私の告白は、浜尾さんと比べると大したことない。
そう思いながら淡々と語りつつペットボトルを傾けていたら、気付けば中身は空っぽになっていた。全部聞いていた浜尾さんは、小さく溜息をついた。
「……かしこ先生、すごいですね」
思ってもみなかった浜尾さんの感嘆の念に、私は思わず目を見開いた。
「なにがでしょうか」
思わず聞き返すと、浜尾さんもまたペットボトルを傾けて、ベコンと音を立てた。こちらも飲み終わって空っぽだった。
「ここまでされたら、そりゃ人間嫌いになってもしょうがないですよ。なのにかしこ先生、人間と関わるの諦めてないじゃないですか。それはすごいですよ」
私は、その言葉にただただたじろいでいた。
「……あのう、私、浜尾さんが思っているような超人でもないですし、偉くもないですよ? ましてや人とできるだけ関わらないようにしているせいで、まともに今でも連絡取り合っているの、家族くらいですし……職場にもプライベートとか一切持ち込んでないですし」
「自分なんて会社行っても基本的に自分のブースから出ない限りは、特になんにもありませんし。仕事のやり取りなんて、社内のアプリでしてますし、飲み会するような会社でもないんで、この数ヶ月上司以外とまともに顔合わせてないですし」
そりゃSEの場合はそういうこともあるんだろうけど。でも私、浜尾さんがすごいと思うようなこと、本当にしてないのに。
自分のこと棚に上げて、どうしてここまで褒めてくれるのか、本当にわからない。
私は困り果てて、空っぽになったペットボトルを掴みながら言う。
「でも、本当に浜尾さんが言うほども、大したことなんて」
「だって自分、かしこ先生が好きですから。初めてなんですよ。こんなにパーソナルスペースギリギリのところに人を招き入れられたのは」
私はますますもって口を開ける。
浜尾さんはしみじみと続けた。
「自分、潔癖性ではないですけど、人の手が怖いですし、触れないですし、できる限り人に触られない環境じゃなかったら生活できなかったですから。そんな中で、隣に住んでいた人が自分の恩人だったかしこ先生だったのは、幸運以外の何物でもなかったんだと思います」
「はあ……」
「そんなかしこ先生が困ってるんだったら、どうにかしたいってファンなら思うじゃないですか」
「思っても……そんな行動力、ないですよ……?」
「なんででしょうかね。最初は多分、かしこ先生の次回作を安心安全に書いて欲しかっただけなんだと思います」
ああ、それだったら突飛過ぎる言動も納得が行くのか。
ようやく自分が納得しかかったときに「でも」と浜尾さんは続ける。
「普通じゃなくていいって言葉、自分にはズドンと響いたんです。自分、かしこ先生になんにもできないですけど。ただかしこ先生が許してくれる範囲にはいたいなあと思ったんです」
「あのう……それって、どういう意味なんでしょうか? 恋、なんでしょうか。ただの友愛、なんでしょうか……?」
私はポロリと言った。
浜尾さんは私に対して、相変わらず隣にいても、距離を空けている。絶対に肩が擦れ合わない距離にいるし、息が当たらないところ。
私が怖くて仕方ない距離には絶対にいなくて、私の人よりも広いパーソナルスペースのギリギリ外にいる。
あまりにも遠巻きにされるとかえって居心地が悪いけれど、近寄り過ぎない傍にいる。
その関係が、私にはよくわからなかった。
浜尾さんは少しだけ困ったように顎に手を当てた。
「うーん……なんでしょうか? 多分恋愛ではないんだと思います。強いて言うなら、隣にいて欲しい人です」
「あのう、私。何度も言いましたけど、多分期待されても触れませんし、それ以上のこともなんにもできませんよ?」
「自分も人に触られたら怖いですから、おそろいですね」
「多分……本当に一緒にいるだけになると思いますけど」
「それって、困ることありますか? むしろベタベタされるほうが、自分はすごく困りますが。かしこ先生は、もっとベタベタしたいんでしょうか?」
「されたら、とっくの昔に荷物まとめて実家に帰っています」
「よかった。かしこ先生が帰らなくて」
なんだ。私は妙に気持ちが軽くなったことに気が付いた。
本当にたまたま隣同士だった人は、私とおんなじだった。人と触れ合うことが怖くて、気持ち悪くて、一生懸命パーソナルスペースに人を招かないで済む方法を探している、変な縁で同居人になった人。
私がスランプに陥ってなにも書けなくなって困り果てていても、それを待ってくれる人。
世間一般的なことは、多分私たちはなにひとつできない。ただ本当に一緒にいること以外なにもできない。
それでいいって話を聞いた瞬間に、気持ちが楽になった。
「あのう……私は多分、浜尾さんにこれからも触ることができません」
「自分もかしこ先生に触れませんよ」
「多分、私が小説に書いているような行為は一切できないと思います」
「いや、あれは読めば満足しますから、それでいいです。別に二次元のことを三次元で行いたいと思ってませんから」
「それでも、隣にいても大丈夫ですか?」
浜尾さんは一瞬真顔になった。そのあと、破顔した。
「喜んで」
この人、本人はずっと否定し続けているけれど、やっぱり聖人かなにかじゃないかと思った。
****
【大変申し訳ございませんが、私の実力不足のため、こちらのレーベルではお力になれないと判断しました。
そのため、どうかこの話は白紙に戻してくださればと思います。
本当に申し訳ございませんでした。】
結局あのライト文芸レーベルの依頼は、断ることにした。
最初からずっと断り続けていた話だったし、これでいいんだろうと思う。そのあとに【うちで出したら名前が売れると思います!】みたいな失礼なメールが届いたけれど、結局は無視することにした。
たった一通のメールを出したことで、肩の力が抜け、他の原稿を読んだり改稿したりする余裕が生まれ、どうにか伸ばしてもらっていた締切も、本来の締切通りに提出できそうだった。
何度も何度も謝罪メールを出した上で、予定通りの締切で原稿を提出したら、編集さんたちからありがたくも反応をいただいた。
よかった。私はそう思いながらパソコンを閉じた。
副業のほうが今のところ問題がないけれど、本業のほうが今の私にとっては問題だった。
歯医者に出かけ、今日の私の予定を確認する。幸いにも今回は歯磨き指南以外は治療カテゴリーのため、私がメインでしないといけない仕事がないのにほっとしていた矢先「柏原さん」と院長先生に呼ばれた。
院長先生は気遣わしげに私を見ていた。
「最近大丈夫? パートさんたちにいじめられているみたいだけど」
「いじめられているというか……からかわれ続けていますね。知人と食事していたところを見られたみたいで」
「今と昔だったら、大分感性違うんだけどねえ、僕の友達も三十歳下の奥さんとできちゃった結婚したから、奥さんの話を聞くたびに今と昔の感性の差は大きいと痛感しているところだよ」
たしかにふた回り以上年の差が離れていたら、ほとんど異類婚姻譚みたいなものだ。言語だって年々使うものが変わっているんだから。
院長先生は「だからねえ」と続けた。
「あんまりつらいって思ったら、きちんとリタイア宣言しなさい。僕がなんとかするから」
「私、そこまで心配かけてたでしょうか?」
歯科衛生士は基本的に引く手あまただけれど、給料自体はそこまで高くはない。てっきり私をクビにして新しい若い子を雇うのかと思っていたのに。
院長先生が「そりゃねえ」と言った。
「うちの娘、だいぶいじめられてたから」
「ああ……」
前の飲み会のことを思い出して、納得した。院長先生もただバカスカ飲んでいた訳ではなく、いろいろとパートさんたちの暴言に思うところがあったらしい。
娘さんに対する言動だって、出るところに出てしまったらパワハラモラハラだと訴えられてもしょうがない話だったし。
私はどう対応したものかと考えながら、口を開いた。
「ありがとうございます。ただ、私の副業のほうが今は上手く行っていますから」
「最悪、シフトを減らしたらもうちょっとだけパートさんと関わるの減るとは思うけど」
「そうですね。最悪の場合はそれも検討します」
私のトラウマを引きずり出された影響だろう。最近はマスクとゴム袋だけではいよいよ私の手は付けられなくなってきて、そろそろ歯科衛生士という職業すら手放さないといけないような気がしている。
