驚いて、あわあわする。
「い、いえ……! そんな高いものなんて!」
「そんな、今日一日バタバタしてたんだから、おいしいもん食べないと駄目じゃないですか。なんでしたらおごりますし」
「いや、自分で払いますし! そう全部もらうのは駄目です!」
「あー……それも、そうですね。すみません。気が回らなくて」
浜尾さんはスマホで近所の寿司屋の出前サービスの内容を見せてくれた。最近の寿司屋の出前サービスってどんなものか全然知らなかったんだけれど、どれもこれもおいしそうだ。私は「お寿司は特に嫌いなものもアレルギーもないです。好きなのは、サーモンとか、貝ですかね」と言うと、「じゃあ」と浜尾さんは言う。
「松竹梅とレベルありますけど、どれにしますか? 松・竹・梅の順番で豪華ですけど」
「じゃあ……竹で」
「了解しました。他にサイドメニュー頼みますか? うちも粉末緑茶くらいしかないんで、飲み物欲しいんでしたら頼みますけど」
「粉末緑茶飲みつつ、お吸い物注文するのはどうでしょうか?」
「ああ……じゃあそうしましょうか」
スマホで注文を済ませると、浜尾さんは私に食器棚の位置や、入っている食器の順番、食洗機の使い方までを教えてくれた。
すごいな、ストレス溜まったら家事に逃げるという癖が付いていた私にとって、食洗機は文明の機器だ。
「うちにある食器は、全部食洗機で洗えますから、溜まったら付けてくれてかまいませんから」
「ありがとうございます。ありがたく使わせてもらいます」
洗濯機も乾燥機付きのものだったから、ただただ便利さに呆気に取られた。
ありがたくも使い方を教わり、お茶を淹れる準備をしていたところで、注文していたお寿司が届いた。ふたりで松ランクの寿司を食べはじめる。
私はありがたいと割り箸を割って手を合わせてからお寿司をいただきはじめ、ちらりと浜尾さんを見た。
この人はいろいろと親切な割に、パーソナルゾーンが広い。でも食洗機の使い方や洗濯機の使い方を教えてくれるあたり、私と同じで潔癖性とは類が違うらしい。
でもいきなり「パーソナルゾーンが広いんですね」なんて話題の振り方をしたら、この人だって困ってしまうだろうと、私は身を小さくしていた。
ちらりと見ている限り、浜尾さんは私よりもちまちまと食べる。特にお寿司を分解する訳でもなく、ただ食べるのが遅いようだった。私はお吸い物を手に取りつつ「あの……」と切り出した。
「な、なんでしょう!?」
「……私、こうして無事に引っ越しが済みましたけど、なんかここで暮らすに辺り、注意事項とかはありますか?」
さすがに大昔のBL小説みたいに「同棲の条件は体だグヘヘ」と言われても困る。この人があまりにも私と同じようなタイプだなと判断したから、ここに引っ越してきた訳で。
浜尾さんは私にそう聞かれて、心底困ったように、目をきょろきょろと彷徨わせた。……さすがに大昔のBL小説みたいな展開は困る。
そう思っていたら「そ、そうですよね……」と言い出した。
「全く見ず知らずの人に、無償で家に住んでくださいって言われたら、怖いですよね」
「あ、怖いとかそういうんじゃなくって……落ち着かないと言いますか、私が浜尾さん家に住んでなんのメリットがというか……」
「い、いや……メリットなんて、俺からしてみればモリモリありますけど? ただ、それが原因で、かしこ先生が困ると、俺も親切の押し売りみたいになってしまうから焦ると言いますか」
本当に、なにが? そう言うと、浜尾さんがパンッと手を叩いた。
……いや、叩いたんじゃない。拝まれているんだ。
「……正直、かしこ先生の作品に、俺は救われていますから。本当にありがたいと言いますか。尊いと言いますか。もし、かしこ先生の作品が完成しなくなったら俺にとってこの世に光がなくなったように思うというか、それを阻止できて、かしこ先生の次回作をこの世に出せるのだとしたら、いくらでも俺は無理をしますと言うか……」
「いや、無理はしないでください。無理しないでください。お金は大事ですし、時間も大事ですから」
「そ、そうなんですけど……で、でもそうですよね。いきなりそんなこと言われて拝まれたり崇められたりしますと、困りますよね……で、でも。俺にとってかしこ先生に救われたというのは、本当なんです……本当にありがたかったんですよ……」
「いや、拝まないで。崇めないで……いや、ファン辞めてと言うんじゃないんですけどね」
あわあわしながら、とにかく取りやめてもらった。
どうも私のことを神聖化しているらしいけれど、本当に私自身に対してなにかしら変な目で見たいというのは、全然ないようだ。
なんだか変な気分だ。
私の作品を「尊い」と言ってくれるファンはいくらでもいたけれど、それを書いている作者の私を「尊い」と拝まれたのは初めてで、世の中には家族以外に無償の情を向けてくれる人が本当にいるのかという、嬉しいというより先に、戸惑いのほうが勝ってしまっている。
「……ありがとうございます。でもさすがにここに住ませてもらって無償はまずいんで、せめて公共料金代くらいは支払わせてください」
「えっ……かしこ先生から家賃を取るんですか……?」
途端に浜尾さんは困ったようにおろおろとし出したので、私が慌てて言う。
「折半! 浜尾さんが支払う公共料金全部折半しましょう! これなら、問題ないですよね?」
「ま、まあ……それくらいだったら……別に……でも、本当にいいんですか?」
「いくらなんでも、あまり甘えてしまうのは申し訳ないですし! まさか私の運んできた資料全部預かってくれるなんて思いませんでしたし、感謝しかないですよ」
そう言った途端に、浜尾さんはふにゃりと笑った。
「それ、なら……よかったです」
「はい……」
本当に変わった人だな。私はそう思った。
****
今日はもう忙し過ぎて、原稿はしない。メールチェックだけして、返信が必要な分だけ明日の朝済ませておこう。
そう思ってメールの確認をし、スパムメールをあらかた消して、返信が必要なもののメールを確認している中、一件取引のない会社からのメールを見つける。
