デパートから返って来た後は外出は止めて屋敷内の案内をしてもらった。
 広い屋敷内は全てを把握することはできない。
 見たこともない女中や着物姿の男性とすれ違うので、廊下の隅に寄って避けようとすると雨音に手を引かれた。曰く、当主と婚儀を結んだ相手が避けるのはおかしいらしい。実際、双葉が避けずとも相手がさっと廊下に寄り、頭を下げて来た。
 当主である雨音が家の中で一番偉いので当たり前なのだが、双葉よりもずっと年上の人に頭を下げられるのは落ち着かない気分になった。
「当主様は何歳なのですか?」
「二十四だよ」
 屋敷の中を歩きながら雨音に質問を投げかける。
「お仕事は何をされていますか?」
「久我グループの社長。因みに今日と明日は休み」
「え?」
 双葉は足を止めた。
 久我グループと言えば双葉でさえも知っている大企業だ。
 あやかしは人に紛れて生活していると説明は受けたが、まさか社長をしているとは思わなかった。
「俺からも質問していい?」
 雨音も足を止めて双葉を見つめながら言った。
「双葉はいつまで俺を当主様って呼ぶの?」
「いつまでと言われましても」
「……名前は憶えているよね?」
 恐る恐ると言った風に問われ頷くと雨音は安心した様子で息を吐いた。
「じゃあ、名前で呼んで。当主様なんて役職名よりも名前で呼んでほしい」
 改めて呼ぶとなると緊張する。じっと見つめられると唇が震えた。
「あ、雨音様」
 ぽつりと呟く。声に乗せると急に恥ずかしくなった。
「うん、これからはそう呼んで」
 赤くなった顔を隠す様に俯く双葉の手を取った雨音は上機嫌に廊下を歩いて行く。双葉もそっと微笑み、話をしながら屋敷を散策した。
 ふわふわと浮き足立つような時間はあっという間に過ぎていき、空が赤く染まり出した頃。双葉は震えそうになる声で申し出た。
「では、そろそろお暇します」
 帰りたくない、と顔に出てしまいそうだったので、深く頭を下げた。
「何言ってるの。今日も泊まっていけばいい」
 返ってきた言葉に驚いて顔を上げた。
「俺は明日も休みだから相手をしてほしいんだ。駄目?」
 駄目、なんて言えなかった。
 結局叔母の家に雨音が連絡を入れ、もう一日泊まった。夕食を済ませ、風呂に入って後は寝るだけと布団が敷かれた部屋に向かっている途中で雨音に呼ばれ、昨日と同じように庭を歩きながらたくさん話をした。
 ふわふわと幸福感を抱えながらその日は眠り、この穏やかな日常がもう一日続くのだと顔を綻ばせながら目を閉じた。

 翌日、昨日よりもずっと早く目を覚ました双葉は叶野が用意した服を着て、雨音と共に食事をとった。
 働かなくても何でも出てくるという状況に中々慣れず居心地の悪さを感じる。食事は美味しいのだが、働かざる者食うべからずだと雨音に言ったところ。
「それだと俺も食べられないよ」
 と笑われた。
「雨音様は働いていらっしゃいますけど、私は惰眠を貪るばかりで」
「よく食べて、よく寝ているなんて偉いな」
 苦悶の表情を浮かべる双葉の言葉を雨音はうんうんと頷いた。そんな子供に言い聞かせるような褒め方をしないでほしい。
 これ以上は何も言っても取り合ってくれなさそうだ。それに素人の双葉が家事をしても邪魔になってしまうだろうから言及は止めて運ばれて来た食事を前に手を合わせた。
 食事を済ませ、今日は何をしようかと話していた時だった。
「雨音様、失礼します」
 そう言いながら部屋に入って来たのは真澄だ。その顔には焦りの色が浮かんでいる。
「どうした」
 雨音が短く問う。
「梓様がいらっしゃっています」
「は?」
 雨音は見たことが無いくらい顔を歪め、舌を打った。
「何の用だ? いや、何の用でもいい。追い返せ」