よっぽど深く進行している虫歯だったらいざ知らず、治療ですらない歯垢除去に来た患者さんの口内を、これ以上傷付けるような真似は、私だって嫌だった。最近は患者さんの歯垢除去をしようとするたびに、どうしても手元が狂う。喉奥から吐き気がしてきて、それを堪えようとしたら、どうしても手が震えてしまうのだ。これが手動の器具だったらいいけれど
、ドリルを使って歯を磨いている中で手元が狂ってしまったら、怪我だけでは済まなくなる。
歯磨き指南だけの仕事なんて、そうそうある訳でもあるまい。
そのせいで、私はなるべく歯垢除去の仕事をしなくて済む歯科衛生士の仕事を探しはじめた。最近は治療自体は大病院に紹介状を出し、検査だけしている歯科医もあるけれど、そこで歯科衛生士は雇わないしなあと悩む。
何度も言う通り、一年先のことすらわからないのに、そう簡単に正社員の仕事を手放すことはできない。でも、人と接触が最低限で、人と関わるときはマスクとゴム手袋を嵌めている、カウンター越しでしか関わらなくていい正社員というと、なかなか限られてきていた。
私が悶々と、新しい職場を求めて就活をしている中、唐突な浜尾さんの言葉に、私は目を剥いたのだった。
私が再就職の病院を求めてチラシや情報誌を持って帰ると、浜尾さんが鞄を持ってわたわたとしているのが目に入った。
「ただいま戻りました……出張ですか?」
着替え一式に寝間着、歯磨きセット、タオル。それらを見て私が首を捻っていたら、浜尾さんは「お帰りなさい!」と鞄に一生懸命に荷物を詰めながら顔を上げた。
「ちょっと入院しないといけなくなったんですよ!」
「入院……大変じゃないですか。どこか具合が悪いんですか?」
振り返っても、浜尾さんが体が悪そうにしていたのは見たことがなく、一緒に住んでいても全く気付かないものだと焦ったが、浜尾さんが「いやあ……」と何故か照れた笑みを浮かべた。何故。
「いえ、自分座り仕事なんで、腰が痛いなあと思って病院で見てもらったら、どうも持病のヘルニアが悪化していて、神経が出てたみたいで。今すぐ手術しろと説教されたんですよ」
「ひい……それ大変じゃないですか!」
私も座り仕事だから、それがどれだけ大変かは少しくらいはわかる。浜尾さんは「いやあ」とまた照れた顔をした。
「まあ手術して安静にしていれば治りますから。しばらくは休暇だと思ってゆっくりします」
「入院、どれくらいですか? 私なにか持っていったほうがいいですか?」
「大丈夫ですよ、本当に大したことないですから。一週間したら戻ってきますから」
本当に軽いノリでそう言うので、私はこれ以上言うこともなく「本当になにかあったら連絡してくださいね」とだけ約束し、見送った。
一週間もこの家にひとり暮らしか。思えば数ヶ月前は同じ広さの家にひとりで済んでいたんだから、一週間だけ元に戻るだけのはずなんだけれど。
仕事に出かけ、休み時間に就職活動の情報を集め、帰りに食材の買い出しに行く。いつも通りのはずなのに、どうにも落ち着かなかった。
私は人間嫌いだし、実際に家族以外の人間は大概嫌いだ。それでも実家にはほとんど顔を出さないし、たつきにもこの間久し振りに会ったくらいだから、パーソナルスペースに家族すら入れられるときと入れられないときがあるんだろう。
なのに。浜尾さんが入院しただけで、これだけ落ち着かなくなる。
私はひとり分しか用意しなくてよかったパスタを食べ終えてから、こっそりと浜尾さんの部屋に入った。普段であったら絶対に入らないし、なにかを持ってこようとは思わないけれど。
彼の部屋は私の借りている部屋よりも綺麗で清潔で、本棚も日焼けしないように扉付きの真っ白なものに収納しているせいで、部屋全体が殺風景に見えた。
パソコンは本人の趣味らしく、大きな自作のデスクトップで、モニターが三つも付いてあるのに、どうやって使うんだろうと漠然と思った。
私はなにげなく本棚の扉を開けたら、途端に殺風景だった部屋が色付いた。
カラフルな表紙の本は、ほとんどBL小説だった。そして私の本が一コーナー設けられていて、一冊はビニール付けっぱなしで、一冊は本に癖が付くまで読み込まれていた。読む用と保存用と買っている人は、初めて見たなとぼんやりと考えた。
部屋の匂いを嗅いでも、浜尾さんの匂いがするというロマンチックなことはなく、どこまでもモノクロな部屋のままだった。
これ以上はここにいたら駄目だろうと部屋を出ようとしたとき、デスクトップパソコンの傍に大学ノートが立て掛けられているのが目に留まった。読書ノートと書かれている。
今時、読書感想用のSNSやブログなんて普通にあるのに、わざわざアナログ方式だったんだなと思ってなにげなく読み、体がどんどん火照っていくのがわかった。
【自分はこの先、女性を抱くことはできないんだと思う。恋愛対象も性的対象も女性なのに、女性が怖くて怖くて仕方がない。見ているのは平気でも、触るのは怖い。】
最初のほうに書かれていたのは、自己分析用のノートだった。
高校時代に友達から回ってきたAVの鑑賞会をした際、開始早々トイレに行って回りに誤解されたものの、ひとりで思い出して延々と吐いていた話、大学の飲み会に行ったときにうっかりと合コンに連れて行かれ、誰とも二次会に行きたくない一身で皆の世話役を一手に引き受けて参加者を見送った話、会社の人たちに捕まって風俗に放り込まれ、吐いた挙げ句に風俗嬢に介抱されてなにもせずに帰った話が、淡々と語られていた。
私に言わなかったのは、きっと私が女性でかつ浜尾さんの好きな作家だから、その手の話をするのは失礼だと思ったからだろう。
パラパラと捲っていたら、浜尾さんが言っていたBL小説に出会った話を、興奮気味に書かれていた。テンションが上がったのか、先程までの自己弁明とも自己憐憫とも取れる文章よりも、幾分か粗い。
【BL小説を初めて読んだ。気持ちと体が噛み合ってなくても肯定される世界があるんだと初めて知った。恋愛にならなくてもいい、執着だけでもいい、友達でもいい。普通じゃなくてもいい世界って居心地がいい。】
それ以降、ノートは見事にBL小説の感想ノートになり、自己分析の最初の内容からはかなり程遠いものに変わっていた。
そのテンションの高さに、私はなんとなく微笑ましいものを見ながら、ノートを捲っていたところで、【すごい作家に出会った】と書かれているのが目に入った。
【人と上手く合わせることができない、体を許しても基本的に人間嫌いのままの人が、いろんな事件に首を突っ込む話だったけれど……倫理観がここまで捻れているのに面白い話は初めて読んだ。乃々原かしこ先生か。この人は今後もチェックしておこう。これは本当にすごい。】
私の本がものすごく褒めちぎられ、それ以降私の書いた本全てを買ってきて、それの感想が付けられていることに、私は顔に熱を持たせていた。
【この人の本は面白い。この人の書く人間はどれだけ寝ても心に抱えている孤独や闇をパートナーに肩代わりさせたりしない。孤独も闇もひとりひとり個人のもので、パートナーは寄り添うことはできても、それを一緒に背負うことも抱えることも拒む。そんな関係がストイックで格好いい】
【かしこ先生の本、本当に面白いけれど、あとがきまでぎっちりしていて面白いなあ。次の新刊もチェックしておかないと。】
【本当に、この人の新刊のおかげで生かされているって現象はあるんだなあ。初めてそれを感じている。】
全てのノートを読み、私はバレないように立て掛けておいた。
「……私は、あなたのおかげで生かされています」
普通の人が羨ましいし、自分はきっとそういう普通は無理だろう。触れないし、怖いし、まともにしゃべれないし。
そんな私を完全肯定してくれる人なんて、浜尾さんが初めてだった。
この浮き足立っている気持ちは、多分世間一般の恋や愛とは程遠いけど、居心地のいい関係なんだろうと思う。今度浜尾さんの病院にお見舞いに行こう。そう思いながら、私は彼の部屋を出た。
****
甘い物が好きな浜尾さんに、地元でも評判のプリンを買っていって、持っていくことにした。病院は思っているよりも人が多く、受付に問い合わせて教えられた階に進んだら、六人部屋の窓際に、ちょうど浜尾さんが寝ていた。
ただでさえひどい癖毛が、入院生活の中なかなかお風呂に入れてないせいなのか、爆発してしまっていた。
「あのう、浜尾さん。今寝てらっしゃいますか?」
「あれ?」
浜尾さんは慌ててメガネを探して手をばたばたしはじめたので、カウンターに置いてあったメガネを差し出すと、それをかけはじめる。そして私の顔を見た途端に「ピャッ」と叫んだ。
