次の日の学校は、人の視線が気になって仕方がなかった。
 クラスメイトが双葉を見てこそこそと噂話をしているのが視線の端に映る。告白なんてされるわけないのに自惚れるなんて身の程知らずという声が聞こえてきて、どんどん気分が沈んでいった。
 きっとクラス中に話が広まっているのだろう。早く帰りたくて仕方がなかった。
 黙々と授業を熟し、帰りのホームルームが終わってチャイムがなった瞬間に足早に教室を飛び出した。そこから家に帰る気にはなれず、しかし寄り道などしたことが無い双葉はどこへ行けばいいのか分からなかった。ぼんやりと歩き、目に着いたバスの停留所に腰を下ろした。人気のないバス停はしんと静まり返っている。時刻表を見るとバスは五分前に行ってしまっていた。
 行くあてなどない。ただ、人のいない所へ行きたかった。家にも帰りたくなかった。
 摩耗した心を労わる様に息を吐く。
「はあ」と零したため息が誰かの者と重なった。
 隣から聞こえて来た声に視線だけを向け、
「え」
 固まった。
 双葉の視線の先、バスの時刻表が書かれている看板を挟んだ先にあるベンチに大きな生き物が座っていた。
「ん?」
 双葉の声に反応したようで、それが双葉の方を見た。
 それは、大きく白い狐だった。目が綺麗な緑色でまるで宝石をはめ込んだみたいに綺麗な色をしている。
「やば、人がいるの気が付かなかった」
 狐は口を開き、参ったと言いながら乱雑に頭を掻いた。見た目は狐そのものなのに、その動きは人間のそれだ。
 着ぐるみかと思い、目を凝らす。着ぐるみにしては成功過ぎるし、何より何度も瞬きを繰り返している。つまり、本物だ。
「き、狐?」
「うん、そう。狐だよ」
 狐は呑気に欠伸をしながら答えた。どうでも良さそうな様子にパニックに陥りそうだった思考が少しづつ冷静になって行く。
「えっと、突然変異とかですか?」
「ぶはっ、あはは、違う違う」
 双葉の言葉がおかしかったのようで、狐はけらけらと笑った。
「毒気が抜けるな。久しぶりに笑った気がする」
 狐はぐうっと手を上げると伸びをした。先程のため息といい、どうやら相当お疲れらしい。
「えっと、お疲れ様です」
 目の前の光景は信じられないが、夢か何かだろうと勝手に納得させた。
「あのさ、ここで会ったのも何かの縁だと思って愚痴を聞いてくれない?」
 狐の表情の変化は人間よりも分かりづらいが、何となく嫌なことがあったのだろうなと分かった。
「私でよければ」
 話をして楽になるのなら。双葉は狐に向き直って話を聞く体制になった。
「ありがとう。俺ね、ちょっと特殊な生まれで、家を継ぐためには結婚しないといけないんだけど、結婚するのに試練みたいなものがあって、それが中々上手く行かないんだよね」
「試練……」
 結婚するために試練を受けないといけないとは、中々壮絶な家系のようだ。 
「そう。婚約者はわんさかいるんだけど、どれも失敗。ちなみに連続十人失敗中」
「じゅ、じゅうにん?」
 十人の婚約者を侍らず狐の想像が脳裏に浮かぶ。狐の世界の話は詳しくないが、一夫多妻制なのだろうか。いや、婚約しているだけなのだから一夫多妻とは違いのかもしれない。
「それで流石に疲れて逃げて来ちゃった。本当は結婚なんてしたくないし」
 ぽつりと零された言葉に両親の様な仲のいい夫婦になりたいと願っている双葉はぴくりと反応した。
「どうしてですか?」
「女なんて皆、俺の顔か金目当てだから」
 端的な口調だが、その声は苦し気でうんざりしていた。きっと苦労しているのだろう。
 狐の中ではとんでもなく美形なのかもしれないと横顔を見ながら思う。