「そう言われましても……」
 真澄が困ったように眉を下げた。
 不意にどたばたと銅像しい声と廊下を歩く音が聞こえ、真澄はぎょっと目を見開き、雨音は更に顔を顰めた。
 双葉は迫りくる音と警戒するような室内の雰囲気に呑まれ、体を縮みこませた。双葉の不安を感じ取ったらしい雨音に抱き寄せられ、大きな体にすっぽりと収まったタイミングで襖が音を立てて開いた。
 部屋の前にいたのは、ふわふわの髪をした妖艶の女性と背の高い男のふたり組だ。どこをとっても美しい女性は垂れ目がちの目で室内を見回し、双葉で視線を止めると口を開いた。
「貴方が雨音の結婚相手?」
 落ち着いた声で問われ、反射的にこくりと頷くと女性は片方の眉を器用に上げ言った。
「なによ、芋女じゃない!」
「いもおんな?」
 言葉の意味が分からず首を傾げる双葉の隣で雨音が勢いよく立ち上がる。
「何を馬鹿なことを言っている。撤回しろ」
「嫌よ。私は事実を言っただけだもの」
 女性はつんと尖った態度でそっぽを向き、その態度に更に雨音の怒りが増大した。
「双葉は飾り気がないままで魅力的なんだよ。お前みたいな化粧くさい女と違ってな」
「はあ? 化粧くさいって何よ、あんたの鼻がおかしいだけでしょ。ああ、目も可笑しいわね」
 ふたりの言い合いは次第にヒートアップしていく。自分が話題の中心だと分かっているのだが、間に入っていける雰囲気ではなく呆然と見ていることしかできなかった。
 それにしても声を荒らげている雨音は双葉と共にいる時よりも子供っぽい。もしかしたらこっちが素かもしれないと思っていると女性と目が合った。
 雨音はまるで双葉の方が女性よりも魅力があるように言っていたが、とんでもない。女性は爪の先まで綺麗に整えられていて、双葉とは比べようもない。
 双葉はずっと愛華がこの世で一番綺麗な子だと思っていたが、それが一気に覆った。
「どうした、双葉。不愉快で気分悪いか? 直ぐに追い出すからな」
 ぼうっと女性を見つめる双葉に気付いた雨音が心配そうに背を撫でる。
 その言葉に首を振り、
「こんな綺麗な人見たの初めてです」
 ぽつりと呟いた。
 空気が固まった。雨音は困惑しながら何度も瞬きを繰り返し、女性は大きく目を見開いたあと、ふっと口元を緩めた。
「あら、貴方は見る目があるわね。でもね、私は人ではないわ、美しいあやかしね」
「あやかしなのですか?」
 問うと女性は誇らしげに頷いた。
「そうよ。私もそこの男と同じ妖狐。狐崎梓よ。こっちは執事の環」
 梓は自身と隣に立つ男を指さした。環と呼ばれた茶髪の長身の男は無表情のまま会釈をする。
「それで、貴方は?」
「作野双葉です。よろしくお願いします」
 梓は双葉に顔を寄せた。ふわりと柔らかい女性特有の良い匂いが鼻腔を擽る。とてもいい匂いがした。
「ふーん、貴方素材はいいわね。どう? 化粧とか興味ない?」
「止めろ、双葉に絡むな」
 ぐいっと抱き寄せられ、梓から距離が出来る。背後に視線を向けると雨音が不機嫌そうに梓を睨んでいた。
「あんたに止められる筋合いはないわ。ねぇ、双葉。私が貴方をとびっきり美しくしてあげるわ。どう?」
 梓の提案はあまりに魅力的だった。
「お願いします」
 魅力などない自分でも、梓の手にかかれば恥ずかしくないぐらいには綺麗になれるのではないか、と希望が沸く。
「双葉はそのままで魅力的なのに」
 雨音がぐり、と額を擦り付けてくる。甘えるような仕草と繋がっている心から本気だと分かる。
 しかし、だからと言って今のままでいいとは思えない。
「ありがとうございます。でも、誰から見てもおかしくないようになりたいのです」
「どうして? やっぱりクラスメイトに言われたことを気にしているの?」
