目が覚めると同時に、ベッドから起きあがっていた。
とたんに襲われる頭痛に、小さな悲鳴が漏れた。頬に流れているのは涙じゃなく、汗だった。
なんだ、夢だったんだ……。
時計を見ると夜中の二時を過ぎたところ。キッチンに行き、冷たい水を飲むと少しだけ頭痛がマシになった。
「ああ……」
あんな夢を見たのは、夕方の出来事のせいだ。ずっと我慢してきたのに、ついに爆発してしまった。
『自分が興味があるときだけ話しかけてこないで』
去年の仕返しみたいに言ってしまった言葉を、予想どおり後悔している。
リビングのカーテンを開けると月が私を見ていた。また少しふくらんだ月は、明日には『上弦の月』と呼ばれる半月になるだろう。
土日に青い月が出ても、連絡する勇気なんてない。それくらいひどいことを言ってしまったのだから。
青い月を見たあの日に戻れたなら、なにかが変わるのかな。図書館に一緒に行かなければ、この気持ちに気づくこともなかったはず。ミサンガだって作ることもなかった。
こんなに苦しいなら、好きになりたくなかったよ……。
まるで高速で走る列車に乗っているみたい。景色を眺める余裕もなく、碧人のことばかり考えている。
どんなに悲しくても、途中下車することもできず、終着駅に着く様子もない。
碧人のことを考えてばかりいる自分が嫌い。碧人は私のことを一秒だって考えてくれていないのに。
――ぜんぶ、私のせいだ。
恋なんかしてしまったから、碧人は遠ざかってしまったんだ。
スマホのゲームみたいに、この恋 心をアンインストールしたい。そうすれば 、ただの幼なじみに戻れるのに。
だけど、この気持ちを消したくない自分もいるわけで……。
「ああ、もう」
やつ当たり気味に、のんきに浮かぶ月をにらみつける。
……そうだ、陸さんのことだ。
陸さんは去年の春に事故で亡くなってしまった。彼は三年一組の立花涼音さんを『元カノ』と言っていたけれど、恋人同士のまま亡くなったのかもしれない 。自分が消えてしまったから、あえて『元カノ』と呼んでいるのかも。
伝えたいことを伝えられないまま、あの場所にとどまっているのならなんてせつないのだろう。
そこでやっと気づいた。
あの伝説に書いてあった『ふたり』は陸さんと涼音さんのことだ。
彼の思い残したことを解消するために、私が黒猫に使者として導かれた……?
まだ確信は持てない。あまりにも非現実過ぎて、壮大などっきり企画に巻きこまれているような気がする。
一度会いに行ってみようかな。陸さんが想いを残した人に。
人は慣れる生き物らしく、チャイムが鳴らない学校生活にもみんな順応している。
お互いに『そろそろ座る?』と声をかけ合ったり、授業中に先生が熱弁していても、『あと一分です』と日直が時間を告げたりするようになった。
昼休みと同時に席を立ち、二階に向かった。梨央奈に話すと怖がるだろうし、ひとりで行く覚悟はできていた。
私が青い月に選ばれた使者なら、やれることはやろう、と。
三年一組の教室は、私の教室の真下に位置する。
二階におりて涼音さんのいる教室に向かうと、廊下の窓側に立っている人に気づいた。
――海弥さんだ。
腕を組み、まるで門番のように立ちふさがっている。教室のほうを見ていた海弥さんの表情が、私に気づくと同時に怒りの顔に変わった。
これは……まずい。
「またお前か」
苛立ちを声ににじませて近づいてくる。
「まさか、涼音に会いに来たのか?」
「あ……すみません」
たまたま通りかかったというのはムリがある。
「実はそうなんです。陸さんが伝えたいことがある、って……」
正直に答えると、さらに海弥さんは眉の角度を大きくした。
「ふざけんなよ。涼音に幽霊の話をするつもりなのか。陸が亡くなって、まだ一年しか経ってないんだぞ」
「あ……」
そのときになってやっとわかった。私がしようとしていることは、生きている人にとってはつらいこと。
『亡くなった陸さんの霊を見た』なんて言われたら誰だって困惑するだろう。
それだけじゃない。悲しみや怒りを覚えるに決まっている。恋人だった人ならなおさらだ。
「人の死を遊び道具にして、涼音がどんな気持ちになるのか考えたことあるのか?」
考えていなかった。ただ、使命を果たすことばかり考えてしまっていた。
「ごめんなさい」
「謝って済む問題かよ。だいたいお前は――」
怒りを露わにした海弥さんが、今度は驚いた顔 に変わった。
その表情がぐにゃりと曲がったかと思った瞬間、私の頬に涙がこぼれていた。
「え……マジで?」
「ごめんなさい。あの、すみません」
頭を下げると、廊下にも涙が落ちた。
私、なにやってるんだろう。突然押しかけてきて勝手に泣くなんて、海弥さんが怒るのも当然だ。
こんなんだから、碧人にだって嫌われるんだ……。
「悪かった。泣かせるつもりはなかった」
動揺したように視線をさまよわせる海弥さん。
「ごめんなさい。私が悪いんです」
かっこ悪過ぎて消えてしまいたくなる。廊下を歩く生徒の興味深げな視線を感じながら、必死で涙を拭った。
「あのさ」とさっきよりやわらかい声で海弥さんが言った。
「俺と陸と涼音は中学んときからの仲でさ、あいつらはつき合っててさ……」
「はい」
「だから俺よりも涼音のほうがつらいんだよ。よくわかんねえ話で会わせるわけにはいかない」
そうだろうな、と思う。自分が情けなくてたまらない。
「わかりました」
教室に戻ろうと、もう一度頭を下げたときだった。
「ちょっと海弥!」
教室から出てきた女子生徒が私を体ごと包んだ。
「あんたなにやってんのよ。下級生を泣かせるなんてどういうつもり⁉」
「ちが……。こいつが悪いんだよ。だってわけのわかんねえことを――」
「そういうことを言ってるんじゃない。泣かせたことが問題なの」
きっぱりと言うと、その女性が私を覗きこんできた。
「大丈夫? なにか言われたんだね。口が悪いのよ、こいつ」
肩までの髪に白い肌。ほとんどメイクをしてないのに大きな瞳が目立っている。でも、どこかさみしそうな印象を受けた。
ああ、わかる。きっと彼女が立花涼音さん。陸さんの彼女だ。
「違うんです。私が……私が悪いんです」
「そうだよ」
同意する海弥さんをにらみつけると、女性は私を抱いたまま歩きだす。
「あんたはついてこないで!」
海弥さんをけん制して、踊り場まで来ると女性は「ごめんね」と謝ってくれた。
「いえ……」
目の前に涼音さんと思われる人がいる。
どうしよう……。涙は引っこみ、恐れていたはずの海弥さんに助けを求めたくなる。
海弥さんはさっきの場所から『待て』と言われた犬みたいに、うらめしそうににらんでくる。
「あの、すみません。大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう? あいつ、ほんとぶっきらぼうなんだよ。私から注意しておくから、なにがあったか話してくれる?」
涼音さんは親切な人だ。恋人を一年前に亡くして苦しいのに、私にまでやさしくしてくれる。
だからこそ、陸さんの話をするわけにはいかない。
「違うんです。私が泣いていたのを海弥さんが助けてくれたんです」
「……あいつが? そういうタイプじゃないけど」
いぶかしげに眉をひそめる涼音さんに、大きく首を縦にふってみせた。
「本当にそうなんです。あの、なにがあったか海弥さんには聞かないでください。私の勘違いだったんです」
思いっきり頭を下げてから、逃げるように階段を駆けあがった。
女子トイレで涙を拭ってから廊下へ出ると、向こうから碧人が歩いて来るのがわかった。私に気づき、なにか言いたげに口を開いた。
だけど、今はとても話せない。学校では話せない。こんな気持ちでは――。
顔を伏せ、教室に入る。
逃げてばかりの自分が情けなくて、拭ったはずの涙がまたこみあげてきた。
放課後、いつもとは別のスーパーの特売セールに急ぐ梨央奈を見送り、窓越しの空を眺めていた。
夕焼けが満ちていく空に、青い月が光っている。半月の形に青空を閉じこめ たような不思議な月。
五時間目の途中に顔を出したこの月は、私以外の人には 見えていない。梨央奈にさりげなく尋ねてみたけれど、『月なんて出てないじゃない』と笑っていた。
泣いたせいでさっきからやけに眠い。頭痛もしていて、本当ならこのまま帰りたい。
でも……陸さんに会いに行かないと。私では役に立てないことを伝えなくちゃ。
席を立ちバッグを手にしたときだった。ふたつ隣の席に居残っていた 小早川さんが意を決したように急に立ちあがりこっちに歩いてきた。
「……さん」
すぐそばで小さな声が聞こえる。私を呼んでいるの?