「そうですかね」
「ん?」
「結婚って家族になるってことですよね? 顔とかお金がとかだけで選びますか? もしかしたらそういった理由もあるかもしれないけど、貴方が魅力的だから結婚したいと思うんじゃないですか?」
 狐はぽかんと口を開けた後、ゆっくりと首を捻った。
「顔と金以外に? 魅力が?」
「はい」
「例えば?」
 今会ったばかりの狐の魅力的な所、と聞かれても咄嗟に出て来ない。しかい答えないと『やっぱり魅力何てないんだ』となってしまいかねない。
「お、面白いとか、明るいとか」
「俺って面白い? ていうか、そんなことが魅力になるの?」
「なります!」
 双葉は自信を持って言った。
「私の父は母の明るくてよく笑う所が好きだと言っていました。逆に母は父の穏やかな口調が好きだと言っていました。私もふたりのそんあ所が大好きでした。なので、人の魅力って人それぞれというか、どこを魅力的に感じるかって人によると思うんです。人にとってはくだらない所でも、その人にとっては素晴らしく感じるんじゃないでしょうか」
 そこまで口にして、はっとした。
 ぺらぺらと無遠慮に喋ってしまった。
「す、すみません。貴方の事情を少しもわからないのに」
「いや。俺に擦り寄って来た奴らは金や地位が目的だったって意見は変わらないけど、貴方が違うことはわかったよ」
 狐はにやりと大きな口元に笑みを浮かべた。
 そして、何だか観察するように双葉に視線を向けて来る。
「あの」
「君、名前は?」
 唐突な質問に反射的に答えた。
「作野、双葉です」
「双葉、双葉ね。俺は久我雨音。あのさ、ちょっと相談があるんだけど、良い?」
 狐――改め久我雨音は噛みしめるように何度か双葉の名前を口にしたあと、窺うように首を傾げた。
「何ですか?」
 雨音の表情が真剣なものに変わり、双葉は身を固くしながら雨音の言葉に耳を傾けた。
「俺と結婚してくれない?」
「……え?」
 一瞬、幻聴かと思った。それぐらい双葉とは無縁の言葉が聞えた気がした。
「え、っと、すみません、何と言いました?
「俺と結婚してほしい」
 重ねて告げられた言葉は、聞き間違いかと思ったものと同じだった。
 理解が追いつかず固まる双葉を置いて雨音は話を進める。
「俺の家が特殊で当主になるには結婚しないといけないって話をしたよね? 失敗続きでこのままだといつまでたっても当主になれない。それどころか、もうひとつ大きな問題があるんだ」
 雨音は視線を空へ向けた。
「当主が決まらないと俺達は力の制御ができない」
「ど、どういうことですか? 力って」
 雨音が喋るたびに双葉に混乱は加速していく。
「全部、説明する。信じられないかもしれないけど聞いて欲しい。俺は普通の狐じゃない。妖狐というあやかしだ」
「あやかし?」
「妖怪って言えばわかる? 鬼とか天狗とかは知っている?」
 双葉が頷く。
「俺達あやかしは人間にとって幽霊みたいな存在かもしれないけど、実際は人間に紛れて暮らしているんだ」
「人に紛れて? そ、その姿でですか?」
 信じられない話だが、不思議と嘘だとは思わなかった。
 この姿で人の中で生きていくのは苦労が絶えないだろうな、と同情心が沸く。しかし雨音はあっさり首を振った。
「違う。いつもは人間の姿に化けている。今、狐の姿なのは力の制御が出来ていないからなんだ。妖狐などの強いあやかしは当主とその花嫁の結びつきによって力の制御を行う。だから一刻も早く婚儀を済ませて当主にならないといけないんだが……俺はその婚儀を失敗し続けている。
 雨音は大きなため息を吐いた。
「婚儀なんて正直誰でもいいのに、どうしてか成功しない」
