「どうした? 疲れた?」
顔を覗き込まれ、はっとした。
一通り挨拶を終え、まだ帰らないでと引き留めようとする朱莉を振り払ってパーティー会場を後にし、久我家に帰って来た双葉達は風呂を済ませて、ふたりで縁側でのんびりしていた。
疲労感から体は限界なのに頭は冴えていて眠れる気がしなかったので、雨音に少し話そうと誘われ、すぐに了承した。
雨音と言葉を交わしたいのに気を抜くと直ぐに朱莉の話が頭に過る。
「大丈夫です。少し眠たいだけで」
「会場からずっと暗い顔をしているが?」
雨音は全てお見通しだとばかりにそう言い、双葉の頭を撫でた。
本当は雨音に朱莉の事をどう思っているのか聞きたい。しかし、それで好きだったなんて言われたら立ち直れない。
どうしてここまで気になるのかは分かっている。昨日朱莉と話をしていた時の雨音が双葉に見せるような柔らかい笑みを浮かべていたからだ。
聞いてもいいだろうか。浮かんだ疑問は雨音を顔を見てふっとんだ。雨音は全てを許容するように優しく微笑んでいた。
「あの、昨日朱莉様と何を話していらっしゃったのですか?」
「昨日?」
雨音は不思議そうな顔をした
「えっと、私が帰って来た時。雨音様、すごく楽しそうだったので何の話だったのか気になって」
「楽しそう……ああ、それは双葉の事を話していたんだよ」
「私?」
雨音は記憶を探る様に斜め上に視線を向けた。
「そうそう。花嫁はどんな人か聞かれたから、双葉との出来事を語って聞かせていた。楽しそうに見えた? うれしいな」
「そっ」
そうですか、なあんだ。と軽く流したかったのに言葉が続かない。
昨日からずっともやもやしていたのに、まさか自分のことで微笑んでいたなんて思わなかった。どうやら自分に嫉妬していたらしいと気づき、顔に熱が集まる。
「やきもち?」
雨音には何でもお見通しだ。
「焼く必要なんてどこにもないよ。こんなに好きなのに他に目移りなんてしないよ」
顔を覆う手をそっと取られ、顔を上げさせられる。
「双葉が好きだよ。誰かを好きになったのは初めてで上手くできてないかな?」
雨音は不安そうに眉を下げた。
そんな顔をさせたいわけじゃない。双葉は雨音に向き合い、両手をそっと掴むと意を決して口を開いた。
「わ、私も好きです。雨音様の事を信用してないわけじゃないんです。好かれているなって思いますけど、自信が無くて……」
「ちょっと待って」
雨音が弾けるような大きな声を出した。ぎょっと目を見開き、雨音を見ると呆然とした様子で双葉を見ていた。
「双葉、俺のこと好きなの?」
「え、は、はい。そうです」
思い返すと双葉が雨音への好意を口にしたのは初めてだった。
叔母のことがあり、余裕がなかったとはいえ、好意を貰うばかりで返せていなかった事実に気付き、申し訳ない気持ちになりながら双葉はもう一度強く頷いた。
「貴方が、雨音様が好きです」
雨音の目が大きく見開かれ、じわじわと顔に赤みが差していく。
「ちょっと待って」
好きなんてきっと言われ慣れているのに、雨音は初めてのことみたく顔を赤らめた。そして、徐に双葉へ手が伸ばされる。ぎゅっと抱きすくめられたと思ったら、頬に温かい毛が触れた。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、覚えたのあるふわふわの毛並みに見当がついた。
雨音が狐の姿になっているのだ。
何故、と疑問が沸き、つい離れようとしてしまった双葉の背に回る手に力が籠る。ぎゅっと離さないようにする力に身を委ね、力を抜いた。
「顔、今見られたくない。きっとかっこ悪い」
恥じらいを隠す様な掠れた声に双葉はきゅっと胸が疼くのを感じた。
「かっこ悪く何てないです。それに例えかっこ悪くても見たいです」
そう言葉を返し、逡巡の後に雨音の大きな体に腕を回す。すると、耳元できゅうきゅうと甘えるような鳴き声が聞こえて来た。動物的な音に一瞬驚いたが、すぐに愛おしさで溢れた。
「か」
かわいい。
なんて可愛らしいのでしょう。双葉は思わずぎゅっと手に力を込めた。
ふたりはそうしてしばらくの間抱き合っていた。雨音が落ち着いたタイミングで体を離す。その時には人間の姿に戻っていた。
少しだけ顔を赤らめた雨音は恭しく双葉の手を取った。
「俺と結婚してくれる?」
雨音の緑の瞳は少しだけ潤んでいて、声は震えている。
双葉の手も震えているし、目からはとめどなく涙が溢れていた。
「はい」
答えた声に雨音がとびきりの笑顔を見せた。
昨夜の告白劇から一夜明け、雨音のテンションは上がったまま降りてこない。
朝からにこにこと愛好を崩し、すれ違う者全員にプロポーズが成功したと嬉しそうに伝え回っていた。
「良かったですね雨音様」
「お赤飯を炊きましょう!」
叶野達に祝福され、雨音はスキップしそうな勢いだった。しかし、申し訳なさそうな顔をした真澄が顔を出した辺りで雨音の機嫌は急激に下がった。
「仕事でトラブルがあり、今から向かっていただかないと」
雨音は不機嫌そうにしながらも社長としての責任があるので、渋々立ち上がった。口にはしなかったが、嫌だ行きたくないと顔にでかでかと書いてある。
手早くスーツに着替え身支度を整えた雨音と共に玄関まで向かう。
「すぐに片付けて帰って来るからね……いっそ連れて行くか?」
「雨音様、はやく」
真澄に急かされながら雨音が双葉に手を伸ばす。一瞬抱きすくめられ、耳元で「いってきます」と声がした。
「いってらっしゃい雨音様。待っています」
すぐに離れた熱を名残惜しく思いながら見送る。
「行きたくない……」
