学校終了のチャイムが鳴ると同時に双葉は思わず大きくため息を吐いた。
 何とか平穏に過ごせそうかも、という双葉の予想は半分外れた。馬鹿にされはしなかったが、向けられる視線はいつも以上に多く、ひそひそと囁く声もあった。好意的なものも含まれていたが、殆どが金曜日に迎えに来た雨音との関係を探るものだった。
 雨音が結婚していると口にしたり、婚約者と言ったり、双葉が好きな人と紹介したせいで色々な憶測が飛び交っている。中には双葉が遊び人のイケメンに騙され、金をとられているというものもあった。それは全力で否定したかったが、見ず知らずの人に声をかけられなかったので断念した。
 漸く一日が終わる。長かったと息を吐く。
「双葉ちゃん、一緒に帰らない?」
 そう声をかけられ、驚いて見上げた先に朝声をかけた面子が立っていた。
「いっぱい話聞かせてよ」
 女子生徒が好意的に擦り寄って来る。今まで散々馬鹿にして来たのに見た目が変わるだけでこうも反応は違うのか、と双葉は他人事のように思った。
「すみません、迎えが来るので」
 一緒に帰ろうと誘われたのは人生で初めてだった。想像していたよりも嬉しくなく、無感情で受け止め断った。
 いつ雨音が迎えに来るか分からないので、外に出ていようと鞄を持って立ち上がる。
「折角誘ってあげたのに」
 女子生徒の苛立った声に思わず「すみません」と謝罪を口にして教師を出た。
 直ぐに謝るなと雨音に散々言われていたが、そう簡単に長年培ったものが治るわけもなく、今日の双葉はいつも通り謝り通しだった。意識していた俯かないという点だけ多少は改善された気がする。つい下がってしまう頭を何とか上げて人の目を見るのは精神的にかなり疲弊した。
 早く落ち着ける場所へ行きたいと逸る気持ちを抑えて昇降口から出る。
 校門の前には既に白髪の男が立っていた。
 雨音様、と声をかけ、近寄ろうとしたが、すぐに足が止まる。
 雨音の周りには金曜の時と同じく人だかりができている。それには別段驚きはないのだが、雨音の前に見覚えのある人物が立っていた。
「あ、愛華……」
 愛華は雨音を見上げて何やら言っている。それに雨音が何を答えているのかは分からないが、ふたりの雰囲気が悪いようには見えない。
 手が震える。
 雨音が双葉を好きだと言ったのは、愛華と出会う前だ。愛華と出会ってしまえば双葉の事などすぐにどうでもよくなってしまう。いつも、みんなそうだった。双葉は愛華に近づくための道具に過ぎないのだ。
 ふたりに近づきたくはなかったが、行かないわけにはいかない。
 ふらふらと覚束ない足取りで進む。双葉の耳に段々と他人の声が入り込んできた。
「あれって作野さんの彼氏なんじゃないの? この間迎えに来てたでしょ」
「いや、あの感じいつものでしょ。愛華目当てで近づいて来たって」
 金曜日の一幕を見ていたらしい外野の視線が双葉に向いた。好奇の中に嘲笑が混じっているのが見てとれる。
「あーあ、あんなに張り切ってんのに、かわいそ」
 ちっとも憐れんでいない声色で吐き出された一言がぐさりと刺さった。
 逃げてしまいたくなり、足が止まる。そのタイミングで雨音の視線が持ち上がり、双葉を見た。
 冷たい色をしていた雨音の瞳が双葉を映した途端ぱっと輝き、嬉しそうに細くなる。婚儀の繋がりが雨音の本音を伝えて来る。双葉に会えて嬉しいと。
 その心根が婚儀の影響なのかはわからない。それでも、真っ直ぐに愛情を向けられ気分が浮上し、止まりそうだった足が駆け足になる。
「双葉、おかえり」
 会いたかった、と近寄って来た雨音に手を引かれ抱き留められる。
 周りのざわめきが耳に届く。
「あ、雨音様」
 慌てて名前を呼ぶとあっさと体が離れた。