 膝の腕を拳を握り吐き出される言葉には口惜しさや焦りが滲んでいる。
 その姿にどう声をかけていいか分からず、おろおろしていると、雨音が顔を上げた。
「そこで、貴方に結婚してほしい」
「どうしてそんな話に? 私はあやかしではありませんし、力の制御なんてできないです」
 話を聞いて雨音が抱えている焦燥感は理解できたが、だからといって協力何てできないと首を振る。
「婚儀の間があやかしである必要はない。それに力の制御に花嫁の力量などは関係ないから安心してほしい。あ、あと婚儀といっても普通の結婚とは別物だから安心して。法的に縛るものじゃないし、結婚は別の人としてもらってもいい。他に質問はある? なんでも聞いて」
「えっと」
「お願いだ。力を貸してほしい」
 じっと縋るような視線を向けられ、双葉はさっと目を逸らした。
「わ、私には務まらないです」
「そんなことない」
 突然、雨音が立ち上がり、双葉の前で膝をついた。そして双葉の膝に置かれていた手を大きな手で握った。
「貴方に断られたら、もうどうしていいか分からない。お願い。俺を助けると思って」
 切実な声にうっと言葉が詰まる。
 駄目押しとばかりにきゅるんと涙で潤んだ瞳で見つめられた挙句、くうんと哀れっぽい声で鳴かれて断れる人間なんていないだろう。双葉は無意識に頷いてい。
「いいの?」
「は、はい」
 もう一度こくちろ頷くと眼前にある雨音の目がきゅっと嬉しそうに細められた。
「ありがとう。助かるよ」
 結婚相手なんて大役、自分に務まるはずがないと後悔したがほっとしている雨音を前にして何も言えなくなってしまった。
 すっと雨音が立ち上がり言う。
「早速だけど、婚儀をしに行こう」
「え、今からですか?」
 展開の速さに驚く。心の準備など少しも出来ていないのに雨音はそんなこと関係ないとばかりに頷いた。
「すぐにでも解決したいんだ」
 人として暮らしているのならそう何日も人前に出ないわけにはいかない。雨音の切羽詰った表情を目にし、双葉も立ち上がった。
「そうですよね。わ、わかりました」
 鞄を持ち、雨音の隣に立つ。並ぶとその大きさに改めて戦いた。恐らく二メートル近くある。
 しかし不思議と恐怖は沸いてこなかった。
 雨音はにこりと双葉に笑いかけると、手をとって言った。
「特殊な方法で移動するから目を閉じていて。開けていると気分が悪くなるかもしれないから」
 え、と聞き返すよりも前にぐるりと視界が回った。三半規管が可笑しくなるのを感じ反射的に目を閉じる。胃の中がぐるぐると回る。吐き気を覚えて口を押えると、耳の近くで落ち着いた声がした。
「着いた」
 恐る恐る目を開けると、そこは今までいたバス停ではなかった。
 双葉の目の前には赤い鳥居が立っている。鳥居の周りだけ草ひとつ生えておらず、ぽっかりと空間はできている。辺りを見渡すと木々が生い茂り、山か森の中だとわかる。しかし、それ以外の情報はまるでない。
「な、にここ」
 異様な光景に怖くなって震えながら呟く。
「ここから本家に行けるんだよ」
 はっとして隣を見ると狐の顔があったので、少しだけ冷静になった。先程から夢の様なおかしな状況が続ている。一瞬で奇妙な場所にたどり着いたのもおかしいが、それよりも大きな狐が二足歩行で喋っていることの方が驚きだ。
 あやかし、に関しては何でもありなのかもしれないとどうにか自分を納得させる。
「では行こう。鳥居を越えたらすぐだから」
 雨音が鳥居を越える。双葉も後を追って足を踏み入れた。
 ふっと一気に空気が軽くなった。と、同時に踏みしめたのは山や森の土の癇癪ではなく砂利だった。ざり、と音がして驚きで目を見張ると目の前がぱっと開けた。
