翌日、土曜日。
夜、七時から行われるパーティーまでに最低限のマナーを詰め込んみ、叶野の手によって綺麗に着飾った姿で会場へ来た。パーティーが行われるのは、都会のど真ん中にある高級ホテルだ。身内だけでの楽しい集まりにしては豪奢過ぎる。
ホテルを見上げながらぽかんと口を開けた。
「ここ、ですか?」
「ああ、うちのホテルなんだ」
ホテルの中に入るなり近寄って来た従業員と言葉を交わす雨音や洗練された内装に場違いさを痛感し身を縮めた。綺麗に着飾ったりマナーを勉強しても雨音の隣に胸を張って立つことなどできない。雨音は立ち姿からして美しく誰もが彼に止める。
「双葉、緊張しているの? 顔色が悪い」
話しが終わった雨音が双葉の顔を覗き込んだ。
「は、はい。凄く緊張してます」
取り繕うことも出来ない双葉は真っ青な顔で頷く。緊張で吐き気すらしてきた。
「私、変な所ないですか?」
「大丈夫だ。今日も最高に可愛い」
雨音は可愛いしか言わないので信用できない。叶野が準備してくれたので大丈夫だとは思うが、自分の容姿に自信が無いのでどうやっても後ろ向きな考え方になってしまう。
「手を繋いでおこう。しんどくなったら直ぐに帰ればいい。そんなに気を張る必要はないよ」
「が、頑張ります」
双葉と雨音はホテルのロビーからパーティー会場へ向かった。
会場には既に参加者が来ているようで、部屋の中から声が漏れている。両開きの扉は見上げる程大きい。その前で足を止め、何とか呼吸を整えようと必死になっている双葉を置いて雨音がさっさと扉を開けた。
「雨音様だ」
誰かが雨音を見て呟き、その声に大衆の視線が雨音に向けられた。そして、一様にうっとりと暫し惚けた。
雨音は慣れた様子で視線を躱し、双葉に声をかける。
「嫌なことはさっさと終わらせようか。挨拶をしてからご飯を食べよう。いい?」
「はい」
颯爽と歩く雨音に着いて行く双葉にも次第に視線が集まり始める。そして、ひそひそと話す声が広がって行く。
視線の中には好意的なものもあるのだろうが、女性から向けられるものは明らかに嫉妬の色が濃く、目を合わせないようにしながら会場を進む。
「これはこれは、雨音様。お連れ様も初めまして」
そしてたどり着いた先にいたのは白髪をオールバックに撫でつけた五十代くらいの男性と赤紫の着物がよく似合う女性だ。男性の方はにこにこと微笑んでいるが、女性はじっと観察するような視線を双葉に向けている。その視線に既視感を覚えた。
「私は狐崎達治と申します。いつも娘の梓がお世話になっております」
最初、何と言われたのか分からず首を捻る。
娘の梓。つまり、目の前に立っているふたりは。
「梓さんのご両親ですか?」
「そうですよ。梓から話は聞いていましたが、可愛らしい娘さんですね」
にこにこと微笑んでいるが、達治の目の奥は少しも笑っていないので言葉通り受け取っていいものか分からない。
しかし、ここで顔を引き攣らせるわけにはいかない。きゅっと口角を持ち上げて微笑みを作ると頭を下げた。
「梓さんにお世話になっているのはこちらの方です。いつも助けていただいて本当にありがとうございます」
梓本人にも何度も感謝を伝えているが、伝えきれていない思いがたくさんある。双葉の口から出た感謝は本心以外のなにものでもない。純粋な好意は素直に相手に伝わった。
「顔を上げて双葉さん」
女性の声に顔を上げる。すると、バツが悪そうな達治を女性が窘めた。
「子供をいじめて楽しいのかしら。もっと素直に祝福できないの? 貴方、梓にもきちんとしろって言われていたじゃない。どうして娘の話が聞けないのよ」
「うっ、で、でも」
「でもじゃない」
女性は吊り上げていた目を和らげて双葉を見た。
「ごめんなさいね。梓が嫁入りしなかったことを根に持っているのよ。貴方に悪い所があるわけじゃないわ。それに梓からも良い子だって聞いているからね」
そっと伸ばされた手を握る。