そう言いながらも雨音は久我家を出た。
一緒に居られないのは寂しいが、仕事ならば仕方がない。それに雨音の普段着ている着物とは違い、かっちりとしたスーツ姿も素敵で好きだった。
「双葉様、少し良いですか?」
「はい?」
振り返ると嬉しそうな叶野を筆頭に久我家の使用人たちが立っていた。
「ご婚約おめでとうございます」
叶野の言葉に双葉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それでですね。お祝いをしたいと思うのですが、双葉様も手伝っていただけませんか? 雨音様が不在の間に一緒にケーキを作りたいのです」
「ぜひ。お手伝いさせてください」
双葉は最近掃除などの手伝いをするようになり、使用人との仲は深まっている。なので、彼女達がただ人手が足りなくて双葉に手伝いを願い出たわけでないと分かった。
「双葉様が手伝ってくださったら雨音様が喜びますよ」
「サプライズですよ!」
女中たちが楽しそうに双葉の手を取る。
雨音のためなのは当然のこと、双葉が雨音に感謝の気持ちを返したいと常々考えているのを皆知っているのだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
そうして、皆と共にケーキ作りに勤しんだ。ケーキを作るのは初めてだったが、叶野達に教えてもらいながら計量し、材料を混ぜて出来上がった生地をオーブンに投入した。
「雨音様からのプロポーズの言葉はなんでしたか?」
オーブンの中で熱せられる生地を見つめていると隣からひょっこり顔を出した女中のひとり、一番せの小さな深栖が聞いた。
その質問に周りにいた女中たちも興味津々といった風に目を輝かせている。
「えっと、結婚してくれる? って聞かれました」
素直に答えるときゃあきゃあと黄色い声が部屋中に響く。中には五十代男性料理長の姿もあった。
「素敵ですね。まさかあの雨音様が結婚されるとは思いませんでした。双葉様に出会うまでは俺は婚儀はするが、結婚なんてしない。独り身を貫くとおっしゃっていたのに」
「人生なにがあるかわかりませんね。余程双葉様に言われた言葉が嬉しかったのでしょうね」
楽しそうに話す深栖。それに叶野が肯定した。
「言葉、ですか?」
叶野の言葉に引っ掛かりを覚え問いかける。叶野は記憶をたどる様に視線を動かした。
「出会った時に双葉様に言われた言葉が嬉しかったと言っていました。貴方に人が寄って来るのは、顔だけでなく貴方自身が魅力的なのだと。要約するとこんな感じでしたか?」
ふふ、と叶野は笑いながら口を手で押さえた。
最初に会った時に双葉が雨音にそんなニュアンスの事を言った気がする。落ち込む雨音を励まそうとした言葉は双葉の予想よりもずっと雨音の心に響いていたらしい。
「双葉様、雨音様と出会ってくださりありがとうございます。婚儀が成功し、無事に生活を送れているのは貴方のおかげです。我々は貴方に本当に感謝しているのです」
叶野に頭を下げられたが、感謝したいの双葉の方だ。
地位や名誉、金も持っていない双葉を迎え入れてくれた久我家の皆にどれだけお礼を言っても言い足りない。
「こちらこそありがとうございます。皆さまに受け入れて貰えてうれしいです」
久我家の皆の温かさに双葉は目に少し涙を浮かべながら微笑んだ。
「さて、それじゃあケーキに乗せるフルーツを切りましょうか」
どこか気恥ずかしさの漂う空気を変えるために叶野が発した言葉に被せる様にインターホンの音が響いた。
「誰かいらしたようですね」
来客の予定はないのだろう。叶野が訝しんだ様子で玄関の方へ視線をやる。
「見てきますね。双葉様はここにいてください」
叶野だけでなく、深栖や他の使用人も緊張した面持ちで叶野を見送った。
「雨音様の留守を我々は任されているわけですからね、責任感で皆緊張してしまうのですよ」
困惑している双葉を察して深栖が緊迫している現状の説明をしてくれた。
そうなんだ、とまるで他人事のように思う。双葉は両親がいた頃はまだ小さかったし、叔母の家でひとりでいる時は誰か来ても応対しなくていいと言われていたので、留守を任されたという感覚ではなく、ただ息を殺していないように振る舞っていただけだ。
「双葉様」
しばらくして表情に混乱を滲ませた叶野が戻って来た。
「朱莉様がいらっしゃいました」
その名前にぎくりとする。雨音に会いに来たのかと警戒したが、叶野は双葉を見ていた。
「双葉様に会いたいと。会って話がしたいそうです」
「え?」
一体何の用があるのだろうか。
双葉は厨房を他の皆に任せ、叶野に連れられるままに朱莉が待っている客間へ移動した。
「朱莉様、失礼します」
叶野が声をかけると、中から「どうぞ」と声がしたので襖を開ける。
朱莉は座らずに立ったまま待っていた。その背後には先日も見た彼女の従者らしきがたいの良い男が佇んでいる。
「こんにちは」
明るい表情で挨拶され、反射的に頭を下げた。
いそいそと中に入り「どうぞ座ってください」とたどたどしく着席を促すが、朱莉は首を振った。
「迷惑かもしれないけど、ここじゃなくていつもの部屋で話がしたいな」
「……朱莉様、今は雨音様がいらっしゃらないので、勝手なことは控えていただきたいです」
叶野がびしゃりと要望を退けると朱莉はあからさまにショックを受けた様子を見せた。
「そうよね」
しゅんと朱莉が肩を落とす。すると朱莉の従者が口を開いた。
「勝手でしょうか? 朱莉様は久我家とも縁がある家の者で、これまで何度も久我家に訪れていますし、いつもあの部屋で過ごしていますよね? 何故今日に限ってこの部屋なのですか?」
