翌日。布団の上で目を覚ました双葉は寝起きでぼうっとしながら辺りを見渡し、首を傾げた。
ここどこだっけ、と不思議に思ったのは一瞬で、すぐにじわじわと昨夜の記憶が蘇って来る。
庭園で雨音に結婚を申し込まれた。幻想的な光景も相まって現実とは思えなかったが、抱きしめられた感触も手を繋いだ時の体温も覚えている。まさか自分なんかがプロポーズされるなんて想定していなかった。
予定外のことばかりで、昨日はすっかり疲れてしまったらしく、眠りは深かった。
はっとして時計を確認する。時刻は既に八時を回っていた。いつも六時には目を覚ましている双葉からしたら二時間の寝坊である。飛び起きたタイミングで襖の外から声がかかった。
「双葉様、おはようございます」
叶野の声だ。
「おはようございます、あの、すみません、起きるのが遅くなってしまって」
「遅くないですよ。もっとゆっくりしていてください。着替えをお持ちしましたので、部屋の前に置いておきますね」
「はい、ありがとうございます」
ぼさぼさの髪を手で梳かしながら応答する。こんな姿で人前に出るわけにはいかないので叶野の気遣いは有り難かった。襖を開けるともう既に叶野の姿はなく、部屋の前にぽつんと薄ピンクのワンピースが置いてあるだけだ。
ワンピースは滑らかな肌触りで一目で質が良いとわかるものだ。双葉の私服は全部愛華のおさがりなので、自分のために用意された服を着るのは制服以来だ。緊張しながら袖に腕を通す。無駄な装飾の無いさらりとしたワンピースで、腰のところでふんわり広がっている可愛らしいシルエットをしている。長さも脛まであり綺麗目な印象だ。
「可愛い」
思わずぽつりと零した、その時。
「双葉、おはよう。起きているか?」
襖越しに聞こえて来た雨音の声にびくりと肩は跳ねた。
「は、はい。おはようございます。起きています」
「入ってもいいか?」
「えっ」
双葉は自身の姿を顧みた。
服は着替えているが、顔は洗っていないし、髪もまとまっていない。それに布団が敷きっぱなしで恥ずかしい。こんな姿では会えない。
「ちょっと待ってください、まだ、起きたばかりで身だしなみが全然整っていなくて、それに布団も」
「布団は叶野達は片付けるからそのままでいい。一緒に朝食へ行こうと思って声をかけたんだけど、無理そう?」
残念がる声色に双葉は慌てた。
恥ずかしいからと突っぱねるのは失礼にあたるのではないか。しかし、いつもよりもずっとぐちゃぐちゃの見た目で現れたら幻滅されそうで怖い。その葛藤の末、双葉は言葉を搾り出した。
「朝食の前に、顔を洗って来ても良いですか?」
「勿論。場所の案内をしよう。おいで」
叶野か、別の女中に案内してほしかったが、そんな我儘は言えず、意を決して襖を開けた。恐る恐る視線をあげると穏やかに微笑む雨音と目が合った。
「よく眠れた?」
不意に伸びて来た手が双葉の髪を掬い、耳に掛ける。明らかに寝起きな双葉の顔には何も言わずに雨音の視線は着ているワンピースに向けられた。
「その服、良く似合っている。可愛い」
頬をくすぐるように撫でられ、居た堪れなさでかっと顔が赤くなった。
赤面した顔を見られたくなかったので、俯いて顔を隠す。雨音は最後に頭を一撫でして手を離した。接触がなくなり安堵の息を吐く双葉の手に熱が降れ、指が絡まる。
「行こう」
指先をきゅっと握られ、鼓動が早すぎて倒れてしまいそうだった。
久我家に来てから叔母の家にいた時とは違う意味で心が休まる時間が無い。
雨音に手を引かれて行った洗面所で顔を洗うとすっきりした。てきぱきと身だしなみを整え、洗面所の前で待っていた雨音と昨日食事をとった部屋に向かった。机の上には既に料理が並べられ、にこにこと笑顔の叶野がお盆を持って立っていた。
「叶野さん、おはようございます。朝食を用意していただきありがとうございます」
「頭を上げてください。私達は当然のことをしているだけですよ」
叶野は尚もにこにこしている。その視線が繋がれている双葉と雨音の手に向けられていることに気が付く、慌てて離そうとした。しかし、雨音にぎゅっと手を握られて阻止される。