世の中、仕事のオファーが来る来ないという話はあるけれど、BL小説の場合はほぼほぼ持ち込みであり、オファーなんて滅多に来ない。でも、この会社はたしかBL小説のレーベルなんてなかったはずだけれど。
新しくつくるとか? 不思議に思いながらメールを開いた。
【乃々原かしこ様
お初にお目に掛けます、私、クロッカス書房の三宮と申します。
乃々原先生の著作を拝見し、ぜひともうちのレーベルで乃々原先生の本を出したいと思います。】
一緒に添付されていたらレーベルコンセプトを見て、ますます困惑する。
これは……BLじゃない。一般レーベルだ。最近はキャラ文芸とかライト文芸とか、一般文芸よりも少々コミカル寄りな作品も多く出ているけれど、そういう系統からの打診だった。
それに私は困惑した。
……私、セックスなしの本なんて、書いた覚えがない。
男同士のセックスが書きたくてBL小説書いているのに、一般レーベルで書いたらいろいろまずくないか。
「……断るかなあ」
お断りメールを送っておこうと、心に決めた。
私と浜尾さんの同居生活は、かなり順調だった。
互いにパーソナルスペースが広い者同士、互いに遠慮をしながら距離を置いて生活し、互いの部屋にはドアを叩かずに絶対に入らない。共同スペースではできる限り邪魔にならないように過ごす。
家事はそれぞれ別にするものの、できるときは互いの分を「やりましょうか?」と声をかけてからやる。基本的に「大丈夫です」とか「問題ないです」とか言われた場合はやらない。
他人の家、ましてや私のファンだとは言えど男性と一緒に暮らすというのはどういうことだろうと緊張していたものの、思っているよりスムーズに生活は進んでいった。
あー、よかった。心の底からそう思う。
なによりも浜尾さんが私のファンだというのを知ったのは、私がゲラの作業に取りかかっているときだった。本当だったら私の部屋で全部やってしまいたかったけれど、ゲラ作業はどうしても手元に電子辞書を置いて逆引きしながら進めるので、ひとりで狭い部屋でやっていると、だんだんと疲れてくる。
手元に飲み物を置いてやるとなったら、リビングでやったほうがいい。私は家主の浜尾さんに許可をもらうことにした。
「あのう……ゲラ作業をリビングでやってもいいですか? もしテレビとか見るんでしたら、喫茶店に行ってやってきますけど」
「ええっと、ゲラ作業っていうのは?」
ああ、そっか。小説を書かない人。ましてや世に流通している小説の原稿を知らない人は知る訳ないか。私は簡単に説明する。
「本にして店に流通する直前の作業って言いましょうか。担当さんに引き渡した原稿の誤字脱字や文法ミスを見つけたら潰す最後のチャンスなんですよ」
赤入れとか著者校とかいろいろ言い方はあるけれど、大まかに言ってしまえばそういうことだ。それに浜尾さんは「おー……」と言った。
「それ、まだ本になる前のかしこ先生の話が読めるってことでしょうか?」
「まあ……そうなりますね……」
「どうぞ! もし必要なものがありましたら買いに行きますし、お茶もコーヒーも置いておきますから好きなように飲んでください!」
「あー、どうも……」
そこまで喜ばなくっても。
ひとまず出版社から送られてきたゲラ、消しゴムで消せる赤ペン、よく削った鉛筆、電子辞書を持って、作業を開始した。
もう既に話の大まかな部分は全部書き終わってしまうけれど、ここで油断していたら、一ページまるまるその場で書き直しとかになりかねないから、慎重に慎重に作業を進める。
出版社の校閲から「これは差別用語では?」とか「これは文法ミスでは?」とか「これはことわざですから漢字にしないとおかしいのでは?」とか、心臓を掴まれそうな指摘が多く、そのたびに電子辞書で内容を確認し、もしそれでも納得がいかなかったらスマホでネット検索して確認を取り、そのひとつひとつに赤を入れたり、時には鉛筆で注文を付けたりしていく。
一枚一枚を慎重に進めていく様を、浜尾さんはまじまじと眺めていた。
「あのう……」
「はい?」
思わず乱暴な返事になってしまい、口を噤む……ああ、本当に。ゲラ作業中は気が昂ぶり過ぎて、言動がほとんどBL小説の攻めだ。声が荒過ぎる。
一瞬ビクンッと肩を大きく跳ねさせた浜尾さんは、おずおずと尋ねてきた。
「これが見終わった分ですよね?」
私が電子辞書で重りをしている、確認済みのゲラを指差して、浜尾さんが尋ねてきた。
「そうですよ?」
「よ、読んでも……大丈夫でしょうか……?」
思わず浜尾さんの表情を凝視した。彼はまたも私をビクビクして視線を合わせない……これじゃ私が俺様攻めで、浜尾さんが流され受けだ。俺様攻めは今のトレンドではない。
「……大丈夫ですよ。ただ私もある程度作業が終わったらもう一度確認しますから、あんまり遠くに持っていかないでくださいね」
「あ、ありがとうございます……!!」
途端にパァーっとした表情を浮かべ、嬉々としながらページを捲りはじめた。まだこの段階じゃ挿絵も入ってないし、本当に小説だけなんだけれど、それでもこんなに喜んで読んでくれている。
私の読者さん、いつもこんな風だったのかな。
少しぼんやりとしながら、浜尾さんを眺めていた。
前からの素朴な疑問、そもそも浜尾さんは女性が恋愛対象なのかそうでないのかは、今のところ保留になっている。この人、本当にいい人だし。わざわざこちらからセンシティブな質問をして、今の居心地のいい環境を壊すような真似はしたくなかった。
そしてゲラを進めていった。普段だったら規定数終えたら、次は明日に回すんだけれど。でも今日は規制数の倍進んでしまったのは、浜尾さんが読みながらすぐに感想をくれたせいだろう。
「……やっぱりかしこ先生の話は素敵ですねえ。すごく乾いた関係に、一点の水が落ちるまでの過程が丁寧です」
詩的な感想だなと、私は思わず赤ペンを止めた。
