喫茶『すゞき』。
Y字路の、Yの上の三角形の部分に立っている小さな喫茶店。
『すゞき』はまだ早い時間だから開いていなくて、というよりよく言えば緑のカーテン、悪く言えば肝試しに使えそうな廃墟といった佇まいで私たちは開店しているところを見たことがなかった。
ここがちょうど私と隅川の通学ルートの合流地点で、だから集合場所だった。朝七時半にここに集合して、三十分くらい歩いて学校に向かう。

「おはよ」
彼はいつも私より五分遅れてやってくる。急いだ様子はなく、眩しいのか眠いのか瞬きを頻繁にして、だらしなく制服を乱して気だるげ雰囲気を醸しだている。声だけは少し舌っ足らずな幼い声をして。
「うん。おはよ」
私は自分より少しだけ低い位置にある彼の髪を指で梳かす。何もケアしていないのに羨ましいくらいにサラサラとした髪は少しも引っかかることなく、けれど汗で少しだけベタついていた。彼でも汗かくんだ、なんて至極当たり前なことを思った。
後ろから足元を蹴っ飛ばして、踵を踏んだ靴をちゃんと履かせる。
しっぽみたいにだらんと垂れ下がった後ろ側のシャツをお尻に突っ込み、ぽんと背中を叩いた。
「よし、行こ」

夏は好きな方だと思う。夏服にするのは学校で一番くらい早かったし、かき氷もちょっと寒いと後悔する季節にはすでに食べていた。どうしてだろう。夏が近づく気配はあんなにもワクワクするのに、いざ夏本番になると前言撤回、こんなにも鬱陶しい。蝉の鳴き声も、気づいたら痒い虫刺されも、少し歩くだけでアイスを欲する私の喉も。
『すゞき』から見渡せる山肌の緑が少しでも清涼感を出そうと必死に見える。絵の具の混ぜる前の原色みたいな空と、唯一混色で作れない雲の色を足しても、私を少しも涼しくしてはくれない。モクモクと立ち昇る入道雲は一体いくつのモクを積み上げればあんな形になるんだろうか。
通学路三年目にして、綺麗だなんて言っているほうがアホだ。

思わずパタパタとスカートをはためかせると、隣で彼がそっぽを向いた。
私も少し恥ずかしくなった。脳内ほとんど寝ている癖に、こういうことにはちゃんと反応するんだから。

「今日の気温三十五度まであがるらしいよ」
「そうなんだ」
「まじで溶けるよね」

彼の歩調は私のそれよりも少し遅い。下り坂の続くこの道では特にその差は顕著になる。私は彼から遠い方の右のブレーキだけ優しく握りながら自転車を押した。

「眠い?」
「うん」
「昨日何時に寝たの?」
「三時くらいかな」
「おそっ。何してたの?」
「小説」
「新しいの書き始めたんだ?」
「うん」
読ませてよって言ったら、きっと彼はうまく濁すこともできずに「ごめんね」って言うのだろう。

隅川が鼻を啜った。ただ前だけを見て歩く彼は水族館で泳ぐアシカみたいだ。私は水槽の向こうからただなんとなく気持ちよさそうだななんて思いながら眺めているだけの人。
自転車のブレーキがキーっと耳障りな音を立てたから、右手を少しだけ緩めた。

「ねえお願いしていい?」
「いいよ」
「“最終日”で広げてほしい」
彼は時折こうしてキーワードを告げる。書いている小説が行き詰まった時、ひとつのキーワードから自由に発想を飛ばして思考を広げてほしいという。
書いている途中の小説は誰にも読ませない彼が、唯一その完成前の小説にちょっとだけ爪をかけられるこの時間。清々しいので、これまで私が広げたキーワードが一度も作品に登場していないことは言及してあげないでおく。