さっき女性の視線に感じた既視感は、初対面の梓から向けられたものに似ていた。観察するような、どういう人間が当主の花嫁に選ばれたのか知りたいという視線。
それを受け、しっかりしなければと自身を奮い立たせた。
「ありがとうございます。ふ、不束者ですが、よろしくお願いします」
唇が震え、顔を真っ青にしながら手をぎゅっと握る。
人から向けられる視線が苦手な双葉は既に限界を迎えている。出来る事ならもう帰ってしまいたい。自分が何を言っているのかも分からない。ここに来るまでに詰め込んだマナーはすっかり飛んでしまっている。
梓の母は、ぽかんと口を開けた後、破顔した。
「ふふ、可愛い子。梓が気に入るわけね」
そう言い、手を離すと改めて向き合った。
「双葉さん、私は梓の母、美琴です。夫も私も実は婚儀の時に顔を合わせているから正確にははじめましてじゃないのよ」
どうやら婚儀の会場にいたらしい。
「気づきませんでした」
「あの時は狐の姿だったからね。私達は婚儀が成功しないとまともに力の制御が出来なくなるから双葉さんには本当に感謝しているの。ありがとうね」
そう言いながら美琴は柔らかい笑みを浮かべた。
その微笑みは梓によく似ている。
梓が言っていた双葉に感謝している者というのは、美琴の事だったのだ。
「ほら、貴方も」
美琴に背を押され、達治も渋々ながら一歩踏み出し、口を開いた。
「……ありがとう。本当に感謝している」
狐崎の当主は先程の笑みを引っ込め、重鎮らしい真剣な雰囲気を纏いながら双葉に対峙する。その言葉や視線に重みに双葉は視線を正した。
「頭を下げて感謝しろ」
「そうよ。もっと心を籠めなさいよ、貴方」
周りで見ていた雨音と美琴が口々に文句を言う。
「ちょっと、ふたりは黙っていなさい。私にも譲れないものがあってな」
「婚儀は成功しなかったのは、俺と梓の問題で双葉は無関係だ。梓は婚儀が失敗して喜んでいるのに未だに引きずるな」
雨音の言葉に達治は打ちのめされたような表情で黙り込んだ。
達治は雨音に反論できない様だ。久我家の当主である雨音の方が立場が上なのだろう。何度も思っていたが、とんでもない人からプロポーズされたのだなと再確認した。
「雨音、来ていたのね」
突如、入り込んできた声に視線を向ける。青い着物に身を包んだ朱莉が立っていた。派手な装いではない分、朱莉の洗練された雰囲気を際立たせ居るだけで視線を集めている。
「こんばんは、狐崎の皆さま。今日はよろしくお願いします」
「あら、朱莉ちゃん。よろしくね」
朱莉の挨拶に美琴が答える。表面上は普通なのにどこかぴり付いている気がする。
「双葉、話も終わったし、ご飯でも食べていようか」
「え? 良いんですか?」
もう用済みだとばかりに食事が並んでいるテーブルに向かおうとする雨音の手を引きながら聞く。挨拶をしたのは一組だけだ。それに朱莉ともまともに挨拶をしていない。
去ろうとする雨音を掴んだのは、双葉だけではなかった。
「待って、雨音。どこへ行くの?」
朱莉が雨音のスーツの袖を掴んでいた。
「食事に行くだけだ。離せ」
そう雨音が袖を振り、朱莉の手を振り払った。その瞬間、朱莉の顔が傷ついたように歪んだ。すぐに困った顔に変わったが、双葉の目にはばっちりとその表情が写っていた。
まるで、好きな人に拒否をされたような表情だった。
いや、そんなまさか。
「離さない。まだ挨拶回りしていってよ。ここに来た意味ないでしょ。ほらほら」
双葉が呆けている間に朱莉が雨音の背を押して期待に満ちた表情を浮かべる男性の元へ連れて行かれた。そこからは、ずっと代わる代わる挨拶を繰り返し、食事をとる暇などなかった。
それから一時間後、解放された雨音と双葉は、漸く食事にありつけた。
「疲れた……」
「お疲れ様。付き合わせて悪い」
思わず飛び出した弱音に雨音が済まなそうな顔をした。
慌てて口を押え、首を振る。
「雨音様が悪いわけではありませんよ。私の方こそ全然お役に立てなくてごめんなさい」
「双葉が隣にいるだけで元気になるから役に立っているよ。そんな風に言わないで」