「仲が良いようで安心いたしました」
「あ、いえ、これは」
否定、するのも変な気がして言葉が紡げないでいる双葉に対し、雨音は繋いている手を上げて得意げに笑った。
「ああ、昨日プロポーズもしたからね」
その途端、叶野が大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
婚儀はあくまで当主が襲名するために必要だっただけで、結婚相手となると双葉は久我家には相応しくないと考えているのかもしれない。双葉の思考はどんどん沈んでいく。親切にしてくれた叶野に暴言を吐かれたら泣いてしまうかもしれない。双葉は傷が少しでも浅いように身構えた。
「結婚式はいつにしますか?」
双葉の予想に反して叶野は目を煌めかせて感動していた。
「双葉様の衣装はぜひ私に選ばせてください」
逸る気持ちを抑えられないといった風に叶野が早口で言う。雨音が窘めるように首を振った。
「気が早い。まだ答えはもらってないんだ」
「そうだったんですね。雨音様、答えをもらっていないのにプロポーズしたなどと吹聴してはいけませんよ。勘違いする方もいらっしゃいます」
「そうだね」
叶野が窘めたが、雨音が気にした様子もなく双葉の髪に顔を寄せた。
雨音は後からやって来た真澄や他の女中にも同じことを言い、食事を完食する頃には久我家の中で双葉がプロポーズされたのを知らない者はいなくなっていた。
「外堀を埋められていますね」
隣に来た女中がこっそりと言った。その女性は女中の中で一番小柄で、婚儀の際に化粧を施してくれた狐だ。
「外堀?」
「断られないように周りから囲っているんですよ。双葉様、嫌なら断っても良いんですよ。決定権は双葉様にありますからね」
どういう意味かは分からなかったが、選択権を与えられていることは分かった。
断ってもいいと言われたが、どうしていいかわからない。結婚したいかと問われると首を傾げてしまうし、かといって断りたいわけではない。ただどうしても雨音と釣り合わないと思ってしまうのだ。自身の思考に没入していた双葉は雨音の声にはっとした。
「買い物に付き合ってくれない?」
「私とですか?」
「勿論。デートに行こう」
にこやかに頷かれながら言われた一言に緊張感がぶり返した。
「で、デート」
デートをするなど人生で初めての体験だ。
「嫌?」と首を傾げられ、慌てて否定する。
「嫌なんかじゃありません。でも、私はあまり買い物とかお出かけをしないので、一緒にいてもつまらないかもしれません」
「そんなことはない。双葉は俺と一緒にいて退屈だと感じるか?」
「感じるわけないです」
双葉の答えがお気に召した様子で雨音がにこやかに笑う。
「俺も一緒だ。つまらないなんて思わないよ。さて、それじゃあ行こうか」
雨音と双葉は食事を終えると、雨音の車で出かけた。
出かけた先は駅前のデパートだった。
双葉はデパートに来るのが初めてだったので、店内できょろきょろと落ち着きなく辺りを見回しながら歩く。
「何か、欲しい物があるのですか?」
隣を歩く雨音に声をかけると、雨音は「向こうに」と言いながら双葉の手を引く。
そこはアクセサリーの店だった。
ピアスやネックレスの他に、どこにつけるのか分からない不思議な形状のものまで売っている。
可愛くてキラキラしているアクセサリーなどつけたこともない双葉は興味津々にアクセサリーを見つめるが、手に取ろうとはしなかった。そんな双葉をじっと見つめていた雨音がその中からひとつ手に取って双葉に見せた。
「これなんか双葉に似合うと思う」
雨音の手には透けるような桃色の花飾りが付いたヘアゴムだった。
そんな綺麗なヘアゴム似合うわけがないと思うが、否定すると雨音のセンスを疑っていることになる気がして何も言えなくなってしまう。
「買ってくる」
雨音がレジに向かおうとするので慌ててその腕を取って止めた。
「ま、待ってください。そんな、申し訳ないです」