「開放感」
つい最近学期末のテストが終わった。
「打ち上げ花火」
テスト終わったから、ようやく見れたバンドライブの見逃し配信がツアー最終日だった。
「缶ビールをプシュッと開ける音」
ボーカルがMCでビール飲みたいと言っていた。
「平手打ち」
この前彼氏と別れたきいちゃんが最後にしたらしい。
「高架橋下デート」
別れた現場。
「安心感」
別れたと聞いた時私に最初に浮かんだ言葉。最低なやつ。
「メロンソーダの底に残ったさくらんぼ」
好きな映画のラストシーン。
「翌月まで残る松葉杖」
バスケ部のキャプテンは最後の大会で怪我をして、最近松葉杖が取れた。
「体育館の真ん中に貼られた一面コート」
で最終日は試合できるんだとそのキャプテンが言っていたような。
「高架橋」
で最後の大会後にデートしようと約束していたらしい。
「横断歩道の白いところ」
白線からはみ出るとこの世界が終わってしまうと思っていた気がする。
「堂島ロールの甘くないクリーム」
白線を踏まなくなった私の世界が明日終わるとしたら、堂島ロールを食べることなく死んでしまう。
「思い出せないもの」
梅雨が終わった日も、昨日ベッドの上で意識が切れた瞬間も。全て思い出せない。だから区切りがない。誰も教えてくれない。

「橋の下二回出てきた」
「うそ」
「ほんと」
「きいちゃんからもキャプテンからも聞いたから」
「あと、さくらんぼってどういう発想?」
「え? ああ、いやただ好きな映画のラストシーンってだけだけど。ごめん最終日からはちょっと遠いかも」
「いや全然いい。もっとちょうだい」
「クリームのついたケーキの包装ラップとか、半分だけ残ったガムシロップとか、最後の一個の餃子とか」
「それも好きな映画?」
「これはさくらんぼからの発想。食事の最後に残るものってなんだろうって感じかな」
「なるほどね。残るもの」

彼はそこで口を閉じた。行き詰まっているシーンを思い浮かべて、さくらんぼをそこに浮かべているのだろうか。
様々な言葉の海の上に真っ赤でまんまるなさくらんぼが浮かんでいる様子を想像してみた。広大な海の上にぽつんとひとつのさくらんぼ。なんだか面白い。
さくらんぼがぷかぷかと浮かぶ様子を私たちは高架橋下で見ている。高架橋下へは私だけが自転車で、彼はきっと歩きでそこまでくる。小説を書いているのか、それとも読んでいるのか、私はそれを眺めている。顔を赤らめるなんてことは彼は想像の中ですらしてくれない。してくれないかなぁ。
高架橋にふたりの相合傘でも書いてやろうかな。

ぷかぷかと沈むこともなくただ揺られていたさくらんぼが急に沈み出した。違う、海がどんどん減っていっているんだ。雲の上にいる神様みたいな人が海にストローを刺してちゅーちゅーと吸っている。だんだんと海の水は少なくなっていって、海も最後には空気を吸うようなジュルジュルとした音を立てた。そして、さくらんぼだけが残る。雲の上にいるそいつはさくらんぼはやはり食べなかった。
私もさくらんぼは食べない派。

隅川が書いている小説はこんな話ではない。これは私の平凡な想像力が描く、実現しない恋愛妄想。
途中のものは読ませてくれないけれど、隅川の完成した小説を一番最初に読むのはいつも私だった。たったふたりだけの文学部、形だけの文学部部長、出席番号が前後だったから最初の席が近かった、学校の中でマイノリティである山組。私の努力とは全く別のところからやってきた環境だけが私を特別にしてくれている。

「でもそれももう終わりかも」
「なんか言った?」

私は自転車に乗って、下り坂を一気に駆けた。
ブレーキから離した手に風が吹き付ける。手のひらをいっぱいに広げると指の一本一本の隙間に風が入り込んで、まるで七月の風と恋人つなぎしているみたいに思えた。
対向車なんていないからスカートから伸びる足も広げて、スカートが捲れて。
緑と青と白が視界の中でごちゃ混ぜになって夏に飛び込んでいくような気がした。誰もいないバス停を一瞬で通り過ぎる。気づいたら終わっていたはずの梅雨が、だけど終わったと確実に終わったと気づくのは夏と梅雨では空気の重さが違うからだ。
夏の方が鬱陶しいけど、軽くて気持ち良い。
最近色んな人に言われる“将来”っていう言葉がなんとなく近い気がする。いろんな人に言われて鬱陶しいけど、なんか楽しみ、でも近づいてくるほど遠ざけたくなる。何がしたいのか、どうなりたいのか、君の“人生”。漠然とした言葉も明確にしなくちゃいけなくって、なんか“将来”っていう言葉と十年後の自分というものが同一のものであることがいまだに信じられない。そもそも十年後の自分というやつが今の自分の延長線上にいることすら信じられなくて、でも十年前の自分が今の私のずっと後ろの方にいることはなんとなくわかってきた気がする。だからつまり、私はいまだ高校生だ。