「あ、うん」
小早川さんに話しかけられたことがなかったから戸惑ってしまう。
小柄な小早川さんは、前髪の壁で自分の表情をいつも隠している。想像よりもかわいらしい目が前髪のすき間から見えたけれど、視線が合うと同時にうつむいてしまった。
そして、沈黙。
「あの……なにかあった?」
尋ねても、勇気が出ないのか小早川さんはうつむいたままだ。
どうしよう。早く陸さんに会いに行かないと、せっかくの勇気がしぼんでしまいそう。
「ひとつだけ、いいですか?」
やっと聞こえた声は、想像よりも高くて丸かった。
「あ、うん」
たっぷり時間を空けてから、ようやく小早川さんは口を開いた。
「違っていたらごめんなさい。空野さんって……霊感がありますか?」
「レイカン……?」
「幽霊が視えたりしますか?」
今度は私が黙る番だ。ひょっとしたら梨央奈との会話を聞かれたのかもしれない。
「ううん、そういうのは、ない、よ」
驚きのあまり、おかしな言い方になってしまった。
「……幽霊と話をしたとか、そういうのないんですか?」
「ないない」
碧人と同じく、私もウソをつくときにこの言葉を口にするクセがある。
張りつめていた糸が切れるように、小早川さんはガクンと肩を落とした。
「そうでしたか。失礼しました」
丁寧に頭を下げ、教室から出て行ってしまった。
……どうしたんだろう。ひょっとして小早川さんは霊感があるのだろうか。陸さんのことを話せばよかったのに、これ以上いろんな人に迷惑をかけたくなかった。
それよりも、早く旧校舎に向かわないと夜になってしまう。
幽霊でも出たらどうしよう。違う、その幽霊に会いに行くんだ……。
靴を履き替えると、グラウンドから部活動の声が風に乗って聞こえてくる。空はどんどん紅茶色に染まっていく。
急いで旧校舎の裏手へ向かうと、あの黒猫のしっぽが見えた。やっぱり待っていたんだ。
近づくと、黒猫のそばにしゃがんでいる人がいるのがわかった。目を線にしてうれしそうに黒猫の頭をなでているのは――碧人だった。
「え……」
立ち止まった私に気づくと、碧人はバツが悪そうに立ちあがった。
生ぬるい風が私たちの間をすり抜けていく。
「にゃー」
黒猫の声に我に返り、碧人に近づいた。
「なんでここにいるの?」
金曜日のことを謝りたかったのに、責めるような言葉を投げてしまった。
「だって、ほら」
碧人が人差し指で月を指した。
「碧人も見えてるの?」
「すげえ青いよな。中二んときと同じくらい、いやそれ以上かも」
「うん」
同じ月が見えていたことがうれしくて、思わず笑みを浮かべてしまった。
「これから陸ってヤツに会いに行くの?」
「陸さんが会いたがっている涼音さんに会えたの。でも、なにも言えなかった」
それだけで私の気持ちを理解してくれたのか、
「言えないよな。一年しか経ってないし」
碧人はやさしくうなずいてくれた。
「碧人も一緒について来てくれるの?」
「いや、俺は今回呼ばれてないから」
「え?」
「あの本に書いてあったろ。黒猫に導かれた人だけが使者になれる。ほら、見て」
碧人が校舎に入ろうとすると、さっきまでなついていたはずの黒猫が碧人の前に立ちふさがった。ふくらんだしっぽを立て、碧人を追い払おうと牙をむいている。
「今回の使者は実月だけってことだろうな。俺もなりたかったけど今回はあきらめる。ここで待ってるよ」
「……わかった。あの……この間はヘンにつっかかってごめんね」
そう言うと、碧人はホッとしたように表情を緩めた。
「俺のほうこそ。自分から言い出しておいて、あれはないよな。猛烈に反省してたところ」
「うん」
「実月と話したくないわけじゃないんだ。うちのクラスのヤツら、マジでしつこくてさ。実月に迷惑をかけたくなかった」
私のことを考えて言ってくれてたんだね。前にも説明してくれたのに、あのときは素直に受け入れることができなかった。
胸にたまっていた重りが取れたみたい。こんなに心が軽くなっている。
「じゃあ、行ってくるね」
「なんかあったら大声で呼んで。引っかかれても駆けつけるから」
「にゃん」
言葉がわかるかのように黒猫が反応した。
旧校舎に入るときにふり向くと、碧人は軽く手をあげていた。上空から彼に、青い光がふりそそいでいた。
陸さんはこの前と同じ教室の同じ場所に立っていた。
水槽のなかにいるような青色は、前回よりも少しだけ濃い色で揺れている。
「作戦は、失敗?」
私が涼音さんを連れてくると期待していたのだろう、さみしそうに笑った。
「すみません。たぶん、涼音さんに会えたと思います。だけど、陸さんのことを言い出せなくって……」
「涼音は元気そうだった?」
「あまり長く話したわけではないのでわからないですが……やさしい人だと思いました」
まるで自分が褒められたみたいに、陸さんはうれしそうに顔をほころばせた。
「やさしいよ。だからこそ、きっと今も苦しんでいると思う」
「海弥さんにもお会いしました」
驚いたように陸さんは目を丸くし、すぐに目を伏せた。
「僕たちはいつも一緒でさ。僕と涼音はつき合っていたけれど、海弥を入れた三人でいることのほうが多いくらいだった」
「だからこそ涼音さんに私を会わせたくないみたいでした」
「あいつには僕のこと話したの? ああ、なるほど。涼音に話すことを海弥が止めたんだね」
さすがは親友。言わなくても伝わるのだろう。
小さくうなずいてから陸さんは鼻でため息をついた。
「海弥は正義感が強いからなあ。いつか話せる機会があったら伝えてほしい。『もっと他人に心を許せ』って」
「はい」
「あとは、『いちばんの親友だ』っていうのもつけ加えてくれる?」
不思議だ。まるで生きている人としゃべっているみたい。命が消えても、愛する人に会いたくてこの場所にとどまっている。
「あの……陸さんは去年の春、事故で亡くなったんですよね?」
「始業式のあとらしい。自分ではよく覚えていないんだ」
「どうしてこの場所にいるんですか?」
「わからないよ、そんなこと」
かぶせるように早口で陸さんは言ってから、苦しげにうつむいた。
「気づいたらここにいたんだ。自分が幽霊になったことはすぐにわかった。誰からも見えないし、話しかけても気づいてもらえない。この教室で、涼音が泣いているのを見ていることしかできなかった」
それはどんなに苦しい時間だったのだろう。そばにいるのに気づいてもらえないなんて。
「一年間、涼音はずっと悲しみ続けていた。新校舎に移る直前は、笑顔も見られるようになったけど、ふとした瞬間に泣きそうになっていた」
「そうでしたか……」
「三年生になり、校舎が変わってからはひとりぼっちになった。どうやら、僕はここに取り残されたみたい」
静かにそう言ったあと、「でもね」と自分を励ますように陸さんはニッと笑った。
「ここからでも新しい校舎はけっこう見えるんだよ。たまに廊下を歩く涼音が見えた。でも、ここから動くことができなくて……。そんなときに君が現れたんだ」
すがるように陸さんは私に視線を合わせた。こんな悲しい瞳を見たことがない。
涼音さんのことを心配し続けながら、同じ場所にとどまることしかできないなんて……。
「私が使者かどうかはわかりません。だけど、もう少し時間をください。いつか話せる日が来たらここに連れてきますから」
「一年以上も待っているから平気、って言いたいところだけど、夏休み中に旧校舎は取り壊される」
ああ、そうだった。
「旧校舎が取り壊されたら、陸さんも消えるんですか?」
「たぶん。そんな気がしてる」
「じゃあ、それまでに……」
約束をしたいけれど、どうやって涼音さんに伝えればいいのかわからない。
「いいんだよ。涼音の様子を知れただけでうれしいから」
悲しい人ほど人にやさしくなれるものなの?