従者は射貫くような目で叶野を見つめ、固い声で指摘した。
それに叶野が言いよどむと、すかさず追撃をする。
「叶野さんではなく、双葉さんはどう思いますか?」
突然話を振られ、びくりと肩が跳ねる。
雨音がいない間に勝手なことをすべきではないとは思う。しかし有無を言わさない口調に「どうぞ」と言ってしまいそうになりながら質問した。
「えっと、いつもの部屋というのは?」
「離れの部屋のことです。朱莉様は泊まる時はいつもその部屋を使っていますので、もう半分朱莉様専用の部屋みたいなものですね。そんな部屋を使って雨音様がお怒りになると思いますか?」
専用と言う言葉にふたりの仲の深さを知り、じくりと胸が痛む。
「いえ……」
雨音は梓が久我家の中を勝手に歩いていても怒る素振りはなかった。なので、幼少からの付き合いらしい朱莉が離れを使っても怒りはしないだろう。反射的に首を振ると朱莉が嬉しそうに手を叩いた。
「そうだよね、じゃあ使ってもいいかな?」
「双葉さんの了承は得ましたから」
そう言うとふたりは叶野の静止を振り切って部屋を出てしまった。
「どうしよう、ごめんなさい、私のせいで」
双葉が了承した形になってしまった。
いくらい婚約したと言っても久我家は雨音の家であり、当主がいない今は留守を任されている叶野達が仕切べきだ。いくら質問をされたからと言っても双葉が口をはさむべきではなかった。
「大丈夫ですよ。とりあえず後を追いましょう」
そうして叶野と向かったのは、双葉が足を踏み入れたことが無い部屋だ。
朱莉はここを離れと称したが、母屋からは渡り廊下で繋がっているので完全に離れているわけではない。移動中に叶野から聞いた話によると、物書きを兼任していた先々代の当主が執筆に籠るために作った部屋らしい。久我家の者が使うことはまれだが、人を招く時に寝室として使う時があると言っていた。
「決して朱莉様専用の部屋ではありません」と叶野が双葉を安心させるように付け加えた所で件の部屋に着いた。
「双葉さんとふたりで話をしたいな」
部屋に着くなり、朱莉がじっと双葉を見据えた。
「朱莉様、それは駄目です」
「……もしかして警戒されてる? 梓とは仲良くするのに私は駄目なの? 私も双葉さんと仲良くしたいだけなんだけど」
朱莉は悲し気に目を伏せる。
雨音に想いを寄せているのを知ったからと言って警戒しすぎるのは失礼かもしれない。それに隣に立っている叶野は幼少の頃から朱莉と関わって来たからか、悲しそうな顔を見て動揺している。
「お、お話ししましょう」
朱莉と叶野の間に軋轢が生まれるのは駄目だと思った双葉は咄嗟にそう言っていた。
「双葉様、いいのですか?」
「勿論です。私も朱莉さんとお話ししたいと思っていたので」
嘘だ。正直もう会いたくないと思ってすらいた。しかし、この場を何事もなく終えるには双葉が朱莉と話し、帰ってもらうしかない。
双葉は朱莉と向き合う決意を固めた。
「嬉しい、ありがとう」
朱莉の微笑みに双葉は顔を引き攣らせながら会釈をした。
朱莉とふたりで話すため叶野と朱莉の従者は出て行った。途端、部屋は喧騒から切り離されたみたいに静まり返り、嫌な緊張感に包まれる。
この緊張は双葉だけが抱えているのか、それとも朱莉も感じているのか分からない。後者ならば、朱莉が双葉とふたりきりになったのにはお祝い以上の含みがあるはずだ。
「――ここでよく雨音と遊んだんです」
沈黙を朱莉がぽつりと零した言葉が破った。
「この部屋で話をしたり、ままごとに付き合ってくれたり……懐かしいなぁ、私が奥さんで雨音が旦那さんの役をやってくれたりして……」
回想に浸る朱莉の表情がぐっと苦し気に歪み、瞳に涙の幕が張る。
ああ、何を言われるのか、分かってしまった。耳を塞ぎたいのに聞かなければいけない。
「私が、雨音と結婚したかった」
予想通りの言葉に双葉は息が詰まった。
彼女の心は幼いことから雨音だけに向いていた。それが痛いくらいに伝わって来て、苦しくなった。
「雨音の一番の婚約者は梓だったから、私は半ば諦めていたの。でも、梓が駄目だったって知って希望が見えた。もしかしたら私の番が回って来るのかもしれないって待っていた。婚儀が行われるって知らせが何度も届いて、その度に何度も苦しんで、失敗した話を聞いて喜んで……ついに私の番が来たと思ったのに……私は体調を崩して婚儀が出来なくて、回復した私の家に婚儀が成功した知らせが届いた。……いや、力が抑制されているから知らせが届く前に気付いた。ああ、成功しちゃったって」
朱莉の声が振るえている。その姿が痛々しく目を逸らしたいのに、見ていなければいけない気がした。
これはきっと、あの時人助けだからと軽い気持ちで手をとってしまった双葉の罪だ。双葉の幸せの下で成り立ってしまった不幸を受け止めなければいけない気がした。
「双葉さん、今日はお願いがあって来たの」
朱莉は涙で濡れた目で双葉を見て言った。
「雨音を返してほしい」
その言葉に双葉の思考は止まった。
返すなんて、まるで元は自分のもののような言い方だ。
「婚儀のことがあるからお互いに言わなかったけど、雨音は私を想っていた。ずっと近くにいたから分かるの。婚儀は譲ったから、結婚はしないで、私に返して。雨音を解放して」
「えっと」
双葉は混乱した。
出会う前の雨音を知らないので絶対とは言い切れないが、朱莉を好きだったのなら『俺に寄って来る女は全員顔か金目当て、結婚なんてしたくない』なんて言うだろうか。