坂の終わりかけたところ、丸型のカーブミラーが特徴的な(それくらいしかない)所で、ドリフトをかけるみたいに急ブレーキをかける。
振り返ると五十メートルくらい後ろで突然置いて行かれた隅川が鳩が豆鉄砲を食ったような顔して進んでいなかった。遠くから見る隅川はさらに小さい。

「すーみーかーわ!」
まるで彼だけが“将来”から逃れたようにひとりだった。
「残るもの」
見えているかどうかわからないけれど、私は隅川に向かって指を伸ばした。
私が自転車で置いて行った時に残るもの、隅川。
自分が“将来”から逃れようとするときに頭の中に残るもの、浮かぶもの。

隅川が何か叫んでいる。でも何も聞こえない。
誰にも届かない声で叫んでいる彼は、彼の存在意義そのもののようで、私はそれをずっと見ていたかった。でも隅川はすぐに諦める。たぶん叫ぶのは疲れるからとか言うんだ。
やっぱりこんなときでも急ぐ様子はなく、でもさっきよりは眠気の覚めた姿勢で、隅川は近づいてくる。

カーブミラーに向かって右側、私たちが今降ってきた坂を見やる。
集合場所の『すゞき』は、私たちが何度悪態をついたかわからない山道特有の曲がりくねった道で隠されてここから見ることはできなかった。こちらから眺めたところで、そこは集合場所ではなく、さよならする場所でしかない。
カーブミラーに向かって左手側が、この高校の大多数を占める市街地組の人たちの登校ルートになる。ばやしこがいた。ばやしこも、きいちゃんも、高橋先生もほとんど市街地組だ。

「住田、おはよう」
「おは」
ばやしこは寝癖がついていることもないし、背も私よりちっちゃくて良い。
「珍しいね。今日ひとり?」
「ううん。あれ」
私が指差した先には相変わらずゆっくり歩く隅川がいる。
「そうだよね。じゃあ先行くね」
「待って私もいく」

隅川が追いついてくるのを待って、私は告げた。
「ここからばやしこと行くから。じゃあね」
「なんて言ってたの?」
「なんも言ってないよ」
「うそ」
「うそじゃない。じゃあね」
隅川はもう何も言ってこなかった。
自転車を押し出すと、ガガガっとチェーンが絡まる音がしたが少し力を入れればちゃんと動き出した。その音は離れたくない何かに対して懸命に手を伸ばす音に似ていた。
あ、と思い出して振り向いて言う。
「今日だよね。頑張って」
足を止めることはなかったから、少し嫌そうな表情を浮かべた隅川は一歩一歩遠ざかっていく。やっぱり隅川は残るもの。

入れ替わるように私の隣に収まったばやしこが気にするように後ろを振り向く。ばやしこ含め市街地組のほとんどはバス通学で、自転車通学しているのは私くらいしかいなかった。今日の間、ほとんど自転車は押すものだったけれど。
「よかったの? あれと一緒に行かなくて」
「いいのいいの。ここまで一緒に来たんだから」
「ふーん。住田バカだね」
「うるさい。そんなに簡単じゃないの」
うるさいなんて突き放しておいて、すぐに私は自転車越しにばやしこに抱きつこうとする。
「ばやしこ〜」
「ばっ、あんた自転車でぶつかってくるな」
ばやしこは私の自転車の前カゴにスクバをどざっと入れた。両手に握ったハンドルがずっしりと重くなる。たまにはばやしこが押してよなんて言うと、無駄にでかいんだからこういう時くらい役に立ちなさいよって言われた。