「せせせせ、先生! 入院中お手を煩わせるつもりはなかったんですけど……!」
「いえ。単純にお変わりないかと様子を見に来ただけですけど。ヘルニアの手術、どうなりましたか?」
「一応は、なんとかなりました。二日間は絶対に安静なんですけどね」
「まあ……あのう、お菓子持ってきたんですけど、食べるのって大丈夫ですか? そこの貼り紙見ている限りだと、浜尾さんは食事制限とかはなさそうなんですけど」
手術後はどうなのかまで、私も知らない。浜尾さんはニコニコと「大丈夫ですよ」と教えてくれたので、私は丸椅子を持ってきて、浜尾さんのベッドで一緒にプリンを食べた。
このところ、ひとりでずっと自分の好きなものを食べていたはずなのに。今は浜尾さん当てに選んだプリンがずいぶんとおいしく感じる。浜尾さんは「ここ並びませんでした?」と心配してくれたものの、今日はなんか人に用事でもあったのか、ほとんど並ばずに買えたと伝えたら「よかったです」と顔が綻んだ。
「最近はどうですか? 原稿とかは」
「原稿ですけど、原稿は順調ですね」
「あー……お仕事は順調じゃないんでしょうか?」
それに言葉が詰まる。浜尾さんには、私が再就職用に就活をはじめたことを伝えていなかった。私はプリンのスプーンを咥えながら、視線を彷徨わせる。
「うーん……ちょっといろいろ限界が来てまして、転職しようかなあと」
「人間関係……ですか?」
「それもなんですけど、私もいい加減無理し過ぎたのかなと思いまして。メンタルガタガタなんで、そろそろ今の仕事は限界だなあと……」
浜尾さんはしばらく黙り込んだ。
……私、なにか余計なことを言ったっけ。少し焦ったけれど、浜尾さんはプリンを全部綺麗に食べ終えた。カラメルすら残さず綺麗にって、どうやったらそう食べきれるのか。
「そうですよね……ただ、先生がは原稿があるじゃないですか。仕事のせいで原稿が書けなくなるのは、あんまり賢明じゃないと思います」
「そうですね、私もそれは困ります」
「あのう……これ言うとすごい失礼だと思うんですけど」
浜尾さんはプリンの器を「ご馳走様」と私の持っていた紙ケースに片付けてから言う。
「シェルターに入りませんか?」
「……私、虐待はされていませんけど」
「ああ、その意味もありますよね。ええっと、そうじゃなくって……防空壕とか、傘とか……ええっと……」
いきなりなにを言い出すんだろう。私は訝しがってポカンと浜尾さんの様子を観察しながらプリンを食べていたら、ようやく言葉が閃いたのか、浜尾さんは振り返った。
「自分と結婚しませんか?」
「はい?」
一瞬意味がわからなくなって、ポカンと口を開けた。
浜尾さんと同室の人たちはリハビリなり検査なりで人がおらず、私たちの会話を誰も聞いていない。
私がポカンとしていると、浜尾さんがまたもあわあわとし出した。
「す、すみませんっ……せ、せんせの話をなにも聞かずに、勝手にこんなことを言って……」
「ああ、別に驚いただけで、怒っていませんから、落ち着いてください」
浜尾さんはどうにか落ち着いて、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。
「この間からの先生の様子を見ていて、申し訳なくなったんです。自分はもっとなにか先生の力になれないかって。自分は、先生が来てくれてからだいぶ楽になったんです。だって、人が勝手に勘違いして、勝手にどっか行ってくれるようになったんで」
「勝手に勘違い……ですか」
「人って勝手に曲解するじゃないですか。ふたりでいたら、カップルだの家族だのと、好き勝手……最近は男同士だろうが女同士だろうが、勝手にカップルにしますし」
「あー……まだその辺りは条例できてるとこ少ないですけどね」
「ひとりでいると、勝手に暇だとか、仕事を押し付けていいとかいう具合に動くんで。有給は家族持ち優先とかも、普通にありますし」
「まあ、ありますねえ」
「同居人がいると言っただけで、若干優遇されるようになったんです。今までは、なんにもできないからひとりで一生を終えるんだろうなと諦めきっていたんですけど、こんなに楽なことだったのかと今更、ショックを受けました……ただ」
浜尾さんは心底申し訳なさげに私を見つめてきた。
「それは自分が楽になるだけで、先生が楽になるかが、わかりません」
「そうですねえ……」
普通になんて、なれないだろうと諦めていた。
人に触れられない以上、スキンシップなんてまず取れない。それ以上のことを求められたらきっと吐く。だから世間一般の幸せというものは無理なんだろうと、そう思っていた。
勝手にふたりでいたら、勝手に勘違いされて好き勝手言われまくって辟易としたし、そんな普通の枠組みに入れられるのかと思って嫌気も差していたけれど。でも。
傘やシェルター、避難場所にはなりえるのか。
普通じゃないとチクチク攻撃されることからの。
「浜尾さんが退院してから、もうちょっと落ち着いて考えましょう」
今はそう切り上げた。
****
「あらまあ……まさか今時転勤なんてねえ……」
「結婚おめでとう。頑張ってね」
パートさんたちは、これでもかとばかりに主婦の先輩面をしてきたものの、私はどうにか口元に笑みを浮かべて「ありがとうございますありがとうございます」と口先だけでとにかく挨拶をしていた。
院長先生に引っ越しを機に仕事を辞める旨を伝えたら、こうして送別会をしてくれることとなったのだ。
パートさんにもみくちゃにされるのを除けば、院長先生のおごりで飲み食いできるのもこれが最後かと思うと、少しだけ名残惜しい。
今日が私の寿退社……やや古臭い言い方にはなるけれど……での送別会のせいか、娘さんは呼ばなかった。
それがいいと私も思っている。先生は最後にお菓子の紙袋を差し出した。
「これ、ご主人とどうぞ。幸せに」
「先生。本当に大変お世話になりました」
そう言って頭を下げて、デザートが終わってから、私は家路に着いた。
家の中は引っ越しのため、段ボールだらけになっている。私と浜尾さんは家財自体はそこまで多くないものの、ふたり合わせると本の量が圧倒的に多く、特に私の本なんて被っているからどれを持って行くかでふたりで話し合いをして、なかなか進まないでいた。
「ただいま戻りました……本、本当にどうしましょうか」
一部の本はメディアミックスの確認のために持っていたいけれど、それにしたって浜尾さんが読む用と保存用と買っているために、私の著作だけでずいぶんとある。
「一部は古本屋に……」
「最近古本屋で本を買って即フリマアプリで売られることがあるんで、そんなかしこ先生が悲しむような真似は嫌ですよ」
「まあ、たしかにそれ、無茶苦茶嫌ですけど、そこまで浜尾さんが悲しまなくても」
「あんなに血反吐を吐きながら頑張っている人の本を、そんな無碍な真似できませんし……」
「まあ吐いてますけど、いろいろと」
「そういう自分を卑下するような真似はよくないと思います!」
普段はそこまでしゃべりまくらない人だけれど、相変わらず私の本が好きだなあと、なんとなく笑ってしまった。
「もう夕食いただきましたか?」
私はもらってきたお菓子をどうしようと思いながら、引っ越し業者に持って行ってもらうテーブルの上に置くと、浜尾さんは「はい」と言った。
「それじゃあ、私お菓子いただいたんですけど、これどうしましょうか?」
「かしこ先生はもう今の時間いただきませんか?」
「そうですねえ……かなり食べてきたんですけど、寝る前にちょっとくらいでしたら」
「えっと、麦茶ありますんでそれでお菓子食べましょう」
ふたりでお菓子の箱を開けると、中に入っていたラングドシャをペットボトルの麦茶と一緒にもりもりと食べはじめた。
今日、院長先生におごってもらったのは、有名なイタリアンの店で、ワインもパスタも驚くほどにおいしかった。でも、パートさんたちにもみくちゃにされて、結婚生活のうんちくを周りのお客さんや店員さんの白い目も無視してするものだから、恥ずかしかったし、私も最後くらいは愛想よくしようと無理していたから、食べることに集中ができなかった。
ただ浜尾さんと食べるお菓子や食事は、有名パティスリーのプリンだけでなく、市販のルーでつくったカレーも、もらいもののお菓子もおいしい。
ふたりとも互いのペースを崩すような真似をしないし、互いが不愉快になるような話題を食事中に提供しない。