今回出版社から依頼を受けて書いていたのは、オメガバースの小説だった。オメガバースとはアルファ、ベータ、オメガという性別のあるとされている世界観の総称だ。アルファでなかったら王位を継げない国で、オメガに生まれてしまい王位を継げないことが確定してしまった王子が、騎士団に入って騎士団長と体の関係になりながらも、波乱の巻き起こる国内を抑えて王になるまでの過程の話だった。
最初は武力を抑えて利用するだけだった関係から、少しずつ互いを支え合う関係になるまでの物語になっている。
浜尾さんはそれを夢中で読んでくれていた。
「片や野望のために自分の体を利用する人、片や叶わないと諦めきっていた恋を叶えようと奔走する人。互いの執着と野望が煮こごりのようになっていて、それでいてものすごく乾いた雰囲気のおかげで粘着質にはならないんですよねえ」
「……浜尾さん、かなり感想が詩的ですね」
「ポ、エムは……かしこ先生嫌でしょうか……?」
「いえ、これはかなり褒めています。だいたいもらう感想って、どこが尊かったとか、どのキャラが好きかとか、かなり感情的なものしかもらってないんで、こんな詩的に流々とした感想は初めていただけたんで、嬉しいんです」
「あ……はははは……かしこ先生が嬉しいんでしたら、俺も嬉しいです」
そう言って照れた浜尾さんに、私は何故か込み上げるものを感じた。
……なんだろう。私は少しだけ首を捻った。とりあえず今日のノルマまでゲラを進めてから、私はクリップでしおりを付けて今日の作業を終えた。この分ならいつもよりも早めにゲラを出版社に送れるな。浜尾さんが「よろしかったらどうぞ」とインスタントコーヒーをくれたのを、ありがたくいただいた。
砂糖なしのミルク入り。私の好みまで、気付いたら覚えてくれていた。
****
他社の原稿をしていたところで、メールの通知が入った。
なんだろうと思ったら、この間断った出版社からだった。袖にしたから、それでなにかしらのリアクションかな。私はメールを確認して、目を細めてしまった。
【乃々原かしこ様
先日のメールの返答誠にありがとうございます。
先生は断るとおっしゃっていますが、こちらとしてはぜひともと思っています。先日の先生の著書を拝読し、こちらのジャンルにまで裾野を広げるお手伝いができればと思っています。】
裾野ねえ……ジャリッと砂を噛んだような感覚を覚えた。スケジュールを私に合わせるとか、一般文芸に新しい風はとか、なにかしら綺麗なオブラートに包んで、本音をさらけ出さないのが気味が悪い。そもそも私のどの本を読んで一般文芸の打診をしてきたのかがわからないのが、尚のこと気味が悪かった。
なによりも。この人BLを馬鹿にしてないか、と引っ掛かったのが強い。人の仕事を下に見ている人に、自分の原稿を預けることほど怖いことはない。
私はワープロソフトで書いた原稿を保存すると、メールの返信を再度書くことにした。丁寧なビジネスメールの文面で書いたけれど、「なんの本を読んで打診したのかがわからない」というのと「私はBL小説を書いて生活しています。よそのジャンルを馬鹿にする気はないですが、私のジャンルを馬鹿にされたら普通に嫌です」ということを主張した。
多分これで、よっぽど人の気持ちがわからない人でない限りは諦めてくれるとは思うけれど……この業界、ときどきなにを言っても噛み合わない人はいる。この人がその手のタイプでないことを祈るしかない。
「送信。今日の仕事は終わり」
そう言ってパソコンを落とそうとしたとき。タイミングよくスマホが鳴った。誰かと思って見てみたら、うちの妹からだった。
私も自分のスマホの番号なんて、家族くらいにしか教えていない。
「はい、もしもし」
『もしもしお姉ちゃん?』
年が離れている妹のたつきは、相変わらず溌剌とした声をしている。人間嫌いの私と、人懐っこいたつき。
私たち姉妹のことをよく知っている人は、皆首を傾げて「なんで?」と言う。
そりゃそうだ。この子は私みたいにならないように、精一杯根回ししたんだから、たつきが私みたいになるはずがない。
この人懐っこい妹がこんな時期に電話をしてくるのは珍しかった。
「どうしたの。普段アプリで連絡してくるのに」
『だってお姉ちゃん。仕事に興じているときは全然スマホ見ないでしょう? それだったら困ると思ったから』
「なに? どうしても私じゃないと駄目だったの?」
『お姉ちゃんお願い。週末泊めて! 今度の企業面接、東京まで出ないと駄目なんだけれど、ホテルがどこもかしこも全滅で……もう私の予算で泊まれるところがないの』
「あー……」
そういえば、たつきは現在就活中だった。東京のホテル代は馬鹿にならない上に、学生だと出せるお金にも限度がある。そりゃ私ひとりだったら問題ないんだけど。
内心「無理!」と叫んでいた。
そもそも浜尾さん家に住ませてもらっている状態で、個室まで与えられているという至れり尽くせり状態だ。その上妹まで泊めるって、どんだけヤクザな同居人だよ。
私は「あのね、たつき」とどうにか声を窄めて言う。
この子の性格上しないだろうけれど、万が一にでもうちの親がいるとまずい。私は続ける。
「私、今居候してるから。居候先の大家さんに許可取らないと、あんたを泊めることはできないから」
『え? どうして人間嫌いのお姉ちゃんが人と住んでるの?』
私のことをよく知っているたつきは、当然の質問をする。そうだよね、まずはそこに突っ込むよね。私は明後日の方向を見てから、答える。
「……いろいろあったから。とにかく大家さんに確認してからまた連絡するから。いきなり問答無用で押しかけてこないでよ?」
食事当番は、ふたりとも大雑把だった。
私は休みの日にずっと食べられるものをつくって、一週間ひたすらそれを消費する生活を送っていたのに対し、浜尾さんは暇なときにつくったものを冷凍させて、好きなものを解凍させて食べるという生活を送っていた。
どうもこの人は、推し作家の本が出ない限りは、いきなり大量出費をする性分でもないみたいだ。世の中にはソーシャルゲームのガチャに家賃ほど使い込むという人種もいるらしいけれど、浜尾さんはそういう趣味もないらしい。
「意外と考えてらっしゃるんですね?」
