頭が痛くなってきた。
「……もう行きます。さようなら」
今回、返事はない。だが僕はかまわず梯子を上がって外に出た。コミュニケーションではなく宣言のようなものだ。
倉庫の中には誰もいなかった。僕としてはありがたかったが、正直あまり気にならない。
どのみちもう正気の世界、昼の世の中からはおさらばするしかないのだ。
次の日、僕は決してやるべきではないことをしてしまった。やけっぱちになっていたのかもしれない。
それほど深い考えもなかったのだが、ふともう一度この漫喫の組織図を見ておこうかという気になったのだ。
「ないっ!」
取締役の欄は違う名前になっていた。紀見屋仙一の名前はどこにもない。出世でもしたのかと組織図の隅から隅まで見てみた。
そうだ、あの時見た組織図は古い古い襤褸のような紙片が透明ファイルに挟まっていた。
今回印刷後間もない真新しいコピー紙に変わっている。
そうだ。落ち着け。何もおかしなことは起こってないんだ。
「え? 仙一さん? 良く知ってるね、そんな名前」
僕よりここがだいぶ長い社員の人が眉を上げた。
「社長の息子でしょ? 死んだらしいよ。ずっと前に」
目に映っている景色が揺れる。僕はぼんやりした頭の中で〝人間の視界は実は上下が逆転しており、脳が修正して今のように映っている〟という話を思い出していた。
つまりそれほど目前の情景が不安定に認識されていたのだ。
比喩でなく、本当に目の前のバックヤードの景色が揺れている。
「僕は」
僕はその人に会いました。一階倉庫の地下、和綴じの本と古いPCが格納されている防空壕みたいな部屋からその人は出てきました。僕はその部屋にも入りました。奇妙な存在に話しかけられました……。
語ることは山ほどあるはずだった。が、咽喉から先に出てこない。
陸に上がった魚のように不自然に口を動かしている僕を後目に、社員の人は不審げな様子で去って行った。
その日は夕勤だったので帰りは遅くなった。なんやかんやしていたら、12時をとっくに回っていた。
夜道を駅に向かって歩いていたのだが、本当にどうしてあんなことをしてしまったのだろう?
魔が差したのか、ほんの偶然か。僕はふと、普段通らない道を行ってみようという気になったのだ。明かりもあまりない、知る人ぞ知る路地裏のような道である。
昼間見た折、そこが通り抜けられることは知っており、駅まではほんの少し近道になるのだ。
……急いでいるわけでもないのに、僕はそこに足を踏み入れた。
普段間近に見ることのない、他人の家の軒下や塀の上の猫などを横目に見つつなんとなく愉快な気分で歩いていたのだが、目の前に表通りの逆光を浴び真っ黒な影法師が現れ事情が変わった。
「やあ、また会いましたね」
高架の上を電車が通り、光が後退した額に反射する。仙一氏である。
「……もう行きます。さようなら」
今回、返事はない。だが僕はかまわず梯子を上がって外に出た。コミュニケーションではなく宣言のようなものだ。
倉庫の中には誰もいなかった。僕としてはありがたかったが、正直あまり気にならない。
どのみちもう正気の世界、昼の世の中からはおさらばするしかないのだ。
次の日、僕は決してやるべきではないことをしてしまった。やけっぱちになっていたのかもしれない。
それほど深い考えもなかったのだが、ふともう一度この漫喫の組織図を見ておこうかという気になったのだ。
「ないっ!」
取締役の欄は違う名前になっていた。紀見屋仙一の名前はどこにもない。出世でもしたのかと組織図の隅から隅まで見てみた。
そうだ、あの時見た組織図は古い古い襤褸のような紙片が透明ファイルに挟まっていた。
今回印刷後間もない真新しいコピー紙に変わっている。
そうだ。落ち着け。何もおかしなことは起こってないんだ。
「え? 仙一さん? 良く知ってるね、そんな名前」
僕よりここがだいぶ長い社員の人が眉を上げた。
「社長の息子でしょ? 死んだらしいよ。ずっと前に」
目に映っている景色が揺れる。僕はぼんやりした頭の中で〝人間の視界は実は上下が逆転しており、脳が修正して今のように映っている〟という話を思い出していた。
つまりそれほど目前の情景が不安定に認識されていたのだ。
比喩でなく、本当に目の前のバックヤードの景色が揺れている。
「僕は」
僕はその人に会いました。一階倉庫の地下、和綴じの本と古いPCが格納されている防空壕みたいな部屋からその人は出てきました。僕はその部屋にも入りました。奇妙な存在に話しかけられました……。
語ることは山ほどあるはずだった。が、咽喉から先に出てこない。
陸に上がった魚のように不自然に口を動かしている僕を後目に、社員の人は不審げな様子で去って行った。
その日は夕勤だったので帰りは遅くなった。なんやかんやしていたら、12時をとっくに回っていた。
夜道を駅に向かって歩いていたのだが、本当にどうしてあんなことをしてしまったのだろう?
魔が差したのか、ほんの偶然か。僕はふと、普段通らない道を行ってみようという気になったのだ。明かりもあまりない、知る人ぞ知る路地裏のような道である。
昼間見た折、そこが通り抜けられることは知っており、駅まではほんの少し近道になるのだ。
……急いでいるわけでもないのに、僕はそこに足を踏み入れた。
普段間近に見ることのない、他人の家の軒下や塀の上の猫などを横目に見つつなんとなく愉快な気分で歩いていたのだが、目の前に表通りの逆光を浴び真っ黒な影法師が現れ事情が変わった。
「やあ、また会いましたね」
高架の上を電車が通り、光が後退した額に反射する。仙一氏である。