いや、違う。そう名乗っている別の何かである。僕は二、三歩後ずさった。

「ああ、構えないでください。いえ、わかってますよ。ご存じなんでしょ? 僕のこと」

 ああ、とかうぁ、とか譫言のような一言を発して僕は頷いた。

 全然知らない。ご存じではない。知らないということが最大の問題なのだが、僕は相手の言うことを否定しなかった。

「知っての通り、僕は紀見屋仙一ではありません。彼の姿は借りてるんですけどね。なんでしょうね、あすこにちょっとした用事があるんですよ。あの場所がなんなのかはご存じですか?」

「ふ、封印」

 何か意識する暇もなく、言葉が銃弾のように僕の口をついて出た。

「そうそう。まさにそれです。僕はそれを書き足してるんですよ。お手本を見ながらですが……彼ら日に日に強くなりますんでね。参っちゃいますよ」

 彼があれを書いて(描いて)るのか? あの膨大な量の絵と文字の群れを……。

「パソコンがあったでしょ。だいぶ古いんですけど。あれで意思疎通してるんですよ。彼らあんなだけど好みがありましてね。そういうのも把握してかなきゃいけないんで」

 仙一氏そっくりの男は苦笑いしてみせた。

「あなたにお願いがあるんです。まぁ率直に言うと僕の跡を継いでほしいんですね」

 彼が一歩前に進み、僕は同じ分だけ下がった。

「跡……」

「ええ。僕のやってることをそのまま続けてくれればいいだけです。簡単ですよ。彼らの声を聴きながら、彼らの気に入るように絵や文字……まぁ文字なんです、あれ。ああいうものをひたすら描いて増やしていけばいいんです。生活も保障されますし、今の生活よりだいぶ良くなると思いますよ」

「しかし……」

「ああ、大丈夫。やってればわかるようになります。要は慣れですよ、慣れ」

 仙一モドキはニコニコしながら僕の先回りをした。

「あの、しかしですね……」

 だいたいあなたは何者なんですか? 封じられているモノってなんなんですか?

 言いたいことはいくらでもあるのだが、唇に引っかかってなかなか声にならない。

「平気ですって。しばらくは僕もサポートしますから……」

「聞いてくださいよ!」

 兎に角、このまま相手に喋らせてはならない。僕は必死に咽喉を振り絞った。

「僕はこちら側! こっちの世界がいいんです! あなたの側の、その」

 相変わらず目の前の人物は相好を崩したまま僕を見つめている。

「闇の世界には行きたくないんだ! ずっとこっちで暮らしますよ!」

「なるほど。昼の世の中、当たり前の光の世界がいいって言うんですね」

 僕は黙って首肯する。

「夜はお嫌いですか……。わかりました。しかしですねえ、もしかしたらあなたが住んでるって思い込んでる世界、昼の世界よりも、もしかしたら僕の居る夜の世界のほうが本物かもしれませんよ」

 モドキはにっこり笑う。口角が上がる。唇が赤い。口の中も紅い。

 歯が剥き出しになる。どんどん大きくなる。裂け目が、蝙蝠の羽のように広がって……。

 ヒトのカタチからどんどん離れて……

 僕は全力疾走し路地を抜け、駅の構内に逃げ込んだ。眩いばかりの優しい照明に包まれてやっと安心出来た。