校舎の外で祐二達は大振りの桜の下に腰を下ろした。
周囲を見れば、同じように芝生で弁当を広げている生徒がちらほらいる。祐二達の高校では学食もあるのだが、四人はほとんどそこを利用しない。
祐二の場合は一人暮らしのため、弁当をつくってくれる人がいないのだ。しかし、朝早くから起きて作る気力があるはずもなく、だからほとんど購買で済ませることが多い。
涼も似たようなもので、弁当は持参しない。気が向けば自分で作ることもあるようだが、それは本当に極まれである。要するに、二人とも食に対しては、腹が満たされればいいという考えなのだ。
それ以外では、二人を憐れんだ琴美が時折弁当を作ってきてくれるので、それをパクつくくらいだ。
「最高のお花見日和ですよね。気持ちよくて眠くなりそうです」
桜の間から零れる光を見上げ、真生が嬉しそうに目を細めた。その言葉に祐二も視線を空へと向ける。
そこから見えた空は屋上での風景とはまた違い、薄紅色の桜に空の蒼さが一段と映えて素直に奇麗だと思えるものだった。
「……楽な花見だな」
しかし真生に同意するのもなんだか癪で、祐二は憎まれ口を叩く。
「今はちょうどシーズンですもんね? 学校以外でお花見しようとしたら場所取りが大変ですよ」
真生は怒りもせずに笑うと、さっそく弁当を開き始める。祐二もそれにならってサンドイッチの袋を破く。
なんとなく隣を見れば箸をせっせと口に運び、真生は美味しそうに顔を綻ばせている。口をもごつかせる彼女は頬袋を膨らませるハムスターのようだ。
頭に浮かんだ姿に笑いをかみ殺す。すると、琴美と目が合い、にこりと微笑みかけられた。
「春は好きよ。だって、幸せな気分になれるじゃない?」
「まぁ、悪くはねぇな」
「琴美ちゃんはオレといればいつだって幸せでしょ?」
「すごい自信ね。天気がよくて幸せとか、ご飯がおいしくて幸せとか、些細な幸せっていうのが、春には多い気がするって話よ?」
「じゃあやっぱり、オレといれば幸せ倍増ってことだな。琴美は春も夏も秋も冬も一年中幸せだね!」
「……なんの恥ずかしげもなくよく言えるわね、あんた」
もともと、琴美は人前で恋人同士らしい話をするのを嫌う。祐二が訊いても砂を吐きそうな台詞に、彼女が我慢できるはずもなく、恥ずかしさに頬を染めて静かに怒り出す。
「まぁまぁ、喧嘩はよしましょ? せっかくのお花見なんです。楽しく食べましょうよ」
「アホは放っておけ。何を言っても聞きゃあしねぇんだからよ」
「そうね……せっかく皆で楽しく食べてるのに、怒ってるのも馬鹿らしいわ。真生ちゃんその卵焼き一口くれる? あたしもウィンナーあげるから」
「ありがとうございます。あの、琴美先輩、涼先輩が欲しそうに見てますよ?」
「……今回だけよ?」
普段ならこうはいかないのだが、仲裁に入ったのが真生だからか、琴美がわりとすんなりと涼を許す。すると、隅でパンを齧っていじけていた悪友が瞬時に復活した。
「琴美ちゃん、ラーブッ!!」
「あたしはラブじゃありませんっ!」
怒った表情をしながらも、その目だけは嘘をつけない。相手を愛しむ色を見つけて、祐二の胸は鉛を飲んだように重苦しくなる。
辛そうな顔より、幸せそうな顔を見ていたいと思う。だからこそ、この気持ちを伝えることは一生しないと決めたのだ。
祐二は空になったペットボトルとパンの袋を潰し、溜息を噛み殺す。
──奪いたいわけじゃない。けど、何やってんだかな、オレも。
さっきまで綺麗だと思えた空さえ急に憎くなる。祐二はうんざりした気分を胸の底に押し込む。
「先輩、これ食べます?」
「うおっ」
唐突に、茶色い物体を真生に突き出され、祐二は思わず仰け反った。距離を離せば、視界いっぱいに広がった茶色の正体は肉団子である。
「美味しいですよ。食べますか?」
笑みを浮かべる真生は祐二の驚きには無頓着だ。ただ、にこにこと笑う彼女に祐二は力なく言葉を返す。
「お前、いきなり真ん前に近づけんなよ」
「お腹が空いてたんじゃないんですか? 空見てたってお腹は膨れませんよ?」
「なんで上を見てただけで、腹が減ってるに繋がるんだよ」
「違いました? てっきり空腹のあまりに飛んでる鳥まで狙っているのかと」
惚けたことを言う真生に、祐二は痛み出した頭を押さえる。意図せずにどっぷりと溜息が出てきそうだ。
「あーもういい。お前は黙って好きなだけ食ってろ」
悩むだけ馬鹿らしくなり、祐二は投げやりに視線を遠くへ飛ばした。
「先輩を心配して言ったのに」
「嘘つけ、明らかにおちょくってただろ」
「あはっ、バレました?」
「当たり前だ」
祐二がそのまま後ろに寝転がると「酷いなぁ」とぼやく真生の声が聞こえた。
頬に当たる芝生の感触。緑の匂いが心地よくて、そのまま目を閉じていると、いつの間にか自分の中から、凝るような想いは霧散していた。
──オレの気を、逸らせるためか?