思わず失礼なことを言ってしまい、私が内心「しまった」と思っていると、浜尾さんは困ったように笑った。
「自分、一度検診で引っ掛かったんで、それ以来はどうにか節制しているんです……入院しても、病院だとBL小説なかなか読めないじゃないですか」
「まあ、たしかに」
今時電子タブレットで読めないこともないけれど、そんなもん持ち込んで万が一看護師さんに挿絵を見られた日にゃ、恥ずかしさのあまりにのたうち回ることになるだろう。なかなか難しい。
そんな訳で、今日は夜ふたりとも揃っていたので、適当に冷凍させていたミートソースを解凍し、パスタを茹でてそれをかけて、晩ご飯としていた。
「あのう……浜尾さん」
「はい? かしこ先生、もしかしてこのパスタ合いませんでしたか? すみません……かしこ先生の好きなメーカー知りませんので」
「いやいや。パスタもソースもおいしいです。このもちっとしたメーカー、イタリアのメーカーなんですね、覚えました……そうじゃなくって。ちょっと相談がありまして」
「相談ですか?」
浜尾さんのつくったミートソース、お医者さんに叱られたせいか、野菜が無茶苦茶入っていて、食べ応えがある。にんじん、茄子、玉ねぎまではなんとかわかったけれど、多分それ以外も入っている。冷凍させてあるせいで、野菜の歯ごたえが変わってしまっていまいち全部の野菜はわかんないけど……。
ミートソースをパスタに絡めていただきながら、私は意を決して口にした。
「……うちの妹、今就活中なんですけど、彼女の面接前後にホテルを抑えることができなかったらしいんですよ。それでうちに泊まりたいと言ってきたんですけど、私もさすがに浜尾さん家に居候していることまでは言えなくって……そのう……浜尾さんは大丈夫でしょうか……?」
「い、もうと……さん、ですか……?」
途端に浜尾さんはカチコチに固まってしまった。
……この口調、最初に会ったときと同じだなあと、ついつい懐かしくなってしまった。最近こそ、浜尾さんは私のことを本名で呼ぶことなく「かしこ先生」と完全にファンムーブして呼んでくるけれど、知り合ったばかりの頃は、私と出会っただけでカチコチに凝り固まってしまっていた。
女性が怖いんだろうか。女性が嫌い……だったら、そもそもどうして私に住むよう勧めてくれたのかがわからないし。でも女性が怖くても同じか。
浜尾さんの反応に、私は「もし駄目そうなら、私がちゃんと妹に言っておきますから……」とたつきには悪いけど断ろうと考えていたところで。
「いや、女性がホテルに泊まれないのは、大変ですよね。ネットカフェだって、最近はなかなか泊まれないみたいですし。お、れが……会社に泊まり込むんで、面接期間中でも、どうぞおふたりで使ってください!」
浜尾さんの言葉に、私は目をパチクリとさせた。そして慌てる。
「い、いやいやいや。ここ浜尾さん家じゃないですか。私だけでなく、妹まで泊めろなんていうのがどだい無理な相談だったんですから! 駄目ですよ、浜尾さんはちゃんと自宅で寝てください!」
「です、けど……それじゃますます妹さんに、悪いですし! お、れみたいなのがいたら……妹さんにも……悪い、ですし……その」
なにかを言いたげに、浜尾さんは視線を彷徨わせた。さすがにこちらも、家主を追い出してまでたつきをここに泊めようとは言わないし、なんだったらあの子が泊まれそうなホテルを一緒に探すのに。
やがて、浜尾さんは口を開いた。
「……腐男子は、妹さんにとって、気持ち悪くはないですか……?」
それに私は目を瞬かせた。あー……そっちかあ。私は手を振った。
「多分、それはないと思います。あの子と私たちの世代、結構感覚が違うみたいで」
「感覚が……ですか?」
「はい。私がBL小説書いているのもそれでデビューしているのも、あの子くらいにしか教えてませんけど、あの子くらいの世代は、そういうのを『すごい』って言うみたいで。BL好きっていうのもひとつのジャンルくらいに思っていて、あんまりこちらが思っているような色眼鏡では見てないみたいです……私も上手く言えないんですけど」
私がBL小説でデビューしたときなんて、BL小説イコール女性がされたいことを男同士でしているんだという偏見がとにかくきつかった。たしかにセックス描写を書きたくて書いている部分はあるけれど、そういうんじゃない。そもそも男女の恋愛で書けないことを書くのがBL小説だから、男女恋愛で書けることはBLでは書かない。だから男女恋愛の代替品だと思われると、ものすごく困る。
浜尾さんはその説明を聞いて「はあ……」と間延びした声を上げた。
「なら……大丈夫なんですかねえ……」
「あんまりひどい場合は、私も言い聞かせておきますから。とりあえず、浜尾さんにご迷惑おかけしないようにします。それなら、大丈夫でしょうか?」
「あー、はい。布団。用意しますね」
「それだったら、私が自分で用意しておきますから、大丈夫ですよ」
ふたりであわあわ言いながら、ひとまずはたつきを泊める方向で話は進むこととなった。
……ただ、まあ。
あの子は基本的に優しい子ではあるけれど、ときどきびっくりするほど無神経だ。いや、違うか。私が繊細ヤクザが過ぎるんだ。たつきは私と違ってあまりにも健やかなんだ。だから病んでいる人間の気持ちが本気でわからない。
豆腐はおいしい豆腐料理にはなれるし、なんだったら潰して豆乳替わりにすることはできる。でも。火を通して豆乳とおからに分けられてしまったら、もう元の大豆には戻らない。
大豆は豆腐の気持ちなんて、わからない。
****
約束の日、私はたつきを迎えに駅前に出ていた。
パートさんに会ったら嫌だな、院長先生に会ったらもっと嫌だな。そうぼんやりと思っていたら「お姉ちゃん!」と元気に手を振るたつきの姿が見えた。
就活中だからだろう。最後に会ったときはかなり明るい色に染まっていたと思う髪はすっかりと真っ黒に戻り、ゴムできっちりひとつにまとめていた。スーツは鞄に入れているんだろう、彼女自身はデニムにカットソーとシンプルな格好だった。