陸さんの気持ちに応えたいけれど、涼音さんをもっと傷つけそうで――。
ギシッ。
足音にハッと顔をあげると、教室に黒い人影が入ってくるのがわかった。碧人かと思ったけれど、もっと小柄な人影。
窓から差しこむ青い光の手前で、その人影は足を止める。
「ここに、陸がいるの?」
その人――涼音さんが固い声で尋ねた。
「涼音……どうして?」
かすれた声で陸さんが近寄るけれど、見えていないのだろう、涼音さんは私のほうへ顔を向けた。
「あの、どうしてここに?」
代わりに聞くと、涼音さんは困った顔になった。
「実月ちゃん、でいいのかな? どうしても気になったから、強制的に海弥に白状させたの。そしたら、驚くようなことを言われて……」
「信じてくれたんですか?」
涼音さんはうなずくと、教室のなかをゆっくりと見渡した。
「この教室にいるとき、陸がそばにいてくれている気がしてたの。霊感とかはないから、そう思いたかっただけかもしれない。でも、たしかに感じた」
そう言ったあと、涼音さんが胸に手を当てた。
「今も見えないけれど、陸を感じる。ここにいる気がする」
「います。すぐそこにいます」
陸さんを指さして気づいた。彼はもう泣いていた。
悔しそうにボロボロと涙を流している。
「不思議ね。こんな青い月が出てることにさっきまで気づかなかったの」
そう言われてハッとした。あの本には、青い月の光のなかでふたりが手をつなぐと書いてあったはず。
「涼音さん、青い光のなかに入ってください」
「え? こう?」
おそるおそる足を踏み入れた涼音さんを、宝石のようにきらめく光が包みこんだ。その瞳が、陸さんの立つほうを見て大きく見開かれた。
「……陸?」
「涼音、久しぶり」
陸さんが手の甲で涙を拭った。
「ウソ……陸が、陸が見える!」
駆け寄る涼音さん。両手を広げ、陸さんが強くその体を抱きしめた。
「涼音っ!」
「会いたかった。会いたかったよ、陸」
青い光がふたりを包みこんでいる。ふたりは確かめるように何度もお互いの名前を呼び合った。
涼音さんが来てくれてよかった。ふたりが会えてよかった……。
こみあげる涙をそのままに、奇跡の再会を瞳に焼きつけた。やっぱり『青い月の伝説』は本当にあったんだ……。
体を離したふたりが、涙を流しながらお互いの顔を触った。
伝説のとおりになるなら、これからふたりは『永遠のしあわせがふたりに訪れる』はず。でもそれって、どういうことなのだろう……。
ふいに部屋を満たす青い光が薄くなった。
陸さんも気づいたのだろう、「涼音」と固い声で言った。
「謝らないといけないことがあるんだ」
「事故のことなら仕方ないよ。だって避けることができなかった――」
「違う」
ふり絞るような声で陸さんは言った。
「俺、ひどいことをした」
「ひどいこと?」
うなずいたあと、陸さんは涼音さんから背を向け、頭をポリポリとかいた。
「実は……涼音以外にもつき合っている人がいた。浮気してたんだよ」
「陸……」
「半年くらいになる。涼音は俺のことを信用してくれてたのに最低だよ。そのことを謝りたくて、ずっとここにいたんだ」
涼音さんはフリーズしたように動かない。
なにを言っているの? 陸さんの言っていることが信じられない。
「陸さん、今言ったことって本当のことですか?」
陸さんは目だけをこっちに向けた。
「うん」
「浮気をしてたんですか?」
「そう」
「そのことを伝えたくて、涼音さんを呼びに行かせたんですか?」
「最後に本当のことを言いたくて――」
「ひどい!」
言葉を遮って叫んでいた。
「浮気してたなんて最低!」
「……わかってるよ」
陸さんはふてくされたようにその場に座ると足を投げ出した。
「わかってない! 残された涼音さんがどんな気持ちになるかわからないの? なんでそんなひどいことができるの⁉」
悔しくて涙があふれる。だけど、こんなのないよ!
いい人だと思っていたぶん、怒りがこみあげてくる。こんな人を助けようとしていたなんて、自分が信じられない。
ふいに私の肩に涼音さんが手を置いた。
「実月ちゃん、私は大丈夫だよ」
涼音さんはスッキリしたような表情で白い歯を見せている。
どうしてこんな状況で笑えるの? 陸さんみたいな最低な人をどうしてかばえるの?