ちらりと、視線だけを真生に向ければ、幸せそうな顔をして弁当を突っついていて、深読みしずぎた自分に苦笑が浮かぶ。
──こいつがそこまで考えるわけないよな。
視線に気づいたのか、細い首が傾げられる。そして、何を思ったのか、満面の笑みを浮かべて、ずいっと弁当が差し出された。
「やっぱりお腹が空いてたんですね! 遠慮はいりません。さ、どうぞ!」
──絶対、そんな深い考えはねぇな……。
祐二はそう確信した。
「先輩どうか──……」
「真生──っ!」
その時、穏やかな空気を不似合いな怒声が切り裂いた。校舎から走ってくる影があり、次の瞬間には隣で座っていた真生がパッと立ち上がる。
「い、郁也くん……」
引き攣った顔で呟くと、途端にあたふたと慌て出す。
「どうしたの?」
「うわぁぁ、まずいっ、どうしようっ!?」
傍らで不思議そうに話しかける琴美の声さえ聞こえていない様子で、その口からはひたすら「どうしよ……どうしよ……」と小さな呟きが零れるばかりだ。どうやら思わぬ事態に軽くパニックを起こしているらしい。
「何をそんなに焦ってる」
さすがに祐二も気になってむくりとその身を起こせば、はっと真生が振り返った。その後の行動は、普段ののんびりな様子からは考えられないほどに素早かった。
「……何してんだ?」
真生はあろうことか、起き上った祐二の背後に回り込み、その背中に隠れたのだ。幸い、と言っていいのかわからないが、真生の身体は平均くらいで、祐二の体は当然それを上回る大きさだ。彼女の大きいとは言えない身体でさらに小さくしゃがみ込めば、正面からは祐二だけしか見えないだろう。
だが、ぎゅううっとあらん限りの力で縋りつかれた祐二は堪ったものではない。
「お願いします。動かないでください」
背中にしがみついて離れない真生は、見たことがないほど必死な様子で、このまま隠してくれと頼み込んでくる。しかし、祐二が反応する前に影が射す。
「いまさら隠れても無駄だ」
低く響いた不穏な声に、顔を向ければ、眉間に深々と皺を刻んだ少年と目が合った。背は祐二より十センチ程下だろうか。鋭く切れる刃物のような印象を与える二重の目に、薄い唇。髪は黒く、ピョンピョンと無造作に跳ねている。顔のパーツはまだ幼さの抜けきらない少年のものなのに、表情は酷く大人びていた。
きつい目が一瞬だけ祐二を睨み、鋭い視線が真生に移る。
「うぅ……」
「なにやってんだ、お前は!」
鬼のような形相とはまさにこのことだろう。少年は祐二の背中に中途半端に隠れたままだった真生を引きずり出すと頭ごなしに怒鳴りつけた。
「なんでお前がこんな所にいる!?」
言葉にますます凄味が加わる。普通の女子なら泣きそうだ。
「て、天気もいいので、外でご飯でも食べようかという話になって。あ、なんなら郁也くんも一緒に食べない……?」
「そんなこと聞いてんじゃねぇんだよ!」
「あはははは……」
「笑って誤魔化すな! きっちり説明してもらうからな?」
「見逃して──」
「くれると思うのか。このオレが?」
「やっぱり駄目?」
「当たり前だ」
怖々と、それでも僅かな期待を乗せた言葉を一刀両断された真生は肩を落とし、俊然と項垂れる。琴美と涼が顔を見合わせる中、祐二は騒がしいやりとりに割り込む。
「うるせ─よ。痴話喧嘩なら余所でやれ」
「あぁ? あんた誰だよ?」
胡散臭そうに目を眇める郁也に、祐二は器用に片眉を上げて見せた。
「随分と口の悪りぃ餓鬼だな」
「うっわっ! 祐二に激似じゃん」
横から口を挟まれる。余分なことしか言わない涼に本気で殺気を覚えて、ギンッと睨みつけてやると、涼は引き攣った顔でへらりと笑って、降参とでも言うように両手を上げた。
「涼は余計な口出ししないの! とりあえず、真生ちゃん? この子は誰なのかしら?」
涼の頭を軽く叩いて、琴美は自分の彼氏をそっちのけに真生に笑いかける。
「あっ、すみません。彼は菊地郁也君と言って、私の幼馴染兼クラスメイトなんです。ほら、郁也君も先輩たちに挨拶しないと」