「ずっと不安そうだったから心配した。変な奴に絡まれなかった?」
「はい、大丈夫です」
「本当に?」
 顔を覗き込んでくる雨音。じっと見透かすような目に双葉は頷いた。
「そう。じゃあ、帰ろうか」
 手を引かれ、そのまま車に乗り込もうとしたふたりに背後から声がかかった。
「あの、待ってください」
 愛華が雨音を呼ぶ止めたのだ。
「私も一緒に送ってもらっていいですか?」
 愛華は甘えるように雨音を見つめながらスーツの素手をきゅっと引いた。その姿は文句の付け所がないほど愛らしいが、双葉は腹の中から湧き上がるような不快感を覚えた。
「運転手さんいるんですね。雨音さんの隣に座っていいですか?」
 彼氏を呼ぶ様に雨音の名前を口にした。
 双葉との一幕を見ていたはずなのに、雨音が迎えに来たのは自分だとばかりに振る舞っている。何故そんな態度を取るのだろう、という疑問はすぐに解決した。愛華は双葉など見ていないのだ。眼中にないから雨音が双葉を好きなんて考えは彼女の中にはない。
 自分が愛されて当然と思っているのだろう。
「ねえ、雨音さん?」
 そんな恋しているみたいに雨音の名前を呼ばないでほしい。
 双葉は生まれて初めて抱いた嫌悪感で押しつぶされそうになった。
「ねぇ、君」
 雨音が愛華に微笑む。
 人知を超えた美しさを携えた狐の笑みに愛華どころか周りで成り行きをみていた生徒達も赤面し、口を押える。
 しかし、双葉だけはその笑みに温度が全くないのに気が付いて、ぞくりと震える。
「はい、雨音さん」
 うっとりしながら愛華が一歩踏み出し、甘える様に雨音の手を握ろうとした。
「双葉の額の傷ってお前のせい?」
 雨音が手を避け、冷たい目で愛華を睨みつけながら淡々と言う。
「ああ、別に返事はいらない。分かっているから」
「あ、あまねさ」
「名前で呼んで良いなんて言った?」
 冷たい声に愛華の口がひくりと震えた。空気が張り詰めているので誰も動けない。
 雨音から発せられた言葉が刺すような鋭さを持って愛華に向かう。
「俺と双葉がラブラブなの見ていて分からなかった? それなのに擦り寄って来るとか何考えてんの? 車で送ってほしい? 嫌に決まってる」
 不快気に顔を歪めた雨音だったが、すぐにぱっと明るく微笑んだ。
「そうそう。今から結婚の報告に行くから、邪魔にならないようにゆっくり帰って来てくれる? お願いね」
 じゃあ、と爽やかに手を振りながら雨音は双葉を連れて車に乗り込む。ドアが閉まると同時に車が発進した。
 車窓から見えた愛華は、魂が抜けたみたいだった。何を言われたか分かっておらず、首を捻る様は幼子の様で、見て居られなかった。
 あんなことを言って大丈夫なのだろうか、ちらりと顔を出した不安に眉を下げる双葉の耳に雨音の笑い声が届いた。
「はは、高いプライドへし折られて呆然としてたよ。いい気味」
「雨音様……」
 にやりと笑う雨音に思わず窘めるように声をかける。
 すると途端に雨音の表情が叱られた子供の様にしゅんとした。
「あんな目立つ真似してごめん」
「いえ、それはいいんですけど、どうしてあんなこと」
「やられたのは双葉だから外野の俺がいうことじゃないとは思ったけど、大切な人を散々傷つけられて平気な顔出来なかった。ごめん、許して」
 雨音は可愛らしく首を傾げて許しを請うた。
 可愛らしくてずるい。どうすれば許して貰えるかわかっている立ち回りをしている。
「怒ってないですよ」
「じゃあ、叔母さん家族地獄に落として良い?」
 甘えて良い?みたいな声色でとんでもないことを言い始め、慌てて首を振る。
「だ、駄目に決まってます。お世話になった人なんです」
「いじめられたの間違いでしょ」
「自分の子供じゃないんですから、多少は仕方ないです」