私から離れ、涼音さんは陸さんへ近づいた。
「陸とは中一のときからつき合ってたよね。ずっと一緒だと信じて疑わなかったから、去年の事故は悲しかった」
「……うん」
なにかをこらえるように、陸さんはジッとうつむいたまま。
「好きな人のことはわかるの。特に陸はわかりやす過ぎ。浮気してたなんて、ウソだよね?」
「……本当だって」
困ったように陸さんは頭をかいた。
「ほら、また頭をかいてる。ウソをつくときのクセだって、知ってるよ」
ハッと頭から手を離す陸さんに、涼音さんはおかしそうに笑った。
「いなくなってからも、ずっとここで私のことを見てくれてたんだよね? 新校舎に移ってからも、気にしてくれてた。それは、私が陸のことを忘れられないから」
「…………」
「忘れられるはずないよ。だって、本当に好きだったから。陸との未来を信じていたから」
涼音さんは上半身を折って、陸さんと目線を合わせた。唇をギュッと噛みしめた陸さんが目を逸らす。
「これ以上、私が落ちこまないように浮気していた、ってことにした。そういうやさしいところが、もっと好きにさせるんだよ」
「やっぱりバレたか」
あきらめたように陸さんが笑った。
そうだったんだ。涼音さんを元気づけるために、明日も生きていけるようにウソをついたんだ……。
大きく深呼吸をしたあと、涼音さんは涙をこぼしながらほほ笑んだ。
「もう大丈夫だよ、って本当は言いたい。だけど、やっぱり私は弱いから。あんな急に陸がいなくなるなんて想像もしていなかったから」
「ごめん。涼音、ごめん」
涼音さんの唇が、あごが、声が震えている。
「まだしばらくはダメだと思う。でも、私のせいで陸がここにいるなんて、そのほうがもっと悲しい。少しずつでも元気になる、って約束するから」
「涼音……」
「もう、いいんだよ? 私のことは心配せずに、旅立って……いい……んだよ」
「涼音!」
再び抱きしめ合うふたりを残し、光はもう青色かどうかもわからないほど薄くなっている。
――キーンコーン。
旧校舎にチャイムの音が響き渡った。ふたりの時間が終わりを告げているのがわかる。
私の頬にも涙が流れている。
こんな悲しい別れがあるの? お互いに好きなのにもう二度と会えなくなるなんて……。
ふたりは手を固く握り合っている。
きっと、『永遠のしあわせがふたりに訪れる』という伝説は、絆のこと。それぞれの道を進む決断を、ふたりはしたんだ。
それがふたりのしあわせにつながっているんだ……。
「しあわせにできなくて、ごめん」
苦しげな陸さんに、涼音さんは首を横にふった。
「しあわせだった。陸がいたから、ずっとしあわせだったんだよ」
「でも、ごめん」
「もう」と涼音さんは涙をこぼしながら笑う。
「お別れの言葉がそんなに悲しいと、もっと引きずっちゃうでしょう?」
涼音さんは強い人。私だったらこんなふうに笑顔を作ることなんてできない。
小さくうなずいた陸さんも、無理やりの笑みを作った。けれど、涙に負けるように顔をゆがめた。
「陸、あなたが好きだよ。ずっとずっと好きだった」
「俺も……好きだよ」
「最後は笑ってさよならを言おうよ。陸の笑顔を覚えていたいから」
陸さんが何度もうなずいてから、やさしくほほ笑んだ。
「涼音、さようなら」
「さようなら、陸」
青い光が、今、消えた。
同時に、陸さんの体は空気に溶けていった 。
チャイムの残響も消え、暗い教室にふたりきり。もうここに、青色はない。
耐え切れないように、涼音さんがその場で崩れた。
「もう、いいのかな。泣いても……いいのかな」
今度は私が涼音さんを抱きしめた。強く、強く。
「もういいんですよ。泣いてもいいんですよ」
声をあげて泣く涼音さんを、私はいつまでも抱きしめていた。
旧校舎の前で黒猫とともに涼音さんを見送った。
涼音さんの悲しみはまだ続いていく。だけど、周りの人のやさしさにいつか、その傷が癒されると私は信じたい。
足音にふり向くと、碧人がポケットに両手を突っこんで立っていた。
「終わったか」
「うん。ふたりの別れを見守ることができたよ」
思い出せば泣けてくる。
「使者になってみた感想は?」
目じりの涙を拭う私に、碧人が尋ねた。
「まだ実感がない感じ。でも、ずっと心にあった『青い月の伝説』の世界にいるんだなって……不思議な気持ち 」
そう言うと、碧人は呆れた顔になった。
「前は忘れてたくせに?」
そうか、と気づいた。私も碧人にウソをついている。
碧人を好きになり、本当の自分が出せなくなっていた。
でも、陸さんと涼音さんのように、別れはいつ来るかわからない。だとしたら、後悔がないようにウソをつくのはやめなくちゃ。
「本当は忘れてなかった。ウソをついてごめん」
謝られるとは思ってなかったのだろう、碧人がアワアワと落ち着かなくなる。
「いや、俺も……なんか、ごめん」
それから私たちは顔を見合わせて笑った。中学生のころに時間が戻ったような感覚がくすぐったくて心地いい。
「また青い月が出たら、今度は一緒に来ようよ 」
「ああ、約束な」
「うん、約束」
明日、海弥さんに会いに行こう。『いちばんの親友だ』という陸さんの言葉を伝えよう。
残された人に想いを伝えるのが使者の役目だと思ったから。
空を見あげると、銀色の月が真上で光っていた。
遠い空で陸さんが笑っている。そんな気がした。
五月の空に、半分に割れた月が浮かんでいる。まるでかくれんぼをしているみたいに、ひっそりと。
窓辺の席はこれからの季節、紫外線対策が必須だ。前の席の梨央奈なんて、休み時間のたびに日焼け止めのスプレーを体中に吹きかけている。
それにしても眠い。『春眠暁を覚えず』と昔の人は言ったそうだけれど、季節や時間に限らず、私はいつでも眠い。昼休みあとの授業となればなおさらだ。
苦手な『社会福祉基礎』の授業ということもあり、脳が拒否しているのか勝手にまぶたが閉じてしまう。
芳賀先生がこの授業を担当している。名前は範子で、歳は四十五歳。
明るい性格でいつも大声で笑い、クラスメイトは陰で『ガハ子』と呼んでいて、本人の耳にも入っているようだが気にしていない様子。
ショートカットの髪で、制服だと言わんばかりにいつも同じ黒色のジャージを着ている。
「はい、次のページ行くよ。ここテストに出すかもしれないし、出さないかもしれないよ」
「どっちなんですか」
ムードメーカーの三井くんのツッコミに、
「ガハハハ」
といつものように大笑いしている。
そんな、月曜日の午後。
あの不思議な体験から一カ月が経とう としている。
今日の全校集会で、久しぶりに涼音さんを見かけた。私を見つけると、大きく手をふってくれた。
少しずつでも元気になってくれるといいな……。
と、突然教室に悲鳴があがった。
「ねね、見て!」
梨央奈が教壇のほうを指さしている。
「え……?」
「ほら、猫ちゃん」
見ると、教壇の上にあの黒猫がちょこんと座っていた。
芳賀先生は猫が苦手らしく、
「誰か、どっかやってちょうだい!」
半泣きでさわいでいる。
「かわいい」「どこから来たの?」「名前はなんていうの?」
女子を中心に声をかけているが、黒猫は胸元の白毛を誇示するように私をまっすぐに見つめてくる。いや、にらんでいる。
……ヤバい。
五月の連休が終わってすぐのころ、昼間に薄い青色の月が出たことがあった。すぐに気づいたけれど、なかったことにしてやり過ごしてしまった。
『青い月の伝説』は碧人との思い出の本。青い月を見つけたときはうれしかったし、私にできることをしようと思った。