裾を引っ張って促す真生に、郁也はムスッとした顔でしぶしぶ口を開く。
「ど─も」
その声は、お前らなんかに興味ねぇと言わんばかりに愛想の欠片もない。慌てて真生が裾を引っ張りながらフォローに出る。
「郁也君っ! すみません先輩方。そうは見えないかもしれませんが、本当は凄くいい子なんです」
しかしそれは全くフォローになっていなかった。
「子って言うな。お前が馬鹿なことしかしないから、オレの口が悪くなるんだろうが」
不機嫌そうに睨まれて、真生が言葉に詰まりながらも果敢に反撃に出る。
「そ、それは悪いと思ってるけど、私だっていつも無謀なことしてるわけじゃないよ? それと郁也君の口の悪さは関係ないじゃん」
「あぁ? お前が無茶ばっかするから、俺だって口を出さなきゃいけなくなるんだ。けど、軟い口調で言ったって、お前全然聞かねぇだろ! それによ、いっくら年上だろうが、知らない奴らに敬語なんざ使えるか」
そこには一理あると祐二も思った。だがそれを口に出すことはしない。
「お前ねぇ……オレ等だからいいようなもんだけど、全部の先輩にそんな態度じゃ目ぇつけられるよ?」
「それがどうした。そんな奴らにこのオレが負けるとでも?」
その軽率な行動を咎めるように涼が顔を顰めれば、馬鹿にしたように郁也が返す。
「おい、どうでもいいからさっさとそいつ連れてけ。こっちは飯食ってんだ」
祐二もいい加減、黙っているのに限界を覚えてスパンと叩き切るように、涼と郁也の言い合いに割って入った。その気だるそうな態度に、郁也が敵愾心を剥き出しにした目で祐二を睨む。
「あんたが、呉柳祐二か?」
「だったらなんだ」
答えた瞬間、表情が一変した。
「オレはあんたを──……」
郁也の顔には色濃い苛立ちと、それ以外の何かの感情が浮かんでいて、祐二は僅かに違和感を感じた。たとえ真生の幼馴染であろうが、初対面の相手にこうまで敵意を剥き出しにされる覚えはない。
親の敵でも見つけたかのように睨み合う二人を中心に、一瞬で緊迫した空気が漂う。しかし、それが壊れたのも一瞬だった。
「あぁっとっ! 私、課題出さなきゃいけないのでそろそろ行きますね。ほら、それで呼びに来たんでしょ? 一緒に戻ろ」
呆れるほどマイペースな真生に、祐二と郁也は呆気にとられて、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「待てっ、オレはこいつに言いたいことが」
「これ以上先輩に迷惑掛けないの。それじゃあ先輩方、お先に失礼します! 祐二先輩また会いに来ますので、待っててくださいね」
馬鹿丁寧な挨拶をして、真生はさっと広げていた弁当を包むと、引きずるように郁也の腕を引っ張っていく。
「この馬鹿! 急に走るな!!」
真生の背中と郁也の怒鳴る声が徐々に遠ざかり、やがて校舎の中に消える。それを見送ることになった祐二は、しまりのない終わり方に、ガシガシと頭を掻いた。
「誰が待つか……」
「なによ。祐二君ったら寂しいの? オレが慰めてあげようか?」
「はっ、いなくなって清々すらぁ」
「素直じゃないねぇ」
「素直じゃないわね」
「うるせぇー」
笑い声が響く中、祐二はぶっきらぼうに言葉を投げた。
周囲を見れば、同じように芝生で弁当を広げている生徒がちらほらいる。祐二達の高校では学食もあるのだが、四人はほとんどそこを利用しない。
祐二の場合は一人暮らしのため、弁当をつくってくれる人がいないのだ。しかし、朝早くから起きて作る気力があるはずもなく、だからほとんど購買で済ませることが多い。
涼も似たようなもので、弁当は持参しない。気が向けば自分で作ることもあるようだが、それは本当に極まれである。要するに、二人とも食に対しては、腹が満たされればいいという考えなのだ。
それ以外では、二人を憐れんだ琴美が時折弁当を作ってきてくれるので、それをパクつくくらいだ。
「最高のお花見日和ですよね。気持ちよくて眠くなりそうです」