「ばやしこ、私は今叫び出したいほど悩みのど真ん中だよ」
「あんたさっき好きな男の名前大声で叫んでたじゃない」
「…聞こえてたの?」
「あいつのことになるとどうしてこうもバカなんだか」
「そもそも好きだなんて言ってない」
「まだその段階かよ」

「だって、難しいんだもん」
こぼした言葉はそのまま目の前に落ちて、自分で踏み潰した。
好きがたったひとつだけ私の中にあればよかった。心臓には四つも部屋があるのだから、左心房は恋だけで構成してくれればよかった。別に右心房でもいい。反対側の部屋なんて言うんだっけ。
将来とか夢とか受験とか夏休みとか文学部とか最終日とか商業出版とか、本来恋の近くにあるはずのないものが恋の周りにきた途端、どんどん好きが難しくなっていく。喜びも悲しみも、友情も親愛も、嫉妬も自尊心も、そんなもの全部なくなって、恋だけがわたしを作ってくれればよかったんだ。
そうしたらこの感情が恋と知れる。恋と知れたらあなたに好きと言える。
理想はかくも単純で、わかりやすい。

でも現実は複雑だ。雨が降り続けばアスファルトに落ちたその1滴1滴が見えなくなっていくように、恋と周りの境界線がわからなくなる。わたしの中にある1つではいられない感情たちが恋と混じり合っていく。嫉妬、憎悪、羨望、自慢、憧憬、憂鬱、屈辱、不安、後悔、エトセトラ。
どれが恋なのかもうわからない。

「自転車、押そうか?」
「でもね! 今日の全校集会で隅川の報告あるから楽しみにしててね」
「はぁ? 今落ち込んでる感じじゃなかった? 私慰めようかなとか思ったんですけど。なんなの、惚気なの? ウザいんですけど。あんた情緒どうなってんの」
自転車をばやしこに渡そうとしたら、思いっきり手を叩かれた。そのままばやしこはずんずん進んでいく。
「ねえ待ってよ。ばやしこぉ」
そういえば今日は一学期の”最終日“だ。
今日過ぎった感情、見た情景、出会った人、別れた人、すべてを隅川は小説に昇華するのかもしれない。
私はその最新作の小説を一番に読むことはきっとできない。



***

「いつもなら終業式はここで終わりですが、今日はもうひとつあります。隅川くん。どうぞ」
司会の高橋先生の声が体育館に響く。
長い長い校長の話を乗り越えた全校集会は体育終わりの数学の時間みたいにみんな疲れていて、隅川が呼ばれたことさえ気づいていないようで、この後のざわめきを思って私は楽しみに思った。優越感。
いつも以上にゆっくりと隅川が舞台袖から出てくる。隅川が横に並ぶと校長先生とちょうど頭ひとつ分違うのがよくわかる。小柄な校長、良い。

誰の記憶にも残らない長い話を語り終えた校長は少し赤らんでいる。
「隅川くんですが、今回小説を出版することが決まりました」
隅川がかたく手を握っていた。緊張なんてするんだって少し思った。
多少の騒めき。昼休みの購買前の十分の一くらい、高橋先生が結婚するんだって言った時の十二分の一くらい、朝起きるアラーム音の五十分の一くらい。その程度。
でも山の中の心地よい葉音くらいには世界を揺らした。
みんなそりゃ驚くよね。でも私は始業式の頃にはすでに知っていたんだよ。

「こんな田舎町から、それもこの学校から小説家がデビューするなんて私も非常に興奮しております。携帯小説と言うんですかね。パソコンに小説をアップしたところ、それが非常に話題になったということで出版社からお声をかけていただいたようです。私も長いことこの学校で教師をやっておりますが、こんな発表をする日が来ようとは。隅川くんは文学部ということもあって、授業態度も優秀で国語の成績が非常に良いことは私も聞いておりました。みなさんご存知のように我が校は作文には力を入れております。と言いますのも作文に力を入れようと言い始めたのは実は私でございましてね。私も国語教師だったのでございます。皆さん知らなかったでしょう校長というのは普段は何も教えませんからね。もう何十年も前になりますが、最初は生徒からの猛反対がございましてね」
「校長」
騒めきがまた疲れに変わる前に、高橋先生が止めた。
「わかっておりますよ。今回賞状は特にないとのことですが、まあ開校以来の快挙ということでね、隅川くんに一言ということでした。隅川くん」

