陸さんはこの前と同じ教室の同じ場所に立っていた。

水槽のなかにいるような青色は、前回よりも少しだけ濃い色で揺れている。

「作戦は、失敗?」

私が涼音さんを連れてくると期待していたのだろう、さみしそうに笑った。

「すみません。たぶん、涼音さんに会えたと思います。だけど、陸さんのことを言い出せなくって……」

「涼音は元気そうだった?」

「あまり長く話したわけではないのでわからないですが……やさしい人だと思いました」

まるで自分が褒められたみたいに、陸さんはうれしそうに顔をほころばせた。

「やさしいよ。だからこそ、きっと今も苦しんでいると思う」

「海弥さんにもお会いしました」

驚いたように陸さんは目を丸くし、すぐに目を伏せた。

「僕たちはいつも一緒でさ。僕と涼音はつき合っていたけれど、海弥を入れた三人でいることのほうが多いくらいだった」

「だからこそ涼音さんに私を会わせたくないみたいでした」

「あいつには僕のこと話したの? ああ、なるほど。涼音に話すことを海弥が止めたんだね」

さすがは親友。言わなくても伝わるのだろう。

小さくうなずいてから陸さんは鼻でため息をついた。

「海弥は正義感が強いからなあ。いつか話せる機会があったら伝えてほしい。『もっと他人に心を許せ』って」

「はい」

「あとは、『いちばんの親友だ』っていうのもつけ加えてくれる?」

不思議だ。まるで生きている人としゃべっているみたい。命が消えても、愛する人に会いたくてこの場所にとどまっている。

「あの……陸さんは去年の春、事故で亡くなったんですよね?」

「始業式のあとらしい。自分ではよく覚えていないんだ」

「どうしてこの場所にいるんですか?」

「わからないよ、そんなこと」

かぶせるように早口で陸さんは言ってから、苦しげにうつむいた。

「気づいたらここにいたんだ。自分が幽霊になったことはすぐにわかった。誰からも見えないし、話しかけても気づいてもらえない。この教室で、涼音が泣いているのを見ていることしかできなかった」

それはどんなに苦しい時間だったのだろう。そばにいるのに気づいてもらえないなんて。

「一年間、涼音はずっと悲しみ続けていた。新校舎に移る直前は、笑顔も見られるようになったけど、ふとした瞬間に泣きそうになっていた」

「そうでしたか……」

「三年生になり、校舎が変わってからはひとりぼっちになった。どうやら、僕はここに取り残されたみたい」

静かにそう言ったあと、「でもね」と自分を励ますように陸さんはニッと笑った。

「ここからでも新しい校舎はけっこう見えるんだよ。たまに廊下を歩く涼音が見えた。でも、ここから動くことができなくて……。そんなときに君が現れたんだ」

すがるように陸さんは私に視線を合わせた。こんな悲しい瞳を見たことがない。

涼音さんのことを心配し続けながら、同じ場所にとどまることしかできないなんて……。

「私が使者かどうかはわかりません。だけど、もう少し時間をください。いつか話せる日が来たらここに連れてきますから」

「一年以上も待っているから平気、って言いたいところだけど、夏休み中に旧校舎は取り壊される」

ああ、そうだった。

「旧校舎が取り壊されたら、陸さんも消えるんですか?」

「たぶん。そんな気がしてる」

「じゃあ、それまでに……」

約束をしたいけれど、どうやって涼音さんに伝えればいいのかわからない。

「いいんだよ。涼音の様子を知れただけでうれしいから」

悲しい人ほど人にやさしくなれるものなの?

