◇◇◇

 真澄は赤信号で停車したタイミングでちらりと後部座席を窺った。
 会社で起きたトラブルは幸い軽いもので直ぐに片が付き、一時間もかからずに会社を出て帰路についた。車に乗った直後は「早く双葉に会いたい」とぼやいていた雨音は、現在窓の外をじっと見ながら沈黙している。
 双葉のことを考えているのなら無駄に話しかけるわけにはいかない。盛大に惚気られても反応に困ってしまう。
 真澄は低身長で童顔なせいで年齢不詳だが、現在の久我家の中では古株だ。雨音のことは幼い頃から知っている。その雨音の口から好きな人の話を聞くのはむずがゆいような寂しいような複雑な気持ちになる。もちろん結婚には賛成だ。これまで婚儀はするが結婚なんて死んでもしないと言い張っていた雨音が幸せになるのなら盛大に祝いたい。
 双葉にも悪い感情はない。
 内気で、人の視線を異常に気にするが、心優しく、気が使えて、素直。そして積極的に使用人の仕事を手伝おうとする姿勢に久我家の皆が双葉に好印象を抱いている。
 だから、ふたりには幸せになってほしい。真澄は心の底から願っていた。
 信号が青に変わる。
 唐突に、空気がひりついた。
「真澄、急いで」
 背後から聞こえて来た声が固く張り詰めている。
「双葉に何かあった」
 聞いたこともないくらい切迫した声に真澄にも緊張が走りハンドルを握る手に力が入る。
 真澄が反応する前に雨音はスマホを取りだし通話を始めた。
「……俺だ。何があった? 朱莉が?」
 久我家の誰かに連絡をしているのだろう。
 内容の詳細までは分からないが、朱莉の名前に真澄は思わず顔を顰めた。彼女は性格が悪いわけではないが、昔から雨音への好意があからさまだった。久我家の敷地内で問題を起こすほど馬鹿だとは思いたくはないが、雨音の切迫した様子からして甘い考えは捨てた方が良さそうだ。
 恋は人を馬鹿にする。あやかしも変わらない。
「何があったか具体的には分からなかった」
 通話を終えた雨音が焦れたように舌を打った。
 出来ることなら今すぐに家に帰りたい、そんな心根が透けて見えて真澄はアクセルペダルを踏む力を少しだけ強めた。
 久我家には五分足らずで到着した。停車した途端雨音はさっさと車から降りて玄関に向かった。真澄も慌てて後を追う。
「双葉は?」
 駆け寄って来た使用人のひとりに苛立ちや焦りを抑え込んだ声で聞くと「朱莉様と離れに行きました」と返答があった。
「離れ?」
 どうしてそこに、と真澄が疑問を浮かべている間に雨音は真っ直ぐに離れを目指す。
 車内で双葉の異変を感じ取った時とは比べ物にならないぐらい怒りの気配が強くなっている。刺々しい気配に充てられ、すれ違う使用人が顔を真っ青にして去って行くのが見えた。
「雨音様、落ち着いてください」
 先を行く背に声をかけるが、返答はない。
 こんな雨音を見た経験がないので、どう対応していいのか分からない。
 止めて落ち着かせるべきだろうか、と悩んでいると前方からぱたぱたと廊下を駆ける音が聞こえて来た。
「雨音!」
 聞き覚えのある声。問題の人物、朱莉が外に面している廊下に立っていた。
 その目が涙で潤んでいることに気付き、ぎょっとする。
「助けて、雨音」
 そう言って縋りつこうとする。
 一体何があったのか聞こうと口を開いた真澄の耳に雨音の冷たい声が入って来た。
「双葉は?」
「え?」
 予想外の言葉だったらしく、目いっぱいに涙を浮かべたまま朱莉はぽかんと口を開けた。
「双葉はどこにいる?」
 朱莉からすぐさま答えが返ってこなかったため雨音の声に苛立ちが増す。
「え、えっと、あの、私、双葉さんにスプレーをかけられそうになって……」