「いえ、それもありますけど」
 ぎらりと、雨音の目が獰猛な色を帯びたので、慌てて言葉を続ける。
「それだけじゃなくて、雨音さんと隣に立っても恥ずかしいって思われたくないし、思いたくないんです」
 デパートで、双葉は明確に雨音との不釣り合い具合を自覚した。婚儀を行えたから久我家では優遇されているが、果たしてそれでけでいいのだろうか。皆に認められている雨音の隣にいるのなら双葉も皆に認められなくてはないならのではないか。
「恥ずかしいなんて思ったことない」
 雨音の切実な声を聞いていると考えが揺らぐ。
 雨音はこのままでいい、と念を押すように言った。それをため息ひとつで黙らせたのは梓だ。
「あのね雨音、この子がやりたいって言っているんだから黙ってなさいよ。あんたに止める権利はないわ」
「なっ」
 雨音がきつく梓を睨む。
「いくら当主でも人の自由は奪えないわよ」
 そう言うと梓は双葉の手を引いた。まるで自分の家のように悠々と歩く梓に連れて行かれたのは、婚儀の時に準備をした部屋だった。
「じゃあ、まずその鬱陶しい前髪を切るわ」
「えっ」
 双葉は咄嗟に前髪を押えた。
「ま、前髪は……」
 双葉が拒否を言葉にする前に梓がぴしゃりと言った。
「駄目よ。前髪で人の印象は変わるのよ。つまり、どれだけ綺麗に化粧をしても前髪ひとつで崩れてしまうの。わかった?」
 双葉はおずおずと頷いた。
「じゃあはじめるから。雨音はずっとここにいるつもり?」
 双葉の背後で雨音が苛立たしげに立っていた。
「……お前が変なことをしないか監視しておく」
「変なことなんかしないわよ、あんたじゃあるまいし」
 ぴりぴりした空気にヒビを入れるみたいに雨音が舌を打った。苛立ちを向けられた梓は気にした様子もなく双葉を座らせ、早速ハサミを持った。
「私、器用だから安心して見てなさい」
 その宣言通り、梓は手慣れた様子で前髪を切り、あっという間に整えて見せた。
「ほら、どう?」
 久方ぶりに前髪の短い自分と鏡越しに対面した。開けた視線が落ち着かず、そろりと視線を逸らしたところ、顎を持ち上げられて無理やり前を向かされた。すると鏡越しに背後に座っている雨音と目が合う。
 途端、雨音の瞳がとろりと蕩けた。
「前髪が短くても可愛い」
 きゅ、と胸が高鳴る。
 感覚が繋がっているからこそ、雨音の甘い言葉が真っ直ぐに伝わってくる。
 そして、それは雨音も同じだ。
 双葉のときめきを感じ取って顔を綻ばせている。居たたまれなくなった双葉が顔を俯かせるとすぐに梓によって戻された。
「前見てなさい。ほら、かわいいじゃない。さて、次は化粧よ」
 梓はてきぱきと動き、双葉の顔に化粧品を塗っていく。
「そういえば、さっき話していたクラスメイトに言われたことってなんなの?」
 梓は顔の真横で双葉に化粧を施しながら世間話と言った風に聞いてきたので、昨日雨音にしたのと同じ話をした。
「何よそのしょうもない男。罰ゲームで告白してくる男の言うことなんか一々気にしなくてもいいのよ」
 梓は苛立たし気に顔を歪め、男の所業がいかに愚かだったのか解き始めた。
「その男が目を見張るほど綺麗にしてあげるわ。惚れさせましょう」
「駄目に決まってるだろ」
 すかさず雨音が反論すると梓が舌を打つ。
「双葉は、こんな男のどこがいいの? 恋人が輝くのを邪魔してくるなんて最低よ」
「双葉が輝くのはいいが、惚れさせるなんて駄目だ。双葉は俺のだぞ」
「うざすぎる……」
 梓がぼそりと呟く。雨音には届かなかったようでじっと双葉を見ていた。まだ完成していない双葉の顔を見て雨音は困ったように眉を下げた。
「可愛すぎて不安になってきた。学校に行く時だけ前髪を長くしてほしい……」
「む、無理ですよ」