「俺が送りたいんだけど、駄目? いらない?」
雨音は甘えるように小首を傾げる。その姿に双葉はうっと言葉を詰まらせる。
その顔をされるとつい駄目じゃないと言ってしまいそうになるが、無駄遣いをさせるわけにはいかないと自身を奮い立たせる。
「着ける時がないですし」
「俺の前で着けてくれればいい」
間髪入れずに答えられる。
「わ、私には似合いません」
「双葉が似合わないなら誰も似合わないよ」
そんなわけない。そう思ったが、雨音の真剣な顔を見て本気なのだと察した。
そして、恐らく双葉が何を言っても購入する流れるなることも分かった。
「駄目か?」ともう一度聞かれ、今度は否定できず「駄目じゃないです」と答えた。
「じゃあ、買ってくる。ここで待っていてくれ」
「はい。ありがとうございます」
雨音がレジへ向かう。
まさか買ってもらうことになるとは思わなかった。申し訳ない気持ちと少しだけ、嬉しくなった。似合う気はしないが、あんな綺麗なら眺めているだけでも満足しそうだ。
そう思いながら、出来心でそろりと値段を確認した。
「え」
ぎょっと目を剥く。
予想よりも丸が一個多い。デパートの商品は高いと聞いたことがあるが、ここまで高いなんて考えもしなかった。
どうしよう。やはり買うのを止めた方がいいだろうか。
そうレジに立つ雨音に視線を向けた時、不意にひそひそと声が聞えて来た。
「あの人かっこいい」
「ね、でもさっき、女の人といたよ。ほら、あの人」
そんなことを囁いている女性ふたりがかっこいいと噂しているのは、レジに並ぶ雨音のことだ。次に女性達の視線は双葉の方を向いた。急に視線を向けられ、そっと俯く双葉の耳に信じられにといった様子の声が入ってきた。
「ええ、あれが彼女? ださ」
「妹とか? 顔違いすぎるか。え、本当に彼女なら釣り合ってなさすぎでしょ」
嘲笑うような言葉の数々にかっと顔が赤くなる。
釣り合っていない。その通りだ。
雨音は誰が見ても美しい見た目をしているのに関わらず、双葉はどこまでも凡庸、いやそれ以下だ。
周りをよく見ると店にいる人は皆着飾っていて、自信に満ち溢れている。そして、その中には雨音に熱い視線を向ける人もいた。
彼女のような人達ならば雨音に釣り合っているのだろう。彼女達と真逆を生きる自分はこの場にいるのすら場違いな気がした。
「あれ、双葉ちゃんじゃん?」
自身の名前を呼ばれ、はっとして視線を向けた。
そこには数人の男女が立っていた。私服だったので一瞬誰か分からなかったが、すぐにクラスメイトだと気が付く。中には罰ゲームで告白をしてきた田辺やその友人達もいた。
「えー、こんな所で何してんの? 双葉ちゃん」
双葉ちゃん、なんていつもは呼ばれない呼び方に口元が引きつる。
こんな所で会うなんて思っていなかった。
「え、無視?」
女子生徒の馬鹿にしたような言い方に慌てて口を開く。
「人と買い物に」
「え、愛華ちゃんと?」
「いえ、違います」
否定すると分かりやすく落胆の空気が広がる。
「なんだよ、愛華ちゃんいると思ったのに」
ああ、そうか。と双葉は納得した。
親しくもないク双葉に話しかけた理由は愛華目当てだったからだ。愛華と双葉が一緒に買い物になんて行くわけがないのに。
「ていうか、アクセサリー何てつけるの? 篤、買ってあげたら?」
クラスメイト達の視線が田辺へ向けられた。すると田辺は嫌そうに顔を顰める。
「は? なんで買わないといけないんだよ」
「お前ん家、金持ちなんだからいいじゃん」
「いいわけないだろ」
友人の言葉に田辺がため息を吐く。
「あはは、あんまり揶揄うと可哀想だよ。罰ゲームの告白も真に受けちゃうような子だよ?」
乾いた笑いが辺りを包んだ。
何故笑われているのか、何が面白いのかまったくわからなかった。それは罰ゲームの告白すら真面目に答えてしまう双葉が悪いのだろうか。
「ていうか良かったんじゃない? 告白なんて今後されることないでしょ? 記念にしなよ」
見下した視線や口調に視線が下がる。反論も出来ない双葉を嘲笑する声がする。