「スプレーを?」
 双葉がそんなことをするだろうか。想像してみようとしたが、彼女が誰かを攻撃しようとする姿が思い浮かばない。
「それで、私……」
「双葉はどこにいるって聞いているんだが、聞こえていないのか? 居場所を知らないならどけ」
 雨音はとうとう朱莉を押し退けて歩き出した。
 その前に立ちはだかったのは、朱莉の従者だ。
「お待ちください、雨音様。朱莉様は、対あやかし用のスプレーを吹きかけられそうになったのですよ? あの人間は朱莉様を攻撃したのです。それにそんな危ない品を用意しているなんて酷い裏切りではないですか?」
 神経質そうな口調の男に雨音は一瞥もくれることなく言った。
「吹きかけられそうだったってことは、かかってないんだろ? 良かったね」
「何ですか、その言い草――」
 尚も追い縋ろうとする従者と雨音の間に真澄が割って入った。
「落ち着いてください、雨音様」
 雨音の怒りが限界を越えようとしている。これ以上ここに留めておくのは危険だ。暴力沙汰は極力避けたい。
「まずは双葉さんを」
「分かってる」
 雨音はすんっと鼻を鳴らした後、迷いなく歩みを進めた。
「雨音っ」
 その後を朱莉達と真澄が追う。
 離れを越えたあたりから、強烈な臭いが鼻につくようになった。これが対あやかし用のスプレーの臭いらしい。残り香だけで鼻が曲がりそうだ。顔を顰め、鼻を覆いながら進んでいると前を歩いていた雨音の足が唐突に止まった。
 雨音の視線の先には、倉庫の傍にある手洗い場でびしょ濡れになった双葉が座っていた。
「雨音様」
 まだ距離があるので声は聞こえてこないが、彼女の口が雨音の名前を呼んだ。
 いくら夏だといっても濡れたままでは風邪をひいてしまう。早く乾かしてやるべきだ。そう思うのに足が進まない。それぐらいその場の臭いは強烈だ。
 恐らく双葉にスプレーはかかってしまったのだろう。臭いを取ろうとして体を濡らしているが、あの臭いは専用のものではないと取れない。双葉はそれを知らないのだ。
「双葉」
 雨音が柔らかい声で彼女の名前を呼び、一歩踏み出した。
「このままだと風邪をひいちゃうよ」
 そう言いながら双葉の方へ歩いて行く。
 臭いがきついはずだ。雨音は特に鼻が良いので、耐えられるはずもない。それなのに雨音は平然と双葉に近づき、彼女を抱き上げた。
「濡れちゃいますっ」
「大丈夫。どうせクリーニングに出すから」
 抵抗する双葉をぎゅっと抱き込み、風呂がある方へと向かっていく。
「真澄、叶野、風呂入るから後任せる」
 雨音の言葉にふたりは「はい」と反射的に答えた。
 後を任せるというのは、恐らく朱莉たちのことだ。真澄はショックを受けた様子の朱莉に視線を向け、ため息を吐いた。
 とんでもないことをしてくれた。
「私酷い臭いですから、離してください」
「んー? 大丈夫。双葉はいつも良い匂いだよ」
 雨音がすんっと鼻を鳴らす。
 スプレーの強烈な臭いがしているはずなのに、雨音は平然としていた。
 良い男に育ちましたね。と雨音の背中を見ながら感動を覚えた。

 ◇◇◇

 雨音に抱えられた瞬間、安心感から泣きそうになった。
 臭いが取れていないのは、真澄達の反応見ればすぐにわかった。それでも雨音はいつもと同じように接する。
「体冷えちゃったから風呂で温まろうね」
 臭いをまき散らすのは嫌だったので部屋の中には入りたくなかったが、問答無用で廊下を進む。
「一緒にお風呂入っちゃおっか」
「えっ!」
 無理、と全力で拒否すると冗談だったようで、風呂の前で解放された。