 それが出来るのなら双葉だってしたい。
「だよね……」
 雨音が不安げに溜め息を吐き、梓がそれに呆れたような視線を向けた。しかし、突っ込むことはせずに化粧を進めた。
「完成よ! さすが私、可愛すぎるわ」
 梓が感嘆の声をあげる。その言葉通り鏡に映っている双葉は完成されていた。
「目が、二倍くらいになってませんか?」
「貴方元々目が大きいわよ、前髪で隠れてただけ。まぁ、私の腕が良いのもあるでしょうけど」
 自信満々な梓に双葉は思わず拍手をした。
「すごいです。こんなに変わるとは思っていなかったです」
 婚儀の時にも化粧はしたが、あれは催しの化粧らしく濃いものだった。しかし、梓が施したのは薄化粧に見えるのに双葉の良さを最大限に引き立たせているようだ。
 きらきらと尊敬の眼差しで梓を見る。すると梓はじっと双葉の顔を凝視したかと思うと、これでもかと双葉の頭を撫で出した。
「かわいい~~~~なにこの子、素直でいいこね うちの子にならない?」
 ぐりぐりと頭をかき混ぜられ、ぐわんと頭が揺れる。
 痛くはないが、反応に困っていると背後から体を引き寄せられた。
「双葉に触るな」
 気が付いたら雨音の膝の上に乗せられていた。
 ぎょっとして慌てて降りようとするが、腹に手を回されて身動きが取れなくなる。
「は、離して……」
「だめ」
 思ったよりも近い距離から声が聞こえ、かあっと顔が赤くなる。
「顔を上げて、よく見せて」
 俯こうとしたら顎を持ち上げられた。
 無理矢理目を合わせられ、戸惑いに目を揺らす双葉。雨音は双葉の赤い顔を愛おしそうに見つめる。
「いつもの姿が一番だけど、それもよく似合ってる。可愛いよ」
 そう言いながら雨音の顔が近付いてくる。
 何をされるのか、双葉でもわかった。キスをされる。
 キス何て人生で一度もしたことが無い双葉は大いに慌て、首を竦めて硬直した。
 動けない双葉をくすりと笑った雨音の唇が双葉の頬に触れる――その寸前。
「こら!」
 雨音の額を梓が押えて、双葉を救出した。
「邪魔するな」
 雨音が恨めしげに梓を睨む。
「あんたねぇ、顔に触れたら化粧が崩れるでしょうが」
「頬にキスしたらくらいじゃ崩れないだろ。余計な口出すな。というか、用事が終わったのならもう帰れ」
「嫌よ。私今日はこの家に泊まるわ」
 梓の言葉に雨音が信じられない様子で首を傾げた。
「はあ? 何でだ」
「私の用事は双葉のことを馬鹿にした男をぎゃふんと言わせることよ。どうせ双葉もこの家の奴もここまでの化粧の技術はないでしょ。だから明日の朝学校に行く前に私がやってあげるわ」
 雨音は梓の言い分を退けようとしたが、梓の押しは強く、最終的に何を言っても無駄だと思ったらしい雨音が折れた。
「お前は、どうしてそう昔から頑固なんだ……」
「それはこっちの台詞よ」
 ふたりのやりとりは気安く、長い付き合いを感じさせた。双葉はそんなふたりの会話に入ることが出来なかった。
 何だか、遠慮してしまった。
 じっと黙ってふたりの会話を聞いている双葉に雨音が気づき、そっと首を傾げた。どうした、と目だけで問いかけられ、何でもないと首を振る。
 仲の良さそうなふたりに少しだけ寂しさを覚えてしまった。それが、なんだかとんでもなく恥ずかしくて居た堪れなかった。だから雨音に心の内が伝わらないように必死で抑えた。その結果、雨音は不思議そうな顔をしたが、強くは聞かれなかった。
 その後、梓に髪の毛を編んでもらったり、雨音に可愛いと写真を大量に撮られたりしながら午前は過ごし、午後は雨音と近場を散歩した。前髪が目にかかっていない開けた視界に慣れず、すれ違う人の視線からそっと顔を逸らしていた。折角綺麗にしてもらったのにおろおろしていてみっともないとは思ったが、長年の習慣はそう簡単に治らない。