手が腰に回り、甘えるように身を寄せて来た。その瞬間「ひえ」と悲鳴のような声が聞えて来た。
なんだろう、と辺りを見渡すと会場中が驚愕の表情で雨音を見ていた。
「あの雨音様が、あんな風になるなんて」
「本当に愛していらっしゃるのね」
「恋は人を馬鹿にすると言うが、あやかしも変わらないな」
なんて声が聞こえてきた。耳の良い雨音にも当然その声は届いており、不快気に顔を歪めた。
「見世物じゃないぞ」
などと吐き捨てて、辺りを威嚇するように睨む。
どうやら双葉に甘い雨音の様子が物珍しく映るらしい。昨日梓も同じようなことを言っていたと車での出来事を思い返し、はたと気が付く。
「梓さんいらっしゃいませんね」
「ああ、仕事で遅れるらしい。梓もこの会の事を昨日知ったらしいから時間をずらせなかったみたいだな」
出来るだけ早く来てほしいが、仕事の後で疲れているのならもしかしたら来られないかもしれない。少しだけ気落ちしながら、食事をとった。
「すみません、ちょっとお手洗いに行って来ます」
「分かった」
そう言うなり、雨音は何処までも付いて来ようとしたので、慌てて止めた。
「大丈夫です。ひとりで行けます」
「何があるかわからないから、一緒に行く」
「お手洗い何てすぐですよ。何もないです」
流石について来てもらうわけには行かないと、頑なな態度を貫き、ひとりで会場を出た。
お手洗いを済ませ、ひとりきりで廊下を歩く。
階上のざわめきと隔絶された空間は人気が無く、豪奢な内装と相まって別世界の様だ。
「普通に暮らしていたら、一生縁がなかっただろうな」
綺麗に着飾り、化粧をしても双葉はどこか浮いている気がしてならない。会場にいる者達は皆ため息が出る程美しく、可憐だった。比べるまでもなく自分との差に落ち込みそうになる。
「……ね」
不意に聞こえて来た声に思わず足を止めた。
パーティー会場の扉の前で誰かが話しているのが見える。気分転換に会場を出たのだろうか。
「まさか雨音様が人間と結婚するとはね。何だかんだ梓様と一緒になると思っていたわ」
「確かに、雨音様と並べるなんて梓様くらいだものね」
雨音の話題に双葉は咄嗟に観葉植物の影に隠れてしまった。
聞き耳を立てているようで申し訳ないが、出て行くタイミングを完全に逃した。
「それにしても、可哀想なのは朱莉さんよ。婚儀の順番が回って来たタイミングで横取りされるなんて」
おろおろしていた双葉だったが、耳に届いた言葉に思わず動きを止めた。
「風邪をこじらせたせいで日程がずれたんでしょう? 本当についてない。それが無かったら朱莉さんが花嫁になれたかもしれないのに」
「朱莉さん、ずっと雨音様の事が好きだったのにね」
衝撃的な事実に口を手で抑えた。
そうしていないと変な声が出て行きそうだった。
「――あら、こんな所で下世話な話?」
こつ、と優雅な足音と共に落とされた聞き覚えのある声に顔を上げる。いつの間にか来ていたのか、扉の前で話すふたりの横に梓の姿があった。
「あ、梓さん」
「貴方達、意地が悪いわよ。性格の悪さは顔に出るからやめさない」
梓はそう言いながら女性にふたりから怯えと羨望の籠った視線をさらりと流し、双葉が隠れている観葉植物の方へ寄って来た。
「双葉、そんな所にいないで出て来なさい」
「ちょ、ちょっと待ってください、梓さん、気づいて……」
「気づいてたわよ。あやかりは耳が良いし、気配にも敏感なの。あのふたりもね」
梓に引っ張り出され踏鞴を踏む。扉の前にいるふたりは予期せぬ梓の登場に狼狽し、上擦った声で弁解した。
「あ、あの、別に意地悪で言っていたわけじゃないの。ただの世間話よ、ね」
「そうそう。噂話をしていただけで」
言いながらふたりは後退り、顔を見合わせるとふたり同時に頭を下げた。
「ごめんなさい!」と叫ぶなり、踵を返してあっという間に廊下をかけていった。
ふたりの背中を呆然と見送るしかできなかった双葉の肩を梓が叩く。
「ちょっと大丈夫? しっかりしなさい」