 確かに叔母夫婦は厳しいところもあった。しかし家族を失って行く当てのない双葉に家を置いてくれたのは事実だ。それに双葉は救われた。
 あの家にいるのは苦しいが、恩がある。
「仕方ない?」
 しかし、雨音は納得しなかった。
「助けたら何をしても良いって? 虫けらみたいになじられても我慢しますって?」
 雨音の怒りが初めて双葉に向いた。
 ぎゅっと顰められた顔からは、憤りと同じくらい悲しみが見て取れる。
「そんなわけない。双葉は文句を言っても良いし、反抗してもいい。それに――あの夫婦は双葉が思っているよりもずっと酷い人間だよ」
「え?」
 どういう意味だろう。
 雨音の言葉の意味は分からなかった。
 ただ、何となく嫌な予感が胸にじわりと広がった。

 叔母夫婦の家に着き、双葉と雨音だけが車から降りた。
 三日ぶりの叔母夫婦に家に緊張し、顔が強張る。一方、雨音は何の躊躇ないもなくインターホンを押した。
「はい、どちら様ですか?」
 間髪入れずにインターホンから叔母の声が聞えて来る。いつもよりも固い声に雨音が答えた。
「先程ご連絡いたしました。久我雨音と申します。扉を開けて貰っても良いですか?」
 直ぐに扉が開き、叔父が顔を出した。
「お待ちしておりました、久我様」
 驚いたことに叔父は家だというのにスーツ姿で、仕事に行く時よりもかっちりと髪を固めていた。
 それに雨音に対する態度はまるで目上の人を相手しているようだ。
「どうぞ、入ってください」
 家の中へ促され、双葉は雨音に着いて家の中に踏み入れた。
 案内されたのはリビングだ。叔母夫婦の家には客間などはないので、客が来るとここに通される。雨音も例外ではない。しかし、踏み入れたリビングはいつもと様相が違った。
 乱雑というほどではないが、生活感にあった部屋には殆どものが無くなっている。テーブルなどの家具はそのままだが、愛華の雑誌や叔父が買って来た置物などはどこにもない。余計なものは排除したような部屋に変わっていた。
「久我様、どうぞ、こちらへ」
 叔父に勧められ、テーブルに腰かける。雨音と双葉が隣同士で座り、雨音の前に叔父、お茶を用意し終えた叔母がその隣に座った。
「いやぁ、まさか久我様がうちの娘と婚約しているとは思いませんでした」
 叔父は媚びるような声で言った。
 その一言に目を剥く。
 今、叔父は娘と言わなかっただろうか。愛華の顔が浮かんだが、この状況からして違うのは分かる。叔父は双葉を娘と言ったのだ。そんな素振り一度もなかったのに。
「この度は結婚の約束をしましたので、そのご報告に来ました」
「ああ、はい」
 叔父は緊張しっぱなしな様子で何度も頷く。
「双葉は愛想は無いですが、とても優しく器量も良いので、久我様のお役に立てると思います」
 叔父の言葉には愛情もなにもない。ただ雨音に気に入られようとしているのだけはわかった。雨音はどこかの会社の社長だと言っていたので、もしかしなくても叔父の目的は久我の家との繋がりを作ることだ。
 叔父の言葉を聞いていると頭がすっと冷えていくのを感じる。
「家としましては、久我家と懇意になるなど誇りになります。これからは、どうか家族として仲良くしていただければ」
「あなた……」
 爛々と目を輝かせながら取り入ろうとする叔父を叔母が窘める。
 すると叔父が不満げに口を歪めたが、雨音の手前大っぴらに機嫌を悪くはしなかった。
 そんな叔父を置いて叔母は冷静な様子で雨音を向き合う。
「すみません、もうひとりの娘が、愛華が帰って来てからお話してもいいでしょうか? 愛華に挨拶させたいですし、それに家族だけで話し合いもしたいです」
 叔母の言葉に叔父が明らかに狼狽えた。
 時間を空けて雨音の気が変わるのが怖いのだろう。しかし、叔母がそっと耳打ちをしたらすぐに機嫌が良くなった。