みんなの前に立っている隅川を見るのは初めてだった。私も立ったことのないあの場所からはどんな景色が見えるんだろうか。彼はどうやって文字に起こすのだろうか。
いま、私はこれまで知らなかった隅川を見ている。
「隅川です。来週小説出します」
隅川はそれだけ言った。
言葉の少ない隅川のことはよく知っている文学部顧問の高橋先生がどうにかそれ以上の言葉を引き出そうと、質問する。
「どんな小説なんですか?」
「大事な小説です」
「もちろんそうだよね。校長先生はネットにあげた小説が話題になってと仰いましたが、正確には小説投稿サイトにあげた小説がコンテストで受賞したんだよね。受賞を聞いたときの気持ちはどうだった?」
「驚きました。嬉しかったのはあったけど、別に受賞するために書いたものではなかったから」
「うん最初は驚くよね。じゃあ小説を書こうと思ったきっかけはなんですか?」
「言葉が足りなかったから」
「というのは?」
「自分の中にある感情とか出来事とか、そういうものを表現するのに言葉の数が足りなかったので」
「小説も言葉では?」
「ん。例えば小説で体育館と書けば読んだ人が昔所属していた部活動とか、雨に打たれて響く音とか、全校集会の疲れた記憶とか、そういったものを勝手に紐づけてくれるから、それが小説の持つ力というか、言葉なんだけど言葉じゃないというか。ごめんなさい。自分でもよくわかってなくて」
「うん、大丈夫。ちゃんと伝わってるよ。受賞して嬉しかったのもきっと自分の言葉が届いたと感じたからじゃないかな」
「うん…そうかも」

ガーというここでしか見ない大型の扇風機が気休めにまわっている。
気づけばみんなが隅川の方をちゃんと向いていた。校長と比べて隅川の話が極端に短いからではないと思う。隅川はすごい人なんだとみんなが知っていくのを感じる。それがなんだろう、修学旅行で行った京都の三十三間堂の中にいるみたいな、進学希望書を初めて渡された時のような、なんだかわからないけれどとにかく少し嫌だと感じて私は下を向いていた。
体育館の床の木目をあみだくじみたいに頭の中でなぞっていた。あみだくじを私の後ろのさらにそのまた後ろ、体育館から飛び出したまたその先まで辿って行った最後に何かしらの当たりがあるとして。
それすらも希望だと呼べるのだとしたら、きっとこの世に無駄なモノなんてひとつもない。

「みんなに読んでほしいね」
「いや、読みたい人だけで」
「きっと読みたい人はたくさんいるんじゃないかな。最後に言い残したことはある?」
「特には」
「じゃあありがとうだけ言って終わりましょうか」
「ありがとうございます」
「はい、隅川くんの小説は来週の金曜日に発売になります。市街地の本屋さんには多分並ぶのかな。読書の夏休みにするのも良いと思いますし、一年生は読書感想文があるからね。三年生は受験の夏になると思いますが、息抜きにでも。もちろん二年生も。皆さん隅川くんにもう一度大きな拍手をお願いします」
高橋先生に促されてまばらな拍手が起こった。小説出すって結構すごいことだよね、テレビ出るのかな、印税ってどれくらいもらえるんだろう。そんな声がそこかしこで話されているように感じた。実際は本当に誰かが口に出していたのかもしれない。
隅川は拍手から逃げるように舞台袖に下がった。舞台袖がどうなっているのか、そこからどこから出ていくのか、私はやっぱり知らない。

「住田」
ぞろぞろと体育館を出るとき、ばやしこがしれっと最後尾までやってきた。
「あいつ凄いね。小説書いてたことは住田から聞いてたけど、出版できるほどだったとは。住田は読んだことあるんだよね? 私も気になるしさすがに買いに行くかな……あれ、あんま、な感じ?」
「ん、何のこと?」
「なんかあんま嬉しくないっぽいから」
「そんなことないよ? 全然嬉しいよ」
「ほんとに? 住田のことだから、どちらかというとなんかもっとえっへんみたいな、どうだうちの隅川はすごいだろみたいな感じかと思ったから」
「いや。そうだよね、すごいよね。うんすごいでしょ」
体育館から出る時、広めの段差を私は跳んで飛び越えた。言われた通り、えっへんなんて言ってみた。でもばやしこは自分より高い位置にある私の肩をとんとんと叩いてきた。無理するなって。
無理しているつもりはない。ただちょっと自分の感情の解読に時間がかかっているだけ。