「髪も体もこれで洗って。河童印の特別石鹸。髪はぎしぎしになっちゃうかもだから、トリートメント使ってね。ゆっくり入っておいで」
 そう言って渡されたのは河童のマークが書かれている固形石鹸だった。どうやらこれもあやかしのものらしい。
 石鹸は、とんでもなく泡立った。
 体と髪を洗っている間にある程度お湯が溜まった浴槽に入る。芯まで冷え切った体から力が抜け、ゆっくり息を吐いた。
「はあ……」
 今日の騒動を雨音はどう聞いているのだろうか。
 朱莉はスプレーを用意したのは双葉で自分は被害者だと主張しているだろう。双葉に臭いが着いているのは朱莉が抵抗した結果で、正当防衛だと言っていそうだ。雨音はどう思っただろう。信じたのだろうか。対応はいつもと変わらず優しかったが、濡れていた双葉を気遣っただけかもしれない。
「ネガティブな考え良くない……」
 そう思うが、どんどん気持ちが落ち込んでいく。
 頼みの綱の婚儀での繋がりはあまり機能していないのか沈黙している。胸に手を当てても何も感じなかった。
 体から寒気が抜けたタイミングで風呂から出る。するとお風呂の前に着替えを済ませた雨音が立っていた。
「ごめんなさい、私遅かったですよね」
「もっと長く浸かっていても良かったくらいだよ」
 鷹揚に笑った雨音に抱き寄せられ、すんっと匂いを嗅がれる。
「うん、良い匂い」
 どいやら臭いは完全に落ちているらしい。
 雨音も風呂に入ったようで髪が少しだけ湿っている。いつも完璧に乾かしている雨音には珍しい。恐らく双葉が風呂を済ませる前にと急いでくれだのだろう。
 双葉は雨音の背に手を回してぎゅっと抱き着いた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「雨音様が信じてくれなかったらどうしようって疑っていました」
 こんなに想ってくれているのに、信用できていなかった。
「不安になっていたんだから仕方ない。心細かったでしょ」
 雨音は全部を許してくれた。
「あやかし用のスプレーを双葉に使うなんて許せないな。どうしてやろうか」
 ぼそりと呟かれた言葉に顔をあげた。
「朱莉さんから聞いたんですか?」
「いや、あいつは双葉がスプレーを取りだして吹きかけられそうになったから、必死で抵抗してもみ合っている内にスプレーが双葉にかかった。自分は被害者だって主張しているよ。まぁ、嘘だね」
 雨音はあっさりと言ってのけ、呆れた様子で続ける。
「対あやかし用のスプレーを双葉が買う術はない。通販で買えるけど、双葉はスマホもまともに使えないんだから通販のやり方なんて分からないからね」
 その通りだ。
 あやかし用のあれそれがどこで売っているかなんて知らない双葉が入手する方法はない。
 朱莉の証言を一切信じていない態度に安堵の息を吐いた。
「さて、双葉は疲れただろうから、部屋で寝てようか」
「え、大丈夫です。疲れてないです」
 精神的な疲労感はあるが、体力は有り余っていて眠れないだろう。
「うーん、じゃあ叶野と一緒にいて。俺はちょっと朱莉たちとお話してくるから」
 雨音は笑顔を浮かべ、双葉の頭を撫でた。子供をあやす時の様な撫で方だ。
 双葉は無力で、庇護下にある子供みたいだ。問題が起きても雨音に任せっぱなしでひとりでは何もできない。そのままでいいのだろうか。
「私も一緒に行っては駄目ですか?」
 久我家で起きた問題は当主に雨音が解決するのは当然だ。しかし、今回ばかりは全部を任せてはいかないと思った。
「駄目じゃないけど……あんまり双葉をあいつらに会わせたくないな。不快な思いをしてほしくない」
「大丈夫です。お願いします」
