山凪国の城、その天守閣には――五名の人がいた。
「がっはっは! あの傾国の鬼人が悲痛に暮れていると思うと、酒が美味い」
 和歌子によって酌をされる壬夜銀は、眼前で繰り広げられる光景を肴に杯を傾ける。
「あんたのせいで、私まで未亡人だよ! 朝原家に不幸を呼ぶゴミ! この痴れ者! こんな簪で着飾って、色気づいてんじゃないよ!」
「お父様の仇です! 私が永遠に罪を叩き込んであげるわ!」
 縛られた美雪に、殴る蹴る水桶に顔を突っ込む。考えられる限りの暴力を、文子と玲樺は振るっていた。
 紅遠に与えられた簪も、床へ放り捨てられたしまう。
 折檻に苦しむ美雪は、ゲホゲホと苦しそうに息を吐く。治癒術の力を持ってしても、本当に死ぬかもしれないと美雪は感じる。これまで朝原家で受けた折檻を遙かに超えていた。
「ふん、あの傾国の鬼人は本当に愚かだな。身中に毒を招き入れ、国を傾けるのだから」
「ええ、壬夜銀様の仰る通りですわ。今頃、軍を動かしているのでしょうか?」
「そうなれば手っ取り早いな。叩き潰して、あの奇人には過ぎた貿易港や富を全て俺のものにできる! がっはっは! 早くこい、その手で自ら国を倒せ、鬼人よ! 国が滅ぶ、最高の祭りを早く俺に見せてくれ!」
 壬夜銀は大きな身体を揺らしながら、ご機嫌そうに笑う。
(……やめてください)
 水に濡れ、息も絶え絶えに美雪は思う。
「一番つまらんのは、国を憂い攻めてこないこと。外交的な決着を図ろうとしてくることか。長引くのは、退屈だな。……ふむ、もう少し煽るか?」
「あら、どんな手段でですか?」
「このゴミの首でも送れば、いけ好かない鬼人は出て来るだろう。曲がりなりにも嫁御巫が殺されるのだ。妙な義侠心を持つ鬼人ならば、動くはずだ」
「あらあら、それは名案ですわね! 流石は壬夜銀様ですわ!」
 和歌子と壬夜銀の計画が聞こえてきた時
「――やめて、ください」
 それまで、黙って折檻をされるだけだった美雪が、声を出して反抗した。
 これに驚いたのは、玲樺と文子である。
 山凪国にいた頃から、意思のない人形のように黙って嬲られていたのが――思い起こされる限りだと、初めて明確に反抗の言葉を口にしたのだから。
「ほう、命乞いか?」
「この見苦しい女が、何処まで叔母の顔に泥を塗るつもりなの! 壬夜銀様、すぐに黙らせます!」
「いや、これも一興だ。さぁ、命乞いを続けてみろ」
 慌てて美雪の顔を掴む文子を止め、壬夜銀はにたりと笑う。大きな八重歯が剥き出しになっている姿は獰猛な野生の狼のようだ。
「……私は、どうなろうと構いません。……どうか、どうか紅遠様にだけは御迷惑をかけないでくださいませ」
 振り絞るような美雪の声に、壬夜銀はつまらなそうに嘆息した。
「興醒めだ。結局、あの鬼人に魅了されてるだけじゃねぇか」
「違います!」
 大きな声で、美雪は否定した。
「私は……紅遠様に大切なことを教えていただきました。仲間、やり甲斐、喜び、そして自由」
 美雪は縛られながらも、悲鳴を上げる身体を無理やり起こす。
 そうして壬夜銀を見つめ紅遠について語る。
「紅遠様は、ご自身の身体が悲鳴を上げてるのを厭わず、国民の為にという役割を果たす素晴らし妖人です。私がデモ隊に処刑を求められ、他ならぬ私自身が処刑されても構わないと思っていたのに……自身が危険の矢面に立ち、愛する民を説得して護ってくださる。国民を危険に晒しながら、自分は安全な城で酒を飲む貴方が――馬鹿にしてよい御方じゃありません」
 美雪の瞳は、真っ直ぐに壬夜銀へと向けられる。
 不愉快だったのか、壬夜銀が杯を握り潰した。