「雨音は、本当は貴方と結婚なんてしたくないはず」
朱莉の言葉を聞いた瞬間、双葉の脳裏に昨夜の告白劇できゅうきゅうと甘えていた姿や、今朝『結婚の承諾もらった! 幸せになります』と浮かれてスキップしていた様子が過った。
あれが演技だとは考えられない。
「いや、それはないんじゃないでしょうか」
雨音からの好意に関してだけは絶対的な自信があり、断言出来た。
「何でそう思うの?」
朱莉の声のトーンが低くなる。不機嫌そうな声色にぎくりと体が強張る。
「雨音様が結婚したいと言ってくださいました。その言葉に嘘があるとが思えません」
「勘違いじゃないの?」
「勘違いなんかじゃありません」
それだけは譲れない。
じっと見つめ合っている唐突に朱莉が大きくため息を吐いた。
「雨音って昔からそうなの。思わせ振りな態度をとっちゃうみたい。だから貴方みたいな身の程知らずが現れるの」
そう言うなり、朱莉は立ち上がり双葉を見下ろした。
「雨音が貴方と結婚するメリットって何? 婚儀が成功したからって調子に乗っちゃったの? 人間と結婚したところで雨音が苦労するだけよ。釣り合ってないよ、あなた」
釣り合っていないという言葉を双葉は何度も聞いた。
顔が、立場が、種族が違うから。何度も言われ、双葉も自覚していた。それでも、雨音が一緒にいたいと望んでくれるのならそれに応えたい。
朱莉の鋭い視線に負けじとぎゅっと目に力を込めて見返した。
「立場も種族も違います。私には足りない所がたくさんあります。それでも、雨音様と一緒にいたい。貴方には渡しません」
取られたくないのなら自信をつけなさい、と梓が言っていた意味が分かる。自信がないと戦えない。
朱莉は双葉の強気な態度に呆気にとられた顔をしたが、すぐにふっと表情を緩めて笑った。
「あはは」子供みたいな笑い声が響き、戸惑い、反応が遅れた。
しゅっと空気が抜ける音がしたと思った直後、目の前に白い煙が噴射されていた。呼吸をした拍子に思い切りそれを吸い込んでしまい、頭を殴られたと錯覚する程の衝撃がの脳みそを襲う。眼球の奥がちかちかと点滅し、酷く痛み目を開けていられない。
ぎゅっと目を閉じて衝撃に耐える双葉の頭上から声が落ちた。
「それは、あやかしが作った激臭スプレーよ。強烈な匂いであやかしを撃退する時に使うらしい。私も使うのは初めてなの」
朱莉は面白がる様に言う。
「獣のあやかしは鼻が良い。特に雨音は匂いに敏感よ。こんな匂いをさせている女を傍に置いておくとは思えない。出て行かざるを得ない状況にしてあげる」
そう言うと朱莉が襖を開けた音が聞こえて来た。
うっすら目を開ける。目にも入ったせいで眼球がじんじんして痛い。それに視界が霞んでよく見えない。
「幼い頃から一緒にいる私とぽっと出の貴方じゃ、私の方を信じるに決まっている」
微かに輪郭だけを視認できる朱莉が動いた。
「助けて! 誰か来て!」
朱莉の叫び声が辺りに響く。
「どうされましたか、朱莉様」
示し合わせたかのように走ってやってきたのは朱莉の従者だ。
「双葉さんが私にあやかし用のスプレーを……」
涙のおかげか、目の霞が少しだけ晴れる。
しかし、その時には既に従者の怒りの視線が双葉を射抜いていた。それを感じ取った途端、双葉はその場から逃げ出した。従者が捕まえようと伸ばした手は、触れる前にぴたりと止まる。従者も狐のあやかしだ。鼻が敏感でスプレーの臭いに堪えられなかったらしい。ぐっと顔を歪まて鼻を抑えた。
その隙に廊下を駆ける。
風呂場で洗い流したいが、臭いがきつい以上母屋には行けない。外で洗い流せるところはないかと裸足で庭に降りた。
「双葉様⁉ どうされたんですか」
「叶野さん……」
朱莉の声が聞えた駆け付けたらしい叶野の顔を見た瞬間、気が緩んで泣きそうになった。
しかし、泣いている場合ではない。近寄って来ようとする叶野を手で制す。
「あやかし用のスプレーのせいで臭いが酷いので近寄らないでください」
叶野の足が止まる。彼女も臭いを感じ取った陽で鼻を抑えた。その反応は仕方ないと分かっているが、自分が臭いと思われている事実にショックを受けた。
「どこか、臭いを落とせる場所はありませんか? 外で水が使える場所とか」
叶野は状況がまだ整理できていない様子だったが、すぐに倉庫近くにある手洗い場を教えてくれた。
駆け足でそこまで向かう。
手洗い場は人気がなくほっと安堵した。
「双葉様、何があったのですか?」
一定の距離を保ったまま着いて来た叶野が背後から訪ねて来る。その距離にいてとお願いしたのは双葉だ。
蛇口から出た水を体にかけながら離れであった出来事を話した。
水は冷たく、頭がどんどん冷静になっていく。
「朱莉さんは、雨音さんが好きだと言っていました。雨音様を返してと言い、あやかし用のスプレーをかけてきました」
びしょ濡れになった服を見て、今日は雨音に貰った服を着ていなくて良かったと心の底から思った。愛華からのおさがりの服が肌に張り付き、体温を奪っていく。どれだけ濡らせばいいのだろうか。強烈な臭いを嗅いだせいかさっきから鼻が利かない。なので臭いが消えたのか分からない。
段々冷たさで皮膚の感覚もなくなり始めた頃、叶野が申し訳なさそうに言った。
「朱莉様が雨音様を好きなのか知っていました……すみません、ふたりにすべきではありませんでした。私のミスです。直ぐに雨音様に連絡を――」
その時、母屋の方がざわめいた。
「雨音、待って」
朱莉の声と近づいて来る気配に双葉ははっとして声の方へ視線を向けた。
「雨音様?」
雨音と繋がっている胸がざわついている。怒りの気配が近づいて来ていた。