「う、はい。あの梓さん、さっきの話って本当なんですか?」
「さっきのが、朱莉の話なら本当よ」
双葉は息を呑んだ。
「朱莉はずっと雨音が好きで、婚儀の順番を待っていてやっと自分の番になったけど、タイミング悪く体調を崩して、回復したら既に雨音は双葉と婚儀を済ませていた。全部事実」
「そ、そんな」
言葉が続かない。
それではあのふたりが言っていたように双葉が横取りしたみたいだ。そんなのあまりにも酷い――。
「あのね」
俯きそうになった双葉の顎をすかさず梓が持ち上げた。
「雨音は順番待ちからじゃなくて、自ら双葉を選んだの。貴方がすべきなのは朱莉へ同情心を向けることじゃないわ。わかる? 雨音が好きならどんと構えて、覚悟を決めなさい」
梓の言葉はいつも双葉の姿勢を正してくれる。
「昨日も言ったけど、あやかりは狡猾よ。そして、婚儀に挑戦できなかった者は自分こそはと身の程知らずにも思っているものは多い。さっきのふたりも業と貴方に聞かせるように話していたし、このパーティー事態、急遽開催して双葉の品定めをしようとしていたんでしょうね。まぁ、双葉の事よりも雨音の豹変っぷりに気を取られていたみたいだけど」
梓はふっふっと悪戯が成功したように笑った。
「今の雨音様はそんなに前と違いますか?」
「違うわ」
双葉の質問にきっぱりと返答があった。
「あんな甘い視線で誰かをみることはなかった。受け入れることもなかったの」
自信を持ちなさい、と梓は続けた。
その時、会場の扉が開き、話の中心である雨音が顔を出した。
「双葉? こんな所でどうしたんだ。もしかして何かあったか?」
雨音が警戒心を露わにし、辺りを威嚇する。
「何も、何もないです。梓さんと話していただけです」
そう言って梓と共に会場に戻った。
朱莉が雨音に近寄り、親し気に話しかけてくると不安がぶわりと湧き上がって気が気じゃない。自信を持つことなど自分に出来るのだろうか。
朱莉の方が良かったんじゃないか、とそんな疑念が消えてくれなかった。
夜、七時から行われるパーティーまでに最低限のマナーを詰め込んみ、叶野の手によって綺麗に着飾った姿で会場へ来た。パーティーが行われるのは、都会のど真ん中にある高級ホテルだ。身内だけでの楽しい集まりにしては豪奢過ぎる。
ホテルを見上げながらぽかんと口を開けた。
「ここ、ですか?」
「ああ、うちのホテルなんだ」
ホテルの中に入るなり近寄って来た従業員と言葉を交わす雨音や洗練された内装に場違いさを痛感し身を縮めた。綺麗に着飾ったりマナーを勉強しても雨音の隣に胸を張って立つことなどできない。雨音は立ち姿からして美しく誰もが彼に止める。
「双葉、緊張しているの? 顔色が悪い」
話しが終わった雨音が双葉の顔を覗き込んだ。
「は、はい。凄く緊張してます」
取り繕うことも出来ない双葉は真っ青な顔で頷く。緊張で吐き気すらしてきた。
「私、変な所ないですか?」
「大丈夫だ。今日も最高に可愛い」
雨音は可愛いしか言わないので信用できない。叶野が準備してくれたので大丈夫だとは思うが、自分の容姿に自信が無いのでどうやっても後ろ向きな考え方になってしまう。
「手を繋いでおこう。しんどくなったら直ぐに帰ればいい。そんなに気を張る必要はないよ」
「が、頑張ります」
双葉と雨音はホテルのロビーからパーティー会場へ向かった。
会場には既に参加者が来ているようで、部屋の中から声が漏れている。両開きの扉は見上げる程大きい。その前で足を止め、何とか呼吸を整えようと必死になっている双葉を置いて雨音がさっさと扉を開けた。
「雨音様だ」
誰かが雨音を見て呟き、その声に大衆の視線が雨音に向けられた。そして、一様にうっとりと暫し惚けた。
雨音は慣れた様子で視線を躱し、双葉に声をかける。
「嫌なことはさっさと終わらせようか。挨拶をしてからご飯を食べよう。いい?」
「はい」
颯爽と歩く雨音に着いて行く双葉にも次第に視線が集まり始める。そして、ひそひそと話す声が広がって行く。