「ちょっとちょっとちょっと住田! ついでにばやしこも」
「どうしたのきいちゃん」
「私はついでかい」
ばやしこがきいちゃんにチョップしている。きいちゃんは私よりも背が低いけど、ばやしこよりは背が高い。比べたことはないけど、隅川よりは多分低い。
きいちゃん含めて私たちは三人でずっと仲がいい。けれどきいちゃんだけ理系だったから二年生のころからずっと別のクラス。

「そんなことよりも、隅川くんすごくない? しかもちょっと良くない?」
きいちゃんとばやしこに差なんて全くないけど、きいちゃんには言っていないこともたくさんある。だからきいちゃんは悪くない。というより誰も悪いはずがない。
「そうだね」
「小説家ってことだよね! かっこいいよね。舞台上で言ってたことはあんまりよくわかってないけど、それもなんか世界観あってかっこいいっていうか。ねえヤバくない」
「そうだね」
「住田って隅川くんと仲良かったよね? 彼女いたりすんのかな」

そうだねって私は再度同意したつもりだった。するつもりだった。したつもりだったんだけどなぁ。自分の中の何かを守るために戦略的にあくびをした。あくびがでたから返事ができなかったんだ、あくびがでたから思わず流れそうになった何かにも言い訳がつく。
不自然な間を埋めるようにばやしこが割って入った。
「あんたは舞台上に立っている人みんなかっこよく見えるでしょが。バスケ部もなんか表彰されてましたけど」
「バスケ部は関係ないでしょ」
「キャプテンかっこいいよね」
「はぁ。あんなやつかっこよくも何ともないんですけど」
「頬になんか赤い紅葉見えたような」
「ちょ、ちょっといつの話してんのよ。残ってるわけナイジャナイデスカ」
「なんで片言よ」

ばやしこが少し歩くスピードを上げて、話しながらきいちゃんと去っていった。
ばやしこの背中は小さくて、きいちゃんの背中は細い。どっちも羨ましい。
きいちゃんともっと話したかったけれど、きいちゃんとの話を終わらせたのは私自身だ。私の中にある恋の近くにある噛みきれない感情だった。

ひとりになった私はとても無防備で、いろんな人が話しかけてくれた。
「おめでとう、隅川くんすごいね」
「おめでとう、小説買うよ」
「おめでとう、サインもらっといた方がいいかな」
普段から仲のいい友達も、あまり話したことのない隣のクラスの子も、男子も女子も。みんながこぞって私におめでとうと言ってきた。おめでとうと言われるからありがとうと返していった。
ありがとうと返している自分の意味がわからなかった。

「おめでたいね」
「ありがとう」
つい反射で返したら、話しかけてきていたのは高橋先生だった。
「ありがとう?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないです」
「いや、いいんだよ。文学部部長としてってことかな」
高橋先生の微笑みはやわらかい。こんなに暑いのにカーディガンを羽織ってシャツも一番上まで止めている。メガネの奥の瞳は小さくてハの字に広がる困り眉。先生はきっとメガネをしてカーディガンを羽織って寝ていそう。

「住田さんはさ、隅川の小説もう読んだ?」
「はい。小説が出来上がったときに一番最初に」
「そうだよね。どうだった?」
答えたくないという思考が一瞬頭をよぎった時、体育館の入り口の方でわっと沸いた。隅川が出てきたらしい。
他の人と変わらず、体育館の入り口から出てきた。裏口とかから出てくるんじゃないんだってほんのり思った。だって有名人とか私たちには知られてない裏口から出てくるイメージだから。