「やはり魅了されて正気を失っているようだな。あの鬼人の良いところにしか目が行かず、自分の立場も分からないらしい」
 壬夜銀が顎で合図をすると、玲樺は頷いて部屋から出て行く。
「……私は、正気のつもりです」
「いや、女。貴様は魅了されている。その感情は、植え付けられた偽物だ」
「違います!」
 美雪の叫び声が、満月の照らす天守閣に響いた。
「……こうして会えなくなった時、この軋む心には感じるのは――恋しさという感情です」
 今まで、美雪には感情というものが理解できなかった。
 自身で抱いたことはなく、見聞きするもの。恋心なんて、感じたこともない。

「紅遠様にだって、悪いところはあります。人の葬儀で、相手の意思も関係なく嫁になれなんて、身勝手なことを申したり、近付くことを許されたかと思えばあっさり撤回もします。私が傷付く真似もする。……それに不満を抱くのも――お慕いするのも、私の自由な感情です!」
 感じたことのない感情を、何と表現していいか分からなかった。
 それでも、美雪は確証を持って言う。
「私は愚か者ですから、やっと気がつきました。正気か熱に浮かされているかなんて、誰にも判断しようがありません。……感情なんて、誰にも分からない。元より正確にこれだと断言できるものでも、永久に不変なものでもない。人の情は移ろいゆくものだと聞きました。それならば今、自分がこうだと感じるなら、それこそが正解なのです。……私は、自身を持って言います」
 肋骨が折れているのか、大きく息を吸うだけでも雷のような痛みが襲う。
 それでも美雪は、大きく息を吸い込み
「私は紅遠様をお慕いしています! 大好きで、愛しているからこそ無事でいてほしいと願うのです!」
 そう、言い放った。
「魅了なんて、仮にされていたとしも構いません。それでも、これこそが私が自由に抱いた真実で、素直なお気持ちなのですから」
 壬夜銀に訴えかける美雪の背後から、戻ってきた玲樺が歩み寄る。
 その手には、囲炉裏から持ってきた赤く焼けた鉄の火鉢棒が握られていた。
「だから、どうか……。私はどうなっても構いません。私の愛しき鬼人様だけには、どうかこれ以上の御迷惑をかける真似をしないでください。……同じ父を持つ身としても、伏してお願い申し上げます」
 壬夜銀は、同じ父と言われた顔を顰めた。
 言いたい放題言って、銀柳の名を出されたことが不快だったのだ。
 顎で玲樺に指図をすると、玲樺は微笑みながら頷いた。
 額をつけて懇願する美雪の横顔に真っ赤な火鉢棒の先端が近付き――
「――よくぞ申した、美雪」
 凜とした、紅遠の言葉が何処からか聞こえてきた。
 途端、五人は揃って辺りを見廻し――入口の戸が、轟音を立てて吹き飛んだ。
「気持ちは届いたぞ、この胸を焦がすほどにな」
 カツカツと、木製の床を革靴で踏みならし紅遠は美雪へ歩み寄る。
「貴様、鬼人が! どうやってここまで侵入してきた! 軍勢が迫ってるなど、俺に報告がきていないぞ!」
「一人で迎えに来たのだから、当然だ」
 壬夜銀の方など目線も向けず、軍服姿の紅遠が美雪の傍へと歩み寄る。
 美雪の隣へしゃがみ込むと
「く、紅遠様!? 何故、お一人でここに!?」
「決まっているだろう。――愛する妻を、迎えにだ」
 身の自由を制限していた縄を解き――床へ投げ捨てられた簪を刺し直した。
「新雪のように美しい肌、清純無垢な美雪の心の如き白い喪服には、やはりこれが似合うと思ったのだ」
「紅遠様……。私は、また御迷惑を……」
 謝罪しようとする美雪を手で制し、紅遠は立ち上がる。
「謝罪なんて必要ない。それ以上に語り合いたいことが山ほどあるが……まずは、邪魔なゴミを片付けてからだ。美雪、部屋の隅に下がっていてくれ」