 段々と気落ちしていく双葉に雨音は自身の帽子を被せた。
「直ぐに開けた視界に慣れるのは難しいだろう」
 雨音は弱気な双葉を受け入れてくれた。
「ありがとうございます」
「うん、お礼に手を繋いでもいい?」
 そっと手を取られ、ふたりは寄り添いながら緑の多い街並みを歩いた。

 すっかり日が落ち、夕食と風呂を済ませた双葉はいつものように部屋の前で雨音を待っていた。
 約束をしたわけではないが、ここ二日とも夜空の下を散歩していたので、泊まり最終日である今日も同じように散歩をすると思ってのことだった。そう、最終日。今日で休みは終わり、明日からは学校が始まる。すると双葉は恐らく叔母の家に帰ることになるだろう。
 流石にずっとこの家でお世話になるわけにはいかない。
 結婚しようと言われたが、まだどう返事をしたらいいか悩んでいる身の人間がいていいわけがない。早く答えを返さなければとは思うのだが、中々難しい。
 雨音のことは好きだ。あんなに愛おしいという目で見つめられれば誰だって好きになってしまう。心が繋がっているので、彼に嘘がないことはわかっているのも大きい。だからこそ、悩む。彼は誰から見ても魅力的だ。見た目も勿論のこと、中身も素敵だと知っている。そんな彼が双葉なんかと結婚していいのだろうか。
 困っているようだったから婚儀をするのに躊躇いはなかった。しかし、結婚となると話は別だ。
 もっと彼には釣り合う人がいる。例えば、梓のような。
 ぺたり、と足音が聞え、物思いに耽っていた双葉は視線を上げた。
 そこにいたのは、雨音ではなく、背の高い茶髪の男だ。見覚えがある。梓と共に久我家へ来ていた彼女の執事だ。確か、名前は――。
「環さん」
 名前を呼ぶと男は冷たい目で双葉を見下ろし、口を開いた。
「どういうつもりで雨音様の隣にいらっしゃるのですか?」
 それは、温度のない声だった。
「本来ならその立場にいるのは我が主、梓様だったはず。ただの人間如きが久我家に嫁入りするなど、あり得ない」
 環の言葉に双葉は目を見開く。
 本来なら、その立場にいるのは。我が主、梓様だったはず。その言葉をゆっくりと咀嚼し、飲み込んで意味を理解した。
「梓さんは、雨音様の」
「婚約者です。おふたりは結婚する予定でした」
 ひゅっと喉が鳴った。
 双葉が衝撃を受け止められないでいるのに環は気にした様子もなく、続ける。
「婚儀が成功していれば、おふたりは今頃幸せになっていたのです。それなのに……婚儀がふたりは引き裂いた。そこに貴方の様な人間が入り込んだのです」
 ぎっと睨まれ、双葉はその目から逃れるように俯いた。
 視界に入る自身の手が震えている。
 梓と雨音が仲睦まじく過ごしている姿が脳裏に浮かぶ。美しいふたりは並ぶだけで絵になり、誰にも文句が言えないくらいお似合いだ。
「あ、雨音様は、梓さんのことが好きなのでしょうか」
 やめておけばいいのにそんな不毛な質問が口をついて出た。返って来る言葉など分かり切っている。
「当たり前でしょう」
 そして、続いて言われた言葉に愕然とした。
「貴方のことを好いているというのは、婚儀のせいですよ。あの儀式の時に飲んだ水のせいで貴方を好きだと錯覚しているのです」
 それ以降は何を言われたのか覚えていない。ただ気が付いたら環は目の前にいなかった。
 ひとりになった縁側で茫然と庭を見つめる。
 雨音は、梓のことを今でも愛していて、双葉が好きな風に見えるのは、婚儀のせい。環の言い分はきっと事実だ。おかしいとは思っていたのだ。何の魅力もない双葉を雨音が好きになるはずがない。婚儀のせいならば納得できる。
