翌日の起床は勢いよく襖を開けられた音によるものだった。
「起きなさい、双葉」
 その溌剌とした声と共に姿を現したのは、既に完璧に支度を済ませている梓だった。彼女は爛々とした目で未だにぼんやりとしている双葉を見下ろしたかと思うと、直ぐに抱き起しにかかった。
「女の朝は早いのよ」と言い、双葉を凄い力で抱き上げた梓はそのまま双葉を洗面台へ連れて行き顔を洗わせた。その時点で漸く覚醒した双葉は、戸惑いながらも梓の後を着いて回り、軽く朝食を済ませると早速化粧に取り掛かった。
 現時点で、雨音は起きて来ておらず、化粧をする部屋には梓と双葉のふたりきりだ。
 昨日、雨音は否定したが、梓の本心はどうだかわからない。あれだけ素敵な雨音と長らく一緒にいたのなら好きになっていてもおかしくないと双葉は信じて疑っていない。
 化粧を施してくれている梓の楽し気な表情を横目に双葉はぎゅっと膝の上に置いてある拳を握りしめた。
「あの、梓さんは雨音様と幼い頃からの婚約者だと聞きました」
 双葉の言葉に梓の動きがぴたりと止まった。そして、ぎぎっと油のさしていない玩具のようにゆっくりと梓の顔が双葉の向いた。
 その目は見開かれ、射貫くように鋭い。
「あ、梓さん」
「その話、誰から聞いたの? 雨音?」
 感情を押し殺した声だ。双葉は少し悩んで首を横に振った。
「雨音様にも聞きましたが、それよりも前に環さんに」
 その途端、梓が顔を手で覆った。
「環、あいつ許せない。私の消し去りたい過去を」
「消し去りたい過去?」
 確か、雨音もそんなことを言っていた。
 梓は嘆くように顔を覆っていた手を退け、双葉の頬を両手でがしりと掴んで固定した。
「そうよ、あのね勘違いしないで欲しいんだけど、私が雨音と婚約してたのは家のためよ。私の家柄が良いから婚約していただけ、愛なんて一切ないわ。それなのに環は私があいつのことが好きなんて勘違いしているのよ。いい加減にしてほしいわよ」
 鬱憤を吐き出す梓の形相は鬼気迫るものがあり、双葉は圧倒された。
「ど、どうしてそんな勘違いを?」
「私に釣り合うのは雨音だけだと思っているのよ。ねえ」
 梓は視線を襖へと向けた。その言葉に襖の外から「はい」と短く声が返って来て驚いた。
「入って来なさい、環」
 襖が開き、無表情の環が顔を出す。
「あんた双葉に変なことを言うのは止めなさい」
「しかし、梓様」
 環の言葉を梓はばっさりと切って捨て、じろりと鋭い目で見つめた。
「私とつり合っているかどうかは、私が決めるわ。私の幸せを思うのなら余計なことはしないで」
 梓の言葉に環はぐっと言葉を詰め、神妙に頷いた。
「すみません。私としたことが、梓様を思うあまり出過ぎたことをいたしました」
「分かればいいの」
 梓と環の会話に落ちがついたことに安堵をする一方、つり合いをとる、という言葉が引っ掛かっていた。
 雨音と双葉はつり合っていない。それはクラスメイトが指摘し、双葉の悩みの種だった。梓は、それを一蹴した。
 凄いな、と素直に思う。そして自分には到底できないとも感じた。自分の価値を胸を張って主張できない双葉は、きっとずっと雨音と釣り合わないと思ってしまう。こんな状態で、彼の隣に立っていいのか疑問だ。
 やはり、婚約をするべきではないのでは。
「双葉はどうしてそう直ぐに俯くの」
 ぐいっと顎を持ち上げられ、美しい梓の瞳を至近距離で見つめた。
「自分に自信がないの? そんなに可愛いのに」
「か、可愛くなんかないです。私なんか。雨音様と全然つり合っていなくて、恥ずかしいです」
 ぎゅっと唇を噛む。そんな双葉に梓は落ち着き払った声で言った。
「卑下は自分の心は守れるけど、価値を落とすからやめなさい。つり合いってどこを見て決めているの? 雨音の何を見て決めたの。貴方は、誰につり合っていると認めてもらいたいの?」
「それは……」
 言葉が続かなかった。
 雨音は双葉が好きだと言い、久我家の皆も双葉を認めてくれている。それなのに双葉が一体誰につり合っていると思われたいのだろうか。自分でも分からなかったその答えを梓はあっさり口にした。
「きっと双葉は自分に認められたいのよ。自分に自信が欲しいんじゃない? それなら磨きなさい。認められるまで自分を磨き上げるの」
 梓の言う通り何もしないよりは、自分を少しでも綺麗に見せることが出来れば認められるかもしれない。
「よし、じゃあとりあえず化粧よ。そして、性格の悪いクラスメイトをあっと言わせるの」