悔しい、恥ずかしい。ここからいなくなりたい。そう双葉が唇を噛みしめた時だった。
「双葉、待たせてごめんね」
ふわりと腰を抱かれた。
驚いて視線を向けると会計を終えた雨音が双葉に向かって微笑んでいた。
「暗い顔してどうしたの? 寂しかった?」
「えっと」
言葉が出て来ない双葉を残して雨音の視線はクラスメイト達に向けられた。
「誰?」
底冷えするような冷たい声に驚く。怒りを含んだそれが双葉に向けられたものではないことは分かったのに、ぞくりとした。
視線を向けられたクラスメイト達が強張った顔をしていたが、双葉を揶揄って遊んでいた筆頭の生徒は取り繕う様に口元に笑みを浮かべた。
「ええ、なんすか、もしかして双葉ちゃんの彼氏?」
「そんなわけないじゃん」
女子生徒が顔をぽっと赤くさせて否定する。
何故双葉ではなく事情も知らない生徒が答えるのか分からず首を捻る双葉。
「彼氏って言うか、婚約者」
雨音が何でもないように答えた。
「え」
驚いたのは生徒だけではなく、双葉もだった。
プロポーズはされたが、婚約した覚えは全くない。これが外堀を埋められるということだろうか。
「え、釣り合ってない」
思わずといった風に誰かが言った。その途端、雨音の顔に分かりやすく怒りが見えた。
「は? 誰に向かって言ってんの、お前」
空気が冷たく、張り詰める。
雨音が再び口を開こうとした途端、生徒達は顔を青ざめて蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。
「ちっ、逃げ足だけは早いな」
雨音は舌打ちをしてすぐに腕の中にいる双葉を心配そうに見下ろす。
「遅くなってごめん、なんともない?」
「大丈夫です。慣れているので」
口に出してから言うべきではなかったと思った。雨音の顔には剣呑な表情が浮かんでいた。
「慣れているって、どういうこと?」
「えっと」
「ああいったことが日常的にあるの?」
詰め寄られ、誤魔化すことが出来なかった双葉は仕方なく話すことにした。しかしデパート内で話し込むわけにはいかないので、そのまま帰宅した。
「さあ、話してもらおうか」
そうやって正座をする雨音に双葉は罰ゲームで告白をされ、それ以降執拗に揶揄われるようになったと打ち明けた。
話している最中雨音の顔はずっと凶悪で、怒りが自分に向けられているわけでもないのに双葉は縮こまった。
「そうか」
聞き終わった雨音は低くそう言った後、にこりと微笑んで腰を上げた。
「双葉、ちょっと出て来るから待っていてくれるか?」
「え? ど、どこへ?」
笑顔なのに纏う雰囲気には怒りを隠せていない。冷や汗を掻きながら問うと雨音は何でもないように言った。
「大丈夫、ちょっとあのガキども消してくるだけだから」
全然大丈夫ではない。
「ちょっと待ってください。だめ、だめです!」
「ちゃんと証拠は残らないようにするから安心して任せてくれ」
「何も安心できないです!」
部屋から出て行こうとする雨音の腕に縋りついて止める。
「嘘の告白だって分からなかった私が悪いんです。自分が告白を受けるわけないのに自意識過剰だったから」
そう双葉が言った途端、雨音がぎゅっと顔を顰めた。そして双葉の傍に腰を下ろすと目線を合わせる。
「双葉が悪いわけない。罰ゲームなんかで告白した挙句、馬鹿にするなんて言語道断だ。双葉は何も悪くないから、自分が悪いなんて言わないで」
さらりと頬を撫でられる。
雨音はそう言うけれど、クラスメイトも愛華も、そして叔母さん達も双葉がおかしいと言うのだ。簡単に頷けない。
「告白は好きな人にするものだよ。双葉は真摯に対応しただけで馬鹿にされていいわけない」
優しく諭され、双葉はきゅっと口を引き結んだ。
雨音の優しい言葉がただただ嬉しかった。自分を否定しないでいてくれるのは有り難かった。
「今度何か言われたり、されたらすぐに言うんだよ。俺がすぐに相手を消してやるからね」
なんて怖いことを言うのは止めて欲しい。双葉は首を振った。
「もう大丈夫です」