 じっと見つめると、雨音は困ったように眉を下げた後、大きく息を吐き、頷いた。
「分かったよ。おいで」
 手を引かれ向かったのは、朱莉が最初に通されていた客室だ。
 部屋の中からひそひそと囁くような声がする。声を殺した声には微かに恐怖の色が含まれていた。
「入るぞ」
 感情を押し殺した声で雨音が良い、返事を聞く前に襖を開けた。
「雨音っ」
 部屋の中で、朱莉がぼろぼろと涙を流していた。その哀れな様相を従者が労わるように見つめている。
「雨音、話を聞いて。私はその子に」
「聞く必要はない。俺が不在の間に双葉に接近してあやかし用のスプレーを吹きかけたんだろ?」
「違うよ、信じて雨音」
 切実な声にも雨音は応えない。それどころから部屋に入る気すらない様だ。敷居を跨かず、部屋の前で朱莉を見下ろす。
「双葉にスプレーを買うことはできなかった。用意したのはお前以外にいない」
「あ、梓が渡したのかも」
 その言葉には雨音だけでなく双葉も眉をひそめた。
 何故全く関係ない梓を巻き込もうとするのか分からない。感情のまま否定しようとしたが、それよりも前に雨音が首を横に振った。
「例えそうだったとして何が問題がある? 勘違いしているようだから言っておくが双葉がお前にスプレーをかけていても俺は怒ったりしない。双葉がスプレーをかけたくなるほど不快な思いをさせたお前を断罪するだけだ」
 朱莉の目からすっと希望の光が消え行く。
「どうして? どうして私よりも、その子を信じるの?」
「好きだから」
 雨音の真摯な言葉に朱莉は衝撃を受けたような顔をした。
「まだ何か言いたいことがあるか? ないから今すぐに出ていけ」
 冷たく突き放すような言葉だ。雨音の関心が朱莉にないことは誰が見ても一目瞭然だった。
「……私の方が、雨音を好きなのに」
 振り絞った言葉は、子供の癇癪みたいだった。
「はあ? そんなわけ」
「そんなことないです!」
 雨音の声は遮り、気が付いたら声を張り上げていた。
「確かに一緒にいた時間は短いです。けど、私だって、雨音様の事が好きです。負けないです」
 どうしても聞き逃せず、ぐっと顔に力を入れて朱莉を見据える。
「朱莉さんは、これまで雨音様に好きだと伝えましたか? 私と初めて出会った時の雨音様は結婚に消極的で女の人なんて信じられないって言っていました。貴方が雨音様の全部が好きだったのならそう伝えるべきだったのではないですか? そうしたら雨音様だって寂しい思いをしていなかったはずです」
 バス停で出会った時の雨音は失敗続きの婚儀に疲れていただけでなく、擦り寄って来る者が信じらずに精神的に参っていた。その姿は双葉には孤独に映った。
 もし、朱莉が好意を伝えていれば、信用を勝ち取るまで向き合っていれば雨音は孤独じゃなかったはずだ。
「今更、雨音様が好きだなんて私に言っても遅いのです」
 感情が高ぶったせいで、かあっと顔が熱くなる。発散の仕方が分からない感情がぐるぐると渦巻き、目からぶわりと涙が溢れた。
「双葉」
 雨音に名前を呼ばれたが、涙を拭うので忙しく顔を上げられない。ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて俯いていると、抱きしめられた。温かい体温にまた涙が溢れる。
「ありがとう。そんな風に言ってくれて」
 声だけで雨音が喜んでいるのが分かった。
 いつものように柔らかい空気が流れるふたりの間にぽつりと朱莉の声が落ちる。
「……私が好きだって言ってたら何か変わった?」
 小さな問いかけは、期待と後悔が混ざっていた。
「さあ、どうかな。変わったかもしれないけど、双葉意外と結婚しようとは思わなかったと思う」