「え……」
 そこにあったのは大きな屋敷だった。屋敷の前には紫色の藤が大量に咲き、この世のものではないみたいだ。
 こんな豪奢な平屋は時代劇でしか見たことがない。気圧されて一歩引いた双葉の背をとんと背後に立っていた雨音が押した。
「ようこそ久我家へ」
 にこやかな雨音に対し、双葉が口の端を引きつらせた。
 とんでもないところへ来てしまった。了承したことを後悔し始めた双葉の耳にばたんと大きな音が入り込んできた。音の方へ視線を向けると屋敷の扉から雨音と同じように二足歩行の狐が数匹、顔を出していた。全員色が違う無地の着物を着ている。
「雨音様、おかえりなさいませ」
 一番前にいる薄紫色の着物を身に纏った狐が代表して声をかけると後ろに控えている他の狐達も一斉に頭を下げた。
「ただいま。真澄はいるか?」
「ああ、雨音様! おかえりなさいませ!」
 雨音の声に呼応するように玄関から小柄な狐が出て来た。その表情は明らかに焦っている。
「どこへいってらっしゃったのですか……あの、そちらの方は?」
 小柄な狐が雨音の隣で戸惑いの表情を浮かべる双葉に気が付く。首を傾げた。
 雨音は待ってましたと言わんばかりに口を開く。
「ああ、婚儀の相手を見つけたんだ。今回は成功する」
 雨音の自信ありげな言葉にその場にいた狐達は固まった。
「え、えっと、婚儀のお相手? 雨音様が見つけて来られたのですか?」
「ああ」
 小柄な狐は戸惑いを隠しきれない様子だ。
 それも当然のことだ。突然当主がどこの馬の骨とも分からない小娘を連れて来たのだから反対されるのが普通だ。力の制御のために直ぐにでも婚儀をしなければいけないといっても、素性の分からないものを家の中に入れることはできないだろう。
 そう思い、双葉が一歩を足を引いた。
 しかし、双葉の予想に反してその場にいた狐達は表情を明るくさせ、わいわいと盛り上がり始めた。
「雨音様が婚儀の相手を見つめて来られた!」
「まさかこんなことが起こるなんて!」
「早く婚儀の準備をしなくては」
 ざわめく狐達を小柄な狐が咳ばらいで黙らせ、一歩踏み出すと双葉を正面から見据えた。
「初めまして、私は久我家に使える真澄と申します」
 丁寧な態度に慌てて頭を下げる。
「さ、作野双葉です。よろしくお願いいたします」
 震える声で挨拶をした双葉を真澄は満足そうに見てから、背後に控えている狐達を向かって指示を出し始めた。
「婚儀の準備を行います。皆さんは双葉様の着替えをよろしくお願いします」
「はい、わかりました」
 狐達が一斉に頷く。
 次いで真澄は視線を双葉へ向けて言った。
「双葉様。婚礼の儀を行うための準備に取り掛かってください。大丈夫、心配はいりません。皆さまが全部完璧にしてくださいます。身を任せてください」
「ぎ、儀式って何をすれば」
「大丈夫。難しくないから」
 答えたのは真澄ではなく、雨音だ。
「詳しくは後で説明するから。安心して」
 全く安心などできないのだが、雨音は「また後でね」と言い残し、真澄と共にさっさと屋敷の中に入って行ってしまったのでそれ以上は聞けなかった。
 残された双葉は戸惑う間もなく、ぞろぞろと集まって来た狐に囲まれ手を取られた。温かくてふわふわの毛に包まれると緊張がふっと緩む。肉球が真澄以上にふにふにしていて気持ちが良いと場違いに思った。
「双葉様、初めまして、わたしくは久我家女中頭、叶野と申します。どうぞよろしくお願いします」
 そう頭を下げたのは、先程喋っていた紫色の着物を着ている狐だ。