「なんか遠くにいっちゃった感じがするね」
入り口を仰ぎ見るようにハの字がもっと広がった。私には全く足りていない人生経験とやらがこの人にはあった。
隅川の周りは人だかりができている。たぶん隅川がこの学校に入学して初めてのことだ。
中心にいる隅川は足をクロスさせて驚いたような、困っているような、何にも考えていないような顔をしている。

「今日のHRのあと、ささやかだけど祝賀会でもやろうかと思ってるんだけど、住田も来てくれる?」
「文学部部長として行きますよ」
おめでとう! ありがとう。すごいね! ありがとう。絶対読むね! ありがとう。

今日何度目かのすごいとおめでとうとありがとう。
そのすごいってのは隅川の小説に対してじゃない。受賞っていう目に見える形のものができたからそれに対してすごいって言っているだけであって、誰も小説を読んじゃいない。隅川の小説の何がどうすごかったのか誰も言っていない。絶対読むねの絶対は誰に対しての宣言か、一生の間に使い古される絶対が気持ち悪かった。
違うだろ。
そのとき私が今日一日ずっとイラついていたことに気づいた。
あの咀嚼できないちょっとだけ嫌な気持ちも、ありがとうと自動返信していく度に荒んでいく心も、すべてイラつきだ。あいつもこいつも自分もムカつく。
隅川がムカつく。

そんな安っぽいおめでとうに幸せそうな顔しないでよ。ありがとうなんて言うなよ。
言葉が足りないなんて傲慢だ。彼が使った言葉もこれまで誰かが書いたことのあるもので、きっと誰もが思ったことのあるようなことだ。綺麗な青空を緑色だなんて呼んだとしても目の良い幼稚園児がクレヨンで描き出しているだろうし、閉鎖的な学校空間を瑞々しいタッチで表現したとしても村上春樹なら学校ごと自分の世界に閉じ込めるし、自ら傷つけた心の治し方なんてもっと昔にアドラーやフロイトがきっとどこかで言っている。誰かが歌っている。とっくに語られている。
辞書でさえ今でもその言葉数を増やしていて、それを足りないなんて言って自分の表現だって言って描き出すのは、彼はどうしようもなく自惚れている。

次の小説もう書いてるの?
まあ一応。
すご〜い! 読みたい読みたい。
編集部の人に出さなきゃだから。

ウザい。

唇を痛いほど噛んで、彼に背を向けて歩き出そうとした。この場にいたくなかった。
「住田、涙」
高橋先生の声が背中に突き刺さる。
「わかってますよ」
わかっていない。これが何の涙なのか私には全くわからない。
怒りからくる涙だったら楽だった。

何かが悔しくて、奪われていく気がして、憧れていて、羨ましくって、自分が情けなくて、置いて行かれて、残されるのは私の方で、意地張って、でも隅川の受賞が嬉しくて、隅川におめでとうって言いたくて、隅川の本当のすごさをみんなにわからせたくて。
私は隅川を独占したかったんだ。隅川から出る言葉はすべて私が握りたかった。
この化け物みたいな汚い感情は文学のどこを探しても書いていない。

もういっそのことすべて隅川に言葉にしてほしかった。この感情に名前をつけてほしかった。

そっかそれがいい。
隅川、私の全部あげる。

もうこのよくわからない涙は私のものじゃない。
これがなんだったのか、それはいつか隅川が文学にしてくれる。隅川のもの。
真ん中にあったはずのややこしいあの感情ももう私のものじゃない。

私は目元を力一杯拭った。

「先生、隅川の小説すごかったですよね!」

涙が日に照らされて光り輝いている、わけがない。最低の気分で、最高につまらない。
けれど私の中のたったひとつを捨てただけで、いろんなものが流れ落ちるように決まった。

祝賀会にばやしこやきいちゃんも呼ぶことに決めた。
隅川に彼女はいないってきいちゃんに教えてあげよう。
ばやしこと来週になったら市街地の本屋に並んでいるのを見に行こう。
文学部部長として他の人にもお祝いしたい人全員に声かけよう。
隅川におめでとうって言わなくちゃ。
今のうちにサインもらいたいな。
高架橋下デートを断らなきゃ。いやあれは想像の話。
明日から私はもう『すゞき』で待たないからって伝えよう。

あ、明日から夏休みか。