視線の中には好意的なものもあるのだろうが、女性から向けられるものは明らかに嫉妬の色が濃く、目を合わせないようにしながら会場を進む。
「これはこれは、雨音様。お連れ様も初めまして」
そしてたどり着いた先にいたのは白髪をオールバックに撫でつけた五十代くらいの男性と赤紫の着物がよく似合う女性だ。男性の方はにこにこと微笑んでいるが、女性はじっと観察するような視線を双葉に向けている。その視線に既視感を覚えた。
「私は狐崎達治と申します。いつも娘の梓がお世話になっております」
最初、何と言われたのか分からず首を捻る。
娘の梓。つまり、目の前に立っているふたりは。
「梓さんのご両親ですか?」
「そうですよ。梓から話は聞いていましたが、可愛らしい娘さんですね」
にこにこと微笑んでいるが、達治の目の奥は少しも笑っていないので言葉通り受け取っていいものか分からない。
しかし、ここで顔を引き攣らせるわけにはいかない。きゅっと口角を持ち上げて微笑みを作ると頭を下げた。
「梓さんにお世話になっているのはこちらの方です。いつも助けていただいて本当にありがとうございます」
梓本人にも何度も感謝を伝えているが、伝えきれていない思いがたくさんある。双葉の口から出た感謝は本心以外のなにものでもない。純粋な好意は素直に相手に伝わった。
「顔を上げて双葉さん」
女性の声に顔を上げる。すると、バツが悪そうな達治を女性が窘めた。
「子供をいじめて楽しいのかしら。もっと素直に祝福できないの? 貴方、梓にもきちんとしろって言われていたじゃない。どうして娘の話が聞けないのよ」
「うっ、で、でも」
「でもじゃない」
女性は吊り上げていた目を和らげて双葉を見た。
「ごめんなさいね。梓が嫁入りしなかったことを根に持っているのよ。貴方に悪い所があるわけじゃないわ。それに梓からも良い子だって聞いているからね」
そっと伸ばされた手を握る。
さっき女性の視線に感じた既視感は、初対面の梓から向けられたものに似ていた。観察するような、どういう人間が当主の花嫁に選ばれたのか知りたいという視線。
それを受け、しっかりしなければと自身を奮い立たせた。
「ありがとうございます。ふ、不束者ですが、よろしくお願いします」
唇が震え、顔を真っ青にしながら手をぎゅっと握る。
人から向けられる視線が苦手な双葉は既に限界を迎えている。出来る事ならもう帰ってしまいたい。自分が何を言っているのかも分からない。ここに来るまでに詰め込んだマナーはすっかり飛んでしまっている。
梓の母は、ぽかんと口を開けた後、破顔した。
「ふふ、可愛い子。梓が気に入るわけね」
そう言い、手を離すと改めて向き合った。
「双葉さん、私は梓の母、美琴です。夫も私も実は婚儀の時に顔を合わせているから正確にははじめましてじゃないのよ」
どうやら婚儀の会場にいたらしい。
「気づきませんでした」
「あの時は狐の姿だったからね。私達は婚儀が成功しないとまともに力の制御が出来なくなるから双葉さんには本当に感謝しているの。ありがとうね」
そう言いながら美琴は柔らかい笑みを浮かべた。
その微笑みは梓によく似ている。
梓が言っていた双葉に感謝している者というのは、美琴の事だったのだ。
「ほら、貴方も」
美琴に背を押され、達治も渋々ながら一歩踏み出し、口を開いた。
「……ありがとう。本当に感謝している」
狐崎の当主は先程の笑みを引っ込め、重鎮らしい真剣な雰囲気を纏いながら双葉に対峙する。その言葉や視線に重みに双葉は視線を正した。
「頭を下げて感謝しろ」
「そうよ。もっと心を籠めなさいよ、貴方」
周りで見ていた雨音と美琴が口々に文句を言う。
「ちょっと、ふたりは黙っていなさい。私にも譲れないものがあってな」
「婚儀は成功しなかったのは、俺と梓の問題で双葉は無関係だ。梓は婚儀が失敗して喜んでいるのに未だに引きずるな」
雨音の言葉に達治は打ちのめされたような表情で黙り込んだ。