でもまさか、幽霊の悩みを解決することになるなんて思っていなかった。
使者として幽霊の役に立てたのはうれしかったけれど、私が夢見ていたのはそういうのじゃない。
伝説のように碧人と手をつなぎたいけれど、そもそも恋人同士じゃないから参加資格もない状態だし……。
「そっち行った!」
男子のひとりが叫び、みんなの視線が一斉に集まる。
「あ……」
黒猫は優雅に私の足元へ来ると、
「にゃあ」
とひとつ鳴いた。
触ろうと手を伸ばす三井くんを優雅にかわし、黒猫は教室の壁側の席へ移動した。
その席に座っている女子は、持田葉菜さん 。
入学当初から不登校気味で、顔を見るのは週に一度か二度。ウワサでは近いうちに普通科へ移ることになるそうだ。
持田という苗字の人がクラスにふたりいるので、みんな名前で呼んでいるけれど、きっと話したことがある人はほとんどいないんじゃないかな。私も、そうだし。
登校してもいつも机に突っ伏していて、クラスメイトとの交流を避けている。今も、黒猫に気づかず、両手を顔に押し当てたまま身じろぎひとつしない。
黒猫が私をもう一度見て、
「にゃあ」
と鳴いたあと、やっと教室から出て行ってくれた。
「はい、それじゃあ続きをやるから集中して」
芳賀先生は黒猫を見なかったことにするらしい。椅子を鳴らしてクラスメイトが前を向く。
「あの猫、実月に話しかけてなかった?」
「そんなわけないでしょ」
梨央奈の問いに答えてからため息をつく。猫語はわからないけど、なんとなく言いたいことはわかる。
『今度はちゃんと来いよ』
そう伝えに来たのだろう。
放課後になり、月の色が青く変わりはじめている。
もう理解した。伝説における私の役割は『使者』のみで、この世に思いを残 した幽霊の手伝いをしなくてはならない。黒猫はその予告をしに教室まで来たのだろう。
空ばかり見てしまうのは、恋を知ってから。青い月をもう一度見ることができれば、言葉にできない願いが叶うかもしれない、と信じてきた。
やっと見ることができたのに、叶わないどころかこんな役割を押しつけられるなんてあんまりだ。
「すごい夕焼けだね」
荷物をまとめながら梨央奈が言うけれど、月の周りだけは青く染まっている。
青い月が見られるのは、私と碧人と幽霊と、その幽霊 が会いたい人だけということだろう。
今回は碧人と一緒に旧校舎へ行ってみよう。恋人同士じゃなくても、伝説にあるように手をつないでみるのはどうだろう。ひょっとしたら、なにかが起きるかもしれない。
そんなことを思っていると、梨央奈が私にスマホの画面を見せてきた。
「ポテトの無料クーポンをゲット。帰りにちょっと寄ってかない?」
「あーごめん。ちょっと約束があるんだ」
「約束?」
約束をしたわけじゃないけれど、きっと碧人は旧校舎に行くはず。
「碧人って覚えてる?」
「え? それ誰のこと?」
スマホに目を落としたまま梨央奈が尋ねた。
「スポーツ科にいる幼なじみ。前に梨央奈にも紹介したことあるじゃん。同じマンションに住んでるから、今でもたまに会ってるんだよね」
「へえ」
テンションを落とす梨央奈に「違うよ」と、慌てて言う。
「そういう関係じゃないから」
「別に疑ってないよ。ただの幼なじみなんでしょ?」
梨央奈がひょいと席を立った。
「クーポン五月末までだから、中間テストが終わったら行こうよ。ただし、ふたりきりでね。男子って苦手だから」
「もちろん」
「じゃあ、またね」
梨央奈が教室から出ていくのを見送った。
ヘンな雰囲気にならなくてよかった。誰かと話をするたびに相手の顔色ばかり窺ってしまう。自分を変えたいと思うけれど、どうやって変えていいのかわからない。
学校でも勉強ばかりじゃなく、そういうことを教えてくれればいいのに。福祉の授業で『コミュニケーション技術』とかはあるけれど、どれも高齢者に対しての接し方についてばかりだし。
荷物をまとめ、旧校舎へ向かうことにした。
階段をおりていると、
「よう」
と、うしろから声がかかった。
ふり向かなくても誰かわかる。碧人がかろやかに階段をおりてくる。
「碧人も見えてるんだよね?」
「六時間目くらいからどんどん青くなってる。ついに来たか、ってテンションあがりまくり」
昇降口へ向かいながら、やっぱり胸がドキドキしてしまう。
前回、旧校舎へ行ってからは学校でも話しかけてくれることが増えた。とはいえ、碧人のクラスメイトがいない場所でのみだけど。それでも、気づかないフリをされる より何倍もマシだ。
私も自分の気持ちを――といっても、好きな気持ち以外は伝えるようにしている。
「不思議だよね。なんで私と碧人だけ、青い月が見えてるんだろう?」
「伝説について知ってるのが俺たちだけだから。信じている人にしか見えない、みたいな?」
「それはあるかもね。梨央奈は見えないみたいだし。でも、ちょっと怖い。前のときは……大変だったから」
「たしかに幽霊に会うのって怖いよなあ。まあ、いざとなれば逃げればいい。それにこれ」
と、碧人がパンツの裾をめくった。
「実月がくれたミサンガが守ってくれるはず」
「ミサンガは願いごとをするためのもの。魔除けじゃないんだからね」
「似たようなもんだろ」
碧人は気楽な性格。つい考えこんでしまう性格の私からすればうらやましい限りだ。
旧校舎が近づくと、『立ち入り禁止』の看板の前に誰かが立っているのが見えた。
「碧人、誰かいる」
足を止めてそう言うが、
「幽霊がお迎えに来てんのかな?」
碧人はむしろ早足に進んでいってしまう。
看板の文字を眺めていた女子生徒が、ハッとふり向いた。
その顔を見て葉菜さんだと気づく。うつむいていることが多いから、ちゃんと顔を見るのは久々だった。
黒髪をひとつに結び、意志を感じる瞳にキュっと引き締まった唇。白い肌が、月の光のせいで青白くも見える。
そういえば、あの黒猫は葉菜さんの席の前で鳴いたよね……。
「あれが幽霊なのかな?」
「ちょっと、失礼でしょ!」
幸い、葉菜さんには聞こえなかったらしく、むしろ私を見て驚いている。
碧人は「そっか」と平然とした顔をしている。
「幽霊は旧校舎から出られないんだっけ?」
いや、失礼なのはそこじゃない。葉菜さんのもとへ向かうと、おびえた瞳であとずさりをされてしまった。
「あの……」
声をかけるのと同時に、葉菜さんは走り去ってしまった。
「なんだあれ」
呆れた顔で見送る碧人に、
「同じクラスの持田葉菜さん。ここでなにをしてたんだろう」
そう尋ねるが「さあ」と肩をすくめている。
「今度聞いてみれば? それより暗くなる前に入ろうぜ」
葉菜さんとは一度も話したことがないし、そもそも聞く勇気なんて出ない。
裏手に回ると、桜の木が緑の葉を茂らせていた。碧人は開いている裏口から、さっさとなかに入ってしまった。
私も入ろうとしたけれど、やっぱり勇気が出ない。
でも今回は碧人が一緒だし、使者として呼ばれたわけではないかもしれない。
深呼吸をして、校舎に足を踏み入れようとしたときだった。
「こら! そこっ!」
突然の大声に飛びあがりそうになる。見ると、芳賀先生が大股で歩いてくる。
「空野さんじゃないの。ここは立ち入り禁止でしょ」
「あ、すみません」
謝りながら裏口を見ると、碧人が顔だけ覗かせていた。どうやら私だけ見つかってしまったらしい。
「こんなところでなにしてるの? ひょっとしてデートとか?」
自分で聞いておいて、「ガハハ」と芳賀先生は豪快に笑った。
「そんなわけないか」