「そうですね。ぜひ愛華と会ってください。素晴らしい娘なんで――」
「もう会いました」
 雨音がぴしゃりと言った。
「挨拶なら先程済ませていますので、ご安心ください。何を企んでいるのかは分かります。どうせ、一目見れば俺が気に入ると思っているのでしょうが、アレに心を奪われるようなことはあり得ませんよ。それと何でしたっけ、家族だけで話したい? 一体何の話をするんですか? 双葉がいなくなった後の家事の分担とかでしょうか。ああ、それとも、双葉の両親の遺産の話とか?」
 目の前にいるふたりの顔がさっと強張り、血の気が引いて行く。
「遺産?」
 自分と両親の話題に双葉は顔を雨音に向けた。その視線を受けた雨音が眉を下げながら言った。
「双葉の両親の遺産は、全額双葉に相続権がある。その金は今どこにあると思う?」
 今までずっと思考の端にすらなかった遺産問題が目の前に転がっている。両親の遺産は、一体どこへ行ったのか。
「私の生活費とか学費とかじゃ」
 雨音が頷く。
「それもあるけど、双葉の両親の遺産はもっとずっと多いよ。それなのに双葉はどうしてスマホも持たせてもらっていないの?」
「それは、必要ないからで……」
「双葉が必要ないって言ったの?」
 思わず閉口した。
 双葉がスマホを持っていないのは、叔母に必要ないと言われたからだ。お金がないからだと思っていたが、雨音の言う通り遺産で賄えるのなら、何故その選択肢が双葉にないのだろう。
「双葉が貰った遺産、まさか双葉以外には使っていませんよね?」
 叔父夫婦は沈黙した。否定も肯定もしない。
 そのふたりに雨音は追い打ちをかける。
「――この家、建てたのはいつですか?」
「そ、それは」
 その狼狽ぶりを見れば答えは一目瞭然だ。
 信じたくない事実に体が震える。
 そんな、まさか。
「この家建てるのに使ったの? わ、私を引き取ったのはお金のため?」
 叔母夫婦は答えない。双葉の視線から逃れるように顔を下げるばかりだ。
 その反応がなによりも肯定を示しており、双葉は頭を殴られるような衝撃を受けた。あまりのショックからくらっと眩暈を感じた。
「双葉」
 目の前が暗くなりそうだった双葉の手を雨音が優しく握り、視線を向けると愛しむように見つめられる。
「双葉の両親の金は、双葉のものだ。無断で使っていいわけない」
「その子だってこの家で生活したんだから、別に使っても問題ないでしょ!」
 叔母が鋭い目つきで双葉を睨みながら言葉を吐き出す。
「問題しかない。それにあんたが双葉にやって来たことは更に問題だ。双葉の母親に向けていた悪意をそのまま双葉にぶつけていただろう。調べたから全部知っているぞ。元々、双葉の父親はあんたの家庭教師で、あんたは一方的に想いを寄せていたんだろ。それなのに双葉の母である姉にとられたとずっと根に持っている」
「え?」
 そんな話は聞いたこともなかった。叔母から悪意を向けられていると気が付いていたが、母との間に明確な確執があるのは知らなかった。
 叔母の憎々しい表情を見る限り、雨音の言葉は事実らしい。そして、叔父はそれを知らなかった様だ。
「そうだったのか?」
 叔父の愕然とした声に叔母は気まずげに顔を歪めた。
「……昔の話よ」
「昔の話なら双葉に当たるのは止めるべきでしたね」
 雨音の嘲るような態度が叔母の癪に障った陽で、噛み付く勢いで声が張り上げた。
「ここまで育ててあげたんだから文句言わないでよ。恩を仇で返すような真似して、本当に厚かましい所が姉さんそっくり」
 いつもならぐさりぐさりと胸を抉る言葉の羅列を聞いても、上手く咀嚼できない。何を言われても痛みを感じない。遺産の事や母と叔母の確執が衝撃的だったからだろう。もう何も考えたくないと目を背けてしまいたかった。