達治は雨音に反論できない様だ。久我家の当主である雨音の方が立場が上なのだろう。何度も思っていたが、とんでもない人からプロポーズされたのだなと再確認した。
「雨音、来ていたのね」
突如、入り込んできた声に視線を向ける。青い着物に身を包んだ朱莉が立っていた。派手な装いではない分、朱莉の洗練された雰囲気を際立たせ居るだけで視線を集めている。
「こんばんは、狐崎の皆さま。今日はよろしくお願いします」
「あら、朱莉ちゃん。よろしくね」
朱莉の挨拶に美琴が答える。表面上は普通なのにどこかぴり付いている気がする。
「双葉、話も終わったし、ご飯でも食べていようか」
「え? 良いんですか?」
もう用済みだとばかりに食事が並んでいるテーブルに向かおうとする雨音の手を引きながら聞く。挨拶をしたのは一組だけだ。それに朱莉ともまともに挨拶をしていない。
去ろうとする雨音を掴んだのは、双葉だけではなかった。
「待って、雨音。どこへ行くの?」
朱莉が雨音のスーツの袖を掴んでいた。
「食事に行くだけだ。離せ」
そう雨音が袖を振り、朱莉の手を振り払った。その瞬間、朱莉の顔が傷ついたように歪んだ。すぐに困った顔に変わったが、双葉の目にはばっちりとその表情が写っていた。
まるで、好きな人に拒否をされたような表情だった。
いや、そんなまさか。
「離さない。まだ挨拶回りしていってよ。ここに来た意味ないでしょ。ほらほら」
双葉が呆けている間に朱莉が雨音の背を押して期待に満ちた表情を浮かべる男性の元へ連れて行かれた。そこからは、ずっと代わる代わる挨拶を繰り返し、食事をとる暇などなかった。
それから一時間後、解放された雨音と双葉は、漸く食事にありつけた。
「疲れた……」
「お疲れ様。付き合わせて悪い」
思わず飛び出した弱音に雨音が済まなそうな顔をした。
慌てて口を押え、首を振る。
「雨音様が悪いわけではありませんよ。私の方こそ全然お役に立てなくてごめんなさい」
「双葉が隣にいるだけで元気になるから役に立っているよ。そんな風に言わないで」
手が腰に回り、甘えるように身を寄せて来た。その瞬間「ひえ」と悲鳴のような声が聞えて来た。
なんだろう、と辺りを見渡すと会場中が驚愕の表情で雨音を見ていた。
「あの雨音様が、あんな風になるなんて」
「本当に愛していらっしゃるのね」
「恋は人を馬鹿にすると言うが、あやかしも変わらないな」
なんて声が聞こえてきた。耳の良い雨音にも当然その声は届いており、不快気に顔を歪めた。
「見世物じゃないぞ」
などと吐き捨てて、辺りを威嚇するように睨む。
どうやら双葉に甘い雨音の様子が物珍しく映るらしい。昨日梓も同じようなことを言っていたと車での出来事を思い返し、はたと気が付く。
「梓さんいらっしゃいませんね」
「ああ、仕事で遅れるらしい。梓もこの会の事を昨日知ったらしいから時間をずらせなかったみたいだな」
出来るだけ早く来てほしいが、仕事の後で疲れているのならもしかしたら来られないかもしれない。少しだけ気落ちしながら、食事をとった。
「すみません、ちょっとお手洗いに行って来ます」
「分かった」
そう言うなり、雨音は何処までも付いて来ようとしたので、慌てて止めた。
「大丈夫です。ひとりで行けます」
「何があるかわからないから、一緒に行く」
「お手洗い何てすぐですよ。何もないです」
流石について来てもらうわけには行かないと、頑なな態度を貫き、ひとりで会場を出た。
お手洗いを済ませ、ひとりきりで廊下を歩く。
階上のざわめきと隔絶された空間は人気が無く、豪奢な内装と相まって別世界の様だ。
「普通に暮らしていたら、一生縁がなかっただろうな」
綺麗に着飾り、化粧をしても双葉はどこか浮いている気がしてならない。会場にいる者達は皆ため息が出る程美しく、可憐だった。比べるまでもなく自分との差に落ち込みそうになる。
「……ね」
不意に聞こえて来た声に思わず足を止めた。
パーティー会場の扉の前で誰かが話しているのが見える。気分転換に会場を出たのだろうか。