「久し振り。ここまでちゃんと来られた?」
「心配性だよー。スマホがあったらだいたいどこにでも行けるし」
そう言ってヒラヒラとスマホを見せてくれた。さすが現代っ子。機械に強い。なんでもかんでも業者に頼まなかったらできない私とは大違いだ。
私はたつきを連れてアパートに向かう中、この子の就活事情を聞く。
「とりあえず、東京で二十件は履歴書送って、その半分は一次面接まで行ったんだよ」
「ふうん……地元で就職するのは?」
「うーん。最悪はそうしてもいいかなあとは思うけど、地元だったらできないこといっぱいあるじゃん。お姉ちゃんだって小説家になれたの、地元出たからでしょう?」
「そりゃあね」
地元じゃ娯楽に飢え過ぎているから、人の噂くらいしかまともな娯楽が存在しない。人の一挙一動を娯楽にしないで欲しいし、BL小説書いていることをとやかく言われたくないから、就職を機に地元を離れたくらいだ。
たつきはにこにこ笑う。
「でもお姉ちゃんが居候かあ……なあんかいいなあ」
「……いいなあって、なにが? 居候がそんなに面白い?」
「ううん? 人間嫌いのお姉ちゃんが人と一緒に住んでいるのがすごいなあと思って。いったいその人どんな人なの? いい人? お姉ちゃんが気を許すくらいには」
「……どうだろうねえ。私にはいい人だと思う。たつきにとってはどうだか知らない」
「ふうん、よっぽどいい人なんだねえ。よかったよかった」
そう言って勝手に納得しているたつきに、私はげんなりとした。
いい子なんだよ、本当に。ただときどき無茶苦茶無神経なだけで。ただねえ。私はこの子に自分みたいな繊細ヤクザになって欲しくなかったし、この子が繊細ヤクザになりそうな原因は、あらかた潰して回っていた。それこそ、地元を離れるまで、たつきが健やかに育つよう祈って行動していたから、今の無邪気なたつきが爆誕した。
私はそれでいいと思っているけれど、たつきはどう思っているかまでは知らない。
やがてうちのアパートが見えてきた。浜尾さんは仕事に出ているから、夜まで帰ってこないはずだ。
「あんまりうろちょろしないでよ。あと、私の部屋以外は大家の管轄なんだからね。共同スペースは説明するから、そこを綺麗に使ってよ」
「さすがに小学生じゃないから! でもすごいねえ。ファミリータイプのアパートだから、広々ー」
たつきはきゃっきゃと部屋を歩き回っていた。まあ、そりゃそうか。
浜尾さんはごついカスタマイズしまくったパソコンがある以外は、軒並み自室に物を突っ込んでいるし、私の本は自室の本棚に入れているから見える場所にはない。
さすがにたつきがいる中で仕事はできないから、急ぎの仕事は全部終わらせたから、急な予定変更がない限りはなんの問題もないはず。
私はそうひとりで段取りを考えている中、たつきは「あれ?」と声を上げた。
「なあに、だからあんまりうろちょろ……」
「これ、電動カミソリ?」
「あ」
洗面所を眺めていたたつきが、電動カミソリを指差した。
しまった。浜尾さんのものだと認識していたし、私も特に触らないようにしていたから、そんなの女性が使わなかった。
「お姉ちゃん、もしかして大家って男の人?」
「ええっと……」
「ええ? すごいすごいすごい! お姉ちゃんいつの間に男の人と同棲してたの? 本当にお姉ちゃん人間嫌いなのに!」
ものすごくきらきらした目で言わないで欲しい。こちらが人間嫌いな自覚はあるから、異性と同棲していたら、普通に結婚考えていると思われても仕方ないかもしれないけど。私は狼狽えて必死で言い訳を考える。
「いや、違う……本当に、なんにもないから……」
「えー? でもなんにもない人と同棲って、いくらなんでもお姉ちゃん危機管理できてなくない? 大丈夫?」
さっきまできらきらした目をしていたたつきが一転、心配したように顔をひそめてきた。だから、本当に、なんにもない。
「……その人、私に全く興味ないから」
「いわゆるLGBTの人?」
「……あんまりセンシティブな話は止めてね。多分そういうのでもないと思う」
あの人が私を異性判定してないのだけは間違いないけれど、それもさすがに偏見過ぎると思う。私はたつきに「そういうのは簡単に聞いちゃいけない」と口酸っぱく言ってから、夕食をつくることにした。
さっさとお腹いっぱいにさせて、さっさと寝てもらおう。今はそれしか考えていなかった。
たつきの反応を見て、浜尾さんとはなるべく顔を合わせないように配慮するしかないと、浜尾さんにアプリで書き置きだけして、私は彼女を連れて食事に出ることにした。
さすがに仕事帰りの食事くらいは、落ち着いて食べて欲しい。
たつきは人におごってもらうのは大好きなため、私が「おいしいイタリアン連れてってあげるから、大人しくして。ご飯食べたらちゃんと寝てて」と言ったら、素直に頷いてくれた。
さすがに面接前に酒が残ったらまずいだろうと、私はワインを頼むのを躊躇ったけれど、たつきは私がメニューを見ている中「お姉ちゃんお姉ちゃん」とメニューを見ながら言う。
「私、白ワイン飲みたいなあ……」
「あのねえ……白ワインがグラス一杯だけでもかなりアルコールあるよ? 明日あんたの面接だったら、なおのこと出せる訳ないでしょ」
「えー、水を飲みながらアルコール飲むんだったら、悪酔いしないってネットで言ってた!」
「それ、多分アルコール飲み慣れている人の言葉だし、飲み慣れてない人間が真似してもあんまり意味ないと思う。まだたつき、自分の酔い度がどれくらいか把握できるほども飲んでないでしょ」
「えー……」
結局私は大量の果物と炭酸で割っているからギリギリ大丈夫だろうと、サングリアを注文することで妥協した。たくさんの果物の果汁が入っているおかげで、ほとんどジュースと変わらないけれど、たつきが調子に乗って「お替わり頼んでいい?」と言うから、「駄目」と即答して黙らせたけれど。
出てきたマッシュルームのポタージュを飲みながら、たつきはきゃっきゃと聞く。
「人間嫌いのお姉ちゃん、どうやって知り合ったの? 同居人さんと!」