 ふう、と息を吐き出した双葉に叔母が何か言おうとしたが、それよりも早く雨音が間に入った。
「家事を押し付けた挙句に罵って来るような相手に恩を感じる必要はない」
「あんたは黙ってなさいよ。私はその子と話しているのよ!」
 叔母が雨音に吠えた。しかし、直ぐにその勢いは萎えた。
 ふっと空気が重くなった。
「……誰に物を言っているか理解しているか?」
 雨音の纏う雰囲気がぞっとするほど冷え冷えとしている。その攻撃的な威圧感に叔母夫婦は閉口するしかない。
「お前らはこの久我家当主の花嫁に暴言を吐いた挙句に俺に歯向かっているんだぞ」
 久我家というのは、その名前だけで怯えさせるくらい凄い名前らしい。
 ヒートアップしていた叔母も冷静さを取り戻し、顔を真っ青にさせながら口に手を当て、叔父はテーブルに額を擦りつけて謝り続けている。
 ふたりはきっと雨音を不快にしたことを誤っているだけで、双葉に対して罪悪感があるとは思えない。薄っぺらい謝罪だ。
「双葉、もう一度聞くけど、こいつら地獄に落として良い?」
 雨音の目が双葉を見た。薄っすら笑っている口の端からきらりと尖った歯が見え、瞳は瞳孔が開き、獲物を前にした獣のようだ。人とは違う一面を目にし、雨音ならば本当にやりかねないと思った。
「駄目です」
 きっぱりと断る。すると雨音の顔が不満げになる。
「何で」
「私にはそこまでする理由が無いです」
 お金をとられても、尊厳を踏みにじられても、双葉がこの家で育った事実は変わらない。恩を感じる必要はないと言われてもそう簡単に全て切り捨てるなんてできない。
 じっと雨音を見つめる。言葉で上手く感情を伝えられないから目と繋がりで分かってほしいと願った。
 すると、雨音はふっと息を吐いた。
「分かった。何もしないよ」
 話は終わりだとばかりに雨音が立ち上がる。
「双葉の心が海よりも深くて良かったな。ただ遺産の件はきっちり片付ける。俺の優秀な部下が後始末をしに来るから協力してくださいね」
 叔母と叔父が神妙に頷くのを確認し、双葉達は立ち上がった。
「じゃあ、荷物だけ取って帰ろう」
 雨音に手を引かれ、自室へ向かった。
 物置のような自室を見た雨音が再び怒りに震えたが、何とか落ち着かせて少ない荷物を抱えて家を出た。
「さようなら、今までお世話になりました」
 最後にそれだけ声をかけて、数年暮らした家に別れを告げた。

 荷物を抱えて後部座席に乗り込んだ後、ぼんやりしていたらしく、気が付いたら久我家に着いていた。
 雨音は仕事を抜けて来たようで、そのまま会社に戻るらしい。どこか焦ったような顔をして双葉の頭を撫でた。
「双葉をひとりにしたくない……連れて行っても良い?」
「雨音様、流石にそれは駄目ですよ」
 真澄が呆れたように首を振る。
「私は大丈夫です。お仕事頑張ってください」
 無理やり口角を引き上げて笑顔を作って雨音を送り出す。双葉の胸の内など雨音には筒抜けだろうが、彼は言及しなかった。ただ一言。
「ひとりにならないで、誰かといて」
 と言って、会社に戻って行った。
 雨音の言葉を聞いていたのか、久我家の前には叶野達が待ち構えていて、労わられ、ずっと傍を離れなかった。いつもは邪魔になるだろうからと入らなかった台所にまで足を踏み入れ、料理の手伝いまでして、兎に角ひとりでいる時間を減らした。
 何も考えられないようにずっと誰かと喋り、手を動かしていた。
 しかし、夕食をとり、風呂に入って自室に戻ると、ひとりになった。部屋に行ってもいいかと聞いて来た者も中にはいたが、眠たいからと断った。
 眠気などない。ただずっと頭の奥が重い。