何を言われても雨音の言葉を思い出せば、何を言われても平気な気がした。
ここどこだっけ、と不思議に思ったのは一瞬で、すぐにじわじわと昨夜の記憶が蘇って来る。
庭園で雨音に結婚を申し込まれた。幻想的な光景も相まって現実とは思えなかったが、抱きしめられた感触も手を繋いだ時の体温も覚えている。まさか自分なんかがプロポーズされるなんて想定していなかった。
予定外のことばかりで、昨日はすっかり疲れてしまったらしく、眠りは深かった。
はっとして時計を確認する。時刻は既に八時を回っていた。いつも六時には目を覚ましている双葉からしたら二時間の寝坊である。飛び起きたタイミングで襖の外から声がかかった。
「双葉様、おはようございます」
叶野の声だ。
「おはようございます、あの、すみません、起きるのが遅くなってしまって」
「遅くないですよ。もっとゆっくりしていてください。着替えをお持ちしましたので、部屋の前に置いておきますね」
「はい、ありがとうございます」
ぼさぼさの髪を手で梳かしながら応答する。こんな姿で人前に出るわけにはいかないので叶野の気遣いは有り難かった。襖を開けるともう既に叶野の姿はなく、部屋の前にぽつんと薄ピンクのワンピースが置いてあるだけだ。
ワンピースは滑らかな肌触りで一目で質が良いとわかるものだ。双葉の私服は全部愛華のおさがりなので、自分のために用意された服を着るのは制服以来だ。緊張しながら袖に腕を通す。無駄な装飾の無いさらりとしたワンピースで、腰のところでふんわり広がっている可愛らしいシルエットをしている。長さも脛まであり綺麗目な印象だ。
「可愛い」
思わずぽつりと零した、その時。
「双葉、おはよう。起きているか?」
襖越しに聞こえて来た雨音の声にびくりと肩は跳ねた。
「は、はい。おはようございます。起きています」
「入ってもいいか?」
「えっ」
双葉は自身の姿を顧みた。
服は着替えているが、顔は洗っていないし、髪もまとまっていない。それに布団が敷きっぱなしで恥ずかしい。こんな姿では会えない。
「ちょっと待ってください、まだ、起きたばかりで身だしなみが全然整っていなくて、それに布団も」
「布団は叶野達は片付けるからそのままでいい。一緒に朝食へ行こうと思って声をかけたんだけど、無理そう?」
残念がる声色に双葉は慌てた。
恥ずかしいからと突っぱねるのは失礼にあたるのではないか。しかし、いつもよりもずっとぐちゃぐちゃの見た目で現れたら幻滅されそうで怖い。その葛藤の末、双葉は言葉を搾り出した。
「朝食の前に、顔を洗って来ても良いですか?」
「勿論。場所の案内をしよう。おいで」
叶野か、別の女中に案内してほしかったが、そんな我儘は言えず、意を決して襖を開けた。恐る恐る視線をあげると穏やかに微笑む雨音と目が合った。
「よく眠れた?」
不意に伸びて来た手が双葉の髪を掬い、耳に掛ける。明らかに寝起きな双葉の顔には何も言わずに雨音の視線は着ているワンピースに向けられた。
「その服、良く似合っている。可愛い」
頬をくすぐるように撫でられ、居た堪れなさでかっと顔が赤くなった。
赤面した顔を見られたくなかったので、俯いて顔を隠す。雨音は最後に頭を一撫でして手を離した。接触がなくなり安堵の息を吐く双葉の手に熱が降れ、指が絡まる。
「行こう」
指先をきゅっと握られ、鼓動が早すぎて倒れてしまいそうだった。
久我家に来てから叔母の家にいた時とは違う意味で心が休まる時間が無い。
雨音に手を引かれて行った洗面所で顔を洗うとすっきりした。てきぱきと身だしなみを整え、洗面所の前で待っていた雨音と昨日食事をとった部屋に向かった。机の上には既に料理が並べられ、にこにこと笑顔の叶野がお盆を持って立っていた。
「叶野さん、おはようございます。朝食を用意していただきありがとうございます」
「頭を上げてください。私達は当然のことをしているだけですよ」
叶野は尚もにこにこしている。その視線が繋がれている双葉と雨音の手に向けられていることに気が付く、慌てて離そうとした。しかし、雨音にぎゅっと手を握られて阻止される。