「失礼じゃないですか。私だってそういうことがあるかもしれないし」
「あるかもしれないってことは、今はないってことだね」
こういうところが芳賀先生のおもしろいところだ。また大声で笑ったあと、芳賀先生は目を細めて旧校舎を見た。
碧人がサッと隠れるのが見えた。
「この校舎に去年までいたなんて不思議ね」
「芳賀先生はこの学校、長いんですよね?」
「教師になってからずっとだからね。それこそ二十代のピチピチのときからだし。でもさ……」
と、芳賀先生は声のトーンを落とした。
「夏休みの間に解体しちゃうんだってさ。さみしい気もするけど、これも時代の流れってやつだね」
たった一年しか過ごさなかった私よりも、芳賀先生のほうがたくさんの思い出をこの校舎に残している 。
「そういえば、さっき葉菜さんと一緒にいなかった?」
芳賀先生は葉菜が立ち去ったほうへ目をやった。
「入れ替わりに帰ったみたいです」
逃げられた、とは言えずにごまかした。
「葉菜さんにたまに話しかけてあげてくれる? あの子もいろいろ悩んでるからさ」
「なにを悩んでいるんですか?」
私の質問に、芳賀先生は「ふふ」と小さく口のなかで笑った。
「そういうのは自分で聞かなくちゃ」
「でも……ほとんど話をしたことがなくって」
「空野さんは卒業したら介護の世界に入るのよね? いろんな高齢者の方や家族の方の悩みを聞くことになるんだから、対人援助技術を――って、ごめん。余計なことだわ」
「いえ。先生の言うとおりです。私、なかなか自分から話しかけられなくて……。相手を理解することが得意じゃありません」
芳賀先生は軽くうなずくと右手の指を三本立てた。
「大事なのは『受容』と『共感』と『傾聴』よ」
『受容』は相手をそのまま受け入れること。『共感』は文字どおり、相手に共感すること。『傾聴』は、耳を傾けて相手の話を聞くこと。高齢者のなかには、自分の言いたいことを伝えられない人もいるので『声なき声』を汲み取る必要がある、と授業で習った。
でも、実践するとなれば話は別。どうやっていいのかわからない。
難しい顔をしていたのだろう、芳賀先生が「ガハハ」とまた笑った。
「習うより慣れろって言うじゃない? 思い切って話しかけてみるのがいちばん。興味半分じゃなく、寄り添いたいっていう気持ちでね」
ウインクしたあと芳賀先生が「あ!」と声をあげた。
「いけない。職員会議がはじまっちゃう! 空野さんも早く帰ること!」
風のように去っていく芳賀先生を見送っていると、
「あぶねー。まさかガハ子が来るなんて」
碧人が顔を出した。
「ガハ子じゃなくて、芳賀先生でしょ」
旧校舎に入ると、そこはまるで海のなか。窓から差しこむ青い光が、廊下を照らしている。
「こんな青いのに、誰も見えないなんて不思議だよね」
「俺たちふたりだけの特権ってこと」
ふたりだけ、という言葉に胸がジンと熱くなった。気づかれないように平気な顔であたりを見回した。
いつか、好きだと言える日が来ればいいな。ずっと、そんな日が来なければいいな。
相反する気持ちのまま階段のほうへ目を向けると、あの黒猫が座っていた。私と目が合うと、前回と同じように階段をのぼっていく。
「君、授業中に来るのは反則だからね」
文句を言う私に、
「へ? こいつ教室まで来たの?」
碧人がうしろから尋ねてきた。
「ゴールデンウィークのあとに青い月が出たことがあったよね? そのときに行かなかったから、今回は迎えに来たみたい」
「あの日は俺も用事があったからなあ」
青い月を見た翌日、マンションの前で碧人に報告したところ、同じことを言っていた。その日は親戚の人が来ていたらしく、急いで帰らなくてはならなかったそうだ。
黒猫は三階の踊り場を越え、さらに上にのぼっていく。先を行く碧人の足首から、ミサンガがチラチラ見えていて、それがうれしい。
四階も通り過ぎた黒猫。どうやら屋上へ向かっているらしい。
「屋上に行くの? だったら靴を持ってくればよかった」
黒猫は答えることもなく、鉄製のドアの前へ進む。
「屋上なんて、めっちゃテンションあがるわ」
ワクワクを隠しきれない碧人が興奮したように小鼻をふくらませている。
「碧人は来たことあるの?」
「ないよ。ここはカギ閉まってたし」
黒猫はドアの前で、ちょこんと座っている。まるで人間の言葉を理解しているみたいな顔に見えた。
「行く前に質問してもいい?」
膝を曲げて黒猫と目を合わせる。
「『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』っていう伝説は本当のことなんだよね?」
黒猫は、褐色の瞳で私を見つめ返すだけ。
「今回も私は――私たちは『使者』ってこと?」
ダメだ。なにも答えてくれない。
どちらにしてもこのドアの向こうに誰かがいる。それが幽霊だった場合は、私たちは『使者』になり、相手が『使者』だった場合は私たちに永遠のしあわせが訪れる。
扉にはカギがかかっていなかった。想像以上に重いドアを押すと、悲鳴のような音を立てて開いた。
「わあ……」
思わず声が出てしまった。
屋上が、まるでプールみたいに真っ青に染まっている。頭上で光る月は、さっきよりも濃い青色の光をふらせていた。
「すげえな。プールのなかにいるみたい」
碧人が私と同じように感じてくれていることにうれしくなった。
――キーンコーン。
チャイムの音が青い世界に響く。これも聞こえているのは私と碧人だけなのだろう。
歩きだす黒猫についていく。私の手も青色に光っていて、まるで夢のなかにいるみたい。
「あそこ見て」
碧人が指さす先に、ひとりの女子生徒が立っていた。
手すりに手を置く横顔。長い髪が風の形を教えるようになびいている。
黒猫がやって来たことに気づいても、女子生徒はチラッと見ただけですぐに顔をもとの位置に戻してしまった。
碧人は、と横を見るといつの間にか数歩うしろに下がってしまっている。
「碧人?」
「え? あ、うん。俺はいいから実月だけ行って」
碧人は昔から、幽霊とかUFOとかのオカルトものが好きだった。みんなで集まったときにそういう話題を出して くることも多かった。
『三丁目の空き家に幽霊が出るらしい』とか、『駅裏の神社で火の玉を見た人がいるんだって』とか。なのに、実際に行くとなると、誰よりも先に離脱した。
「忘れてた。碧人、幽霊が苦手だったね」
「べ、別に怖くない。なんだろう、足が動かなくなった。これはたぶん、事故の後遺症だな」
完全に怖がっている。
ひとりで話しかけるしかないってことか……。
不思議と怖い気持ちはなかった。ここで逃げて帰ったら、あの黒猫がまた呼びにくるかもしれないし……。
心のなかで『受容』『共感』『傾聴』の三つの言葉を唱える。
ゆっくり近づくにつれて、女子生徒の顔に見覚えがないことがわかった。旧校舎にいる時点で一年生ではなさそうだから、おそらく三年生だろう。ノーメイク の横顔には、前回と同じように悲しみの感情があふれている。
身長も高く、モデルになれそうなほど美しい人。腰までの長い髪が、月のせいで青い艶を放っている。
彼女が、私に気づき顔を向けた。遅れて髪が弧を描くように宙に舞った。その瞳に輝きはなく、黒目は平面に見えるほど真っ黒な色をしている。
もう、わかる。彼女は幽霊だ。今回も私は『使者』なのだろう。
小さく深呼吸してから頭を下げる。笑顔になっていないことに気づき、あとづけでぎこちなくほほ笑む。
「突然すみません。空野実月といいます。この子に呼ばれてきました」
