間章2
 ルカの視界が一瞬にして移り変わった。魔臣の部屋から転移したのだ。はっとして足下を見て、自分が直径二十メートルほどの漆黒の真円の端にいる事実に気づいた。
 次にルカは周囲へと視線を移す。数多、いや無数の星々が悠久の煌めきを見せていた。背景は濃紺と黒色のグラデーションであり、永遠の広がりを感じさせる。
 遥か前方には際立って大きい黄土色の球体の姿があり、雲のような白色の粒子を纏っていた。人の身の矮小さをあまりにも強く感じさせる空間はさながら……。
「宇宙空間、だよな。誰がどう見てもよ。呼吸はできるがよ。どうなってやがんだ?」
 立位のアギトが、頭上に神妙な眼差しを向けつつぽつりと呟いた。すぐ近くでは、ハクヤがきょろきょろと視線を彷徨わせている。
 ルカが状況把握に努めていると、虚空を縦に切り裂く形で白線が生じた。長さはアギトの身長ほどある。
「二人とも、あれ!」ルカがぴしりと呼びかけると、アギトとハクヤも白線に顔を向けた。
 白線の中央がすうっと広がり、菱形に近い形状になった。すると奥から黒い手が二本出てきて、菱形の端を掴んで白を押し広げ始めた。
 すぐに人の通れる大きさとなった。そして菱形の下部を跨いで、手の主が姿を現す。
「あいつが、黒神ラヴィル」
 緊張に押しつぶされそうになりつつも、ルカは言葉を絞り出した。ラヴィルが全身を見せると白の菱形は縮小を始め、やがて点になり消滅した。ルカはラヴィルを凝視する。
 ラヴィルは人型で体格はハクヤとほぼ同等。柔靭な印象の体躯を有しており、男か女かは判別がつかない。上下とも肌に密着する形の鈍色の服で四肢を完全に覆っており、その上は肩から胸下までの胴着と足から膝までのレッグカバー、手から肘までのアームカバーで、靴と背中のマントも含めてどれも暗黒色だった。
 首から上は両側に角のような突起の突いた兜で覆われていて、こちらも暗黒色が基調である。額の位置には、円に細長い三角形を組み合わせた太陽のような紋様が血赤色で入っていた。兜の目の部分の隙間は無色透明の素材が占めており、奥からは不気味な赤い眼光が覗いている。
「『黒神』っていうからもっとこうおどろおどろしいというか。テレビゲームに出てくるいかにもな悪の親玉を想像してましたけど、案外さっぱりした感じですよね」
 ハクヤが声を潜めて呟いた。ルカはラヴィルから目を離さずに応答する。
「まさか、賢明なあなたが『敵の大将が思ったより弱そうで安心した』なんて言い出したりしないでしょうね。見かけなんか判断材料にはできないわよ。気を抜ける要素なんて一つもない」
 ルカの静かな諭しの言葉に、「ええ、当然。重々承知してますよ」とハクヤから抑制の効いた声が聞こえてきた。
 ラヴィルがこちらを見据えて静止した。
「あくぎえふぃはれくぁ、にうにぶこみあずじゅ。ぶぁぽうぇうつゆいむ、ぎうや。にぶちゅるえろぷろか、んういむゆぅびなうじ?」
 ラヴィルが何かを発語した。男声と女声とがぴたりと重なった、ホーミーのような声音だった。
「は? な、なにを言ってやがんだ、こいつ? とち狂いやがったのか?」
 錯乱した様のアギトが呟くが、その間もラヴィルの言葉は続いている。
「僕たちに理解はできませんし、する必要もないですよ。発狂しかねません。見かけはどうでも相手は『黒神』、神の名を冠するもの。人間の言語や思考パターン、善悪の概念等を当てはめようとするのが間違いです」
 ハクヤが理性的な調子で嗜めた。するとラヴィルの発語がぴたりと止む。開いた右手をわずかに身体から離すと、そこを中心として黒い渦巻のようなものが生じ始める。周囲から何かを吸い込んでいるかのようだった。
(来る!)ルカが警戒を深めた瞬間、ラヴィルは右手を前に突き出した。
 直感を頼りにルカはしゃがむ。頭のあった場所を、黒色透明の光の柱が通過した。光速とすら錯覚する常識外のスピードだった。