私と浜尾さんが籍を入れようとなったのも、結局はそういうところだった。
実家に籍を入れることを報告したら、当然ながら「式は!?」「家族に挨拶は!?」と騒がれ、一応食事会の席は設けたものの、それ以上のことはふたりとも予定が合わないからできないとだけは言った。
そもそも結婚式を挙げて呼ぶ人もいないのだから、家族を安心させるために式をするのはたつきにやってもらって欲しい。
たつきは「お姉ちゃんおめでとう」とにこにこしていた。なんだ、このわかってました感は。
「よかったじゃない、好きな人と結婚できて」
「……そういうロマンティックなものじゃないから」
「ふーん」
世の中、未だにロマンティック主義が蔓延している。お見合い結婚や恋愛結婚以外は異端扱いされかねないから、黙っているのが吉だろう。
子供がどうのとか言われたことは、全部無視することにした。
籍を入れたら、浜尾さんの転勤が決まり、私たちは引っ越すことになった。
今回はできる限り本をたくさん置けるように床板をリフォームさせてもらい、そこに住むことになった次第だ。
結婚という言い訳があったら私も仕事を辞めやすくて、しばらくの間は専業小説家のつもりだ……また働きたくなったら、働きに出ようと思うけれど、基本的に人間が嫌い過ぎる私は大丈夫なのかどうか自信がいまいちない。
こうして、私たちは引っ越しの準備を進めている。
籍を入れた途端に態度が変わる人がいるらしいけれど、私たちの場合は特になにも変わらなかった。せいぜい私があちこち駆けずり回って名前の更新をしないといけなかったくらいだけれど、引っ越しの際に駆けずり回ったときとどっこいどっこいの作業量だったから、どちらかだけが重いってことはなかった。そこだけはほっとしている。
「明日トラック来るんですか?」
「そうです。荷物受け渡しのために、かしこ先生に先行してもらう形になりますがよろしいですか?」
「わかりました」
業者に指示のために浜尾さんは一旦家に残り、私は先に引っ越し先の家まで行って鍵を開けて待っている役割を請け負うことになった。
ひとりで引っ越しの際は、全部をひとりでやらないといけなかったから、ふたりいるって便利なんだなと、今更のように思った。
籍を入れたのに、私は未だに「浜尾さん」呼びだし、浜尾さんに至っては最初からずっと「かしこ先生」のままだ。
これから呼び方を考えたほうがいいんだろうか。そう思うけれど、いまいちピンと来なくて現状維持のまんまだ。
引っ越しの際だって、寝る部屋は分けるし、仕事用の部屋も分けてある。食事だけは一緒に食べようとリビングにテーブルは用意してあるけれど、まあそれだけ。
浜尾さんが「あのですね」と言った。
「自分、先生とまさかこうなるなんて思ってませんでした。かしこ先生は、恩人ですから」
「いつもそう言いますね、浜尾さんは」
「そりゃそうですよ。生きていくのって、なにもなかったらしんどいじゃないですか。生きがいをくれたかしこ先生は、恩人なんですよ、間違いなく」
そう言って、日付もそろそろ変わる中、ラングドシャを三枚目口に入れた。
私はさすがに一枚だけで我慢し、残りは麦茶を飲んでいた。
浜尾さんは珍しくはにかみながら続ける。この人は推しの話をしているときだけは饒舌だ。
「入院してて、手術して。すこーしだけメンタル落ちたときに思ったんですよ。先生にとっては大したことない日々だったかもしれないけれど、自分にとっては先生と挨拶して食事をし、挨拶して会社に行き、挨拶してそれぞれの部屋で寝る生活は楽しかったんだって。自分は多分、ひとりで生きるしかないんだろうなと思っていたので、なにもしなくっても普通の幸せって得られるんだなと思ったんです」
「それ……なんとなくわかります」
「先生も、ですか?」
「はい」
浜尾さんは私を変に崇拝してくれるけれど、それ以外は基本的に尊重してくれる。物扱いせず、むやみやたらと神扱いせず、人間扱いしてくれる。
もう普通を押し付けてくる人も、物扱いしてくる男も、思春期にかぶれたままこじらせた女も皆嫌い。私はひとりで生きていくと思っていたのに、彼と一緒にいる日々は、ずっと肩の力が抜けていた。
楽に呼吸ができた。
「普通に『おはよう』と言って『おやすみ』と言う生活、小説の上のものだとばかり思ってましたから」
ただただ、この出会いに感謝をしていた。
引っ越してきた町は、電車で一時間ほど。前に住んでいたアパートと比べれば完全に住宅街で、住宅街の端にショッピングモールやコンビニが密接しているという町だった。ホームセンターも電器屋もあるから、買い物やちょっとしたトラブルにも困らないだろう。
引っ越しのとき、業者に家具の場所を案内し、段ボールを運んでもらった。
「ベッドがふたつありますけれど、どの部屋に置きましょうか?」
「ああ、このベッドはあちらに。もうひとつのベッドはこの部屋にお願いします」
「同室でなくって?」
「はい」
寝室を分けることで一瞬変な顔をされたものの、それ以上はなにも言われることはなく、滞りなく業者は帰っていった。
私のパソコンは浜尾さんがセッティングしてくれ、自分自身のパソコンもセッティングし直す。これで互いに仕事をはじめても問題なさそうだ。
ふたりで話し合って引っ越した先は、ちょうど海が見えるマンションだった。本の重量対策で床に多少の耐久リフォームをしたものの、アパートよりは居心地がいいと思う。なによりも前よりも壁が分厚いから、プライベートも万全だ。
なによりも、景色がいい。遠くに海が見え、山も見え、のんびりと水鳥が飛んでいるのが見える。マンションのそこそこ上の階のせいだろうか。
カーテンをかけ、段ボールを開けて棚に詰め込んでいく。その日は半分だけ段ボールを空っぽにすることができた。残りは明日以降だ。
いつもいろんな建物の影になった空を眺めることはできても、これだけ拓けて夕焼けを眺めたことはなく、段ボールを畳んで紐で括りながらも、その光景をポカンと眺めていた。
「いい景色ですねえ」
「あと数年はこの辺りも他に建物ができないみたいですし、しばらくはこの景色も見られますね」
「そうですね」
隣の家と上の家と下の家、それぞれ業者さんが挨拶に行ってくれたおかげで、こちらは特にすることもなく、まだ冷蔵庫になにも入ってないからと、出前を頼むことにした。
頼んだものはピザで、ふたりで烏龍茶のペットボトルと一緒に食べながら「そういえば」と私は切り出した。
「どうかしましたか?」
「はい、私ライト文芸の仕事することになったんですよ」
「……前の会社は断ったとおっしゃってましたけど」
浜尾さんに気遣われると、私は「いやあ」と笑った。
「それがですね、最初に私に声をかけてくれた編集さん、出版社退職されて、別の出版社に再就職してたんですよ」
「はあ……」
編集さんが出版社を離れて別の出版社にいるということは、この業界にいると割とある。おかげで縁が続いたんだから、編集様々だ。
なによりもありがたかったのが、いいレーベルと縁を結べたという点だ。
「そこのレーベル、普通にブロマンス取り扱っているところですので、前に書いた企画書そのまんま送ったら、通りました」
私が泣いたり吐いたりしながら断ったレーベルの企画書は、消さずに放置していたけれど、声をかけられたのでそのまま渡したら、通ってしまったんだ。
籍を入れた途端に妙に運が好転したように思うのは、なんでなんだろう。
私を心配そうに見ていた浜尾さんの表情も、だんだんと華やいでくる。
「それじゃあ、かしこ先生のライト文芸小説、読めるんですか?」
「はい」
私は珍しく浮かれて、ピースサインをした。浜尾さんはまたもあわあわとしている。
「なんかお祝いしたほうがよかったですよね……すみません。知らなくて出前、普通のピザ屋で……もうちょっと寿司とか頼めばよかったですね」
「いえ。私も送るだけ送って、企画が通るかどうか知りませんでしたから。なんか本当に、ありがとうございます」
「えっ?」
「なんか、いろいろと諦めきっていたのに、開き直れるようになれましたから」
私はそう言ってから、ピザを頬張った。
引っ越しでくたびれた体に、チーズとトマトソースの味が染みた。
****
普通ってなんだろうと、ときどき思う。
人を好きになれないと言うと「子供みたい」だと指摘される。
触られたくないと言うと、「病気なんじゃないか」と疑われる。
友達がいなくて、恋人がいなくて、それをたつきに「大丈夫か」と心配されたのは一度や二度じゃない。