「えー……あの人お隣さんだったの」
「それだけえ?」
「うん」
さすがに、浜尾さんが自主的に言ってないのに、私の読者だって言うのもなあと、言うのを躊躇った。
たつきはジトォと私を半眼で見ながら言う。
「でもお姉ちゃん、基本的に人間嫌いじゃん。お隣さんだからって理由で仲良くなれるとは思えないよ。趣味一緒とか? お姉ちゃんみたいにオタクとか」
「……止めてよ、そういうのは」
「今って別に、オタクっていうのはなんの恥ずかしいことでもないよ? お姉ちゃんものすっごく公言したがらないけどさあ」
「あんたと私だと、世代が違うの。私は自主的に自分の趣味をひけらかすの、好きじゃないし」
「ふうん? そういうもんなの?」
年が離れていると、趣味に関する距離感も変わるなと、少しだけ怖くなる。少なくとも私は、「BLが好きです」と公言して歩き回らない。たつきが暢気で無神経なのか、あの子の世代はこういうもんなのかが、私にはよくわからないままだった。自分自身が繊細ヤクザである自覚はあるんだけれど。
私は「そういうもんです」と言うと、たつきは「ふうん」とだけ言った。わかってくれたのかどうかは知らない。
「でも大家さんにはお姉ちゃん、気を許してるんだねえ」
「何度も言うけれど、あんたが思っているようなこと、私たちにはなにひとつないから。そういうの期待しないで」
「なんで?」
それはなにに対する「なんで?」なんだ。思わず聞き返しそうになるのを、ぐっと堪える。食事がまずくなるから。
メインディッシュの手長海老のパスタは、手長海老を手で取ってしゃぶらないと身を食べられないせいで、少しだけ無言になる。ふたりでもりもり手長海老をすすって、その甘く引き締まった身を堪能していたら、トマトソースのパスタをフォークに絡めながら、ようやくたつきは口を開いた。
「私、それがよくわかんないなと思ったんだけど」
「だから……なにが『なんで?』なの。話が飛び過ぎててよくわかんない」
「なんにも飛んでないよ? 単純に、ひとつ屋根の下に男女が住んでて、どうしてなんの事故も起こらないんだろうって不思議に思っただけ。おまけに私が泊まりに行ってもなんの問題もないって、変なのって思ったの。その人、LGBTの人でもないんだったら、なんでなんだろうって」
「あのねえ……私が四六時中発情して、ムラムラしている人と同居なんてできる訳ないでしょ」
「うん、お姉ちゃんの人間嫌いを考えればそうだよね。その人間嫌いのお姉ちゃんが許容できる関係ってなんだろうって、普通に疑問に思ったんだよ」
そこかあ……。私はなにもかもを面倒臭く思いながら、パスタを食べるのに集中した。
せっかく海老の味が濃厚なパスタが、これじゃあ台無しだ。
「あの人と私は同類だから。だから上手く行ってるんだよ。だからたつき、お願いだから私たちを引っかき回さないでよ。本当にお願いだから」
そう懇願するように言うと、たつきは「仕方ないなあ」と言ってから、サングリアを傾けた。
「なんというかさ、お姉ちゃんもその、大家さんも。生きにくそうだよね」
そうしみじみと言われてしまい、私はがっくりとうな垂れた。
自分たちが生きにくい性分だってこと、自分たちが一番よくわかっている。
私たちは互いに人間嫌いで、互いにパーソナルスペースが広いのを知っているから、それにできる限り触れないようにしているから、かろうじて上手く行っている関係だ。
互いに風呂の時間を分け、生活動線を引いて、絶対に踏み込んではいけないスペースに入らないように心掛け、実際にそれで上手く行っている。
BL作家とその読者。今は同居人。
他になにも入り込む余地がないからこそ、居心地のいい関係を築いている。
それは異物が入ってきたら、簡単に決壊してしまう関係だ。だからこそ、頼むから余計なことは言ってくれるなと、私は必死になって言っている訳だ。
****
帰りに、浜尾さんにお土産兼お詫びでエッグタルトを買って帰ることにした。さすがに了承してもらったとはいえど、私たちのパーソナルスペースにたつきを入れることにしたのは申し訳がなさ過ぎて、せめて手土産でも持って帰らないと無理だった。
私たちがアパートに帰り着くと、とっくの昔に浜尾さんは帰ってきていた。日頃はもっとダラッとしたシャツにジャージ姿にもかかわらず、仕事帰りのスーツ姿のままなのは、私たちに風呂を譲ろうとした結果なのかもしれない。
「ただいま戻りました……食事、外で済ませました。これ、お騒がせしますからお土産のエッグタルトです。暇なときでもどうぞ」
私がエッグタルトの紙箱を差し出すと、浜尾さんは怖々と受け取った。
「お帰りなさい……えっと、こんばんは……」
浜尾さんはあからさまに視線がおかしい。私とはなんとか目を合わせられるものの、視界から必死でたつきを外そうとしているのだ。
たつきは怪訝な顔で一瞬見たものの、すぐ屈託のない笑みを浮かべた。
「こんばんは! 初めまして、しばらくお世話になります、柏原たつきです! よろしくお願いします!」
「えっと……はじ、めまして……浜尾、努です……せ、まい部屋ですけど、好きに使ってくれて、かまいませんから……ああ、自分はできる限り部屋にいますから、本当に気にせず……」
あからさまに私と初体面のときに戻ってしまった浜尾さんは、今にも口から魂が出そうになっていたものの、どうにかたつきとの挨拶を終えたあとは、部屋に引っ込んで本当に出てこなくなってしまった。
まるで彼の家を私たち姉妹が乗っ取ったみたいで、非常に申し訳ない。
たつきは私と顔を合わせた。
「お姉ちゃんとも、いつもああなの?」
「いや、私とは普通に会話ができてるけど。というより、そうじゃなかったら同居できないでしょ」
「それもそうか。でもああだったら、大変そうだねえ」
「なにが?」
「ずっと人の言動に緊張し続けていたら、いつかパァンと破裂してしまいそう」
「止めて。それ絶対に浜尾さんに言わないで」
「わかってるよ。ただ、大変そうだなと思っただけで」
「それ。そういうの本当に止めて」