黒猫を見るが、もう役目は終わったとばかりにその場で横になっている。
「……の?」
ボソッと彼女がなにか言ったので、視線を戻すと同時に固まってしまう。彼女の表情は、どう見ても怒っていたから。
「あの……私――」
「なんで話しかけてくるの、って聞いてるんだけど」
鋭い言葉にギュッと口をつぐんだ。
さっきまで黒かった瞳が、赤色に変わっている。燃えるような瞳は、彼女の怒りを表わしている。
ここで逃げちゃダメ。前回と同じように、彼女もきっと助けを求めているはず。
「なにか、私にできることはありますか? どうしてここにいるのか教えてもらえれば、役に立てるかもしれません」
どんな内容でも受容し、共感する。話していることをしっかりと傾聴する。そうすることできっと――。
「なんで初対面のあなたに教えなくちゃいけないわけ? 何様のつもりよ」
たくさんのヘビが頭をもたげるように、彼女の髪がゆらりと広がる。理解したいという気持ちはあっけなく打ち砕かれ、もうあとかたもない。
膠着状態が続くなか、彼女は背を向けた。
「帰ってよ。二度とここへは来ないで」
拒絶の言葉が、私と彼女の間に大きな壁を作った。
帰り道、碧人は青白い顔していた。
月のせいだけじゃない。初めて幽霊に会ってしまい、ショックを受けているのだろう。
夜道に私たちの足音だけが響いている。
月はさっきよりも青色を薄め、銀色に近くなっている。
マンションのそばまで来てからやっと碧人は足を止めた。
「さっきはごめん。なんか、驚いちゃってさ」
「私も最初に見たときはびっくりしたから」
「なんにも言えなかった。俺、情けないよな」
「そんなことないって。碧人がいてくれただけで、ずいぶん心強かったし」
最近は素直な感情を言葉にできるようになっている。もちろん、好きだとは言えないけれど、私にとっては大きな一歩だ。
「あの女性、すごく怒ってたよね」
世界のすべてが敵だ、というような顔をしていた。
「でも、悲しそうにも見えたよな」
「『青い月の伝説』だと、誰かと手をつながないとしあわせになれない。きっと、会いたい人がいるんだと思う」
もし私が突然、この世から消えることになったとしたら、お母さんに会ってお礼を言いたい。梨央奈にもさよならを言いたい。
でも、碧人には……どうだろう。会ってしまったら余計に悲しくなりそうで。
「俺はさ」と碧人があごをあげた。さっきまでの青色を忘れた月が、銀色の光をサラサラとこぼしている。
「人は死んだらそれで終わりだと思ってた。でも、違うんだな。幽霊になってこの世に残ることもある。旧校舎に閉じこめられて動けないとしたら、悲しいしムカつくと思う」
宙をにらむ碧人から目を逸らしたのは、彼女になにも言えなかったことが恥ずかしかったから。せめて名前だけでも聞けばよかった。
いつもこうだ。あとになって後悔ばかりしている。
「気にすんなよ」
「え?」
ニッと励ますように、碧人が笑みを作る。
「なんにもできなかった俺が言うことじゃないけど、気にすんな。いきなりあの態度はないし」
落ちこんでいることをわかってくれたんだ。たったひと言で、重くなっていた気持ちがふわりと軽くなった気がした。
好きだよ。言葉には絶対にできないけど、碧人のことが好きなんだよ。
「気にしちゃうけど、気にしないようにする」
あふれそうな感情にフタをして答えた。
もうすぐエントランスというところで、ふと、碧人が足を止めた。
「どうかした?」
「あのさ」と言う碧人の声が、さっきよりも低い。
「実月に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
改まった口調で碧人は背筋を伸ばした。
「え……なに?」
「たいしたことじゃないんだけど、六月になったら引っ越しをすることになってさ」
マンションに目を向ける碧人。言葉の意味は数秒遅れで理解できた。
「引っ越すって……なんで?」
頭の奥のほうで頭痛が生まれるのがわかった。鈍い痛みが、思考を止めようとしているみたい。
碧人が引っ越しをする? ここからいなくなるってこと?
「親が転勤になってさ、じいちゃんが住んでる奈良県に行くことになったんだよ」
「奈良……」
潮が引くように、体から温度がなくなっていく。碧人は……なにを言ってるの?
「転勤先は大阪府だから、通勤は大変みたいだけどな」
「待ってよ。ぜんぜんたいしたことある話なんだけど 」
おかしな日本語になってしまう私に、慌てた様子で碧人が手を横にふった。
「違う違う。行くのは親だけだから。俺はこの街に残るってこと」
息をしていないことに気づき、大きく酸素を吸いこんだ。
「あ……おじさんとおばさんだけ? なんだ……びっくりした」
「ごめん。言い方が悪かった」
「私こそ、早とちりしちゃった。あ……でも、碧人もマンションから出るってこと?」
「うん」
最悪の想像をしていただけに、泣きそうなほどホッとしている。碧人はやさしく目を細めてから、今歩いてきた道を指さした。
「うちのマンションはひとりだと広過ぎるから誰かに貸すんだって。俺は駅前の安いアパートに住む予定」
「そうなんだ。じゃあ、来月は忙しいね」
「それより最悪なのは、六月の『研修旅行』だよ。なんたって行き先が奈良県だし」
「ああ」とやっと笑えた。
来月、専門学科のクラスを対象に、二泊三日で研修旅行が開催される。いくつかの班に分かれて、それぞれの専門分野の知識を深めるというもの。普通科の人は秋に修学旅行という名目で北海道へ行くそうだ。
「これから何度も奈良に行くことになるのに、学校でも行かなくちゃいけないなんて」
嘆く碧人に、クスクス笑ってしまう。碧人がいなくなるかも、と思った直後だから、いつも以上に楽しい気分。頭痛もどこかへ消えたみたい。
「笑うなよ。俺はかなりショックを受けてるんだから」
「でも、ひとり暮らしをするなんてすごいね」
「マジ勘弁だよ。幽霊が出たらどうすんだよ」
ふくれ面のまま再び歩き出そうとする碧人が、ふと足を止めた。
マンションの向かい側には、一軒家がいくつか並んでいる。私たちのそばに建つ二階建ての家から誰かが出てきた。私と同じ制服を着ている女性は、ポストのなかを確認している。その顔に見覚えがあった。
「え、葉菜さん?」
手紙を手にした葉菜さんが、ハッとふり返った。一瞬視線が合ったけれど、葉菜さんは急ぎ足で玄関のなかに消えてしまった。
「旧校舎にいたクラスメイト? 幽霊でも見たみたいな顔してたな」
碧人が呆れた顔でそう言った。
「こんな近所に住んでいたなんて知らなかった……」
「この家ができたのって三年くらい前じゃなかったっけ。それまでは空き地だったし」
新しい家ができたのは知っていたけれど、誰が住んでいるかは知らなかった。
「同じクラスなら聞いてみれば? それより腹減ったから帰ろう」
スタスタと歩きだす碧人。
今度会ったら聞いてみたいけれど、葉菜さんは誰とも話をしないから拒否される可能性は高い。そう……さっきの幽霊みたいに。
「あっ!」
うわん、とホールに私の声が響いた。
「なんだよ。びっくりさせんなよ」
碧人が目を見開いて文句を言うけれど、それどころじゃない。
さっきの幽霊と葉菜さんが似ていることに気づいたのだ。いや、似ているというレベルじゃない。髪型や見た目、雰囲気までなにもかも同じだ。
「あの、さ……さっき旧校舎で会った幽霊、葉菜さんに似てなかった?」
なんで気づかなかったのだろう。幽霊は葉菜さんより年上に見えたから、ひょっとして姉妹とか……?