私にあったのは、自己表現できる小説の場。それだけだった。
人の言う幸せの定義が私に当てはまらなくて、そうなりたくないと思ったとき、それは自分は普通じゃないと自分に言っているようなもので、世間一般の普通にはなれないんだろうと諦めていた。
ただ。
傘を立てよう、シェルターに入ろう。ふたりで閉じこもろう。そう誘ってくれた人がいた。
それは先延ばしの選択で、もしかしたらどこかでご破算になるのかもしれない。
もしかしたらある日突然触れたくなるのかもしれない。
もしかしたら子供が欲しいと思う日だって、来るのかもしれない。
私が私の普通を手に入れられた。それは逃げなのか、人を騙すためのフィルターなのか、今の私にはわからないけれど。
私は今の幸せを大切にしようと思う。
それに時間制限が付いてるのかどうかは、未来の私が考えることだ。
昔は女の人が好きだった。
初恋の人は幼稚園の先生というありきたり。結婚と同時に幼稚園を辞めてしまい、号泣して見送ったことは今でもときどき思い出す。
クラスで漫画を回し読みし、普通に部活に打ち込み、ごくごく普通の生活を送っていたと、そう思う。
あの蝉時雨の日に、女の人に会うまでは。
吹奏楽部で、野球部の応援に行くために、日々練習に励んでいる中。夕方になって家に帰ろうとしている中、自分は制服のワイシャツの下に着ているTシャツをパタパタとさせながら、コンビニでアイスを買おうかと考えていると。
まだ空が傾く直前。バス停に女の人が立っているのが見えた。カンカン帽にサマードレス。薄手のカーディガンの下に剥き出しの細い腕が見えて、少なからずドキドキした。
彼女は自分に目を付けると、にこりと笑った。
「ごめんなさいね、お母さん元気?」
「へえ?」
「私、あなたのお母さんの仕事先の人間なんだけれど、ちょっと書類を渡したくってね……」
女の人のシャンプーの匂いは、クラスメイトからする匂いよりも甘くて、クラクラとした。
自分は言われるがままに家に上げてしまい、そのままソファーに押し倒され、跨られた。
最初は意味がわからず、ポカンとしていたけれど、彼女は口角をきゅっと上げるのが見えた。
「素直ないい子ね」
それはきっと侮蔑の意味だったんだろう。
悲鳴を上げようとしても、彼女は嘲笑うように「素直なのがいけない」「家に上げたのがいけない」「知らない人についていってはいけませんって教わらなかったの?」と小馬鹿にしてくる。
抵抗したくても、上に乗られて上手く抵抗できなかった。なによりも当時、自分は中学に上がったばかりで成長期は来ておらず、身長はクラスメイトの女子よりも小さいままだった。まだ、女性に抵抗できるほどの力なんてなかった。
なにもかもが終わってぐったりとしたところで、彼女はようやく自分から降りて、身だしなみを整えた。
彼女は相変わらず最初に通り過ぎたときに見た通り綺麗なままで、残酷だった。
「素直ないい子ね。頑張ってね」
彼女は歌うように言い捨てて、呆然としている自分を置き去りにして、さっさと出て行ってしまった。
ドアの閉まる音に、独特のにおい、彼女の残した甘い体臭だけが残り、彼女に弄ばれた自分の裸体だけが散らばっている。
鼻の奥からツーンとしたにおいが垂れてきた。鼻を押さえたら、それは鼻血だった。
自分は愕然とした。元々心と体のバランスは思春期になったら崩れやすいと聞いてはいたけれど、体を押さえつけられて必死で抵抗しても、体は勝手に興奮していたのかと思ったら、自分が得体の知れない化け物になったような気がして絶望した。
それからだった。クラスメイトの女子に近付こうとすると勝手に体が強張り、視線が合わなくなったのは。
女子の体臭はあのときの人のシャンプーの匂いとは違う。わかってはいても、あのときの生々しいにおいを思い出して、ただ気持ち悪くなる。
友達はしたり顔で言ってくる。
「なに? おかずに使ったの?」
「そうかそうか、いつの間に成長したのか」
違う、そんなんじゃない。そう言いたくっても、喉に言葉が貼り付いて、なにも言い出すことができなかった。
女子は怪訝な顔でこちらを見てきたものの、それ以上なにも言うことはなかった。
結局中学時代、勝手にこちらが女子を怖がり、女子はその様子を見て「気持ち悪い」と判断して距離を置いてくるようになった。
いくらなんでも、出会った女子出会った女子を、あの人と同一視するのは駄目だろう。
そうわかってはいても、女子と話をしようとすると勝手に唇は震え、暑くなくてもダラダラと汗を掻く。手汗でべとべとになってしまったら、ますますもって女子から距離を置かれるようになり、これじゃ駄目だと思って、進路相談の際に「真面目な男子校」を必死で探すようになった。
男子校に進学したら、問題が起こったらまずいということなのか、女の教師は年を取った定年間際のベテランの先生ばかりで、残りは男の教師ばかりだった。
必死で選んだだけあり、学校の先生は極端に体育会系な考え方ではなく、それなりに自由に勉強もできたし、パソコン部でプログラミングをして遊んで日々を過ごしていた中。
高校三年生になったところで「誕生日おめでとう!」となにかべこっとした大きな箱を押し付けられた。プレゼント包装を頼んだんだろうに、袋にリボンシールだけ貼り付けられているという殺風景っぷりだった。
「なに?」
「大人になった誕生日記念! 家帰って開けて! 学校だったらまずい」
そう言われて、怪訝な顔をして持って帰った。
家に帰って部屋着になり、問題のプレゼント包装を開いて、思わず半眼になった。
それは18禁ゲームだった。初回特典がむしられているところからして、売っている店ごとに違うショップ特典目当てで何個も買ったらしいのをひとつ分けてくれたようだ。
どうしようと思いながらも、一応ゲームはパソコンに入れてみた。
今日は両親はどちらも仕事で遅くなると言っていたから、しばらくはゲームに没頭できるだろう。
ゲームは話はあってないようなもので、ひたすらヒロインがエッチな目に遭うというものだったけれど。
ヒロインが可哀想だと、勝手に自分の中学時代を思い出す。
これが二次元だったからまだいいけれど、もしこれが三次元のAVだったら、果たして自分は見られただろうか。いまいち自信がなかった。
ヒロインが可愛らしい声を上げても、煽情的なシーンになっても、ただ可哀想なだけで、体はなんの反応も示さなかった。ただ、だんだんと嗚咽が込み上げてきた。
気付けば自分は、主人公に全く共感せず、ヒロインに共感して可哀想だ、もっと優しくしてやれと思っていた事実に気付かされたのだ。
自分がする側じゃなく、される側に共感していた。
もしかして自分はおかしいんじゃないか。
最後まで泣くだけで、とうとう体はなんの反応も示さなかった。
まさか自分の誕生日に、そんな事実を突きつけられるなんて、思いもしなかった。
****
大学は工業系に入り、ひたすらパソコンを弄っていた。基本的にゼミにいるのは自分みたいなパソコンとプログラミング以外にはほぼ興味のない連中しかいなかったけれど、ときどき他のゼミと合同で飲み会をするときが苦痛だった。
他のゼミでは、ひたすら女の自慢か風俗の自慢しかしなかったからだ。
大学の方向性の関係で、うちの大学に女子は少なかった。しかも女子たちも環境を理解しているせいか、この手の飲み会には一切参加しなかった。だから飲み会で呼ばれるのは、スポーツサークル繋がりで他校の女子たちだ。
合コンになってしまったときは、自分は「お金の計算します!」「場所取りします!」とひたすら幹事に回り、女子と一対一にならないように心がけ、皆が勝手にどっか行くのを見送ってから帰るようにしていた。
その日も飲み会の幹事を務め、お金の計算をして皆にアプリで報告を流して作業を終了したとき、大きな本屋が目に入った。
そういえば最近新しいプログラミング言語が使われるようになったけれど、まだ上手く会得できてない。本を一冊買って勉強しようと、階を昇ってパソコン専門書のコーナーを回っている中。
その本屋ではちょうどパソコン専門書の裏が、小説コーナーになっていた。
なにげなく見ていたら、だんだん綺麗な絵柄の本がたくさん並んでいることに気付いた。
少女漫画みたいな絵だな。
パソコンゲームをやっていた関係で、華やかな絵には特に抵抗がなかった。好きな絵描きさんが女の人が多かったのもある。なにげなく手に取り、パラパラとめくって気が付いた。
これ、男性同士の恋愛小説じゃないか?