顔を覗き込まれ、はっとした。
一通り挨拶を終え、まだ帰らないでと引き留めようとする朱莉を振り払ってパーティー会場を後にし、久我家に帰って来た双葉達は風呂を済ませて、ふたりで縁側でのんびりしていた。
疲労感から体は限界なのに頭は冴えていて眠れる気がしなかったので、雨音に少し話そうと誘われ、すぐに了承した。
雨音と言葉を交わしたいのに気を抜くと直ぐに朱莉の話が頭に過る。
「大丈夫です。少し眠たいだけで」
「会場からずっと暗い顔をしているが?」
雨音は全てお見通しだとばかりにそう言い、双葉の頭を撫でた。
本当は雨音に朱莉の事をどう思っているのか聞きたい。しかし、それで好きだったなんて言われたら立ち直れない。
どうしてここまで気になるのかは分かっている。昨日朱莉と話をしていた時の雨音が双葉に見せるような柔らかい笑みを浮かべていたからだ。
聞いてもいいだろうか。浮かんだ疑問は雨音を顔を見てふっとんだ。雨音は全てを許容するように優しく微笑んでいた。
「あの、昨日朱莉様と何を話していらっしゃったのですか?」
「昨日?」
雨音は不思議そうな顔をした
「えっと、私が帰って来た時。雨音様、すごく楽しそうだったので何の話だったのか気になって」
「楽しそう……ああ、それは双葉の事を話していたんだよ」
「私?」
雨音は記憶を探る様に斜め上に視線を向けた。
「そうそう。花嫁はどんな人か聞かれたから、双葉との出来事を語って聞かせていた。楽しそうに見えた? うれしいな」
「そっ」
そうですか、なあんだ。と軽く流したかったのに言葉が続かない。
昨日からずっともやもやしていたのに、まさか自分のことで微笑んでいたなんて思わなかった。どうやら自分に嫉妬していたらしいと気づき、顔に熱が集まる。
「やきもち?」
雨音には何でもお見通しだ。
「焼く必要なんてどこにもないよ。こんなに好きなのに他に目移りなんてしないよ」
顔を覆う手をそっと取られ、顔を上げさせられる。
「双葉が好きだよ。誰かを好きになったのは初めてで上手くできてないかな?」
雨音は不安そうに眉を下げた。
そんな顔をさせたいわけじゃない。双葉は雨音に向き合い、両手をそっと掴むと意を決して口を開いた。
「わ、私も好きです。雨音様の事を信用してないわけじゃないんです。好かれているなって思いますけど、自信が無くて……」
「ちょっと待って」
雨音が弾けるような大きな声を出した。ぎょっと目を見開き、雨音を見ると呆然とした様子で双葉を見ていた。
「双葉、俺のこと好きなの?」
「え、は、はい。そうです」
思い返すと双葉が雨音への好意を口にしたのは初めてだった。
叔母のことがあり、余裕がなかったとはいえ、好意を貰うばかりで返せていなかった事実に気付き、申し訳ない気持ちになりながら双葉はもう一度強く頷いた。
「貴方が、雨音様が好きです」
雨音の目が大きく見開かれ、じわじわと顔に赤みが差していく。
「ちょっと待って」
好きなんてきっと言われ慣れているのに、雨音は初めてのことみたく顔を赤らめた。そして、徐に双葉へ手が伸ばされる。ぎゅっと抱きすくめられたと思ったら、頬に温かい毛が触れた。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、覚えたのあるふわふわの毛並みに見当がついた。
雨音が狐の姿になっているのだ。
何故、と疑問が沸き、つい離れようとしてしまった双葉の背に回る手に力が籠る。ぎゅっと離さないようにする力に身を委ね、力を抜いた。
「顔、今見られたくない。きっとかっこ悪い」
恥じらいを隠す様な掠れた声に双葉はきゅっと胸が疼くのを感じた。
「かっこ悪く何てないです。それに例えかっこ悪くても見たいです」
そう言葉を返し、逡巡の後に雨音の大きな体に腕を回す。すると、耳元できゅうきゅうと甘えるような鳴き声が聞こえて来た。動物的な音に一瞬驚いたが、すぐに愛おしさで溢れた。
「か」
かわいい。
なんて可愛らしいのでしょう。双葉は思わずぎゅっと手に力を込めた。
ふたりはそうしてしばらくの間抱き合っていた。雨音が落ち着いたタイミングで体を離す。その時には人間の姿に戻っていた。
少しだけ顔を赤らめた雨音は恭しく双葉の手を取った。
「俺と結婚してくれる?」
雨音の緑の瞳は少しだけ潤んでいて、声は震えている。
双葉の手も震えているし、目からはとめどなく涙が溢れていた。
「はい」
答えた声に雨音がとびきりの笑顔を見せた。
昨夜の告白劇から一夜明け、雨音のテンションは上がったまま降りてこない。
朝からにこにこと愛好を崩し、すれ違う者全員にプロポーズが成功したと嬉しそうに伝え回っていた。
「良かったですね雨音様」
「お赤飯を炊きましょう!」
叶野達に祝福され、雨音はスキップしそうな勢いだった。しかし、申し訳なさそうな顔をした真澄が顔を出した辺りで雨音の機嫌は急激に下がった。
「仕事でトラブルがあり、今から向かっていただかないと」
雨音は不機嫌そうにしながらも社長としての責任があるので、渋々立ち上がった。口にはしなかったが、嫌だ行きたくないと顔にでかでかと書いてある。
手早くスーツに着替え身支度を整えた雨音と共に玄関まで向かう。
「すぐに片付けて帰って来るからね……いっそ連れて行くか?」
「雨音様、はやく」
真澄に急かされながら雨音が双葉に手を伸ばす。一瞬抱きすくめられ、耳元で「いってきます」と声がした。
「いってらっしゃい雨音様。待っています」
すぐに離れた熱を名残惜しく思いながら見送る。
「行きたくない……」