だけど碧人は興味なさげに「さあ」と首をひねった。
「葉菜って子は一瞬しか見てないし、そもそも幽霊は怖くて直視してないからわからない。そんなに似てたっけ?」
「……どうだろう」
さっきまであったはずの確信がぼやけていく。
同じ制服を着て、同じような見た目だからそう思ったのかな……。
「それより引っ越しのことなんだけど、親とか友だちにはまだ内緒にしといてくれる?」
急カーブで話題を戻す碧人に、少し遅れてうなずく。
「でも、もう来月の話なんだよね?」
「いろいろ言われるの、苦手だから」
そう言うと、碧人は自分の棟のエレベーターへ向かった。ケガをしたときもそうだったから、すぐに理解できた。
「わかった。内緒にしとく」
「約束な」
私もエレベーターに乗りこむ。ふり向くと、碧人はまだその場で軽く手をふっていた。
ふたりだけの約束というのも悪くないな、と思った。
家に着くと、珍しくお母さんがキッチンに立っていた。
「今日は有給休暇を取ったんだっけ?」
ダボダボのトレーナー姿に、髪にはヘアバンド。おそらく一日中寝ていたのだろう。
「なによ。まずは『ただいま』からでしょ」
「ただいま」
「おかえりなさい。今度の日曜日、空けてるわよね?」
日曜日はお父さんの命日だ。墓参りに行くことは、スマホのスケジュールに登録してある。
五歳のときに亡くなったから、写真でしか顔は見られないし、はっきりと思い出せるエピソードも少ない。それでも、この家にはまだお父さんのにおいが残っている気がする。
「空けてるよ。お父さんが好きなお饅頭を買っていくんだよね」
手を洗ってから部屋で着替える。机の上に、お父さんと昔撮ったツーショットが飾られている。
「ただいま、お父さん」
私を膝に載せて笑う写真のなかのお父さん。顔をくしゃくしゃにして笑っているせいで、おじいちゃんっぽく見えるこの写真がいちばん好き。
お父さんは亡くなるとき、どんな気持ちだったのだろう。もし人が幽霊になるのだとしたら、どうしてお父さんは私の前に現れてくれないのだろう。
でも、使者としてお父さんに会うのは嫌かも。なにか頼まれても、それをすることでせっかく会えたのに消えてしまうなんて悲し過ぎる。
違う。お父さんに思い残しがあることのほうがもっと悲しい。
キッチンに戻ると、すでに夕食の準備が終わっていた。今夜は私の好きなハンバーグだ。
お父さんって、亡くなる前はどんなふうだったの?」
ハンバーグに箸を入れながら尋ねると、お母さんは目を丸くしたままフリーズした。
「え、なに?」
しばらくしてお母さんはゆっくり首を横にふった。
「実月がお父さんのことを聞くなんて珍しいからびっくりしちゃった。なにかあったの?」
「そうじゃないけど、最期、どうだったのかなって」
「うーん」
お母さんがお茶を両手で抱いた。
「ドラマみたいな感じじゃなくてね、意外とあっさり亡くなったの」
「そうなんだ」
「お父さん、昔から『人生会議』が好きだったから、覚悟はできてたんだろうね」
「なにそれ」
初めて聞く言葉だ。
「アドバンス・ケア・プランニングって言うんだけど、いざというときに困らないように、『自分の最期はどうしたいか』について普段から話し合うこと」
「へえ……って、ごめん。よくわからない」
普段から話し合うってどういうこと? そんな暗い話題、私ならしたくない。
「たぶんそのうち学校で習うわよ。介護とか医療の現場で使われてる言葉だし、お母さんたちの仕事でも最近よく出てくるから」
「お父さんはそういう話をよくしてたの?」
「たとえば、介護が必要になったらどうするか、病気になったらどんな医療を受けたいのか、最後の食事はなにがいいかとか。そういうことを常に話したがる人だった。今思えば、虫の知らせみたいなものがずっと あったのかも」
お父さんの病気は、予告もなく突然発症したと聞いている。たった数日で亡くなったとも。
「お父さん、どういう話をしてたの?」
「それがねえ」とお母さんは苦笑した。
「自分のことよりも、私と実月のことばかり話してた。でも、『自分がもし病気になっても、確実に治る見こみがなければ延命治療をしない』っていうのは、口ぐせのように言ってたの」
「そうなんだ……」
私ならどうするだろうか。自分が死ぬときのことなんてとても考えられない。
「最後の会話も『じゃあ、おやすみ』って、眠るように亡くなったのよ」
ふう、と息をついたお母さんが「でもね」とほほ笑んだ。
「すごく安らかな顔だったの。お父さんはノートに、人生会議で話したことをぜんぶ書いて残してたの。それこそ、お葬式で流す曲まで指定されてたのよ」
遠い記憶のなかにいるお父さんは、いつも冗談を言っては笑っていた。明るくて頼りがいがあって、やさしい人だった。
残された私たちも悲しいけれど、残すほうのお父さんはもっと悲しかっただろうな……。
「お父さんは、思い残しがあったと思う?」
「思い残し?」
サラダをほおばりながらお母さんが聞き返す。
「なんていうか……。たとえば幽霊になってでもこの世に残りたいような、そういうこと」
「それはあったんじゃないかな。お母さんや実月のことを心配してくれていたからね。でも、あれだけ人生会議をしてきたんだから、ほかの人よりはなかったと思うわよ」
自分の運命と向き合ったお父さんはすごい。
私は……まだムリ。少し先の未来さえ霧がかかっているみたいに見えないのに、いざというときのことを考える余裕なんてない。
それは、旧校舎にいる彼女も同じだったに違いない。誰だって、この世から自分が消えるときのことなんて考えられない。
きっと私だけじゃない。毎日テレビで流れる悲しいニュースだって、誰もが『自分には関係のないこと』と思いこんでいる。
夕食が終わっても、お母さんはお父さんの思い出話を次々に披露してくれた。
お父さんに会いたい気持ちはあるけれど、幽霊になっていたとしたら悲しいな。
だって、幽霊になるということは、この世に思い残しがあるということだから。
幽霊になったお父さんと会うくらいなら、その思い出とともに生きていきたい。そう思った 。
「じゃあ、私たちも人生会議をしましょうか」
お母さんがそんな提案をしてきたから、
「ごちそうさまでした」
と、部屋に逃げこんだ。
部屋に飾ったお父さんの写真が、苦笑しているように見えたのは気のせいだろう。