 雨音の言葉に、朱莉は「そう」とだけ返した。
 ちらりと見えた朱莉の傷ついた表情から、恋の終わりを察した。彼女の恋心は雨音にもらわれることなく散ったのだ。
「ごめんなさい」
 久我家を去る時、朱莉は双葉を見ずに謝罪を口にした。恋が死んでも嫉妬は消えない。彼女は家を出るまで双葉を視界に入れなかった。
「はあ」
 騒動の発端だったふたりが去った途端、気が抜けた。その場に崩れ落ちそうになる。
「大丈夫? よく頑張ったね」
「はい……ありがとうございます」
 よろけた所を支えてくれたので感謝を口にした。雨音はにこにこと幸せを煮詰めたような笑みを浮かべていた。
「……嬉しそうですね」
「双葉が俺のこと凄く好きだってわかって幸せなんだよ。抱きしめて良い?」
 もう何度も無断で抱きしめているのに何故今更窺うを立てるのだろう。戸惑いながら両手を広げる。すると雨音が覆いかぶさるように抱きしめて来た。
 甘えてくる様子は大きな動物みたいで可愛い。
「双葉に出会えて良かった。婚儀だけじゃなくて結婚も出来るなんて嬉しすぎる」
「それは私も同じ気持ちです」
「良かった。久我家の皆も双葉を快く迎え入れてくれているから、盛大にお祝いしようね」
「はい」と返事をしようとしたが、雨音の口にしたお祝いという言葉に雷で撃たれたような衝撃が走った。
「あー!」
 朱莉の騒動ですっかり忘れていたが、厨房でケーキを焼いている最中だった。
「どうした?」
 突然声を上げた双葉を雨音が驚いた表情で見つめる。
「あ、え、ちょ、ちょっと待ってください」
 手を突きだし、素早く考えを巡らせる。
 既にケーキは焼き上がっているだろう。飾りつけも終わらせているかもしれない。それならば良いが、万が一双葉が来るのを待っているのなら今すぐに行かなければいけない。
 もう雨音に内緒で事を進めるのは無理だろう。それは分かっているが、少しだけ足掻きたい。
「あの、先に部屋に行っててもらえますか、その、私、ちょっと厨房の方へ用事がありまして」
「俺が行っちゃ駄目な用事?」
 そんな捨てられた子犬みたいな顔をするのを止めて欲しい。
 いつも凛々しい顔が、しゅんとして加護欲を掻き立てられる。駄目じゃない、一緒に行こうと言いたくなってしまうが、ここは断固として首を振らなければいけない。
「だ、駄目です」
「どうしても?」
「どうしても」
 すると、雨音はしょげながら頷いた。
「分かった。部屋って食事の部屋で良い?」
「はい!」
 雨音の返答を聞き、双葉は嬉々として厨房へと急いだ。

 結果的にサプライズは失敗に終わった。
 双葉が走って行った厨房では焼き終わったケーキをデコレーションせずに待っていてくれて、雨音に内緒でケーキは完成させた。昼食の後で食べようと冷蔵庫に入れたまでは良かったのだが、問題は昼食の際に発覚した。
 料理長が用意した豚カツ定食を雨音と並んで食べ始めた時。口に入れた味噌汁の味を感じなかった。最初はいつもよりも薄味なのかと思ったが、次に食べたソースをたっぷりのカツも何の味もしなかったため、これはおかしいとそこで気が付き、さっと血の気が引いた。
「どうした?」
 双葉の異変にすぐに気が付いた雨音の問いに隠しても無駄だと思い「味がしない」と素直に告げた。
「匂いは感じる?」
 すん、と鼻を鳴らす。その時になって漸く何の匂いも感じ取れない事実に気が付いた。
「あのスプレーだな。味覚が駄目になったのか」
 雨音がぐっと顔を顰め、箸を置くと双葉を抱え上げた。
「病院に行こう。あやかし専門の所なら対処法もすぐにわかるはずだ」
 そう言うと部屋を出る。