 叶野と名乗った狐は睫毛が長く、近くで見ると美しい顔をしている。身長は百五十四センチの双葉よりもかなり高い。恐らく百七十はある。もしかしたら真澄よりも高いかもしれない。
 周りの狐も殆どが双葉よりも背が高い。大きな生き物に囲まれ、圧迫感で押しつぶされてしまいそうだ。
「あ、あの、わた、私は何を」
 どうにかそれだけを口にすると叶野は心得ている様子で頷き、双葉の手を引いた。
「説明は向こうで致します。行きましょう」
 屋敷の中へ入る。そこは、まさに時代劇の光景だった。
 まず、玄関が異様に広い。そして、真っ直ぐ伸びた廊下の突き当りは遠すぎて見えない。玄関からでも部屋数が多いのが窺える。
 壺などの装飾品は全て高級感があり、落として壊す想像をして勝手に震えた。
「さあ、こちらです」
 叶野に連れられ廊下を進み、何度か曲がった先の和室へ入った。
「わ、わあ」
 真っ先に目に入ったのは、床に置かれた白い着物だ。よく見ると藤の刺繍があしらわれている。
「これが儀式で着用していただく花嫁衣裳です」
「花嫁衣装……」
 その言葉に着物に見とれていた双葉ははっとした。
 美しい着物をこれから双葉が着るのだと言うが、似合わないのは明らかだ。こういうのは愛華にような華やかな人こそ似あうものだ。自分が着るべきではない。卑下しているわけではなく、ただの事実としてそう認識した。それと同時に自身の場違いさを意識して居心地が悪くなった。
 いくら頼まれたからと言っても断るべきだった。
「双葉様、大丈夫です。そんなに緊張しないで」
 不意に叶野に手を取られた。
「儀式は簡単なものです。大丈夫です」
「いえ、この花嫁衣裳は、私にはとても着こなせません」
 つい弱音を吐くと叶野はうんうんと全てを受けめえるように頷いた後、じっと双葉の目を見つめた。
「そう気負うことはありません。試着程度の気持ちで着ればいいのです。それにわたくしは双葉さんにとてもお似合いだとおもいますよ」
 ねえ、と叶野が周りにいた狐に同意を求めると皆が一斉に頷いた。
「もちろんです、とってもお似合いですよ」
 まだ着ていないのに褒められて双葉は顔を真っ赤にした。
 似合っていないからやめたい、などと言える空気ではない。双葉が困って居るのを分かっているのか、分かっていないのか狐達は双葉の周りを動きまわり、時間が無いからとあれよあれよという間に身ぐるみを剥がされ、あっという間に花嫁衣装に身を包んでいた。
「美しいです、双葉様」
 褒められながら化粧を施される。化粧などしたことない双葉は顔にファンデーションを塗られるのも睫毛を上にぐいぐいと持ち上げられるのも慣れる事無く、がちがちに硬直していた。目の前の鏡に映る自身の顔がどんどん変わって行くのを面白いと思う一歩で、少し怖かった。
 化粧を施した顔は、記憶に残っているおめかしして出かけていた母の顔と似ている。最後に見た母の綺麗に化粧をされた顔を思い出し、少しだけ気分が落ち込む。
「どうされましたか? お気に召しませんでしたか?」
 隣に座っている比較的背の小さい狐に話しかけられ、大丈夫だと首を横に振る。
「あら、ここが腫れていますね」
 昨日愛華にリモコンをぶつけられた場所は赤く腫れている。触らないと痛くないのですっかり忘れていた。
「コンシーラーで赤みは消えるので大丈夫です。少し触れますね、痛かったらおっしゃってください」
「はい、ありがとうございます」
 コンシーラーってなんだろ、と思いながら狐の手を目で追う。
「……魔法みたい」
 綺麗に赤みが消えた額を目にして、ぽつりと零した言葉に狐がふっと口元を綻ばせた。
「お化粧は魔法ですよ。どんな自分にもなれます」