桜の間から零れる光を見上げ、真生が嬉しそうに目を細めた。その言葉に祐二も視線を空へと向ける。
そこから見えた空は屋上での風景とはまた違い、薄紅色の桜に空の蒼さが一段と映えて素直に奇麗だと思えるものだった。
「……楽な花見だな」
しかし真生に同意するのもなんだか癪で、祐二は憎まれ口を叩く。
「今はちょうどシーズンですもんね? 学校以外でお花見しようとしたら場所取りが大変ですよ」
真生は怒りもせずに笑うと、さっそく弁当を開き始める。祐二もそれにならってサンドイッチの袋を破く。
なんとなく隣を見れば箸をせっせと口に運び、真生は美味しそうに顔を綻ばせている。口をもごつかせる彼女は頬袋を膨らませるハムスターのようだ。
頭に浮かんだ姿に笑いをかみ殺す。すると、琴美と目が合い、にこりと微笑みかけられた。
「春は好きよ。だって、幸せな気分になれるじゃない?」
「まぁ、悪くはねぇな」
「琴美ちゃんはオレといればいつだって幸せでしょ?」
「すごい自信ね。天気がよくて幸せとか、ご飯がおいしくて幸せとか、些細な幸せっていうのが、春には多い気がするって話よ?」
「じゃあやっぱり、オレといれば幸せ倍増ってことだな。琴美は春も夏も秋も冬も一年中幸せだね!」
「……なんの恥ずかしげもなくよく言えるわね、あんた」
もともと、琴美は人前で恋人同士らしい話をするのを嫌う。祐二が訊いても砂を吐きそうな台詞に、彼女が我慢できるはずもなく、恥ずかしさに頬を染めて静かに怒り出す。
「まぁまぁ、喧嘩はよしましょ? せっかくのお花見なんです。楽しく食べましょうよ」
「アホは放っておけ。何を言っても聞きゃあしねぇんだからよ」
「そうね……せっかく皆で楽しく食べてるのに、怒ってるのも馬鹿らしいわ。真生ちゃんその卵焼き一口くれる? あたしもウィンナーあげるから」
「ありがとうございます。あの、琴美先輩、涼先輩が欲しそうに見てますよ?」
「……今回だけよ?」
普段ならこうはいかないのだが、仲裁に入ったのが真生だからか、琴美がわりとすんなりと涼を許す。すると、隅でパンを齧っていじけていた悪友が瞬時に復活した。
「琴美ちゃん、ラーブッ!!」
「あたしはラブじゃありませんっ!」
怒った表情をしながらも、その目だけは嘘をつけない。相手を愛しむ色を見つけて、祐二の胸は鉛を飲んだように重苦しくなる。
辛そうな顔より、幸せそうな顔を見ていたいと思う。だからこそ、この気持ちを伝えることは一生しないと決めたのだ。
祐二は空になったペットボトルとパンの袋を潰し、溜息を噛み殺す。
──奪いたいわけじゃない。けど、何やってんだかな、オレも。
さっきまで綺麗だと思えた空さえ急に憎くなる。祐二はうんざりした気分を胸の底に押し込む。
「先輩、これ食べます?」
「うおっ」
唐突に、茶色い物体を真生に突き出され、祐二は思わず仰け反った。距離を離せば、視界いっぱいに広がった茶色の正体は肉団子である。
「美味しいですよ。食べますか?」
笑みを浮かべる真生は祐二の驚きには無頓着だ。ただ、にこにこと笑う彼女に祐二は力なく言葉を返す。
「お前、いきなり真ん前に近づけんなよ」
「お腹が空いてたんじゃないんですか? 空見てたってお腹は膨れませんよ?」
「なんで上を見てただけで、腹が減ってるに繋がるんだよ」
「違いました? てっきり空腹のあまりに飛んでる鳥まで狙っているのかと」
惚けたことを言う真生に、祐二は痛み出した頭を押さえる。意図せずにどっぷりと溜息が出てきそうだ。
「あーもういい。お前は黙って好きなだけ食ってろ」
悩むだけ馬鹿らしくなり、祐二は投げやりに視線を遠くへ飛ばした。
「先輩を心配して言ったのに」
「嘘つけ、明らかにおちょくってただろ」
「あはっ、バレました?」
「当たり前だ」
祐二がそのまま後ろに寝転がると「酷いなぁ」とぼやく真生の声が聞こえた。
頬に当たる芝生の感触。緑の匂いが心地よくて、そのまま目を閉じていると、いつの間にか自分の中から、凝るような想いは霧散していた。
──オレの気を、逸らせるためか?