男子校にいたのもあり、この手の文化にはとんと疎く、衝撃が走った。ただ、自分がときどき友達に押し付けられていたギャルゲーよりも無理矢理なシーンも多いにも関わらず抵抗なく読めたのはなんでだろう。
気付けばBL小説数冊とパソコン専門書を一緒に買っていた。
なにがそんなによかったんだろう。ひとりでパラパラと読みながら考え込む。
思えばギャルゲーをやりながら、いつもヒロインの女の子が可哀想だと思っていた。
彼女たちはいつだって主人公からエッチなことをされても喜んでいたはずなのに。
これは自分が昔、無理矢理されたから、余計に気持ち悪かったから、そこでフィルターがかかって見えているんだろうか。ひとりで悶々と考えながら読んでいき、気が付いた。
ほとんどのBL小説でも、無理矢理なシーンは存在するが、そのほとんどは嫌なものは嫌なまま話が進んでいて、ギャルゲーのヒロインたちみたいに簡単じゃないんだ。
少しだけ自分の幸せを噛み締めたけれど、残念ながら世の中BL小説を嗜んでいるというのは勝手に気にされるから、誰にも……それこそ普段からアニメやギャルゲーを教えてくれる友達にすら言えなかった。
大学を卒業するとき、OBたちに「いいところ連れてってやる」とほとんど無理矢理連行された場所を見て、呆然とした。
そこは蛍光カラーでテカテカとデコレーションされた店……ゲームやネットでは見たことがあっても、実物を見るのはこれが初めてだった。
OBは勝手に「後輩たちをよろしく」と風俗に詰め込んでしまった。
風俗嬢のお姉さんは親切に「お風呂にまず入りましょう」と言ってくれ、体を洗おうとするものの必死で「自分で洗います!」と言って自分で洗った。
必死で体を洗い、そのままベッドに連れて行かれるものの、やっぱり自分はなんの反応もしなかった。
「……す、みません……できません……」
なんとか触ろうとするお姉さんの手から必死で逃れつつ、そう訴えると、お姉さんは気の毒そうにこちらを見てきた。
「……先程からお客さん、今にも倒れそうですよ? ここに無理矢理連れてこられましたか?」
そう尋ねられ、自分は大きく頷いた。ここのお金を払ってくれた先輩にも申し訳ないが、どうにもできそうもなかった。
お姉さんは、中学時代に見たあの人とは違う顔をして、心配そうに目を細める。
「うちにときどきいるんですよ。筆おろしだって、イキッてここまで連れてくる人。中にはもろもろでトラウマ持っていたり、性的趣味が違ったりして、うちじゃどうしようもないことだってありますけどね。時間までここで暇を潰してから帰ってくださいね」
お姉さんはさっさと服を着替え「湯冷めしたら体によくないですから」とかけていた服を持ってきてくれた。それにますます申し訳なさが募る。
お姉さんもプロのせいか、このままお帰り願うのも駄目だろうと、なにかしら話題を振ってくれ、それに必死で答えていた。
やがて、「最近面白かった本とかありますか?」と聞かれ、思わずぽろりと「BL小説読んでます」と言ったら、彼女の目が光った。
「ちなみにどういう受け攻めが好き?」
「えっと……受け攻めがどうのというよりも、シチュエーション、ですかねえ……リーマンものが好きです」
「なるほど。漫画? 小説?」
「ええっと……小説を集めはじめてます」
お姉さんもBL小説が好きだったようで「この先生の描写力は凄まじい」とか「この先生のエロはねちっこくていい」とか「この先生はBL通り越して耽美」とか、残り時間かけて小説家のレビューをしてくれた。
帰りがてら、「本屋で探します」とお礼を言って帰る中、彼女は手を振りながら言った。
「頑張ってくださいね」
いつかのときと同じシチュエーション、同じ言葉にもかかわらず、気持ちが違うとこうも違うのか。
結局なにもすることなく、深夜営業の本屋を探しに行った。
お姉さんから聞いた作家の小説を一冊ずつ買おうと考えながら。
就職が決まったのはベンチャーのIT企業だった。
営業以外はほぼ社内のツールでのやり取りだった上に、会社自体があまり飲み会などの体育会系の行事に興味がなかったために、日々の保守業務以外は自由にプライベートが使えた。
最初の一年はがむしゃらに働いたものの、ある程度ペースを掴んでからは、自分の性について考えるようになっていった。
念のために病院に行ってみたものの、自分の性的趣向は極めてストレートで、男性に対してなにも感じることはなく、女性に対して恐怖で凝り固まっていることだけはわかった。カウンセリングも受けたが、自分の女性恐怖症についてはトラウマが何重にも折り重なっているせいで、カウンセリングで解決するというものでもなかったようだ。
「現在、職場での様子はどうですか?」
「今はほとんどパソコンでやり取りしていますので、特に不満はありません。会社の中で飲み会を定期的に開きたがるのは営業の人たちくらいで、その人たちくらいしか体育会系には染まってないです」
「なるほど……正直、この手の奴は、男根主義を無理矢理押しつけたら悪化する恐れがあるため、安心しました」
「そうなんですか?」
「ええ。セックスができるイコール人間として優れているという考え方を押しつけるのは、浜尾さんの治療の妨げになりますから。ゆっくり治療していきましょう」
そう言われた。
少し調べてみたら、性被害者は性加害者に転じることが多く、性加害者の過半数は幼少期にその手のトラブルに見舞われていたという記事が出てきた。そう考えると、クライアントを性犯罪者扱いしないよう、担当のカウンセラーも相当言葉を選んでいたんだということがよくわかった。
自分は相変わらず体が反応せず、だからと言って誰かに発散させたいという欲もなく、いっそのこと自分が男を辞めたほうがいいんじゃないかと悩んだものの、カウンセラーには真っ向から「それは辞めなさい」と珍しく否定された。
どうしようもないなと思いながらも、前に風俗のお姉さんに教えてもらった作家の小説を少しずつ買い集めるようになっていった。さすがに夜中営業の本屋以外では冷たい目で見られることが多いため、通販で買い求めるようになっていった。
カウンセラーに勧められて自分の症状について日記を書いていたものの、気付けばその日記は、好きなBL小説の感想文で埋まっていくようになっていった。
自分の現状を話せる場所はないだろうかと探していく中、ある飲み屋に行くようになっていった。
「あらいらっしゃい、浜尾ちゃん」
「こんばんはー」
そこは職場から少し離れた飲み屋で、ママの影響か、不思議な人のたまり場となっていた。仕事帰りにゲリラ豪雨で電車が停まってしまい、途方に暮れてホテルを探して徘徊していたところで、「終電に間に合わないならここにいらっしゃい」と言われて従業員スペースに一泊させてもらって以来、この店には定期的に通っている。
ママは年齢も性別も不明で、いつも着物を着て着飾っていたものの、声が酒焼けしてしまっていてどちらなのかがイマイチわからなかった。
そのせいか、ここでは外では話せないような悩みを持つ人が多い上に、客同士の悩みも全部店に置いていくこと、店内の会話はネットには書き込まないことを徹底していたために、不思議と居心地がよかった。
BL小説が好きだという話をしたら、もっと嫌がられるかと思ったら「どの先生読んでる?」とお客さんに聞かれた。意外なことに、女性でもBL小説を読む人と読まない人は両極端らしい。
「あれねえ……ひとつはエロを読みたいって大っぴらに言うと、勝手にエッチなことの本番に興味あるんだと勘違いされるんで、表立って言えないんですよぉ。ついでに女性向けだったら女性がエロいことに積極的なのはすごい嫌われる傾向にあるんで、全部マグロとかありますし。BL小説だったら、受けも攻めもエロくてもなんとも言われないところは平和ですよね」
「あと男女の場合はエロいことしたらすぐ結婚しないといけないとか、子供産まないといけないとか、世知辛い方向に話がすぐ進んじゃうんですね。エロいのは読みたいけど、そういう生っぽい恋愛読みたくないとき、BL読むんですよね」
「最近は子供産むBL増えたんで、世知辛いですけどねえ……ブロマンスくらいの人間距離感でエロいの読みたいけれど、すぐ惚れた腫れたに話がシフトしてしまって、うまいこと集中できないとか」
アニメやマンガのBL妄想だけでいい人はそもそも創作BLを読まないとか、女性上位のエロいのは男性向けエロのほうがいいものあるとか、単純にBL小説だけ読んでいる人間からしてみれば不思議な話をたくさん聞き、目が白黒となる。
それにママは「はいはい、その辺にしときなさい」と女の子たちを散らしてから「ごめんねえ」と謝られた。
「あの子たちもねえ、猥談を外でできないから、ここでやってるのね」
「たしかに……あんまり女性の猥談を外では聞きませんけど」
「女の子が下ネタ言うと、男は勝手にそれをエロいことしたいサインだと曲解するのね。最近はネットでも下ネタ言う子増えたけど、その手の話題を振られるのが嫌で、わざと男性ハンドルネーム付けてる子もいるしね」
「……大変なんですねえ」
「でも浜尾くん、大丈夫? あんたもエロいことはできないでしょう?」
小声でそう言われ、「……はい」とだけ言った。
「あの人たちは、自分に興味ないから話せましたけど。女性に触られるのは今も怖いですし……苦手です」
それにママは小さく「難儀ね」とだけ言って、それ以上のことは言わなかった。
そう扱われるほうが、居心地がよかった。
****
仕事をしてBL小説を読み漁る日々の中、その作家に出会って衝撃が走ったのだった。
「あ……」
ふたりの関係は、濡れ場を持ってしても乾いたままだった。一緒にいても互いに執着しない。濡れ場を抜いてしまったら、ブロマンスと呼ばれるジャンルでも遜色ない距離感で物語が紡がれていく。
BL小説はイコール恋愛小説で、濡れ場を持って体だけの関係から恋人にシフトしていくと相場は決まっていたのに、その作家に限って言えば、体だけの関係であり、恋人にもましてや人生のパートナーにもならず、強いて言うなら相棒のままの関係だった。
あまりにも理想通りの話だったのに、思わず名前を見た。
「……乃々原かしこ先生……?」
次の日、本屋のBL棚からその人の名前の本を探し出すと、それを全て抜いていった。
どうして今まで知らなかったんだろう。最近はこのジャンルも縮小が続いているのに、こんなに書いていた……!