私が注意すると、たつきは少しだけ唇を尖らせてから「はあい」とだけ言った。
浜尾さんの風呂の時間は私たちよりも大分遅いから、たつきに最初に入らせてから、私も風呂をいただくことにした。
久々に人が使ったあとの湯船で、風呂場が暖まっているのがわかった。
浜尾さんはシャワーしか使わないせいで、私しかお湯を使わず、あまりにも申し訳ないのともったいないので、残り湯は全て洗濯と風呂掃除に使わせてもらっていた。
何度かお湯をよかったら使って欲しいとか、シャワーだけだと体に悪いと言っても、浜尾さんは頑なにお湯に入らなかった。そういう性分なのか、私のあとのお湯に入りたがらないのかがわからず、私が風呂の時間を入れ替えるよう交渉しても、やっぱり「かしこ先生に申し訳ないです」と首を振って、受け入れてもらえなかった。
普段は私しか使わない湯船に入りながら、ぼんやりと今日一日のことを考える。
一日たつきに付き合った疲労が、お湯に流れて消えていったらいいなとぼんやりと湯船にもたれながら思う。
この子は気を遣っているのか、人の神経を抉っているのかがわからない。でも繊細ヤクザはなんでもかんでも「傷付きました」と言ったら傷付いてしまう認識になってしまうから、これは単純な私の認知の歪みなのかもしれない。
そもそも、私はなんでたつきに久々に会って、ずっと繊細ヤクザがまろび出るくらいに警戒心を露わにしているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
もしかしたら。
私と浜尾さんは、異物が入ってきたら簡単に決壊してしまうような、脆い関係だ。本当に居心地がいい同居生活を崩されたくなかったのかもしれない。
……それはあんまりにも、浜尾さんに対しても、たつきに対しても失礼だ。
「……申し訳ないな」
湯船にひとり言が思いっきり響いて、慌てて私は膝を抱えた。
どうせたつきは面接三件終えたら、地元に帰る。それが終わったら日常に戻れるんだから、それまで我慢しよう。
今までの生活がどれだけ居心地よかったのか、嫌というほど思い知らされたのが、私にとってはどうしようもなかった。
次の日、たつきは早朝に起きると、さっさと持ってきていたリクルートスーツに身を包んで、面接に向かう準備をはじめていた。
私は仕事に行く前に、軽くパソコンでメールチェックを済ませながら、横目で眺めていたところで、またも例の出版社からメールが来ていることに閉口した。
「……二回も断ったのに」
現在は娯楽飽和時代だ。普通は一回断ったらもう連絡してこないのに、二回も断っても食い下がってきたところは初めてだ。
私は腕を組んだ。正直、ここの編集部の方針はわからないけれど、少なくともこの編集さんはBLに対してなんの敬意もない。今回の打診は全くBL小説ではないんだけれど、人の書いているジャンルを下に見てくる人が、私の作品を下に見てこないとは思えない。はっきり言って、自分の原稿を預けるのが怖い人に、自分の原稿を預ける人なんていない。
私は三度目のお断りメールを打ってから送信した。
……もういい加減、このメールアドレス通信拒否しようかな。そう思いながら、パソコンを閉じて、仕事に向かう準備をはじめる。
浜尾さんは今日はゆっくりらしく、未だにリビングに姿を見せない。その中でさっさと準備を終えたたつきはキリッとした顔をした。
「それじゃあお姉ちゃん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。頑張って。あと、今日はこっちに帰ってくるんだよね?」
「うん。明日の面接が終わったら家に帰るつもり。だから残り一日よろしく」
「はいはい。気を付けて。あっ、ここオートロックだから、あんたが帰るとき誰もいないかもしれないから、帰るとき連絡して。迎えに行って家に入れるから」
「はあい」
そのまま元気にたつきは面接に出発していった。
ドアのガチャンという音と共に、ようやく浜尾さんがのそっと自室から顔を出してくる。
「あの……妹さん出られましたか?」
「はい。なんか本当にすみません。ずっと騒がせてしまって。明日になったら妹も帰りますから」
「いえ。こちらこそ妹さんに気を遣わせてしまってすみません……自分のこと、妹さんは気味悪がってなかったですか?」
浜尾さんがビクビクしているのに、私は心底申し訳なくなる。ここ、浜尾さんの家なのに、家主がこんなにビクビク震えていないといけないのは、逃げ場がなさ過ぎて駄目駄目だろう。私はおずおずと口にした。
「あのう……もし、浜尾さんに問題あるんでしたら、私が妹を説得して一日だけでもホテルに泊めますけど……?」
「い、いえ……! 自分はただ……女、女性が……苦手なだけでして……か、かしこ先生は、大丈夫なんです! 本当です! 本当にかしこ先生は大丈夫ですから、心配しないでください!」
唐突な告白に、私は目をパチパチさせてしまった。
そういえば、この人私とすら目線が滅多に合わないし、たつきが来た途端に挙動不審になっていたけれど。パーソナルスペースが広い者同士、なるべく互いのパーソナルスペースを詰めないよう努力していたけれど、そういうことか。
……こんなところでまで、共通項がなくてもよかったのに。心底そう思ったけれど、同時にどうしてここまで互いに気遣って距離を取れたのかも、よく理解できた。
私は大丈夫だっていう意味がよくわからないけど、そういうことなんだろう。
「いえ。私もたつきにもうちょっと大人しくしているよう説得しますから。本当に……女性恐怖症なのに、わざわざうちのを泊めてくださってありがとうございます……」
「そ、そんな……! 単純に、俺が妹さんに怖い想いをして欲しくないだけですから! これは俺の身勝手ですし、かしこ先生や妹さんに気を遣わせるほうが……その、申し訳ないです!」
そうあわあわしながら言い放つ浜尾さんに、私は「はて」と思ったが、それは突っ込んじゃ駄目だろうと思って、スルーすることにした。