「病院何て大げさです。寝ていれば治ります」
「もし何かあったらどうするの? あやかし用の製品が人間に及ぼす影響も分からないんだよ。それに双葉が美味しいご飯を味わえないなんて嫌だしね」
 ちらりと雨音の背後に見えた使用人たちの顔も心配げだ。酷い風邪をひいた時も一時的に味覚がなくなったので、大したことはないと認識していたが、どうやら考えを改めた方がいいらしい。
「わかりました、でも、私歩けます」
「俺が抱えて歩きたいだけ。俺の我儘に付き合ってくれる? 嫌ならやめる」
 嫌なんて言わないことは雨音だってわかっているはずだ。
 無言で額を雨音の肩口に押し当てて、車に乗り込むまでじっとしていた。
 連れて行かれた病院は、個人病院だった。雨音が普段人間として暮らしているように、病院の院長も人として人間を診ているらしい。院長はずんぐりむっくりしたヒョウタンのような体型だった。そしてその顔つきは明らかに狸のそれだ。
「貫田です。よろしくね」
 そう言ってにこにこと笑う院長は、狸のあやかしらしい。
 貫田は慣れた手つきで双葉を診察した。
「うーん、粘膜に異常はないね。強く臭いを嗅いじゃったから鼻が馬鹿になっているんだね。ちょっとしたら治るよ」
 と、双葉と同じような見解を告げた。診察はあっさり終わり、帰ろうと椅子から立ち上がると、一緒に診察室に入っていた雨音が抱き上げようとして来た。流石に人前で抱きかかえられたくないと手を突っぱねて拒否する。
「駄目です」
「何で」
 むっとした唇を突き出して不満を露にする。
「人前なので」
「貫田さんは人じゃないから大丈夫だ」
「そういうことじゃなくて。あの、ちょっと待って」
 あやかしだから見られても良いかとはならない。
 腰に手を回してくる雨音とそれを断固として拒否する双葉。ふたりのやりとりを見ていた貫田が大きく口を開けて笑い声を上げた。
「おほほ、久我家の坊が花嫁を溺愛していると噂に聞いておりましたが、本当だったのですねえ、まさかあの雨音様がねぇ」
 貫田は大きな垂れ目を優しく細めて雨音を見ていた。その目はどことなく久我家の皆を思い起こさせた。
 家族や近しい者に向ける愛情溢れる視線だ。
「幼い頃からやんちゃ坊主だったのに。愛はあやかしを変えますね。どうですか、結婚とは良いものでしょう」
 懐かしむような声のあとの質問に雨音はふっと顔を綻ばせた。
「そうだね。幸せだよ」
 そう答えた雨音に手を引かれ、病室を後にした。
 車の中で、雨音がぽつりと零した。
「貫田は、かかりつけ医で昔から世話になっていたんだ」
 狐と狸は仲が悪いと勝手に偏見を抱いていたが、どうやら違うらしい。ふたりの間には信頼関係が垣間見えた。
「狐以外のあやかしを見るのは初めてでした。他のあやかしにも私が人間だと知られているんですね」
 貫田は双葉が人間でも驚かなかった。
 人間があやかしと結ばれるメリットはないと朱莉が言っていたのが、少しだけ引っ掛かっていたので、貫田の友好的な態度にほっとした。
「ああ、人と交わるあやかしは珍しいけど、いないわけじゃない。それに久我家には婚儀があるからな。俺達の事情は他のあやかしにも知られているから、婚儀を成功させた花嫁を煙たがる者はいないよ」
 皆に歓迎されている。
 久我家に帰り、異常がなかったと告げると使用人の皆はほっと安堵の息を吐いた。
 残念ながら双葉の味覚は夕食になっても戻らず、結局ケーキは雨音と使用人の皆で分けて食べた。
「美味しいよ」と雨音が嬉しそうに笑うが、双葉が食べられないことへの不満が少しだけ滲んでいる。それに苦笑を零し、次に作った時には一緒に食べようと約束をした。