「承知、致しました。どうか、ご武運を」
「運ではない、長年磨いた実力で、当然の勝利を掴むだけだ」
 頭を下げて、早足に去る美雪に紅遠は答える。
 そうして、壬夜銀へと向き直ると――
「――清々しい空気だな、今夜は。澄んだ空には満点の星々と満月が浮かび、野では虫が歌う。天井高くそびえ立つ城が、よく映えるというもの」
 詠うような美しい声で、天守閣内を歩く。
「こんな美しき夜こそ、貴様みたいな真のゴミには」
 窓から差し込む月光の光が、紅遠の横顔を照らす。
「紅蓮の業火に焼かれてもらおう」
 壬夜銀と一刀の間合いに近寄ると、右手に赤い炎のような妖力を込めた。
 暖炉のような暖色の光が――真に怒る鬼人の紅いを照らした。
 焔のような瞳に見据えられた壬夜銀は
「畜生が! 見張りは何をしていたぁあああ!?」
 天を駆ける地肉彫の狼に――鈍色の魂刀を右手へと生み出した。
 洗練された銀柳の魂刀とは違い、壬夜銀と混ざり合った魂刀は――鉈のように叩き斬ることのみを考えられ芸術性の乏しい野暮な刃として紅遠には映る。
「見張りなど、少し妖力を向けた俺が退けと言えば、その通りになる」
 魂刀が――泣いている。
 銀柳の魂が、過ちから解放されたいと叫んでいるように感じられた。
 紅遠も魂刀を生み出すような所作で、右手に妖力を込めると
「玲樺さん、今ですわ!」
「はい、和歌子様!」
 この場にいる嫁御巫二人が、結界を張る。これでこの場は、壬夜銀の妖力以外は通さない。
 その辺の嫁御巫ならいざ知らず、御心の儀を終え夫婦としての営みで能力を高めている二人だ。
 壬夜銀は、紅遠が余裕ぶって大きな過ちを犯したと思い
「くたばれぇえええ!」
 魂刀を握り締め、紅遠の脳天から叩き割るように振り下ろす。
 だが紅遠は
「この時を待っていた」
 そう言って、右腕を上げる。
 耳を劈くような金属同士の衝突音が轟く。
「な、何故だ!? 何故、魂刀が召喚できる!」
 目を剥いた壬夜銀は、ギチギチと紅遠の持つ魂刀と力比べをする。
 沈む夕陽なような哀しくも胸を焦がす黄昏色に、焔の如き飾り彫が刻まれた――紅遠の魂刀が、間違いなくそこにある。
 銀柳の魂を宿す魂刀と、朱栄の魂を宿す魂刀が――鍔迫り合いをしていた。
「和歌子、玲樺!? 貴様ら、俺を裏切ったのか!?」
「う、裏切ってなどおりません! 私は確かに、守護の結界を……」
「わ、私もです! 信じてください!」
「ならば、何故こいつは妖力を操れるというのだ!?」
 必死に両手から妖力を操作する和歌子と玲樺に、壬夜銀は血走った瞳を向ける。
「私は言ったはずだ。この時を待っていたとな。――この場にいる者は皆、端に寄れ。守護の結界は、解くな」
 ビクンと――和歌子や玲樺、そして文子は、部屋の端へと退く。守護の結界はそのままにだ。
 それは、紅遠に魅了され言いなりになっている証左であった。
「馬鹿な……。触れてもいないのに、俺の妖力を大量に貯め込んだ二人が魅了されるだと!? この、化け物が!」
「人間に言われるのは構わんが、同じ妖人に言われるのは不服だな。――単に貴様が、鍛錬不足の雑魚なだけであろう。銀柳殿も、さぞかし嘆いてるだろうな。成長を信じた息子が、このような盆暗になってしまったことに」
「黙れ、黙れ黙れ黙れぇえええ! 俺よりも親父殿に可愛がられていたお前は消す! これは絶対なのだ!」
 一度、大きく飛び退いた壬夜銀は、咆哮のように怨嗟の声を上げる。
 紅遠は、そのような私怨で自分を消すことに拘っていたのかと呆れた。