ちらりと、視線だけを真生に向ければ、幸せそうな顔をして弁当を突っついていて、深読みしずぎた自分に苦笑が浮かぶ。
──こいつがそこまで考えるわけないよな。
視線に気づいたのか、細い首が傾げられる。そして、何を思ったのか、満面の笑みを浮かべて、ずいっと弁当が差し出された。
「やっぱりお腹が空いてたんですね! 遠慮はいりません。さ、どうぞ!」
──絶対、そんな深い考えはねぇな……。
祐二はそう確信した。
「先輩どうか──……」
「真生──っ!」
その時、穏やかな空気を不似合いな怒声が切り裂いた。校舎から走ってくる影があり、次の瞬間には隣で座っていた真生がパッと立ち上がる。
「い、郁也くん……」
引き攣った顔で呟くと、途端にあたふたと慌て出す。
「どうしたの?」
「うわぁぁ、まずいっ、どうしようっ!?」
傍らで不思議そうに話しかける琴美の声さえ聞こえていない様子で、その口からはひたすら「どうしよ……どうしよ……」と小さな呟きが零れるばかりだ。どうやら思わぬ事態に軽くパニックを起こしているらしい。
「何をそんなに焦ってる」
さすがに祐二も気になってむくりとその身を起こせば、はっと真生が振り返った。その後の行動は、普段ののんびりな様子からは考えられないほどに素早かった。
「……何してんだ?」
真生はあろうことか、起き上った祐二の背後に回り込み、その背中に隠れたのだ。幸い、と言っていいのかわからないが、真生の身体は平均くらいで、祐二の体は当然それを上回る大きさだ。彼女の大きいとは言えない身体でさらに小さくしゃがみ込めば、正面からは祐二だけしか見えないだろう。
だが、ぎゅううっとあらん限りの力で縋りつかれた祐二は堪ったものではない。
「お願いします。動かないでください」
背中にしがみついて離れない真生は、見たことがないほど必死な様子で、このまま隠してくれと頼み込んでくる。しかし、祐二が反応する前に影が射す。
「いまさら隠れても無駄だ」
低く響いた不穏な声に、顔を向ければ、眉間に深々と皺を刻んだ少年と目が合った。背は祐二より十センチ程下だろうか。鋭く切れる刃物のような印象を与える二重の目に、薄い唇。髪は黒く、ピョンピョンと無造作に跳ねている。顔のパーツはまだ幼さの抜けきらない少年のものなのに、表情は酷く大人びていた。
きつい目が一瞬だけ祐二を睨み、鋭い視線が真生に移る。
「うぅ……」
「なにやってんだ、お前は!」
鬼のような形相とはまさにこのことだろう。少年は祐二の背中に中途半端に隠れたままだった真生を引きずり出すと頭ごなしに怒鳴りつけた。
「なんでお前がこんな所にいる!?」
言葉にますます凄味が加わる。普通の女子なら泣きそうだ。
「て、天気もいいので、外でご飯でも食べようかという話になって。あ、なんなら郁也くんも一緒に食べない……?」
「そんなこと聞いてんじゃねぇんだよ!」
「あはははは……」
「笑って誤魔化すな! きっちり説明してもらうからな?」
「見逃して──」
「くれると思うのか。このオレが?」
「やっぱり駄目?」
「当たり前だ」
怖々と、それでも僅かな期待を乗せた言葉を一刀両断された真生は肩を落とし、俊然と項垂れる。琴美と涼が顔を見合わせる中、祐二は騒がしいやりとりに割り込む。
「うるせ─よ。痴話喧嘩なら余所でやれ」
「あぁ? あんた誰だよ?」
胡散臭そうに目を眇める郁也に、祐二は器用に片眉を上げて見せた。
「随分と口の悪りぃ餓鬼だな」
「うっわっ! 祐二に激似じゃん」
横から口を挟まれる。余分なことしか言わない涼に本気で殺気を覚えて、ギンッと睨みつけてやると、涼は引き攣った顔でへらりと笑って、降参とでも言うように両手を上げた。