 未完成な顔でもいつもと違うのだから、完成したらいつもの自分とはかけ離れた存在になりそうだ。
 顔が完成していくと、段々と儀式を意識して緊張で汗ばんできた。顔を強張らせる双葉に気が付いた狐が顔を覗き込む。
「緊張していますか? 儀式は難しいものではないですよ」
「そうなんですか?」
 婚姻の儀というのはそんな簡単なものなのだろうか。格式ばったものとばかり思っていたが、周りにいつ女中達は皆一様に首を横に振った。双葉を安心させるために方便の可能性もあるが、難しくないと聞き少しだけ緊張がほぐれた。
「やることは当主様と同じなので隣を盗み見ればいいのですよ」
 叶野に捕捉され、双葉はこくりと頷いた。
「はい、完成しました」
 化粧と着替えを済ませ、鏡に映った自分を見る。花嫁衣装は化粧を施して貰ったおかげか、予想よりも似合っている気がした。これからばみすぼらしいとは思われないだろうと安堵する。
 長い前髪が横に流れているので目が露わになっているので落ち着かない気分になったが、前髪を戻すのは失礼かと思いそのままにしておいた。
「終わりましたか?」
 廊下の方から声がかかり、はっと顔を上げる。
 真澄の声だ。
 叶野が立ち上がり、扉を開ける。扉の前に立っていた真澄は花嫁衣装に身を包んだ双葉に微笑みかけた。
「双葉様、よくお似合いですよ。早速ですが、儀式の間で説明をいたします。こちらへ」
 真澄について行くと大広間に到着した。そこには既に数匹の狐がそわそわと落ち着かない様子で座っている。真澄と双葉が部屋に入ると彼らは顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。
「その人が雨音様が選ばれた方か」
「当主が選んだのなら今度こそ成功するはずだ」
「もう有給が使えないんだ。絶対に成功させてくれ」
 ざわざわと騒ぐ声が狐の方から上がる。
 双葉を吟味するような視線はひとつもなく、ただ只管婚儀の成功を期待しているのが分かる。聞こえて来る声の中には切羽詰っているものもある。
 部屋の中にいる全員の視線を浴び、双葉は何度も頭を下げた。
「は、はじめまして、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 座っていた狐達も双葉に応じた。
「では、儀式の説明をしましょう」
 慌てる双葉を無視して、真澄は徐に歩き出すと大きな屏風の前に腰を下ろした。
「これを見てください」
 真澄の前には大きな皿がふたつ置いてある。外側が黒、内側が赤の盃盛器だ。中は空だ。
「儀式が始まりましたら、ここへ真水を注ぎます。そして当主様と共に水を飲んでください」
「その後は」
「終わりです」
「え?」
 双葉は目をぱちぱちとさせた。
「儀式自体はそこで終わりです。その後、契約の署名をして印を押すだけです」
 簡単だ。水を飲むだけ。それなら雨音を盗み見なくても出来る。
 何だか拍子抜けしたような気分になった。
「ただし、真水と言っても儀式の水は特別です。味が変わります。飲めないと判断したら吐き出してもかまいません」
 真澄は淡々と説明を続ける。
「当主様との相性が悪い場合、水は飲み干せないほど酷い味になり、相性が良い場合のみ甘くなるのです」
「相性、ですか」
「はい。相性が悪いと毒物になったり悪臭を放ったりするらしいので、そうなったら止めてください。縁がなかったと思うしかありません」
 これまで婚儀が全て失敗しているのは全員水がまずくなってしまったかららしい。