 銀柳に可愛がられたければ、紅遠よりも鍛錬をすればよかったのだ。剣の達人であった銀柳の子であるのに、体捌きもなってない力尽くの剣技を見て、紅遠は心底から呆れる。
 もう話す時間すら無駄。一刻も早く、銀柳の魂を解放してやりたいと
「人の大切な花嫁を強奪したのだ。恩人の子であろうと、貴様はやり過ぎた。滅ぼされようと、文句は言わせん」
 魂刀の鋒を向け、壬夜銀に言い放った。
「傾国の鬼人ごときが! 銀狼の妖人である俺に、偉そうに口を効くな! ゴミのような嫁御巫しか娶れない妖人のなり損ないの分際でぇえええ!」
「……貴様や嫁御巫の下劣な言動には、虫唾が走る。過去の言動を恥じ、散れ。最後の情けだ。――妖術は使わず、銀柳殿より習った剣術で葬ってやろう」
「鬼人がぁあああ! 減らず口を叩くなぁあああ!」
 壬夜銀は、負けじと刀に妖力を込め、妖力で高めた肉体で紅遠に迫る。
 目にも留まらぬ早さで、紅遠の身体を斬ろうと魂刀を振るい――。
「――なっ!?」
 魂刀で受けられることもなく、ひらりと風に舞う柳のように紅遠は避ける。
 渾身の力が込められた剣を避けた動きは、銀柳から盗んだ体捌きだった。
「隙だらけだ」
 ヒュッと、紅遠が魂刀を最小限の動きで振るう。
「ぐっぁあああ! 俺の腕が、腕がぁあああ!」
「右腕の腱を断ち切った。片腕では、もう刀は振るえまい。終わりだな、壬夜銀。……辞世の句でも詠むか? それぐらいの時間は与えてやろう」
 ヒュッと、刀にこびり付いた血を床へ吹き飛ばしながら、紅遠は語りかける。
 ぜぇぜぇと荒い息をしながら、壬夜銀はにたりと笑みを浮かべた。
「確かに、貴様は強いな。――だが、貴様の弱点を俺は知っている!」
 壬夜銀の視線が、部屋の隅に一瞬向く。壬夜銀の視線の先にいる存在。
 美雪を見た瞬間、紅遠は不味いと動き――
「――美雪ッ!」
「……ぇ」
 美雪に覆い被さり護るように、紅遠は壁に両手を付けている。
「……紅遠、様?」
「美雪、無事だな。……良かった」
 微笑む紅遠の口から、血が溢れ――顎先から滴る。
 美雪が何度拭っても、血は止まらない。
 唖然とした美雪が、視線を彷徨わせ。
「紅遠、様。……胸から、刀が生えて……。え? そんな……」
 現実を受け入れられないように、呟く。
 治癒の妖術をかけようとするが――結界により発動しない。
 仮に発動したとしても、だ。
 この妖人の胸を貫く魂刀の傷は、美雪――いや、一流の嫁御巫だろうと、どうにもならないものだった。
「がっはっは! 鬼人はやはり、愚人よ! 嫁御巫のような道具に入れ込むから、その身を滅ぼすのだ!」
 豪快な笑い声を上げ、壬夜銀は紅遠の胸を貫く魂刀を前後左右へと動かそうとする。
 だが――。
「――何だ、俺の魂刀が動かない。まさか、貴様!?」
 紅遠の身体の周りを桜吹雪のように火が舞う。
 全身から吹き上がる火の粉は、漏れ出た妖力が怒りとなり発露したものだった。
「銀柳殿……。そんなところで、何をしている?」
 己の胸を貫く、天を駆ける狼が彫られた魂刀を握り絞め――紅遠は問いかける。
 掌からは、ポタポタと血が流れ落ちていた。
「我が生涯の師にして、最愛の友よ! 魂となっても、その気高き精神を穢すな!」
 その血が刀身を伝わり、狼の溝へ貯まると――魂刀が、光を発した。
 紅遠の胸を貫いていたはずの――山凪国に脈々と伝わる、銀柳が所持していた際の洗練された魂刀が、紅遠の左手に握られていた。
「な、なん……だと? 俺の魂刀と、山凪国へ脈々と繋がる魂刀が……。分離されただと!? こんなことが、こんなことがあってたまるか!? 鬼人、どんな妖術を使った!?」