「涼は余計な口出ししないの! とりあえず、真生ちゃん? この子は誰なのかしら?」
涼の頭を軽く叩いて、琴美は自分の彼氏をそっちのけに真生に笑いかける。
「あっ、すみません。彼は菊地郁也君と言って、私の幼馴染兼クラスメイトなんです。ほら、郁也君も先輩たちに挨拶しないと」
裾を引っ張って促す真生に、郁也はムスッとした顔でしぶしぶ口を開く。
「ど─も」
その声は、お前らなんかに興味ねぇと言わんばかりに愛想の欠片もない。慌てて真生が裾を引っ張りながらフォローに出る。
「郁也君っ! すみません先輩方。そうは見えないかもしれませんが、本当は凄くいい子なんです」
しかしそれは全くフォローになっていなかった。
「子って言うな。お前が馬鹿なことしかしないから、オレの口が悪くなるんだろうが」
不機嫌そうに睨まれて、真生が言葉に詰まりながらも果敢に反撃に出る。
「そ、それは悪いと思ってるけど、私だっていつも無謀なことしてるわけじゃないよ? それと郁也君の口の悪さは関係ないじゃん」
「あぁ? お前が無茶ばっかするから、俺だって口を出さなきゃいけなくなるんだ。けど、軟い口調で言ったって、お前全然聞かねぇだろ! それによ、いっくら年上だろうが、知らない奴らに敬語なんざ使えるか」
そこには一理あると祐二も思った。だがそれを口に出すことはしない。
「お前ねぇ……オレ等だからいいようなもんだけど、全部の先輩にそんな態度じゃ目ぇつけられるよ?」
「それがどうした。そんな奴らにこのオレが負けるとでも?」
その軽率な行動を咎めるように涼が顔を顰めれば、馬鹿にしたように郁也が返す。
「おい、どうでもいいからさっさとそいつ連れてけ。こっちは飯食ってんだ」
祐二もいい加減、黙っているのに限界を覚えてスパンと叩き切るように、涼と郁也の言い合いに割って入った。その気だるそうな態度に、郁也が敵愾心を剥き出しにした目で祐二を睨む。
「あんたが、呉柳祐二か?」
「だったらなんだ」
答えた瞬間、表情が一変した。
「オレはあんたを──……」
郁也の顔には色濃い苛立ちと、それ以外の何かの感情が浮かんでいて、祐二は僅かに違和感を感じた。たとえ真生の幼馴染であろうが、初対面の相手にこうまで敵意を剥き出しにされる覚えはない。
親の敵でも見つけたかのように睨み合う二人を中心に、一瞬で緊迫した空気が漂う。しかし、それが壊れたのも一瞬だった。
「あぁっとっ! 私、課題出さなきゃいけないのでそろそろ行きますね。ほら、それで呼びに来たんでしょ? 一緒に戻ろ」
呆れるほどマイペースな真生に、祐二と郁也は呆気にとられて、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「待てっ、オレはこいつに言いたいことが」
「これ以上先輩に迷惑掛けないの。それじゃあ先輩方、お先に失礼します! 祐二先輩また会いに来ますので、待っててくださいね」
馬鹿丁寧な挨拶をして、真生はさっと広げていた弁当を包むと、引きずるように郁也の腕を引っ張っていく。
「この馬鹿! 急に走るな!!」
真生の背中と郁也の怒鳴る声が徐々に遠ざかり、やがて校舎の中に消える。それを見送ることになった祐二は、しまりのない終わり方に、ガシガシと頭を掻いた。
「誰が待つか……」
「なによ。祐二君ったら寂しいの? オレが慰めてあげようか?」
「はっ、いなくなって清々すらぁ」
「素直じゃないねぇ」
「素直じゃないわね」
「うるせぇー」
笑い声が響く中、祐二はぶっきらぼうに言葉を投げた。