 双葉が恐る恐る頷いた。
 そして、梓に化粧を施してもらい、着替えを終えた頃にスーツ姿の雨音が部屋に顔を出した。
「雨音様、おはようございます」
 気恥ずかしさから微笑みを浮かべて挨拶した双葉に雨音は目を見開いて固まった。
「か」
 雨音は双葉を凝視しながらぽつりと呟いた。
「可愛過ぎる……」
 ぶわりと胸に雨音の感嘆が伝わって来る。直接的な感想に反射的にぱっと顔が華やぐ。
「ありがとうございます。お化粧、梓さんにやってもらいました。あと髪の毛も」
 結った双葉の髪には雨音に貰った髪留めが揺れている。
「化粧も良いけど、笑顔が可愛い。こんな可愛く挨拶されたら誰でも好きになるだろ」
 雨音のぼんやりとした呟くに双葉は混乱しながら首を傾げた。
「あの、雨音様?」
「よし。今日は学校を休もう」
「えっ」
 力強く言われ、拒否する間もなく抱き上げられる。そのまま廊下を歩き始めた雨音の肩を慌てて叩く。
「だ、駄目です。折角梓さんに準備を手伝って貰ったんです」
「うん、俺にだけ見せて」
「ちょ、ちょっと待って」
 止まって、と抗議の声を上げる双葉の声に耳を傾けてはくれるが、雨音は止まってくれない。このままでは本当に学校へ行けなくなってしまう。それは困るとじたばた暴れた。
 不意に雨音の足が止まった。
「何しているのよ、あんた達」
 呆れた声が廊下に落ちたので、雨音の足が止まった理由に気が付く。
 梓が仁王立ちで雨音の行く手を阻んでいた。
「邪魔だ、どけ」
「双葉が嫌がってるじゃない。離しなさいよ」
 目をつり上げて怒っていた雨音は梓の言葉に困ったような顔で双葉を覗き込んだ。
「双葉、嫌か?」
 しゅんと眉を下げる様子は哀れっぽく、双葉の良心をぐさぐさと刺激する。そんな顔をされて嫌だと言えるわけがない。
「い、いやでは」
「こら、流されない」
 梓の呆れを含んだ声に言葉を止める。
 危ない。流されるところだったと冷や汗が出た。
「これから双葉は学校で、雨音は仕事でしょ? 早くしないと遅刻するわよ」
 早く起きたのにいつの間にか時間が差し迫っていた。慌てて鞄を抱えると雨音に引きずられるようにして共に車へ急ぐ。
「梓さんありがとうございました」
 さっさと車に乗せようとしてくる雨音を止め、見送りに出てくれた梓に頭を下げた。
「気にしなくていいわ。ただ、私が準備したのに泣いて帰って来るなんて許さないわよ。自信を持って戦ってきなさい」
 誰とも戦う予定はないだが、梓に綺麗にしてもらったのだから自信なく俯いてなどいられない。
 双葉が梓の目をしっかり見て頷いた。
「頑張ってきます」
 そうして梓と別れ、後部座席の扉を開けた。
 今日は真澄が運転する様だ。運転席から振り返った真澄は驚いた様子だったが、すぐにいつものように微笑みを浮かべた。
「おはようございます双葉様。とても綺麗ですよ」
「おはようございます。ありがとうございます」
 挨拶を交わし、ふたりの視線は先に後部座席に座り不貞腐れている雨音に向けられた。
「あ、雨音様」
 隣に座っても良いのか悩み声をかけると、雨音が手を差し伸べて来たのでその手を取って車に乗り込む。
 車が発進するなり、雨音の手が双葉の腰に回る。すり、と猫の様に頭を寄せられ、双葉は硬直した。
「双葉に怒っているわけじゃないよ。俺の目の届かない所に双葉をやりたくないだけ」
 拗ねているんだ、と子供みたいに言う雨音は何だか可愛らしい。しかし、近すぎる距離感と腰に回る大きな手のせいで可愛さを堪能する余裕はない。すん、と匂いを嗅ぐ様に鼻を鳴らされて羞恥心は限界を迎えた。
「雨音様、は、離して下さい」
「んー、もう少しだけ」
 雨音の肩を押して離れようと試みた。いつもならば仕方ないなと笑って離れてくれるのだが、今日に限っては足りないとばかりに更に抱き寄せられ、双葉は真っ赤になった顔を押えた。
「限界です……」
 震える声で訴え、漸く離してもらえた。
 緊張から解放され安堵する一方、熱が離れていったことを寂しく感じた。
 それを首を振って消し去り、雨音に話を振る。
「雨音様、この二日間お世話になりました。皆さん優しくしてくださって凄く楽しかったです。ありがとうございました」
 お礼を述べる双葉を雨音は不思議そうな顔で見つめていた。
「もう終わりみたいな言い方だね」
「え?」
「言っただろ、俺は帰す気ないって」