 紅遠が後ろに蹴りを放つと――壬夜銀は床を転がり、即座に耐性を立て直した。
「……妖術など、使っていない。ただ、問いかけ語っただけだ。……壬夜銀、貴様は後継に相応しくないと、魂刀に見放されたのだ」
 両手に持つ魂刀、胸から広がっていく血塗れの軍服。
 紅遠は、銀柳の魂刀を構える。
「まだ、まだだ! 俺には、自分の魂刀がぁ――」
「――終わりだ」
 妖力が落ちた肉体で、構えた魂刀ごと――壬夜銀を斬った。
「……妖人としては、な。魂刀を失い、抜け殻となって罪を詫び続けろ。数百年かけてな」
「が、ぁ……」
 傷は致命傷ではない。
 だが――妖人の魂を顕現させた魂刀を折られ、壬夜銀は意思失い人形のように倒れた。
「壬夜銀様!? ああ、身体が動かない! 何で、何でこんなことに!」
「嘘でしょ……。何で、何でこんなことになるのよ!?」
「あの鬼人が全て悪い! あいつがいたから、私は夫も姉も失ったのに! 何処まで邪魔をするか!」
 和歌子、玲樺、文子の三人は、現実を受け入れられず絶叫を上げていた。
 そんな中、美雪のみ――。
「――紅遠様! お気を確かに!」
 美雪だけが、紅遠に駆け寄る。
 美雪の無事を見届けた紅遠は――ふっと笑い、両手の魂刀を床へ落として崩れ落ちた。
「紅遠様!? しっかりなさってください! お願いします、死なないでください!」
 紅遠の身体を抱きあげ、必死に白い喪服を当て血を止めようとするが――無駄だった。
 白い喪服に、紅遠の紅い血が染みこんでいく。
「いや……。こんなの、嫌です……」
「そんなに、泣くな……。お前に泣かれると、私はどうしていいか分からない」
 美雪の頭を優しく、何度も紅遠は撫でた。
 困ったように笑う紅遠は、
「初めて会った時に、深雪は私に聞いたな。白の喪服の意味を知っているか、と……」
 これで最期だからとばかりに、過去の思い出を語り始める。
 美雪は、涙で震える喉から声を絞り出した。
「はい……。私はあの時、銀柳様に命を助けられた恩義として、白の喪服に身を包んでいると答えました」
「今度は、私から尋ねよう。今……私の最期を前に、白い喪服を着ている意味を……」
 そう問われると、美雪は笑みを浮かべた。
「私は……他家へ二度と嫁がない。傾国の鬼人と呼ばれた久遠様に、永遠の操を立てる。その意味で、白い喪服へ身を包んでおります」
 最初に紅遠と出会った時、白い喪服の意味を知っているか尋ねた、虚ろな表情とは違う。
 涙を流しながら、情感が溢れる笑みだった。
「そうか……。美しい笑顔だ。深雪は、そんな顔で笑うのだな。知らなかった。……未亡人にして、すまないな」
「未亡人なんて、言わないでください。何もない真っ白な私に、色づく世界を……生き甲斐や喜びを教えてくださったのは、久遠様なのですよ? どうかこれからも、まだ知らない世界を私に教えてください……」
 ふっと、紅遠が儚げに笑う。
 美雪とて分かっていた。それは――もう、叶わぬ願いなのだと。
「……深雪。結納品代わりに、受け取ってくれ」
 紅遠は、震える手を伸ばし床へ落ちた己の魂刀を握ると――妖力を振り絞り、形状を変えた。――短く、懐に仕舞っておけるような刀に。
「私の魂刀を……どうか懐剣としてほしい。これならば、喪服姿でも帯に差せよう」
 花嫁に懐剣を渡す意味を思い出し、美雪は唇を噛み締める。
「懐剣は、災いや運を切り開き幸せな家庭を築く縁起ものとして、親が持たせるものですよ。……愛する夫にいただくものではありません。私を置いて、逝かないでください……」
 懐剣を渡そうとする紅遠の手が震えないよう、そっと手を添えた。