(なんて速度なの。躱せたけど運が良かっただけ。ちょっとでも違う避け方をしてたら……。『神』の名は伊達じゃ──)
 ゴトン。戦慄するルカの耳にただならぬ音が飛び込んできた。振り返るとハクヤが倒れていた。鳩尾の辺りに拳大の風穴が開いていて、生々しい体内が垣間見えている。
「ハクヤ!」自分の悲鳴がルカの鼓膜を震わす。驚愕ゆえか両目を大きく見開いていたハクヤだったが、すぐにふっと目が閉じられた。横倒しになった身体はぴくりともしなくなる。
 瞬殺されたハクヤに構わず、アギトは決然とした表情でラヴィルに接近していく。悲哀を頭から振り払い、ルカも従いていく。
 アギトの両手がラヴィルの胸元へと伸びる。投げ技を仕掛けるつもりである。
 しかしラヴィルの身体はすうっと後ろにずれていった。地との摩擦を感じさせない滑らかな挙動だった。
 攻撃が空振りに終わってアギトはたたらを踏む。構わずルカは、進行方向を微妙に変えた。ラヴィルと五歩分ほどの距離を開けて急停止。真左に向かって左足を踏み込み、アウーセンマォン(側転宙返り)を決める。
 するとルカの前に、紅蓮の炎で形作られた鳳凰が出現。咆哮を轟かせるや否や、神速でもってラヴィルに襲い掛かった。
(鳳凰炎舞。私が編み出した最大の大技にして、本物の鳳凰の力も付加されている唯一無二の妙技! 神だかなんだか知らないけど、まともに食らえばただじゃあ済まないわよ!)
 勇ましい思考を展開しつつ、ルカは膝に手を突き荒い呼吸を繰り返す。どういう理屈かは不明だが、鳳凰炎武は使い手の体力を大幅に削る技だった。
 ルカの眼前では、ラヴィルが自身とほぼ同じ大きさの火炎に呑まれていた。傍らではアギトもラヴィルを注視していた。近接攻撃しかできないため、敵が炎に覆われると追撃ができないのだった。
 刹那、炎が吹き飛ぶように消え去った。跡には、何事もなかったかのようにラヴィルが悠然と立っていた。
「っ! そんな! 火傷一つないだなんて……」
 ルカが絶句していると、ラヴィルがふわりと身長の高さほどまで浮遊した。すぐに黒色の獄炎がラヴィルの周囲に出現する。その形状は──。
「どう見ても鳳凰、だよな。吸収でもしたってのかよ。冗談きついぜ」
 アギトは構えを取りつつ、悲観を滲ませた調子で呟いた。
 両手を無造作に斜め下に遣るラヴィルは、一回り大きな黒い鳳凰を纏っていた。離れた所でルカたちを見下ろす様には、神の名に相応しき威容があった。
 突如ラヴィルが急加速を始める。
 ルカはとっさに左に跳んだ。前回り受け身の要領で回避するが、ゴウッ! 炎が風を切る音がして、避けきれなかった左足が呑まれた。
(ああっ!)凄まじい熱感が生じた。ルカはすぐさま自分の左足に目を遣った。踝から下が焼失していた。
 気の触れそうな激痛を堪えて、ルカは振り返った。ラヴィルがちょうどルカのほうに向き直っていたところだった。アギトの姿はどこにもない。
(アギトさん! まさか一瞬で焼き尽くされて──)ルカが慄いていると、ラヴィルの頭が上に向いた。わずかすらも遅れず鳳凰の頭が追随する。
 するとラヴィルの頭上に、黒色透明の流体の流れが生じ始めた。形状は扇型で、ルカの身長の二十倍はありそうな範囲が怪しげに流動している。
(なに、あれ。あんなのどうしろって言うの?)
 あまりにも大きな力の奔流に、ルカは絶望する。そうしている間にもラヴィルは何かを吸収し続けた。
 やがて流れは止まり、ラヴィルと鳳凰はおもむろにルカへと視線を向けた。鳳凰の口内では、漆黒の何かがちろちろと蠢いている。
(終わり。これで全部──)
 余りにも大きな終焉の予感に、ルカはへたり込み動けない。もはや何の抵抗もできず、黒神が齎す死を受け入れるしかない状況だった。
 その時だった。ルカの視界の端で、はるか天上から眩いばかりの白光が降り始めた。ルカがそちらに目を向けると、あまりにも神々しい光の中に人の形をした何かが輪郭を形成し始めて……。