そう言いながらも雨音は久我家を出た。
一緒に居られないのは寂しいが、仕事ならば仕方がない。それに雨音の普段着ている着物とは違い、かっちりとしたスーツ姿も素敵で好きだった。
「双葉様、少し良いですか?」
「はい?」
振り返ると嬉しそうな叶野を筆頭に久我家の使用人たちが立っていた。
「ご婚約おめでとうございます」
叶野の言葉に双葉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それでですね。お祝いをしたいと思うのですが、双葉様も手伝っていただけませんか? 雨音様が不在の間に一緒にケーキを作りたいのです」
「ぜひ。お手伝いさせてください」
双葉は最近掃除などの手伝いをするようになり、使用人との仲は深まっている。なので、彼女達がただ人手が足りなくて双葉に手伝いを願い出たわけでないと分かった。
「双葉様が手伝ってくださったら雨音様が喜びますよ」
「サプライズですよ!」
女中たちが楽しそうに双葉の手を取る。
雨音のためなのは当然のこと、双葉が雨音に感謝の気持ちを返したいと常々考えているのを皆知っているのだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
そうして、皆と共にケーキ作りに勤しんだ。ケーキを作るのは初めてだったが、叶野達に教えてもらいながら計量し、材料を混ぜて出来上がった生地をオーブンに投入した。
「雨音様からのプロポーズの言葉はなんでしたか?」
オーブンの中で熱せられる生地を見つめていると隣からひょっこり顔を出した女中のひとり、一番せの小さな深栖が聞いた。
その質問に周りにいた女中たちも興味津々といった風に目を輝かせている。
「えっと、結婚してくれる? って聞かれました」
素直に答えるときゃあきゃあと黄色い声が部屋中に響く。中には五十代男性料理長の姿もあった。
「素敵ですね。まさかあの雨音様が結婚されるとは思いませんでした。双葉様に出会うまでは俺は婚儀はするが、結婚なんてしない。独り身を貫くとおっしゃっていたのに」
「人生なにがあるかわかりませんね。余程双葉様に言われた言葉が嬉しかったのでしょうね」
楽しそうに話す深栖。それに叶野が肯定した。
「言葉、ですか?」
叶野の言葉に引っ掛かりを覚え問いかける。叶野は記憶をたどる様に視線を動かした。
「出会った時に双葉様に言われた言葉が嬉しかったと言っていました。貴方に人が寄って来るのは、顔だけでなく貴方自身が魅力的なのだと。要約するとこんな感じでしたか?」
ふふ、と叶野は笑いながら口を手で押さえた。
最初に会った時に双葉が雨音にそんなニュアンスの事を言った気がする。落ち込む雨音を励まそうとした言葉は双葉の予想よりもずっと雨音の心に響いていたらしい。
「双葉様、雨音様と出会ってくださりありがとうございます。婚儀が成功し、無事に生活を送れているのは貴方のおかげです。我々は貴方に本当に感謝しているのです」
叶野に頭を下げられたが、感謝したいの双葉の方だ。
地位や名誉、金も持っていない双葉を迎え入れてくれた久我家の皆にどれだけお礼を言っても言い足りない。
「こちらこそありがとうございます。皆さまに受け入れて貰えてうれしいです」
久我家の皆の温かさに双葉は目に少し涙を浮かべながら微笑んだ。
「さて、それじゃあケーキに乗せるフルーツを切りましょうか」
どこか気恥ずかしさの漂う空気を変えるために叶野が発した言葉に被せる様にインターホンの音が響いた。
「誰かいらしたようですね」
来客の予定はないのだろう。叶野が訝しんだ様子で玄関の方へ視線をやる。
「見てきますね。双葉様はここにいてください」
叶野だけでなく、深栖や他の使用人も緊張した面持ちで叶野を見送った。
「雨音様の留守を我々は任されているわけですからね、責任感で皆緊張してしまうのですよ」
困惑している双葉を察して深栖が緊迫している現状の説明をしてくれた。
そうなんだ、とまるで他人事のように思う。双葉は両親がいた頃はまだ小さかったし、叔母の家でひとりでいる時は誰か来ても応対しなくていいと言われていたので、留守を任されたという感覚ではなく、ただ息を殺していないように振る舞っていただけだ。
「双葉様」
しばらくして表情に混乱を滲ませた叶野が戻って来た。
「朱莉様がいらっしゃいました」
その名前にぎくりとする。雨音に会いに来たのかと警戒したが、叶野は双葉を見ていた。
「双葉様に会いたいと。会って話がしたいそうです」
「え?」
一体何の用があるのだろうか。
双葉は厨房を他の皆に任せ、叶野に連れられるままに朱莉が待っている客間へ移動した。
「朱莉様、失礼します」
叶野が声をかけると、中から「どうぞ」と声がしたので襖を開ける。
朱莉は座らずに立ったまま待っていた。その背後には先日も見た彼女の従者らしきがたいの良い男が佇んでいる。
「こんにちは」
明るい表情で挨拶され、反射的に頭を下げた。
いそいそと中に入り「どうぞ座ってください」とたどたどしく着席を促すが、朱莉は首を振った。
「迷惑かもしれないけど、ここじゃなくていつもの部屋で話がしたいな」
「……朱莉様、今は雨音様がいらっしゃらないので、勝手なことは控えていただきたいです」
叶野がびしゃりと要望を退けると朱莉はあからさまにショックを受けた様子を見せた。
「そうよね」
しゅんと朱莉が肩を落とす。すると朱莉の従者が口を開いた。
「勝手でしょうか? 朱莉様は久我家とも縁がある家の者で、これまで何度も久我家に訪れていますし、いつもあの部屋で過ごしていますよね? 何故今日に限ってこの部屋なのですか?」