「仲が良いようで安心いたしました」
「あ、いえ、これは」
否定、するのも変な気がして言葉が紡げないでいる双葉に対し、雨音は繋いている手を上げて得意げに笑った。
「ああ、昨日プロポーズもしたからね」
その途端、叶野が大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
婚儀はあくまで当主が襲名するために必要だっただけで、結婚相手となると双葉は久我家には相応しくないと考えているのかもしれない。双葉の思考はどんどん沈んでいく。親切にしてくれた叶野に暴言を吐かれたら泣いてしまうかもしれない。双葉は傷が少しでも浅いように身構えた。
「結婚式はいつにしますか?」
双葉の予想に反して叶野は目を煌めかせて感動していた。
「双葉様の衣装はぜひ私に選ばせてください」
逸る気持ちを抑えられないといった風に叶野が早口で言う。雨音が窘めるように首を振った。
「気が早い。まだ答えはもらってないんだ」
「そうだったんですね。雨音様、答えをもらっていないのにプロポーズしたなどと吹聴してはいけませんよ。勘違いする方もいらっしゃいます」
「そうだね」
叶野が窘めたが、雨音が気にした様子もなく双葉の髪に顔を寄せた。
雨音は後からやって来た真澄や他の女中にも同じことを言い、食事を完食する頃には久我家の中で双葉がプロポーズされたのを知らない者はいなくなっていた。
「外堀を埋められていますね」
隣に来た女中がこっそりと言った。その女性は女中の中で一番小柄で、婚儀の際に化粧を施してくれた狐だ。
「外堀?」
「断られないように周りから囲っているんですよ。双葉様、嫌なら断っても良いんですよ。決定権は双葉様にありますからね」
どういう意味かは分からなかったが、選択権を与えられていることは分かった。
断ってもいいと言われたが、どうしていいかわからない。結婚したいかと問われると首を傾げてしまうし、かといって断りたいわけではない。ただどうしても雨音と釣り合わないと思ってしまうのだ。自身の思考に没入していた双葉は雨音の声にはっとした。
「買い物に付き合ってくれない?」
「私とですか?」
「勿論。デートに行こう」
にこやかに頷かれながら言われた一言に緊張感がぶり返した。
「で、デート」
デートをするなど人生で初めての体験だ。
「嫌?」と首を傾げられ、慌てて否定する。
「嫌なんかじゃありません。でも、私はあまり買い物とかお出かけをしないので、一緒にいてもつまらないかもしれません」
「そんなことはない。双葉は俺と一緒にいて退屈だと感じるか?」
「感じるわけないです」
双葉の答えがお気に召した様子で雨音がにこやかに笑う。
「俺も一緒だ。つまらないなんて思わないよ。さて、それじゃあ行こうか」
雨音と双葉は食事を終えると、雨音の車で出かけた。
出かけた先は駅前のデパートだった。
双葉はデパートに来るのが初めてだったので、店内できょろきょろと落ち着きなく辺りを見回しながら歩く。
「何か、欲しい物があるのですか?」
隣を歩く雨音に声をかけると、雨音は「向こうに」と言いながら双葉の手を引く。
そこはアクセサリーの店だった。
ピアスやネックレスの他に、どこにつけるのか分からない不思議な形状のものまで売っている。
可愛くてキラキラしているアクセサリーなどつけたこともない双葉は興味津々にアクセサリーを見つめるが、手に取ろうとはしなかった。そんな双葉をじっと見つめていた雨音がその中からひとつ手に取って双葉に見せた。
「これなんか双葉に似合うと思う」
雨音の手には透けるような桃色の花飾りが付いたヘアゴムだった。
そんな綺麗なヘアゴム似合うわけがないと思うが、否定すると雨音のセンスを疑っていることになる気がして何も言えなくなってしまう。
「買ってくる」
雨音がレジに向かおうとするので慌ててその腕を取って止めた。
「ま、待ってください。そんな、申し訳ないです」
「俺が送りたいんだけど、駄目? いらない?」