家に帰り、その人の本を読みふける。どれも面白い。
獰猛な獣同士のぶつかり合いのようなものもあれば、敵対組織同士の確執もあり。そのパサパサとした関係の中に潜んでいるたしかな絆に、感想を夢中で書いていった。
この人の本をもっと読みたいけれど、どうすればいいんだろう。ファンレターを書く? でもなあ……。飲み屋の常連の腐女子の子たちを思い出す。あの子たちは、下ネタをただ語りたいのであって、自分が下ネタの対象になるのを怖がっていた。ペンネームからして女性だろうに、その中で男の自分がファンレターを書いたら、かしこ先生も怖がるんじゃ。
そう思ったら、高校生のふりをして、必死でファンレターを書いていった。できる限り丸っこい字のフォントを探してきて、それを見様見真似で書いてみた。
名前も偽名だし、住所も書いてないから、きっとかしこ先生も返事が書かないだろう。そう思っていた中。
ある新刊のあとがきに、【高校生の女の子からファンレターをいただきました。】と短く添えてあるのに「あっ」と悲鳴を上げた。
【ファンレターありがとうございます。滅多にもらえないものなので本当に嬉しかったです】
その文章は、本当に自分以外にも高校生が送っていたのか、ただのリップサービスだったのかはわからない。……どっちでもいい。
多分届いたんだろう。よかった。よかった。勝手にそう思っていた矢先。
その日は仕事を家に持ち帰って、一日家で仕事をしていた。その中、チャイムが鳴った。チャイムのモニターを見たら、引っ越し業者の人だった。
「はい」
【すみません、隣なんですけれど、これから引っ越し作業に入りますので。一日騒がしいですが、どうぞよろしくお願いします】
「はい……わかりました」
時期がずれている中、引っ越しなんだな。そう首を捻りながら作業を続けた。
ここは元々は新婚夫婦の賃貸想定のアパートなせいで、部屋数はひとり暮らしにはやや広い。自分の場合は本をある程度置けてパソコンを置けるために、これが便利だなと思って借りていたけれど、ここに住んでいるのはどこもかしこも新婚夫婦だ。
なにもしていなくても、男のひとり暮らしは肩身が狭く、ときどきそこの家の子から「どうしておにいちゃんはけっこんしてないの!?」と叫ばれて謝られることがある。隣の家にまたも幸せ家族が引っ越してきたらどうしよう。そう思っていた。
パソコンで作業をして、あとは一部を紙に印刷して、残りをクラウドに上げて終了といったところで、プリンターから嫌な音がした。
「あー……とうとう壊れたかあ」
こりゃコンビニでプリントしてくるしかないか。そう思ってのそりと財布とデータを持ってコンビニに向かおうとしたとき。
引っ越し業者にひたすら頭を下げている人を見かけた。
肩までの髪をひとつに括った、大人しそうな女性だった。その人が何度も何度も頭を下げているのと目が合った。
途端にすごい勢いで逸らされる……なにも、しません。本当に、なにも。そうおろおろして、声がひっくり返った。
「は、じめまして、お隣の、浜尾で、す! よろしくお願いします! それじゃ!」
そう挙動不審で挨拶をして、そのままコンビニまでダッシュで逃げた。
いくらなんでもこれじゃ駄目だろ。隣に挙動不審な不審人物が住んでるとなったら、一日がかりの引っ越しでも、もう引っ越したくなるだろ。
挨拶しないほうがよかったんだろうか。でも隣に住んでいる人が得体が知れないのはもっと怖いような気がする。失敗したんじゃと、だんだん苦しくなりながら、コンビニのプリンターで目的のデータのプリントを終えた。プリンターはまた新しく買い直さないといけない。プリンターは燃えないゴミだったか、粗大ゴミだったか。
ひとりでとぼとぼと帰ったところで、隣の人が玄関に立っているのが見えた。なんだろう、宅配便でも来るのかな。そのままスルーして家に帰ろうとしたところで、「あ、あのう!」と声をかけられ、思わずびくついた。
「な、なんでしょうか?」
「と、なりに越してきました、柏原です。あの、引っ越し業者に頼んだはずの、挨拶の品、浜尾さんに渡らなかったみたいで。その。どうぞ」
彼女はたどたどしく言いながら、紙袋をくれた。大きさの割に軽いのは、タオルセットかなにかだろう。
「よろしく、お願いします」
「こ、ちらこそ」
ふたり揃ってぎこちなく挨拶をして、それぞれの家に入った。
彼女と目が合ったはずなのに、すぐに逸らされてしまった。最初は挙動不審な自分を不審がっているのかと思っていたけれど、違う気がする。というよりこれ、覚えがある。
「……あの人、自分と同じなのか」
極端な女性恐怖症の自分と、おそらくは男性恐怖症なお隣さん。
こんなのが隣同士だと、お互い大変だろう。自分はできるだけお隣さんに迷惑をかけないように、息を潜めてひっそりと生きよう。
……そう思っていた、はずなのに。
「BL作家と同居!?」
「浜尾さんどうしたんですか、どういう心の心境なんですか!」
いつもの飲み屋で、ママに「女性と住むときに気を付けなきゃいけないことってなんですか?」と相談に行ったら、ものの見事に常連客にバレた。
ママは呆れたような顔をしている。
「あんたたちもその辺で」
「でも……浜尾さん、女性恐怖症なのに大丈夫なんですか?」
彼女たちは同じ常連客だけれど、気を遣って距離を空けてくれているからしゃべれる。ママはそもそも性別不明な上に、基本的にカウンター越しだから平気だ。
でも、かしこ先生は普通の女性で、こちらもどうすればいいのかわからなかった。
ただ、アパートを追い出されそうになっているせいで、困り果てていたから、好き過ぎる作家さんだったのもあって、どうにかしたかった。それだけだった。
ママは「そうねえ」と言いながら、お冷に水を継ぎ足してくれた。
「浜尾くんは大丈夫とは思うけど、なにか思って口にしていても、基本的に本人がストレートに言ったこと以外はそこまで信じちゃ駄目よ? ときどきなんでもかんでも曲解して『自分のことが好きなんだな』と思い込んでは、ストーカー扱いされて嫌われる子、うちでよく見るから」
「ああ……」
ときどきママに泣きついて「好きな子に振られた!」と愚痴をこぼしている人を見かけるけれど、女性の気持ちを計りかねての悲劇らしい。
「それはないですよ。自分はただの先生のファンですし。あの人、自分と住むのも背に腹は替えられないって感じでしたから。そんな人に、どうこうなんてできません」
「ええ……浜尾くんの女性恐怖症もわかっているけどねえ……こればっかりは、あちらがあなたをなんとも思わないといいって祈るしかないわね。そんな感じだったら、同居だって解消する可能性だってあるし」
「ははは……」
多分、それだけは絶対にないですよ。そう思ったことは言わなかった。
彼女は自分よりももっとひどい、対人恐怖症の気が見え隠れしたから。かしこ先生になにがあったのかは知らないけれど、近所に買い物に行くときも、自動レジ以外はほとんど使わないし、できる限り人の多いタイムセールは避けて出かけている。おまけに食事中でも会話でも、ほとんど目が合わない。
それなのに歯医者で働いているのは、かしこ先生の締切に合わせられる仕事が限られていたんだろうと、勝手に思っている。
ママからは「女性ものと男性ものとは違うから、シャンプーやリンスは本人に買わせたほうがいい」「男性にとっては大したことない重さのものでも女性にとっては持ち運べない重さのものはあるから、そういうのは手伝ってあげるといい」「困ってないときは基本的に見守るだけでいいし、困っていたときだけ声をかければいい」とレクチャーされて帰っていった。
要は自分よりも怖いものが多い人に対する接し方でいいんだな。そう割り切った。
でも彼女はなにに対しても淡白な性格で、表情筋もあまり変わらない人だった。家には特に重いものもないし、アパートだって元々同じアパートの隣に住んでいたのだから、部屋の位置とかもわかっているし、そこまで大きく困っている様子もない。
なら、こちらが先回りして様子を見る必要もないだろう。そう割り切っていたけれど。
****
最初にかしこ先生を意識するようになったのは、かしこ先生の妹さんを泊めたとき。
さすがに自分はこれはまずいだろうと会社に泊まろうとしたものの、かしこ先生が心底恐縮して「いえ、ここの大家は浜尾さんですから!」と申し訳なさそうに頭を下げていた。
「そ、んな……頭を上げてください!」
「すみません。うちの妹も本当に粘ってホテルを探し回った結果、こんなギリギリになったみたいで」
安いカプセルホテルだったら今でも予約が取れるだろうけど、かしこ先生の妹さんにそんな治安の悪いホテルを勧められる訳もなく、ふたりにアパートを勧め、自分はできる限り飲み屋で粘ってから帰るようにした。