パーソナルスペースが広い者同士が済むと、互いにくたびれる距離というのがなんとなくわかる。互いに気を遣わない程度に距離を置いて、苦しくない程度に近くにいる。それが居心地がいいということなんだろう。
それはきっと傍から見たら変で歪なんだろうけれど、私たちにとっては本当に居心地のいい距離なんだなと、今更ながら気が付いた。
****
最近の歯科医は歯周病予防や親知らずの抜歯以外の仕事は滅多になく、治療以外の仕事はほぼ全部歯科衛生士に流れてくる。
私はその日の担当の患者さんのカルテを院長先生から回されてきた。私はタッチパネルで電子カルテを見て、それぞれの自分の担当作業の確認を行っていたら、ひとりの患者さんの名前を見て目を見張る。
同姓同名かもしれない。そう思いたかったけれど、生まれた年がぴったり私と一致していた。いくら同姓同名でも、同学年はなかなかいないと思う。
……ここ、地元から離れてるのに。東京なんて広いし、あっちこっちに人が詰まっているのに、よりによってなんでここで会うの。
私の歯がカタカタと鳴り、喉を吐き気が迫り上がってくるのに堪えていたところで「柏原さん」と声をかけられて我に返った。
「最初の患者さんが来たから、歯垢取りして欲しいんだけれど……大丈夫? なんだかとっても顔色が悪いけど」
パートさんに心配されたものの、私は笑顔でゴム手袋を嵌め、マスクで口元を抑えた。
「大丈夫です。すぐ作業しますから」
最近は個人情報保護の観念から、歯科医院のスタッフ全員名前をまず出さないし、いくらマスクで顔を半分隠してたら気付かれないだろう。
私は「失礼します」と治療台に向かったら、既に治療台に横たわってライトを当てられている患者さんがいた。うん年振りですっかりと中年めいた雰囲気になった彼は、化粧とマスクのおかげで、私のことなどまるで気付かないようだった。
器具で歯垢を取り、それをバキュームで吸い上げる。いつもの作業を頭の中で「平常心平常心」と唱えながら行っているとき。椅子の背もたれが揺れたことに気付いて、手を止めた。手元が狂ったら、患者の口腔は簡単に傷付いてしまうから。
私は振り返って気付く。そこにはビクンと震える、男の手。横たわっている患者が、背もたれの隙間に手を入れようとしていたのだ。私が睨むと、患者さんはパッと手を元の位置に戻した。
「ナースさんの椅子が座りにくそうだったんで」
患者さんに、ナースと歯科衛生士と受付の区別がつく訳ない。皆制服を着ていたら一緒に見えるから。私は迫り上がってくる怒りをどうにか飲み下して、努めて冷静な声を上げる。
「……治療状況は全て、確認のために録画しておりますが。院長先生もこちらの治療状況を確認しておりますから」
本来なら治療台を真上から録画しているのは、患者さんの口内をチェックして、院長先生と共有するためだけれど、最近はパートさんやアルバイトさんが患者さんにセクハラやモラハラされてないかの確認のためにも使われている。あまりにひどい患者さんの場合は、ブラックリストに入れるためでもある。
そしてこの手の人は、女だけだと横柄な態度を取るけれど、男の人、それも院長とか店長とか肩書きのある人が出てきたら途端に態度が縮こまる。
「わ、ざとじゃないから!」
「……掃除を続けますから、このまま口を開けてください」
私は胸に冷たいものが走るのを感じた。少し器具を喉に突き刺したら殺せるのに。殺せなくっても、歯茎を刺して痛い思いをさせたり、針を突き刺して放置したりできるのに。
……治療内容を録画されているんだ、こいつだけでなく私だって困るから止めておく。私だってこいつのせいでこれ以上人生滅茶苦茶になんてされたくない。
怒りを必死で抑えて、歯垢取りを終えた。
椅子を元に戻すと、患者さんは逃げるように待合室に出て行った。私はパートさんに片付けを頼むと、マスクとゴム手袋の交換へと奥に向かった。
マスクとゴム手袋を外して、手を洗いながら、私は吐き気を必死で抑え込む。まだ今日ははじまったばかりで、そんなクソな患者ばかりじゃない。ほとんどの人は、無害で大人しい患者さんしかいない。そう自分に必死で言い聞かせるけれど。
死ね。消えろ。いなくなれ。もう二度と来るな。そう怨嗟という怨嗟が頭の中に渦巻いて、気持ち悪くなってくる。
「柏原さん、大丈夫? あの患者初めてだったんだけど、もう二度と来ないで欲しいわねえ~」
「……そうですね」
パートさんはお節介で平気で土足で人の中にズカズカ入り込んでくるけれど、今だけはこの人の恩着せがましさに救われていた。
その日はもう仕事がボロボロで、見かねた院長先生に「今日はもう患者さんそんなにいないから、人手は足りてるから」と早めに帰されてしまった。個人診療所様々だ。
「はあ……」
まだ傾いていない日の下を、私は自転車を走らせて家路に急ぐ。
地元を出たのは、ひとえに地元だと口コミ情報網が形成されていて、なにかをしたらすぐに噂になってしまうからだった。人の口には戸は立てられない。ましてや女の人は口から先に生まれた人が多過ぎる。
だからどれだけ私が被害者であったとしても、被害者だと言われ続けるのは嫌だったし、被害者ぶっているというそしりを受け続けるのだって嫌だった。だったら、もうどっちみち外に出るしかなかったんだから。
向こうは見た感じ、全く懲りてないから変わってないんだろうし、どこに行っても同じことをするんだなと思った。
私がそうぼんやりと考えていたところで、鞄からスマホの着信音が鳴った。慌てて自転車を端に停めて、スマホを取る。
「もしもし」
『あれ、お姉ちゃん仕事もう終わったの?』
「一応は。たつきは? 面接どうだった?」
『多分次の選考まで行けたと思う。掴みはばっちりだった』
「そう。それはおめでとう」
この子だったら、基本的にどこに行っても生きていけるだろうなと思う。私と違ってこの子には闇がないし、そのままそういうしがらみとかなく生きていって欲しい。
待ち合わせ場所を確認してから、私は駅まで自転車を走らせていった。
就活終了祝いは、ぐんと豪勢にしてあげよう。そう思いながら。