雨音は甘えるように小首を傾げる。その姿に双葉はうっと言葉を詰まらせる。
その顔をされるとつい駄目じゃないと言ってしまいそうになるが、無駄遣いをさせるわけにはいかないと自身を奮い立たせる。
「着ける時がないですし」
「俺の前で着けてくれればいい」
間髪入れずに答えられる。
「わ、私には似合いません」
「双葉が似合わないなら誰も似合わないよ」
そんなわけない。そう思ったが、雨音の真剣な顔を見て本気なのだと察した。
そして、恐らく双葉が何を言っても購入する流れるなることも分かった。
「駄目か?」ともう一度聞かれ、今度は否定できず「駄目じゃないです」と答えた。
「じゃあ、買ってくる。ここで待っていてくれ」
「はい。ありがとうございます」
雨音がレジへ向かう。
まさか買ってもらうことになるとは思わなかった。申し訳ない気持ちと少しだけ、嬉しくなった。似合う気はしないが、あんな綺麗なら眺めているだけでも満足しそうだ。
そう思いながら、出来心でそろりと値段を確認した。
「え」
ぎょっと目を剥く。
予想よりも丸が一個多い。デパートの商品は高いと聞いたことがあるが、ここまで高いなんて考えもしなかった。
どうしよう。やはり買うのを止めた方がいいだろうか。
そうレジに立つ雨音に視線を向けた時、不意にひそひそと声が聞えて来た。
「あの人かっこいい」
「ね、でもさっき、女の人といたよ。ほら、あの人」
そんなことを囁いている女性ふたりがかっこいいと噂しているのは、レジに並ぶ雨音のことだ。次に女性達の視線は双葉の方を向いた。急に視線を向けられ、そっと俯く双葉の耳に信じられにといった様子の声が入ってきた。
「ええ、あれが彼女? ださ」
「妹とか? 顔違いすぎるか。え、本当に彼女なら釣り合ってなさすぎでしょ」
嘲笑うような言葉の数々にかっと顔が赤くなる。
釣り合っていない。その通りだ。
雨音は誰が見ても美しい見た目をしているのに関わらず、双葉はどこまでも凡庸、いやそれ以下だ。
周りをよく見ると店にいる人は皆着飾っていて、自信に満ち溢れている。そして、その中には雨音に熱い視線を向ける人もいた。
彼女のような人達ならば雨音に釣り合っているのだろう。彼女達と真逆を生きる自分はこの場にいるのすら場違いな気がした。
「あれ、双葉ちゃんじゃん?」
自身の名前を呼ばれ、はっとして視線を向けた。
そこには数人の男女が立っていた。私服だったので一瞬誰か分からなかったが、すぐにクラスメイトだと気が付く。中には罰ゲームで告白をしてきた田辺やその友人達もいた。
「えー、こんな所で何してんの? 双葉ちゃん」
双葉ちゃん、なんていつもは呼ばれない呼び方に口元が引きつる。
こんな所で会うなんて思っていなかった。
「え、無視?」
女子生徒の馬鹿にしたような言い方に慌てて口を開く。
「人と買い物に」
「え、愛華ちゃんと?」
「いえ、違います」
否定すると分かりやすく落胆の空気が広がる。
「なんだよ、愛華ちゃんいると思ったのに」
ああ、そうか。と双葉は納得した。
親しくもないク双葉に話しかけた理由は愛華目当てだったからだ。愛華と双葉が一緒に買い物になんて行くわけがないのに。
「ていうか、アクセサリー何てつけるの? 篤、買ってあげたら?」
クラスメイト達の視線が田辺へ向けられた。すると田辺は嫌そうに顔を顰める。
「は? なんで買わないといけないんだよ」
「お前ん家、金持ちなんだからいいじゃん」
「いいわけないだろ」
友人の言葉に田辺がため息を吐く。
「あはは、あんまり揶揄うと可哀想だよ。罰ゲームの告白も真に受けちゃうような子だよ?」
乾いた笑いが辺りを包んだ。
何故笑われているのか、何が面白いのかまったくわからなかった。それは罰ゲームの告白すら真面目に答えてしまう双葉が悪いのだろうか。
「ていうか良かったんじゃない? 告白なんて今後されることないでしょ? 記念にしなよ」
見下した視線や口調に視線が下がる。反論も出来ない双葉を嘲笑する声がする。
悔しい、恥ずかしい。ここからいなくなりたい。そう双葉が唇を噛みしめた時だった。