陸さんの気持ちに応えたいけれど、涼音さんをもっと傷つけそうで――。

ギシッ。 

足音にハッと顔をあげると、教室に黒い人影が入ってくるのがわかった。碧人かと思ったけれど、もっと小柄な人影。

窓から差しこむ青い光の手前で、その人影は足を止める。

「ここに、陸がいるの?」

その人――涼音さんが固い声で尋ねた。

「涼音……どうして?」

かすれた声で陸さんが近寄るけれど、見えていないのだろう、涼音さんは私のほうへ顔を向けた。

「あの、どうしてここに?」

代わりに聞くと、涼音さんは困った顔になった。

「実月ちゃん、でいいのかな? どうしても気になったから、強制的に海弥に白状させたの。そしたら、驚くようなことを言われて……」

「信じてくれたんですか?」

涼音さんはうなずくと、教室のなかをゆっくりと見渡した。

「この教室にいるとき、陸がそばにいてくれている気がしてたの。霊感とかはないから、そう思いたかっただけかもしれない。でも、たしかに感じた」

そう言ったあと、涼音さんが胸に手を当てた。

「今も見えないけれど、陸を感じる。ここにいる気がする」

「います。すぐそこにいます」

陸さんを指さして気づいた。彼はもう泣いていた。

悔しそうにボロボロと涙を流している。

「不思議ね。こんな青い月が出てることにさっきまで気づかなかったの」

そう言われてハッとした。あの本には、青い月の光のなかでふたりが手をつなぐと書いてあったはず。

「涼音さん、青い光のなかに入ってください」

「え? こう?」

おそるおそる足を踏み入れた涼音さんを、宝石のようにきらめく光が包みこんだ。その瞳が、陸さんの立つほうを見て大きく見開かれた。

「……陸?」

「涼音、久しぶり」

陸さんが手の甲で涙を拭った。

「ウソ……陸が、陸が見える!」

駆け寄る涼音さん。両手を広げ、陸さんが強くその体を抱きしめた。

「涼音っ!」

「会いたかった。会いたかったよ、陸」

青い光がふたりを包みこんでいる。ふたりは確かめるように何度もお互いの名前を呼び合った。

涼音さんが来てくれてよかった。ふたりが会えてよかった……。

こみあげる涙をそのままに、奇跡の再会を瞳に焼きつけた。やっぱり『青い月の伝説』は本当にあったんだ……。

体を離したふたりが、涙を流しながらお互いの顔を触った。

伝説のとおりになるなら、これからふたりは『永遠のしあわせがふたりに訪れる』はず。でもそれって、どういうことなのだろう……。

ふいに部屋を満たす青い光が薄くなった。

陸さんも気づいたのだろう、「涼音」と固い声で言った。

「謝らないといけないことがあるんだ」

「事故のことなら仕方ないよ。だって避けることができなかった――」

「違う」

ふり絞るような声で陸さんは言った。

「俺、ひどいことをした」

「ひどいこと?」

うなずいたあと、陸さんは涼音さんから背を向け、頭をポリポリとかいた。

「実は……涼音以外にもつき合っている人がいた。浮気してたんだよ」

「陸……」

「半年くらいになる。涼音は俺のことを信用してくれてたのに最低だよ。そのことを謝りたくて、ずっとここにいたんだ」

涼音さんはフリーズしたように動かない。

なにを言っているの? 陸さんの言っていることが信じられない。

「陸さん、今言ったことって本当のことですか?」

陸さんは目だけをこっちに向けた。

「うん」

「浮気をしてたんですか?」

「そう」

「そのことを伝えたくて、涼音さんを呼びに行かせたんですか?」

「最後に本当のことを言いたくて――」

「ひどい!」

言葉を遮って叫んでいた。

「浮気してたなんて最低!」

「……わかってるよ」

陸さんはふてくされたようにその場に座ると足を投げ出した。

「わかってない! 残された涼音さんがどんな気持ちになるかわからないの? なんでそんなひどいことができるの⁉」

悔しくて涙があふれる。だけど、こんなのないよ!

いい人だと思っていたぶん、怒りがこみあげてくる。こんな人を助けようとしていたなんて、自分が信じられない。

ふいに私の肩に涼音さんが手を置いた。

「実月ちゃん、私は大丈夫だよ」

涼音さんはスッキリしたような表情で白い歯を見せている。

どうしてこんな状況で笑えるの? 陸さんみたいな最低な人をどうしてかばえるの?