「最期に、また幸せを……。初めての愛おしさを感じられた。何百年という妖人の天寿を全うしようと決して知り得ぬ充足感、最初で最後の特別な想いだ。――深雪、愛している」

 紅遠の口から初めて語られる、愛の言葉。
 ずっと胸の内に秘めておくしかなかった分、美雪の胸へ余計に響く、重くて貴重な言葉だった。
「私も……愛しております。誰よりも、お慕いしております!」
「私も父上と同様だ。死を感じだからこそ、永遠に君を護りたいと素直になれた。この世で唯一、愛した花嫁に抱かれて死ねる私は、果報者だ」
 美雪は、激しく後悔をした。
 何故、この愛する人ともっと早く出会っていなかったのか。寝る間を惜しんで、妖術の鍛錬に励んでこなかったのか。
 そうすれば、紅遠の――愛する人の傷を癒やす力だって、得られたかもしれないのに。
 そう、激しく後悔をした。

「最期に、私の全てを愛しき妻へ……」
 紅遠は懐剣を美雪の帯に差すと、両手で美雪の頬を掴む。
 紅遠の顔が近付いて来て、美雪は目を閉じた。
 直後、美雪が感じたのは――額への柔らかい感触と、身体の内を優しく燃え上がるような、紅遠の妖力だった。
 御心の儀。妖人が、信用の置ける嫁御巫と繋がり力を授ける――神聖な儀式だ。
「これで……。私は、思い残すことはない」
「久遠、様。……旦那様? 旦那様!?」
 紅遠は目を閉じ、白い喪服と同じぐらい肌から色が失われている。
 
「い、嫌……。嫌でございます! 私と一緒に、幸せになってください!」
 急に重くなった身体を揺すり、美雪は涙ながらに声をかけ続けた。
「人生でたった一人お慕いした旦那様を幸せにさせてください! 旦那様……。目を、空けてください……」
 美雪の涙が落ち、紅遠の頬を伝う。
 それでも反応がない紅遠に、美雪は――
「――お願いします、逝かないでください!」
 己の全ての妖力を振り絞るように、治癒の妖術をかける。
 いつか、紅遠が死に瀕していた時と同じようにだ。
 しかし、決定的に違うのが――。
「――な、何ですかこの妖力は!? 私の結界が破られる!?」
「そんな、あのゴミに私たち二人以上の妖力があるっていうの!?」
 御心の儀で、美雪の妖力が跳ね上がっていることだった。
「旦那様……。傷が……。お願い戻って、戻ってください!」
 美雪は、理解した。
 自分の力が跳ね上がる時――それは、いつも紅遠への好意的な感情が増した時だった。
 古来より、妖人と嫁御巫の繋がりが能力にも関与するとの伝承。
 それを美雪は、思い出していた。
「私は、旦那様を愛しています! 心を開き、真に深い繋がりで結ばれた夫婦だと思っております! 旦那様も、愛してると仰ってくださいました! それならば、魂刀でついた傷をも癒やす御力も、絶対にいただけてるはずです!」
 涙を流しながら、治癒の妖術に更なる力を注ぐ。
 薄れゆき意識の中、美雪は紅遠の身体を離さないように抱きしめる。
「帰って来てください、旦那様……」
 懐剣と化した魂刀と、銀柳の魂刀が――僅かに光った。
 美雪は、身体の中で銀柳の妖力と紅遠の妖力が溶け合うような感覚に陥り――。
「――……旦那、様?」
 紅遠が、僅かに目を開けた。
 辛そうに微笑みながら、紅遠は
「……まだ、こちらへ来るな。愛する人を護れと……銀柳殿や父上に叱られた気がする」
 それは、紅遠の見た夢幻だったのか。あるいは、魂刀の中で本当に起きた出来事だったのか。
 真実を知る術はない。
 ただ一つ、間違いのない真実なのは――。
「――お帰りなさい、旦那様」
「……ただいま、美雪」
 愛を知らなかった因縁の二人が、真に想い合う夫婦として結ばれたということだけだ――。