 休みが終わったのだから叔母夫婦の家に帰らなければいけないと思っていたが、雨音の認識は違ったようだ。
 確かに帰す気はないと言われたが、このままずっと久我家にいるわけにはいかない。
「双葉はあの家に帰りたいのか?」
 戸惑いで揺れる双葉の目を雨音が優しく見つめる。
 そんなことを聞かれ、反射的に首を横に振った。
「いいえ……でも、あの家には荷物もありますし」
「それなら取りに行けばいい。ついでに結婚の報告もしよう」
 にこりと微笑まれ、双葉の脳裏に『外堀を埋められている』という言葉が浮かんだ。きっともう逃げられないぐらいに囲われてしまっている。しかしそれを双葉は嫌だとは思っていない。ただ、このまま流されるだけでいいのか、という疑問は胸にあった。
 そうこうしている内に学校に着いていた。校門の前に止まる黒い車に不審げな視線を向ける生徒達の姿が見え、双葉は委縮した。視界を隠す前髪がないのも気になり始め、手でそっと前髪を掴んで引っ張っる。
 怖気づく双葉の手を雨音が握った。
「このまま帰ろうか」
 雨音は双葉を甘やかすのに躊躇いがない。
「制服デートに切り替えよう。よし、このまま車を出せ」
「いえ、大丈夫です、行けます」
 本当に帰ろうとするのを止めて、心配ないと笑顔を作った。
「行って来ます」
「……迎えに来るから、嫌になったらすぐに連絡しておいで」
 雨音の手が伸びて来た。頬に触れようとした手が一瞬止まり、髪を耳にかけられる。そして、そのまま後頭部に回った手に引き寄せられた。
「わっ」
 前髪の生え際に唇が触れる。キスをされたと分かった途端かあっと顔を赤くなった。
「いってらっしゃい」
 満足げに微笑んだ雨音に送り出され、赤い顔のまま車を降りた。

 教室の扉を開けた途端向けられた視線に双葉はぎゅっと拳を握り、ひそひそと囁かれる声を無視して自席に着いた。
「え~、双葉ちゃんどうしちゃったの? イメチェン?」
 聞こえて来た軽薄な声にびくりと体が跳ねる。そろりと視線を向けると田辺とその友人達が立っていた。
 また馬鹿にされるかもしれない。浴び去られる嘲笑を想像し、逃げ出したくなる。しかし、梓の言葉を思い出してどうにか俯くのも耐えてクラスメイト達を見据えた。
「待って、可愛くね?」
 誰かがそう呟いた。
「いや、まじで可愛いじゃん。そっちの方がいいって」
「うわ、俺結構タイプかも」
 なんて聞こえてきて、双葉は顔を引き攣らせた。下世話に笑う男子もそれに同意する女子の視線も何だか違和感があった。不思議なもので、あれだけ馬鹿にされたくないと思っていたのにいざ褒められても良い気分にはならない。
「それよりさ、一昨日一緒にいたのってマジで作野さんの彼氏なの?」
「え」
 田辺の横に立っていた女子生徒が身を乗り出して聞いて来た。
 一昨日というのはデパートでのことだろう。彼氏、とは雨音のことで間違いないだろうが、何と答えていいのか分からない。雨音との関係は曖昧でよくわからなかった。付き合ってはいない。しかし結婚の儀式は済ませている。そのうえでプロポーズされた。その関係を形容する語彙はない。
「えっと、うーんと」
 答えられずにいる双葉に焦れた女子生徒が声を張った。
「付き合ってないなら紹介してよ。私、めちゃくちゃタイプなんだよね」
 女子生徒は綺麗に化粧がしてあり、誰から見ても魅力的に映った。この人が雨音に好意を寄せたら、彼はどう思うだろうか。疑問が浮かび、直ぐに打ち消す。あれだけ美しい梓が近くにいて好きにならないのだから見た目で判断するとは思えない。
 女子生徒がそれだけ美しくても雨音を紹介するのは嫌だった。
「ごめんなさい、紹介は出来ないです」
「えー、何でよ」
 不満げに睨まれ、困った双葉は素直に言葉を返した。
「好きな人なので」
 釣り合っていないと言われても、双葉は彼のことが好きだった。
 双葉の返答に教室内の空気がざわりと揺れた。
 クラスメイト達が双葉の恋愛事情を聞きたがったが、ホームルームのチャイムが鳴り教師が入って来たのでお開きになり、ほっと安堵の息を吐く。
 教師も双葉の顔を見てぎょっとしたが、特に何も言わずに朝礼が始まった。
 馬鹿にされなかった、良かった。そっと胸元を握る。前髪が短くなっても思ったよりもずっと落ち着いて過ごせている。離れてからずっと双葉を心配している雨音に早く伝えなかった。伝わっていると良いなと思いながらそっと胸を撫でた。