「まさか雨音様が人間と結婚するとはね。何だかんだ梓様と一緒になると思っていたわ」
「確かに、雨音様と並べるなんて梓様くらいだものね」
雨音の話題に双葉は咄嗟に観葉植物の影に隠れてしまった。
聞き耳を立てているようで申し訳ないが、出て行くタイミングを完全に逃した。
「それにしても、可哀想なのは朱莉さんよ。婚儀の順番が回って来たタイミングで横取りされるなんて」
おろおろしていた双葉だったが、耳に届いた言葉に思わず動きを止めた。
「風邪をこじらせたせいで日程がずれたんでしょう? 本当についてない。それが無かったら朱莉さんが花嫁になれたかもしれないのに」
「朱莉さん、ずっと雨音様の事が好きだったのにね」
衝撃的な事実に口を手で抑えた。
そうしていないと変な声が出て行きそうだった。
「――あら、こんな所で下世話な話?」
こつ、と優雅な足音と共に落とされた聞き覚えのある声に顔を上げる。いつの間にか来ていたのか、扉の前で話すふたりの横に梓の姿があった。
「あ、梓さん」
「貴方達、意地が悪いわよ。性格の悪さは顔に出るからやめさない」
梓はそう言いながら女性にふたりから怯えと羨望の籠った視線をさらりと流し、双葉が隠れている観葉植物の方へ寄って来た。
「双葉、そんな所にいないで出て来なさい」
「ちょ、ちょっと待ってください、梓さん、気づいて……」
「気づいてたわよ。あやかりは耳が良いし、気配にも敏感なの。あのふたりもね」
梓に引っ張り出され踏鞴を踏む。扉の前にいるふたりは予期せぬ梓の登場に狼狽し、上擦った声で弁解した。
「あ、あの、別に意地悪で言っていたわけじゃないの。ただの世間話よ、ね」
「そうそう。噂話をしていただけで」
言いながらふたりは後退り、顔を見合わせるとふたり同時に頭を下げた。
「ごめんなさい!」と叫ぶなり、踵を返してあっという間に廊下をかけていった。
ふたりの背中を呆然と見送るしかできなかった双葉の肩を梓が叩く。
「ちょっと大丈夫? しっかりしなさい」
「う、はい。あの梓さん、さっきの話って本当なんですか?」
「さっきのが、朱莉の話なら本当よ」
双葉は息を呑んだ。
「朱莉はずっと雨音が好きで、婚儀の順番を待っていてやっと自分の番になったけど、タイミング悪く体調を崩して、回復したら既に雨音は双葉と婚儀を済ませていた。全部事実」
「そ、そんな」
言葉が続かない。
それではあのふたりが言っていたように双葉が横取りしたみたいだ。そんなのあまりにも酷い――。
「あのね」
俯きそうになった双葉の顎をすかさず梓が持ち上げた。
「雨音は順番待ちからじゃなくて、自ら双葉を選んだの。貴方がすべきなのは朱莉へ同情心を向けることじゃないわ。わかる? 雨音が好きならどんと構えて、覚悟を決めなさい」
梓の言葉はいつも双葉の姿勢を正してくれる。
「昨日も言ったけど、あやかりは狡猾よ。そして、婚儀に挑戦できなかった者は自分こそはと身の程知らずにも思っているものは多い。さっきのふたりも業と貴方に聞かせるように話していたし、このパーティー事態、急遽開催して双葉の品定めをしようとしていたんでしょうね。まぁ、双葉の事よりも雨音の豹変っぷりに気を取られていたみたいだけど」
梓はふっふっと悪戯が成功したように笑った。
「今の雨音様はそんなに前と違いますか?」
「違うわ」
双葉の質問にきっぱりと返答があった。
「あんな甘い視線で誰かをみることはなかった。受け入れることもなかったの」
自信を持ちなさい、と梓は続けた。
その時、会場の扉が開き、話の中心である雨音が顔を出した。
「双葉? こんな所でどうしたんだ。もしかして何かあったか?」
雨音が警戒心を露わにし、辺りを威嚇する。
「何も、何もないです。梓さんと話していただけです」
そう言って梓と共に会場に戻った。
朱莉が雨音に近寄り、親し気に話しかけてくると不安がぶわりと湧き上がって気が気じゃない。自信を持つことなど自分に出来るのだろうか。
朱莉の方が良かったんじゃないか、とそんな疑念が消えてくれなかった。