 双葉と雨音は今日初めて会ったのだから相性などいいはずがない。つまり、美味しくない可能性の方が高い。集まっている狐達の期待に満ちた目を前に「飲めません」なんてとてもじゃないが言えないので、覚悟して飲まなければいけない。
「説明はここまでです。何かわからないことはありますか?」
 何を質問していいのかすら分からなかったので、首を横に振った。
「大丈夫です」
「では、よろしくお願いします。そろそろ雨音様がいらっしゃいますので、ここに座って待っていてください。リラックスして」
 双葉は言われるまま腰を下ろした。
 それから一分もたたず襖が開き、次々と狐が部屋に入って来る。どの狐も大きい。色は茶色や黒が多く、双葉の前にずらりと座る様子は圧巻だ。
 皆分かりにくいが表情に焦りのような物が見える。中にはあからさまにそわそわと落ち着きがない者もいて全体的に呼気が荒い。不安そうな様子を見ていると不思議と緊張は落ち着き使命感のような物が沸き上がった。
 覚悟を決めるように、ぎゅっと拳を握りしめた時。
 襖が開き、雨音が顔を出した。
 どうやら白い毛色は雨音だけらしく、間違えようがない。それに何故か雨音の顔だけは他との区別がついた。
 雨音は双葉と目が合うとふっと顔を綻ばせたが、すぐに鼻の頭に皺を寄せて怒った顔をした。
「これ、どうした? 赤くなってる」
 隣に座った雨音の手が双葉の額に触れる。そこにはリモコンがぶつかった傷がある場所だ。コンシーラーで綺麗に隠したはずだが、雨音には誤魔化せなかったらしい。
「ぶつけたんです」
「ふうん。痛い?」
「もう痛くないです。言われるまで気づかなかったくらいなので」
 雨音は労わるような優しい手つきで患部を撫でた。
「あとで湿布を貼ろう。放置しているよりかは早く治るはずだ」
「そんな、大丈夫ですよ。もう治ったようなものです」
「いいからいいから」
 遠慮したいのにこれ以上食い下がって不快な気分にさせるのも気が引けて言葉を飲み込んだ。
 すると、一瞬の沈黙を待っていたかのように真澄が口を開く。
「皆様、揃いましたね」
 凛とした格式ばった声に自然と双葉の背筋が正される。
「これよりも婚姻の儀を執り行います」
 真澄の宣言で、近くに控えていた女中が双葉と雨音の盃に水を灌ぐ。すん、と匂いを嗅いでみるが何の匂いもしない。悪臭を放ってはいないらしく安堵する。
「どうぞ」
 真澄の声は少しだけ強張っている。
 雨音が盃を手に取ったのが見えたので、慌てて双葉も持ち上げる。
 不味いかもしれない、と思うと怖気づきかけたが、覚悟を決めて一口飲みこんだ。
 口に入れた途端、甘さを感じた。はちみつのような味が口いっぱいに広がる。驚いて盃を口から離し、目を見開く。
 美味しい。甘すぎない柔らかい味わいは凄く飲みやすい。もっと飲みたいと思うほどの味に双葉は隣に座る雨音の顔を窺った。すると雨音も双葉を見ていて目が合った。
「どうかされましたか?」
 ふたりの様子に真澄が心配そうに聞いて来る。
 真澄だけではなくじっと双葉達を張り詰めた表情で窺っていた狐達も固唾を呑んだ。
「やっぱり、俺の見立ては間違っていなかった」
 雨音がにやりと笑い、盃をあおって中身を全て飲み干した。
 双葉も残りの水を飲み干し、空になった盃を見せた途端、部屋中が歓喜で揺れた。わあわあと騒いだり抱き合って喜びを分かち合うがいるの中、緊張が解けてがっくりと項垂れる者もいる。
「良かった、婚姻の儀は成功したようです」
 真澄が柔らかい笑みを浮かべて言うと拍手が起きた。
 呆気なく双葉と久我家当主との婚姻は成立した。実感がないまま湧き上がる狐達をぼうっと見つめていることしかできなかった。