従者は射貫くような目で叶野を見つめ、固い声で指摘した。
それに叶野が言いよどむと、すかさず追撃をする。
「叶野さんではなく、双葉さんはどう思いますか?」
突然話を振られ、びくりと肩が跳ねる。
雨音がいない間に勝手なことをすべきではないとは思う。しかし有無を言わさない口調に「どうぞ」と言ってしまいそうになりながら質問した。
「えっと、いつもの部屋というのは?」
「離れの部屋のことです。朱莉様は泊まる時はいつもその部屋を使っていますので、もう半分朱莉様専用の部屋みたいなものですね。そんな部屋を使って雨音様がお怒りになると思いますか?」
専用と言う言葉にふたりの仲の深さを知り、じくりと胸が痛む。
「いえ……」
雨音は梓が久我家の中を勝手に歩いていても怒る素振りはなかった。なので、幼少からの付き合いらしい朱莉が離れを使っても怒りはしないだろう。反射的に首を振ると朱莉が嬉しそうに手を叩いた。
「そうだよね、じゃあ使ってもいいかな?」
「双葉さんの了承は得ましたから」
そう言うとふたりは叶野の静止を振り切って部屋を出てしまった。
「どうしよう、ごめんなさい、私のせいで」
双葉が了承した形になってしまった。
いくらい婚約したと言っても久我家は雨音の家であり、当主がいない今は留守を任されている叶野達が仕切べきだ。いくら質問をされたからと言っても双葉が口をはさむべきではなかった。
「大丈夫ですよ。とりあえず後を追いましょう」
そうして叶野と向かったのは、双葉が足を踏み入れたことが無い部屋だ。
朱莉はここを離れと称したが、母屋からは渡り廊下で繋がっているので完全に離れているわけではない。移動中に叶野から聞いた話によると、物書きを兼任していた先々代の当主が執筆に籠るために作った部屋らしい。久我家の者が使うことはまれだが、人を招く時に寝室として使う時があると言っていた。
「決して朱莉様専用の部屋ではありません」と叶野が双葉を安心させるように付け加えた所で件の部屋に着いた。
「双葉さんとふたりで話をしたいな」
部屋に着くなり、朱莉がじっと双葉を見据えた。
「朱莉様、それは駄目です」
「……もしかして警戒されてる? 梓とは仲良くするのに私は駄目なの? 私も双葉さんと仲良くしたいだけなんだけど」
朱莉は悲し気に目を伏せる。
雨音に想いを寄せているのを知ったからと言って警戒しすぎるのは失礼かもしれない。それに隣に立っている叶野は幼少の頃から朱莉と関わって来たからか、悲しそうな顔を見て動揺している。
「お、お話ししましょう」
朱莉と叶野の間に軋轢が生まれるのは駄目だと思った双葉は咄嗟にそう言っていた。
「双葉様、いいのですか?」
「勿論です。私も朱莉さんとお話ししたいと思っていたので」
嘘だ。正直もう会いたくないと思ってすらいた。しかし、この場を何事もなく終えるには双葉が朱莉と話し、帰ってもらうしかない。
双葉は朱莉と向き合う決意を固めた。
「嬉しい、ありがとう」
朱莉の微笑みに双葉は顔を引き攣らせながら会釈をした。
朱莉とふたりで話すため叶野と朱莉の従者は出て行った。途端、部屋は喧騒から切り離されたみたいに静まり返り、嫌な緊張感に包まれる。
この緊張は双葉だけが抱えているのか、それとも朱莉も感じているのか分からない。後者ならば、朱莉が双葉とふたりきりになったのにはお祝い以上の含みがあるはずだ。
「――ここでよく雨音と遊んだんです」
沈黙を朱莉がぽつりと零した言葉が破った。
「この部屋で話をしたり、ままごとに付き合ってくれたり……懐かしいなぁ、私が奥さんで雨音が旦那さんの役をやってくれたりして……」
回想に浸る朱莉の表情がぐっと苦し気に歪み、瞳に涙の幕が張る。
ああ、何を言われるのか、分かってしまった。耳を塞ぎたいのに聞かなければいけない。
「私が、雨音と結婚したかった」
予想通りの言葉に双葉は息が詰まった。
彼女の心は幼いことから雨音だけに向いていた。それが痛いくらいに伝わって来て、苦しくなった。
「雨音の一番の婚約者は梓だったから、私は半ば諦めていたの。でも、梓が駄目だったって知って希望が見えた。もしかしたら私の番が回って来るのかもしれないって待っていた。婚儀が行われるって知らせが何度も届いて、その度に何度も苦しんで、失敗した話を聞いて喜んで……ついに私の番が来たと思ったのに……私は体調を崩して婚儀が出来なくて、回復した私の家に婚儀が成功した知らせが届いた。……いや、力が抑制されているから知らせが届く前に気付いた。ああ、成功しちゃったって」
朱莉の声が振るえている。その姿が痛々しく目を逸らしたいのに、見ていなければいけない気がした。
これはきっと、あの時人助けだからと軽い気持ちで手をとってしまった双葉の罪だ。双葉の幸せの下で成り立ってしまった不幸を受け止めなければいけない気がした。
「双葉さん、今日はお願いがあって来たの」
朱莉は涙で濡れた目で双葉を見て言った。
「雨音を返してほしい」
その言葉に双葉の思考は止まった。
返すなんて、まるで元は自分のもののような言い方だ。
「婚儀のことがあるからお互いに言わなかったけど、雨音は私を想っていた。ずっと近くにいたから分かるの。婚儀は譲ったから、結婚はしないで、私に返して。雨音を解放して」
「えっと」
双葉は混乱した。
出会う前の雨音を知らないので絶対とは言い切れないが、朱莉を好きだったのなら『俺に寄って来る女は全員顔か金目当て、結婚なんてしたくない』なんて言うだろうか。
「雨音は、本当は貴方と結婚なんてしたくないはず」