 最初に会った時に雨音が疲れていたのは、失敗続ぎの婚儀に辟易していたのもあるだろうが、それよりも最愛の婚約者との婚儀が失敗したからかもしれない。
 婚儀が失敗したのは双葉のせいではないが、まるで何もかも自分が悪いような気がしてくる。
「やっぱり、わたしなんて」
 いない方が良い。
 そう呟いた時だった。
 ばたばたと廊下を駆ける音がした思ったら、雨音が廊下の角から姿を現した。
「双葉、どうした」
 その表情には焦りが見える。
「あ、雨音様」
 そっと名前を呼ぶ。そんな資格などないのに縋りつきたくなってしまった手をぎゅっと握りしめて首を振る。
「何でもないのです。少し夜風に当たっていただけで、もう寝ますね」
 そう言って部屋へ戻ろうとした双葉の手を雨音がとった。
「待て」
 手を引かれ、抵抗する間もなく雨音との距離が近づく。
「誰に何をされた? それとも言われた?」
 顔を覗き込まれ、真剣な瞳と目が合った。
「ど、どうして」
「心で繋がっているんだ。双葉の不安はすぐに伝わって来た」
 その繋がりは、婚儀で強制的に結ばれたものだ。そのせいで雨音は双葉が好きなどと勘違いをしてしまっている。
 そう思うとぎゅっと胸が締め付けられた。
「よいしょ」
 不意に脇の下に手を入れられ、持ち上げられる。驚いて硬直する体は簡単に雨音の膝の上に乗せられ、腕の中に囲まれた。
「あ、あの、離して」
「双葉が素直に話したらな」
 ぎゅっと抱き寄せられ、とんとんと慰める様に背を叩かれる。子供に対するそれに戸惑う。
「双葉が悩んでいることはひとりで考えて答えが出るものか?」
 雨音の言葉に離れようと突っ張っていた手が止まる。
 ひとりで悩んだ所で雨音と梓が幸せになるとは思えない。
「そうじゃないなら話した方が良い。ほら、言って」
 とん、と優しく撫でる手と穏やかな話方に双葉は押されるように口を開いた。
「あ、雨音様は、梓さんと婚約していたのですか?」
「ああ、していた」
 あっさり肯定が返って来た。
「梓さんのこと今でも好きですか?」
 その質問に、一瞬時が止まり、続いてがばっと体を離された。
「好きなわけないだろ。そもそも今でもってなんだ、あの女のことを好きだったことなんか一度もない」
「……え?」
「何でそんな勘違いを? ありえない。双葉じゃなかったら名誉棄損で訴えているところだ」
 双葉の肩を掴み憎々し気に言う雨音は嘘をついているようには見えない。
「え、で、でも、梓さんとは婚約していたんですよね?」
「まぁ、あいつの家は稲荷の中では久我家に次ぐ名家だからね。婚儀のために婚約していた。梓だけじゃない。婚儀が成功しなかった時の保険に婚約者は数人いる、って言わなかったっけ? 双葉の婚儀のあとすぐに解消したけどね。本当になんでそんな話になっているの?」
 雨音はどういうことかわかっていないようだったが、双葉はその上をいく混乱の中にいた。
 環の言ったことは嘘だったのだろうか。いや、あの冷たい声は確かに真実を言っているように聞こえた。
「では、梓さんの片想い?」
 ぽつりの呟いた言葉に雨音が盛大に笑った。
「そんなわけない。あいつは俺との婚約を黒歴史とまで言っているんだぞ」
 あははと子供みたいに笑う様子に双葉は何だか安心してしまった。ふっと体の力を抜くとすかさず抱き寄せられ、雨音の胸に頬を預ける形になった。
「あ、雨音様、喋ったら離してくれるって」
「そんなこと言った?」
 ふっと笑い気配がして、どきりとした。
「不安はすぐに話して。ひとりでぐるぐる悩むより、ふたりで解決したほうがいい」
 そっと頭を撫でられ、双葉は抵抗するのを止めて雨音に身を任せた。
 婚儀の呪縛のせいで双葉のことを好きになったのですか、とは聞けなかった。