 暗い部屋では思考もどんどん沈んでいってしまう。ちらりと見えた光に誘われて襖を開けた。
 外の空気を吸い、落ち着いた頭が今日の出来事を反芻する。学校で愛華と雨音が話していたのが遠い過去みたいにうすぼんやりしている。それぐらい叔母夫婦の家で聞いた事実は衝撃だった。
 双葉を引き取ったのは金のためだった。
 愛情などないと分かっていたはずなのに、いざ目の前に突きつけられると息ができないほど苦しい。それと同じくらい納得もしていた。何の価値もない双葉を引き取るなど、それくらいの恩恵がなければやりたくないだろう。だから、仕方がないのだ。
「私の価値は、両親の遺産分かぁ」
 ほうっと外に向けて息を吐き出す。
 衝撃的な事実だったが、涙は出なかった。
 ショックを受けているが、悲しいわけではない。
 ただ、苦しかった。
「遺産なんかなくても双葉は価値があるよ」
 不意に聞こえてきた声に視線を向けた。いつの間に帰って来たのかスーツから普段着に着替えた雨音が立っていた。
「……雨音様に甘やかされると自己肯定感があがりそうになります」
「そうか。どんどん上げて行こう」
 雨音は双葉の隣に膝立ちし、目を覗き込んできた。そして、ほっと安堵の息を吐く。
「さっきよりも顔色が良くて安心した」
「酷い顔色でしたか?」
「倒れるんじゃないかと思った。秘密を暴かなければ良かったかと後悔しかけた」
 双葉は力なく笑った。
「真実を知れて良かったです。連れて行ってくれてありがとうございました」
 まだ、上手く笑えなくて口の端が引きつる。全部受け入れ、納得しているのに体に力が入らず、上手く取り繕えない。
 頑張って笑おうとして、諦めた。
「……ごめんなさい、今日は少し疲れているみたいで、明日になればいつも通りになっています」
 いつも元気いっぱいというわけではないが、今よりはずっとましになっているはずだ。
 日課になりつつある散歩も今日は行けそうにないと頭を上げる。
「うん、そうだな」
 雨音はそう言って腰を上げた。
 あっさり離れていく体温を寂しく感じながら「おやすみなさい」と声をかけようと雨音を見上げ――思ったよりもずっと近い距離にあった顔にびくりと肩が跳ねた。
 雨音の腕が膝の裏と腰に回り、そのまま持ち上げられる。雨音は立ち上がろうとしたのではなく、双葉を抱き上げようとしていたらしい。
 急な浮遊感に双葉は驚き、暴れた。
「あ、あま、雨音様、下してください」
「うん、ちょっと待ってね」
 持ち上げられたまま廊下を進んでいく。自室からどんどん遠ざかり、散歩に行くのかと思ったが、いつも庭へ降りる場所も無視した。そしてたどり着いたのは、広く質素な部屋だった。中央に布団が敷いてある。
「ここは?」
「俺の部屋」
「……え?」
 混乱する双葉を布団に寝かせたあと、雨音が隣にごろりと転がる。
「一緒に寝よう」
 近くで微笑まれ、瞬時に無理だと思った。
 どきどきしすぎて眠れるわけがない。双葉は何度も首を横に振り、起き上がろうとした。
 しかし、それは体に回った大きな毛むくじゃらの手によって阻まれた。
 いつの間にか雨音は狐の姿になっており、ふわふわとした毛並みに体が埋もれた。人よりもずっと高い体温と大きな体に抱きしめらえ、急激に眠気が襲ってきた。
「これだったら眠れる?」
 聞こえて来る雨音の声に体の力が抜けていく。
「無理に元気になろうとしなくていい。ゆっくり受け止めて、笑えるようになろう。俺や、皆が傍にいるから」
 人間と違う大きな手に背を撫でられながら優しく諭され、つんと鼻の奥が痛んだ。
 どれだけ優しいのだろうか。なんで尽くしてくれるのだろうか。分からないけど、もう今は何も考えたくなかった。
「今はおやすみ」
 双葉は気が付いたら眠りに落ちていた。