人懐っこいかしこ先生の妹は、自分みたいなのにも親切だった。ただ、本当に物怖じしない性格なのだろう。かしこ先生と違い、目を合わせて話をしようとしてくるために、こちらが何度委縮したかわからない。
妹さんが帰ったあと、ぐったりとして、昼間からビールを飲んでいたところで、駅まで見送りに行っていたかしこ先生が戻ってきた。
自分がビールを飲んでいたのに、彼女はきょとんとした。そういえば一緒に住みはじめてから、彼女の前でビールを飲むのは初めてだった気がする。
成り行き上昼間から飲みはじめたとき、いつも全然表情筋の緩まなかった人が、目を細めておいしそうに飲んでいることに気が付いた。飲み屋で本当においしそうにビールを飲んでいる常連客はよく見るけれど、かしこ先生もストレスをビールで流し込むのではなくて、単純に味が好きで飲んでいるタイプだ。
普段から原稿にかかりっきりなため、あまり酒を飲まないだけだとは、そのときに聞いた。作家にもアルコールを入れたほうが書ける人と全く書けなくなる人といて、かしこ先生は後者らしい。
作家もいろいろだな。そう思っていたら、日頃は口の堅いかしこ先生が、あちこちに話を飛ばしてきた。
どうにか必死に慰めようとすればするほど、かしこ先生はドツボにはまってきて、突然こちらを赤らんだ顔でじっと見てきた。
自分はお世辞にもいい感じではない。癖毛がひど過ぎるし、度近眼でほぼ瓶底のメガネをかけているし、仕事の関係で目だってずっと充血している。
その彼女が、自分をじぃーっと見てきたのだ。
「浜尾さん、優しいじゃないですか……私はそのまんまでいいと思います。無理に、男らしくとか、年相応とか、考えなくってもいいと思います」
「……かしこ先生?」
『なにか思って口にしていても、基本的に本人がストレートに言ったこと以外はそこまで信じちゃ駄目よ?』
前にママに言われた警告が頭をよぎった。
この場合、ただ愚痴吐きに付き合った自分をお礼で褒めているのか、純粋に思ったことを言ったのか、どっちだろう。
人をすぐ好きになれる人を、自分は本気でわからないと、そのときまでずっと思っていた。
「普通って、しんどいじゃないですか……普通にしないといけないって、普通から外れちゃった人間からしたら、息苦しいじゃないですか……普通にしてて息ができないのに、それでも普通にしないと駄目なんですか? 呼吸困難に陥るくらいだったら、もう普通じゃなくっていいです。私も浜尾さんも、呼吸しやすい場所探して落ち着いてるだけじゃないですか……」
言いたいことを言って、そのままかしこ先生はカクン、とテーブルに突っ伏してしまった。
「あの、かしこ先生?」
ママがときどき酔っ払い客を起こすように、グラスで恐る恐る頬を触れさせるけれど、彼女は寝息を立てて起きなかった。
どうしよう。眠っている人だったら、彼女を抱えて部屋に寝かせることができるだろうか。そう思って彼女の肩に触れようとした途端に、彼女のアルコールの混ざった体臭が香った。
その匂いをいい匂いと思えたらどれだけよかったのか。頭をよぎったのは、いつかの夏の記憶だった。
『頑張ってね』
哄笑が頭をよぎり、喉を吐き気がせり上がってくる。さっきまで気持ちよく一緒にビールを飲んでいたのに、これだ。
彼女を抱えてベッドに寝かせるのは諦め、倉庫から替えのタオルケットを取って来て、それを彼女にかけた。
「これなら、大丈夫ですよね」
彼女が起きるのを待ったものの、彼女がいつまで経っても起きず、結局はシャワーを浴びて自室に戻ることしかできなかった。
自分の手を握って広げる。彼女に触ることができなくって、残念だと思ったのはなんでだろう。それがわからなかった。
****
彼女が弱ったのは、それからしばらくしてだった。
理由がひとつだけだったらよかったものの、彼女の勤め先でのトラブル、新規の出版社とのトラブル、このところ出かけるたびに遭遇したトラブル。
ひとつひとつの大きさは大したものではないけれど、それが雪だるま形式でどんどんと凝り固まった結果、かしこ先生は見るからに弱っていってしまった。
最近は食事も細くなってしまい、こちらに向ける背中が妙に小さく細く見えた。
その日、仕事から帰ってきたとき。彼女がトイレの戸を開けっぱなしにしているのが見えた。
まさか、彼女が倒れたんじゃ。おろおろとしそうになる自分を奮い立たせて、努めて冷静な声を出す。
「かしこ先生、大丈夫ですか?」
返事の替わりに、吐瀉物を吐き出す音が響いた。彼女は何度も口元を拭ってから、ようやく振り返った。
見るからに憔悴して、前髪は汗で貼り付き、ぐったりとしていた。
「……申し訳ありません、浜尾さんのお宅で」
「……いいえ。体調悪いときはありますから。その、コンビニでお粥を買ってきますか?」
「……すみません。お願いします。それくらいだったら、大丈夫だと思います」
それだけ聞くと、踵を返して、そのまま家を出た。
どうしたらいいんだろう。彼女がどんどん弱っていく。
もし自分が友達だったら、彼女を励ます言葉を言えたんだろうか。
もし自分が恋人だったら、彼女を慰めることができたんだろうか。
同居人だったら、どうしようもないじゃないか。
コンビニに向かいがてら、自分は思わずスマホで電話をしていた。
友達も乏しく、相談できる人なんて限られていた。
『はい飲み屋ふぇりーきたーすです。大変申し訳ございませんが、現在開店準備……』
「ママですか? 浜尾です。どうしよう」
『あら浜尾くん。珍しい。どうかしたの?』
「……好きな人が、弱っているんです」
『あら? それって、例の作家さん?』
「……はい」
説明すべきかどうか悩んだ結果、コンビニを行く道すがら、淡々と全て吐き出した。
かしこ先生をずっと信仰していたけれど、ある日突然あの人が女性だと気付いたこと。でも彼女に触ることはできず、その上に信仰対象をそんな目で見てはいけないと距離を置いていたこと。
でも、ずっと表情筋が死んでいた人が、本当にときどき表情筋が緩む姿を見るのが好きなこと、触らなくてもあの人といると楽しいこと、でも自分だとあの人が弱っていてもどうしたらいいのかわからないこと。
ここまでを一気に吐き出したところ、ママは『はあ……』と溜息をついた。
『一応聞くけど、浜尾くんは作家さんになんにもしてないのね? ただ作家さんがいろんなタイミングが悪くてどんどん弱っていくだけで』
「はい……」
『そしてその人が対人恐怖症だけれど、浜尾くんには懐いている。でも人に触られるのが病的に駄目で、結果的に浜尾くんと噛み合っちゃったのねえ……難しいわね』
「……自分、あの人になにかできるでしょうか? あの人がこれ以上苦しんでいるのは、見てられないんです……」
『ねえ、浜尾くんの好きってどういう意味? これって愛? 恋?』
唐突に言われて、言葉を詰まらせる。
彼女がずっと好きだったけれど、その意味がわからなかった。だって自分は彼女に触れないし、触りたいと思わない。ただ、本当に元気でいて欲しい、笑っていて欲しいと思っていて、世間一般の恋人にしたいことをしたいとは微塵にも思っていない。
彼女を性的に全く見ていないのに、それでも好きでいるっていうのは、矛盾していないだろうか。
「……わからないです。生きづらそうにしている彼女が、自分の前くらいは元気でいて欲しいと思うのは、自分のエゴでしょうか?」
『その弱っている作家さんを閉じ込めたいとか、そんなのは全然ないんだったら、大丈夫でしょう。彼女が元気になったら、ゆっくりその話をしなさいな』
「……あの人を、苦しめないでしょうか?」
『あのね、浜尾くん。恋に恋してる子って、基本的にエゴでしか動かないし、相手の気持ちなんて無視して動くけどね、あなたは徹底して相手を優先して動いてる。それってもう、愛以外にないじゃない』
ママの言葉に、コンビニの前でピタリと止まる。
自分、そこまで深いこと、考えていなかったような。でも淡々とママは続ける。
『浜尾くんがハンディーがあるのは知ってるし、作家さんが人間嫌いだっていうのも聞いているけどね。それって逆に言えば自分を優先してもらえなくって絶望していることだから。その絶望には、徹底して相手を優先しているとアピールすることでしか、打ち勝つことはできないの。あなたの一番がその作家さんなら、頑張りなさい』
「……自分は、いつもママに感謝してますよ」
『そういうのいいから。行ってらっしゃい』
そう言われて、自分はようやくコンビニでお粥を数個放り込み、スポーツドリンクもできる限り買い込んだ。
あれだけ応援してくれたママには「愛」だと言われてしまったけれど、多分、自分たちの関係は、愛とか恋とかそういうのとは違う気がする。
触れないし、スキンシップらしいことはほぼできない。ただ一緒にいると居心地がいい。本当にそれだけだ。
名前の付けられない関係を引きずって、ふたりで生きていけたらいいのにと、そう思わずにはいられない。
<了>