「双葉、待たせてごめんね」
ふわりと腰を抱かれた。
驚いて視線を向けると会計を終えた雨音が双葉に向かって微笑んでいた。
「暗い顔してどうしたの? 寂しかった?」
「えっと」
言葉が出て来ない双葉を残して雨音の視線はクラスメイト達に向けられた。
「誰?」
底冷えするような冷たい声に驚く。怒りを含んだそれが双葉に向けられたものではないことは分かったのに、ぞくりとした。
視線を向けられたクラスメイト達が強張った顔をしていたが、双葉を揶揄って遊んでいた筆頭の生徒は取り繕う様に口元に笑みを浮かべた。
「ええ、なんすか、もしかして双葉ちゃんの彼氏?」
「そんなわけないじゃん」
女子生徒が顔をぽっと赤くさせて否定する。
何故双葉ではなく事情も知らない生徒が答えるのか分からず首を捻る双葉。
「彼氏って言うか、婚約者」
雨音が何でもないように答えた。
「え」
驚いたのは生徒だけではなく、双葉もだった。
プロポーズはされたが、婚約した覚えは全くない。これが外堀を埋められるということだろうか。
「え、釣り合ってない」
思わずといった風に誰かが言った。その途端、雨音の顔に分かりやすく怒りが見えた。
「は? 誰に向かって言ってんの、お前」
空気が冷たく、張り詰める。
雨音が再び口を開こうとした途端、生徒達は顔を青ざめて蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。
「ちっ、逃げ足だけは早いな」
雨音は舌打ちをしてすぐに腕の中にいる双葉を心配そうに見下ろす。
「遅くなってごめん、なんともない?」
「大丈夫です。慣れているので」
口に出してから言うべきではなかったと思った。雨音の顔には剣呑な表情が浮かんでいた。
「慣れているって、どういうこと?」
「えっと」
「ああいったことが日常的にあるの?」
詰め寄られ、誤魔化すことが出来なかった双葉は仕方なく話すことにした。しかしデパート内で話し込むわけにはいかないので、そのまま帰宅した。
「さあ、話してもらおうか」
そうやって正座をする雨音に双葉は罰ゲームで告白をされ、それ以降執拗に揶揄われるようになったと打ち明けた。
話している最中雨音の顔はずっと凶悪で、怒りが自分に向けられているわけでもないのに双葉は縮こまった。
「そうか」
聞き終わった雨音は低くそう言った後、にこりと微笑んで腰を上げた。
「双葉、ちょっと出て来るから待っていてくれるか?」
「え? ど、どこへ?」
笑顔なのに纏う雰囲気には怒りを隠せていない。冷や汗を掻きながら問うと雨音は何でもないように言った。
「大丈夫、ちょっとあのガキども消してくるだけだから」
全然大丈夫ではない。
「ちょっと待ってください。だめ、だめです!」
「ちゃんと証拠は残らないようにするから安心して任せてくれ」
「何も安心できないです!」
部屋から出て行こうとする雨音の腕に縋りついて止める。
「嘘の告白だって分からなかった私が悪いんです。自分が告白を受けるわけないのに自意識過剰だったから」
そう双葉が言った途端、雨音がぎゅっと顔を顰めた。そして双葉の傍に腰を下ろすと目線を合わせる。
「双葉が悪いわけない。罰ゲームなんかで告白した挙句、馬鹿にするなんて言語道断だ。双葉は何も悪くないから、自分が悪いなんて言わないで」
さらりと頬を撫でられる。
雨音はそう言うけれど、クラスメイトも愛華も、そして叔母さん達も双葉がおかしいと言うのだ。簡単に頷けない。
「告白は好きな人にするものだよ。双葉は真摯に対応しただけで馬鹿にされていいわけない」
優しく諭され、双葉はきゅっと口を引き結んだ。
雨音の優しい言葉がただただ嬉しかった。自分を否定しないでいてくれるのは有り難かった。
「今度何か言われたり、されたらすぐに言うんだよ。俺がすぐに相手を消してやるからね」
なんて怖いことを言うのは止めて欲しい。双葉は首を振った。
「もう大丈夫です」
何を言われても雨音の言葉を思い出せば、何を言われても平気な気がした。