私から離れ、涼音さんは陸さんへ近づいた。

「陸とは中一のときからつき合ってたよね。ずっと一緒だと信じて疑わなかったから、去年の事故は悲しかった」

「……うん」

なにかをこらえるように、陸さんはジッとうつむいたまま。

「好きな人のことはわかるの。特に陸はわかりやす過ぎ。浮気してたなんて、ウソだよね?」

「……本当だって」

困ったように陸さんは頭をかいた。

「ほら、また頭をかいてる。ウソをつくときのクセだって、知ってるよ」

ハッと頭から手を離す陸さんに、涼音さんはおかしそうに笑った。

「いなくなってからも、ずっとここで私のことを見てくれてたんだよね? 新校舎に移ってからも、気にしてくれてた。それは、私が陸のことを忘れられないから」

「…………」

「忘れられるはずないよ。だって、本当に好きだったから。陸との未来を信じていたから」

涼音さんは上半身を折って、陸さんと目線を合わせた。唇をギュッと()みしめた陸さんが目を逸らす。

「これ以上、私が落ちこまないように浮気していた、ってことにした。そういうやさしいところが、もっと好きにさせるんだよ」

「やっぱりバレたか」

あきらめたように陸さんが笑った。

そうだったんだ。涼音さんを元気づけるために、明日も生きていけるようにウソをついたんだ……。

大きく深呼吸をしたあと、涼音さんは涙をこぼしながらほほ笑んだ。

「もう大丈夫だよ、って本当は言いたい。だけど、やっぱり私は弱いから。あんな急に陸がいなくなるなんて想像もしていなかったから」

「ごめん。涼音、ごめん」

涼音さんの唇が、あごが、声が震えている。

「まだしばらくはダメだと思う。でも、私のせいで陸がここにいるなんて、そのほうがもっと悲しい。少しずつでも元気になる、って約束するから」

「涼音……」

「もう、いいんだよ? 私のことは心配せずに、旅立って……いい……んだよ」

「涼音!」

再び抱きしめ合うふたりを残し、光はもう青色かどうかもわからないほど薄くなっている。

――キーンコーン。

旧校舎にチャイムの音が響き渡った。ふたりの時間が終わりを告げているのがわかる。

私の頬にも涙が流れている。

こんな悲しい別れがあるの? お互いに好きなのにもう二度と会えなくなるなんて……。

ふたりは手を固く握り合っている。

きっと、『永遠のしあわせがふたりに訪れる』という伝説は、絆のこと。それぞれの道を進む決断を、ふたりはしたんだ。

それがふたりのしあわせにつながっているんだ……。

「しあわせにできなくて、ごめん」

苦しげな陸さんに、涼音さんは首を横にふった。

「しあわせだった。陸がいたから、ずっとしあわせだったんだよ」

「でも、ごめん」

「もう」と涼音さんは涙をこぼしながら笑う。

「お別れの言葉がそんなに悲しいと、もっと引きずっちゃうでしょう?」

涼音さんは強い人。私だったらこんなふうに笑顔を作ることなんてできない。

小さくうなずいた陸さんも、無理やりの笑みを作った。けれど、涙に負けるように顔をゆがめた。

「陸、あなたが好きだよ。ずっとずっと好きだった」

「俺も……好きだよ」

「最後は笑ってさよならを言おうよ。陸の笑顔を覚えていたいから」

陸さんが何度もうなずいてから、やさしくほほ笑んだ。

「涼音、さようなら」

「さようなら、陸」

青い光が、今、消えた。

同時に、陸さんの体は空気に溶けていった 。

チャイムの残響も消え、暗い教室にふたりきり。もうここに、青色はない。

耐え切れないように、涼音さんがその場で崩れた。

「もう、いいのかな。泣いても……いいのかな」

今度は私が涼音さんを抱きしめた。強く、強く。

「もういいんですよ。泣いてもいいんですよ」

声をあげて泣く涼音さんを、私はいつまでも抱きしめていた。