彩華との約束を間近に控えたある日。
 夏季休暇(かききゅうか)の課題として出された数学のワーク集と、今更ながら読書感想文を終わらせた。
 休憩しようとベッドで仰向けになり、起動中のスマホをお腹に乗せて、天井をぼんやりと見つめる。
 電源が入ったので画面を見ると、この前の同級生からメッセージが来ていて、トーク画面を開く。
【花火大会の次の日、夏鳥祭り行こう】
 その日は、彩華と花火をする約束の日。
 せっかくゆったりとしてたのに、心がそわそわし始めた。
 彩華との約束があるから断らないといけない。
 画面と向き合って文字を打とうとするが、恐喝(きょうかつ)されてるような見えない圧を感じて、指先が震える。
 やっぱり、断るのは怖い。データに残るものなら、嘘はつけないし。
 俺はスマホだけ持って、外に出た。そして、いつものように自転車のハンドルを握る。
 自分自身ですら、この行動の意味が分からない。
 文庫本も持たずに、無我夢中(むがむちゅう)で河川敷に向かって自転車を漕いだ。

 見慣れた景色を進み続けて、河川敷の橋に着いた。自転車を押して橋下まで歩くと、川を見つめて、スマホを使う彩華がいた。
 視界に彼女が映るだけで、ほっとする。
 近づくと端正な横顔が動き、長いまつ毛がこちらに向く。
「やっほ! 昨日は行かなかったけど、颯太くんは来た?」
 彩華の声に安心を覚えて、ふう、と息を吐く。
「俺も行ってないよ。それより」
 今になってやっと分かったが、俺は目の前の悩みから逃げて、彩華に助けを求めてたんだ。
 自転車を止めて、彼女の左隣に腰を下ろす。
 沈んだ石すら見えるほど透き通った川が、心のざわつきを消して、なぜか開放感(かいほうかん)を与えてくれた。
「それより? 本も持ってないみたいだけど、なにかあったの?」
「その、これ」
 代わりに断って、なんて弱音を口に出せなく、トーク画面を開いて彩華に渡す。
 彼女はスマホを手に取り、数秒見つめて「また誘われたんだ」と素っ気なく言い、スマホを返された。
「……うん」
 俺がそう返すと、彩華は伸ばしていた脚を徐に(おもむろに)身に寄せ、顔を伏せて背中を丸めた。
「仕方ないもんね、今しかできないことだし。行ってきていいよ、楽しんでね」
 地面に向けて、彼女はぶつぶつと口にする。
 彼女の言葉の意味が分からない。別に行きたいなんて言っていないのに。
「なにいってるの。俺、祭りは行かないよ」
 すると彩華はスッと顔を上げて俺を見る。
「え、じゃあさっきのはなに? 誘われた画面見せてきたけど」
 口に出さないと伝わらない。
 そう思い、俺は腹を括って口を開く。
「やっぱり、できないから……これ、代わりにお願い」
 スマホを差し出し、いいよの言葉を待つ。だが、返ってきたのは「駄目」の一言だった。
「なんで、なんで駄目なの?」
 予想外の返事を耳にして、つい図々(ずうずう)しいことを言う。
 彩華はなんでも親身(しんみ)になって、助けてくれると信頼してた。だから拒否されることはないと踏んでいたのに。
「私に頼ってばかりだと、成長できなくなるよ」
 成長なんてとっくの前に止まってる。親友を失ったあの日から、未だにネジの外れたロボットのままだ。
「もし河川敷に私がいなかったとき、困るのは颯太くんだよ」
 続けて彩華は言った。
 彼女の言ってることは一般人からすれば正論だ。しかし、俺は正しいと思えない。だって、無理なものは無理なんだから。
「……でも」
「でもじゃない。自分で断りなさい!」
 いつもは使わない口調で彩華から叱られる。
 やむなく、俺は画面を見つめ、握り拳から人差し指だけを伸ばした。(つば)を飲むゴクっという音がいつもより大きく聞こえる。
 スマホのキーボードに向く指先が小刻みに揺れる。
 この居心地のいい空間でさえ、安心できない場所なんだと俺は知った。
 震えた指先を画面に押しつけてクリック入力しようとするも、押す場所を間違えたり、変換ミスしたりしてまともな文章が書けない。
 俺はスマホを胸に当てて深呼吸する。彩華は俺をじっと見つめてる。
 もう一度挑戦する。でも、やはり無理だ。
 諦めかけて、人差し指を塩をかけられたカタツムリのように戻そうとした。
 すると俺の手の甲に、突然彩華がそっと手を被せた。
「逃げちゃ駄目だよ」
 真剣、それでいて柔らかな声に、俺は手を止める。
 画面に向けていた視線を上げて彼女を見た。
「じゃあ、どうすればいい?」
「一緒に打ってあげる。でも、私は手を添えるだけだから」
 今の彩華からは成人女性のような、余裕のある雰囲気を感じた。
 柔らかい手のひらから伝わる温もりが俺の指の震えを治める。
 俺は視線をスマホに戻し、もう一度文字を打つ。
【その日は大切な用事があるから、ごめん】
 やっとの思いでメッセージを送信して、ふう、と息を吐く。
 隣を向くと、彩華がはにかんだ笑顔を見せた。
「大切な用事……なんだ。私との花火が?」
「まあ、先客だし……」
 日陰にいるのに、猛暑でもないのに、俺は顔が火照ってきた。
「あっ、やばっ。忘れてた」
 彩華は細い手首に付けた腕時計を見て、スッと立ち上がる。
「どうした?」
 俺は彼女を見上げる。
「颯太くん、急だけど私帰るね。花火は私が買っとくからバケツだけよろしく」
 用事を思い出したのか、唐突に帰宅すると言い出した。
「ああ、わかった。じゃあ、また今度」
 彩華は軽く手を振って、河川敷の階段を駆け上がった。
 本を持ってきてないし帰るか、と思いつつ、少し名残惜しく感じて日陰に居座る。
 眼前で流れる川のせせらぎを聴き始めて数分もしないうちに、河川敷の橋下は閑寂(かんじゃく)な空間へと変わった。
 彼女が先に帰るのは今日が初めてだった。
 そこで気づく。俺に居心地のいい空間と認識させたのは、透き通るくらい綺麗な川でも日の当たらない河川敷の橋下でもない。
 彩華の隣という空間が一番居心地がよかったのだ。
 俺は彩華に、好意に似た感情を抱いた。