朱莉の言葉を聞いた瞬間、双葉の脳裏に昨夜の告白劇できゅうきゅうと甘えていた姿や、今朝『結婚の承諾もらった! 幸せになります』と浮かれてスキップしていた様子が過った。
あれが演技だとは考えられない。
「いや、それはないんじゃないでしょうか」
雨音からの好意に関してだけは絶対的な自信があり、断言出来た。
「何でそう思うの?」
朱莉の声のトーンが低くなる。不機嫌そうな声色にぎくりと体が強張る。
「雨音様が結婚したいと言ってくださいました。その言葉に嘘があるとが思えません」
「勘違いじゃないの?」
「勘違いなんかじゃありません」
それだけは譲れない。
じっと見つめ合っている唐突に朱莉が大きくため息を吐いた。
「雨音って昔からそうなの。思わせ振りな態度をとっちゃうみたい。だから貴方みたいな身の程知らずが現れるの」
そう言うなり、朱莉は立ち上がり双葉を見下ろした。
「雨音が貴方と結婚するメリットって何? 婚儀が成功したからって調子に乗っちゃったの? 人間と結婚したところで雨音が苦労するだけよ。釣り合ってないよ、あなた」
釣り合っていないという言葉を双葉は何度も聞いた。
顔が、立場が、種族が違うから。何度も言われ、双葉も自覚していた。それでも、雨音が一緒にいたいと望んでくれるのならそれに応えたい。
朱莉の鋭い視線に負けじとぎゅっと目に力を込めて見返した。
「立場も種族も違います。私には足りない所がたくさんあります。それでも、雨音様と一緒にいたい。貴方には渡しません」
取られたくないのなら自信をつけなさい、と梓が言っていた意味が分かる。自信がないと戦えない。
朱莉は双葉の強気な態度に呆気にとられた顔をしたが、すぐにふっと表情を緩めて笑った。
「あはは」子供みたいな笑い声が響き、戸惑い、反応が遅れた。
しゅっと空気が抜ける音がしたと思った直後、目の前に白い煙が噴射されていた。呼吸をした拍子に思い切りそれを吸い込んでしまい、頭を殴られたと錯覚する程の衝撃がの脳みそを襲う。眼球の奥がちかちかと点滅し、酷く痛み目を開けていられない。
ぎゅっと目を閉じて衝撃に耐える双葉の頭上から声が落ちた。
「それは、あやかしが作った激臭スプレーよ。強烈な匂いであやかしを撃退する時に使うらしい。私も使うのは初めてなの」
朱莉は面白がる様に言う。
「獣のあやかしは鼻が良い。特に雨音は匂いに敏感よ。こんな匂いをさせている女を傍に置いておくとは思えない。出て行かざるを得ない状況にしてあげる」
そう言うと朱莉が襖を開けた音が聞こえて来た。
うっすら目を開ける。目にも入ったせいで眼球がじんじんして痛い。それに視界が霞んでよく見えない。
「幼い頃から一緒にいる私とぽっと出の貴方じゃ、私の方を信じるに決まっている」
微かに輪郭だけを視認できる朱莉が動いた。
「助けて! 誰か来て!」
朱莉の叫び声が辺りに響く。
「どうされましたか、朱莉様」
示し合わせたかのように走ってやってきたのは朱莉の従者だ。
「双葉さんが私にあやかし用のスプレーを……」
涙のおかげか、目の霞が少しだけ晴れる。
しかし、その時には既に従者の怒りの視線が双葉を射抜いていた。それを感じ取った途端、双葉はその場から逃げ出した。従者が捕まえようと伸ばした手は、触れる前にぴたりと止まる。従者も狐のあやかしだ。鼻が敏感でスプレーの臭いに堪えられなかったらしい。ぐっと顔を歪まて鼻を抑えた。
その隙に廊下を駆ける。
風呂場で洗い流したいが、臭いがきつい以上母屋には行けない。外で洗い流せるところはないかと裸足で庭に降りた。
「双葉様⁉ どうされたんですか」
「叶野さん……」
朱莉の声が聞えた駆け付けたらしい叶野の顔を見た瞬間、気が緩んで泣きそうになった。
しかし、泣いている場合ではない。近寄って来ようとする叶野を手で制す。
「あやかし用のスプレーのせいで臭いが酷いので近寄らないでください」
叶野の足が止まる。彼女も臭いを感じ取った陽で鼻を抑えた。その反応は仕方ないと分かっているが、自分が臭いと思われている事実にショックを受けた。
「どこか、臭いを落とせる場所はありませんか? 外で水が使える場所とか」
叶野は状況がまだ整理できていない様子だったが、すぐに倉庫近くにある手洗い場を教えてくれた。
駆け足でそこまで向かう。
手洗い場は人気がなくほっと安堵した。
「双葉様、何があったのですか?」
一定の距離を保ったまま着いて来た叶野が背後から訪ねて来る。その距離にいてとお願いしたのは双葉だ。
蛇口から出た水を体にかけながら離れであった出来事を話した。
水は冷たく、頭がどんどん冷静になっていく。
「朱莉さんは、雨音さんが好きだと言っていました。雨音様を返してと言い、あやかし用のスプレーをかけてきました」
びしょ濡れになった服を見て、今日は雨音に貰った服を着ていなくて良かったと心の底から思った。愛華からのおさがりの服が肌に張り付き、体温を奪っていく。どれだけ濡らせばいいのだろうか。強烈な臭いを嗅いだせいかさっきから鼻が利かない。なので臭いが消えたのか分からない。
段々冷たさで皮膚の感覚もなくなり始めた頃、叶野が申し訳なさそうに言った。
「朱莉様が雨音様を好きなのか知っていました……すみません、ふたりにすべきではありませんでした。私のミスです。直ぐに雨音様に連絡を――」
その時、母屋の方がざわめいた。
「雨音、待って」
朱莉の声と近づいて来る気配に双葉ははっとして声の方へ視線を向けた。
「雨音様?」
雨音と繋がっている胸がざわついている。怒りの気配が近づいて来ていた。